第6話(前編2)――「知府と悪党」
開封知府となった倉達也は、府衙へ届けられた訴えだけを読んでいても、都で実際に起きている犯罪は分からないと気づく。
達也は曹静蘭の助言を受け、官服を脱いで開封の町へ出た。そこで知ったのは、捕吏に握り潰された盗みと、役人、商人、賭場、妓楼、ならず者が銀で結び付いた現実であった。
その裏側を探るため、達也は清河県の西門家へ向かう。
(1117年春)
達也は官服を脱ぎ、灰色の長衣へ着替えた。
腰には知府の印も佩玉も下げず、護衛にも府衙の役人と分かる服装をさせなかった。町へ出るのは達也と、古くから開封に住む書吏、それに少し離れて歩く護衛2人だけである。
「知府様のお顔をご存じの者もおります。長く同じ場所へ立たない方がよろしいでしょう」
書吏が小声で注意した。
「今日は知府ではありません。都へ品物を仕入れに来た地方商人です」
「そのお言葉遣いでは、商人には見えません」
「では、帳面を任されている店員ということにしましょう」
「それでも、育ちのよい店員に見えます」
「黙って歩けばよいのですね」
達也は大通りを外れ、南東の商店街へ入った。
表通りには絹を扱う店、香料店、茶店、酒楼が軒を連ねていた。荷車が通るたびに人が道の両側へ分かれ、荷が過ぎれば再び中央まであふれた。呼び売りの声、鍋を打つ音、馬の蹄、寺院の鐘が絶えず重なっている。
しかし、1本裏へ入ると様子が変わった。
路地には壊れた桶や野菜くずが置かれ、家々の2階が道へ張り出している。日の当たらない壁際には、仕事を待つ荷運び人足が座っていた。表通りの店で働く者も、夜になればこの一帯へ戻ってくる。
達也は小さな麺屋へ入った。
主人は50歳を過ぎた男で、片方の耳が欠けている。達也たちが汁麺を頼むと、主人は椀を置き、銭を受け取って奥へ戻ろうとした。
「この辺りは、夜も人通りが多いのですか」
達也が尋ねた。
「初めて来たのか」
「地方から出てきました。近くで部屋を借りようかと思っています」
「夜は戸を閉めておけ。表通りほど安全ではない」
「盗人が出るのですか」
主人は答えず、達也の顔を見た。
達也が追加の肉を頼み、銭を先に置くと、主人はそれを袖へ入れた。
「盗人なら、どこにでもいる。ここだけではない」
「役所へ届ければ、捕らえてもらえるでしょう」
「開封へ来たばかりだから、そのようなことを申す」
主人は鼻で笑った。
「3月前、裏の米屋へ盗人が入った。銭箱と米2俵を持っていかれた。米屋の主人が役所へ行くと、訴えを受け取る前に、捕吏へ渡す銭を求められた」
「盗まれた者から、銭を取るのですか」
「捕吏も飯を食う。足を使わせるなら銭を出せという理屈だ。米屋は銭を出したが、盗人は捕まらなかった」
「見つからなかったのでしょう」
「2日後には賭場で遊んでいた。皆が見ている。それでも捕吏は捕らえなかった」
「なぜですか」
「盗人の方が多く銀を出したからだろう」
主人はそこまで話すと、別の客の注文を聞きに行った。
達也は汁麺を食べながら、書吏を見た。
「府衙の記録に、米屋の盗難はありましたか」
「記憶にございません」
「訴えを受け取らなければ、事件は起きなかったことになります」
「下の者が知府様へ上げなかったのでしょう」
「僕が帳面だけを読んでいれば、開封は実際より安全な町に見えますね」
麺屋を出た達也は、米屋を訪ねた。
地方から来た商人で、米の相場を知りたいと告げると、主人は警戒しながらも店先へ招いた。達也が盗難の話へ触れると、主人の妻が奥から出てきて、夫へ話すなと叫んだ。
「もうよいのです。あの者たちに聞かれれば、また店を荒らされます」
主人は妻を下がらせ、声を落とした。
「盗人は、この先の賭場に出入りする男です。捕吏も知っています」
「それでも捕らえないのですか」
「捕らえても、その日のうちに放されます。賭場の主人が銀を出すからです」
「知府へ直訴してはどうですか」
「知府様へ会うまでに、何人の役人を通ると思っているのです。訴えた者の名が先に賭場へ伝わります」
達也は、それ以上勧めなかった。
米屋を出ると、書吏の顔が青ざめていた。
「知府様。府衙へ戻りましたら、ただちに関係者を調べます」
「今すぐ捕吏を捕らえれば、賭場も盗人も逃げます。誰が誰から銀を受け取っているのか、先に確かめます」
達也たちは午後まで町を歩いた。
古着屋では、客から預かった上着が消えたが、店主は届けていなかった。井戸端の女は、夜道で財布を奪われた息子が、捕吏から酒代を求められたと話した。荷運び人足の男は、盗品を扱う店の名を口にしかけたが、近くを歩く男に気づくと話をやめた。
妓楼の裏では、店の用心棒と捕吏が同じ卓で酒を飲んでいた。
達也は茶店の2階から、その様子を見下ろした。
「あの捕吏の名は」
達也が尋ねた。
「劉三でございます。南東の2坊を受け持っております」
「月に何度、妓楼へ来ますか」
「そこまでは分かりません」
「役所にいる者へ尋ねても、本当のことは分からないでしょうね」
劉三は酒を飲み終えると、銭を払わずに立ち去った。妓楼の男は頭を下げ、その袖へ小さな包みを入れた。
達也は茶を飲んだ。
「あれが、帳面に記されない開封です」
「知府様のお力で、劉三を取り調べれば――」
「劉三1人を捕らえても、代わりが同じ銀を受け取ります」
「では、どうなさるのですか」
「銀を渡す者、受け取る者、盗品を売る者、賭場を守る者を一つにつないで見なければなりません」
府衙へ戻ると、曹静蘭が執務室で待っていた。
達也は町で聞いた話を伝えた。静蘭は驚かなかった。
「知府様がお読みになる帳面は、役人が知府様へ見せてもよいと判断した出来事だけでございます」
「訴えを受け取る前に、捕吏が銭を求めています」
「以前から行われております。前の知府も、すべてを知らなかったわけではございません」
「知りながら放置したのですか」
「捕吏をすべて入れ替えれば、町の地理も、盗人の顔も分からない者ばかりになります。残せば銀を受け取る。前の知府は、騒ぎを起こさない方を選びました」
「僕にも、同じ選択をさせるつもりですか」
「いいえ。知府様なら、別の使い方をお考えになると思っております」
達也は椅子へ座った。
「役人の側から調べるだけでは、口裏を合わせられます。賭場、妓楼、商人、ならず者の側から役人を見る者が必要です」
「そのような者に、お心当たりがございますか」
達也はすぐに答えなかった。
役人へ銀を渡すことをためらわず、商人の帳面を読み、薬舗と生薬店を持ち、妓楼にも賭場にも顔が利く男がいる。女に目がなく、他人の妻にまで手を出すが、受けた恩と損得の勘定は忘れない。
「1人おります」
「開封の方でございますか」
「清河県の商人です」
「信用できるのでございますか」
「善人ではありません。しかし、僕が北宋へ来た時に助けてくれた恩人です」
達也は翌朝、清河県へ向かった。
◇ ◇ ◇
西門家の門前で馬車を降りると、使用人が達也の顔を見て母屋へ走った。
間もなく西門慶が妻妾たちを連れて現れた。
「倉殿ではないか。開封知府ともなれば、清河県の家など忘れたと思っておったぞ」
「忘れるはずがありません」
達也は西門慶へ礼をし、呉月娘たちにも頭を下げた。
月娘と李瓶児の腹は大きくなっていた。西門慶は2人とも自分の子を身ごもっていると信じている。しかし月娘の子は、達也との間にできた子であった。
月娘は真実を告げていない。
達也も、自分の子だとは知らなかった。
潘金蓮が達也の官服を見て笑った。
「以前は旦那様の書院で本を読んでおられた方が、今は都の知府様でございますか」
「官服を着ている時だけです。この家では、以前と変わりません」
「それでは、私どもも以前のようにお相手してよろしいのですね」
「金蓮」
月娘が名を呼ぶと、金蓮は口元を袖で隠した。
「ご挨拶をしただけでございます」
その日の夕食には、急ごしらえとは思えないほどの料理が並んだ。
西門慶は上座へ達也を座らせようとしたが、達也は以前と同じように断った。
「開封では知府ですが、この家では旦那様に拾われた客人です」
「状元になっても変わらんな」
「変えてはならないこともあります」
達也が答えると、月娘がわずかに目を伏せた。
酒が3巡すると、西門慶は近頃の商いと女の話を始めた。
「倉殿がくれた薬は、まだ十分に残っておる。月娘が帳面を付けているため、俺も決められた数しか飲ませてもらえん」
「それでよいのです」
「おかげで、近頃は林夫人まで俺のものにした」
月娘の箸が止まった。
「旦那様、お食事の席でお話しになることではございません」
「倉殿には隠す必要はない。男同士だ」
西門慶は達也へ身を寄せた。
「林夫人は、林太尉が長く家を空けることへ不満を持っておった。最初は俺の贈り物も返してきたが、3度目には受け取った。あとは倉殿の薬が働いた」
「薬のせいにしないでください」
「薬がなければ、夜明けまで相手はできなかった」
「林太尉に知られないようにしてください。旦那様が捕らえられれば、僕まで薬を渡した理由を尋ねられます」
「心配するな。林夫人の方が、夫に知られることを恐れておる」
「それなら、当分は切れませんね」
「倉殿も分かってきたではないか」
西門慶が笑った。
達也も酒杯を口へ運んだ。
自分には、西門慶の女遊びを責める資格がない。西門慶が王六児の家へ泊まっていた夜、達也はその正室である月娘を抱いた。
西門慶が他人の妻へ手を出す男なら、達也もまた、恩人の妻を一晩中離さなかった男である。
違うのは、達也が月娘との一夜を口外せず、西門慶が自分の情事を自慢することだけであった。達也は月娘を愛していることまで隠すつもりはなかった。
月娘が腹へ手を添えた。
達也はその手を見ないようにしながら、杯を空にした。
宴が終わり、妻妾たちが部屋を出たあと、西門慶は戸を閉めた。先ほどまでの上機嫌な顔から、笑みが消えている。
「倉殿。実は、助けてもらいたいことがある」
「林夫人のことですか」
「それとは別だ」
「ほかにもあるのですか」
「その言い方では、俺が悪事ばかりしているようではないか」
「違うのですか」
西門慶は咳払いをした。
「塩のことで、少し問題が起きた」
達也は酒杯を卓へ戻した。
宋では塩の専売が行われている。正規の手続きを踏まずに仕入れた私塩を売れば、財産を没収され、獄へ入れられることもある。
「どの程度の問題ですか」
「塩引を持つ商人から買った塩を、清河県で売った」
「それだけなら、問題はないでしょう」
「買った量より、売った量が多かった」
「どれくらいですか」
「およそ3,000斤だ」
「それを、少しと申したのですか」
「俺の商い全体から見れば、少しだ」
西門慶は、海沿いから運ばれた私塩を買い、正規の塩へ混ぜて売っていた。
県の役人と倉の書手へ銀を渡し、帳面の量も合わせてある。ところが、運搬を任せた男の1人が、分け前を倍にするよう求めてきた。
西門慶が断ると、男は塩を運んだ者の名、受け渡した場所、役人へ渡した銀の額を記した書付を持って姿を消した。
「男の名は」
「張七だ。塩を運ぶ前は、運河で荷降ろしをしておった」
「家族はいますか」
「妻と娘が清河県にいる」
「男は家族を残して逃げたのですか」
「妻には、商いで済州へ行くと申しておる」
「それなら、まだ遠くへは逃げていません」
西門慶が達也の顔を見た。
「助けてくれるのか」
「そのために話を聞いているのです」
「先ほどから、知府らしく難しい顔をしておるから、俺を捕らえるのかと思ったぞ」
「旦那様を捕らえるためなら、役人を連れてきています」
達也は卓上の酒壺を取り、西門慶の杯へ酒を注いだ。
「僕が北宋へ来た時には、身元も、家も、銭もありませんでした。旦那様は僕を西門家へ置き、師を雇い、科挙を受けられる身分まで用意してくださいました」
「その話は、何度も聞いた」
「旦那様が私塩を売ったからといって、その恩が消えるわけではありません」
「では、目をつぶってくれるのだな」
「はい」
達也はためらわずに答えた。
「今回だけとは申しません。旦那様が僕を助けてくださったように、僕も旦那様を助けます」
西門慶はしばらく達也を見つめたあと、酒杯を一息に空けた。
「倉殿なら、そう申してくれると思っておった」
「ただし、旦那様のしたことを、なかったことにはできません」
「罪を償えと申すのか」
「違います。罪を隠すには、何をしたのか、僕がすべて知らなければならないということです」
西門慶は笑った。
「それなら認めよう。俺は私塩を売り、役人へ銀を渡した。得た銭は返さぬし、税も余分には払わぬ」
「それで結構です」
「倉殿。都へ行って、人が変わったのではないのか」
「官服を着れば、誰でも善人になると思っていたのですか」
達也は張七の行動を考えた。
東平府へ訴えれば、西門慶とともに収賄した役人も調べられる。清河県の役人が書付を受け取れば、握り潰される恐れもある。張七が確実に西門慶を追い詰めたいなら、清河県から離れ、より上の役所へ持ち込むはずである。
「張七は、済州へ向かったと見せかけて、開封へ向かうでしょう」
「なぜ分かる」
「清河県や東平府では、旦那様の銀を受け取っている役人が多すぎます。張七も知っているはずです。僕が張七なら、都の御史台か開封府へ書付を持ち込みます」
「開封府なら、倉殿の役所ではないか」
「だから、助けられます」
達也は卓へ指を置いた。
「旦那様は明日の朝、張七の妻を呼んでください。ただし、脅してはなりません。銀を渡し、夫がどこへ行ったのかを聞き出してください」
「申さなければどうする」
「娘も一緒に西門家で預かると伝えてください」
「それは人質ではないのか」
「客として厚く扱ってください。張七が戻れば、妻子を助けてもらった恩人が旦那様になります。戻らなければ、こちらが妻子を養っている限り、張七は落ち着いて逃げられません」
「倉殿の方が、俺より悪いことを考えるな」
「妻子を殺すより安く、あとに恨みも残りません」
達也は続けた。
「僕は開封へ戻り、御史台と開封府の門へ人を置きます。張七が訴えに来たら、書付を受け取る前に僕のところへ連れてこさせます」
「張七は、知府本人が私塩の件を聞くと知れば逃げるぞ」
「私塩の告発者としては呼びません。清河県から来た重要な証人として保護します」
「保護してから、どうする」
「旦那様と会わせます」
「俺に殺させるのか」
「殺しません。死体は口を閉じますが、消えた理由を役人が調べます。生かしておけば、書付が偽物であったと本人の口から言わせることができます」
「銀で口を塞ぐのか」
「銀だけでは、また増額を求めます」
達也は西門慶を見た。
「開封で、張七へ役目を与えます。私塩を運び、役人へ銀を渡した男なら、塩の抜け道も、役人の値段も知っています。捕吏の手先として使えます」
「裏切った男を使うのか」
「裏切る理由を、こちらが先に用意しておけばよいのです。張七が旦那様を告発すれば、妻子は清河県に残されます。こちらへ付けば、銀と役目と家族を得られます。どちらを選ぶかは明らかでしょう」
西門慶は腕を組んだ。
「書付はどうする」
「僕の目の前で焼きます」
「写しを取っているかもしれぬ」
「その場合は、書付に名のある役人を使います。自分たちが獄へ入りたくなければ、張七がどこへ写しを預けたか、必死になって探すでしょう」
「役人どもが、俺へ責任を押しつけたらどうする」
「旦那様が捕らえられれば、銀を受け取った者の名もすべて朝廷へ出ると伝えます。旦那様だけを切り捨てれば、自分たちも助からないと分からせます」
「東平府が調べ始めた場合は」
「開封府で別件の取り調べをしていると申し入れ、張七を渡しません。僕は皇帝から直接任じられた開封知府です。東平府も、証拠がなければ強くは出られません」
西門慶の口元に、次第に笑みが戻った。
「倉殿を状元にして正解であった」
「旦那様が状元にしたわけではありません」
「師を雇い、銭を出し、書院を貸した」
「答案を書いたのは僕です」
「その僕が、今は俺の私塩を隠してくれる」
「恩を返しているだけです」
達也は自分の杯にも酒を注いだ。
「ただし、僕もただで危険を引き受けるつもりはありません」
「いくら欲しい」
「銀ではありません」
「では、女か。林夫人は駄目だぞ」
「旦那様と同じにしないでください」
「他の女なら誰でも良い。潘金蓮か?はたまた李瓶児か?王六児か?」
達也の手が一瞬止まった。
西門慶は構わず、酒を飲んでいる。
達也は月娘と過ごした一夜を思い出した。自分はすでに、西門慶の正室呉月娘と姦通している。
達也は何事もなかったように、しかし真剣に答えた。
「僕は呉月娘様を愛しています。呉月娘様を頂きたい」
「おいおい。あいつは俺の正室だぞ。無茶を言うな」
西門慶は笑いかけたが、達也が目をそらさないため、杯を卓へ戻した。
「冗談ではないのか」
「冗談で、旦那様の正室を頂きたいとは申しません」
「月娘にも申したのか」
「はい。結婚を申し込み、断られました」
「月娘がお前を断ったのなら、それで終わりであろう」
「僕の気持ちは終わっていません。旦那様から奪ってでも、妻にしたいと思っています」
西門慶の目から酔いが引いた。
「倉殿。俺を助ける代わりに月娘を渡せと申すなら、私塩の件は自分で始末する」
「取引にはしません。旦那様が断っても助けます。ただ、僕が月娘様を本気で愛していることは知っておいてください」
「承知した。だが、月娘は渡さぬ。ほかの望みを申せ」
「それでは、旦那様の人脈と悪知恵を頂きましょう」
「俺の悪知恵だと」
「開封では、盗みや強盗が役所の帳面に載っていません。捕吏は盗人から銀を受け取り、賭場や妓楼の主人は役人を買っています。善人の役人を送っても、誰が裏で銭を動かしているのか分かりません」
「それで、俺に何をさせる」
「西門家を開封へ移してください」
西門慶が眉を上げた。
「俺を都へ呼ぶのか」
「はい。表向きは開封府の治安を立て直す協力者です。正式な役職については、朝廷へ上奏します。それが難しければ、僕の名で府衙の役目を与えます」
「商人の俺に、捕吏を動かさせるのか」
「旦那様は、役人がいくらで動くかをご存じです。盗品がどこへ流れ、妓楼が誰へ銀を渡し、賭場の主人が誰を用心棒に雇うかも分かるでしょう」
「倉殿は、俺を悪党だから都へ呼ぶのだな」
「善人に用はありません。開封には、すでに大勢います。少なくとも、本人たちは自分を善人だと思っています」
西門慶が声を上げて笑った。
「俺に悪党を捕らえさせるのか」
「全部を捕らえる必要はありません」
「どういう意味だ」
「僕たちに従う者は残します。従わず、勝手に町を荒らす者だけを捕らえます。賭場も妓楼も、すべて潰せば地下へ潜るだけです。誰が仕切っているのか分かる状態で残し、毎月の銭と情報を出させた方が役に立ちます」
「知府が、そのようなことを申してよいのか」
「戸を閉めたのは旦那様です」
「気に入った」
西門慶は達也の杯へ自分の杯を当てた。
「俺を助け、そのうえで都の悪党をまとめさせる。倉殿は、俺が思っていたより欲が深い」
「旦那様に教わりました」
「俺は勉学しか教えておらん」
「西門家で暮らしていれば、頼まなくても覚えます」
「それで、俺が断ったらどうする」
「張七は捕らえ、書付は焼きます。旦那様を助けることに変わりはありません」
「それでも、俺を都へ呼ぶのか」
「恩返しと取引は別です。助けたあと、旦那様が断るなら、僕は別の悪党を探します」
西門慶の笑みが消えた。
「俺より役に立つ悪党がおるのか」
「開封は広い町です。探せばいるでしょう」
「倉殿。俺を怒らせるために申しておるな」
「引き受けていただけますか」
「引き受ける。俺より役に立つ男がいるなどと思われてはならん」
西門慶は即座に答えた。
「妻たちも全員連れていく。瓶児と月娘は身重だ。先に屋敷を用意せよ」
「府衙の近くに広い屋敷を探します」
「店はどうする」
「清河県の店は番頭へ任せ、開封にも店を出してください。役所から得た情報を使い、邪魔な商人を追い落としても構いません」
「よいのか」
「旦那様が儲けなければ、ほかの者が儲けます。ただし、僕の役目を危うくするほど目立たないでください」
「ずいぶん都合のよい決まりだ」
「知府とは、決まりを作る側です」
西門慶は腹を抱えて笑った。
「それなら、あとは月娘を説得してくれ。俺が申せば、また勝手に決めたと叱られる」
「私塩のことも、奥様へ話すのですか」
「話さずに済ませたい」
「無理でしょう。奥様は帳面を見れば気づきます」
「だから、倉殿から話してくれ」
「旦那様は、面倒なことをすべて僕へ押しつけますね」
「俺を助けると申したであろう」
「分かりました」
達也は酒杯を空にした。
その夜、2人の間で決まったことを記した書付は作られなかった。
私塩の証拠を奪い、告発者を抱き込み、収賄した役人を脅し、犯罪を知りながら握り潰す。その相談を紙へ残すほど、2人とも愚かではなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、西門慶は妻妾たちのそろった朝食の席で、昨夜の話をあっさり口にした。
「月娘。倉殿が、お前を俺から奪って妻にしたいと申したぞ」
箸を動かす音が止まった。
金蓮が達也と月娘を交互に見て、玉楼は驚いた顔を伏せた。瓶児は腹へ手を添えたまま、何も言わなかった。
「旦那様。そのようなことを、皆の前でお話しにならないでください」
月娘は西門慶をたしなめたが、達也へは目を向けなかった。
「本人が俺へ申したのだ。隠す話でもあるまい」
「倉様は、本当にそのようなことをおっしゃったのでございますか」
金蓮が尋ねた。
「申しました」
「旦那様を助ける代わりに、お姉様をお求めになったのですか」
「違います。旦那様を助けることに条件は付けていません。月娘様を愛していることと、いつか僕の妻にしたいことを、旦那様へ告げただけです」
達也は妻妾全員の前で言い切った。
西門慶は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「俺は断った。それでも諦めぬそうだ」
月娘はようやく達也を見た。達也が自分を愛していることは知っていた。しかし、西門慶の前で自分を求め、断られたあとも奪う意思を捨てていないと告げたことまでは知らなかった。
「私は旦那様の正室でございます」
「分かっています」
「それでも、お考えを変えないのでございますか」
「変えません」
月娘はそれ以上答えず、朝食を終えると達也を書院へ呼んだ。
2人きりになると、達也は西門慶の私塩について話した。
「旦那様が、私塩をお売りになったのでございますね」
「ご存じだったのですか」
「仕入れた塩と売った塩の量が合いません。旦那様が帳面を分けておられたので、尋ねずにおりました」
「なぜ、尋ねなかったのですか」
「尋ねれば、私まで事情を知ったことになります」
月娘は静かに答えた。
「旦那様は、助かるのでございますか」
「助けます」
「不正に得た銭を返させるのでございますか」
「返させません」
「役人へ銀を渡したことも、お隠しになるのですか」
「はい」
月娘は達也の顔を見た。
「開封知府のお立場で、そのようなことをなさってもよいのでございますか」
「よくはありません」
「では、なぜ」
「旦那様は、僕が何者かも分からなかった時に助けてくださいました。僕は旦那様が罪を犯したからといって、その恩を忘れるつもりはありません」
「ご自分の地位を失うかもしれません」
「失わないように隠します」
月娘の目がわずかに揺れた。
目の前にいる男は、皇帝から開封を任された知府である。その権力を恩人の罪を隠すために使うと、迷わず決めていた。
「旦那様を、開封へお連れになるのですね」
「はい。開封の捕吏と、町の裏側を束ねてもらいます」
「私塩の罪を見逃す代わりでございますか」
「それとは別です。旦那様が断っても、私塩の件は潰します」
「それでは、旦那様が何も学ばれません」
「学ばせるつもりはありません」
達也は答えた。
「旦那様を善人へ変えても、役には立ちません。あの方は悪党のままでよいのです。ただし、これからは僕の目の届くところで悪事をしてもらいます」
月娘はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「知府様は、旦那様に似てこられました」
「奥様は、僕を嫌いになりましたか」
「いいえ」
月娘はすぐに答えた。
「旦那様を見捨てなかったことに、安心いたしました」
達也は月娘の腹へ目を向けた。
「長旅は大丈夫でしょうか」
「医者と相談いたします。無理であれば、私は出産後に参ります」
「その方が安全です」
「知府様が、旦那様をお1人で都へ連れていかれるのですか」
「金蓮様に同行していただこうと思っています」
「増えるだけでございます」
「何がですか」
「旦那様が手を出す女でございます」
達也は返事に困った。
月娘の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「奥様」
「はい」
「開封へ来てください」
「旦那様を止めるためでございますか」
「旦那様を止める必要はありません。行き過ぎた時だけ、知らせてください」
「知府様が、お止めになるのですか」
「損になる悪事なら止めます。儲かるのであれば、僕も一枚加わります」
月娘は達也を見つめたあと、声を抑えて笑った。
「本当に、旦那様へ似てこられました」
「僕は、旦那様ほど女好きではありません」
「そうでしょうか」
月娘の手が腹へ触れた。
達也は、その意味に気づかなかった。
廊下の向こうから、金蓮の声が聞こえた。
「お姉様。旦那様が、開封へ持っていく妻を3人に絞ると申しております」
月娘の顔から笑みが消えた。
「全員連れていくと、昨夜決めたはずです」
「馬車代がかかるそうでございます」
月娘は立ち上がった。
「知府様、少し失礼いたします」
「はい」
「旦那様へ、私塩で得た銭があるのに、妻を運ぶ馬車代を惜しむのかとお尋ねください」
「僕が言うのですか」
「旦那様を助けると、昨夜お約束になったのでしょう」
月娘は腹をかばいながら、書院を出ていった。
すぐに母屋から、西門慶の声が響いた。
「月娘、なぜ私塩のことを知っておる」
「帳面を見れば分かります」
「倉殿が話したのではないのか」
「知府様は、旦那様ほど口が軽くございません」
「では、俺が悪いと申すのか」
「ほかに、どなたがおられるのでございますか」
達也は書院の中で笑った。
西門慶一家が開封へ来れば、府衙も官舎も、今までのように静かではいられない。
しかし、善人の役人だけでは、都の悪を支配できない。
西門慶は賄賂を使い、女を奪い、私塩を売る。その西門慶を捕らえるのではなく、自分の側へ引き入れる。従う悪党には商いをさせ、従わない悪党だけを捕らえる。
達也は、その方が開封を治めやすいと考えていた。
法をすべての者へ平等に適用するつもりもなかった。
西門慶は恩人である。月娘は愛する女である。西門家は、北宋で達也を最初に受け入れた家である。
その一家を守るためなら、知府の印も、捕吏も、皇帝から与えられた地位も使う。
それを悪事と呼ぶ者がいれば、否定するつもりはなかった。
達也自身も、すでに西門慶の正室を抱いている。月娘への愛と、いつか奪う意思は西門慶にも妻妾たちにも告げたが、月娘と姦通した事実だけは守っていた。
西門慶だけを裁けるほど、清廉な男ではない。
開封知府となった達也が最初に選んだ治安の責任者は、清河県で私塩を売り、役人へ賄賂を渡し、他人の妻へ手を出していた男であった。
西門慶。
そして、その罪を握り潰した知府もまた、恩人の妻を奪い、法より恩義を選んだ悪党であった。
2人の悪党は、やがて北宋最大の都を、自分たちなりのやり方で支配し始める。
第6話前編2では、倉達也が曹静蘭の助言に従い、官服を脱いで開封の町を歩いた。
町の者から話を聞いた結果、役所へ届けられていない盗みが多く、捕吏の中には訴えを受け取る前に銭を求める者や、盗人から銀を受け取って放す者がいることが分かった。
達也は、帳面に表れない犯罪を調べるには、商人、役人、賭場、妓楼、ならず者の世界を知る人物が必要だと考えた。
そこで達也は清河県の西門家を訪ね、西門慶、呉月娘をはじめとする一家と再会した。
月娘は達也の子を身ごもっている。しかし達也は、その子を西門慶の子だと信じており、月娘も真実を明かさなかった。
西門慶は相変わらず女好きで、林太尉の妻である林夫人をものにしたと達也へ自慢した。
達也は西門慶へ、月娘を愛しており、いつか奪って妻にしたいと正面から告げた。西門慶は拒んだが、翌朝には妻妾たちの前でその話を明かした。達也も否定せず、月娘への思いを変えないと言い切った。
その一方、西門慶は役人へ銀を渡し、正規の塩へ3,000斤の私塩を混ぜて売っていた。運搬役の張七が証拠の書付を持って逃げたため、西門慶は開封知府となった達也へ助けを求めた。
達也は、西門慶から受けた恩を返すため、知府の権限を使って私塩事件を握り潰すと約束した。
張七を殺すのではなく、妻子を西門家で保護し、本人には銀と役目を与えて抱き込む。証拠の書付は焼き、収賄した役人には、自分たちも罪を問われると理解させて口を閉ざす計画である。
達也は西門慶へ、不正利益の返還も、追徴納税も、自首も求めなかった。
さらに達也は、西門家を開封へ移し、西門慶に都の捕吏、賭場、妓楼、盗品売買、役人への賄賂をまとめて支配させることにした。
西門慶を善人へ変えるつもりはない。達也に従う悪党は残し、従わない悪党だけを捕らえる方針である。
西門慶は、その申し出を受けた。
やがて開封では、西門慶が裏社会をまとめ、達也が知府の権力でそれを守る体制が作られていく。
西門慶だけではない。
恩人の罪を握り潰し、その正室を抱いた事実を隠し続ける達也もまた、この物語の悪党である。




