第6話(後編1)――「正室を替える男」
曹静蘭を最初の側室として迎えた倉達也は、開封府の政務と100人の隊の育成を進めていた。
一方、西門慶の屋敷では、2人の女が子を宿していた。
第6房の李瓶児と、正室の呉月娘である。
西門慶は、どちらも自分の子だと信じていた。
しかし、月娘の腹に宿っている子の父は、達也であった。
その秘密を知るのは、月娘ただ1人である。
西門家の庭から女の悲鳴が上がったのは、昼食を終えて間もない頃であった。
女中たちが駆けつけると、李瓶児が庭石の脇に倒れていた。片手で腹を押さえ、もう一方の手で地面をつかんでいる。
衣の裾には、赤い血がにじんでいた。
「瓶児様!」
女中が抱き起こそうとすると、瓶児は腹を守るように身を縮めた。
「触らないで……お腹が……」
声を聞いて、呉月娘が母屋から出てきた。
月娘も身重である。走ることはできなかったが、女中に腕を支えられながら庭へ急いだ。
「何をしているのです。戸板を持ってきなさい。揺らさずに部屋へ運ぶのです。医者にも使いを出してください」
月娘が指示すると、使用人たちが動き始めた。
瓶児の近くには、潘金蓮が立っていた。
金蓮は青ざめた顔で、倒れている瓶児を見ている。
「金蓮。何があったのです」
月娘が尋ねた。
「知りません」
「あなたはここにいたのでしょう」
「瓶児が勝手に転んだのです。私は何もしておりません」
「何もしていないとは聞いていません。転ぶ前に、何があったのですか」
「知りませんと言っているでしょう」
金蓮は踵を返し、自分の部屋へ戻っていった。
月娘は呼び止めなかった。
庭石のそばには、瓶児が履いていた片方の靴が落ちていた。その少し先には、踏み折られた花の枝と、引きちぎられた赤い組紐がある。
瓶児と金蓮が、ただ並んで庭を歩いていただけとは思えなかった。
◇ ◇ ◇
医者は瓶児の部屋へ入り、長い時間をかけて脈を診た。
薬が煎じられ、湯と清潔な布が何度も運び込まれた。
西門慶が屋敷へ戻ったのは、申の刻を過ぎてからである。
「子はどうなった」
部屋から出てきた医者へ、西門慶は真っ先に尋ねた。
医者は目を伏せた。
「残念ながら、お子は助かりませんでした」
西門慶の足が止まった。
「瓶児は」
「奥様のお命に別状はございません。ただし、血を多く失っております。当分は寝台を離れず、身体を休ませなければなりません」
「もう一度、子を宿すことはできるのか」
「今は何とも申し上げられません。まずは身体をお戻しになることが先でございます」
医者が帰ったあと、西門慶は瓶児の部屋へ入った。
瓶児は寝台で横になり、壁の方を向いていた。枕元には泣いた跡を拭うための布が置かれている。
「瓶児」
西門慶が呼んでも、瓶児は振り向かなかった。
「庭で何があった」
返事はない。
「金蓮と何かあったのか」
瓶児の肩がわずかに動いた。
「金蓮に押されたのか」
「違います」
瓶児は初めて答えた。
「では、何があった」
「私が転んだだけでございます」
「なぜ転んだ」
「足を滑らせました」
「金蓮がそばにいたそうではないか」
「おりました」
「何をしていた」
「何もしておりません」
西門慶は寝台の脇へ座った。
「俺の子が死んだのだ。何もなかったという話で済ませられると思っておるのか」
瓶児は壁を向いたまま、布団の端を握った。
「私が気をつけなかったためでございます」
「金蓮をかばっておるのか」
「誰もかばっておりません」
「ならば、こちらを向いて話せ」
瓶児は振り向かなかった。
やがて、小さなすすり泣きだけが聞こえ始めた。
西門慶はそれ以上問い詰められず、部屋を出た。
廊下では、月娘が待っていた。
「瓶児は何と申した」
「自分で転んだと言い張っておる」
「私にも、同じことを申しました」
「お前は、どう思う」
月娘は庭へ目を向けた。
「転ぶ前に、金蓮と争ったのでしょう」
「金蓮が押したのか」
「それは分かりません。ですが、庭にはちぎれた組紐が落ち、花の枝も折れておりました。言い争っただけでは、あのようにはなりません」
「なぜ瓶児は話さぬ」
「話せば、金蓮がどのような目に遭うか分かっているからではございませんか」
「俺の子を死なせたのだぞ」
「金蓮が殺したと決まったわけではございません」
西門慶は返事をせず、金蓮の部屋へ向かった。
◇ ◇ ◇
金蓮は部屋の中央へ引き出された。
西門慶は使用人から鞭を受け取った。
「旦那様。私は瓶児を押しておりません」
「押していないなら、何があったか申せ」
「何もございません」
「お前たちは庭で争っていたのであろう」
「少し話をしていただけでございます」
「何を話した」
「覚えておりません」
鞭が金蓮の肩を打った。
乾いた音が部屋へ響き、金蓮は床へ手をついた。
「白状せよ」
「本当に、押してはおりません」
「では、なぜ瓶児は転んだ」
「知りません」
西門慶は再び鞭を振るった。
金蓮の衣に細い裂け目ができ、その下の肌が赤く腫れた。それでも金蓮は、瓶児へ手をかけたとは認めなかった。
「瓶児が身重であることを知りながら、何をした」
「何もしておりません」
「嘘を申すな」
「旦那様は、初めから私がやったと決めておられるではありませんか。私が何を申しても、信じるおつもりはないのでしょう」
「瓶児と何を争ったかだけでも申せ」
金蓮は唇を噛み、顔をそむけた。
西門慶は鞭を持ったまま、荒い息をついた。
ここで金蓮を打ち殺しても、子は戻らない。瓶児が証言せず、金蓮も認めない以上、殺せば西門慶自身が罪を問われる恐れもある。
金蓮は人を怒らせる女であったが、西門慶が自分から屋敷へ入れた妻妾の1人でもある。
西門慶は鞭を床へ投げた。
「しばらく部屋から出るな。瓶児へ近づくことも許さぬ」
「承知いたしました」
「まだ隠すつもりか」
「私は押しておりません」
西門慶は金蓮の頬を打ち、部屋を出た。
結局、庭で何があったのかは分からなかった。
瓶児は自分を責め、金蓮は関わりを否定した。
月娘だけが、2人の間に何かあったことを確信していた。
◇ ◇ ◇
それから瓶児は、毎日泣いた。
目を覚ませば腹へ手を置き、そこに子がいないことを思い出して泣いた。女中が薬を持ってきても泣き、庭から子どもの声が聞こえても泣いた。
西門慶が新しい衣や簪を贈っても、瓶児は箱を開けようとしなかった。
「何か欲しいものはないか」
「ございません」
「身体が戻れば、杭州へでも蘇州へでも連れていってやる」
「どこへも行きたくありません」
「また子を作ればよい。医者も、二度と子を持てぬとは申しておらぬ」
瓶児は布団を頭までかぶった。
「同じ子は、もう戻ってまいりません」
西門慶は答えられなかった。
商いで損をすれば、別の取引で取り戻すことができる。女が怒れば、衣や宝飾品を与えれば機嫌が直ることもある。
だが、失われた子の代わりを買うことはできなかった。
西門慶は瓶児の部屋を出たあと、何日も酒を飲みながら考え続けた。
やがて、自分にできる最も大きな慰めを思いついた。
瓶児を正室にするのである。
正室となれば、流産した子も、単なる第6房が失った子ではない。西門家の跡取りになるはずだった子として扱われる。
瓶児も、自分が西門家で最も大切にされていると分かれば、悲しみから立ち直るかもしれない。
問題は、すでに正室がいることであった。
西門慶は、その問題もすぐに片づけられると考えた。
月娘を離縁すればよい。
◇ ◇ ◇
「月娘。お前と別れることにした」
西門慶は、夕食後に月娘を呼び出して告げた。
月娘は聞き間違えたと思い、西門慶の顔を見た。
「何とおっしゃいましたか」
「お前を離縁する。瓶児を正室にする」
「瓶児を慰めるためでございますか」
「そうだ。あれは子を失ってから、毎日泣いておる。正室へ上げれば、少しは心も落ち着くであろう」
「そのために、身重の私を離縁するのでございますか」
「お前が子を産むまで、西門家で面倒を見る。産んだあとも、暮らしに困らぬだけの銀は渡す」
「私の腹の子を西門家へ残し、私だけを追い出すおつもりですか」
「お前が育てたいなら、乳離れするまでは連れていてよい」
月娘の顔から血の気が引いた。
西門慶は、自分が何を言っているのか分かっていない。
月娘は西門家の正室として、店、屋敷、使用人、妻妾の暮らしを守ってきた。西門慶が女の家へ泊まり歩いても、商いで危ない橋を渡っても、家を空けずに支えてきた。
その年月を、瓶児を慰めるという理由だけで捨てようとしている。
「私は、何か妻として過ちを犯しましたか」
「犯しておらぬ」
「では、なぜ離縁されなければならないのです」
「瓶児を正室にするためだと申したであろう」
「正室にしなければ、瓶児を慰められないのでございますか」
「衣も簪も旅も要らぬと申す。ならば、俺が与えられる一番大きなものを与える」
「そのために、私からすべてを取り上げるのでございますね」
「お前にも銀は渡す」
「私は銀の話をしているのではございません」
「決めたことだ」
月娘は西門慶を見つめた。
「金蓮が瓶児を転ばせたと、証拠もないまま鞭で打ちました。今度は瓶児を慰めるため、何の落ち度もない私を離縁なさる。旦那様は、怒りや悲しみのたびに、別の女を罰しなければ気が済まないのでございますか」
「お前に説教されるために呼んだのではない」
「私も、離縁されるために西門家へ嫁いだのではございません」
「俺はこの家の主人だ」
「家を支えてきたのは私でございます」
「もう決めた。何を申しても変えぬ」
月娘は腹へ手を添えた。
怒りで身体が震えていた。
「分かりました。今夜は、これ以上お話しいたしません」
「承知したのか」
「承知したとは申しておりません」
月娘は立ち上がり、自分の部屋へ戻った。
その夜、ほとんど眠れなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、月娘は開封府衙へ使いを出した。
達也が西門家へ来たのは、昼を過ぎてからである。
月娘は客間へ通さず、自分の部屋へ達也を入れた。西門家へ来た達也と2人きりで話すのは、清河県で一夜をともにして以来であった。
「旦那様が、私を離縁すると申しております」
月娘は西門慶との話をすべて伝えた。
達也は黙って聞いていたが、瓶児を正室にするため月娘を追い出すと聞くと、表情が変わった。
「僕から旦那様へ話します」
「何をお話しになるのですか」
「月娘様を離縁してはいけないと説きます。瓶児様を慰めるなら、ほかの方法を考えます」
「旦那様は、誰が申しても聞きません」
「それでも話します。静蘭様にも相談し、瓶児様のためにできることを――」
「私は、そのような相談をするためにお呼びしたのではございません」
月娘が遮った。
達也は月娘を見た。
「では、なぜ僕を呼ばれたのですか」
「自分でも分かりませんでした。旦那様へ腹を立て、誰かに聞いていただきたくて、知府様をお呼びしました」
月娘はそこで言葉を切った。
「ですが、今、分かりました」
「何がですか」
「知府様は以前、私を旦那様から奪って妻にしたいとおっしゃいました」
「今も、その思いは変わっていません」
「静蘭様を迎えられたあとでも、ですか」
「変わりません。静蘭様も承知しています」
「正室ではなく、側室としてでもございますか」
「月娘様ご自身が、正室の座は皇女のために空けておくよう僕へ言われたのでしょう」
「申しました」
「僕は正室でなければ月娘様を要らないなどとは思っていません。あなたに、僕の妻になってほしいのです」
達也は月娘の前へ進んだ。
「西門慶と別れ、僕のもとへ来てください」
月娘は目を伏せた。
清河県で同じ求婚を受けた時には、断るほかなかった。
西門慶の妻でありながら達也と関係を持ったことが明らかになれば、達也は恩人の妻を奪った男となる。状元となっても官職を失いかねない。
腹の子についても、西門慶の子として産み、西門家で育てるつもりでいた。
達也の将来と子の命を守るには、それしかないと考えていた。
しかし、今は違う。
西門慶自身が月娘を離縁しようとしている。
月娘が別れを求めたのではない。達也が西門慶から奪ったのでもない。
西門慶が瓶児を正室にするため、何の落ち度もない月娘を追い出すのである。
この機会を逃せば、二度と達也の妻にはなれないかもしれない。
月娘は顔を上げた。
「本当に、私をお迎えくださるのでございますか」
「はい」
「この子も一緒でございます」
月娘は腹へ手を置いた。
達也はうなずいた。
「もちろんです。旦那様の子だからといって、置いてくる必要はありません。僕の家で育てます」
月娘は達也の言葉を聞き、しばらく目を閉じた。
「違います」
「何が違うのですか」
「この子は、旦那様の子ではございません」
達也は動かなかった。
月娘は腹を撫でた。
「知府様のお子でございます」
「僕の……」
「最後に旦那様と床をともにしたあと、月のものが一度来ました。その後、旦那様は瓶児や王六児のもとへ通い、私の部屋には来ておりません」
「では、あの夜に……」
「はい」
達也は月娘の腹を見た。
今まで西門慶の子だと思い、見ないようにしてきた腹である。
「なぜ、知らせてくださらなかったのですか」
「知らせれば、知府様は私と子を引き取ろうとなさったでしょう」
「当然です」
「開封知府の地位も、西門家から受けた恩義も捨てて、清河県へ戻ったかもしれません」
「だから、僕に何も言わず、西門慶の子として育てるつもりだったのですか」
「ほかに、あなた様と子を守る道はないと思っておりました」
達也は月娘の前へ膝をついた。
腹へ手を伸ばしたが、触れる直前で止めた。
「触れてもよいですか」
「はい」
達也は両手で、月娘の腹を包むように触れた。
衣の下で、かすかな動きがあった。
達也が息を止めた。
「今、動きました」
「あなた様が来られたことが分かったのでしょう」
月娘の目から涙が落ちた。
「私は、この子へ、お父様の邪魔をしてはならないと申しておりました」
「邪魔ではありません」
「分かっております。ですが、あの時は、そう申すしかなかったのでございます」
達也は立ち上がり、月娘を抱いた。
「僕と夫婦になってください。あなたも、この子も、僕の家へ来てください」
「正室の座は空けておくのでございます」
「分かっています」
「静蘭様の上へ立とうとも思っておりません」
「席の順は、静蘭様とも話します。ですが、あなたを軽く扱うつもりはありません」
「西門家とは縁を切ります。旦那様の商いにも、妻妾の争いにも、今後は関わりません」
「それで構いません」
「では、旦那様と話してまいります」
月娘は涙を拭った。
昨日までの怒りは消えていない。
だが、西門慶から正室の座を奪われる女の顔ではなくなっていた。
自分と子の行き先を、自分で決めた女の顔であった。
◇ ◇ ◇
月娘は西門慶と向き合った。
「離縁をお受けいたします」
西門慶は、月娘がようやく諦めたのだと思った。
「分かればよい。銀と屋敷については――」
「条件がございます」
「申してみよ」
「腹の子は、私が連れてまいります」
「俺の子だぞ」
「離縁した女に産ませる子でございます。瓶児を正室にし、その子を西門家の跡取りとしてお望みなら、私の子まで求める必要はないでしょう」
「それとこれとは別だ」
「では、私は離縁を承知いたしません」
西門慶は月娘をにらんだ。
月娘も視線を外さなかった。
「誰のもとへ行くつもりだ」
「倉知府様の側室となります」
「何だと」
「知府様は、以前から私を妻に迎えたいと、旦那様にもお話しになっていたはずでございます」
「俺が別れたその日に、倉殿のところへ行くつもりか」
「離縁を決めたのは旦那様でございます」
「倉殿と話をしたのか」
「はい。求婚をお受けいたしました」
西門慶は卓を拳で打った。
「俺の子を連れて、ほかの男へ嫁ぐというのか」
「生まれてくる子は、倉知府様の子として育てます」
「許さぬ」
「では、瓶児を正室になさることもできません」
「お前は、初めから倉殿のもとへ行きたかったのではないか」
「私は昨日まで、西門家の正室として生きるつもりでございました。その私を追い出すと決めたのは、旦那様でございます」
西門慶は言葉を失った。
「もう一つございます」
「まだあるのか」
「離縁したあとは、西門家と縁を切ります。商いにも、家の争いにも関わりません。旦那様も、私や子へ会いに来ないでください」
「俺に子へ会うなと申すのか」
「瓶児のために私を離縁なさるのでしょう。これからは瓶児を正室として大切になさればよろしいのです」
「お前は、それでよいのか」
「旦那様が決めたことでございます」
月娘の声に迷いはなかった。
「離縁の書付をお作りください。私の持参した財と、母方から受け継いだ品は返していただきます。西門家で増えた財産は求めません」
「銀も要らぬのか」
「知府様の家で暮らすのに困りません」
西門慶は、月娘が本当に自分のもとを去ろうとしていることを、そこで初めて理解した。
「月娘。瓶児が立ち直れば、いずれ――」
「一度、妻を捨てた男のもとへ戻るつもりはございません」
西門慶は月娘を見つめた。
月娘は長年、西門家の正室として家を守ってきた。西門慶がどの女のもとへ通っても、商いで何をしても、屋敷を出ようとはしなかった。
その月娘が、自分から縁を切ると言っている。
しかし、瓶児を正室にすると決めた以上、今さら撤回すれば、瓶児をさらに傷つけることになる。
西門慶は長い沈黙のあと、答えた。
「よい。子も連れていけ」
「ありがとうございます」
「倉殿に伝えよ。俺の妻を手に入れたからといって、商いまで自分のものにしたと思うなと」
「それは、ご自分でお伝えください」
月娘は立ち上がった。
「金蓮を殺してはなりません」
「最後まで、あの女の心配をするのか」
「瓶児は、金蓮に押されたとは一度も申しておりません。証拠もないまま殺せば、旦那様が人殺しになります」
「お前には、もう関わりのないことだ」
「はい。ですから、これが最後でございます」
月娘は西門慶へ一礼し、部屋を出た。
西門家の正室として西門慶と話したのは、それが最後となった。
◇ ◇ ◇
離縁の書付が作られた。
月娘は、自分が嫁入りの際に持ち込んだ衣、簪、玉、帳面、家具を選び、西門家のものと混じらないよう一つずつ確かめた。
金蓮は部屋から出ることを許されていなかった。
瓶児は寝台から起き上がれず、月娘が離縁されることを聞いて、また泣いた。
「私のために、奥様が追い出されるのでございますか」
瓶児が尋ねた。
「追い出されるのではありません。私は、自分で行き先を決めました」
「私が子を失ったから、旦那様が……」
「あなたのせいではありません」
「でも、私が正室になるために……」
「瓶児。正室になったからといって、失った子が戻るわけではありません。それでも旦那様が、その席をあなたへ与えると決めたのであれば、今度はあなたがこの家を守らなければなりません」
「私にはできません」
「初めからできる者はおりません」
月娘は、帳場の鍵と屋敷の倉の帳面を瓶児の枕元へ置いた。
「身体が戻るまでは、孟玉楼に助けてもらいなさい。使用人の給金と米だけは遅らせてはなりません。旦那様が持ち出した銀も、必ず帳面へ書かせるのです」
瓶児は泣きながら、月娘の袖をつかんだ。
「行かないでください」
「もう決めたことでございます」
「私は、正室になりたいなどと申し上げておりません」
「分かっております」
月娘は瓶児の手を外さず、その上へ自分の手を重ねた。
「金蓮と何があったのか、私にも話せませんか」
瓶児は目を伏せた。
「私が転んだのでございます」
月娘はそれ以上尋ねなかった。
「身体を治しなさい。亡くした子のためにも、まずあなたが生きるのです」
瓶児の部屋を出ると、庭には達也が待っていた。
達也の隣には、静蘭も立っている。
静蘭は月娘へ近づき、頭を下げた。
「お迎えに参りました」
「静蘭様。ご迷惑をおかけいたします」
「月娘様には、私を知府様のもとへ行かせていただきました。今度は私が、月娘様をお迎えする番でございます」
達也が月娘の荷を持とうとすると、使用人たちが慌てて止めた。
「知府様がお持ちになる物ではございません」と月娘。
「僕の妻の荷です」
「妻となる前から、言うことを聞かれないのでございますね」
「月娘様にだけは言われたくありません」
静蘭が2人を見て、かすかに笑った。
西門慶は母屋の戸口に立っていた。
「倉殿」
達也が振り返った。
「はい」
「月娘を泣かせたら、連れ戻すぞ」
「旦那様が泣かせたから、僕が迎えるのです」
西門慶は顔をしかめた。
「それと、商いの話は別だ」
「もちろんです。清算するものは清算します。ですが、月娘様を西門家の争いへ戻すことはありません」
「俺の子を、お前の子として育てるそうだな」
達也は月娘の腹を見た。
「はい。僕の子として育てます」
月娘だけが、その言葉の本当の意味を知っていた。
西門慶は鼻を鳴らし、屋敷の中へ戻った。
月娘は西門家の門を出た。
嫁いでから守り続けた屋敷を振り返ることはなかった。
◇ ◇ ◇
婚礼は、静蘭の時と同じく大きく行わなかった。
表向きには、西門慶が李瓶児を正室へ上げるため月娘を離縁し、以前から月娘を慕っていた達也が側室として迎えたことになった。
月娘が達也と関係を持ったのは、離縁より前である。
腹の子も達也の子である。
しかし、その事実は誰にも明かさなかった。
西門慶は、自分の子を達也へ渡したと思っている。
屋敷の者たちも、達也が恩人の子まで引き取ったと考えた。
静蘭は事情を尋ねなかった。
月娘が達也の屋敷へ移った夜、静蘭は自分で寝室を整えた。
「今夜は、月娘様のお部屋でお休みください」
静蘭が達也へ告げた。
「ですが、月娘様は身重です」
「同じ寝台でお休みになるだけでもよいのでございます」
「静蘭様は、よいのですか」
「月娘様は西門家を離れ、長年守った家も正室の座も失われました。今夜、お1人にしてはなりません」
月娘は静蘭を見た。
「ありがとうございます」
「ただし、知府様を甘やかしてはなりません。明日の朝は、いつも通り府衙へ送り出してください」
「承知いたしました」
「2人で僕の扱いを決めないでください」
「では、ご自分で明朝起きられますか」と静蘭。
「起きられます」
「景仁様も、同じことを申しておりました」
達也は再び黙った。
月娘の口元に、久しぶりの笑みが浮かんだ。
その夜、達也は月娘の隣へ横になり、腹の子の動きを何度も確かめた。
「本当に、僕の子なのですね」
「はい」
「男の子でしょうか。女の子でしょうか」
「まだ分かりません」
「どちらでも構いません」
「西門家では、旦那様の子として育てるつもりでございました」
「もう、その必要はありません」
「知府様のお子として育てれば、出生の時期を疑う者が出るかもしれません」
「西門慶の子を承知で引き取ったことにします。外では、それで通します」
「ご自分の子なのに、他人の子を引き取ったと言われるのでございますよ」
「僕たちが本当の父母だと知っていれば十分です」
月娘は達也の手を取り、自分の腹へ重ねた。
腹の中で、子が動いた。
「この子も知っております」
達也は月娘を抱き寄せた。
かつて月娘は、達也の将来を守るため、自分の子を西門慶の子として育てようとした。
西門慶が月娘を離縁したことで、その必要はなくなった。
李瓶児の流産を慰めるために思いついた正室の入れ替えは、西門慶が最も手放すつもりのなかった女を、達也のもとへ送り出す結果となった。
こうして呉月娘は、倉達也の2人目の側室となった。
達也の正室の座は、なお空いている。
静蘭も月娘も、その座を求めなかった。
2人は、いずれ達也が皇女を正室へ迎え、皇室との結び付きを得ることを望んでいた。
李瓶児は、西門家の新しい正室となった。
潘金蓮は部屋へ閉じ込められたまま、瓶児を押したとは認めなかった。
瓶児も、庭で何があったのかを語らなかった。
そのため、子を失った本当の理由は、誰にも分からなかった。
ただ一つ明らかなのは、西門家で失われた子によって、もう一人の子が実の父とともに育てられることになったという事実である。
第6話後編1では、西門慶の第6房である李瓶児が、庭で転倒して流産した。
瓶児は、転ぶ前に何があったのかを語らなかった。しかし、庭には踏み折られた花の枝と、引きちぎられた組紐が残り、そばには潘金蓮がいた。
呉月娘は、瓶児と金蓮が争った末に転倒したのではないかと疑った。
西門慶は金蓮を鞭で打ち、白状するよう迫った。だが、金蓮は瓶児を押していないと言い張り、瓶児も金蓮を責めなかった。証拠がないまま金蓮を殺すこともできず、西門慶は追及を諦めた。
流産後の瓶児は、失った子を思って毎日泣き続けた。
衣や簪、旅では慰められないと知った西門慶は、瓶児を正室へ上げることを思いつく。そのため、何の落ち度もない月娘を離縁すると決めた。
月娘は激しく怒り、達也を西門家へ呼んだ。
達也は西門慶を説得して事態を収めようとするより先に、月娘へ再び求婚した。静蘭を側室として迎えたあとも、月娘を妻にしたいという思いは変わっていなかった。
月娘は、西門慶自身が離縁を決めた今なら、達也の官歴や恩義を損なわずに妻となれることに気づいた。
そして、腹に宿っている子が達也の子であることを、初めて本人へ明かした。
月娘は、生まれてくる子を連れていくこと、その子を達也の子として育てること、離縁後は西門家と縁を切ることを条件に、西門慶との別れを承諾した。
西門慶は胎児を自分の子だと信じたまま、月娘と子を達也へ渡した。
こうして呉月娘は、曹静蘭に続く達也の2人目の側室となった。
達也の正室の座は、皇女を迎えるため、空けたままとなっている。




