第7話(中編2)――「紅い紐の香袋」
皇帝へ3つの香袋を届けた翌朝、尚服局へ返された箱には、黒い紐の沈香と黄色い紐の白檀だけが入っていた。紅い紐の丁子は、皇帝が夏衣の袖へ入れたため戻されていなかった。
箱を運んできた女官が、劉彩雲へ書付を渡した。
「陛下は丁子の香りをお選びになりました。今後も同じ3種類を用意し、香りが弱くなった袋を取り替えるようにとのことでございます。本日は、使われた丁子を1袋お届けください」
彩雲は書付を確かめ、崔麗華へ顔を向けた。
「昨日と同じ布、同じ量で作ります。記録を出しなさい」
麗華は前日の竹札を取り出した。白絹の大きさ、袋を縫った女官、紐の色、香を詰めた者、受け渡した時刻まで記してある。彩雲はその札を裁縫場へ回し、同じ大きさの袋を作らせた。
麗華は香を量る場にも同行した。丁子を匙ですくって天秤へ載せ、前日に使った分銅と釣り合う量を白絹の袋へ詰める。紅い紐を結んだ新しい香袋は、午前のうちに受け渡し所へ届けられた。
布倉へ戻った麗華が白絹の残りを数えていると、昼前に別の宦官が来た。後ろには2人の女官が付き、いずれも顔を強張らせていた。
「彩雲殿。昨日届けられた丁子の香袋が、陛下がお庭へ出られたあとに見当たらなくなった。通られた廊下と庭、お部屋を調べたが、見つからぬ」
倉にいた者たちが手を止めた。彩雲は宦官の前へ進み出た。
「御衣の内側へ入り込んではおりませんか」
「御衣も改めたが、袖にも懐にも残っていない。香袋を作った者、香を詰めた者、届けた者を調べる。関わった者の名と、袋の大きさ、布、紐について説明せよ」
彩雲は作業を担当した者の名を順に挙げた。白絹を選んだ孫玉英と麗華、袋を縫った裁縫場の女官、丁子を詰めた香倉の女官、受け渡し所まで運んだ彩雲と麗華だった。
宦官に袋の形を尋ねられ、麗華は両手の指で縦と横の長さを示した。
「この程度の大きさでございます。袖へ入れた時に膨らみすぎないよう、平たく作りました。口は白絹を折り返して縫い、その上から紅い紐を結んでおります」
「紐がほどけても、中身はこぼれぬのだな。香を足す時は、どこから入れる」
「縫い目の一部をほどいて入れます。紐は口を閉じるためだけでなく、香の種類を見分けるためにも付けております」
宦官は女官に説明を書き取らせた。
「捜す者にも形を見せたい。同じ物を作れるか」
「今朝、昨日と同じ大きさと量で1袋を作り、受け渡し所へ届けております」
宦官が命じると、女官の1人が受け渡し所へ戻った。その間に裁縫場の女官も呼ばれ、袋を作った手順を確かめられた。
しばらくして、新しい丁子の香袋が運ばれてきた。宦官は手のひらへ載せ、重さと大きさを確かめた。
「昨日の物にも、この袋と違う印はなかったか」
「表にはございません。同じになるように作りましたが、白絹は裁つ位置によって、重さにわずかな違いがあるかもしれません。内側には、縫い糸を結んだ箇所がございます」
糸の色も尋ねられたが、麗華は自分で答えず、袋を縫った女官に確認した。昨日も今朝も同じ白い糸を使ったと聞き、宦官へ伝えた。
「外から見ただけでは、2つの袋を区別できません」
宦官は袋を箱へ戻した。
「昨日の袋が見つからなければ、陛下の品を盗んだ者がいることになる」
李月娥たちの顔が青ざめた。皇帝が身に着けた物を持ち去れば、ただの拾得物では済まない。作った尚服局の者たちにも、疑いが及ぶ恐れがあった。
彩雲は宦官へ尋ねた。
「陛下がお通りになった道筋を、お教えいただけますか。お供の方々にも、すでにお尋ねなのでしょうか」
「お部屋から東の廊下を進み、蓮池のある庭へ下りられた。そのあと書画を収めた殿へ入り、同じ道を戻られた。お供は宦官8人、女官4人、護衛6人で、庭には手入れをする者もいた。皆、調べているところだ」
麗華は口を挟まずに聞いていた。どこで袋がなくなり、誰かが拾ったのかどうかも分からない。庭を見ていない自分が、想像で話を進めるわけにはいかなかった。
宦官は彩雲へ、袋を作った者たちは呼ばれるまで持ち場を離れぬよう命じた。彩雲が了承すると、一行は倉を出ていった。
誰もすぐには仕事へ戻らなかった。香児が麗華へ近づき、不安そうに声を落とした。
「私たちまで疑われるのでございますか。同じ物をもう1つ作って、昨日の袋を隠したと言われたら、どう申し開きをすればよいのでしょう」
「昨日の袋は、受け渡し所で確かに渡しました。陛下の袖へ入れたのも私たちではありません。尋ねられたら、自分がしたことと見たことを答えます」
香児の顔には、まだ不安が残っていた。麗華は棚の方へ目を向けた。
「今は仕事を続けましょう。持ち場を離れれば、逃げたと思われかねません」
玉英も月娥たちへ作業を再開するよう命じ、呼ばれた時には見たことだけを答えるよう言い聞かせた。
昼を過ぎても香袋は見つからなかった。麗華は竹札を整理しながら、前日の受け渡しを思い返していた。箱に入れた3袋は、宦官が1袋ずつ取り出して確かめている。紅い紐の丁子も、その場にはあった。
麗華が見届けたのは、そこまでだった。袖から落ちたのであれば、腕の動きが関わっているかもしれない。平たい袋なら歩くだけでは内側にとどまり、腕を上げたり大きく動かしたりした時に、袖口へ滑ることも考えられた。ただ、皇帝が庭で何をしたかは知らなかった。
夕刻が近づくころ、先ほどの宦官が再び現れた。
「崔麗華、同じ形の香袋を持って来なさい。陛下がお通りになった庭で、どこへ落ち得るか確かめる」
彩雲は麗華を見てから、宦官へ尋ねた。
「見習いだけを、陛下のお庭へ入れるのでございますか」
「陛下は今、別の殿におられる。庭へ入る者はこちらで見張る」
彩雲は麗華へ向き直った。
「尋ねられたことに答え、分からないことを分かると申してはなりません」
「承知いたしました」
麗華は新しい香袋を持ち、宦官の後ろへ従った。
◇ ◇ ◇
受け渡し所から東へ進み、先日、皇帝とすれ違った廊下を越えた。さらに奥の門を抜けると、蓮池を囲む庭へ出た。
池の周囲には石畳が敷かれ、柳の下には書画を見るための卓と椅子が置かれていた。庭の端では、宦官や女官が植え込みや石の隙間を調べている。
麗華は案内してきた宦官へ尋ねた。
「陛下がどちらで足を止め、何をなさったか、お教えいただけますか。袖から落ちたのでしたら、腕を動かされた場所を確かめとうございます」
「庭を1周なさったあと、あの卓で絵をご覧になった。香袋は取り出さず、袖へ入れたままであった」
宦官は庭にいた者たちにも、皇帝の動きを確かめた。柳の枝に止まった鳥を指し、蓮を近くで見るために欄干へ片手を置いたという。卓では絵巻を広げる際、両腕を動かしていた。
麗華は香袋が入っていたのは右袖だと聞き、新しい袋を自分の右袖へ入れた。腕を下ろして歩くだけでは落ちず、鳥を指すように上げても袖の途中で止まった。
次に卓の前へ立ち、両腕を広げるように動かした。袋は袖の内側を滑り、肘の近くまで移った。衣の形が違うため同じ動きになるとは限らないが、腕を動かすと袋の位置も変わった。
「絵巻は、どれほどの大きさでございましたか」
宦官は両腕を広げて示した。
「これほどだ。陛下は右手で端を持ち、左へ広げられた。そのあとは、書画を収めた殿へ運ばれている」
麗華は卓の周囲を見た。石畳にも椅子の下にも袋はなく、すでに何度も捜した跡があった。
「絵巻を広げられた時、袖からその上へ落ちた可能性はございませんか。庭に見当たらないのでしたら、卓から運び出された物も確かめていただきとうございます」
「絵巻と一緒に巻かれたと申すのか」
「そうかどうかは分かりません。ただ、陛下が腕を広げられた場所にございますので、調べる必要はあると思います」
宦官は別の者を呼び、今朝の絵巻を調べるよう命じた。使いが書画を収めた殿へ走ると、麗華たちは庭で待った。
日が西へ傾き、柳の影が石畳へ長く伸びていた。蓮池から水と泥の匂いが上がり、羽虫が水面を飛んでいる。捜していた者たちも手を止め、殿へ向かった使いの帰りを気にしていた。
やがて、使いの宦官が紅い紐の付いた白い袋を手に戻った。
「見つかりました。絵巻の内側に挟まっておりました」
庭にいた者たちの緊張が解けた。袋は押されて平たくなっていたが、破れてはいなかった。紅い紐も残り、丁子の香りが漂っていた。
案内してきた宦官が袋を受け取り、麗華へ見せた。
「昨日作った物に間違いないか」
麗華は手を出さず、布と形を確かめた。
「同じ布と形でございます。ただ、昨日の物と断定できる印はございません。縫った女官と、受け取った方にもお確かめください」
「ここまで同じ物を、ほかの者が用意できると思うか」
「同じ物を作れる者はおります。今朝、私たちも新しい1袋を作りましたので、外から見ただけでは申し切れません」
宦官は麗華を見たあと、見つかった袋を布で包ませた。
「陛下へご報告する。どのように見つけたか、お尋ねになるかもしれぬ。そなたも来なさい」
麗華は顔を上げた。庭で形を確かめるだけだと思っていたが、そのまま皇帝の前へ連れていかれるという。
「彩雲様もご一緒でございますか」
「尚服局へ人をやる時間はない。陛下は、これからお部屋へ戻られる」
「承知いたしました」
麗華は宦官に従い、庭の北側にある殿へ向かった。朱塗りの柱が並び、軒下には鳥や草花の彩色が施されていた。開かれた戸の前には護衛が立ち、その内側には数人の宦官が控えている。
麗華は入口の外で膝をつき、額を床へ近づけた。案内の宦官が殿内へ入り、香袋が見つかったと報告した。
「どこにあった」
初めて聞く皇帝趙佶の声だった。麗華は顔を伏せたまま、返答に耳を澄ませた。
「陛下が今朝ご覧になった絵巻の内側でございます。香袋を作った尚服局の見習いが、絵巻を広げられた際に袖から落ちたのではないかと申しまして、調べたところ見つかりました」
「その者は、どこにいる」
「入口に控えております」
「入れよ」
麗華は呼び入れられるまで、その場を動かなかった。白絹を調べ、香袋を届ける仕事を任されてきたが、皇帝へ直接話す機会は一度もなかった。その皇帝が今、自分を殿内へ入れるよう命じていた。




