第6話(前編1)――「知府を教える母」
(1117年春、北宋・開封府・開封府衙)
辰の刻を告げる鐘が鳴る前から、開封府衙の正門には役人が並んでいた。新しい知府が20歳の状元であることは、すでに府衙の隅々まで伝わっていた。
地方の名家や官僚の家に生まれた者ではない。清河県の商家に身を寄せて学び、地方試験、中央の試験、殿試をすべて首席で通った若者である。期待する者がいる一方、長くは続かないと見る者もいた。
倉達也は正門の前で馬車を降りた。新しい官服をまとい、冠を着けている。西門家で暮らしていた頃より、立ち居振る舞いにも落ち着きが加わっていたが、門前の役人たちを見ると足が止まった。門から前庭まで、左右に人の列が続いていた。
「全員、僕の部下なのか」と達也は小声で漏らした。
すぐ後ろにいた崔文亮が答えた。
「正確には、ここに並んでいない者も倉知府の部下でございます」
「励ますつもりで言ったのなら、逆の効果が出ている」
文亮は事実を述べただけだと、真顔で返した。
達也と同じ20歳だが、科挙の順位は下位だった。文章の華やかさには欠けるものの、数字に強く、物事を一つずつ確かめる性格である。朝廷から開封府へ配属された文亮を、達也は直属の部下に抜擢した。ほかの官人からは年長者を推されたが、役所の古いやり方を変えるには、まだ染まり切っていない若者の方がよいと考えたのだ。
ただし、文亮には相手を安心させるために話を加減するところがなかった。達也は、緊張している時くらい都合のよいことを言ってもよいと伝え、例えば並んでいるのは半分だけだと言えばよいと教えた。
「実際には3分の1ほどでございます」と文亮は訂正した。
「もうよい。行こう」
達也が歩き出すと、役人たちが一斉に腰を折った。着任を祝う何十人もの声が重なり、前庭に響いた。
達也は上座へ進み、役人たちの顔を見渡した。挨拶を済ませると、開封の治安、物価、訴訟、税、倉、河川について順に報告を求めた。
最初の役人が分厚い帳面を開いた。
「前任の知府様のご治世によりまして、管内はおおむね平穏でございます」
達也は、その「おおむね」がどの程度を指すのか尋ねた。役人は大きな騒ぎはないと答えたが、小さな騒ぎの件数を問われると口を閉ざした。帳面には記録があるものの、数えるには時間が必要だという。
達也が文亮に数えるよう頼むと、すでに調べていた。
「すでに数えました。今月に入ってから、盗みが73件、傷害が28件、行方不明が14件ございます。このほか、役人が受理しなかった訴えが少なくとも19件ございます」
前に立つ役人の顔から血の気が引いた。文亮は知府に尋ねられると考え、昨夜のうちに数えていた。尋ねられなければ、翌日に自分から報告するつもりだったという。
役人たちの間にどよめきが起きた。達也は文亮の報告を受け、全員へ告げた。
「平穏という言葉は、今後、数字と一緒に使ってほしい。盗みが73件あるなら、それを平穏と呼ぶかどうかは、そのあとで決める」
次に前へ出た倉の役人は、十分な穀物を蓄えていると報告した。しかし、何人が何日食べられる量なのか、どの程度の凶作を想定しているのかと尋ねられると、答えられなかった。
この役所では、具体的な数字を尋ねるだけで返事が止まる。だが、答えに詰まらせるだけでは仕事は進まなかった。
午前中の報告が終わる頃には、達也の前に帳面が12冊積まれていた。午後には訴状23通、商人からの嘆願8通、役人の任免に関する書付17通が加わった。
達也は書類の山を見た。
「開封知府という役目は、もっと人へ命令する仕事だと思っていた」
「命令するために、先にこれを読むのでございます」と文亮は答えた。
すべて読む必要があると聞き、達也は皇帝が読む速さまで確かめて任命したのかとぼやいた。文亮は、殿試の答案をほかの受験者より早く書き終えたと聞いていると返した。
「だからといって、書付を増やしてよい理由にはならない」
文亮は少し考えた。
「それを減らすのも、知府の仕事ではございませんか」
達也は書類から顔を上げた。
「君を部下にしたことを、早くも後悔し始めた」
文亮は自分に不手際があったのかと尋ねた。正しいことばかり言うからだと答えられると、今度は誤ったことを申し上げた方がよいのかと聞き返した。
「その質問をするところが、さらに困るのだ」
文亮は理由が分からないらしく、首をかしげた。
◇ ◇ ◇
酉の刻に近づいた頃、文亮が執務室へ入り、出かける支度を促した。今夜は文亮の家で夕食を取ることになっているという。
達也は筆を止めた。初めて聞く話だと思ったが、文亮は前日に招いたと説明した。役所へ来る時刻や持参する書付の話のあと、母がぜひ招きたいと言っていると伝えたのだという。
「君はその直後に、未処理の訴状が86通あるとも言った。そちらに気を取られた」
今夜は断るかと聞かれ、達也は目の前の書付へ視線を戻した。着任初日から仕事を残して遊びに行ったと思われたくはなかった。ただ、文亮の家には病床の父がいると聞いていた。
達也は父の病状を尋ねた。半年ほど前から咳が続き、近頃は血の混じった痰が出るという。熱があり、食事もあまり取れず、以前とは別人のように痩せていた。夜に汗をかくことも、母から聞いていた。
達也は顔を上げた。長引く咳に血痰、発熱、食欲不振、体重の減少、寝汗が重なっていた。それだけで病名を決めることはできないが、肺結核を疑った。
「分かった。伺おう」
達也は机の横の鍵を取り、官舎に運び込ませた荷物を開けた。中には北宋へ来る前に用意した薬箱があり、注射器、針、消毒薬、体温計、聴診器、包帯、各種の薬剤が収められていた。
薬箱を持ち上げ、文亮へ伝えた。
「父上を診せてもらう。治せるとは約束できないが、何もしないよりはよい」
文亮が深く頭を下げると、達也は、まだ礼を言うには早く、自分は医者ではないと念を押した。それでも文亮は、薬箱を持って来てくれるだけで父母は喜ぶと答えた。
達也は、その言い方は役人として少し問題があると言った。上役が部下の家へ行くだけで父母まで喜ばなければならない役所は、健全とは思えなかった。
「母なら、その点についても知府へ何か申し上げると思います」と文亮は言った。
母親は自分を叱るつもりなのかと達也が尋ねると、文亮は会ってみなければ分からないと答えた。達也は薬箱を抱えたまま、訪問が少し気になり始めた。
◇ ◇ ◇
崔家は、府衙から馬車で半刻ほどのところにあった。大通りから1本入った通りに面し、門構えは立派だが華美ではない。庭には梅と竹が植えられ、石畳はきれいに掃き清められていた。
門が開くと、青みを帯びた淡い衣の女が立っていた。達也は一瞬、文亮の姉だと思った。
30歳半ばほどに見えた。細い眉と穏やかな目を持ち、髪を簡素に結い上げ、小さな玉の簪だけを挿している。楚々とした姿だったが、達也が馬車を降りて薬箱を持ち直し、文亮へ声をかけるまで、その動きをよく見ていた。
文亮が女の前で頭を下げた。
「母上、倉知府をお連れしました」
達也は足を止めた。自分と同じ20歳の息子を持つ母には見えなかった。
「母上……」
思わず繰り返すと、女は笑みを浮かべた。
「曹静蘭と申します。息子が日頃よりお世話になっております」
達也は、今日から部下になったばかりで、まだ世話というほどのことはしていないと答えた。静蘭によれば、文亮は達也に仕えると決まって以来、家でも役所の話ばかりしていた。何を聞かれても答えられるよう、3日前から倉の帳面と訴状を調べていたという。
達也は文亮を見た。
「昨夜だけではなかったのか」
「昨夜、数え終わりました」
「そういう言い方は、役所では誤解を招く」
静蘭は口元を緩めた。
「知府様は、もう息子の扱い方がお分かりになったようですね」
正しいことは言うが必要なことを半分しか言わない、と達也が話すと、静蘭は残りの半分は尋ねなかった方が悪いと思う子だと答えた。
文亮は困った顔になった。間違いではないが、知府の前で話すことではないと母をたしなめた。
「知府様が明日、役所で困らぬよう、今日のうちに申し上げているのです」
静蘭は穏やかに答え、文亮は黙り込んだ。達也は思わず笑ったが、静蘭と目が合うと、急に笑みを引っ込めた。
「父上を診せていただけますか」
静蘭は頼みを受け入れたうえで、門前に立ったままでは困ると促した。達也は慌てて詫び、門をくぐった。
静蘭が先に立ち、達也は数歩遅れて歩いた。淡い衣の裾が揺れるたび、目が向いた。文亮の母であり、夫のある女だと思って庭へ視線を移しても、また横顔を見てしまった。
静蘭は振り向かなかった。ただ、客間に入る手前で、達也の歩幅に合わせるように歩く速さを落とした。
◇ ◇ ◇
崔景仁は屋敷の奥の部屋で寝ていた。41歳だが、頬が落ち、目の周りもくぼんでいた。達也が枕元へ座ると、起き上がろうとした。
「そのままで結構です」と達也は止めた。
景仁は知府を寝たまま迎えるわけにはいかないと言ったが、返事の途中で咳き込んだ。静蘭が体を支え、布を口元へ当てた。咳が収まると布を畳もうとしたため、達也は見せてほしいと頼んだ。痰に少量の血が混じっていた。
達也は体温を測り、胸と背に聴診器を当てた。見慣れない道具に驚く2人へ、胸の中の音を聞くもので、痛くはないと説明した。
「胸の内まで聞こえるのでございますか」と静蘭は尋ねた。
「聞こえるのは呼吸と心臓の音です。考えていることまでは分かりません」
静蘭は残念だと言い、達也を見た。
「知府様が先ほどから何を考えておられるのか、分かる道具かと思いました」
達也の手が止まった。
「僕は病のことを考えています」
「それなら安心いたしました」
静蘭は素直に信じたような顔でうなずいた。文亮は両親だけを見ていたが、景仁は薄く笑っていた。
「倉知府、妻は人を困らせるのが好きなのです」
静蘭は病人が余計なことを話さないようたしなめた。景仁は、ほらこのとおりだと笑ったあと、再び咳き込んだ。
達也は診察に戻った。肺結核の疑いは強かったが、胸の音と症状だけでは確定できない。ここでは胸部の写真も撮れず、痰から菌を調べる設備もなかった。
「肺に重い病があると思います。人へうつる病である可能性もあります」
文亮の顔色が変わり、父は治らないのかと尋ねた。達也は決めつけるには早いと答えた。持参した薬が効く可能性はあっても、治るとは約束できなかった。
薬箱からストレプトマイシンを取り出した。北宋へ来る前、周囲の者がマイシンと呼んでいた注射薬だった。肺結核に使われる薬だが、単独で短期間使えば済むものではなく、耳や腎臓を傷める恐れもあった。
達也は、今日1度の注射で病が消えるわけではなく、経過を見ながら治療を続ける必要があると説明した。景仁は注射という言葉を知らず、細い針で薬を体へ入れると聞いて目を見開いた。
飲むわけにはいかないと答えられ、景仁は妻を見た。
「あなた、知府様が直々に刺してくださるのです。ありがたく受けなさいませ」と静蘭は微笑んだ。
「お前は刺されないから、そう言えるのだ」
「私が代わって病を引き受けられるなら、いくらでも刺していただきます」
景仁は黙った。
達也は注射の準備を整え、景仁に横向きになってもらった。力を抜くよう伝えたが、景仁は足の先まで硬くなっていた。針を持つ知府を前に、力を抜ける者などいるのかと訴えた。
「僕を信用してください」と達也は言った。
「息子の上役であることと、針をうまく刺せることは別でございます」
もっともな指摘に達也が返事をためらうと、静蘭が夫の手を握り、動けば余計に痛むと伝えた。景仁は妻まで脅すのかと言ったが、静蘭は道理を述べているだけだと答えた。
景仁が妻へ顔を向けている間に、達也は注射を済ませた。終わったと聞いた景仁は、もう済んだのかと驚き、体を起こして確かめようとした。
「思ったほどではありませんな」
「動かないでください。すぐ威張ると、また咳が出ます」
静蘭に肩を押され、景仁は寝台へ戻った。
◇ ◇ ◇
診察が終わると、静蘭は達也と文亮を別室へ招いた。卓には鶏の蒸し物、魚の煮物、青菜、豆腐、粥が並んでいた。景仁にも食べやすいよう、油や香辛料を控えた料理だった。
達也は食事の前に、看病で気を付けてほしいことを伝えた。景仁とは食事を分け、使った椀や箸、布を別にし、部屋の空気も入れ替えるよう頼んだ。
静蘭は使用人にどこまで話すかを確かめた。達也は、うつる病かもしれないと知らせる必要があると答えた。ただし、恐れるあまり看病する者がいなくなっては困る。痰を素手で触らず、触れたあとは手を洗うことも伝えた。
静蘭は世話をする者を2人に限り、その2人にはほかの家事をさせないことにした。食器を煮ることや、痰を受けた布の扱いについても確かめた。
達也が説明すると、静蘭は実際の家事に置き換えて考え、次に必要なことを尋ねた。文亮が物事を順序立てて考える理由が分かった気がした。
食事が始まってからも、静蘭の質問は病の話だけで終わらなかった。今朝、府衙でどのような報告を受けたかと尋ねた。
「母上、役所のことを尋ねてはなりません」と文亮が言った。
「話して差し支えないことだけで結構です」
達也は箸を置いた。開封はおおむね平穏だと報告されたが、盗みや傷害の件数を尋ねると役人は答えられず、文亮が数えていたと話した。
「息子が数えたのは、役所に残っている訴状だけです」と静蘭は言った。
達也が意味を確かめると、静蘭は、被害に遭っても訴えない者や、訴えても受け取ってもらえない者がいると説明した。実際の件数は帳面より多いはずだった。
達也もその点は考えていた。受理されなかった訴えが少なくとも19件あり、役人の怠慢か、金を受け取った可能性を疑っていた。
「それだけでしょうか」
静蘭は青菜を自分の椀に取り、続けた。
「知府様が着任されたばかりですので、役人は隠したい訴えを先に取り除いたかもしれません。反対に、前任者の評判を落とすため、残したものもあるでしょう」
達也は返事をしなかった。そこまでは考えていなかった。
「帳面の数字を疑うだけでは、足りないということですね」
「数字が誤っていると決めつけるのも危険です。まず、誰が、いつ、何のために書いた数字かをご覧ください」
達也は文亮に、母からこうした考え方を教わったのかと尋ねた。科挙の策問を考える時にも教わったという。
「それなら、母上が受ければよかったのではないか」と達也は言った。
静蘭は笑い、女は科挙を受けられないと答えた。受けられたなら文亮より上だっただろうと達也が言うと、静蘭は涼しい顔で返した。
「知府様より上であったかもしれません」
達也は一瞬言葉を失い、声を上げて笑った。文亮は失礼だと母をたしなめたが、静蘭は、達也はこの程度で腹を立てる人ではないと言った。
役人が件数を答えられなくても、その場で罰しなかったと聞いていた。腹を立てるより、相手が役に立つかどうかを見ているのだろうと話した。
達也は笑うのをやめ、文亮へ向き直った。
「文亮、君は役所を出てから、母上へ何を話したのだ」
「今日のことを、一通り申し上げました」
「君は正確だが、口が堅いとは限らないようだ」
文亮は、母に隠しても質問されれば分かってしまうと答えた。静蘭は、無理に聞き出しているような言い方だと息子を見たが、文亮は違うのかと聞き返した。
「あなたが最初からすべて話せば、質問する必要はありません」と静蘭は答えた。
達也は母子を見比べた。
「それは役所でも通じる理屈なのか」
「お勧めはいたしません」
からかわれたと気付いた達也に、静蘭は目元を和らげた。
「知府様がようやく気づいてくださいました」
その顔を見た途端、達也の胸が大きく打った。美しいだけではない。人の話から足りない部分を拾い、相手が考えていないことまで見通す。それを説教にせず、冗談を交えて気付かせる女だった。
達也は目を離せなくなった。呼びかけられても返事が遅れた。
「魚を落としておられます」と静蘭は告げた。
箸の先を見ると、つまんでいた魚が卓に落ちていた。達也が詫びると、静蘭は新しい箸を取り、魚を達也の椀へ入れた。
「都を預かる方が、魚一切れを預かれないようでは困ります」
文亮が噴き出した。達也は耳を赤くして魚を食べ、上役を笑うものではないと注意した。
文亮は詫びながら、達也がそのような顔をするとは思わなかったと言った。どんな顔だったかと聞かれると、今度は母へ答えを求めた。
「それを私へ尋ねてはいけません」
静蘭は茶を口へ運んだ。達也の視線には、門前で会った時から気付いていた。本人は隠しているつもりでも、美しい女を前にすると分かりやすかった。
状元となり、都を預かる知府に任じられた若者から好意を向けられ、悪い気はしなかった。しかし静蘭には夫がいて、その夫はいま病と闘っていた。
静蘭は気付かないふりをしたまま、達也の茶碗へ茶を注ぎ、役所の話へ戻した。
「知府様、明日から役人の報告を聞く時は、数字を尋ねるだけでなく、その数字を書いた者の名もお確かめください」
商人の話を聞く際も、大店の主人だけでは足りない。荷を運ぶ者、市で店を出す女、夜に働く者にも聞く必要があると話した。
達也は役所の者に命じると答えたが、静蘭はそこにも注意を促した。
「役人を伴って尋ねれば、相手は役人に聞かれて困らないことしか答えません」
達也は再び箸を止めた。どうすればよいかと尋ねると、静蘭は、官服を脱ぎ、文亮と2人で町を歩けばよいと勧めた。開封が本当に平穏なのか、自分の目で確かめるためだった。
静蘭は微笑んだ。
「もっとも、門前で女を見ただけで立ち止まるようでは、町へ出ても先へ進めないかもしれませんが」
達也はむせた。文亮が慌てて背をさすると、茶が気管に入っただけだと答えた。
文亮が母の言葉を確かめると、静蘭は、町では足元にも気を付けるよう伝えたのだと言った。そのようには聞こえなかったと文亮は返したが、静蘭は、息子には人の言葉を半分しか聞かない時があると応じた。
文亮は納得できない顔をしていた。達也には、静蘭の言葉の意味がよく分かっていた。自分の好意に気付き、そのうえで知らぬふりをしているのだ。
恥ずかしくて顔を上げられなかった。それでも、もう崔家へ来ないという考えは浮かばなかった。
◇ ◇ ◇
注射を始めて数日後、景仁の熱と咳にわずかな改善が見られた。熱は下がり切らなかったが、咳の回数が減り、粥を1椀食べられるようになった。血の混じった痰も少なくなっていた。
文亮から報告を受け、達也はひとまず安堵した。
「薬が効いている可能性はある。ただし、少しよくなったからといって中断してはいけない」
静蘭も同じことを言っていた。景仁がもう注射は要らないと言い出したため、庭を歩いて1周できるようになるまでは達也の言うとおりにすると決めたという。
父親はどう答えたかと尋ねると、文亮は真顔で伝えた。
「家の中には、知府が2人いると嘆いております」
達也は笑った。
「違う。僕は開封府の知府で、君の母上は崔家の知府だ」
それなら父は何かと文亮に問われ、被治者だろうと答えた。文亮は納得して父にも伝えると言ったが、達也は慌てて止めた。
「また母上から、僕が余計なことを教えたと言われる」
達也は週に2度、景仁の様子を診ることにした。薬の効果だけでなく、熱、咳、食欲、尿、聴力の変化も確かめなければならなかった。医者ではない以上、自分の判断を過信せず、慎重に様子を見る必要があった。
ただ、訪問日を決める時に静蘭の顔を思い浮かべていたことも、否定できなかった。次は役所について何を教えられ、どんな冗談で困らされるのか。淡い衣を着た静蘭が門前で迎える姿を考えると、山のような書付にも向かう気になれた。
その気持ちを口にすることはできない。静蘭は部下の母であり、病床にある景仁の妻だった。達也にできるのは、薬箱を持って訪ね、景仁の様子を確かめ、静蘭から開封の実情を教わることだった。
静蘭も、達也の視線に気付かないふりを続けた。夫を助けようと通ってくる若い状元を、冷たく扱う理由はなかった。
次の訪問日を確かめると、静蘭は3日後だと答え、夫のために忘れず来てほしいと頼んだ。
「忘れません」と達也は答えた。
静蘭は、景仁のための訪問だと念を押した。
「分かっています」
達也が顔を赤くすると、静蘭は何も気付いていないように微笑んだ。




