第7話(中編1)――「陛下が選んだ香袋」
皇帝趙佶の夏衣は、右袖を仕立て直したうえで、尚服局の受け渡し所へ届けられた。
崔麗華は、その帰りに皇帝と数歩の距離まですれ違ったが、命令に従って顔を伏せた。
翌朝、夏衣を受け取った宦官が、尚服局へ戻ってくる。
翌朝、麗華が布倉へ入ると、孫玉英はすでに前日の竹札を調べていた。
皇帝の夏衣に使った白絹は、最初に4疋を出し、仕立て直しのためにさらに1疋を出している。戻された布、裁ち落とした端布、油の匂いがしたため外した1疋は、それぞれ別の棚へ置かれていた。
「昨日の白絹を、もう一度数えなさい」
「はい」
麗華は棚から包みを下ろさず、木札と竹札を見比べた。
「裁縫場から戻された白絹が1疋、仕立て直しに使った残りが1包み、端布が2包みでございます。油の匂いがした1疋は、戻り品の棚にございます」
「最初に戻った白絹は2疋ではありませんでしたか」
「そのうち1疋を、右袖の仕立て直しに出しました」
「では、数は合っていますね」
「はい。ただし、仕立て直しに出した1疋の残りは、まだ疋として使える長さがあるか確かめておりません。包みのまま数へ戻すと、残りが多く記される恐れがございます」
玉英は包みへ目を向けた。
「広げて確かめます。敷布を用意しなさい」
麗華が月娥たちと床を清め、敷布を広げていると、倉の外から男の声が聞こえた。
「劉彩雲殿はおられるか」
前日に受け渡し所で夏衣を受け取った宦官であった。
倉にいた女たちは一斉に手を止めた。
玉英が戸口まで出て頭を下げる。
「彩雲様は帳場にいらっしゃいます。お呼びいたします」
「いや、こちらへ来てもらおう。昨日届けられた御衣について、確かめたいことがある」
玉英の顔から血の気が引いた。
皇帝へ渡した衣に問題があれば、裁縫場だけでなく、白絹を出した布倉も調べられる。麗華たちは戸口から離れ、倉の奥へ並んだ。
間もなく彩雲が入ってきた。
「昨日の夏衣に、何かございましたか」
「陛下は今朝、あの衣をお召しになった」
「袖に不具合がございましたか」
「いや、左右とも長さは合っている。陛下は、これまでの夏衣より腕を動かしやすいとおっしゃった」
彩雲は息をついたが、表情を崩さなかった。
「それは何よりでございます」
「ただし、衣と一緒に届けられた香袋について、お尋ねがあった」
「香袋でございますか」
「衣へ香をたきしめず、なぜ別の袋にしたのかと尋ねられた」
彩雲は、右袖が縮んだ経緯を説明した。
左右の袖へ順に香を移したところ、右袖だけが湯気を多く吸い、指の幅ほど短くなった。残った白絹で右袖を作り直したため、再び湯気に当てることは避け、香袋を添えて届けたのである。
宦官は話を聞き終えると、倉の中を見回した。
「その原因に気づいたのは誰だ」
彩雲はすぐには答えなかった。
「裁縫場の者たちと確かめました」
「最初に右袖の手触りと跡を調べた者がいるはずだ。陛下は、そこをお尋ねになっている」
彩雲は麗華を見た。
「こちらの見習いでございます」
麗華は列から1歩出て、頭を下げた。
「名は何という」
「崔麗華と申します」
「見習いが、なぜ御衣へ触れた」
「彩雲様のお許しを得て、袖の端だけを確かめました」
「何を見つけた」
「右袖だけ手触りが硬く、縁取りの内側に濡れたような跡がございました。香炉へ水を張った器を置いていたと聞き、湯気を多く吸った可能性を申し上げました」
「湯気が原因だと知っていたのか」
「知っていたわけではございません。左右で異なる箇所を確かめ、その一つとして申し上げました」
宦官は彩雲へ尋ねた。
「この娘は、昨日、受け渡し所まで来た者か」
「はい。衣を渡した相手と時刻を竹札へ記すため、同行させました」
「陛下がお通りになった時もいたな」
「おりました」
「顔を上げたか」
「いいえ。命じた通り、頭を下げておりました」
宦官は麗華の顔を見た。
麗華は視線を上げなかった。自分の容姿を見せるため、今ここで顔を上げれば、前日に命令を守った意味がなくなる。
「昨日の竹札を見せてもらいたい」
麗華は低い卓から竹札を取り、両手で差し出した。
宦官は、白絹を出した数と理由を順に読んだ。
「油の匂いがしたため、最初に1疋を外したとある。これも、この娘が見つけたのか」
「はい」と彩雲が答えた。
「その白絹は、どこにある」
「戻り品の棚へ分けております」
「見せてもらおう」
玉英が包みを下ろし、清潔な敷布の上へ置いた。包み紙を開き、白絹の折り目を広げる。
前日より匂いは弱くなっていたが、折り重なった内側には油の臭いが残っていた。
宦官は顔を近づけたあと、すぐに離した。
「確かに匂う。このまま仕立てていれば、陛下がお気づきになったかもしれぬ」
「そのため、別の1疋へ替えました」と彩雲。
「陛下へは、どのように申し上げればよい」
彩雲は答えを選んだ。
「白絹を選ぶ際に油の匂いがする品を除き、仕立てたあとも左右の袖を確かめ、不具合があったため直したとお伝えください」
「仕立て直したことまで申し上げるのか」
「陛下がお尋ねになったのであれば、隠すことはできません」
宦官は竹札を見た。
「この記録にも、右袖の仕立て直しと残っている」
「麗華が、布を出した理由を書きました」
「見習いが勝手に書いたのか」
「私が読み、残すことを認めました」
彩雲は自分の責任として答えた。
宦官は竹札を麗華へ返した。
「陛下は、香を衣へ移さなかったことをお怒りではない。香袋を袖へ入れておけば、香りの強さをご自分で選べるとおっしゃった」
彩雲と玉英が顔を見合わせた。
「それでは、今後も香袋を添えるのでございますか」
「すべての御衣を変えるとは決まっていない。だが、夏衣については、同じように別の香袋を用意するよう命じられた」
宦官は持ってきた書付を彩雲へ渡した。
「香りは3種類を用意せよ。陛下が、その日の御衣と気分に合わせて選ばれる」
書付には、沈香、白檀、丁子を用いた香を、それぞれ小さな袋へ入れるよう記されていた。香りが混じらないよう、袋だけでなく、入れ物も分けなければならない。
彩雲は書付を読み終えると、麗華へ命じた。
「香を扱う倉へ行き、袋に使える布を調べなさい」
「私が参るのでございますか」
「お前は昨日の白絹を見分けました。香袋に油や黴の匂いが移っていないか、布を確かめます。玉英も一緒に行きなさい」
「承知いたしました」
宦官が口を挟んだ。
「袋を作るだけなら、裁縫場へ命じればよいのではないか」
彩雲は頭を下げた。
「陛下がお使いになる品でございます。袋の布と香を別々に確かめ、完成したあとに匂いが混じっていないことも調べます」
「いつまでに用意できる」
「本日の夕刻までに、3種類を1組としてお届けいたします」
「分かった。受け渡し所へ持ってくるように」
宦官は倉を出る前に、麗華へもう一度尋ねた。
「崔麗華と申したな」
「はい」
「陛下のおそばへ上がる者へ渡す品である。昨日のように、不確かなことを決めつけてはならぬぞ」
「承知しております。分かったことと、考えられることを分けて申し上げます」
宦官はそれ以上何も言わず、帳場の方へ戻っていった。
麗華は玉英とともに、香袋に使う布を保管する倉へ向かった。
布倉より狭い建物で、戸を開ける前から複数の香りが漂っている。沈香の重い匂い、白檀の甘い匂い、丁子の刺激のある匂いが、乾燥させた草木の臭いと重なっていた。
倉を預かる女官が、色の異なる小さな絹を並べた。
「香袋なら、この3つが使えます。白、薄黄、淡紅でございます」
玉英は布を手に取り、織り目を確かめた。
「香りごとに色を替えれば、袋を開けなくても見分けられますね」
「同じ色を使い、刺繍で区別することもできます」
麗華は並べられた布へ顔を近づけた。
白と淡紅には布そのものの匂いしかない。薄黄の布には、すでに白檀の香りが移っている。
「この薄黄の布は、以前にも香袋へ使われましたか」
倉の女官が答えた。
「白檀を入れた袋の残りでございます」
「では、沈香や丁子には使わない方がよいと思います。袋へ入れる前から、白檀の香りが混じっております」
玉英も薄黄の布を確かめた。
「確かに残っています。白檀の袋だけに使いましょう」
「沈香と丁子には、白と淡紅を使いますか」
「それでは、3色で見分けられます」
麗華は首を振った。
「同じ組の3袋へ異なる布を使えば、布の厚さによって香りの出方が変わります。陛下がお選びになるのであれば、布は同じ物にそろえ、紐の色を替えた方がよろしいのではないでしょうか」
玉英は3枚の布を指で押し、光へ透かした。
薄黄はほかの2枚より厚く、淡紅は織り目が粗い。香を同じ量だけ入れても、外へ出る匂いの強さは変わる。
「では、白い絹で3袋を作り、紐を替えましょう」
倉の女官が尋ねた。
「どの色を、どの香へ使うのでございますか」
「沈香は黒、白檀は黄、丁子は紅にします」
麗華は口を挟まなかった。
色と香の組み合わせを決めるのは、玉英の役目である。麗華に任されたのは、布に別の匂いが移っていないかを確かめるところまでであった。
3袋分の白絹を裁縫場へ運び、袋を縫う女官へ渡した。袋は同じ大きさにそろえられ、口を閉じる紐だけが3色に分けられた。
香を詰める際には、匙も器も別々の物を使った。
完成した3袋は、離れた場所へ並べられた。麗華は1つずつ匂いを確かめたが、別の香りは混じっていなかった。
夕刻、彩雲は3袋を浅い箱へ収めた。
「麗華、この箱を受け渡し所へ運びます」
「昨日と同じように、竹札へ記すのでございますか」
「香の名、袋の数、紐の色、渡した相手を記しなさい」
「承知いたしました」
受け渡し所では、朝に来た宦官が待っていた。
麗華は箱を開け、3つの香袋を順に示した。
「黒い紐が沈香、黄色い紐が白檀、紅い紐が丁子でございます。それぞれ1袋ずつ、合計3袋でございます」
「袋の布は同じか」
「同じ白絹でございます。香りの強さが布の違いで変わらないよう、紐の色で分けました」
「そなたが決めたのか」
「布をそろえることは、私が申し上げました。紐の色は玉英様がお決めになりました」
宦官は3袋の匂いを確かめ、箱を受け取った。
「陛下へお届けする」
麗華は竹札へ、香袋3つを渡した時刻と宦官の名を記した。
皇帝の姿は見えなかった。
それでも、その日の朝に皇帝が選んだ夏衣から、新しい命令が尚服局へ届いた。そして夕刻には、麗華が選んだ布で作られた3つの香袋が、皇帝のもとへ運ばれていく。
麗華は皇帝へ近づくため、自分から禁を破る必要はなかった。
皇帝が使う品に必要とされ続ければ、受け渡し所へ来る理由も続く。
まず覚えられるべきなのは、美しい顔ではない。
任せた品を間違えずに届ける女として、名を残すことであった。
皇帝趙佶は、仕立て直された夏衣を着用した。
右袖に問題はなく、衣へ香をたきしめず、別の香袋を添えたことも皇帝に気に入られた。
皇帝は、夏衣とともに使う香袋を3種類用意するよう尚服局へ命じた。
崔麗華は、袋に使う布を調べ、異なる布では香りの出方が変わるため、同じ白絹を使い、紐の色で香を区別するよう提案した。
完成した沈香、白檀、丁子の香袋は、麗華の記録とともに受け渡し所へ届けられた。
麗華は皇帝の顔を見ることなく、皇帝が使う品を通じて、自分の名を宮中の奥へ届かせた。




