↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/138

第6話(後編2)――「熊殺しの御前試合」

 (1118年夏、北宋・開封府(カイフォンフ)・皇宮)


 後宮から届いた書付を読んだ時、達也は薬の使用量を確かめるための報告だと思った。ところが、そこには袁美人(ユエン・メイレン)の快気を祝う宴へ出席するよう記されていた。


「僕が宴席へ出るのですか」


 達也が使いとして来た宦官へ尋ねると、宦官は皇帝の意向であると説明した。


「袁美人様を治療した者が、快気の祝いへ出ないのはおかしいと、陛下がおっしゃいました」


「僕は後宮の者ではありませんが、どのような宴なのでしょう」


「後宮の奥ではなく、宮中の庭園に席が設けられます。后妃の方々、公主様、皇子様、親王様のほか、宰相をはじめとする重臣や皇族に連なる方々も出席されます」


 開封知府であり、殿試の状元でもあるとはいえ、皇帝の家族と朝廷の重臣が集まる宴である。21歳の地方官が気軽に座れる場所ではなかった。


「僕は袁美人様の治療をしただけです。宴席へ出るほどのことではありません」


「その治療によって、袁美人様は命を救われました。出席をお断りになれば、袁美人様がご自分を避けているのではないかと心配なさいます」


「そのようなつもりはありません。分かりました。伺います」


 宦官は、達也が断れない理由を初めから用意していたらしい。


「当日は、治療に使う道具をお持ちになる必要はございません」


「袁美人様のご様子を確かめますので、聴診器だけは持ってまいります」


「宴席で診察なさるおつもりですか」


「快気祝いだからといって、治療が終わったとは限りません」


 宦官は困った顔をしたが、持参してはならないとは言わなかった。


 ◇ ◇ ◇


 宴は、宮中の庭園に設けられた大きな仮設殿で開かれた。


 池には紅白の蓮が咲き、岸には柳が枝を垂らしている。水面を渡る風が、夏の日差しで熱せられた空気をわずかに冷ましていた。


 仮設殿の中央には皇帝の席があり、その左右に后妃、皇子、公主、親王たちの席が並び、さらに外側には高官や貴族の席が設けられている。後宮の女たちは薄い簾の内側に座っていたが、庭で行われる催しを見られるよう、簾は目の高さまで上げられていた。


 達也の席は朝廷の重臣たちより下ではあったものの、皇帝の顔がはっきり見えるほど前に置かれていた。


「これは、あまり目立たない席とは申せませんね」


 案内してきた宦官へ達也が言うと、宦官は平然と答えた。


「本日の宴で、倉知府は袁美人様に次ぐ功労者でございます。もっとも、お隣の方は、すでに困っておられるようですが」


 隣には髭を長く伸ばした老官が座っていた。達也の若さと席の位置を見比べ、納得できない顔をしている。達也は老官へ一礼してから席へ着いた。


 しばらくすると、袁美人が女官に付き添われて姿を現した。


 達也が初めて診察した時、袁美人は高い熱を出し、寝台から起きることもできなかった。咳をするたびに胸を押さえ、血の混じった痰を吐いていたが、今は自分の足で歩いている。頬には血色が戻り、身体も治療前よりふっくらしていた。歩く速さはまだ慎重であったものの、女官の腕へ体重を預けてはいない。


 出席者の視線が集まる中、袁美人は皇帝の前へ進んだ。


「陛下のお情けと、倉知府の薬により、再びこの庭へ出ることができました」


 袁美人が拝礼すると、趙佶(ジャオ・ジー)は満足そうにうなずいた。


「顔色もよくなった。以前の姿へ戻ったようだ」


「咳も熱もなくなり、食事も取れるようになりました。昨夜は朝まで一度も目を覚ましませんでした」


「それはめでたい。袁美人の快気を祝う」


 趙佶が杯を上げると、その場にいる者たちも一斉に杯を掲げた。楽人たちが楽器を奏で、庭へ笛と琵琶の音が広がった。


 達也も杯を上げたが、酒へ口をつける前に袁美人の歩き方を確かめていた。それに気付いた袁美人は、女官を伴って達也の席へ来た。


「倉知府。私の歩く姿までご覧になるのですね」


「息切れをなさらないか確かめておりました」


「今日は病人ではなく、宴の主でございます」


「病人でなくなったかどうかを決めるのは、もう少し先です」


「相変わらず、喜ばせる言葉を選ばれませんね」


「袁美人様を喜ばせるために、薬を途中でやめるわけにはまいりません」


 袁美人は達也の前へ手を差し出した。


「では、診てください。聴診器をお持ちになったのでしょう」


 袁美人の視線は、達也が持参した小さな袋へ向いていた。近くにいた后妃や公主たちも、珍しそうに見ている。


 達也は袁美人を簾の内側へ移し、女官を通じて胸と背へ聴診器を当てた。以前に聞こえていた異常な呼吸音は、ほとんど消えている。


「よくなられております。ただし、薬は決めた日まで続けてください」


「宴が終わっても飲むのでございますか」


「もちろんです。袁美人様が再び寝台へ戻らずに済むことが、最も大切な祝いでございます」


 袁美人は一瞬黙ったあと、微笑んだ。


「分かりました。倉知府の言いつけを守ります」


 達也が席へ戻ると、隣の老官が声を落として尋ねた。


「そなたは、後宮の方へも、いつもそのように申すのか」


「治療を受ける方には、同じように申し上げます」


「恐ろしくないのか」


「薬をやめられる方が恐ろしいです」


 老官は達也の顔を見たあと、声を上げて笑った。


 ◇ ◇ ◇


 食事が進み、舞と楽が一通り披露されると、庭の中央が片づけられた。敷物が取り除かれ、土の上へ白い粉で大きな円が描かれる。円の外には棍を持った兵が並んだ。


 達也は近くの宦官へ、これから何が始まるのか尋ねた。


「格闘技の大会でございます。袁美人様の快気を祝うため、全国から腕自慢の者が集められました。決勝までは素手で、拳、蹴り、投げ、締め技を用います。動けなくなるか、負けを認めれば勝負が決まります」


「相手を殺した場合は、どうなるのでしょう」


「それも勝ちとなります。ただし、陛下はできる限り生かすよう命じておられます」


「できる限り、ですか」


「命を惜しんで弱い勝負を見せても面白くない、とのことでございます」


 達也は円の周囲に控える兵を見た。兵は勝負を止めるためではなく、興奮した参加者が観客席へ飛び込むのを防ぐためにいるらしい。


 最初の試合には、河東路から来たという大男と、荊湖南路の拳法家が出た。


 大男は相手の倍近い太さの腕を持ち、肩には古い刀傷が走っている。拳法家は小柄であったが、円の中を素早く動き、大男の脚と脇腹を繰り返し蹴った。


 しばらくは拳法家が優勢に見えたが、大男は蹴りを受けることを承知で間合いへ入り、拳法家の腰を両腕で抱えた。そのまま頭上まで持ち上げ、土へ叩きつける。


 拳法家は動かなくなった。兵が駆け寄って息を確かめたところ、死んではいなかったものの、自力で立ち上がることはできなかった。


 観客席から大きな歓声が上がった。


「快気祝いで、別の病人を増やすのでございますか」


 達也が眉をひそめると、隣の老官が笑った。


「格闘技とは、そのようなものであろう」


「治療する者の身にもなっていただきたいものです」


「ならば、怪我をした者をそなたが治せばよい」


「薬には限りがあります」


 次の試合では、鎧を脱いだ禁軍の兵士が山東から来た相撲人を投げ、その次には河北の豪傑が相手の腕を極め、骨が折れる寸前で降参させた。


 拳が顔へ当たるたびに后妃たちは声を上げ、男が大きく投げられると、公主や皇子たちが身を乗り出す。血が流れれば目を背ける者もいたが、次の瞬間には指の間や扇の陰から試合を見ていた。


 時代が違っても、危険な競技ほど人を引きつけることに変わりはない。達也は試合そのものより、怪我人を運ぶ兵たちの動きを気にしていた。


 ◇ ◇ ◇


 勝ち抜いた者が32人に絞られた頃、貴族の席から声が上がった。


「陛下。この場には、もう1人、天下に名を知られてよい豪傑がおります」


 声を上げたのは、東平府に領地を持つ年配の貴族であった。


 趙佶が杯を置いた。


「誰のことだ」


「そこにおります、開封知府の倉達也(ツァン・ダーイエ)でございます。清河県へ現れた折、山中で大熊を倒しております。熊に襲われていた女3人を救い、屶1本で立ち向かったとのことでございます」


「その話なら、朕も聞いたことがある」


 趙佶は達也へ目を向けた。


「熊殺しは、そなたのことであったか」


 達也は席を立ち、皇帝の前へ進んだ。


「確かに、熊を倒したことはございます」


「なぜ、これまで申さなかった」


「状元を選ぶ殿試で、熊を倒した話を申し上げる必要はないと考えました。開封知府の仕事にも、熊を倒す力は必要ございません」


 趙佶は声を上げて笑った。


「そなたは、珍しいことを隠して平凡なことばかり申す」


「知府の仕事は平凡なことの積み重ねでございます」


「では、今日は知府の仕事を忘れよ。円の中へ入り、熊殺しの腕前を見せてみよ」


「お断り申し上げます」


 庭が静かになった。皇帝の命令を、その場で断る者がいるとは誰も考えていなかった。


「理由を申せ」


「私は武人ではございません。近頃は府衙の政務に追われ、鍛錬も十分にいたしておりません。それに、全国から集められた方々の大会へ途中から加わるのは、公平とは申せません」


「熊を倒した男が、鍛錬不足を理由に逃げるのか」


「熊を倒したのは、襲われていた方々を助けるためでございます。見世物として戦ったのではありません」


 皇帝の近くにいた皇子の1人が、隣の公主へ何かをささやいた。後宮の簾の内側からも、小さなどよめきが起きている。


 趙佶は、ますます興味を持った様子で達也を見た。


「そなたが出れば、宴はさらに盛り上がる。袁美人も見たいであろう」


 簾の内側から袁美人が答えた。


「陛下。私は倉知府が怪我をなさるところを見たいわけではございません」


「勝つところなら見たいか」


 袁美人は返事をしなかったが、趙佶はその沈黙を同意と受け取った。


 そこへ進行役の宦官が皇帝のそばへ進み、次の試合へ出る男が、先ほど負った傷のため辞退を申し出たと告げた。


 趙佶は笑みを浮かべた。


「ちょうどよい。決まりだ。その者に代えて、倉知府を加えよ」


「陛下。私は出るとは申しておりません」


「朕が出よと申した」


 それで話は終わった。皇帝が自分の都合を聞くつもりのないことを悟った達也は、条件を1つだけ申し出た。


「相手が降参した時には、直ちに勝負を終わらせてください。また、倒れた相手をさらに打つことも禁じていただきとうございます」


「よかろう。そなたにも同じ決まりが適用される」


「ありがとうございます」


 達也は官服と冠を脱いで宦官へ預け、下に着ていた薄い衣の袖をまくって帯を締め直した。


 後宮の女たちから再びどよめきが起こった。官服を着て座っていた時には分かりにくかったが、達也の肩、胸、腕には、今も鍛えられた厚みが残っていた。


「鍛錬をしていない身体には見えぬぞ」


 趙佶が声をかけた。


「以前より減ったのでございます」


「何が減った」


「走る距離と、持ち上げる重さでございます」


「ならば、今日から増やせ」


 皇帝に命じられることではないと思ったが、達也は黙って円の中へ入った。


 ◇ ◇ ◇


 達也の最初の相手は、禁軍で相撲を教えている男であった。30歳を越え、達也より頭1つ分背が高く、首は太い。肩から腕までが一つの塊のように見えた。


「知府様。怪我をなさっても、お恨みにならぬよう願います」


「お互いさまです」


 合図が出ると、男は腰を低くして突進した。達也を円の外へ押し出すつもりである。


 達也は正面から受けず、半歩だけ身体を外した。男の腕を取り、その勢いを止めないまま腰を入れると、大きな身体が宙へ浮き、そのまま背中から土へ落ちた。


 男は息が詰まり、起き上がれない。勝負は数呼吸で終わった。


 庭にいた者たちは一瞬黙ったあと、一斉に歓声を上げた。


 達也は倒れた男へ手を差し出した。


「骨に異常はございませんか」


「分かりません。まだ息が……」


「しばらく仰向けのままでいてください」


 兵に男を任せると、達也は円の中央へ戻った。


 2人目は陝西から来た拳法家であった。この男は最初から近づかず、達也の周囲を回りながら拳と蹴りを繰り出した。達也が腕を伸ばせば離れ、追わなければ脇腹や脚を狙って踏み込んでくる。


 拳が達也の肩へ当たり、続く蹴りが腿へ入った。観客席から歓声が上がる。


 拳法家は手応えを得たのか、今度は顔を狙って深く踏み込んだ。達也は拳を受けながら手首をつかみ、相手が腕を引こうとした時には、もう一方の腕を腰へ回していた。


「離せ」


「離せば、また殴られるでしょう」


 達也は拳法家の身体を持ち上げ、そのまま振り回して円の外へ投げた。


 拳法家は土の上を転がったあと、すぐに立ち上がったが、両足はすでに円の外に出ている。2人目も達也の勝ちとなった。


 3人目は河東路の鉱山で働いていたという大男であった。腕の太さは達也を上回り、拳をまともに受ければ骨が折れそうに見える。


 大男が両腕を広げてつかみかかると、達也はその腕の下へ入り、片脚を払った。身体が傾いたところで腰帯をつかみ、肩へ担ぎ上げる。


「待て」


 大男が声を上げた。


「まだ投げておりません」


「それは分かっておる。分かっておるから、待てと申した」


「降参なさいますか」


 大男は肩の上から地面を見た。


「降参する」


 達也は投げずに大男を地面へ降ろした。観客席から笑いと拍手が起こった。


 4人目は河北の兵士であった。


 男は達也の投げを警戒し、腰をつかませようとしなかった。低い姿勢で脚を狙い、達也が手を伸ばすと肘で腕を打つ。達也は何度か攻撃を受けた。


 勝てると判断したのか、男は達也の両脚へ組み付いた。達也の身体が後ろへ押され、円の外まであと3歩となる。


 公主や皇子たちが席から身を乗り出し、簾の内側では袁美人が扇を握りしめていた。


 達也は後ろへ押されながら男の胴へ両腕を回し、腰を落として身体を抱えたまま持ち上げた。


「何を――」


 男の足が地面から離れる。


 達也は身体を半回転させ、男を円の中央へ投げた。背中から落とす直前に腕を引き、頭だけは土へ打ち付けないようにする。


 男はしばらく動けなかった。


「続けられますか」


 達也が尋ねると、男は仰向けのまま首を振った。


「無理だ。負けを認める」


 達也は4人を続けて退けた。


 熊殺しの噂を聞いていた者も、その多くは屶を使ったから熊を倒せたのだと思っていた。しかし今、達也は武器を持たず、全国から集められた4人の猛者を投げ飛ばしている。


 観客の目はすでに、開封知府を見るものではなくなっていた。


 ◇ ◇ ◇


 決勝の相手は、4つの勝負を勝ち抜いた石雄(シー・ション)という男であった。


 30歳前後で、身長は達也と大きく変わらない。しかし身体の厚みと動きには、これまでの4人とは明らかな違いがあった。拳、蹴り、投げのすべてを使い、力だけに頼らず、相手の重心が動く瞬間を見て攻撃している。


 石雄は円へ入ると、達也へ一礼した。


「4人を続けて投げた腕前、見事でございます」


「石殿も、すでに4人と戦っておられます」


「私は一戦ごとに休みました。倉知府は続けて戦っておられる。公平とは申せません」


「僕は途中から加えられました。それこそ公平ではございません」


「では、互いに言い訳はなしといたしましょう」


「分かりました」


 合図が出ても、石雄はすぐには動かなかった。達也も間合いを詰めず、相手の肩と脚を見る。


 先に踏み込んだのは石雄だった。


 最初の拳は達也の顔ではなく胸へ向かった。達也が腕で受けると、石雄はその腕をつかんで身体を引き寄せ、同時に膝を上げた。


 達也は腰をひねって膝を外したが、石雄の肘が頬へ入った。頭が横へ振られ、観客席から声が上がる。


 それでも達也は下がらず、石雄の肩へ身体をぶつけた。石雄も倒れず、達也の腰へ腕を回して片脚をかけ、投げようとする。


 2人は組み合ったまま円の中を動いた。


 達也が力を入れれば、石雄は正面から耐えずに身体をずらす。石雄が技へ入れば、達也は崩される前に腕力で体勢を戻した。


 これまでの相手とは違う。


 それでも、かつて戦った武松(ウー・ソン)ほどではなかった。武松の拳は、どこを狙うのか当たる直前まで読めず、投げを避けた次の瞬間には肘や膝が迫っていた。1つの攻撃を防いでも、すでに次の攻撃へ移っている。


 石雄の動きには、わずかな切れ目があった。達也には、その切れ目が見えた。


 石雄の拳を受けた達也は、あえて上半身をよろめかせた。勝機と見た石雄が前へ出て、達也の腰をつかみ、投げへ入ろうとする。


 達也は踏みとどまって石雄の右腕を抱え、そのまま身体を密着させて背後へ回った。


 石雄が肘を引いて達也の脇腹を打つ。それでも達也は腕を離さず、両腕を石雄の上半身へ回して持ち上げた。


 石雄の足が地面から離れた。


 達也は後ろへ投げたが、石雄は身体をひねり、背中から落ちることを避けた。片手と片膝をつき、すぐに立ち上がろうとする。


 達也はその背後へ回り、石雄の首へ腕をかけた。石雄も顎を引き、締められる前に達也の腕へ両手をかけたため、そこで力比べとなった。


 達也の脳裏に、かつて武松に首を締められた時の記憶がよみがえった。


 息ができなくなり、庭の色が消えていく中、月娘が欄干を越えて自分のところへ来ようとしていた。達也は武松の顎へ手をかけ、首を全力でひねった。骨が砕けても止めることができず、首は胴から離れ、武松の頭部だけが両手に残った。


 今、石雄の首が同じ位置にある。


 達也は締めていた腕を外し、左手で石雄の顎をつかみ、右腕を頭の後ろへ回した。


 石雄の顔色が変わった。


 達也の構えが首を締めるためではないと気付いたのである。このまま左右の腕へ力を入れられれば、首が回る。技を知っている者ほど、その先に何が起きるか分かった。


「待て!」


 石雄が叫んだ。


 達也は力を入れなかったが、手も離さなかった。


「降参する。私の負けだ」


「本当に、降参なさいますか」


「する。首を折られては敵わぬ」


 達也はすぐに両手を離した。


 石雄は前へ転がって距離を取り、自分の首へ手を当てて左右へ動くことを確かめた。


 兵が勝負の終了を告げた。


「勝者、倉達也(ツァン・ダーイエ)!」


 庭を揺らすほどの歓声が上がった。


 公主や皇子たちは席から立ち上がり、後宮の女たちも扇や袖で口元を隠すことを忘れて拍手していた。袁美人は両手を胸元で合わせ、張り詰めていた息を吐いている。趙佶も上機嫌で笑っていた。


 達也は歓声より先に石雄へ近づいた。


「首に痛みはございませんか」


「技をかける前に止められましたので、何ともございません。ただ、倉知府は初めから私を殺すつもりはなかったのでございますか」


「ございません」


「それなら、なぜあのような技を使われたのです」


「ほかに、確実に勝負を終わらせる方法が思いつきませんでした」


 石雄はしばらく達也を見た。


「もし私が降参しなければ、どうなさるおつもりでしたか」


「首が折れないところで止めるつもりでした」


「止められたのでございますか」


 達也はすぐには答えられなかった。


「恐らくは」


「今のお答えを聞くと、降参して正解だったようでございます」


「僕も、降参していただけて助かりました」


 それは達也の本心だった。


 石雄を殺さずに済んだ。武松の時とは違い、両方が生きたまま勝負を終えることができた。それだけで十分であった。


 ◇ ◇ ◇


 達也は官服を着直し、皇帝の前へ進んだ。頬には石雄の肘を受けた跡が残り、袖や裾には土が付いている。


「鍛錬をしておらぬと申したな」


 趙佶が尋ねた。


「以前に比べれば、いたしておりません」


「全国から集めた猛者を5人続けて倒しておきながら、よくそのようなことを申せる」


「皆、私が途中から加わるとは考えておられませんでした。戦い方を調べる時間もなかったのでございます」


「それは、そなたも同じであろう。ならば、そなたが強かったということだ」


 趙佶は上機嫌であった。


 快気祝いの宴は、袁美人が歩いて現れた時以上に格闘技大会で盛り上がっている。もっとも、その袁美人自身も達也の決勝を固唾をのんで見守っていた。


「倉達也。そなたは殿試で第一甲第一名となり、開封知府として政務を執り、後宮の病人を治した。そのうえ熊を倒し、今日の御前試合にも勝った」


「すべて別のことでございます」


「それをすべて行ったのは、同じそなたであろう。褒美を取らせる。望むものを申せ」


 達也は少し考えてから答えた。


「では、開封を守る兵を増やすお許しを頂きとうございます」


 皇帝の近くにいた重臣たちの顔が変わった。


「また兵か」


「現在お許しいただいている100人だけでは、火災、洪水、暴動が同時に起きた時に足りません。都を守るため、さらに人を集めとうございます」


「金銀も宝玉も求めず、兵を欲しがるのか」


「金銀や宝玉では、火を消すことも賊を捕らえることもできません」


「金銀で人を雇えばよいではないか」


「陛下のお許しがなければ、知府が勝手に兵を集めたことになります」


 趙佶は笑った。


「御前試合の勝者が求める褒美としては、あまりに堅い」


「私は開封知府でございます」


「今日は、その役目を忘れよと申したはずだ」


「忘れようといたしましたが、無理でございました」


 周囲から笑いが起きた。


 趙佶は杯を手にしたまま、しばらく達也を見ていた。


「よかろう。兵を増やすことについては、後日、数と費用をまとめて上奏せよ。ただし、今日の褒美はそれとは別に与える」


「別に褒美を頂けるのでございますか」


「倉達也を侯爵に封ずる」


 庭が静まり返った。


 達也自身も、すぐには言葉の意味を受け止められなかった。高官や貴族たちも互いの顔を見ている。


 21歳の若者が状元となり、開封知府へ任じられただけでも異例である。その男が後宮の女を治し、御前試合で優勝したことで、今度は侯爵へ封じられる。あまりにも速い出世であった。


「陛下。私は知府に任じられたばかりでございます」


「知府を辞めよとは申しておらぬ。官職はそのまま務めよ」


「侯爵に封じられるほどの働きをしたとは思えません」


「朕が、したと申している」


 殿試の時と同じであった。皇帝が決めた以上、達也が辞退しても聞くつもりはない。


「ありがたく、お受けいたします」


 達也は地面へ膝をつき、深く頭を下げた。


「陛下のご恩に報いるため、これまで以上に開封の政務へ励みます」


「そなたは侯爵となっても、書付の山へ戻るつもりか」


「明日までに決裁しなければならない訴状が残っております」


「御前試合に勝った夜くらい、宴を楽しめ」


「では、今夜だけは楽しませていただきます」


「今夜だけと申すところが、そなたらしい」


 趙佶は杯を掲げた。


「袁美人の快気と、新しい侯爵の誕生を祝う」


 楽が再び奏でられ、后妃、公主、皇子、親王、重臣、貴族たちが杯を上げた。簾の内側では、袁美人が達也へ向かって微笑んでいた。


 達也は大勢の前で5人の猛者を退け、熊殺しの名に恥じない腕前を示した。しかも今回は、誰も殺していない。決勝では武松を倒した時と同じ技へ入ったものの、力を加える前に石雄が負けを認めた。


 達也にとっては、侯爵の地位を得たこと以上に、その事実の方が大きかった。


 宴席に戻ると、先ほどまで達也の若さと席の位置に不満を示していた老官が、自分から杯へ酒を注いだ。


「倉侯。先ほどは失礼いたしました」


「まだ、その呼ばれ方には慣れません」


「すぐに慣れる。熊を倒し、後宮の病を治し、御前試合に勝った侯爵など、都に2人はおらぬ」


「2人いては困ります」


「なぜだ」


「そのたびに、僕まで試合へ出されます」


 老官は大声で笑い、その声を聞いた周囲の者たちも笑った。


 達也は、ようやく杯の酒へ口をつけた。


 後宮の女たち、公主、皇子、貴族、重臣が見守る中、開封知府・倉達也は御前試合を制し、侯爵となった。


 さらに、開封を守る兵の増員についても、皇帝から上奏する許しを得た。10年後に迫る金軍の侵攻へ備えるため、達也が集められる人員は、これまでの100人からさらに増えようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。