第6話(中編1)――「未来から届いた荷」
1117年春、北宋・開封府。
開封知府となった倉達也は、北宋が10年後に金の軍勢によって都を奪われることを知っていた。
その未来へ抵抗するには、朝廷の軍だけに頼るわけにはいかない。自分の命令で動く兵と、それを養い続ける資金が必要である。
達也は山中の洞窟へ戻り、未来から持ち込んだ品を調べた。しかし、病を治す薬も、男の力を助ける薬も、使えば減る。限りのある品を売るだけでは、軍を養う継続的な収入にはならなかった。
そこで達也は、未来にいる尚人がいつか10トン車を訪れる可能性に賭け、必要な品と、その理由を紙へ書き残した。
(1117年春、北宋・開封府西方の山中)
洞窟の入口を覆う枝は、前に来た時と同じ位置にあった。
達也は沢の手前で馬を降り、手綱を木へ結んだ。周囲に人がいないことを確かめてから斜面を登り、岩の間を抜ける。
入口から奥をのぞくと、布をかぶせた10トン車が暗がりに沈んでいた。
誰かが入った足跡はない。
達也は枝を戻し、車体の横へ回った。鍵を差し込み、荷台の扉を開ける。
中には、北宋へ来る前に積んだ木箱が並んでいた。食料、衣類、工具、武器、医薬品、書物、紙、銀。19歳の身体一つで1116年へ来た達也にとって、この荷台だけが未来とつながる場所であった。
達也は明かりをつけ、薬品を収めた箱を開いた。
ストレプトマイシンの残りを数える。
崔景仁への治療を続ければ、さらに減る。景仁は熱が下がり、咳も軽くなったが、まだ治ったとは言えない。結核であるなら、症状が消えたあとも治療を続けなければ再び悪化する恐れがある。1種類の薬だけを使い続ければ、やがて効かなくなる可能性もあった。
ほかの抗菌薬も、傷薬も、注射器も、数に限りがある。
達也は荷台の床へ座り、持参した紙を膝へ置いた。
北宋は、10年後の1127年に金の軍勢によって開封を奪われる。
皇帝趙佶と、その子である皇帝も北へ連れ去られる。都では多くの者が殺され、奪われ、家族を失う。達也が知る歴史では、その結末を靖康の変と呼んでいた。
今の達也は開封知府である。
府衙の役人と捕吏を動かすことはできる。しかし、それは開封の盗人や賭場を取り締まるための力にすぎない。国境を越えて押し寄せる騎兵へ対抗する軍ではなかった。
朝廷へ、10年後に金軍が来ると訴えても、なぜ分かるのかと問われる。未来から来たと答えれば、信じられるより先に捕らえられるだろう。
仮に信じられても、朝廷の軍制を10年で変えられるとは限らない。
童貫をはじめ、軍を握る者には自分の地位と利益がある。達也が正しい案を出したからといって、従う理由はなかった。
必要なのは、達也自身の命令で動く者たちである。
平時には荷を守り、火事を消し、河川工事を手伝う。戦になれば弓と槍を取り、隊を崩さずに動く。朝廷から見れば商人の護衛や府の補助人足でありながら、実際には達也が食わせ、鍛え、指揮する軍である。
100人を集めるだけなら難しくない。
だが、毎日食わせ、衣を与え、家族を養い、武器を持たせるには、毎月途切れずに入る銭が要る。1,000人、3,000人と増やせば、知府の俸給や賄賂だけでは足りない。
達也は紙の上へ「兵」と書き、その下に「銭」と記した。
洞窟には、北宋の人々が見たこともない薬がある。
西門慶へ渡したシルデナフィルは、すでに効き目が確かめられていた。西門慶が女たちを相手にして触れ回れば、欲しがる富商や高官はいくらでも現れる。
避妊具も売れる。
妻妾へ子を産ませたい男がいる一方で、妓楼の女や妾との間に子を作りたくない男も多い。病を恐れる者もいる。薄く丈夫で、使い方さえ守れば妊娠と病の危険を減らせる品なら、開封の富裕層は高い銀を払うはずであった。
淋病や梅毒に効く薬は、それ以上の価値を持つ。
妓楼へ通う男だけではない。夫から妻へ、妻から生まれる子へ病が及ぶこともある。この時代の医者が治せない病を、達也の薬が治す。相手が大商人や高官であれば、銀だけでなく人脈も得られる。
そして、後宮で病人が出た時に治せれば、皇帝へ近づける。
ただし、薬を銀と交換するだけでは、箱が空になった日に収入も終わる。
達也は考えた末、紙へ順番を書いた。
第一に、薬で信用を買う。
第二に、その信用を使い、店、土地、倉、運送、貸金の商いを手に入れる。
第三に、商いから毎月上がる利益で人を雇う。
薬は元手であり、商いそのものではない。
達也は新しい紙を広げた。
必要な品を書き始める。
結核に対して1種類だけに頼らず治療を続けるための薬。梅毒に使う注射薬。淋病に使う抗菌薬。注射器、針、消毒薬、手袋、体温計。薬の使い方、副作用、併用してはならない薬をまとめた日本語の資料。
その下へ、避妊具、シルデナフィル、タダラフィルと書いた。
さらに、薬を乾燥した状態で保管する密閉容器、遮光瓶、番号だけを記した小袋を加える。
達也は筆を止めた。
尚人が、この荷台へ再び来られる保証はない。
片道式リモコンは出発した時代へ残った。達也の手元には、未来へ連絡する道具がない。ここへ紙を置いても、誰にも読まれず朽ちるかもしれなかった。
それでも、何も書かなければ届く可能性はない。
達也は紙の最後へ記した。
「人を救うためだけではありません。10年後の開封を守る軍を作るために必要です」
日付を書き、紙を透明な袋へ入れた。運転席のハンドルへひもで結び、外から見ても気づくように白い布を垂らす。
その日は、景仁の治療に必要な薬だけを持ち出した。
荷台の扉を閉める時、達也は運転席の白い布を見た。
「尚人さん。見つけてください」
声は洞窟の壁へ当たり、小さく返った。
◇ ◇ ◇
それから12日後、達也は再び洞窟へ向かった。
崔景仁は、自分で寝台を降り、部屋の中を歩けるようになっていた。熱はほぼ下がり、血の混じった痰も出ていない。食事の量も増えた。
しかし、薬は減り続けている。
洞窟へ入った達也は、すぐに異変へ気づいた。
車体を覆っていた布が、右側だけ持ち上がっている。
腰の短刀へ手をかけ、足音を立てずに近づいた。
荷台の扉は閉まっている。錠にも壊された跡はない。
その時、運転席の扉が内側から開いた。
「遅かったな」
聞き覚えのある日本語であった。
達也は短刀から手を離した。
運転席から降りたのは尚人である。達也が北宋へ出発した時と変わらない服を着て、片手に紙の束を持っていた。
「尚人さん……」
「紙は読んだ。必要な物も持ってきた」
達也は近づいたが、途中で足を止めた。
尚人は荷台を指した。
「先に中身を確かめろ。薬は、名前が似ていても使い方が違う。箱の番号と資料の番号を合わせてある。思い込みで使うな」
荷台の奥には、前回なかった箱が積まれていた。
箱の側面には、漢字ではなく大きな数字が記されている。1番は結核の治療に使う複数の薬と資料、2番は梅毒、3番は淋病などの感染症、4番は注射器や針、消毒用品であった。
5番には避妊具が収められている。
6番にはシルデナフィルとタダラフィルが入っていた。
達也は箱の数を見て、息をのんだ。
「これほど持ってきてくれるとは思いませんでした」
「お前の紙に、軍を作ると書いてあったからだ」
尚人は達也を見た。
「本気なのか」
「はい」
「歴史を変えれば、何が起きるか分からない」
「何もしなければ、10年後に開封が落ちることは分かっています」
「金軍を止められると思うのか」
「分かりません。僕1人が知府になったくらいで、国全体を変えられるとも思っていません」
達也は1番の箱へ手を置いた。
「それでも、逃げる準備だけをするつもりはありません。救える者を増やし、守れる町を作ります。金軍を国境で止められなくても、開封へ入る前に戦えます。都を守れなくても、女や子どもを南へ逃がす時間を作れます」
「そのための私兵か」
「私兵とは呼びません。最初は商隊の護衛、府の火消し、河川工事の人足として雇います。普段から隊を組ませ、命令に従って動かします」
「朝廷に疑われるぞ」
「皇帝陛下のために開封を守る者として届け出ます。僕が皇帝陛下の信任を得れば、兵を増やす理由も作れます」
尚人はしばらく黙っていた。
「薬を売った銭だけでは続かない」
「分かっています。薬で得た銀は、店と土地と運送へ替えます。毎月の利益で人を養います」
「避妊具も精力薬も、売り方を誤れば、お前の名が妓楼と一緒に広まる」
「西門慶に売らせます」
「誰だ」
「『金瓶梅』の西門慶です」
尚人は返事をしなかった。
「本人なのか」
「妻妾も含めて、本人たちだと思います。僕を助け、科挙を受けさせてくれました。今度、家族全員を開封へ移します」
「お前は北宋へ来て、何をしている」
「状元になり、開封知府になりました」
「それは紙に書いてあった。西門慶と暮らしていたとは書いていなかった」
「必要な薬を書く場所が足りなかったのです」
尚人は額へ手を当てた。
「戻ったら、順子に何と説明すればよい」
「元気だったと伝えてください」
尚人は7番の小さな箱を示した。
「これは薬の資料だ。病名を推測しただけで使うな。結核は、熱と咳が止まったから治ったわけではない。複数の薬を定められた期間使う必要がある。途中でやめれば、再発するだけでなく、薬が効きにくくなる」
「はい」
「梅毒と淋病も、見た目だけでは取り違える。治療を始める前に、症状、経過、相手の病状をできる限り確かめろ。薬で重い反応を起こす者もいる。注射したら、その場を離れるな」
「資料を読んでから使います」
「お前は医者ではない」
「知っています」
「知府でも、薬を誤れば人を殺す」
「それも分かっています」
尚人は達也の返事を聞き、ようやくうなずいた。
「避妊具は見本を渡すだけにしろ。全部を一度に売るな。どこから来た品か調べられた時、同じ物を作れと言われても作れない」
「少量ずつ、客を選んで売ります」
「精力薬も同じだ。心臓の悪い者や、ほかの薬を使っている者には危険がある。西門慶が銀のために誰へでも渡さないよう、お前が数を管理しろ」
「西門慶は、決められた数以上を欲しがると思います」
「ならば、妻に管理させろ」
「すでにそうなっています」
達也が答えると、尚人は事情を尋ねず、箱の一覧を渡した。
「次に来るのは半年後だ。紙は同じ場所へ置け。ただし、返事を待って計画を立てるな」
「ありがとうございます」
「礼は、10年後に開封を残してから言え」
尚人は運転席の横へ置いていた小さな機器を手に取った。
「もう戻る」
「尚人さん」
「何だ」
「僕は、こちらで家族を持つかもしれません」
「そうか。お前の好きなようにせよ」
尚人が機器を操作すると、姿が一瞬で消えた。
洞窟には、達也と新しい箱だけが残された。
達也は尚人の立っていた場所を見つめたあと、荷台の扉を閉めた。
未来からの返事は届いた。
今度は、自分が北宋で結果を出す番であった。
◇ ◇ ◇
5日後、崔景仁は庭を一周した。
途中で2度立ち止まり、咳も出たが、誰かに支えられず自分の足で部屋へ戻った。
妻の曹静蘭は喜びながらも、薬をやめることは認めなかった。
「歩けたのだから、もう針は要らぬ」と景仁。
「歩けたのは、知府様の薬が効いたからでございます。治ったかどうかを決めるのは、あなたではございません」
「私の身体だぞ」
「そのお身体を半年も放置なさったのは、どなたでございますか」
景仁は黙った。
達也は笑いをこらえながら、未来から届いた資料を思い出した。
「奥様の申す通りです。注射だけを続けるのではなく、今日から飲み薬も組み合わせます。熱や咳がなくなっても、僕がよいと申すまで勝手にやめないでください」
「どれほど続けるのでございますか」
「月単位です。長くかかります」
「病が軽くなったのに、まだ飲むのですか」
「目に見えなくなった火種を残せば、また燃えます」
静蘭が夫の前へ水を置いた。
「聞こえましたね」
「聞こえた」
「では、お飲みください」
景仁は不満そうな顔をしながら、薬を飲んだ。
その3日後、景仁は以前勤めていた役所へ顔を出した。
職へ戻ったわけではない。長く休んだ詫びと、病状が軽くなった報告をするためであった。
半年前には、同僚たちも景仁が再び門をくぐるとは思っていなかった。痩せてはいるものの、自分の足で歩き、会話をしている姿を見て、人が集まった。
「どの医者に診てもらったのだ」
「医者ではない。新しい開封知府だ」
「状元の倉知府か」
「あの方が針で薬を入れてくださった。翌日から熱が下がり始めた」
「知府が、そのような術まで使えるのか」
「私も信じられなかった。だが、こうして歩いておる」
景仁は聞かれるたび、同じ話をした。
達也から口止めはされていない。むしろ、命を救われた恩を返すつもりで、注射のことを詳しく語った。
話は、役所から別の役所へ、官人から家族へ伝わった。
10日もたたないうちに、達也のもとへ病人を診てほしいという書付が7通届いた。
達也は、そのうち6通を断った。
金を積めば診るという評判を立てれば、薬を持つ限り病人が押し寄せる。すべてを診れば知府の仕事が止まり、薬も尽きる。
残した1通は、宮中へ出入りする宦官からのものであった。
差出人は梁師成の配下にいる宦官である。宮中に仕える若い女が、長く咳と熱を患い、近頃は血の混じった痰を出すと記されていた。
書付には女の名も、位もない。
だが、使者は府衙の奥へ通されると、声を落として告げた。
「病んでおられるのは、陛下がお召しになったことのある袁美人でございます」
達也は使者を見た。
「なぜ、先に名を明かさなかったのですか」
「宮中の病を外へ漏らしたと知られれば、私どもの首が危うくなります」
「僕が治せなかった場合は」
「倉知府が来たことも、初めからなかったことになります」
「治った場合は」
「袁美人様から、陛下へお話しくださるでしょう」
達也はすぐには答えなかった。
自分が待っていた機会である。
しかし、景仁と似た症状だからといって、同じ病とは限らない。薬が効く保証もない。宮中の女を死なせれば、知府の地位だけでなく命を失う可能性があった。
「先に申し上げておきます。診ても、治せない病はあります。薬が効かず、かえって身体を悪くすることもあります」
「それでも、ほかに手がございません」
「袁美人様ご本人へも、そのことを伝えます。承知なさらなければ、薬は使いません」
「知府は、後宮の方へそのような話をなさるおつもりですか」
「僕が責任を負うのです。本人にも選んでいただきます」
宦官は不満そうであったが、最後にはうなずいた。
◇ ◇ ◇
達也が後宮へ入ることは許されなかった。
袁美人は、宮城内の人目につかない一室から、さらに外寄りの建物へ移された。達也は宦官に案内され、薬箱を持って部屋へ入った。
寝台の女は20歳を少し過ぎたほどに見えた。
顔は白く、頬が落ちている。達也が近づくと身を起こそうとしたが、咳き込んで枕へ戻った。口元の布には血がにじんだ。
傍らには女官が2人おり、離れた場所で宦官が見張っている。
達也は脈、熱、呼吸の音を確かめた。いつから咳が始まったのか、夜に汗をかくか、食事は取れるか、同じ部屋で暮らした者に似た症状がないかを尋ねた。
袁美人は苦しそうにしながらも、一つずつ答えた。
「倉知府。私は助かるのでございますか」
「助かる可能性はあります。ただし、必ずとは申せません」
「皆は、もう長くないと申しております」
「僕の知る薬は、これまで使われた薬とは違います」
「針を刺すと聞きました」
「最初は注射を使います。そのあと、複数の飲み薬を長く続けていただきます」
「陛下に、またお会いできるでしょうか」
達也は答えに詰まった。
「病が治れば、お会いできるのですか」
「それを決めるのは僕ではありません。ただ、治らなければ、その機会はありません」
袁美人は目を閉じた。
「薬を使ってください」
「途中で苦しくなっても、ご自分の判断でやめてはなりません。耳が聞こえにくい、目がかすむ、手足がしびれる、吐き気が続くなど、身体に変わったことがあれば、すぐ知らせてください」
「分かりました」
達也は女官と宦官にも、部屋の換気、痰の扱い、食器を分けることを説明した。
「袁美人様を病人として閉じ込めるのではありません。人へうつす危険を減らすためです」
「後宮で、病が広がっていると申すのですか」と宦官。
「その可能性を確かめる必要があります。同じ部屋で長く過ごした方の中に、咳や熱のある者がいれば、隠さず知らせてください」
「騒ぎになります」
「隠して広がれば、もっと大きな騒ぎになります」
宦官は黙った。
達也は注射器を用意した。
袁美人は針を見ると顔を背けたが、逃げなかった。
薬を入れ終えると、達也はすぐに帰らず、しばらく部屋へ残った。呼吸や顔色に急な変化がないことを確かめ、翌日も同じ時刻に来ると告げた。
その日から、達也は府衙の政務を終えると、袁美人のいる建物へ通った。
3日目、熱がわずかに下がった。
6日目、血の混じった痰が減った。
10日目、袁美人は粥を椀の半分まで食べた。
達也は、そのたびに喜びすぎないよう言った。
「よくなったように見える時ほど、薬をやめてはなりません」
「倉知府は、喜んではくださらないのですか」
「喜んでいます。喜んでいるから、油断なさらないよう申しているのです」
「難しいお方ですね」
「知府になってから、よく言われます」
20日目、袁美人は女官に支えられ、庭へ出た。
春の風に当たり、梅の枝を見上げた。歩いたのは建物の周りだけであったが、寝台から離れられなかった女が外へ出たことは、後宮の中で隠し切れなかった。
袁美人の病を知っていた者たちは、達也の注射が死にかけた女を歩かせたと語った。
景仁の話と袁美人の話が、一つにつながった。
開封知府は、科挙の文章と裁きだけでなく、医者が治せない病を治す針を持つ。
その噂は、ついに皇帝趙佶の耳へ届いた。
◇ ◇ ◇
袁美人の治療を始めてから23日目、達也は宮中へ呼ばれた。
今回は、病人のいる外寄りの建物ではない。
殿試を受けた時と同じように官服を整え、文亮を府衙へ残し、1人で宮門をくぐった。
案内された部屋には、皇帝趙佶と、数人の宦官がいた。
達也は定められた場所で拝礼した。
「倉達也。顔を上げよ」
達也は命じられた通りにした。
趙佶は、殿試の時より近い場所にいる。絵を見る時に使う細い筆を手にしていたが、卓上には達也の答案ではなく、袁美人の病状を記した書付が置かれていた。
「袁美人が歩いたそうだな」
「はい。ただし、病が治ったわけではございません。今後も長く薬を続ける必要がございます」
「皆は、そなたの針が病を追い払ったと申しておる」
「針だけではございません。注射の薬と飲み薬を組み合わせ、部屋の空気を入れ替え、食器や痰の扱いも改めました」
「そなたは医者でもあるのか」
「いいえ。薬の使い方を教わっただけでございます」
「誰に教わった」
達也は一瞬だけ返事を遅らせた。
「遠方で薬を扱う者たちから学びました」
「その者たちを都へ呼べ」
「遠く離れており、すぐには参れません。薬も作り方のすべてを知っているわけではございません」
趙佶は筆を置いた。
「では、そなたの薬には限りがあるのか」
「ございます」
「朕の後宮で、同じ病に倒れた者がほかにもいれば、どうする」
「病状を確かめ、必要な方から治療いたします。ただし、薬を使うだけでは足りません。同じ病を広げぬ仕組みを、宮中に作る必要がございます」
「後宮の仕組みを、知府が変えると申すのか」
「陛下がお命じになるなら、病を広げぬ方法を申し上げます」
趙佶は達也を見つめた。
殿試では、達也は開封の倉、運河、税、治安を結び付けて答えた。今度は、後宮の病を治すだけでなく、広げない仕組みまで作ると申している。
「そなたは、何を望む」
達也は、この問いを待っていた。
銀を望めば、薬を売る者で終わる。
官位を望めば、若い知府の強欲と見られる。
「今は、袁美人様の治療を最後まで続ける許しだけをお願いいたします」
「褒美はいらぬと申すのか」
「袁美人様が回復なさってから、お願いしたいことがございます」
「何だ」
「開封の火事、洪水、盗賊に備えるため、府の外で働く者を集め、常に訓練する許しを頂きとうございます」
宦官の1人が達也を見た。
「兵を持ちたいのか」と趙佶。
「兵ではございません。火を消し、堤を築き、商いの荷を守る者たちでございます。ただし、災いが起きた時、命令が届いてから集めるのでは遅れます。日頃から同じ組で働き、太鼓と旗の合図で動けるようにいたします」
「何人だ」
「最初は100人でございます」
「銭は、府から出すのか」
「いいえ。私が商人たちから集めます。府の銭は使いません」
「商人が、なぜ銭を出す」
「火事で店を失わず、盗賊に荷を奪われず、洪水で倉を流されないためでございます」
趙佶はしばらく考えた。
「袁美人を治せ」
「はい」
「治したなら、100人を許す。働きを見て、その先を決める」
達也は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
皇帝が与えたのは、まだ100人を集める許しだけである。
金軍と戦うには、あまりに少ない。
しかし、0人ではなくなった。
達也は宮中を退出すると、その足で開封にある西門家の新しい屋敷へ向かった。
西門慶は、清河県から先に運び込んだ荷を数えていた。妻妾たちはまだ全員そろっておらず、潘金蓮と数人の使用人だけが来ている。
「倉殿。宮中で褒美をもらったそうだな」
「誰から聞いたのですか」
「都では、皇帝の前で何があったかまで銭になる」
「来たばかりで、もう宦官を買ったのですか」
「買ったのではない。酒を贈っただけだ」
「同じです」
達也は戸を閉めた。
「旦那様。新しい商いを始めます」
「薬か」
「表向きは南方から来た珍しい品です」
達也は布包みから、文字のない小箱を2つ出した。
一つには避妊具の見本、もう一つにはタダラフィルを入れている。
「こちらは、女に子を宿させたくない時と、病を避けたい時に使います」
西門慶は見本を指先でつまみ、首をかしげた。
「これを、どこへ付ける」
達也が説明すると、西門慶の目が輝いた。
「売れる」
「僕もそう思います」
「妓楼へ持ち込めば、主人がまとめて買う」
「最初は売りません」
「なぜだ」
「数が限られています。まず、妓楼の主人へ10個だけ試させます。妊娠した女が減り、客が病を恐れず通うと分かれば、向こうから値を上げます」
「では、こちらは何だ」
「以前お渡しした薬より、長く効くものです。ただし、毎日飲んでよい品ではありません。僕が決めた相手に、決めた数だけ売ってください」
「俺の分は」
「月娘様に渡します」
「なぜ、俺の薬を月娘へ渡す」
「旦那様が持てば、1日に何錠も飲むからです」
「俺を信用しておらぬのか」
「女のことに関しては、まったく信用していません」
西門慶は不満そうであったが、小箱から目を離さなかった。
「利益はどう分ける」
「3割を旦那様へ。2割を売った店と妓楼の主人へ。残り5割は、土地、倉、荷車、店を買うために積み立てます」
「薬そのものの代金は」
「取りません」
「倉殿の取り分がないではないか」
「土地と店は、僕と旦那様の共同名義にします。毎月の利益から、開封を守る者を雇います」
「私兵を作るつもりか」
「皇帝陛下から、火消しと護衛と河川工事のため100人を集める許しを頂きました」
西門慶は達也の顔を見たあと、声を上げて笑った。
「病人へ針を刺し、その褒美に兵をもらったのか」
「兵ではありません」
「戸を閉めたのは倉殿だぞ」
達也も笑った。
「では、100人を集めてください。妻子のある者を優先します」
「若くて腕の立つ独り者の方がよいであろう」
「独り者は、銀を多く出す相手へ移りやすい。妻子の住む家と毎月の米をこちらが用意すれば、簡単には裏切りません」
「犯罪者は使うのか」
「殺しをした者は除きます。盗み、賭博、密輸で捕らえた者のうち、腕が立ち、命令を守れる者は使います」
「善人だけでは役に立たぬと、ようやく分かったな」
「旦那様を見て学びました」
「ならば、俺が隊の頭だ」
「旦那様は商いと裏の情報を集めてください。隊を直接動かす頭は、軍にいた者から選びます」
「俺では不満か」
「旦那様に100人の女を集めさせるなら、誰より適任です」
「男100人くらい動かせる」
「酒と女を与えて、3日で使い物にならなくするでしょう」
西門慶は反論しようとしたが、金蓮が戸の外から声をかけた。
「旦那様。清河県から連れてきた女中へ、もう手をお出しになったのでございますか」
「まだ何もしておらぬ」
「では、帯を締め直していたのはなぜでございますか」
「荷を運んで緩んだのだ」
達也は西門慶を見た。
「やはり、隊の指揮は別の者に任せます」
「今の話と兵は関係ない」
「旦那様の場合は、すべて関係します」
達也は、避妊具と薬の数を書いた帳面を西門慶へ渡した。
「1個、1錠でも合わなければ、次は渡しません」
「月娘のようなことを申すな」
「月娘様が開封へ来れば、帳面は月娘様に預けます」
「倉殿は、俺から月娘を奪うだけでなく、商いまで奪うつもりか」
「旦那様から奪うのではありません。旦那様が使い込まないよう、奥様に守っていただくのです」
西門慶は口をとがらせたが、最後には帳面を受け取った。
達也は屋敷を出る前に、振り返った。
「旦那様。薬の客からは、銀だけでなく、何を商い、どこに倉を持ち、誰と争っているかも聞いてください」
「薬を餌に、人の商いを奪うのか」
「売りたくなった者には売らせます。金に困った者には貸します。敵がいる者には守ってやります。その代わり、毎月の利益を受け取ります」
「倉殿」
「はい」
「お前は、俺より悪党になるぞ」
「10年しかありませんから」
西門慶は、その意味を尋ねなかった。
達也も説明しなかった。
10年後、金軍が開封へ来る。
未来から届いた薬は、病人を救うために使う。同時に、皇帝の信用を得て、富商や高官の人脈をつかみ、継続して利益を生む商いを手に入れるためにも使う。
その利益で、最初の100人を養う。
100人を500人へ、500人を1,000人へ増やす。
表向きは火を消し、堤を築き、荷を守る者たちである。
だが、達也の胸の内では、すでに別の名を持っていた。
開封を守る私設軍である。
皇帝が許した100人は、その最初の一隊となる。
第6話中編1では、倉達也が、北宋の滅亡へ抵抗するための準備を始めた。
達也が知る歴史では、北宋の都・開封は10年後の1127年、金軍によって奪われる。皇帝とその一族は北へ連れ去られ、多くの住民が戦乱に巻き込まれる。
朝廷の軍だけに頼れないと考えた達也は、自分の命令で動く私設軍を作ろうとした。しかし、人を集めるだけでは軍にならない。兵と家族を長く養うには、毎月途切れずに入る資金が必要であった。
達也は洞窟の10トン車へ戻り、未来の尚人へ向けて必要な物を書き残した。
求めたのは、結核治療に使う複数の薬、梅毒や淋病に使う抗菌薬、注射器や消毒用品、避妊具、シルデナフィル、タダラフィルなどである。
12日後、双方向式リモコンを使った尚人が洞窟へ現れ、薬と医療資料を届けた。
達也は、薬を売り続けるだけでは安定した収入にならないと理解していた。希少な薬で信用と人脈を得て、その信用を店、土地、倉、運送、貸金へ替え、継続利益で人を養う計画である。
先に治療を受けた崔景仁は、自分の足で役所へ行けるまで回復した。景仁が達也の注射について同僚へ語ったことで、病を治す知府の噂が官人たちの間に広がった。
やがて、後宮で重い肺の病に倒れた袁美人の治療を求められる。
達也は、注射1本で完治したようには扱わず、注射薬と複数の飲み薬を用い、長期間の治療が必要だと繰り返し伝えた。袁美人は次第に熱と咳が軽くなり、20日目には庭を歩いた。
噂を聞いた皇帝趙佶は、達也を宮中へ呼んだ。
達也は銀や官位を求めず、開封の火事、洪水、盗賊へ備える者として、100人を常時雇い訓練する許可を求めた。趙佶は、袁美人を治すことを条件に認めた。
表向きは、火消し、河川工事、商隊の護衛を担う者たちである。
しかし、達也は彼らを、10年後に開封へ迫る金軍と戦う最初の一隊にするつもりであった。
さらに達也は、開封へ移った西門慶へ避妊具と精力薬を渡した。
西門慶の人脈を使い、富商、高官、妓楼へ少量ずつ高値で売る。得た利益は浪費せず、土地、倉、店、荷車へ替え、毎月の収入を生む資産にする。
未来の薬、皇帝の信任、西門慶の悪知恵。
達也は、その3つを使い、北宋の歴史へ抵抗する力を作り始めた。




