第7話(前編1)――「御衣に使う白絹」
(1113年7月1日、北宋・開封府・皇宮)
朝の鐘が鳴る前から、尚服局の布倉には蒸し暑さがこもっていた。夜の間に湿気を吸った麻布から青臭い匂いが立ち、開け放した戸から入る風も棚の奥までは届かない。崔麗華は低い卓に竹札を並べ、墨をすりながら筆先を確かめた。
倉付きの見習いとなって最初の朝だった。着ているのは昨日までと同じ薄青色の衣で、位を示す飾りもない。それでも、6人部屋で仕事を待つ生活からは抜け出し、朝から布倉へ入り、出入りする品を記録する役目を任されていた。
麗華は竹札に記す日付を確かめた。北宋へ来た時は15歳だったが、すでに16歳になっている。皇帝の側室になるために宮中へ入って1か月が過ぎても、その姿さえ見ていない。今の自分に与えられたのは、倉の片隅の卓と竹札だった。
焦って許されない場所へ踏み込めば、宮中から追い出される。次の役目を得るためにも、まずは任された仕事を正確にこなす必要があった。
戸口から足音が聞こえ、孫玉英が入ってきた。
「麗華、昨日教えた棚の札を読みなさい」
麗華は返事をして立ち上がり、白絹を収めた棚へ向かった。棚は3段に分かれ、それぞれに絹の色、産地、納められた時期、残っている数を記した木札が掛けられていた。
「上の段は、湖州から今年の春に納められた白絹が8疋でございます。中の段も湖州の白絹ですが、こちらは昨年の秋に納められた品で、7疋ございます。下の段は、成都府から納められた白絹が8疋でございます」
玉英は湖州の白絹が置かれた2段を指した。
「納められた時期の違いは分かっていますね。では、見た目に違いがあるか、確かめなさい」
麗華は棚へ手を入れず、積まれた絹の端を見比べた。
「昨年の品には、今年の品よりわずかに黄色みがございます。ただ、汚れかどうかは分かりません。もとの糸の色なのか、保管している間に変わったのか、広げて確かめる必要がございます」
玉英は今年の白絹を1疋下ろし、麗華へ持たせた。両腕で受け取ると、包み紙越しにも布の滑らかさと柔らかさが伝わった。昨日まで運んでいた白絹より軽く、指で押すと、重ねた布の間に含まれていた空気が抜けた。
「昨日運んだ品より軽うございます。糸が細く、織り方も薄いからだと思います」
麗華が答えると、玉英は腕の中の白絹へ目を向けた。
「織り方のほかにも、重さが変わる理由があります。昨日の品と比べて、気づくことはありませんか」
麗華は包みの端へ鼻を近づけた。
「こちらは湿気が少ないように思います。麻布に近い棚の品は、もう少し重く感じました」
玉英は白絹を受け取り、棚へ戻した。
「布倉では、同じ1疋でも重さが違います。湿気を吸って重くなることもあれば、織り方が違うこともあります。帳簿の数が合っていても、同じ品とは限りません。今日は数だけでなく、どの棚から出したかも竹札へ記しなさい」
「承知いたしました」
玉英が帳場へ戻ろうとした時、倉の外から慌ただしい足音が近づいた。劉彩雲が書付を手に入ってきて、その後ろに同室の李月娥たちが続いた。
「裁縫場へ白絹を4疋出します。本日中に裁ち、明日の夕刻までに仕立てる、皇帝陛下の夏衣に使う品です」
彩雲が玉英へ書付を渡すと、香児と玉蘭が顔を見合わせた。麗華も書付へ目を向けたが、卓を離れずにいた。目の前の棚にある白絹が皇帝の衣になる。宮中へ入って初めて、皇帝が身に着ける品を扱うことになったのだ。
彩雲は棚の木札を確かめ、玉英へ命じた。
「今年の春に納められた湖州の白絹から4疋を選びなさい。同じ棚の品でも、並べて色と織りを確かめます」
玉英は月娥たちに棚の前を空けさせ、床へ清潔な敷布を広げた。その上に白絹8疋を1疋ずつ並べ、包み紙を開いていく。朝の光を受けた絹は、どれも同じ白に見えたが、よく見れば青みを帯びたものや乳白色に近いものがあった。織り目が細かく、光を強く返す品も混じっている。
彩雲と玉英が布の端を広げて選び始めると、麗華は卓へ戻った。竹札には湖州から今年の春に納められた白絹であることと、棚に8疋あることを記し、裁縫場へ4疋を出す予定と書き添えた。まだ渡していないため、出した数としては扱わなかった。
玉英は選んだ白絹を敷布の右側へ置き、2疋目、3疋目と色や織りを合わせていった。4疋目を広げた時、麗華の鼻に油のような匂いが届いた。
絹そのものの匂いではなかった。華宝舗で、灯明油をこぼした布を買い取ったことがある。洗っても匂いは残り、熱を加えると周囲へ広がった。その時の匂いに似ていた。
麗華はすぐには口を挟まず、玉英の手元を見た。布の表に染みはなく、色もほかの3疋とそろっている。玉英が端から中央まで織りを確かめ、選んだ品の隣へ置こうとしたところで、麗華は彩雲へ声をかけた。
「恐れ入ります。その白絹を、もう一度確かめていただけませんか。傷は見つけておりませんが、ほかの品とは違う、油に似た匂いがいたします」
玉英が手を止めた。香児も鼻を動かしたが、離れた場所からは分からないようだった。彩雲は白絹のそばへ行き、包み紙と布の匂いを確かめた。
「灯明油の匂いなのですか」
「そこまでは分かりません。ただ、仕立てる前には目立たなくても、衣に香をたきしめたり、暑さで布が温まったりすれば、匂いが強くなるかもしれません」
玉英も顔を寄せたが、首をかしげた。
「私には、ほとんど分かりません」
「恐れ入りますが、折り目の内側をお確かめください。包み紙より、そちらから匂うようでございます」
麗華は布に触れず、気になった場所を示した。玉英が折り目を開くと、内側から油の匂いが立った。強くはないものの、ほかの白絹と比べれば違いが分かった。
彩雲は包み紙の内側も調べた。隅に指先ほどの薄い染みがあり、外から見ただけでは紙の色と区別しにくかった。
「この品は皇帝陛下の衣には使いません。戻り品の棚へ置き、納めた時の書付を調べます。別の1疋を選びなさい」
玉英は匂いのある白絹を除き、残りの品から先の3疋に色の合うものを選んだ。4疋がそろったことを彩雲が確かめてから、麗華に記録を命じた。
麗華は予定と書いた文字を消さず、その下に実際に出す4疋を記した。油の匂いがする1疋は別に置いたことも書き加えた。月娥たちは選ばれた白絹を2疋ずつ木枠へ載せ、縄で固定していった。
彩雲はその様子を見届け、麗華へ向き直った。
「お前も竹札を持って裁縫場へ行きなさい。4疋を渡し、受け取った数を記して戻るのです。皇帝陛下の御衣に使う品ですから、数だけでなく、ここで選んだ4疋に間違いがないことも確かめなさい」
「承知いたしました」
麗華は竹札と筆入れを持ち、木枠の後ろへ回った。倉の外には夏の日が差し、石敷きから熱が上がっていた。日陰を出ただけで額に汗が浮かぶ。
月娥と玉蘭が前の木枠を持ち、麗華と香児が後ろの木枠を運んだ。春燕と小蓮は左右に付き、通路を行き来する者へ声をかけた。白絹は軽かったが、皇帝の衣になると知ってからは、木枠を支える腕に余計な力が入った。
香児が運んでいる白絹へ目を落とした。
「まだ布なのに、陛下のお召し物になると思うと、汚しはしないかと気になってしまいます」
「このまま選ばれれば、陛下がお召しになるのでしょう。裁縫場へ渡すまで、気をつけて運びましょう」
麗華が応じると、前を歩いていた月娥が振り返った。
「話をしながら運んではなりません。足元を見なさい」
香児は口を閉じ、木枠を持ち直した。
裁縫場では、受け取りを担当する女官が白絹を1疋ずつ広げ、色、織り、匂いを確かめた。倉で選んだ品と同じであることを麗華も見届け、女官が4疋と読み上げるのを聞いて、竹札へ受け渡した数を記した。受け取った者の名を尋ねると、女官は以前のように理由を聞き返さず、そのまま名を告げた。
倉へ戻る途中、麗華は高い塀の向こうへ目を向けた。皇帝がどこにいるのかは、まだ分からない。それでも、自分が記録し、裁縫場へ届けた白絹は、衣に仕立てられて皇帝のもとへ運ばれる。
皇帝に近づくために、今の仕事で何ができるのか。麗華にはまだ先の見通しはなかったが、倉で品を選び、記録して渡す仕事が、皇帝の暮らしにつながっていることは分かった。




