第6話(中編1)――「未来から届いた荷」
(1117年春、北宋・開封府西方の山中)
洞窟の入口を覆う枝は、前に来た時と同じ位置にあった。倉達也は沢の手前で馬を降り、手綱を木に結んだ。周囲に人がいないことを確かめて斜面を登り、岩の間を抜けた。
入口からのぞくと、布をかぶせた10トン車が暗がりにあった。誰かが入った足跡はない。達也は入口の枝を戻し、車体の横へ回って荷台の鍵を開けた。
中には北宋へ来る前に積んだ木箱が並んでいた。食料や衣類、工具、武器、医薬品のほか、書物、紙、銀も収められている。19歳の身体で1116年へ来た達也にとって、この荷台だけが未来とのつながりを残す場所だった。
明かりをつけ、薬品の箱を開けた。ストレプトマイシンの残りを数えると、崔景仁の治療に使った分が減っていた。景仁は熱が下がり、咳も軽くなったが、治ったとは言えなかった。結核なら症状が消えたあとも治療が必要で、1種類の薬だけに頼り続ければ、効かなくなる恐れもあった。
ほかの抗菌薬や傷薬、注射器も、使える数には限りがある。達也は荷台の床に座り、持参した紙を膝へ置いた。
達也の知る歴史では、10年後の1127年、金の軍勢が開封を奪う。皇帝趙佶と、その跡を継いだ皇帝は北へ連れ去られ、都の住民も殺され、財産や家族を失う。靖康の変である。
今の達也は開封知府として役人と捕吏を動かせるが、それは盗人や賭場を取り締まる力にすぎなかった。国境を越えて押し寄せる騎兵と戦える軍ではない。
朝廷へ10年後の侵攻を訴えれば、なぜ分かるのかと問われる。未来から来たと明かしても、信じられる前に捕らえられかねない。仮に信じられたところで、10年のうちに軍制を変えられるとは限らなかった。童貫をはじめ、軍を握る者には地位と利益がある。正しい案を出すだけで従う相手ではなかった。
達也は、自分の命令で動く者を集めようと考えていた。普段は荷を守り、火事を消し、河川工事を手伝う。戦になれば弓と槍を取り、隊を崩さずに動く。商人の護衛や府の補助人足として届け出ながら、自分が養い、鍛え、指揮する軍にするつもりだった。
100人を集めるだけなら難しくない。しかし、毎日食わせ、衣や武器を与え、家族の暮らしも支えるには、途切れず入る銭が要る。1,000人、3,000人へ増やすなら、知府の俸給や賄賂だけでは足りなかった。
達也は紙に「兵」と書き、その下へ「銭」と記した。
洞窟には、北宋の人々が知らない薬があった。西門慶へ渡したシルデナフィルは、すでに効き目を確かめていた。西門慶が触れ回れば、欲しがる富商や高官は現れるだろう。
避妊具にも買い手はいるはずだった。妻妾に子を産ませたい男ばかりではなく、妓楼の女や妾との間に子を作りたくない男もいる。病を恐れる者もいた。薄く丈夫で、妊娠や病の危険を減らせる品なら、富裕層は高い銀を払うと考えた。
淋病や梅毒に使う薬も価値があった。夫から妻へ、さらに子へ病が及ぶこともある。この時代には治し難い病を治療できれば、富商や高官から銀だけでなく信用も得られる。後宮の病人を助けられれば、皇帝へ近づく機会にもなる。
ただし、薬と銀を交換するだけでは、箱が空になった日に収入が終わる。達也は、薬で得た信用を使って店や土地、倉、運送、貸金の商いを手に入れ、その利益で人を養う順序を紙にまとめた。薬は、継続して利益を生む商いを始めるための元手だった。
新しい紙には、必要な品を書いた。結核を複数の薬で治療するための薬剤、梅毒や淋病に使う薬、注射器、針、消毒用品、手袋、体温計を挙げた。使い方や副作用、併用してはならない薬をまとめた日本語の資料も求めた。
続いて避妊具、シルデナフィル、タダラフィルを書き加え、保管用の密閉容器、遮光瓶、番号だけを記した小袋も並べた。
そこで筆が止まった。尚人が再び荷台を訪れる保証はなかった。片道式リモコンは出発した時代に残り、達也の手元には未来へ連絡する道具がない。紙を置いても、誰にも読まれず朽ちるかもしれなかった。
それでも、書かなければ伝わる可能性さえない。達也は最後に理由を記した。
「人を救うためだけではありません。10年後の開封を守る軍を作るために必要です」
日付を書き、紙を透明な袋へ入れた。運転席のハンドルにひもで結び、外から気付くよう白い布を垂らした。
その日は景仁の治療に必要な薬だけを持ち出した。荷台を閉める時、運転席の白い布を見た。
「尚人さん。見つけてください」
達也の声が洞窟に響いた。
◇ ◇ ◇
12日後、達也は再び洞窟へ向かった。
景仁は自分で寝台を降り、部屋を歩けるようになっていた。熱はほぼ下がり、血の混じった痰も出ず、食事の量も増えた。それでも治療は終わらず、薬は減り続けていた。
洞窟に入ると、達也は車体を覆う布の右側が持ち上がっているのに気付いた。腰の短刀へ手をかけ、足音を抑えて近づいた。荷台は閉じられ、錠にも壊された跡はなかった。
その時、運転席の扉が内側から開いた。
「遅かったな」
聞き覚えのある日本語だった。達也は短刀から手を離した。降りてきたのは尚人で、北宋へ出発した時と変わらない服を着て、紙の束を手にしていた。
「尚人さん……」
「紙は読んだ。必要な物も持ってきた」
達也が近づくと、尚人は荷台を指した。
「先に中身を確かめろ。薬は、名前が似ていても使い方が違う。箱の番号と資料の番号を合わせてある。思い込みで使うな」
荷台の奥には、前回なかった箱が積まれていた。側面には大きな数字が記されている。1番は結核の治療に使う複数の薬と資料、2番は梅毒、3番は淋病などの感染症に使う薬だった。4番には注射器や針、消毒用品、5番には避妊具、6番にはシルデナフィルとタダラフィルが入っていた。
達也は箱の数に驚いた。
「これほど持ってきてくれるとは思いませんでした」
「お前の紙に、軍を作ると書いてあったからだ」
尚人は達也を見て、本気なのかと確かめた。達也が認めると、歴史を変えれば何が起きるか分からないと告げた。
「何もしなければ、10年後に開封が落ちることは分かっています」
金軍を止められるかと問われても、達也には断言できなかった。知府になっただけで、国全体を変えられるとは考えていなかった。
達也は1番の箱に手を置いた。
「それでも、逃げる準備だけをするつもりはありません。救える者を増やし、守れる町を作ります。金軍を国境で止められなくても、開封へ入る前に戦えます。都を守れなくても、女や子どもを南へ逃がす時間を作れます」
そのための私兵かと尚人が尋ねると、達也は表向きの名目を説明した。商隊の護衛、府の火消し、河川工事の人足として雇い、普段から隊を組ませて命令に従って動かすつもりだった。
朝廷に疑われる恐れはあった。達也は皇帝のために開封を守る者として届け出て、信任を得ながら増員の理由を作る考えだった。薬の売上だけでは続かないことも承知しており、銀を店や土地、運送へ替え、毎月の利益で養うと話した。
尚人は売り方にも注意を促した。避妊具や精力薬の売り方を誤れば、知府の名が妓楼と結び付いて広まる。
「西門慶に売らせます」と達也は答えた。
誰なのかと問われ、『金瓶梅』の西門慶だと伝えた。尚人は言葉を失った。達也は妻妾も含めて本人たちだと思うと説明し、助けてもらって科挙を受け、今度は家族全員を開封へ移す予定だと話した。
「お前は北宋へ来て、何をしている」
「状元になり、開封知府になりました」
「それは紙に書いてあった。西門慶と暮らしていたとは書いていなかった」
「必要な薬を書く場所が足りなかったのです」
尚人は額に手を当てた。
「戻ったら、順子に何と説明すればよい」
「元気だったと伝えてください」
尚人はそれ以上追及せず、7番の小箱を示した。薬の資料が入っていた。
症状だけで病名を決めつけず、資料を読んでから使うよう念を押した。結核は熱や咳が止まっても治ったとは限らず、複数の薬による長い治療が必要だった。ほかの感染症も取り違えないよう症状や経過を確かめ、薬で重い反応が起きる可能性にも注意しなければならなかった。
「お前は医者ではない」
「知っています」
「知府でも、薬を誤れば人を殺す」
達也は、そのことも承知していると答えた。尚人は返事を聞き、ようやくうなずいた。
避妊具は少量の見本から始め、すべてを一度に売らないよう言った。出所を調べられて同じ物を作れと命じられても、達也には作れない。精力薬も、相手の体調や使っている薬によっては危険があり、西門慶が銀のために誰へでも売らないよう、数量を管理させる必要があった。
西門慶は決めた数以上を欲しがるだろうと達也が言うと、尚人は妻に管理させろと答えた。
「すでにそうなっています」
尚人は事情を尋ねず、箱の一覧を渡した。
「次に来るのは半年後だ。紙は同じ場所へ置け。ただし、返事を待って計画を立てるな」
達也が礼を述べると、尚人は10年後に開封を残してから言えと返した。運転席の横に置いていた小さな機器を取り、戻ると告げた。
達也は呼び止めた。
「僕は、こちらで家族を持つかもしれません」
「そうか。お前の好きなようにせよ」
尚人が機器を操作すると、その姿が消えた。洞窟には達也と新しい箱だけが残った。
達也は尚人のいた場所をしばらく見つめ、荷台の扉を閉めた。求めた品は届いた。これをどう使うかは、自分が決めなければならなかった。
◇ ◇ ◇
5日後、景仁は庭を1周した。途中で2度立ち止まり、咳も出たが、人の支えを借りずに部屋へ戻った。
曹静蘭は喜んだものの、薬をやめることは認めなかった。景仁は歩けたのだから、もう針は要らないと主張した。
「歩けたのは、知府様の薬が効いたからでございます。治ったかどうかを決めるのは、あなたではございません」
自分の身体だと景仁が言い返すと、静蘭は、その身体を半年も放置したのは誰かと問い返した。景仁は黙った。
達也は笑いをこらえながら、飲み薬も組み合わせることを説明した。熱や咳がなくなっても、勝手に中断しないよう頼んだ。
月単位で続くと聞き、景仁は病が軽くなったのにまだ飲むのかと不満を漏らした。達也は症状が軽くなったことと、病が治ったことは別だと説明した。
静蘭が夫の前へ水を置いた。景仁は不満そうな顔のまま薬を飲んだ。
その3日後、景仁は以前勤めていた役所へ顔を出した。復職ではなく、長く休んだ詫びと、病状が軽くなった報告のためだった。
半年前には、同僚たちも再び門をくぐれるとは思っていなかった。痩せてはいても自分の足で歩き、話している姿を見て人が集まった。
どの医者に診てもらったかと尋ねられ、景仁は新しい開封知府だと答えた。針で薬を入れてもらい、熱が下がったと話した。知府がそのような術まで使えるのかと驚かれても、こうして歩けるようになったのが証拠だと答えた。
達也から口止めはされていなかった。景仁は恩を返すつもりで、聞かれるたびに注射のことを語った。話は役所から役所へ、官人から家族へ伝わり、10日もたたないうちに、達也のもとへ診察を求める書付が7通届いた。
達也は6通を断った。金を積めば診るという評判が立てば、病人が押し寄せる。すべてに応じれば政務が止まり、薬も尽きてしまう。
残した1通は、宮中へ出入りする宦官からのものだった。差出人は梁師成の配下で、宮中に仕える若い女が長く咳と熱を患い、近頃は血の混じった痰を出すと記していた。女の名も位も書かれていなかった。
使者は府衙の奥へ通されると、声を落とした。
「病んでおられるのは、陛下がお召しになったことのある袁美人でございます」
達也が名を伏せた理由を尋ねると、宮中の病を外へ漏らしたと知られれば、首が危ういと答えた。治せなければ達也が来たことも伏せ、治れば袁美人から皇帝へ話すという。
達也はすぐには返事をしなかった。望んでいた機会ではあるが、景仁と症状が似ていても、同じ病とは限らない。薬が効く保証はなく、宮中の女を死なせれば、地位だけでなく命も失いかねなかった。
「先に申し上げておきます。診ても、治せない病はあります。薬が効かず、かえって身体を悪くすることもあります」
使者は、それでもほかに手がないと言った。達也は本人にも説明し、承知しなければ薬を使わないと伝えた。
後宮の女にそのような話をするのかと宦官は不満を示したが、達也は譲らなかった。
「僕が責任を負うのです。本人にも選んでいただきます」
宦官は最後にうなずいた。
◇ ◇ ◇
達也が後宮へ入ることは許されなかった。袁美人は宮城内の人目につかない一室から、さらに外寄りの建物へ移された。達也は宦官に案内され、薬箱を持って入った。
寝台の女は20歳を少し過ぎたほどに見えた。顔が白く、頬が落ちている。達也が近づくと身を起こそうとしたが、咳き込んで枕へ戻った。口元の布には血がにじんでいた。
傍らに女官が2人付き、離れた場所では宦官が見張っていた。達也は脈、熱、呼吸の音を確かめ、咳が始まった時期や寝汗、食事の量について尋ねた。同じ部屋で暮らした者に似た症状がないかも聞いた。袁美人は苦しそうにしながら、一つずつ答えた。
「倉知府。私は助かるのでございますか」
「助かる可能性はあります。ただし、必ずとは申せません」
周囲からはもう長くないと言われていた。達也は、これまで使われたものとは違う薬で治療すると説明した。注射のあとも、複数の飲み薬を長く続ける必要があった。
袁美人は達也を見た。
「陛下に、またお会いできるでしょうか」
達也は答えに詰まった。病が治れば会えるのかと重ねて問われ、ようやく答えた。
「それを決めるのは僕ではありません。ただ、治らなければ、その機会はありません」
袁美人は目を閉じた。
「薬を使ってください」
達也は、治療中に身体の変化があれば隠さず知らせるよう伝えた。耳や目の異常、手足のしびれ、続く吐き気などにも注意が必要だった。
女官と宦官には換気や痰の扱い、食器を分けることを説明した。病人を閉じ込めるためではなく、周囲へうつる危険を減らすためだと伝えた。
宦官は、後宮で病が広がっていると言うのかと問い詰めた。達也は可能性を確かめる必要があると答え、長く同じ部屋で過ごした者に咳や熱があれば知らせるよう求めた。
「騒ぎになります」と宦官は言った。
「隠して広がれば、もっと大きな騒ぎになります」
宦官は黙った。達也は注射器を用意した。袁美人は針を見ると顔を背けたが、治療を拒まなかった。
注射を終えても達也はすぐには帰らず、呼吸や顔色に急な変化がないことを確かめた。翌日も同じ時刻に来ると告げ、その後は府衙の政務を終えるたびに通った。
3日目には熱がわずかに下がり、6日目には血の混じった痰が減った。10日目には、粥を椀の半分まで食べられるようになった。達也は改善を確かめながらも、治療はまだ続くと伝えた。
「倉知府は、喜んではくださらないのですか」と袁美人は尋ねた。
「喜んでいます。喜んでいるから、油断なさらないよう申しているのです」
難しい人だと言われ、達也は知府になってからよく言われると答えた。
20日目、袁美人は女官に支えられて庭へ出た。春の風に当たり、梅の枝を見上げた。歩いたのは建物の周りだけだったが、寝台を離れられなかった女が外へ出たことは、後宮でも隠し切れなかった。
病状を知る者は、達也の注射が死にかけた女を歩かせたと語った。景仁の話とも結び付き、開封知府は医者が治せない病を治す針を持っているという噂になった。それは、皇帝趙佶の耳にも届いた。
◇ ◇ ◇
治療を始めて23日目、達也は宮中へ呼ばれた。今度は病人のいる外寄りの建物ではなかった。官服を整え、崔文亮を府衙へ残し、1人で宮門をくぐった。
案内された部屋には、趙佶と数人の宦官がいた。達也は定められた場所で拝礼し、命じられて顔を上げた。
趙佶は殿試の時より近くにいた。細い筆を手にしていたが、卓上にあるのは達也の答案ではなく、袁美人の病状を記した書付だった。
「袁美人が歩いたそうだな」
達也は認めたうえで、まだ治ったわけではなく、長く薬を続ける必要があると答えた。趙佶は、皆が達也の針が病を追い払ったと言っていると伝えた。
「針だけではございません。注射の薬と飲み薬を組み合わせ、部屋の空気を入れ替え、食器や痰の扱いも改めました」
医者でもあるのかと尋ねられ、薬の使い方を教わっただけだと答えた。誰から学んだのかと問われた時だけ、返事が遅れた。
「遠方で薬を扱う者たちから学びました」
趙佶はその者たちを都へ呼ぶよう命じた。達也は遠く離れていてすぐには来られず、自分も薬の作り方をすべて知っているわけではないと説明した。
趙佶は筆を置き、薬の数に限りがあると確かめた。後宮で同じ病に倒れた者がほかにもいれば、どうするのかと尋ねた。
達也は病状を確かめ、必要な者から治療すると答えた。ただし、薬を使うだけではなく、病を広げない仕組みも必要だと伝えた。
「後宮の仕組みを、知府が変えると申すのか」
「陛下がお命じになるなら、病を広げぬ方法を申し上げます」
趙佶は達也を見つめた。殿試では倉、運河、税、治安を結び付けて答え、今度は病人の治療に加え、病が広がるのを防ぐ方法まで提案していた。
「そなたは、何を望む」
達也は、この問いを待っていた。銀を求めれば薬を売る者で終わり、官位を求めれば若い知府の強欲と見られる恐れがあった。
「今は、袁美人様の治療を最後まで続ける許しだけをお願いいたします」
褒美は要らないのかと問われると、回復してから頼みたいことがあると答えた。趙佶に促され、達也は願いを述べた。
「開封の火事、洪水、盗賊に備えるため、府の外で働く者を集め、常に訓練する許しを頂きとうございます」
宦官の1人が達也を見た。
「兵を持ちたいのか」と趙佶は尋ねた。
「兵ではございません。火を消し、堤を築き、商いの荷を守る者たちでございます。ただし、災いが起きた時、命令が届いてから集めるのでは遅れます。日頃から同じ組で働き、太鼓と旗の合図で動けるようにいたします」
最初は100人とし、府の銭は使わず、商人から資金を集めると説明した。火事で店を失わず、盗賊に荷を奪われず、洪水で倉を流されないためなら、商人にも銭を出す理由があった。
趙佶はしばらく考えた。
「袁美人を治せ」
達也が答えると、趙佶は続けた。
「治したなら、100人を許す。働きを見て、その先を決める」
達也は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
条件付きではあるが、自分の指揮で100人を集める道が開けた。金軍と戦うには足りなくても、何も持たなかった時とは違っていた。
◇ ◇ ◇
宮中を退出すると、達也は西門家の新しい屋敷へ向かった。西門慶は清河県から先に運び込んだ荷を数えていた。妻妾はまだ全員そろわず、潘金蓮と数人の使用人が来ていた。
「倉殿。宮中で褒美をもらったそうだな」
達也が情報の出所を尋ねると、西門慶は、都では皇帝の前で何があったかまで銭になると答えた。来たばかりでもう宦官を買ったのかと言われ、酒を贈っただけだと主張した。
「同じです」
達也は戸を閉め、新しい商いを始めると告げた。布包みから文字のない小箱を2つ取り出した。一方には避妊具の見本、もう一方にはタダラフィルが入っていた。表向きは、南方から来た珍しい品として扱うつもりだった。
西門慶は避妊具を指先でつまみ、どこに使うのかと尋ねた。達也の説明を聞くと、目を輝かせた。
「売れる」
「僕もそう思います」
妓楼へ持ち込めば、主人がまとめて買うと西門慶は見込んだ。しかし達也は、数が限られているため、まず10個だけ試させるつもりだった。使い方と価値を知ってもらってから、客を選んで売る考えである。
もう一方の薬については、以前渡したものより長く効くが、誰にでも、いくらでも渡してよい品ではないと説明した。達也が決めた相手に、決めた数だけ売るよう求めた。
西門慶は、自分の分はどうするのかと尋ねた。
「月娘様に渡します」
なぜ本人に渡さないのかと不満を漏らしたため、達也は持たせれば1日に何錠も飲むからだと答えた。
「俺を信用しておらぬのか」
「女のことに関しては、まったく信用していません」
西門慶は不満そうだったが、小箱から目を離さなかった。利益の分け方を尋ねると、達也は3割を西門慶、2割を売った店と妓楼の主人へ渡し、残り5割を土地、倉、荷車、店の購入資金にすると説明した。
薬そのものの代金は取らない。土地と店は達也と西門慶の共同名義にし、毎月の利益から開封を守る者を雇うつもりだった。
「私兵を作るつもりか」と西門慶は尋ねた。
達也は、火消し、護衛、河川工事のために100人を集める話を皇帝へ申し上げ、袁美人の回復を条件に認められたと伝えた。西門慶は声を上げて笑った。
「病人へ針を刺し、その褒美に兵をもらったのか」
「兵ではありません」
「戸を閉めたのは倉殿だぞ」
達也も笑った。採用の準備として100人を集めるよう頼み、妻子のある者を優先させた。
西門慶は、若くて腕の立つ独り者の方が使いやすいと考えていた。しかし達也は、銀を多く出す相手へ移る者より、家族の暮らしをこちらへ託す者を求めていた。住まいと毎月の米を用意すれば、簡単には離れないと見ていた。
犯罪者を使うかと問われ、殺しをした者は除くと答えた。盗みや賭博、密輸で捕らえた者のうち、腕が立ち、命令を守れる者は採るつもりだった。
西門慶は、善人だけでは役に立たないと分かったのだなと笑い、自分が隊の頭を務めると言い出した。
達也は断った。西門慶には商いと裏の情報収集を任せ、隊を直接動かす頭は軍にいた者から選ぶつもりだった。
「俺では不満か」
「旦那様に100人の女を集めさせるなら、誰より適任です」
男100人くらい動かせると西門慶は反論した。達也は、酒と女を与えて3日で使い物にならなくするだろうと返した。
そこへ、戸の外から金蓮の声がした。
「旦那様。清河県から連れてきた女中へ、もう手をお出しになったのでございますか」
西門慶はまだ何もしていないと言ったが、帯を締め直していた理由を問われ、荷を運んで緩んだのだと答えた。
達也は西門慶を見た。
「やはり、隊の指揮は別の者に任せます」
「今の話と兵は関係ない」
「旦那様の場合は、すべて関係します」
達也は、避妊具と薬の数を記した帳面を渡した。1個、1錠でも合わなければ、次は渡さないと伝えた。
「月娘のようなことを申すな」と西門慶は言った。
「月娘様が開封へ来れば、帳面は月娘様に預けます」
西門慶は月娘だけでなく商いまで奪うつもりかと不平を言ったが、達也は、使い込まないよう奥方に守ってもらうのだと答えた。西門慶は口をとがらせながらも、帳面を受け取った。
屋敷を出る前、達也はもう一度振り返った。薬の客からは銀だけでなく、何を商い、どこに倉を持ち、誰と争っているかも聞いてほしかった。
「薬を餌に、人の商いを奪うのか」と西門慶は尋ねた。
「売りたくなった者には売らせます。金に困った者には貸します。敵がいる者には守ってやります。その代わり、毎月の利益を受け取ります」
西門慶は達也を見た。
「お前は、俺より悪党になるぞ」
「10年しかありませんから」
西門慶は、その意味を尋ねなかった。達也も説明しなかった。
10年後に金軍が開封へ来る。それまでに未来の薬で病人を救い、皇帝の信用を得て、富商や高官とのつながりを作る。薬が尽きても収入が途絶えないよう、その利益を店や土地、倉へ替えるつもりだった。
最初の100人を養えれば、働きを示して500人、1,000人へ増やせるかもしれない。表向きは火を消し、堤を築き、荷を守る者たちだが、達也は金軍が迫った時に戦える隊へ育てようとしていた。
皇帝が条件付きで認めた100人を、その最初の一隊にするつもりだった。




