第7話(前編2)――「仕立て直しの夏衣」
皇帝の夏衣に使う白絹4疋が、布倉から裁縫場へ渡された。
油の匂いが残る1疋を除いたことで、麗華は劉彩雲から品を見る目を認められる。
翌日の夕刻、仕立て上がった夏衣を確かめていた裁縫場から、彩雲へ知らせが届く。
翌日の夕刻、麗華は戻り品の棚で白絹を数えていた。
皇帝の夏衣に使った残りが、裁縫場から返されている。大きな布は畳まれ、裁ち落とした端布は別の包みにまとめられていた。
倉の中には、昼の熱が残っている。開けた戸から風が入るたび、麻布の細かな繊維が床を転がった。
「白絹の残りは2疋でございます。端布は1包みです」
麗華が読み上げると、月娥が棚へ置いた。
「2疋、1包みでございます」
麗華は竹札へ数を書いた。
裁縫場へ渡した4疋のうち、2疋が使われ、残りの2疋が返されたことになる。端布の量までは数えられないため、包みの数だけを残した。
玉英が白絹の包みを調べていると、裁縫場から使いの女が来た。
「彩雲様は、いらっしゃいますか」
「帳場におります。何があったのですか」
玉英が尋ねた。
「仕立てた夏衣を確かめたところ、左右の袖の長さが違っております」
倉にいた者たちの手が止まった。
「どれほど違うのですか」
「指の幅ほどでございます」
「裁つ時に誤ったのでしょうか」
「型紙は合っております。縫い目も同じ位置でございます。それでも、仕立てたあとで片方が短くなりました」
玉英は麗華たちへ仕事を続けるよう命じ、使いの女とともに帳場へ向かった。
月娥は返された白絹を見た。
「同じ布から裁ったのに、袖の長さが変わることがあるのでございますか」
香児が尋ねた。
「布を斜めに裁てば、伸びることはあります」
「では、裁った方の間違いでしょうか」
「まだ分かりません。私たちが口を出すことではありません」
月娥は返された白絹を棚へ置いた。
麗華は、端布の入った包みを見た。
「この端布は、左右の袖を裁った残りでございますか」
「そう聞いております」
「どちらが右で、どちらが左か分かりますか」
「分かりません。すべて同じ包みへ入っています」
麗華は包みへ触れず、置かれた位置だけを竹札へ記した。
裁縫場で何が起きたのかは見ていない。袖の長さが違う理由も、今の段階では判断できなかった。
しばらくすると、彩雲と玉英が倉へ入ってきた。
彩雲は返された2疋の白絹と、端布の包みを確かめた。
「麗華、昨日の竹札を出しなさい」
「はい」
麗華は日付順に重ねた竹札から、皇帝の夏衣に使う白絹を記した1枚を選んだ。
彩雲は記載を読んだ。
「今年春に納められた湖州の白絹を4疋。すべて同じ棚から出したのですね」
「はい」
「色と織りも確かめましたね」
「彩雲様と玉英様が確かめられました。私は数を記しております」
「お前も見たでしょう」
「見ました。ただし、品を選んだのは私ではございません」
彩雲は竹札を卓へ置いた。
「責任を避けているのですか」
「いいえ。私が行ったことと、行っていないことを分けて申し上げております」
彩雲は返された白絹の包みを開いた。
「裁縫場では、同じ4疋から左右の袖を裁ったと申しています。型紙も同じです。それなのに、右の袖だけが短くなりました。理由が分かりますか」
「仕立てた衣を見なければ分かりません」
「見れば分かるのですか」
「分かるとは申せません。確かめる箇所は増えます」
「どこを確かめますか」
「袖を裁った布が、本当に同じ1疋から取られたのか。布目の向きが同じか。裁った時と縫ったあとの間に、水や湯へ触れていないかを確かめます」
玉英が尋ねた。
「水へ触れると、短くなるのですか」
「布によっては縮みます。片方だけが水へ触れれば、同じ長さに裁っても違いが出ます」
「白絹を濡らした者はいないと、裁縫場では申しています」
「私は裁縫場におりませんでしたので、それが正しいかは分かりません」
彩雲は麗華へ告げた。
「一緒に来なさい」
「私が裁縫場へ入ってよろしいのでございますか」
「見るだけです。衣には、許しなく触れてはなりません」
「承知いたしました」
彩雲と玉英が先に立ち、麗華は後ろに従った。
裁縫場の戸は閉められ、入口には女官が立っていた。中へ入ると、普段の作業台から鋏や針が片づけられ、中央に夏衣が広げられていた。
薄い白絹で仕立てられた衣は、光を通すほど軽い。襟と袖口には細い縁取りがあり、表から見える縫い目はそろっていた。
左右の袖を並べると、確かに右側が指の幅ほど短い。
麗華は衣の前へ進んだが、手は出さなかった。
「触れてもよろしいでしょうか」
麗華が彩雲へ尋ねた。
「袖の端だけです」
麗華は右袖の端を指で挟んだ。
手触りにわずかな硬さがある。左袖は柔らかく、布を持ち上げると自然に垂れた。右袖は折り目が残り、端が波打っている。
匂いを確かめると、白絹とは別の香りがあった。
「右袖だけ、香の匂いがいたします」
彩雲も右袖を確かめた。
「衣へ香を移すため、両袖を香炉の上へ掛けたと聞いております」
「左右を同時に掛けたのでございますか」
裁縫場の女官が答えた。
「左袖を先に掛け、次に右袖を掛けました」
「香炉へ水を入れておりましたか」
「火が強くなりすぎないよう、香炉の下へ水を張った器を置いておりました」
「右袖が、その器へ触れた可能性はございませんか」
「触れておりません」
麗華は右袖の端を裏返した。
縁取りの内側に、色の濃い箇所があった。染みと呼べるほどではないが、左袖にはない。
「こちらをご覧ください」
彩雲が身を寄せた。
「濡れた跡ですか」
「その可能性がございます。水へ落としたのではなく、湯気を多く吸ったのかもしれません」
裁縫場の女官が反論した。
「湯気だけで、これほど縮むのでございますか」
「同じ場所へ長く当たれば、縮むことはあります。ただし、私には、この衣がどれほど湯気を受けたか分かりません」
「では、湯気が原因とは決められないのでしょう」
「はい。今、分かるのは、右袖だけ手触りが硬く、内側に濡れたような跡があることです」
麗華は衣から手を離した。
彩雲は香を移した手順を、裁縫場の女官から聞き取った。
左袖を香炉へ掛けた時には何も起きなかった。右袖へ替えたあと、香炉の炭が強くなり、水を張った器から湯気が上がった。女官は香が移るまで、そのまま右袖を掛けていた。
右袖だけが多くの湯気を吸った可能性が高かった。
「仕立て直す時間はありますか」
玉英が尋ねた。
「今夜中に右袖を外し、残った白絹から裁ち直せば、明朝には間に合います」
裁縫場の女官が答えた。
「ただし、同じ色の白絹が残っているか、倉で確かめていただく必要がございます」
彩雲は麗華へ命じた。
「竹札を見て、使わなかった2疋を確かめなさい」
「はい」
「昨日、油の匂いで外した1疋を混ぜてはなりません」
「戻り品の棚に分けております。包みにも札がございます」
彩雲は玉英へ顔を向けた。
「白絹を1疋出します。色を合わせてから裁ちなさい」
「承知いたしました」
3人は布倉へ戻った。
麗華は返された2疋のうち、使った白絹と色の近いものを玉英とともに広げた。彩雲が選び、月娥たちが木枠へ載せる。
裁縫場へ渡す前に、麗華は竹札へ記した。
白絹1疋。
皇帝の夏衣、右袖の仕立て直し。
彩雲は記された内容を読み、麗華へ尋ねた。
「なぜ、右袖と書いたのですか」
「明日、残った布と衣の数が違った場合、何のために出した1疋か分かるようにするためでございます」
「仕立て直したことを、記録へ残したいのですか」
「隠すよう命じられれば、理由は書きません。ただ、布を1疋出した事実は残さなければなりません」
「誰が隠すと申しましたか」
「誰も申しておりません」
麗華は竹札を置いた。
「では、右袖の仕立て直しと残します」
彩雲は止めなかった。
白絹が裁縫場へ運ばれたあとも、倉の仕事は終わらなかった。翌朝に使う布を棚から選び、前日に戻った品を帳簿と照らし合わせる準備が続いた。
日が沈むころ、裁縫場から夏衣が運ばれてきた。
右袖は新しい布で仕立て直され、左右の長さもそろっている。香を移す作業は行わず、衣と香袋を別々に届けることになった。
彩雲は衣を確かめたあと、麗華へ告げた。
「この包みを運びます」
「どちらへでございますか」
「尚服局の外にある受け渡し所です。そこから先は、陛下のおそばで働く者が運びます」
麗華は包みへ目を向けた。
「私も参るのでございますか」
「竹札を持ってきなさい。衣を渡した相手と時刻を記します」
「承知いたしました」
夏衣の包みは、月娥と玉蘭が木枠へ載せた。麗華は竹札を持ち、彩雲と玉英の後ろを歩いた。
これまで通った裁縫場より奥へ進み、2つの門を抜けた。建物の屋根は布倉の周囲より高く、柱には朱色の塗料が使われている。庭には水を張った鉢が置かれ、白い蓮が夕暮れの光を受けていた。
受け渡し所の前で、彩雲が書付を見せた。
中から出てきた宦官が包みを改め、夏衣1着と香袋1つを受け取った。麗華は竹札へ、受け取った数と時刻を記した。
その時、廊下の先から声が上がった。
「陛下がお通りになります」
受け渡し所にいた者たちが、道の両側へ移った。
彩雲が麗華の袖を引いた。
「下がりなさい。顔を上げてはなりません」
麗華は玉英の隣へ移り、石敷きへ膝をついた。両手を前へ置き、視線を落とす。
やがて、衣の擦れる音と複数の足音が近づいた。
麗華から見えるのは、廊下を進む者たちの履物と衣の裾だけである。先頭を歩く宦官たちが通り、そのあとに、細かな刺繍のある履物が見えた。
皇帝趙佶である。
麗華は顔を上げなかった。
今ここで禁を破り、皇帝の顔を見ようとすれば、彩雲と玉英まで責任を問われる。皇帝に覚えられる前に、尚服局から外される恐れもあった。
一行が通り過ぎるまで、麗華は石敷きの上に手を置いていた。
夕方になっても石には昼の熱が残り、手のひらへ伝わってくる。皇帝の足音は次第に遠ざかり、やがて別の門の向こうへ消えた。
「立ちなさい」
彩雲に命じられ、麗華は立ち上がった。
顔を見ることはできなかった。
声を聞くこともなかった。
それでも、皇帝は同じ廊下を通った。麗華との距離は、数歩にまで縮まっていた。
帰り道、玉英が麗華へ尋ねた。
「陛下のお姿を見ようとは思わなかったのですか」
「思いました」
「それでも顔を上げませんでしたね」
「今、顔を上げても、陛下に覚えていただけるとは限りません。それより、命令に背いた下働きとして覚えられる方が困ります」
彩雲は前を歩いたまま告げた。
「宮中では、皇帝陛下のお姿を見る機会を得られない者も大勢います。次も同じ場所を通れるとは思わないことです」
「承知しております」
「悔しくありませんか」
「悔しゅうございます」
麗華は答えた。
「ですが、顔を上げることを許される立場になってから拝見します」
倉へ戻ると、麗華は竹札を低い卓へ置いた。
夏衣1着と香袋1つは、確かに受け渡し所へ渡された。
皇帝がその衣を着るかどうかは、麗華には分からない。袖の仕立て直しに気づくかどうかも分からなかった。
しかし、麗華は皇帝の衣に使う布を見分け、仕立て直しに必要な白絹を記録し、完成した衣が渡される場所まで同行した。
1か月前には、布を運んでも、受け取りの数を確かめることさえ許されなかった。
今は、皇帝の衣が倉を出てから受け渡されるまでを記している。
皇帝の顔を見られなかったことは、失敗ではない。
命令を守ったまま、次に呼ばれる理由を残したのである。
皇帝の夏衣は、右袖だけが縮み、左右の長さが合わなくなった。
麗華は、右袖の手触りと内側の跡から、香を移す際に湯気を多く吸った可能性を指摘した。裁縫場で作業の手順を確かめた結果、右袖を香炉へ掛けた時だけ、水を張った器から湯気が上がっていたことが分かった。
夏衣は残った白絹で仕立て直され、麗華は完成した衣を受け渡し所まで運ぶ一行に加わった。
その帰り、麗華は廊下を通る皇帝趙佶と数歩の距離まで近づいた。しかし、命令に従って顔を伏せ、皇帝の姿を見ようとはしなかった。
皇帝のお手つきになるという目的は、まだ果たしていない。
それでも麗華は、布倉の片隅から、皇帝が通る場所まで進んだ。




