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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第6話(後編2)――「熊殺しの御前試合」

 未来から届いた薬を用いた治療により、後宮で重い肺の病に倒れていた袁美人(ユエン・メイレン)は、寝台を離れて普通の生活を送れるまでに回復した。


 皇帝趙佶(ジャオ・ジー)は、その快気を祝う宴を宮中で開く。


 治療を行った倉達也(ツァン・ダーイエ)も、思いがけず宴へ招かれた。


 宴の余興として催されたのは、全国から集められた猛者たちによる格闘技大会であった。


 達也は、見物するだけのつもりでいた。

 (1118年夏、北宋・開封府(カイフォンフ)・皇宮)


 後宮から届いた書付を読んだ時、達也は薬の使用量を確かめるための報告だと思った。


 ところが、書付には袁美人の快気を祝う宴へ出席するよう記されていた。


「僕が宴席へ出るのですか」


 達也は、使いとして来た宦官へ尋ねた。


「陛下のご意向でございます。袁美人様を治療した者が、快気の祝いへ出ないのはおかしいとおっしゃいました」


「僕は後宮の者ではありません」


「もちろんでございます。ですから、後宮の奥ではなく、宮中の庭園に席が設けられます」


「ほかに、どのような方々が出席されるのでしょう」


「后妃の方々、公主様、皇子様、親王様、宰相をはじめとする重臣、皇族に連なる方々でございます」


 達也は返事をしなかった。


 開封知府であり、殿試の状元でもあるとはいえ、皇帝の家族と朝廷の重臣が集まる宴である。21歳の地方官が気軽に座れる場所ではない。


「僕は袁美人様の治療をしただけです。宴席へ出るほどのことではありません」


「その治療によって、袁美人様は命を救われました。出席をお断りになれば、袁美人様がご自分を避けているのではないかと心配なさいます」


「そのようなつもりはありません」


「では、ご出席ください」


 宦官は、達也が断れない理由を初めから用意していた。


「分かりました。伺います」


「当日は、治療に使う道具をお持ちになる必要はございません」


「袁美人様のご様子を確かめますので、聴診器だけは持ってまいります」


「宴席で診察なさるおつもりですか」


「快気祝いだからといって、治療が終わったとは限りません」


 宦官は困った顔をしたが、持参してはならないとは言わなかった。


 ◇ ◇ ◇


 宴は、宮中の庭園に設けられた大きな仮設殿で開かれた。


 池には紅白の蓮が咲き、岸には柳が枝を垂らしている。水面を渡る風が、夏の日差しで熱せられた空気をわずかに冷ましていた。


 仮設殿の中央には皇帝の席があり、その左右に后妃、皇子、公主、親王たちの席が並んでいる。さらに外側には高官や貴族の席が設けられていた。


 後宮の女たちは、薄い簾の内側に座っていた。ただし、庭で行われる催しを見られるよう、簾は目の高さまで上げられている。


 達也の席は、朝廷の重臣たちより下ではあったが、皇帝の顔がはっきり見えるほど前に置かれていた。


「これは、あまり目立たない席とは申せませんね」


 案内してきた宦官へ達也が言った。


「本日の宴で、倉知府は袁美人様に次ぐ功労者でございます」


「僕の隣に座る方が困るのではありませんか」


「すでに困っておられます」


 隣には、髭を長く伸ばした老官が座っていた。達也の若さと席の位置を見比べ、納得できない顔をしている。


 達也は老官へ一礼してから席へ着いた。


 しばらくすると、袁美人が女官に付き添われて姿を現した。


 達也が初めて診察した時、袁美人は高い熱を出し、寝台から起きることもできなかった。咳をするたびに胸を押さえ、血の混じった痰を吐いていた。


 その袁美人が、自分の足で歩いている。


 頬には血色が戻り、身体も治療前よりふっくらしていた。歩く速さはまだ慎重であったが、女官の腕へ体重を預けてはいない。


 出席者の視線が集まる中、袁美人は皇帝の前へ進んだ。


「陛下のお情けと、倉知府の薬により、再びこの庭へ出ることができました」


 袁美人が拝礼すると、趙佶は満足そうにうなずいた。


「顔色もよくなった。以前の姿へ戻ったようだ」


「咳も熱もなくなり、食事も取れるようになりました。昨夜は、朝まで一度も目を覚ましませんでした」


「それはめでたい」


 趙佶は杯を上げた。


 その場にいる者たちも、一斉に杯を掲げた。


「袁美人の快気を祝う」


 楽人たちが楽器を奏で、庭へ笛と琵琶の音が広がった。


 達也も杯を上げたが、酒へ口をつける前に袁美人の歩き方を見ていた。


 袁美人はそれに気づき、女官を伴って達也の席へ来た。


「倉知府。私の歩く姿までご覧になるのですね」


「息切れをなさらないか確かめておりました」


「今日は病人ではなく、宴の主でございます」


「病人でなくなったかどうかを決めるのは、もう少し先です」


「相変わらず、喜ばせる言葉を選ばれませんね」


「袁美人様を喜ばせるために、薬を途中でやめるわけにはまいりません」


 袁美人は達也の前へ手を差し出した。


「では、診てください」


「ここでございますか」


「聴診器をお持ちになったのでしょう」


 達也が持参した小さな袋へ、袁美人は視線を向けていた。


 近くにいた后妃や公主たちも、珍しそうに見ている。


 達也は袁美人を簾の内側へ移し、女官を通じて胸と背へ聴診器を当てた。以前に聞こえていた異常な呼吸音は、ほとんど消えている。


「よくなられております。ただし、薬は決めた日まで続けてください」


「宴が終わっても飲むのでございますか」


「もちろんです」


「せっかくの祝いですのに、最後まで厳しいことをおっしゃいますね」


「袁美人様が再び寝台へ戻らずに済むことが、最も大切な祝いでございます」


 袁美人は一瞬黙り、やがて微笑んだ。


「分かりました。倉知府の言いつけを守ります」


 達也が席へ戻ると、隣の老官が小声で尋ねた。


「そなたは、後宮の方へも、いつもそのように申すのか」


「治療を受ける方には、同じように申し上げます」


「恐ろしくないのか」


「薬をやめられる方が恐ろしいです」


 老官は達也の顔を見たあと、声を上げて笑った。


 ◇ ◇ ◇


 食事が進み、舞と楽が一通り披露されると、庭の中央が片づけられた。


 敷物が取り除かれ、土の上へ白い粉で大きな円が描かれる。円の外には、棍を持った兵が並んだ。


 達也は近くの宦官へ尋ねた。


「次は何が始まるのですか」


「格闘技の大会でございます。袁美人様の快気を祝うため、全国から腕自慢の者が集められました」


「武器を使うのですか」


「決勝までは素手でございます。拳、蹴り、投げ、締め技を用い、動けなくなるか、負けを認めれば勝負が決まります。相手を殺した場合も勝ちとはなりますが、陛下はできる限り生かすよう命じておられます」


「できる限り、ですか」


「命を惜しんで弱い勝負を見せても、面白くないとのことでございます」


 達也は円の周囲に控える兵を見た。


 兵は勝負を止めるためではなく、興奮した参加者が観客席へ飛び込むのを防ぐためにいるらしい。


 最初の試合には、河東路から来たという大男と、荊湖南路の拳法家が出た。


 大男は相手の倍近い太さの腕を持ち、肩には古い刀傷が走っている。拳法家は小柄であったが、円の中を素早く動き、大男の脚と脇腹を繰り返し蹴った。


 しばらくは拳法家が優勢に見えた。


 ところが、大男は蹴りを受けることを承知で間合いへ入り、拳法家の腰を両腕で抱えた。そのまま頭上まで持ち上げ、土へ叩きつける。


 拳法家は動かなくなった。


 兵が駆け寄って息を確かめた。死んではいなかったが、自分で立ち上がることはできない。


 観客席から大きな歓声が上がった。


 達也は眉をひそめた。


「快気祝いで、別の病人を増やすのでございますか」


 隣の老官が笑った。


「格闘技とは、そのようなものであろう」


「治療する者の身にもなっていただきたいものです」


「ならば、怪我をした者をそなたが治せばよい」


「薬には限りがあります」


 次の試合では、鎧を脱いだ禁軍の兵士が、山東から来た相撲人を投げた。その次には、河北の豪傑が相手の腕を極め、骨が折れる寸前で降参させた。


 拳が顔へ当たるたびに后妃たちは声を上げ、男が大きく投げられると、公主や皇子たちが身を乗り出した。


 血が流れれば目を背ける者もいた。


 しかし、次の瞬間には、指の間や扇の陰から試合を見ている。


 時代が違っても、危険な競技ほど人を引きつけることに変わりはなかった。


 達也は試合そのものより、怪我人を運ぶ兵たちを見ていた。


 ◇ ◇ ◇


 勝ち抜いた者が32人に絞られた頃、貴族の席から声が上がった。


「陛下。この場には、もう1人、天下に名を知られてよい豪傑がおります」


 声を上げたのは、東平府に領地を持つ年配の貴族であった。


 趙佶が杯を置いた。


「誰のことだ」


「そこにおります、開封知府の倉達也(ツァン・ダーイエ)でございます」


 達也は自分の名を聞き、顔を上げた。


「倉知府がどうした」


「清河県へ現れた折、山中で大熊を倒しております。熊に襲われていた女3人を救い、屶1本で立ち向かったとのことでございます」


「その話なら、朕も聞いたことがある」


 趙佶は達也へ目を向けた。


「熊殺しは、そなたのことであったか」


 達也は席を立ち、皇帝の前へ進んだ。


「確かに、熊を倒したことはございます」


「なぜ、これまで申さなかった」


「状元を選ぶ殿試で、熊を倒した話を申し上げる必要はないと考えました」


「開封知府に任じた時も申さなかったな」


「役所の仕事にも、熊を倒す力は必要ございません」


 趙佶は声を上げて笑った。


「そなたは、珍しいことを隠して平凡なことばかり申す」


「知府の仕事は平凡なことの積み重ねでございます」


「では、今日は知府の仕事を忘れよ。円の中へ入り、熊殺しの腕前を見せてみよ」


 達也は皇帝を見た。


「お断り申し上げます」


 庭が静かになった。


 皇帝の命令を、その場で断る者がいるとは誰も考えていなかった。


「理由を申せ」と趙佶。


「私は武人ではございません。近頃は府衙の政務に追われ、鍛錬も十分にいたしておりません。全国から集められた方々の大会へ、途中から加わるのも公平ではございません」


「熊を倒した男が、鍛錬不足を理由に逃げるのか」


「熊を倒したのは、襲われていた方々を助けるためでございます。見世物として戦ったのではありません」


 皇帝の近くにいた皇子の1人が、隣の公主へ何かをささやいた。


 後宮の簾の内側からも、小さなどよめきが起きている。


 趙佶は、ますます興味を持った顔になった。


「そなたが出れば、宴はさらに盛り上がる。袁美人も見たいであろう」


 袁美人が簾の内側から答えた。


「陛下。私は倉知府が怪我をなさるところを見たいわけではございません」


「勝つところなら見たいか」


 袁美人は返事をしなかった。


 その沈黙を、趙佶は同意と受け取った。


 その時、進行役の宦官が皇帝のそばへ進み、次の試合へ出る男が、先ほど負った傷のため辞退を申し出たと告げた。


 趙佶は笑みを浮かべた。


「ちょうどよい。決まりだ。その者に代えて、倉知府を加えよ」


「陛下。私は出るとは申しておりません」


「朕が出よと申した」


 それで話は終わった。


 達也は、皇帝が自分の都合を聞くつもりのないことを知った。


「承知いたしました。ただし、1つお願いがございます」


「申せ」


「相手が降参した時には、直ちに勝負を終わらせてください。倒れた相手をさらに打つことも禁じていただきとうございます」


「よかろう。そなたにも同じ決まりが適用される」


「ありがとうございます」


 達也は官服と冠を脱ぎ、宦官へ預けた。


 下に着ていた薄い衣の袖をまくり、帯を締め直す。


 後宮の女たちから、再びどよめきが起こった。


 官服を着て座っていた時には分かりにくかったが、達也の肩、胸、腕には、今も鍛えられた厚みが残っていた。


「鍛錬をしていない身体には見えぬぞ」と趙佶。


「以前より減ったのでございます」


「何が減った」


「走る距離と、持ち上げる重さでございます」


「ならば、今日から増やせ」


 皇帝に命じられることではないと思ったが、達也は黙って円の中へ入った。


 ◇ ◇ ◇


 達也の最初の相手は、禁軍で相撲を教えている男であった。


 年齢は30歳を越え、達也より頭1つ分背が高い。首は太く、肩から腕までが一つの塊のように見える。


「知府様。怪我をなさっても、お恨みにならぬよう願います」


「お互いさまです」


 合図が出ると、男は腰を低くして突進した。


 達也を円の外へ押し出すつもりである。


 達也は正面から受けず、半歩だけ身体を外した。男の腕を取り、その勢いを止めないまま腰を入れる。


 大きな身体が宙へ浮いた。


 男は何が起きたのか分からない顔のまま、背中から土へ落ちた。


 息が詰まり、起き上がれない。


 勝負は数呼吸で終わった。


 庭にいた者たちは一瞬黙り、そのあと一斉に歓声を上げた。


 達也は倒れた男へ手を差し出した。


「骨に異常はございませんか」


「分かりません。まだ息が……」


「しばらく仰向けのままでいてください」


 兵に男を任せると、達也は円の中央へ戻った。


 2人目は、陝西から来た拳法家であった。


 この男は最初から近づかず、達也の周囲を回りながら拳と蹴りを繰り出した。達也が腕を伸ばせば離れ、追わなければ脇腹や脚を狙って踏み込んでくる。


 拳が達也の肩へ当たった。


 続く蹴りが腿へ入る。


 観客席から歓声が上がった。


 拳法家は手応えを得たのか、今度は顔を狙って深く踏み込んだ。


 達也は拳を受けながら、その手首をつかんだ。


 拳法家が腕を引こうとした時には、達也のもう一方の腕が腰へ回っている。


「離せ」


「離せば、また殴られるでしょう」


 達也は拳法家の身体を持ち上げた。


 そのまま振り回し、円の外へ投げる。


 拳法家は土の上を転がったが、すぐに立ち上がった。しかし、両足は円の外に出ている。


 2人目も達也の勝ちとなった。


 3人目は、河東路の鉱山で働いていたという大男であった。


 腕の太さは達也を上回り、拳を受けるだけで骨が折れそうに見える。


 大男は両腕を広げ、達也へつかみかかった。


 達也はその腕の下へ入り、片脚を払った。大男の身体が傾く。


 倒れる前に腰帯をつかみ、肩へ担ぎ上げた。


「待て」


 大男が声を上げた。


「まだ投げておりません」


「それは分かっておる。分かっておるから、待てと申した」


「降参なさいますか」


 大男は肩の上から地面を見た。


「降参する」


 達也は大男を投げず、静かに地面へ降ろした。


 観客席から笑いと拍手が起こった。


 4人目は河北の兵士であった。


 この男は達也の投げを警戒し、腰をつかませようとしなかった。低い姿勢で脚を狙い、達也が手を伸ばすと肘で腕を打つ。


 達也は何度か攻撃を受けた。


 男は勝てると判断したらしく、達也の両脚へ組み付いた。


 達也の身体が後ろへ押される。


 円の外まで、あと3歩であった。


 公主や皇子たちが席から身を乗り出した。簾の内側では、袁美人が扇を握りしめている。


 達也は男の胴へ両腕を回した。


 後ろへ押されながら腰を落とし、男の身体を抱えたまま持ち上げる。


「何を――」


 男の足が地面から離れた。


 達也は身体を半回転させ、男を円の中央へ投げた。


 背中から落とす直前に腕を引き、頭だけは土へ打ち付けないようにする。


 男はしばらく動けなかった。


「続けられますか」


 達也が尋ねると、男は仰向けのまま首を振った。


「無理だ。負けを認める」


 達也は4人を続けて退けた。


 熊殺しの噂を聞いていた者も、その多くは屶を使ったから熊を倒せたのだと思っていた。


 しかし、今は武器を持たず、全国から集められた4人の猛者を投げ飛ばしている。


 観客の目が変わっていた。


 開封知府を見る目ではない。


 次に何をするか分からない豪傑を見る目であった。


 ◇ ◇ ◇


 決勝の相手は、4つの勝負を勝ち抜いた石雄(シー・ション)という男であった。


 年齢は30歳前後で、身長は達也と大きく変わらない。しかし、身体の厚みと動きには、これまでの4人とは明らかな違いがあった。


 拳、蹴り、投げのすべてを使う。


 力だけに頼らず、相手の重心が動く瞬間を見て攻撃していた。


 石雄は円へ入ると、達也へ一礼した。


「4人を続けて投げた腕前、見事でございます」


「石殿も、すでに4人と戦っておられます」


「私は一戦ごとに休みました。倉知府は続けて戦っておられる。公平とは申せません」


「僕は途中から加えられました。それこそ公平ではございません」


「では、互いに言い訳はなしといたしましょう」


「分かりました」


 合図が出た。


 石雄はすぐには動かなかった。


 達也も間合いを詰めず、相手の肩と脚を見た。


 石雄が踏み込んだ。


 最初の拳は達也の顔ではなく、胸へ向かった。達也が腕で受けると、石雄はその腕をつかみ、身体を引き寄せた。


 同時に膝が上がる。


 達也は腰をひねって膝を外したが、石雄の肘が頬へ入った。


 頭が横へ振られた。


 観客席から声が上がる。


 達也は下がらず、石雄の肩へ身体をぶつけた。


 石雄も倒れない。達也の腰へ腕を回し、片脚をかけて投げようとする。


 2人は組み合ったまま円の中を動いた。


 達也が力を入れれば、石雄は正面から耐えずに身体をずらす。石雄が技へ入れば、達也は腕力で崩される前に戻す。


 これまでの相手とは違った。


 武松の拳は、どこを狙うのか当たる直前まで読めなかった。投げを避けた次には、すでに肘や膝が迫っていた。


 達也が一つの攻撃を防いだ時、武松は次の攻撃へ移っていた。


 石雄の動きには、わずかな切れ目がある。


 その切れ目を見つけることができた。


 達也は石雄の拳を受け、あえて上半身をよろめかせた。


 石雄が勝機と見て前へ出る。


 達也の腰をつかみ、投げへ入ろうとした。


 達也は踏みとどまり、石雄の右腕を抱えた。そのまま身体を密着させ、背後へ回る。


 石雄が肘を引き、達也の脇腹を打った。


 達也は腕を離さなかった。


 両腕を石雄の上半身へ回し、持ち上げる。


 石雄の足が地面から離れた。


 達也は後ろへ投げたが、石雄は身体をひねり、背中から落ちることを避けた。片手と片膝をつき、すぐに立ち上がろうとする。


 その背後へ、達也が回った。


 石雄の首へ腕をかける。


 石雄は締められる前に顎を引き、達也の腕へ両手をかけた。


 力比べになった。


 達也は、かつて武松に首を締められた時のことを思い出していた。


 息ができなくなり、庭の色が消えていった。


 月娘が欄干を越え、自分のところへ来ようとしていた。


 達也は武松の顎へ手をかけ、首を全力でひねった。


 骨が砕け、そのあとも止めることができなかった。


 首は胴から離れ、武松の頭部だけが両手に残った。


 今、石雄の首が同じ位置にある。


 達也は締める腕を外し、左手で石雄の顎をつかんだ。右腕を頭の後ろへ回す。


 石雄の顔色が変わった。


 達也の構えが、首を締めるためではないと気づいたのである。


 このまま左右の腕へ力を入れられれば、首が回る。


 技を知っている者ほど、その先に何が起きるか分かった。


「待て!」


 石雄が叫んだ。


 達也は力を入れなかったが、手も離さなかった。


「降参する。私の負けだ」


「本当に、降参なさいますか」


「する。首を折られては敵わぬ」


 達也は、すぐに両手を離した。


 石雄は前へ転がり、達也から距離を取った。自分の首へ手を当て、左右へ動くことを確かめている。


 兵が勝負の終了を告げた。


「勝者、倉達也(ツァン・ダーイエ)!」


 庭を揺らすほどの歓声が上がった。


 公主や皇子たちは席から立ち上がり、後宮の女たちも扇や袖で口元を隠すことを忘れて拍手していた。


 袁美人は両手を胸元で合わせ、深く息を吐いている。


 趙佶も上機嫌で笑っていた。


 達也は歓声より先に、石雄へ近づいた。


「首に痛みはございませんか」


「技をかける前に止められましたので、何ともございません」


「よかった」


「倉知府は、初めから私を殺すつもりはなかったのですか」


「ございません」


「それなら、なぜあのような技を」


「ほかに、確実に勝負を終わらせる方法が思いつきませんでした」


 石雄は達也を見た。


「もし、私が降参しなければ、どうなさるおつもりでしたか」


 達也はすぐに答えられなかった。


「首が折れないところで、止めるつもりでした」


「止められたのでございますか」


「恐らくは」


「今のお答えを聞くと、降参して正解だったようでございます」


「僕も、降参していただけて助かりました」


 達也は心からそう思っていた。


 石雄を殺さずに済んだ。


 武松の時とは違い、両方が生きたまま勝負を終えることができた。


 それだけで十分であった。


 ◇ ◇ ◇


 達也は官服を着直し、皇帝の前へ進んだ。


 頬には石雄の肘を受けた跡が残り、袖や裾には土が付いている。


「鍛錬をしておらぬと申したな」


 趙佶が尋ねた。


「以前に比べれば、いたしておりません」


「全国から集めた猛者を5人続けて倒しておきながら、よくそのようなことを申せる」


「皆、私が途中から加わるとは考えておられませんでした。戦い方を調べる時間もなかったのでございます」


「そなたにも、相手を調べる時間はなかったであろう」


「それは同じでございます」


「ならば、そなたが強かったということだ」


 趙佶は上機嫌であった。


 快気祝いの宴は、袁美人が歩いて現れた時より、格闘技大会の方が盛り上がっている。


 もっとも、その袁美人も達也の決勝を固唾をのんで見ていた。


「倉達也。そなたは殿試で第一甲第一名となり、開封知府として政務を執り、後宮の病人を治した。そのうえ、熊を倒し、今日の御前試合にも勝った」


「すべて別のことでございます」


「それをすべて行ったのは、同じそなたであろう」


「はい」


「褒美を取らせる。望むものを申せ」


 達也は少し考えた。


「では、開封を守る兵を増やすお許しを頂きとうございます」


 皇帝の近くにいた重臣たちの顔が変わった。


「また兵か」と趙佶。


「現在お許しいただいている100人だけでは、火災、洪水、暴動が同時に起きた時に足りません。都を守るため、さらに人を集めとうございます」


「金銀も宝玉も求めず、兵を欲しがるのか」


「金銀や宝玉では、火を消すことも、賊を捕らえることもできません」


「金銀で人を雇えばよい」


「陛下のお許しがなければ、知府が勝手に兵を集めたことになります」


 趙佶は笑った。


「御前試合の勝者が求める褒美としては、あまりに堅い」


「私は開封知府でございます」


「今日は、その役目を忘れよと申したはずだ」


「忘れようといたしましたが、無理でございました」


 周囲から笑いが起きた。


 趙佶は杯を手にしたまま、しばらく達也を見ていた。


「よかろう。兵を増やすことについては、後日、数と費用をまとめて上奏せよ。今日の褒美は、それとは別に与える」


「別でございますか」


「倉達也を侯爵に封ずる」


 庭が静まり返った。


 達也自身も、すぐには言葉の意味を受け止められなかった。


 高官や貴族たちは互いの顔を見た。


 20歳の若者が状元となり、開封知府へ任じられただけでも異例である。その男が後宮の女を治し、御前試合で優勝したことで、今度は侯爵へ封じられる。


 あまりにも速い出世であった。


「陛下。私は知府に任じられたばかりでございます」


「知府を辞めよとは申しておらぬ。官職はそのまま務めよ」


「侯爵に封じられるほどの働きをしたとは思えません」


「朕が、したと申している」


 殿試の時と同じであった。


 皇帝が決めた以上、達也が辞退しても聞くつもりはない。


「ありがたく、お受けいたします」


 達也は地面へ膝をつき、深く頭を下げた。


「陛下のご恩に報いるため、これまで以上に開封の政務へ励みます」


「そなたは侯爵となっても、書付の山へ戻るつもりか」


「明日までに決裁しなければならない訴状が残っております」


「御前試合に勝った夜くらい、宴を楽しめ」


「では、今夜だけは楽しませていただきます」


「今夜だけと申すところが、そなたらしい」


 趙佶が杯を掲げた。


「袁美人の快気と、新しい侯爵の誕生を祝う」


 楽が再び奏でられた。


 后妃、公主、皇子、親王、重臣、貴族たちが杯を上げた。


 簾の内側では、袁美人が達也へ向かって微笑んでいた。


 達也は大勢の前で5人の猛者を退け、熊殺しの名に恥じない腕前を示した。


 しかも、今回は誰も殺していない。


 決勝で首を取った手に力を入れる前に、石雄は潔く負けを認めた。


 達也にとっては、侯爵の地位を得たこと以上に、その事実の方が大きかった。


 宴席に戻ると、先ほどまで達也の若さと席の位置に不満を示していた老官が、自分から杯へ酒を注いだ。


「倉侯。先ほどは失礼いたしました」


「まだ、その呼ばれ方には慣れません」


「すぐに慣れる。熊を倒し、後宮の病を治し、御前試合に勝った侯爵など、都に2人はおらぬ」


「2人いては困ります」


「なぜだ」


「そのたびに、僕まで試合へ出されます」


 老官は大声で笑った。


 その声を聞き、周囲の者たちも笑った。


 達也は、ようやく杯の酒へ口をつけた。


 後宮の女たち、公主、皇子、貴族、重臣が見守る中、開封知府・倉達也は御前試合を制した。


 袁美人の病を治した若い知府は、その日から侯爵でもある。


 皇帝の気まぐれから始まった試合は、達也に皇族と朝廷の誰もが知る名声を与えた。


 そして、達也が求めた兵の増員についても、皇帝は上奏を許した。


 10年後に迫る金軍の侵攻へ備えるため、達也が集められる人員は、これまでの100人からさらに増えようとしていた。

 第6話後編2では、未来から届いた薬によって、後宮で重い肺の病に倒れていた袁美人(ユエン・メイレン)が、普通の生活を送れるまでに回復した。


 皇帝趙佶(ジャオ・ジー)は、袁美人の快気を祝う宴を宮中で開き、治療を行った倉達也(ツァン・ダーイエ)も招いた。


 宴の余興として、全国から集められた猛者による格闘技大会が催された。


 貴族の1人が、達也が山中で熊を倒したことを覚えていた。その話を聞いた皇帝は、熊殺しの腕前を見たいと望み、達也へ試合に出るよう命じた。


 達也は鍛錬不足と官人であることを理由に辞退したが、皇帝は聞き入れなかった。


 やむを得ず円へ入った達也は、最初の4人を投げ技で退け、決勝へ進んだ。


 決勝の相手である石雄は、それまでの相手より強く、拳、蹴り、投げを使いこなした。しかし、虎殺しの武松(ウー・ソン)と比べれば、その動きには明らかな切れ目があった。


 達也は石雄の背後へ回り、武松の首をねじ切った時と同じ技へ入った。


 石雄は首を折られる危険を察し、潔く降参した。


 達也は誰も殺さずに5人を勝ち抜き、後宮の女たち、公主、皇子、貴族、重臣が見守る御前試合で優勝した。


 皇帝は褒美として、達也を侯爵へ封じた。


 さらに達也は、開封を守る兵を増員する許しを求めた。皇帝は後日、必要な人数と費用を上奏するよう命じた。


 開封知府、状元、後宮の病を治した者、熊殺し、御前試合の勝者。


 達也は、それらに加えて侯爵の地位を得た。


 皇帝と皇族に近づきながら、10年後の金軍侵攻へ備えるための力も、着実に増やし始めている。

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