第6話(中編2)――「帰らぬ夫」
『北宋の悪女、1986年の男』
第一章――「北宋の悪女、追う男たち」
第6話(中編2)――「帰らぬ夫」
(1117年夏、北宋・開封府外城)
崔景仁は、達也の前で庭を3周した。足取りは病に倒れる前ほど速くないが、途中で立ち止まることも、咳き込むこともなかった。額の汗を袖で拭い、自分の足で客間へ戻ると、達也に胸と背の音を確かめてもらった。
血の混じった痰は2か月以上出ておらず、寝汗もなくなっていた。食欲とともに体重も戻りつつある。達也は、決められた薬を最後まで飲み終えれば治療を終え、その後も熱や咳が戻らないか見ていくと説明した。仕事へ戻ることも認めたが、初めから無理をしないよう念を押した。
傍らで聞いていた妻の曹静蘭が、そこで口を挟んだ。
「知府様。仕事より先に、酒を飲んでもよいかとお尋ねください。この人は昨夜、祝いだと申して酒壺を出させました」
景仁は杯に2杯だけだと言い張ったが、静蘭は3杯だったと訂正した。最後の1杯は息子の文亮が残したものだと弁解すると、息子へ出した酒まで飲んだのなら、なお悪いと返された。助けを求めるように達也を見る景仁へ、達也も薬を飲んでいる間は控えるよう告げた。
「病が治れば、家でも私の立場が戻ると思っておった」
「病になる前から、薬と身体のことは私が決めておりました」
達也は2人のやり取りに笑った。病床に伏していた頃の崔家には、いつ景仁が死ぬか分からない重さがあった。それが今では、夫婦で酒の量を言い争っている。20歳になる息子の崔文亮も、父が庭を歩けるまで回復したことを喜んでいた。宮中にいる養女の崔麗華は容易に家へ戻れなかったが、静蘭の手紙によって養父の回復を知っていた。
診察を終えた達也は、治療が済んだあとに頼みたい仕事があると切り出した。清河県から開封へ呼び寄せた商人、西門慶を手伝ってほしいのである。
西門慶は店や倉、荷車を扱う商人だけでなく、妓楼や賭場にも広い人脈を持っていた。開封府が抱える100人の隊を維持するには、府の支出だけに頼らぬ収入が要る。そのために商いを大きくするのだと、達也は説明した。
「西門慶は銭を作ることには長けていますが、銭を残すことが苦手です。利益を土地、倉、店へ替え、毎月どれだけ入るかを明らかにしてください」
軍需の帳簿を扱っていた景仁には、経験を生かせる仕事だった。達也はさらに、100人はあくまで火事や暴動、河川工事、賊の取り締まりに備える隊であり、誰が聞いているか分からない場所で余計な呼び方をしないよう言い添えた。
景仁は承知して、嬉しそうに胸を張った。病のため職を退き、家族に支えられて寝台で過ごしてきた男である。再び帳面を任され、自分の働きが都を守る力になると聞けば、断る理由はなかった。
静蘭だけは、すぐには賛成しなかった。西門慶の人柄を尋ね、達也が商才や顔の広さを挙げても、それだけかと問い返した。達也は少しためらった末に、女好きであることを認めた。妻妾が6人いると聞いても静蘭は驚かなかったが、他人の妻にも手を出すと知ると、夫へ顔を向けた。
「あなたは帳場だけにいてください」
「私は41歳だぞ。子どものように申すな」
「41歳になるまで女遊びをなさらなかったから、申しているのでございます」
景仁は、今さら覚えるものかと笑った。その言葉を、達也も静蘭も信じた。
◇ ◇ ◇
景仁が西門慶の仕事を始めてから、最初の1か月は何の問題もなかった。毎朝、崔家から西門家の新しい屋敷へ通い、前日の売上と支出を確かめた。避妊具と精力薬は帳面を分け、誰へ何個、何錠を渡したかを記録する。薬を求めて近づいてきた富商からは、所有する倉や荷車、店ばかりか、借財についても聞き出した。
西門慶が高値で売り、景仁が利益を残すという組合せは、達也の予想以上にうまく働いた。ある妓楼の主人が避妊具を50個欲しがっていると西門慶が持ちかけた時も、景仁は前回渡した10個の代金が半分しか納められていないことを見逃さなかった。先に品を渡せば次は倍の値で買うという西門慶に、まず残金と、新たな50個分の半金を取り立てるよう求めた。
「知府様から、旦那様の口約束だけを信用するなと命じられております。女と銭については、帳面で確かめよとのことでございます」
「月娘と同じことを申す」
西門慶は不満を口にしながらも、決められた通りに銀を取り立てた。妓楼の主人から全額が届くと、今度は景仁をその店へ連れていった。帳面だけでは客の欲しがるものは分からないから、商いの場を見せてやるというのである。
通された座敷には料理と酒が並び、3人の女が待っていた。景仁は女を隣へ座らせず、酒にも口をつけなかった。避妊具を使った客の評判や、病を恐れる客がどれほどいるか、女たちが何に困っているかを順に尋ねていく。その様子を向かいで眺めていた西門慶は、妓楼へ来ても役所の取り調べをしていると笑った。
「商いの話は、相手を喜ばせてから聞くものだ」
西門慶が合図すると、若い女が景仁の杯へ酒を注いだ。景仁は病み上がりだから控えていると断ったが、女はその病のことを知っていた。知府の薬で死病から戻った男の話を、西門慶が何度も聞かせていたのである。
「生きて戻られたお祝いに、1杯だけお飲みください」
痩せた手へ触れられても、景仁は引かなかった。その夜は杯3杯で帰ったが、2度目には自分から女の隣へ座り、3度目には西門慶が先に帰っても座敷に残った。
病に倒れる前の景仁は、軍需の帳簿を扱い、仕事が終われば家へ戻る男だった。静蘭以外の女と親しく話した経験はほとんどない。妓楼の女たちは話を遮らず、病で痩せた身体を笑うこともなかった。役所にいた頃の昔話にも、感心した顔で耳を傾けてくれた。銭を払って得る言葉だとは分かっていたが、やがて、それを承知で通うようになった。
◇ ◇ ◇
秋になる頃には、景仁が家で夕食を取る日は月の半分まで減っていた。西門慶との商談、倉の持ち主との面会、妓楼の主人から帳面を受け取る用事と、理由は毎晩変わったが、衣についた香の匂いは同じだった。
静蘭も初めのうちは責めなかった。病床で半年を過ごした夫が外へ出られるようになり、仕事を任され、酒を飲む。少しの遊びなら、回復した喜びの一つだと考えようとした。しかし、景仁は夜だけでなく、朝になっても帰らなくなった。西門家の帳場に泊まったという夜に使いを出してみると、そこにも姿はなかった。
さらに10日後、景仁は外城に小さな家を借り、妓楼にいた蘇香玉という23歳の女を住まわせた。家賃と家具に使われた金を崔家の帳面で確かめた静蘭は、久しぶりに帰った夫へ、妾を置いたのかと尋ねた。
景仁は、香玉が妓楼から出たがっていたから助けたのだと答えた。家も衣も与え、以前よりよい暮らしをさせているという。相談は要らないと思ったのかと静蘭が問うと、妾を持つたびに正室の許しを求める男がいるものかと言い返した。
静蘭は夫の顔を見つめた。病床で息をするたびに咳き込み、自分の手を握っていた男と同じ顔である。それなのに、口から出る言葉は以前の景仁のものではなかった。香玉を崔家へ迎えるつもりかと尋ねても、お前がそのような顔をするから別に家を借りたのだと返された。
「家へお帰りください。妾を持ったことだけを責めているのではございません。文亮も、父上と食事をしたのがいつであったか思い出せなくなっております」
仕事が忙しいのだという弁解に、女の家へ泊まることを仕事とは呼ばないと静蘭は答えた。景仁は卓をたたいた。
「私が死にかけていた時は、外へ出て身体を動かせと申したではないか。今度は帰れと申す。お前は私を思い通りにしたいだけだ」
静蘭は、病を治すために歩くことと妓楼へ泊まることは違うと諭した。もう病人ではないという夫に、それなら夫として、父として振る舞ってほしいと求めたが、景仁は立ち上がった。
「家へ戻れば、お前は私を病人か子どものように扱う。香玉は、私を1人の男として見てくれる」
静蘭が黙ると、景仁はそのまま家を出た。翌朝になっても戻らなかった。
◇ ◇ ◇
その3日後、静蘭が府衙を訪ねた。達也は執務室へ通して人払いをし、景仁の身体に何かあったのかと尋ねた。静蘭は膝の上で両手を重ね、薬のおかげで元気になったと答えた。
「元気になりすぎたのでございます」
夫が妓楼へ通い、香玉を身請けして外城に家を借りたこと、崔家へ戻らず、息子とも顔を合わせなくなったことを、静蘭は順に話した。達也は西門慶の仕事を頼んだ自分のせいだと口にしたが、静蘭は首を横に振った。
「いいえ。頼まれた仕事をするか、女遊びを覚えるかは、亭主が決めたことでございます」
達也は景仁と話し、やめさせると約束した。ただ、そう言い切ったほどの自信はなかった。
西門家の帳場へ行くと、景仁は避妊具の売上を記した帳面を調べていた。仕事を怠けているわけではなく、商人との交渉は以前より巧みになり、西門慶が見落とした貸金の利息まで取り立てていた。今夜は崔家へ帰ってほしいと達也が頼むと、景仁は静蘭が告げ口をしたのかと顔を曇らせ、帳面に不足はないと言った。
「仕事の話ではありません。奥様と文亮が待っています。妾を持つなとは申しません。ただ、家族を捨てるような暮らしは改めてください」
景仁は、夫婦のことまで知府に命じられる筋合いはないと答えた。病を治してもらった恩も、仕事を与えられた恩も忘れていない。そう断ってから筆を置いた。
「ですが、私は病床へ戻りたくないのでございます」
家へ帰れば、薬を飲め、酒を控えよ、早く寝よ、身体を冷やすなと言われる。それに比べて香玉の家では、自分が生きていることを喜んでくれるのだという。静蘭は夫を生かすために言っていたのだと達也が説いても、景仁は承知していた。
「分かっております。分かっているから、息が詰まるのでございます」
達也は言葉を失った。景仁はその夜だけ崔家へ帰ると約束し、実際に帰ったものの、翌朝には香玉の家へ戻ってしまった。その後も達也は3度説得し、景仁はそのたびに静蘭と同じ食卓につき、文亮の勉学について尋ねた。しかし、2日か3日たつと、また妓楼か香玉の家へ戻っていった。
西門慶も、女は逃げないのだから、たまには家へ帰れと注意した。景仁は、西門慶にだけは言われたくないと反発した。自分は妻妾を同じ屋敷で養っているという西門慶に、他人の妻の家へも通っているではないかと切り返した。
「それは別の話だ」
西門慶はそう言ったが、景仁を従わせることはできなかった。
◇ ◇ ◇
冬の初め、静蘭は再び府衙へ来た。前回よりも痩せて見えた。景仁は18日も帰っていないという。達也は連れ戻すと申し出たが、戻ってもまた出ていくと静蘭は答えた。その声には、怒りよりも疲れがにじんでいた。
「私は、何を間違えたのでございましょう」
何も間違えてはいないと達也が答えても、静蘭は病の時にもっと優しくすればよかったのかと問うた。薬を飲ませ、窓を開け、痰を捨て、身体を拭いた。嫌がっても食べさせたのは助けたかったからなのに、夫には息が詰まると言われた。病が治れば以前の暮らしへ戻れると思っていたのだと話すうち、声が途切れた。
「病が治る前には、あの人が生きてさえいればよいと思っておりました。今は、帰ってこないなら、いっそ治らなければよかったと考えることがございます」
静蘭は自分の言葉を恐れたように唇を結んだ。そんなことを考える自分が恐ろしいという彼女に、達也は、考えただけで一度も夫の薬を捨てはしなかったと答えた。
「知府様は、いつも私を悪くないとおっしゃいます。それでは、私はどこへ怒ればよいのでございますか」
達也には答えられなかった。静蘭の目から涙が落ちるのを見て卓を回り、前へ膝をついて懐の布を差し出した。しかし静蘭は受け取らず、達也の胸元をつかんだ。
夫を西門慶へ預けたのも、病を治したのも達也だった。彼を恨めば少しは楽になれるのだろうかと静蘭が問うと、達也は恨んでも構わないと答えた。静蘭は首を横に振った。
「できません。あなた様は、あの人を助けてくださいました。何度も家へ帰るよう説いてくださいました。それでも、私はあなた様へ会うたび、亭主より先に、あなた様が来てくださったと思ってしまいます」
達也は胸元をつかむ手に触れた。今の静蘭は心が弱っており、そのような時に抱くべきではないと口にした。静蘭も分かっていると答えたが、顔を上げると、今夜はあの家へ1人で帰りたくないと言った。
達也は手を離すべきだった。景仁は生きており、静蘭はその正室である。自分は景仁の病を治して仕事を与えた恩人であり、夫婦の相談を受けた知府でもあった。静蘭を抱けば、どの立場にも背く。それでも、手を離せなかった。
「あとで、僕を恨みませんか」
「恨むのであれば、自分も一緒に恨みます」
静蘭は自分から唇を重ねた。達也は一度身体を離し、本当によいのかと確かめた。静蘭は、よくないことは承知していると答えた。
「それでも、今は私を1人にしないでください」
達也は執務室の奥にある休息の間へ静蘭を通した。その夜、静蘭は崔家へ帰らなかった。
翌朝、静蘭は衣を整え、鏡の前で髪を結い直していた。達也が後悔しているかと背後から尋ねると、しばらく振り向かないまま、していると答えた。
「ですが、昨夜ここへ来たことを、なかったことにはいたしません」
景仁とはもう一度話すと達也が言うと、静蘭は、夫を連れ戻すために抱いたのか、それとも哀れんだのかと問いかけた。達也はどちらも否定し、その肩へ手を置いた。
「僕は、あなたを欲しいと思いました」
静蘭は鏡の中で達也を見つめた。その言葉を喜んではならないと口にすると、達也も、言ってはならない言葉だったと答えた。
「もう、遅うございます」
静蘭は肩に置かれた手へ、自分の手を重ねた。
その日からも、2人は人前で以前と同じように振る舞った。静蘭は夫の帰りを待つ正室であり、達也は夫婦を案じる知府だった。2人の間に起きたことは、景仁にも文亮にも、宮中にいる麗華にも明かさなかった。それでも、景仁が香玉の家へ泊まる夜に、静蘭が府衙を訪ねることは増えていった。
◇ ◇ ◇
景仁が死んだのは、年が明ける前だった。
夜半、達也の官舎を訪ねた捕吏は、景仁が内城の妓楼、春彩堂で斬られたと報告した。医者が着いた時にはすでに息がなく、下手人である黒虎幇の者3人は、その場で捕らえられたという。
春彩堂は景仁が近頃入り浸っていた妓楼だった。黒虎幇は近くの賭場や妓楼から用心棒代を取り、女の身請けにも口を出していた一団である。
達也が現場へ着くと、座敷の敷物には酒と血が広がっていた。景仁は胸と腹を刃物で刺され、壁際へ仰向けに倒れていた。少し離れた場所で、若い女が肩を震わせている。事情を尋ねると、女は泣きながら話し始めた。
景仁が女を呼んだところへ、黒虎幇の杜三が入り、自分が先に頼んでいたと言い出した。景仁が銀を払えばよいのだろうと答えると、杜三は、役人上がりが西門慶の後ろで威張るなと罵った。景仁も、黒虎幇など開封府に訴えれば潰せると言い返し、杯を投げた。そこで杜三が刀を抜き、ほかの2人も加わったのだという。
捕らえられた杜三は、酒の残った顔で達也を見上げた。女1人のことで殺すつもりだったのかと問われても、景仁が顔へ杯を投げたのだとしか言わなかった。達也が、刀を持たない男を3人で刺したのだなと確かめると、杜三は悪びれずに答えた。
「あの男は、西門慶と開封府が後ろにいるから、何をしても許されると思っておった。思い知らせただけだ」
達也は捕吏に命じ、3人を別々の牢へ入れさせた。証言を合わせられぬよう、今夜事情を話した者同士を会わせることを禁じ、春彩堂の主人から女、使用人、客に至るまで、全員の名前を控えるよう指示した。
その間にも、黒虎幇の者が外へ集まっているという報告が入った。
「府の隊を出す。黒虎幇の賭場と住まいを囲め。抵抗する者は捕らえよ」
新たに組織した100人の隊を初めて動かした相手は、北方から攻めてくる金軍ではなかった。女を巡る争いで景仁を殺した、開封のならず者たちだった。
夜が明けるまでに、黒虎幇の頭目と主だった者は捕らえられた。賭場からは刀や盗品に加え、役人へ渡す銀を記した帳面も見つかった。
明け方に春彩堂へ来た西門慶は、景仁の遺体を見て、しばらく何も言わなかった。やがて、自分が連れ歩いたためだと漏らした。達也は最初に仕事を頼んだのは自分だと答えたが、西門慶は女遊びを教えた責任を口にした。
「景仁様は子どもではありません。最後に女を選び、争いを始めたのは本人です」
そう答えた達也は、静蘭には自分から知らせると告げた。
◇ ◇ ◇
静蘭は達也の話を最後まで聞いた。泣き叫ぶことも、達也を責めることもなかった。夫は最後まで家へ帰らず、香玉の家ですらない別の妓楼で女を争ったのだと確かめると、目を閉じた。
「私は、悪い女でございます。亭主が死んだと聞いたのに、最初に思ったのは、これでもう帰りを待たなくてよい、ということでございました」
達也は、十分に待ったのだと答えた。静蘭はそれでも、夫が生きている間に達也へ身を任せたことを口にした。
「それは僕も同じです。罪があるなら、僕にもあります」
静蘭はそこで初めて涙を流した。
景仁の葬儀は、崔家とかつての同僚、西門家の者たちによって営まれた。西門慶は棺と墓地、僧侶の費用をすべて負担し、香玉にも暮らしを立て直せるだけの銀を渡した。自分が悪い遊びへ連れ込んだ責任を、銀で償おうとしていた。
静蘭は正室として葬儀を取り仕切り、文亮は嫡男として父の棺に付き添った。達也も開封知府として参列したが、宮中にいる麗華は戻れなかった。女官となった身では、養父が急死したからといって自由に崔家へ帰ることはできない。
麗華は人前で涙を見せず、夜になってから帳面を開き、最初の頁に記された崔景仁の名を指でなぞった。崔家の娘として迎え、後宮へ入るための身分を与えてくれた養父である。それでも、外へ出ることも、葬儀への参列も求めなかった。養父の死によって自分まで目立てば、童貫の助けを得て崔家の養女となった事情を調べられる恐れがあった。
静蘭も、無理に戻るよう求めなかった。娘へ送った手紙には、景仁が賊に殺されたことと、文亮が無事に葬儀を務めたことだけを記した。達也との関係は書かず、2人が互いの夜を知っていることは、誰にも明かさないままだった。
◇ ◇ ◇
(1118年春、北宋・開封府外城)
景仁の死から100日余りが過ぎた。静蘭は華美な衣を避け、崔家で文亮と暮らしていた。
西門家から運ばれてきた景仁の帳面には、避妊具と精力薬の売上だけでなく、倉や店、荷車、土地への出資が細かく記されていた。官人の娘として育った静蘭は書と計算を学び、夫の存命中から崔家の帳面を管理していた。西門慶が3日に一度送り込む番頭から売上と支出の報告を受け、景仁の残した書き方に従って、利益の一部を銀で残し、残りを土地と倉へ替えていった。
記録が足りなければ、西門慶本人も呼び出した。客のもてなしに使ったという銀12両について尋ねた時、西門慶は、倉知府から商いを任されているのだと不満を示した。
「だからこそ、銀12両の行き先をお尋ねしております」
静蘭は引かず、誰をどこでもてなしたのかを確かめた。それまで書くのかという西門慶に、景仁も書かせていたと答えると、ようやく妓楼と客の名が出てきた。
景仁を失っても商いは続き、その利益で開封府の100人は米と給金を受け取っていた。達也はその様子を確かめたあと、崔家の客間で静蘭と向き合った。文亮は府衙へ出ており、家にはいなかった。
「静蘭様。僕の妻になってください」
静蘭は驚かなかった。正室として迎えるつもりなのかと確かめ、達也がうなずくと、ためらわずに断った。
言葉を失った達也に、嫌いになったのではないと静蘭は説明した。慕っているからこそ、自分が正室であってはならないという。誰を正室にするかは自分が決めることだと達也が言っても、静蘭は考えを変えなかった。
「今のあなた様お1人のことだけであれば、その通りでございます。ですが、あなた様は、皇帝陛下から状元に選ばれ、開封を任されました。これから都で力を得ようとなさるのでしょう。そのためには、陛下のおそばへ、今より深く入らなければなりません」
静蘭が勧めたのは、皇女を正室に迎えることだった。皇族の婿となれば、達也を害する者は、皇帝の娘婿を害することになる。これから朝廷で生きていくうえで、それほど強い後ろ盾はないという。
「皇帝の娘と結婚できると決まったわけではありません」
「決まっていないからこそ、正室の座を空けておくのでございます」
愛する女を正室にしたいという達也に、静蘭も、慕っているからこそ言っているのだと答えた。正室にはならないと重ねて告げ、自分のことは忘れてほしいとまで言った。
達也は忘れることなどできず、承知してもらえるまで待つつもりだった。しかし、静蘭は一生首を縦には振らないと答えた。声は静かだったが、決意を変える様子はなかった。
崔家を出ても納得できなかった達也は、その足で西門家の屋敷へ向かった。相談した相手は西門慶ではなく、正室の呉月娘だった。
◇ ◇ ◇
求婚を断られたと聞くと、月娘は静かに茶を置き、正室に迎えると言ったのだろうと尋ねた。達也が静蘭の言葉を伝えると、月娘もその考えが正しいと答えた。
「知府様お1人の妻であれば、お好きな方を正室になさればよろしいでしょう。しかし、あなた様は開封知府であり、陛下の近くで、さらに大きな役目を得ようとなさっております」
月娘も、皇女を迎えることが達也の身を守ると考えていた。開封府で新しい隊を抱えるにしても、皇女と都を守るためだと説明しやすくなる。達也が今後さらに大きな力を持つには、皇室との結び付きが役立つというのである。
達也は金国が北宋を滅ぼす未来を月娘へ話していない。軍を作るために西門慶の商いを利用していることも、詳しくは明かしていなかった。月娘が知るのは、開封府の治安を立て直すために100人を集め、その給金を確保しようとしていることだけだった。それでも、達也が今より大きな力を必要としていると見抜いていた。
「僕は奥様を西門慶から奪い、正室にしたいと、旦那様にも奥様にも伝えました。その考えは変わっていません」
月娘は承知していたが、それでも正室にはならないと答えた。将来、西門慶と別れて達也のもとへ行く日が来ても、側室で構わないという。
「下へ入るのではございません。あなた様の正室の座を、必要な方のために空けておくのでございます」
皇帝の娘を愛せなかったらどうするのかと達也が尋ねると、月娘は、正室へ迎えることと最も愛することは同じではないと答えた。
「私は、知府様が私を愛してくださるのであれば、席の順まで求めるつもりはございません」
月娘は茶を飲み、静蘭を側室として迎えるよう勧めた。静蘭は正室にならないと言ったのであって、達也の妻になることまで拒んだのではない。忘れてほしいと告げたのも、達也が正室にすると言い張ったためだという。
達也は月娘から説いてもらえないかと頼んだが、自分で話すよう返された。一度は正室にすると告げた女へ、今度は側室になってほしいと求めることが、達也には都合のよい話に思えた。
「正室の座ではなく、静蘭様ご自身を求めているのであれば、失礼ではございません。それとも、正室でなければ、静蘭様は要らないのでございますか」
そんなことはないと達也は答えた。静蘭も月娘も、正室の座を欲しがってはいなかった。自分より先に、その座を皇帝の娘との結び付きに使おうと考えている。達也はしばらく黙ってから、月娘へ顔を向けた。
「僕が皇帝の娘を正室へ迎えたあとでも、奥様を旦那様から奪いに行きます」
「その時は、また旦那様へお話しください」
止めないのかと尋ねる達也に、止めてもやめないだろうと月娘は答えた。口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「ですが、今は静蘭様をお1人にしてはなりません」
◇ ◇ ◇
翌日、達也は再び崔家を訪ねた。正室に迎えるという話を取り下げ、改めて側室になってほしいと求めると、静蘭は、月娘へ相談したのだとすぐに見抜いた。
「知府様お1人で、その答えへたどり着くとは思えません」
達也は、月娘も静蘭と同じことを言ったと話した。西門慶と別れても正室にはならず、その座は皇女のために空けておくつもりだという。自分には2人とも自分の扱いを軽くしているように思えると告げると、静蘭は首を横に振った。
「私どもが決めたことでございます。知府様が軽く扱うかどうかとは別でございます」
「僕は、側室だからといって、あなたを軽く扱いません」
分かっていると静蘭は答えたが、すぐに承諾はしなかった。まず、文亮を崔家の跡取りとして残してほしいと求めた。達也は景仁の名も家も絶やさず、文亮には今まで通り府衙で働いてもらい、いずれ望む職へ就けるようにすると約束した。
麗華についても、今後も崔家の娘であることを変えず、母の再婚を理由に宮中で身辺を探られることがないよう求めた。達也は婚礼を大きくせず、景仁の死後に静蘭と文亮を支えるため、崔家との縁を深めたと説明するつもりだった。麗華のことを外で話す必要もないと答えた。
静蘭はさらに、亡夫の墓参りへ行くことや、その思い出を話すことを許してほしいと言った。墓参りに自分の許しは要らず、景仁の話をしても怒らないと、達也は答えた。
「月娘様をお迎えになる時、私に遠慮なさらないでください」
まだ西門慶が認めていないと達也が言うと、静蘭は、認められなくても諦めないのだろうと問い返した。達也がうなずくのを見て、小さく息を吐いた。
「分かりました。正室ではなく、側室として参ります」
達也はようやく笑った。静蘭はその顔を見てから、正室の座は空けておき、皇女を迎える機会が来た時には、自分や月娘を理由に断らないよう念を押した。
「まだ月娘様を迎えてはいません」
「先のことでございます。ご本人にも旦那様にも告げておられるのでしょう。今さら、おやめになるとは思っておりません」
達也は反論できなかった。
◇ ◇ ◇
婚礼には、崔家と西門家、府衙の近しい者だけが集まった。静蘭は夫を失って間もなく、達也も、景仁の死に乗じて未亡人を手に入れたと見られることは避けたかった。
景仁の生前から2人が関係を持っていたことを、知る者はいなかった。公にされたのは、夫の死後も崔家の帳面と商いを守った静蘭を、達也が側室として迎えたという事実だけだった。
宮中の麗華へは、静蘭から短い手紙が送られた。倉知府の側室となること、崔家は文亮が継ぐこと、麗華は今後も崔家の娘であることを記し、それ以上の事情には触れなかった。生前からの関係も、皇女を正室に迎えるために側室を選んだことも書かなかった。宮中へ入った手紙が、本人以外に読まれない保証はない。麗華も、母が決めたことであれば従うとだけ返し、詳しい事情を尋ねなかった。
西門慶は祝いの銀と酒を持参した。
「倉殿。崔殿を俺の仕事へ引き入れた責任まで取ったのか」
達也は、その言い方は静蘭へ失礼だと答えた。愛して迎えたのだと認めたうえで、月娘を奪う考えも変わらないと告げると、西門慶は妻を振り返った。
「聞いたか。側室を迎えたその日に、まだお前を狙っておるぞ」
「以前から存じております。旦那様だけが、知府様のお考えは変わると思っておられたのでございます」
西門慶は絶対に渡さないと言い張ったが、月娘は、その話は今日でなくてもよいと収めた。静蘭の手を取って達也の隣へ座らせ、政務に夢中になると食事も眠ることも忘れるから、遠慮せず止めてほしいと頼んだ。薬と銭の帳面も本人へ持たせてはならないという。
「僕は子どもではありません」
「景仁様も、同じことをおっしゃっておりました」
静蘭に返されて達也が黙ると、西門慶が声を上げて笑った。
こうして曹静蘭は、倉達也の最初の側室となった。正室の座は空いたままであり、静蘭も月娘も、そこへ入ろうとはしなかった。達也は愛する女を最も地位の高い妻にしたいと考えていたが、2人が望んだのは、自分たちの席の順よりも、達也が朝廷で生き残れる立場を得ることだった。
ただ、達也がなぜそれほどの力を必要としているのかは、2人とも知らなかった。金国が北宋を滅ぼし、開封が敵の手に落ちる未来を、達也はまだ誰にも明かしていない。
病から戻った景仁は、それまで知らなかった遊びに溺れ、家族から離れたまま命を落とした。その帳面と商いは静蘭に引き継がれた。西門慶が客と銭を集め、静蘭が利益を土地や倉へ替えることで、開封府の100人には毎月の米と給金が渡った。
表向きは火事や暴動、河川工事、賊の取り締まりに備える隊だったが、達也は、その100人をいずれ金軍と戦える兵へ育てるつもりでいた。
北宋が滅びるまで、残り9年を切っていた。




