第6話(前編2)――「知府と悪党」
(1117年春)
倉達也は官服を脱ぎ、灰色の長衣に着替えた。腰には知府の印も佩玉も下げず、護衛にも府衙の者と分かる服装をさせなかった。同行するのは、古くから開封に住む書吏と、少し離れて歩く護衛2人だけだった。
書吏は、達也の顔を知る者もいるため、同じ場所に長く立たない方がよいと注意した。
「今日は知府ではありません。都へ品物を仕入れに来た地方商人です」と達也は答えた。
しかし、その言葉遣いでは商人に見えないと言われた。帳面を任されている店員ということにしようと提案しても、育ちのよい店員に見えると返された。
「黙って歩けばよいのですね」
達也は大通りを外れ、南東の商店街へ入った。表通りには絹を扱う店、香料店、茶店、酒楼が軒を連ねていた。荷車が来ると人が両側へよけ、通り過ぎれば再び道の中央まであふれた。呼び売りの声に鍋を打つ音、馬の蹄、寺院の鐘が重なっていた。
1本裏へ入ると、様子が変わった。路地には壊れた桶や野菜くずが置かれ、家々の2階が道へ張り出していた。日の当たらない壁際には、仕事を待つ荷運び人足が座っている。表通りの店で働く者も、夜にはこの一帯へ戻ってくるという。
達也は小さな麺屋へ入った。主人は50歳を過ぎた男で、片方の耳が欠けていた。汁麺を運び、銭を受け取って奥へ戻ろうとする主人に、達也は夜も人通りが多いのかと尋ねた。
初めて来たのかと聞かれ、地方から出てきて近くに部屋を借りるつもりだと答えた。
「夜は戸を閉めておけ。表通りほど安全ではない」と主人は言った。
盗人が出るのかと尋ねても、主人は達也の顔を見るだけだった。追加の肉を頼み、先に銭を置くと、ようやく口を開いた。
「盗人なら、どこにでもいる。ここだけではない」
役所へ届ければ捕らえてもらえるだろうと達也が言うと、主人は鼻で笑った。開封へ来たばかりだから、そんなことを言うのだという。
3か月前、裏の米屋に盗人が入り、銭箱と米2俵を持ち去った。主人が訴えに行くと、受理する前に捕吏へ渡す銭を求められた。
「捕吏も飯を食う。足を使わせるなら銭を出せという理屈だ。米屋は銭を出したが、盗人は捕まらなかった」
見つからなかったのではない。2日後には賭場で遊んでいるところを何人も見ていたが、捕吏は捕らえなかった。
「盗人の方が多く銀を出したからだろう」
主人はそこまで話すと、別の客の注文を聞きに行った。達也は汁麺を食べながら、書吏に米屋の盗難が記録されていたか確かめた。書吏には覚えがなかった。
「訴えを受け取らなければ、事件は起きなかったことになります」
書吏は、下の者が知府へ上げなかったのだろうと答えた。達也は椀へ目を落とした。帳面だけを読んでいれば、開封は実際より安全な町に見えることになる。
麺屋を出ると、達也は米屋を訪ねた。地方から来た商人で米の相場を知りたいと告げると、主人は警戒しながらも店先へ招いた。だが、盗難の話に触れた途端、妻が奥から出てきて夫を止めた。
「もうよいのです。あの者たちに聞かれれば、また店を荒らされます」
主人は妻を下がらせ、声を落とした。盗人はこの先の賭場に出入りする男で、捕吏も知っていた。捕らえられても、賭場の主人が銀を出すため、その日のうちに放されるという。
達也は知府への直訴を勧めたが、主人は首を振った。
「知府様へ会うまでに、何人の役人を通ると思っているのです。訴えた者の名が先に賭場へ伝わります」
達也はそれ以上勧めなかった。
店を出ると、書吏の顔は青ざめていた。府衙へ戻ったら、ただちに関係者を調べると申し出た。
「今すぐ捕吏を捕らえれば、賭場も盗人も逃げます。誰が誰から銀を受け取っているのか、先に確かめます」と達也は答えた。
午後まで町を歩くうち、同じような話が重なった。古着屋では客から預かった上着が消えていたが、店主は届けていなかった。井戸端の女は、夜道で財布を奪われた息子が、捕吏から酒代を求められたと話した。荷運び人足は盗品を扱う店の名を口にしかけたものの、近くを歩く男に気付くと黙った。
妓楼の裏では、用心棒と捕吏が同じ卓で酒を飲んでいた。達也は茶店の2階から、その様子を見下ろした。
書吏によれば、捕吏は劉三といい、南東の2坊を受け持っていた。どれほど頻繁に妓楼へ来るかまでは分からなかった。
劉三は酒を飲み終えると、銭を払わず立ち去った。妓楼の男は頭を下げ、その袖へ小さな包みを入れた。
「あれが、帳面に記されない開封です」と達也は言った。
書吏は知府の権限で取り調べることを勧めたが、達也は劉三1人を捕らえても、代わりの者が同じ銀を受け取ると考えた。
「銀を渡す者、受け取る者、盗品を売る者、賭場を守る者を一つにつないで見なければなりません」
◇ ◇ ◇
府衙へ戻ると、曹静蘭が執務室で待っていた。達也は町で聞いた話を伝えたが、静蘭は驚かなかった。
「知府様がお読みになる帳面は、役人が知府様へ見せてもよいと判断した出来事だけでございます」
訴えを受け取る前に銭を求める行為も、以前から続いていた。前の知府も、すべてを知らなかったわけではないという。
「捕吏をすべて入れ替えれば、町の地理も、盗人の顔も分からない者ばかりになります。残せば銀を受け取る。前の知府は、騒ぎを起こさない方を選びました」
自分にも同じ選択をさせるつもりかと達也が尋ねると、静蘭は否定した。達也なら、別の使い方を考えると思っていると答えた。
達也は椅子へ座った。
「役人の側から調べるだけでは、口裏を合わせられます。賭場、妓楼、商人、ならず者の側から役人を見る者が必要です」
心当たりを尋ねられ、達也は1人の男を思い浮かべた。役人へ銀を渡すことをためらわず、商人の帳面を読み、薬舗と生薬店を持ち、妓楼にも賭場にも顔が利く。女に目がなく、他人の妻にまで手を出すが、恩と損得の勘定は忘れない男だった。
「1人おります」
清河県の商人だと伝えると、静蘭は信用できるのかと尋ねた。
「善人ではありません。しかし、僕が北宋へ来た時に助けてくれた恩人です」
翌朝、達也は清河県へ向かった。
◇ ◇ ◇
西門家の門前で馬車を降りると、使用人が達也の顔を見て母屋へ走った。間もなく、西門慶が妻妾たちを連れて現れた。
「倉殿ではないか。開封知府ともなれば、清河県の家など忘れたと思っておったぞ」
「忘れるはずがありません」
達也は西門慶へ礼をし、呉月娘たちにも頭を下げた。月娘と李瓶児の腹は大きくなっていた。
西門慶は2人とも自分の子を身ごもっていると信じていた。しかし、月娘の子は達也との間にできた子だった。月娘は真実を告げず、達也も自分の子だとは知らなかった。
潘金蓮が官服を見て笑った。
「以前は旦那様の書院で本を読んでおられた方が、今は都の知府様でございますか」
「官服を着ている時だけです。この家では、以前と変わりません」
「それでは、私どもも以前のようにお相手してよろしいのですね」
月娘が名を呼ぶと、金蓮は袖で口元を隠し、挨拶をしただけだと答えた。
夕食には、急ごしらえとは思えないほどの料理が並んだ。西門慶は達也を上座へ座らせようとしたが、達也は以前と同じように断った。
「開封では知府ですが、この家では旦那様に拾われた客人です」
状元になっても変わらないと言われ、達也は変えてはならないこともあると答えた。月娘がわずかに目を伏せた。
酒が3巡すると、西門慶は商いと女の話を始めた。達也からもらった薬はまだ残っているが、月娘が帳面を付け、決められた数しか飲ませてくれないという。
達也が、それでよいと答えると、西門慶は得意げに続けた。
「おかげで、近頃は林夫人まで俺のものにした」
月娘の箸が止まった。食事の席でする話ではないとたしなめたが、西門慶は男同士だから隠す必要はないと言った。
林夫人は、林太尉が長く家を空けることに不満を抱いていた。最初は贈り物を返してきたものの、3度目には受け取り、その後は薬が役立ったのだと自慢した。
「薬のせいにしないでください」と達也は言った。
西門慶は、薬がなければ夜明けまで相手をできなかったと笑った。達也は林太尉に知られないよう注意した。西門慶が捕らえられれば、自分も薬を渡した理由を尋ねられる。
「心配するな。林夫人の方が、夫に知られることを恐れておる」
達也も酒杯を口へ運んだ。西門慶の女遊びを責める資格はなかった。西門慶が王六児の家に泊まっていた夜、達也は月娘と一夜を共にしていた。
他人の妻へ手を出した点では同じだった。西門慶は自分の情事を自慢し、達也は恩人の正室との関係を隠している。ただ、月娘を愛していることまで隠すつもりはなかった。
月娘が腹に手を添えた。達也はその手を見ないようにして、杯を空にした。
◇ ◇ ◇
宴が終わり、妻妾たちが部屋を出ると、西門慶は戸を閉めた。上機嫌な顔から笑みが消えていた。
「倉殿。実は、助けてもらいたいことがある」
林夫人の件かと達也が尋ねると、それとは別だという。ほかにもあるのかと言われ、西門慶は、自分が悪事ばかりしているような言い方だと抗議した。
「違うのですか」
西門慶は咳払いをした。
「塩のことで、少し問題が起きた」
達也は酒杯を卓へ戻した。宋では塩の専売が行われている。正規の手続きを踏まない私塩を売れば、財産を没収され、獄へ入れられることもあった。
西門慶は塩引を持つ商人から買った塩を売っていたが、仕入れた量より売った量が多かった。差は約3,000斤だった。
「それを、少しと申したのですか」と達也は言った。
「俺の商い全体から見れば、少しだ」
海沿いから運ばれた私塩を買い、正規の塩へ混ぜて売っていたのだ。県の役人と倉の書手には銀を渡し、帳面の量も合わせていた。
ところが、運搬役の1人が分け前を倍にするよう求めてきた。西門慶が断ると、その男は運び手の名、受け渡し場所、役人へ渡した銀の額を記した書付を持って姿を消した。
男は張七といい、以前は運河で荷降ろしをしていた。妻と娘は清河県に残り、妻には商いで済州へ行くと告げていた。
達也が、まだ遠くへは逃げていないと考えていると、西門慶が顔をのぞき込んだ。
「助けてくれるのか」
「そのために話を聞いているのです」
知府らしい難しい顔をするので、捕らえられるのかと思ったと西門慶は言った。達也は、そのつもりなら役人を連れてきていると答え、相手の杯へ酒を注いだ。
「僕が北宋へ来た時には、身元も、家も、銭もありませんでした。旦那様は僕を西門家へ置き、師を雇い、科挙を受けられる身分まで用意してくださいました」
何度も聞いた話だと言われても、達也は続けた。
「旦那様が私塩を売ったからといって、その恩が消えるわけではありません」
目をつぶってくれるのだと西門慶が確かめると、達也はためらわず認めた。今回限りとも言わず、助けてもらったように自分も助けると約束した。
西門慶はしばらく達也を見つめ、杯を一息に空けた。
「倉殿なら、そう申してくれると思っておった」
ただし、隠すためには何をしたのか、すべて知る必要があると達也は伝えた。西門慶は私塩の販売と役人への賄賂を認め、不正に得た銭を返す気も、余分な税を払う気もないと言った。
「それで結構です」
都へ行って人が変わったのではないかと西門慶に言われ、達也は返した。
「官服を着れば、誰でも善人になると思っていたのですか」
達也は張七の行動を考えた。東平府へ訴えれば、収賄した役人も調べられる。清河県へ持ち込めば、握り潰される恐れがある。西門慶を確実に追い詰めるには、土地を離れ、上の役所へ訴えるはずだった。
「張七は、済州へ向かったと見せかけて、開封へ向かうでしょう」
清河県や東平府には、西門慶の銀を受け取った役人が多い。張七もそれを知っているはずで、達也なら都の御史台か開封府へ書付を持ち込むと説明した。
「開封府なら、倉殿の役所ではないか」
「だから、助けられます」
達也は翌朝、張七の妻を呼ぶよう頼んだ。脅さずに銀を渡し、夫の行き先を聞く。娘も一緒に西門家で預かると伝えるつもりだった。
西門慶は、それでは人質ではないかと指摘した。達也は客として厚く扱わせ、戻った張七には妻子を助けてもらったと思わせる考えを説明した。戻らなくても、妻子が西門家にいる以上、落ち着いて逃げ続けることはできないと見ていた。
「倉殿の方が、俺より悪いことを考えるな」と西門慶は言った。
達也は開封へ戻り、御史台と開封府の門へ人を置くつもりだった。張七が訴えに来たら、書付が受理される前に自分のもとへ連れてこさせる。私塩の告発者としてではなく、清河県から来た重要な証人として保護し、西門慶と会わせる計画だった。
西門慶が殺すのかと尋ねると、達也は否定した。死ねば消えた理由を調べられるが、生かしておけば、書付は偽物だったと本人に言わせることができる。
銀だけで口を塞げば、再び増額を求められる。達也は張七に開封で役目を与え、捕吏の手先として使うつもりだった。私塩を運び、役人へ銀を渡した経験は、抜け道や役人の動かし方を調べるのに使えると考えた。
「裏切った男を使うのか」と西門慶は尋ねた。
達也は、告発を続ければ妻子と離れたままだが、こちらへ付けば銀と役目と家族を得られると説明した。張七にも、従う方が得だと分からせるつもりだった。
書付は達也の目の前で焼かせる。写しがあれば、そこに名のある役人に探させることにした。自分たちも獄へ入る恐れがあれば、必死になるだろう。
役人が西門慶だけに責任を押しつけようとした場合には、収賄した者の名もすべて朝廷へ出ると伝える。東平府が調べ始めても、開封府で別件の取り調べをしていると申し入れ、張七を渡さないと約束した。
西門慶の口元に笑みが戻った。
「倉殿を状元にして正解であった」
状元にしたわけではないと達也が返すと、西門慶は師を雇い、銭を出し、書院を貸したと数え上げた。達也が答案を書いたのは自分だと言っても、西門慶は意に介さなかった。
「その僕が、今は俺の私塩を隠してくれる」
「恩を返しているだけです」
達也は自分の杯にも酒を注いだ。
「ただし、僕もただで危険を引き受けるつもりはありません」
西門慶は銀を求めていると思ったが、達也は違うと答えた。なら女かと聞き、林夫人は渡せないが、金蓮や瓶児、王六児はどうだと名を挙げた。
達也の手が止まった。西門慶は構わず酒を飲んでいた。達也は月娘との一夜を思い出し、杯を置いた。
「僕は呉月娘様を愛しています。呉月娘様を頂きたい」
「おいおい。あいつは俺の正室だぞ。無茶を言うな」
西門慶は笑いかけたが、達也が目をそらさないため、杯を卓へ戻した。冗談ではないと分かると、月娘にも話したのかと確かめた。
「はい。結婚を申し込み、断られました」
本人に断られたなら終わりだと西門慶は言った。しかし達也は、気持ちは変わらず、奪ってでも妻にしたいと答えた。
西門慶の目から酔いが引いた。
「倉殿。俺を助ける代わりに月娘を渡せと申すなら、私塩の件は自分で始末する」
「取引にはしません。旦那様が断っても助けます。ただ、僕が月娘様を本気で愛していることは知っておいてください」
西門慶は思いを聞いたうえで、月娘は渡さないと言い切った。ほかの望みを言えと促され、達也は本来の用件を切り出した。
「それでは、旦那様の人脈と悪知恵を頂きましょう」
◇ ◇ ◇
達也は開封で見聞きしたことを話した。盗みや強盗が帳面に載らず、捕吏が盗人から銀を受け取り、賭場や妓楼の主人が役人を買っている。実情を知らない役人を送っても、誰が裏で銭を動かしているかは分からなかった。
「西門家を開封へ移してください」
西門慶が眉を上げた。達也は治安立て直しの協力者として迎え、正式な役職は朝廷へ上奏すると伝えた。それが難しければ、知府の名で府衙の役目を与えるつもりだった。
商人の自分に捕吏を動かさせるのかと西門慶が尋ねると、達也は、その経験を求めているのだと説明した。役人がいくらで動くか、盗品がどこへ流れ、妓楼が誰に銀を渡し、賭場が誰を用心棒に雇うか。西門慶なら調べられる。
「倉殿は、俺を悪党だから都へ呼ぶのだな」
「善人に用はありません。開封には、すでに大勢います。少なくとも、本人たちは自分を善人だと思っています」
西門慶は声を上げて笑った。自分に悪党を捕らえさせるのかと聞くと、達也はすべてを捕らえる必要はないと答えた。
「僕たちに従う者は残します。従わず、勝手に町を荒らす者だけを捕らえます。賭場も妓楼も、すべて潰せば地下へ潜るだけです。誰が仕切っているのか分かる状態で残し、毎月の銭と情報を出させた方が役に立ちます」
西門慶は、知府がそのようなことを言ってよいのかと笑った。
「戸を閉めたのは旦那様です」
「気に入った」
西門慶は達也の杯へ自分の杯を当てた。私塩の件で助けたうえ、都の悪党までまとめさせるとは、思っていたより欲が深いと言った。
「旦那様に教わりました」と達也は答えた。
勉学しか教えていないと西門慶は言い張ったが、達也は西門家で暮らしていれば、頼まなくても覚えると返した。
それでも西門慶は、断った場合を確かめた。達也は張七を押さえ、書付を焼く約束は変えないと答えた。
「恩返しと取引は別です。助けたあと、旦那様が断るなら、僕は別の悪党を探します」
西門慶の笑みが消えた。
「俺より役に立つ悪党がおるのか」
「開封は広い町です。探せばいるでしょう」
怒らせるために言っているのだろうと西門慶は指摘したが、達也が引き受けるかと尋ねると、即座に承諾した。
「引き受ける。俺より役に立つ男がいるなどと思われてはならん」
妻妾も全員連れていくという。月娘と瓶児は身重のため、先に屋敷を用意するよう求めた。達也は府衙の近くで広い屋敷を探すと約束した。
清河県の店は番頭へ任せ、開封にも店を出す。達也は役所の情報を商いに使い、邪魔な商人を追い落とすことも認めた。ただし、知府の地位を危うくするほど目立たないよう求めた。
「ずいぶん都合のよい決まりだ」と西門慶は言った。
「知府とは、決まりを作る側です」
西門慶は腹を抱えて笑った。あとは月娘を説得してほしいと頼んだ。自分から言えば、また勝手に決めたと叱られるという。
私塩の件も隠しておきたかったが、達也は帳面を見れば気付かれると答えた。西門慶は、それも含めて話してほしいと頼んだ。
「旦那様は、面倒なことをすべて僕へ押しつけますね」
「俺を助けると申したであろう」
達也は承知し、杯を空にした。
その夜の相談を書付に残すことはなかった。証拠を奪い、告発者を抱き込み、収賄した役人を脅して犯罪を握り潰す。2人とも、それを紙に記すつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、西門慶は妻妾のそろった朝食の席で、昨夜の話を持ち出した。
「月娘。倉殿が、お前を俺から奪って妻にしたいと申したぞ」
箸の音が止まった。金蓮は達也と月娘を交互に見て、孟玉楼は驚いた顔を伏せた。瓶児は腹に手を添えたまま何も言わなかった。
月娘は皆の前でする話ではないと夫をたしなめたが、達也には目を向けなかった。西門慶は本人が自分に言ったことだから隠す話ではないと答えた。
金蓮に本当かと尋ねられ、達也は認めた。ただし、西門慶を助ける条件にしたのではないと説明した。
「違います。旦那様を助けることに条件は付けていません。月娘様を愛していることと、いつか僕の妻にしたいことを、旦那様へ告げただけです」
西門慶は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「俺は断った。それでも諦めぬそうだ」
月娘はようやく達也を見た。愛されていることは知っていたが、西門慶に正面から求め、断られても諦めないと告げたことまでは知らなかった。
「私は旦那様の正室でございます」
達也は分かっていると答えた。それでも考えを変えないのかと問われ、変えないと言い切った。
月娘はそれ以上答えず、朝食を終えると達也を書院へ呼んだ。
◇ ◇ ◇
2人きりになると、達也は私塩の件を話した。月娘はすでに疑っていた。仕入れと売上の量が合わず、西門慶が帳面を分けていたため、あえて尋ねなかったという。
「尋ねれば、私まで事情を知ったことになります」
月娘は夫が助かるかを確かめた。達也は助けると約束し、不正に得た銭を返させるつもりも、役人への賄賂を明るみに出すつもりもないと伝えた。
月娘は達也の顔を見た。
「開封知府のお立場で、そのようなことをなさってもよいのでございますか」
「よくはありません」
それでも助ける理由を尋ねられ、達也は答えた。
「旦那様は、僕が何者かも分からなかった時に助けてくださいました。僕は旦那様が罪を犯したからといって、その恩を忘れるつもりはありません」
地位を失う恐れを指摘されても、失わないように隠すと答えた。月娘の目がわずかに揺れた。皇帝から開封を任された男が、その権力を恩人の罪を隠すために使うと決めていた。
達也は西門慶を開封へ呼び、捕吏と町の裏側を束ねてもらうことも伝えた。私塩を見逃す代わりではなく、断られても助ける約束は変わらないと説明した。
「それでは、旦那様が何も学ばれません」と月娘は言った。
「学ばせるつもりはありません」
達也は続けた。
「旦那様を善人へ変えても、役には立ちません。あの方は悪党のままでよいのです。ただし、これからは僕の目の届くところで悪事をしてもらいます」
月娘はしばらく黙っていた。
「知府様は、旦那様に似てこられました」
嫌いになったかと達也が尋ねると、月娘はすぐに否定した。夫を見捨てなかったことに安心したという。
達也は月娘の腹に目を向け、長旅に耐えられるかを気遣った。月娘は医者と相談し、無理なら出産後に向かうつもりだった。達也もその方が安全だと答えた。
西門慶だけを先に都へ連れていくのかと聞かれ、金蓮に同行してもらうつもりだと話した。
「増えるだけでございます」と月娘は言った。
何が増えるのか分からず聞き返すと、夫が手を出す女だと答えた。達也が返事に困ると、月娘の口元に笑みが浮かんだ。
「開封へ来てください」と達也は頼んだ。
夫を止めるためかと月娘が尋ねると、達也は行き過ぎた時だけ知らせてほしいと答えた。
「損になる悪事なら止めます。儲かるのであれば、僕も一枚加わります」
月娘は達也を見つめ、声を抑えて笑った。
「本当に、旦那様へ似てこられました」
「僕は、旦那様ほど女好きではありません」
「そうでしょうか」
月娘の手が腹に触れた。達也は、その意味に気付かなかった。
廊下の向こうから金蓮の声がした。
「お姉様。旦那様が、開封へ持っていく妻を3人に絞ると申しております」
月娘の顔から笑みが消えた。昨夜は全員を連れていくと決めたはずだったが、馬車代がかかるという理由らしい。
月娘は腹をかばって立ち上がり、達也へ告げた。
「旦那様へ、私塩で得た銭があるのに、妻を運ぶ馬車代を惜しむのかとお尋ねください」
「僕が言うのですか」
「旦那様を助けると、昨夜お約束になったのでしょう」
月娘は書院を出ていった。間もなく母屋から、西門慶の声が響いた。なぜ私塩の件を知っているのかと問われ、月娘は帳面を見れば分かると答えた。
達也が話したのではないかと夫が疑うと、月娘は言った。
「知府様は、旦那様ほど口が軽くございません」
それでは自分が悪いのかと西門慶が言い返したが、月娘は動じなかった。
「ほかに、どなたがおられるのでございますか」
達也は書院で笑った。西門慶一家が開封へ来れば、府衙も官舎も静かではいられないだろう。
それでも、西門慶の人脈は使える。賄賂を渡し、私塩を売り、他人の妻へ手を出す男を捕らえるのではなく、自分の側へ引き入れる。従う悪党には商いをさせ、勝手に町を荒らす者を捕らえる。その方が開封を治めやすいと、達也は考えていた。
法をすべての者へ平等に適用するつもりはなかった。西門慶は恩人であり、月娘は愛する女である。西門家は、北宋で最初に自分を受け入れた家だった。一家を守るためなら、知府の印も捕吏も、皇帝から与えられた地位も使うつもりだった。
それを悪事と呼ばれても、否定はできない。達也自身、恩人の正室と関係を持っていた。月娘への思いと、いつか妻にしたいという望みは明かしたが、2人の間にあったことだけは隠し続けていた。
開封の治安を任せようと選んだのは、不正な商いと賄賂に通じた西門慶だった。その罪を隠すと約束した知府も、法より恩義を選んだ。2人はやがて、それぞれの権力と人脈を使い、都の表と裏を治め始めることになる。




