第6話(中編2)――「帰らぬ夫」
1117年夏、北宋・開封府。
未来から届いた薬を用いた治療により、曹静蘭の夫である崔景仁は、肺の病をほぼ克服した。
達也は、軍需の帳簿を扱った経験を持つ景仁を、開封へ移った西門慶の補佐に付ける。西門慶が始める商いを管理し、開封府が新たに抱えた100人の隊を維持する資金を作らせるためであった。
しかし、病床から戻った景仁は、西門慶のそばで、それまで知らなかった酒と女の遊びを覚えていく。
夫を救った薬は、崔家に以前の暮らしを戻さなかった。
(1117年夏、北宋・開封府外城)
崔景仁は、達也の前で庭を3周した。
足取りは病に倒れる前ほど速くない。それでも途中で立ち止まらず、咳も出なかった。庭を回り終えると、景仁は額の汗を袖で拭い、自分の足で客間へ戻った。
達也は胸と背の音を確かめた。血の混じった痰は2か月以上出ておらず、寝汗もなくなっている。食欲は戻り、落ちていた体重も増えていた。
「もう、治ったと申してよいのではございませんか」と景仁。
「決められた薬を最後まで飲み終えれば、治療を終えます。ただし、そのあとも熱や咳が戻らないかを見ます」
「役所へ戻ってもよいのでございますね」
「以前と同じような仕事をしても構いません。ただ、最初から無理をしてはなりません」
傍らにいた妻の曹静蘭が口を挟んだ。
「知府様。仕事より先に、酒を飲んでもよいかとお尋ねください。この人は昨夜、祝いだと申して酒壺を出させました」
「杯に2杯だけだ」と景仁。
「3杯でございます」
「最後の1杯は、文亮が残したものだ」
「息子へ出した酒までお飲みになったのであれば、なお悪うございます」
景仁は達也へ助けを求めるような顔を向けた。
「少量なら構いません。ただし、薬を飲んでいる間は控えてください」
「聞こえましたね」と静蘭。
「病が治れば、家でも私の立場が戻ると思っておった」
「病になる前から、薬と身体のことは私が決めておりました」
達也は2人のやり取りを聞きながら笑った。
病床に伏していた頃の崔家には、いつ景仁が死ぬか分からない重さがあった。今は夫婦が酒の量で言い争っている。それだけでも、薬を運んだ意味はあった。
20歳の息子である崔文亮は、父が庭を歩けるまで回復したことを喜んでいた。
養女の崔麗華は宮中にいる。崔家へ戻ることは容易ではなかったが、静蘭から届いた手紙によって、養父の回復を知っていた。
「景仁様。治療が終わりましたら、お願いしたい仕事があります」
「倉知府のためなら、何でもいたします」
「西門慶という商人を手伝ってください」
静蘭の顔から笑みが消えた。
「清河県からお呼びになった方でございますね」
「はい。開封の店、倉、荷車、妓楼、賭場に広い人脈を持っています。開封府が抱える100人の隊を維持するには、府の支出だけに頼らぬ収入が必要です。そのため、西門慶の商いを大きくします」
「私に帳面を見よと申されるのでございますか」と景仁。
「それだけではありません。西門慶は銭を作ることには長けていますが、銭を残すことが苦手です。利益を土地、倉、店へ替え、毎月どれだけ入るかを明らかにしてください」
「開封府の隊を養う銭でございますね」
「表向きは、火事、暴動、河川工事、賊の取り締まりに備える隊です。どこで誰が聞いているか分かりません。余計な呼び方はしないでください」
「承知しました」
景仁は嬉しそうに胸を張った。
病のため職を退き、家族に支えられて寝台で過ごした男である。再び帳面を任され、自分の働きが都を守る力になると聞けば、断る理由はなかった。
静蘭だけは、すぐに賛成しなかった。
「西門慶様は、どのようなお方でございますか」
「商いの才があります。役人や町の顔役とも話ができます」
「それだけでございますか」
達也は返事を遅らせた。
「女好きです」
「どの程度でございますか」
「妻妾が6人おります」
「それなら、妾を持つ男としては珍しくございません」
「他人の妻にも手を出します」
静蘭は景仁を見た。
「あなたは帳場だけにいてください」
「私は41歳だぞ。子どものように申すな」
「41歳になるまで女遊びをなさらなかったから、申しているのでございます」
「今さら覚えるものか」
景仁は笑った。
その言葉を、達也も静蘭も信じた。
◇ ◇ ◇
景仁が西門慶の仕事を始めてから、最初の1か月は何の問題もなかった。
毎朝、崔家から西門家の新しい屋敷へ通い、前日の売上と支出を確かめる。避妊具と精力薬は帳面を別にし、誰へ何個、何錠を渡したかを記した。薬で近づいてきた富商からは、持っている倉、荷車、店、借財まで聞き出した。
西門慶が高値で売り、景仁が利益を残す。
2人の組合せは、達也の予想以上にうまく働いた。
「崔殿。妓楼の主人が、避妊具を50個欲しいと申しておる」と西門慶。
「前回渡した10個の代金が、まだ半分しか納められておりません」
「客の評判がよい。先に渡せば、次は倍の値で買う」
「それなら、残金を納めさせ、50個分の半金も先に取ってください」
「堅い男だな」
「知府様から、旦那様の口約束だけを信用するなと命じられております」
「倉殿は、そのようなことを申したのか」
「女と銭については、帳面で確かめよとのことでございます」
「月娘と同じことを申す」
西門慶は不満を口にしながらも、景仁の決めた通りに銀を取り立てた。
妓楼の主人から全額が届くと、西門慶は景仁を店へ連れていった。
「帳面だけを見ていては、客が何を欲しがるか分からぬ。今夜は商いの場を見せてやる」
「私は酒を飲みに来たのではない」
「仕事だ。妓楼の女と話さず、どうして妓楼へ品を売る」
通された座敷には、料理と酒が並び、3人の女が待っていた。
景仁は最初、女を自分の隣へ座らせなかった。酒にも口をつけず、避妊具を使った客の評判、病を恐れる客の数、女たちが困っていることを尋ねた。
西門慶は向かいで笑っていた。
「崔殿は、妓楼へ来ても役所の取り調べをしておる」
「商いの話をするために参りました」
「商いの話は、相手を喜ばせてから聞くものだ」
西門慶が合図すると、若い女が景仁の杯へ酒を注いだ。
「病み上がりゆえ、酒は控えております」
「この方は、知府様のお薬で死病から戻られたお方でしょう」と女。
「よく知っておるな」と西門慶。
「西門様が、何度もお話しになりました」
女は景仁の痩せた手へ触れた。
「生きて戻られたお祝いに、1杯だけお飲みください」
景仁は手を引かなかった。
その夜は、杯3杯で帰った。
2度目は、女の隣へ自分から座った。
3度目には、西門慶が先に帰っても残った。
景仁は、病に倒れる前まで軍需の帳簿を扱い、仕事が終われば家へ戻る男であった。静蘭以外の女と親しく話した経験はほとんどない。
妓楼の女は、景仁の話を遮らなかった。病で痩せた身体を笑わず、役所にいた頃の昔話にも感心した顔で耳を傾けた。
銭を払って得る言葉だと、初めは分かっていた。
やがて、分かっていても通うようになった。
◇ ◇ ◇
秋になる頃、景仁が家で夕食を取る日は、月の半分まで減っていた。
「西門様と商談がある」
「倉の持ち主と会う」
「妓楼の主人から帳面を受け取る」
理由は毎晩変わったが、衣についた香の匂いは同じであった。
静蘭は初めのうち、夫を責めなかった。病床で半年を過ごした男が外へ出られるようになり、仕事を任され、酒を飲む。少しの遊びなら、回復した喜びの一つだと考えようとした。
だが、景仁は夜だけでなく、朝も帰らなくなった。
西門家の帳場に泊まったと申した夜、静蘭が使いを出すと、景仁は帳場にいなかった。
さらに10日後、景仁は外城に小さな家を借りた。
そこへ、妓楼にいた蘇香玉という23歳の女を住まわせた。
静蘭が知ったのは、家賃と家具の代金が、崔家の帳面から消えていたためである。
「妾を置いたのでございますね」
その夜、久しぶりに帰った景仁へ静蘭は尋ねた。
「誰から聞いた」
「帳面を見れば分かります」
「香玉は、妓楼から出たがっていた。私が助けたのだ」
「妾として囲うことを、助けると申すのでございますか」
「家も衣も与えた。妓楼にいるよりよい暮らしだ」
「私へ相談する必要はないとお考えになったのですか」
「妾を持つたびに正室へ許しを求める男がおるか」
静蘭は夫の顔を見た。
病床で息をするたびに咳き込み、自分の手を握っていた男と同じ顔である。それでも、口から出る言葉は以前の景仁のものではなかった。
「崔家へ迎えるのでございますか」
「お前がそのような顔をするから、別に家を借りた」
「私が悪いのでございますね」
「そうは申しておらぬ」
「家へお帰りください。妾を持ったことだけを責めているのではございません。文亮も、父上と食事をしたのがいつであったか思い出せなくなっております」
「仕事が忙しいのだ」
「女の家へ泊まることを、仕事とは申しません」
景仁は卓をたたいた。
「私が死にかけていた時は、外へ出て身体を動かせと申したではないか。今度は帰れと申す。お前は私を思い通りにしたいだけだ」
「病を治すために歩くことと、妓楼へ泊まることは同じではございません」
「もう病人ではない」
「それなら、夫として、父として振る舞ってください」
景仁は立ち上がった。
「家へ戻れば、お前は私を病人か子どものように扱う。香玉は、私を1人の男として見てくれる」
静蘭は何も答えなかった。
景仁はそのまま家を出た。
翌朝になっても戻らなかった。
◇ ◇ ◇
静蘭が府衙を訪ねたのは、その3日後であった。
達也は執務室へ通し、人払いをした。
「景仁様の身体に、何かございましたか」
「身体は、知府様のお薬で元気になりました」
静蘭は膝の上で両手を重ねた。
「元気になりすぎたのでございます」
達也は事情を聞いた。
妓楼へ通っていること。蘇香玉を身請けしたこと。外城に家を借り、崔家へ戻らないこと。息子の文亮とも顔を合わせなくなったこと。
「僕が西門慶の仕事を頼んだためです」
「いいえ。頼まれた仕事をするか、女遊びを覚えるかは、亭主が決めたことでございます」
「景仁様と話します」
「おやめになるでしょうか」
「やめさせます」
達也はそう答えたが、自信はなかった。
西門家の帳場へ行くと、景仁は避妊具の売上を記した帳面を調べていた。仕事を怠けているわけではない。以前より商人との交渉にも慣れ、西門慶が見落とした貸金の利息まで取り立てていた。
「景仁様。今夜、崔家へ帰ってください」
「静蘭が告げ口をしたのでございますね」
「相談を受けました」
「私は仕事をしております。帳面に不足はございません」
「仕事の話ではありません。奥様と文亮が待っています」
「香玉も私を待っております」
「妾を持つなとは申しません。ただ、家族を捨てるような暮らしは改めてください」
「倉知府に、夫婦のことまで命じられる筋合いはございません」
「僕があなたを西門慶のそばへ置きました」
「それには感謝しております。病を治していただいた恩も忘れておりません」
景仁は筆を置いた。
「ですが、私は病床へ戻りたくないのでございます」
「誰も、戻れとは申していません」
「家へ帰れば、薬を飲め、酒を控えよ、早く寝よ、身体を冷やすなと静蘭に言われます。香玉の家では、私が生きていることを喜んでくれる」
「奥様は、あなたを生かすために申していたのです」
「分かっております。分かっているから、息が詰まるのでございます」
達也は言葉を失った。
景仁は、その夜だけ崔家へ帰ると約束した。
約束は守った。
翌朝には香玉の家へ戻った。
それからも達也は、景仁を3度説得した。
景仁は、そのたびに家へ帰った。静蘭と同じ食卓につき、文亮の勉学について尋ねた。2日か3日たつと、妓楼か香玉の家へ戻った。
西門慶も注意した。
「崔殿。女は逃げぬ。たまには家へ帰れ」
「旦那様にだけは言われたくございません」
「俺は妻妾を同じ屋敷で養っておる」
「他人の妻の家へも通っておられるではありませんか」
「それは別の話だ」
景仁は、西門慶の言葉にも従わなかった。
◇ ◇ ◇
冬の初め、静蘭は再び府衙へ来た。
前回より痩せて見えた。
「景仁様は、今度は何日帰っておられないのですか」
「18日でございます」
「僕が連れ戻します」
「連れ戻しても、また出ていきます」
静蘭の声には、怒りより疲れがにじんでいた。
「私は、何を間違えたのでございましょう」
「奥様は、何も間違えていません」
「病の時、もっと優しくすればよかったのでしょうか。薬を飲ませ、窓を開け、痰を捨て、身体を拭きました。嫌がっても食べさせました。あの人は、それを息が詰まると申しました」
「景仁様が間違っています」
「知府様が病を治してくださった時、以前の暮らしへ戻れると思いました」
静蘭は、そこで言葉を切った。
「戻らなかったのでございますね」と達也。
「はい。病が治る前には、あの人が生きてさえいればよいと思っておりました。今は、帰ってこないなら、いっそ治らなければよかったと考えることがございます」
静蘭は自分の言葉を恐れたように、唇を結んだ。
「そのように考えてしまう自分が、恐ろしゅうございます」
「考えただけです。奥様は、景仁様の薬を一度も捨てませんでした」
「知府様は、いつも私を悪くないとおっしゃいます」
「悪くないからです」
「それでは、私はどこへ怒ればよいのでございますか」
達也は答えられなかった。
静蘭の目から涙が落ちた。
達也は卓を回り、静蘭の前へ膝をついた。懐から布を出して渡そうとしたが、静蘭は受け取らず、達也の胸元をつかんだ。
「知府様が、あの人を西門様へお預けになりました」
「はい」
「知府様が、あの人の病を治しました」
「はい」
「私が知府様を恨めば、少しは楽になれるのでしょうか」
「恨んで構いません」
「できません」
静蘭は首を横に振った。
「あなた様は、あの人を助けてくださいました。何度も家へ帰るよう説いてくださいました。それでも、私はあなた様へ会うたび、亭主より先に、あなた様が来てくださったと思ってしまいます」
達也は静蘭の手へ触れた。
「奥様。今は心が弱っておられます」
「分かっております」
「僕も、奥様をそのような時に抱くべきではありません」
「それも分かっております」
静蘭は顔を上げた。
「分かっていても、今夜、あの家へ1人で帰りたくございません」
達也は手を離すべきであった。
景仁は生きている。静蘭は、その正室である。達也は景仁の病を治し、仕事を与えた恩人であり、夫婦の相談を受けた知府でもあった。
静蘭を抱けば、どの立場にも背く。
それでも、達也は手を離さなかった。
「あとで、僕を恨みませんか」
「恨むのであれば、自分も一緒に恨みます」
静蘭は自分から達也へ唇を重ねた。
達也は一度だけ身体を離した。
「本当に、よいのですか」
「よくないことは、承知しております」
静蘭は答えた。
「それでも、今は私を1人にしないでください」
達也は執務室の奥にある休息の間へ静蘭を通した。
その夜、静蘭は崔家へ帰らなかった。
翌朝、静蘭は衣を整え、鏡の前で髪を結い直した。達也が背後から声をかけても、しばらく振り向かなかった。
「後悔していますか」
「しております」
静蘭は正直に答えた。
「ですが、昨夜ここへ来たことを、なかったことにはいたしません」
「景仁様とは、もう一度話します」
「あの人を連れ戻すために、私を抱いたのですか」
「違います」
「では、私を哀れんだのでございますか」
「それも違います」
達也は静蘭の肩へ手を置いた。
「僕は、あなたを欲しいと思いました」
静蘭は鏡の中で達也を見た。
「そのお言葉を、喜んではならないのでございますね」
「僕も、申してはならない言葉です」
「もう、遅うございます」
静蘭は達也の手へ自分の手を重ねた。
2人は、その日から人前では以前と同じように振る舞った。
静蘭は夫の帰りを待つ正室であり、達也は夫婦を案じる知府であった。
2人の間に何があったかは、誰にも明かさなかった。
景仁にも、文亮にも、宮中にいる麗華にも知らせなかった。
それでも、景仁が香玉の家へ泊まる夜、静蘭が府衙を訪ねることは増えていった。
◇ ◇ ◇
景仁が死んだのは、年が明ける前であった。
夜半、開封府の捕吏が達也の官舎を訪ねた。
「崔景仁殿が、内城の春彩堂で斬られました」
達也は寝台から起きた。
「生きているのか」
「医者が参りましたが、すでに息がございません」
「相手は」
「黒虎幇の者が3人、その場で捕らえられました」
春彩堂は、景仁が近頃入り浸っていた妓楼である。黒虎幇は近くの賭場と妓楼から用心棒代を取り、女の身請けにも口を出す一団であった。
達也が現場へ着くと、座敷の敷物には酒と血が広がっていた。
景仁は壁際へ仰向けに倒れ、胸と腹を刃物で刺されている。少し離れた場所では、若い女が肩を震わせていた。
「何があった」
達也が尋ねると、女は泣きながら答えた。
「崔様が、私をお呼びになりました。そこへ黒虎幇の杜三が入り、私を先に頼んでいたと申しました」
「景仁様は、何と申した」
「銀を払えばよいのであろうと……。杜三様が、役人上がりが西門様の後ろで威張るなと申しました。崔様も、黒虎幇など開封府に訴えれば潰せるとおっしゃいました」
「それで争いになったのか」
「崔様が杯を投げ、杜三様が刀を抜きました。ほかの2人も入りました。私どもには、止められませんでした」
捕らえられた杜三は、酒が残った顔で達也を見上げた。
「女1人のことで、最初から殺すつもりだったのか」
「あの男が、俺の顔へ杯を投げた」
「3人で、刀を持たない男を刺したのだな」
「あの男は、西門慶と開封府が後ろにいるから、何をしても許されると思っておった。思い知らせただけだ」
達也は捕吏へ命じた。
「3人を別々の牢へ入れよ。今夜話した者同士を会わせるな。春彩堂の主人、女、使用人、客は、全員の名前を控えるまで帰すな」
「黒虎幇の者が、外に集まっております」
「府の隊を出す。黒虎幇の賭場と住まいを囲め。抵抗する者は捕らえよ」
達也が新たに組織した100人の隊を初めて動かした相手は、北方から攻めてくる金軍ではなかった。
女を巡る争いで景仁を殺した、開封のならず者たちであった。
夜が明けるまでに、黒虎幇の頭目と主だった者は捕らえられた。賭場からは刀、盗品、役人へ渡す銀を記した帳面が見つかった。
西門慶は明け方、春彩堂へ来た。
景仁の遺体を見て、しばらく何も申さなかった。
「俺が連れ歩いたためだ」と西門慶。
「最初に仕事を頼んだのは僕です」
「女の遊びを教えたのは俺だ」
「景仁様は子どもではありません。最後に女を選び、争いを始めたのは本人です」
「静蘭には、誰が話す」
「僕が話します」
◇ ◇ ◇
静蘭は、達也の話を最後まで聞いた。
泣き叫びも、達也を責めもしなかった。
「あの人は、最後まで家へ帰らなかったのでございますね」
「はい」
「香玉の家でもなく、別の妓楼で女を争ったのでございますか」
「そうです」
静蘭は目を閉じた。
「私は、悪い女でございます」
「なぜですか」
「亭主が死んだと聞いたのに、最初に思ったのは、これでもう帰りを待たなくてよい、ということでございました」
「奥様は、十分に待ちました」
「そのうえ、亭主が生きている間に、知府様へ身を任せました」
「それは僕も同じです。罪があるなら、僕にもあります」
静蘭はそこで初めて涙を流した。
景仁の葬儀は、崔家と、かつての同僚、西門家の者たちによって営まれた。
西門慶は棺、墓地、僧侶の費用をすべて負担した。香玉にも、暮らしを立て直せるだけの銀を渡した。自分が景仁を悪い遊びへ連れ込んだ責任を、銀で償おうとしたのである。
静蘭は正室として葬儀を取り仕切った。
文亮は嫡男として父の棺に付き添った。
達也は開封知府として参列した。
宮中にいる麗華は、養父が急死したことを知らされた。だが、女官となった麗華が自由に崔家へ戻ることはできない。
麗華は人前で涙を見せず、夜になってから、帳面の最初の頁に記してある父の名を指でなぞった。
崔景仁。
麗華を崔家の娘として迎え、後宮へ入るための身分を与えた養父である。
麗華は宮中の外へ出ることも、葬儀へ参列することも求めなかった。養父の死によって自分まで目立てば、崔家が童貫の助けを得て養女を迎えた事情を調べられる恐れがある。
静蘭も、麗華へ無理に戻るよう求めなかった。
母から娘へ送られた手紙には、景仁が賊に殺されたことと、文亮が無事に葬儀を務めたことだけが記された。
達也と静蘭の関係は、書かれなかった。
2人が互いの夜を知っていることは、誰にも明かさなかった。
◇ ◇ ◇
(1118年春、北宋・開封府外城)
景仁の死から100日余りが過ぎた。
静蘭は華美な衣を避け、崔家で文亮と暮らしていた。
景仁が残した帳面は、西門家から崔家へ運ばれていた。そこには避妊具と精力薬の売上だけでなく、倉、店、荷車、土地への出資が細かく記されている。
静蘭はもともと官人の娘として育ち、書と計算を学んでいた。景仁の存命中も崔家の帳面を管理している。
西門慶は3日に一度、番頭を崔家へ送り、売上と支出を報告させた。
静蘭は景仁が残した書き方に従い、利益の一部を銀のまま残し、残りを土地と倉へ替えた。足りない記録があれば、西門慶本人を呼び出した。
「静蘭殿。俺は倉知府から商いを任されておるのだぞ」
「だからこそ、銀12両の行き先をお尋ねしております」
「客をもてなすために使った」
「どなたを、どこでもてなしたのでございますか」
「それまで書くのか」
「景仁も書かせておりました」
西門慶は渋々、妓楼と客の名を告げた。
景仁を失っても、商いと帳面は止まらなかった。
その利益によって、開封府の100人は米と給金を受け取っていた。
達也はその様子を確かめたあと、崔家の客間で静蘭と向き合った。
文亮は府衙へ出ており、家にはいなかった。
「静蘭様。僕の妻になってください」
静蘭は驚かなかった。
「正室として迎えるおつもりでございますか」
「はい」
「お断りいたします」
達也は即答され、言葉を失った。
「僕を嫌いになったのですか」
「いいえ。お慕いしております」
「では、なぜですか」
「知府様の正室は、私であってはなりません」
「誰を正室にするかは、僕が決めます」
「今のあなた様お1人のことだけであれば、その通りでございます」
静蘭は達也を見つめた。
「あなた様は、皇帝陛下から状元に選ばれ、開封を任されました。これから都で力を得ようとなさるのでしょう。そのためには、陛下のおそばへ、今より深く入らなければなりません」
「正室にあなたを迎えてもできます」
「皇女を正室に迎えれば、あなた様は皇族の婿となります。あなた様を害する者は、皇帝の娘婿を害することになります」
「皇帝の娘と結婚できると決まったわけではありません」
「決まっていないからこそ、正室の座を空けておくのでございます」
「僕は、愛する女を正室にしたい」
「私も、あなた様をお慕いしているから申しております」
静蘭は首を横に振った。
「正室にはなりません」
「それなら、妻にはならないということですか」
「私のことは、お忘れください」
「できません」
「では、私が首を縦に振るまでお待ちになるおつもりですか」
「待ちます」
「私は、一生振りません」
静蘭の声は静かであったが、決意は変わらなかった。
達也は崔家を出ても、納得できなかった。
その足で、西門家の屋敷へ向かった。
相談した相手は西門慶ではない。
正室の呉月娘であった。
◇ ◇ ◇
「静蘭様へ求婚したのですか」
月娘は、静かに茶を置いた。
「はい。断られました」
「正室に迎えるとおっしゃったのでございましょう」
「なぜ分かるのですか」
「知府様なら、そうおっしゃると思ったからでございます」
「静蘭様は、正室の座を皇帝の娘のために空けておけと申しました」
「私も、そのお考えが正しいと思います」
「なぜ、奥様まで同じことを申すのですか」
「知府様お1人の妻であれば、お好きな方を正室になさればよろしいでしょう。しかし、あなた様は開封知府であり、陛下の近くで、さらに大きな役目を得ようとなさっております」
「奥様も、皇帝の娘がよいと申すのですか」
「はい」
月娘はためらわずに答えた。
「陛下の皇女を正室に迎えれば、あなた様を害することは皇帝の娘婿を害することになります。開封府で新しい隊を抱えても、皇女と都を守るためだと説明しやすくなります。これほど強い後ろ盾はございません」
達也は、金国が北宋を滅ぼす未来を月娘へ話していない。
軍を作るために西門慶の商いを利用していることも、詳しくは明かしていなかった。
月娘が知っているのは、達也が開封府の治安を立て直すために100人を集め、その給金を確保しようとしていることだけである。
それでも月娘は、達也が今より大きな力を必要としていると見抜いていた。
「僕は奥様を西門慶から奪い、正室にしたいと、旦那様にも奥様にも伝えました」
「存じております」
「その考えは変わっていません」
「それでも、私は正室にはなりません」
達也は月娘を見た。
「西門慶と別れても、ですか」
「はい。もし旦那様と別れ、知府様のもとへ参る日が来ても、側室で結構でございます」
「奥様まで、なぜ自分から下へ入ろうとするのですか」
「下へ入るのではございません。あなた様の正室の座を、必要な方のために空けておくのでございます」
「皇帝の娘を、僕が愛せなかったらどうします」
「正室へ迎えることと、最も愛することは同じではございません」
「奥様は、それでよいのですか」
「私は、知府様が私を愛してくださるのであれば、席の順まで求めるつもりはございません」
月娘は茶を飲んだ。
「静蘭様を側室としてお迎えなさい」
「本人が承知するでしょうか」
「正室にはならないと申したのであって、知府様の妻にはならないと申したのではございません」
「忘れろと言われました」
「知府様が正室にすると言い張るからでございます」
「奥様が説いてくださいますか」
「ご自分でお説きなさい。ただし、正室にすると申してはなりません」
「側室になってほしいと頼むのですか」
「はい」
「失礼ではありませんか」
「正室の座ではなく、静蘭様ご自身を求めているのであれば、失礼ではございません」
月娘は達也を見た。
「それとも、正室でなければ、静蘭様は要らないのでございますか」
「そのようなことはありません」
「では、お迎えなさい」
達也は返事をしなかった。
自分が正室にしたいと告げた女へ、今度は側室になれと頼む。都合のよい話に思えた。
だが、静蘭も月娘も、正室の座を欲しがっていない。
2人は、達也より先に、その座を皇帝の娘との結び付きに使おうとしていた。
「奥様」
「はい」
「僕が皇帝の娘を正室へ迎えたあとでも、奥様を旦那様から奪いに行きます」
「その時は、また旦那様へお話しください」
「奥様は止めないのですか」
「止めても、おやめにならないでしょう」
月娘の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「ですが、今は静蘭様をお1人にしてはなりません」
◇ ◇ ◇
達也は翌日、再び崔家を訪ねた。
「静蘭様。正室に迎えるという話は取り下げます」
「そうなさるのがよろしゅうございます」
「代わりに、僕の側室になってください」
静蘭は達也を見つめた。
「月娘様へご相談になったのでございますね」
「なぜ分かるのですか」
「知府様お1人で、その答えへたどり着くとは思えません」
「奥様と同じことを申されました。自分が西門慶と別れても、僕の正室にはならない。側室でよいから、正室の座は皇女のために空けておけと」
「月娘様らしいお考えでございます」
「僕には、2人とも自分の扱いを軽くしているように思えます」
「私どもが決めたことでございます。知府様が軽く扱うかどうかとは別でございます」
「僕は、側室だからといって、あなたを軽く扱いません」
「分かっております」
「では、来てくださいますか」
静蘭はすぐには答えなかった。
「文亮を、崔家の跡取りとして残していただけますか」
「もちろんです。景仁様の名も家も絶やしません。文亮は今まで通り府衙で僕を手伝い、いずれ望む職へ就けます」
「麗華も、崔家の娘のままにしていただけますか」
「はい。僕があなたを迎えても、麗華様が景仁様の養女であることは変えません」
「麗華は宮中におります。私が知府様の側室になったことを理由に、あの子の身辺を探らせてはなりません」
「婚礼を大きくしません。景仁様の死後に奥様と文亮を支えるため、崔家との縁を深めたと説明します。麗華様のことを外で話す必要もありません」
「景仁の墓参りへ行くことも、お許しくださいますか」
「僕の許しは要りません」
「私が亡夫の話をしても、お怒りになりませんか」
「怒りません」
「月娘様をお迎えになる時、私に遠慮なさらないでください」
「それは、まだ旦那様が認めていません」
「知府様は、認められなくても諦めないのでしょう」
「はい」
静蘭は小さく息を吐いた。
「分かりました。正室ではなく、側室として参ります」
達也はようやく笑った。
静蘭は、その笑顔を見てから念を押した。
「正室の座は空けておくのでございます」
「分かっています」
「皇女を迎えられる機会が来た時、私や月娘様を理由に断ってはなりません」
「まだ月娘様を迎えてはいません」
「先のことでございます」
「静蘭様まで、僕が奥様を奪うと決めているのですか」
「ご本人にも旦那様にも告げておられるのでしょう。今さら、おやめになるとは思っておりません」
達也は反論できなかった。
◇ ◇ ◇
婚礼は大きくしなかった。
静蘭は亡夫を失って間もなく、達也も景仁の死に乗じて未亡人を手に入れたと見られることを避けた。崔家と西門家、府衙の近しい者だけが集まった。
達也と静蘭が、景仁の生前から関係を持っていたことを知る者はいない。
公にされたのは、景仁の死後も崔家の帳面と商いを守った静蘭を、達也が側室として迎えたという事実だけである。
宮中の麗華へは、静蘭から短い手紙が送られた。
そこには、倉知府の側室となること、崔家は文亮が継ぐこと、麗華は今後も崔家の娘であることが記されていた。
景仁が生きている間から達也と関係を持っていたことは書かなかった。
皇女を正室に迎えるため、側室を選んだことも書かなかった。
宮中へ入った手紙が、本人以外に読まれない保証はないからである。
麗華は返事に、母の決めたことであれば従うとだけ記した。
それ以上の事情を尋ねることもなかった。
西門慶は、祝いの銀と酒を持参した。
「倉殿。崔殿を俺の仕事へ引き入れた責任まで取ったのか」
「その言い方は、静蘭様へ失礼です」
「では、愛して迎えたのか」
「はい」
「月娘を奪う話はどうする」
「変わりません」
西門慶は月娘を振り返った。
「聞いたか。側室を迎えたその日に、まだお前を狙っておるぞ」
「以前から存じております」と月娘。
「なぜ、驚かぬ」
「旦那様だけが、知府様のお考えは変わると思っておられたのでございます」
「俺は絶対に渡さぬ」
「そのお話は、今日でなくてもよろしいでしょう」
月娘は静蘭の手を取り、達也の隣へ座らせた。
「静蘭様。知府様は政務に夢中になると、食事も眠ることもお忘れになります。遠慮せず、お止めください」
「承知いたしました」
「薬と銭の帳面も、ご本人へ持たせてはなりません」
「僕は子どもではありません」と達也。
「景仁様も、同じことをおっしゃっておりました」と静蘭。
達也は黙った。
西門慶が声を上げて笑った。
こうして曹静蘭は、倉達也の最初の側室となった。
正室の座は空いたままである。
静蘭も、月娘も、その座へ入ろうとはしなかった。
2人が達也へ望んだのは、皇帝の娘を正室に迎え、皇室との結び付きを得ることであった。
達也は、愛する女を最も地位の高い妻にしたいと考えていた。
女たちは、自分たちの席の順より、達也が朝廷の中で生き残れる立場を得る方を選んだ。
達也がなぜそれほど力を必要としているのか、2人は知らない。
金国が北宋を滅ぼし、開封が敵の手に落ちる未来について、達也は誰にも明かしていなかった。
崔景仁の病は治った。
しかし、病から戻った男は、それまで知らなかった遊びに溺れ、家族を失い、最後には妓楼の女を巡る争いで命を落とした。
景仁が残した帳面と商いは、静蘭が引き継いだ。
西門慶が客と銭を集め、静蘭が利益を土地と倉へ替える。その利益で、達也の100人は毎月の米と給金を受け取った。
表向きは、火事、暴動、河川工事、賊の取り締まりに備える開封府の隊である。
達也だけは、その100人を、やがて金軍と戦える兵へ育てるつもりでいた。
その目的を知る者は、まだ誰もいなかった。
北宋が滅びるまで、残り9年を切っていた。
第6話中編2では、肺の病から回復した崔景仁が、西門慶の仕事を手伝い始めた。
景仁は、かつて軍需の帳簿を扱った経験を生かし、避妊具と精力薬の売上を管理した。西門慶が富商、高官、妓楼との取引を広げ、景仁が利益を土地、倉、店へ替える体制である。
しかし、妓楼も商談の場となったことで、景仁は酒と女の遊びを覚えた。
初めは仕事として女の話を聞いていたが、やがて妓楼へ入り浸り、蘇香玉を身請けして、外城に妾宅を構えた。妻の曹静蘭と息子の崔文亮が暮らす家へは、ほとんど帰らなくなった。
静蘭の相談を受けた達也は、景仁へ何度も家へ戻るよう説いた。景仁は一時的には従ったが、妓楼通いも妾宅での暮らしもやめなかった。
夫に顧みられず、1人で家へ帰ることに耐えられなくなった静蘭は、悪いことと理解しながら達也へ身を任せた。達也も、夫婦の相談を受ける立場に背くと承知しながら静蘭を抱いた。
2人の関係は、景仁、文亮、宮中にいる養女の崔麗華を含め、誰にも明かされなかった。
その後、景仁は妓楼・春彩堂で女を巡って黒虎幇の杜三らと争い、3人に刺されて死亡した。
達也は開封府の100人の隊を動かし、黒虎幇の主だった者を捕らえた。景仁の死は、その隊が開封のならず者を制圧した最初の実戦にもなった。
崔家の養女である麗華は、宮中から葬儀へ戻ることができなかった。静蘭も、麗華の身分や女官となった経緯を探られないよう、無理に戻ることを求めなかった。
景仁の死から100日余りが過ぎた1118年春、達也は静蘭へ、正室として迎えたいと求婚した。
静蘭は達也を愛していたが、正室になることは拒んだ。達也の正室には皇帝の娘を迎え、皇族の婿という立場を得るべきだと考えたためである。
達也が呉月娘へ相談すると、月娘も静蘭と同じ意見であった。
月娘は、将来西門慶と別れて達也のもとへ行くことがあっても、正室にはならず、側室でよいと明言した。正室の座は皇女のために空けておくべきだと考えている。
月娘に説かれた達也は、静蘭へ改めて側室になってほしいと求めた。
静蘭は、息子の文亮を崔家の跡取りとして残すこと、麗華を今後も崔家の娘として扱うこと、亡夫の墓参りを妨げないこと、皇女を正室へ迎える機会を逃さないことを確かめたうえで承諾した。
こうして曹静蘭は、達也の最初の側室となった。
景仁が残した商いと帳面は静蘭が引き継ぎ、西門慶とともに、開封府の100人を養う資金を管理していく。
達也がその100人を、将来金軍と戦う兵へ育てようとしていることは、まだ誰にも明かされていない。




