第7話(後編1)――「初めて上げた顔」
崔麗華は両手を床につき、額を下げたまま答えた。
「失礼いたします」
案内してきた宦官がうなずくのを確かめてから立ち上がり、敷居をまたいだ。殿内には庭から夕方の光が差し込み、正面の低い卓の向こうに皇帝趙佶が座っていた。左右には宦官が3人ずつ控え、壁際では書画を運んだ女官が膝をついている。
麗華は御座から数歩離れた場所で止まり、再び膝をついて顔を伏せた。目に入るのは、皇帝が着ている白い夏衣の裾だけだった。
「崔麗華と申すのか」
「はい。尚服局で見習いをしております」
「顔を上げよ」
麗華は顔を上げ、初めて皇帝を正面から見た。趙佶は30歳を少し過ぎたように見え、ひげを整えた顔の下で、筆を持つ指に墨が付いていた。背後には豪華な飾りが並んでいたが、卓上で目立つのは、印章や政務の書付よりも筆、硯、紙、開きかけの絵巻だった。
白い夏衣の袖は、離れた場所から見る限り、左右に違いがなかった。腰には新しい丁子の香袋が下げられている。麗華は皇帝の顔を見たあと、視線を胸元まで下げた。命令に従って顔は上げても、いつまでも見つめるわけにはいかなかった。
趙佶はしばらく麗華を見ていたが、やがて筆を卓へ置いた。
「そなたが、あの香袋を作ったのか」
「袋を縫ったのは裁縫場の女官、香を詰めたのは香倉の女官でございます。私は布をそろえ、紐の色で香を分けることを申し上げました。私1人で作った品ではございません」
「では、見つけたのも、そなたではないと申すのか。絵巻を調べるよう申し出たと聞いているが」
「調べに行かれた宦官が、見つけてお持ち帰りになりました。私は、陛下が絵巻を広げられた時に袖から落ちた可能性を申し上げただけでございます」
香袋を持って戻った宦官が、麗華へ目を向けた。趙佶の口元には笑みが浮かんでいた。
「自分の手柄にしてもよさそうなものだな」
「私が見つけて持ち帰ったと申し上げれば、事実と違います」
麗華は答えながら皇帝の表情を確かめた。働きを大きく見せれば、記憶には残るかもしれない。だが、同じ場所には香袋を捜した宦官たちもいる。他人の働きを奪う女と思われれば、次から協力を得られなくなる。
趙佶は宦官へ、麗華が尚服局へ入ってどれほどになるか尋ねた。1か月余りで、それまでは開封で商いをしていたという返答を聞くと、再び麗華へ目を向けた。
「どのような商いをしていた」
「華宝舗という店で、香、化粧の品、髪飾り、衣に用いる品などを扱っておりました。今は人に預けております。ただ、宮中の香は、店で扱う物とは種類も質も異なります」
「香を扱っていた経験が、今日も役に立ったのか」
「袋を見つけたことについては、香の商いとは関係ございません。同じ大きさの袋を袖へ入れ、陛下の動きを伺って確かめました」
趙佶は卓の端にある絵巻へ手を伸ばした。
「今朝の絵巻も、この程度の幅であった」
右手で端を持ち、左手で紙を広げると、夏衣の袖が卓上を滑った。袋が袖口まで移っていれば、絵巻の上へ落ちても不思議ではない。麗華はその動きを見ながら、尋ねられるのを待った。
「同じように動けば、必ず落ちるのか」
「いいえ。袖の傾きや袋の位置、腕を動かす速さによって変わります。落ちないこともございます」
「ならば、絵巻の中にあったのは偶然ではないか」
「はい。そこへ落ち、巻き込まれたことは偶然でございます。私がしたのは、まだ調べていない場所を申し上げたことです。ただ、庭だけを捜し続けていれば、日が暮れても見つからなかったと思います」
控えていた宦官の1人が、驚いたように麗華を見た。皇帝の前に呼ばれていながら、自分で功績を小さくしているように聞こえたのだろう。麗華は余計な説明を加えなかった。確実でなかったことを、初めから分かっていたように話す方が危うかった。
趙佶は絵巻を閉じた。
「捜す場所を変えさせたなら、それはそなたの手柄であろう」
「お認めいただけるのでしたら、ありがたく存じます」
趙佶が声を上げて笑い、宦官たちも表情を和らげた。麗華は姿勢を崩さず、次の言葉を待った。呼び入れられた見習いが、皇帝と一緒になって笑うことはできなかった。
趙佶は見つかった香袋を持ってこさせた。白絹は絵巻に押されて薄くなり、中の丁子が片側へ寄っていた。紅い紐にも折れ目が付いている。
「破れてはおらぬようだが、まだ使えるか」
「布だけでは判断できません。絵巻の紙や顔料の匂いが移っている恐れがございます。香りを確かめ、中の丁子にも異物が混じっていないか調べる必要がございます」
年長の宦官が口を挟んだ。
「陛下の袖にあった物を、ほどくと申すのか」
麗華は皇帝へ向けて答えた。
「再びお使いになるのでしたら、調べたうえでお返ししたく存じます。記念として収めるのであれば、ほどく必要はございません」
「香袋を記念にする者がいるか」
「陛下がお使いになった品であれば、欲しがる者はいると思います」
趙佶は紅い紐を指で持ち上げた。
「そなたも欲しいか」
「いいえ。この袋がなくなったことで、尚服局の者も盗みを疑われました。私が持てば、どのように手に入れたのか疑われます」
「余が下賜したと申せばよいであろう」
「書付を頂ければ、華宝舗へ飾ることもできます。ただ、陛下の御品を商いに利用したと受け取られる恐れがございます」
「それでも、欲しくないと申すのか」
麗華は返答を考えた。強く拒めば厚意を退けることになり、欲しいと言えば、初めから下賜を狙っていたようにも聞こえる。
「陛下から賜る品は、ありがたく頂きます。ただ、この袋は尚服局へ戻し、調べさせていただきたく存じます。今後、陛下がお使いになる香袋を、どのように作るか考えるためでございます」
「そなたへの褒美は、別にせよということか」
「褒美を求めて申し上げたのではございません」
「商人であった女にしては、欲がないな」
麗華は頭を下げた。
「欲はございます。明日も、陛下がお使いになる品を任せていただきたく存じます」
趙佶は手にしていた香袋を卓へ置いた。
「銀でも絹でもなく、仕事が欲しいと申すのか」
「銀や絹は使えば減りますが、任された仕事を果たせば、次の仕事につながります。店でも、初めてのお客様へ高い品を1つ売るより、必要な品を間違えずに渡し、もう一度来ていただくことを大切にしておりました」
趙佶は麗華の顔を見た。先ほどまでの笑みは消えていたが、怒った様子はない。麗華には、自分の返答にどこまで本心があるのか、見定められているように感じられた。
「そなたは、美しいな」
麗華は目を伏せた。
「ありがとうございます」
「商いをしていたなら、男に褒められることも多かったであろう。その時も、礼を申すだけで済ませたのか」
「品を買われる方には、そのまま品の説明を続けました。私を買おうとなさる方には、お売りできないと申し上げました」
若い宦官の1人が息をのんだが、趙佶は不快な顔を見せなかった。
「店を持ちながら、何のために宮中へ入った」
「女官としてお仕えするためでございます。店は外にいる者へ任せ、宮中の務めを怠らぬようにいたします」
「いずれ店へ戻るつもりではないのか」
「陛下に不要とされれば、戻る場所は必要でございます」
「必要とされたならば、戻らぬのか」
麗華は皇帝へ視線を戻した。待っていた問いだったが、急いで答えれば、皇帝に近づくためだけに尚服局へ入ったと認めるようなものだった。
「宮中で、どのような役目を頂けるかによります」
「余のそばであれば、店を捨てるか」
「捨ててしまえば、そこで働く者が困ります。陛下のお許しを得て、人へ譲ります」
「自分の店を手放すのは惜しくないか」
「惜しゅうございます。それでも、両方を守れないのであれば、選ばなければなりません」
趙佶が黙ると、麗華も言葉を継がなかった。宮中へ入った目的は、皇帝の側室となり、さらに上へ進むことだった。だが、初めての御前で口にすれば、野心の大きな女として警戒される。今は皇帝がどのような役目を与えるか、待つべきだった。
やがて趙佶は、年長の宦官へ命じた。
「見つかった袋は尚服局へ戻し、絵の匂いが移ったか調べさせよ。明朝からは、3つの香袋を衣とともに用意するように。ただし、いつも同じ香ではつまらぬ。7日ごとに1つ替える」
「承知いたしました」
麗華は頭を下げた。沈香、白檀、丁子を用意するだけでなく、季節や衣に合う香を新たに選ぶ仕事が生まれる。
趙佶は麗華へ目を向けた。
「香を替える時には、この娘にも確かめさせよ」
「見習いに香を選ばせるのでございますか」
年長の宦官が尋ねると、趙佶は役目を分けて言い渡した。
「選ぶのは尚服局だ。この娘には、布と香が合うかを確かめさせる。見つけたことを伝え、分からぬことは分からぬと申す。先ほどから、そのように答えておるではないか」
宦官が了承すると、趙佶は麗華を呼んだ。
「そなたが望んだ通り、明日も仕事を与える。ただし、余の品を扱う以上、間違いがあれば、今日より重い責めを負うことになる。それでも引き受けるか」
「はい。責めを受けるのは怖うございます。それだけに、確かめることを怠らぬよう努めます」
趙佶は再び笑った。
「下がってよい」
麗華は両手を床につき、礼を述べた。立ち上がって数歩後ろへ下がり、御前を離れてから向きを変え、宦官に従って殿を出た。
戸口を出ると、夕方の風が顔に触れた。麗華は呼吸を整えながら、皇帝とのやり取りを思い返した。顔を上げることを許され、美しいと言われたが、それで寵愛を得たわけではない。確かに与えられたのは、翌朝からも皇帝の使う品を調べる仕事だった。
今は、それで十分だった。一度だけ顔を見られて終わるより、毎日使う品に関わり続ける方がよい。役目を果たしていけば、皇帝に名を覚えられ、また呼ばれる機会も得られる。麗華は翌朝の務めを考えながら、尚服局へ戻った。




