第5話(中編1)――「受取帳の空白」
夜明け前、崔麗華は廊下を歩く足音で目を覚ました。戸の外には見張りがおり、水場へ行く時も2人ずつ連れ出された。仕事へ向かう支度をする者はいなかった。
水場から戻った沈香児は、冷えた指を袖の中へ入れたまま、麗華の寝台へ近づいた。
「別々に聞かれた時、答えが違えば嘘だと思われるのでしょうか。私は、運んでいる間にどこを見ていたかまで、はっきり覚えておりません」
「覚えていないことは、そのように答える方がよろしいでしょう。無理にほかの方へ合わせれば、事実と違った時に嘘になります」
「覚えていないと申しても、隠していると思われそうで……」
「それでも、見ていないことを見たとは申せません」
李月娥が寝具をたたむ手を止めた。
「麗華さんの申す通りです。誰かを助けようとして、見てもいないことを話してはなりません」
昨日は麗華へ疑いを向けていた月娥も、今朝は証言をそろえようとはしなかった。自分が嘘をついたと見なされることを恐れているようだった。
朝食には豆と麦の粥が運ばれ、塩漬けの菜が1切れずつ添えられていた。今朝の粥には湯気が立っている。香児は椀を両手で持ち、息を吹きかけながら口へ運んだが、張玉蘭は半分ほどで箸を置いた。
「取り調べがいつ終わるか分かりません。昼の食事も出るとは限りませんから、食べておいた方がよろしいですよ」
麗華に勧められ、玉蘭は喉を通らないとこぼした。それでも椀の中を見つめたあと、もう一度箸を取った。
食器が下げられると、孫玉英が2人の女を連れて入ってきた。
「これから1人ずつ話を聞きます。呼ばれた者だけ、外へ出なさい」
最初に月娥が呼ばれ、戻らないうちに玉蘭が連れ出された。そのあとも周小蓮、呉春燕、香児の順に部屋を出たが、誰も帰ってこなかった。
最後に呼ばれた麗華は、玉英に従って布の倉の脇へ向かった。通された小部屋には、高い位置に窓が1つあり、朝の光が卓の端へ差していた。
卓の向こうには劉彩雲が座っていた。倉の帳簿と裁縫場の受取帳、その隣に麗華から取り上げた帳面が置かれている。玉英は戸口に立ち、麗華は命じられた腰掛けに座った。
「緋色の絹を倉で見たところから、もう一度話しなさい」
麗華は、絹を運んだ夕刻の出来事を順に述べた。陳素娟が4疋を出し、2台の木枠へ2疋ずつ載せたこと、月娥と玉蘭が前を、自分と香児が後ろを運んだことを話した。春燕と小蓮が左右を歩き、途中で後ろの木枠が傾いたため、縄を締め直したことも伝えた。
彩雲は口を挟まず、裁縫場で郭芳華に荷を渡し、受け取りの確認に立ち会わず戻ったところまで聞いた。
「縄を締め直す時、上には何疋ありましたか。絹を持ち上げたかどうかも答えなさい」
「2疋ございました。包みの外から見た限りでは、どちらも緋色で、持ち上げてはおりません。縄の結び目を緩め、木枠の横棒へ掛け直しました」
「その間も、絹を見続けていましたか」
麗華は通路での姿勢を思い返した。木枠を床へ下ろし、右側にあった結び目を確かめるため、腰を落としていた。
「結び目へ何度か目を向けました。ただ、誰かが持ち去れば、香児さんか、そばにいた春燕さんと小蓮さんに見えたはずでございます」
「ほかの者に見えたかどうかではなく、お前自身が見ていたかを尋ねています」
「縄を直している間は、上の絹を見続けてはおりません」
彩雲は手元に書き留め、裁縫場にいた者と、その時の様子を尋ねた。
「芳華様のほかに、奥の裁ち台に少なくとも2人の女官がおりました。1人は布をたたみ、もう1人は卓を片づけておりましたが、顔や名は存じません。私が見ている間に、運んだ絹へ触れた方はおりませんでした」
「木枠を置いた位置を説明しなさい」
「戸を入って右側でございます。前の木枠を奥へ、その手前に後ろの木枠を置きました。壁との間には、人が1人通れるほどの空きがございました」
彩雲は紙に四角を2つ描き、置き方を確かめた。麗華は、前の木枠がもう少し壁に近かったと伝えた。
「芳華は、その時どこにいましたか」
「戸のそばで、私たちが運び入れるところを見ておりました。数を数える様子はなく、木枠を置いたら戻るよう命じられました」
彩雲は受取帳を開いた。
「裁縫場で受け取った品を帳簿へ記すのは芳華です」
「それでは、その夕刻も芳華様が記されたのでございますか」
「尋ねているのはこちらです」
「申し訳ございません」
受取帳は麗華から読めない向きに置かれていた。彩雲は頁の一部を指で押さえ、話題を変えた。
「お前は藍染めの絹にも傷を見つけ、月娥から申告しなくてよいと言われていますね。今回の紛失と関係があると考えていますか」
「関係があるかどうかは分かりません。藍染めの傷を誰が見逃したのかも、緋色の絹がどこへ行ったのかも存じませんので、結びつけて申し上げる根拠がございません」
「随分と慎重ですね。それでは、何も解決しませんよ」
麗華は口を閉じた。分からないことを言い立てても、絹が見つかるわけではなかった。
「このまま華宝舗を調べられてもよいのですか」
麗華は膝の上で指を重ねた。
「調べていただきたいとは思っておりません。店の信用を損なう恐れがございます。ただ、存じていることは、すでにお話ししております」
「見落としていることがないか、もう一度考えなさい」
彩雲の声には苛立ちが混じっていた。麗華は倉を出てから裁縫場へ着くまでを振り返り、木枠を置いた時の光景を思い浮かべた。芳華は戸口におり、奥では女官が卓を片づけていた。その卓の上には、灯明があった。
「裁縫場へ入った時、奥の卓に灯明がございました。戸を閉めるところでしたが、裁ち台にはまだ布が広げられておりました」
「何色の布ですか」
「緋色でございます」
彩雲の指が止まった。
「なぜ昨日のうちに申さなかったのです」
「裁縫場には、ほかにも緋色の布があると思ったからでございます。私たちの運んだ絹は、その時まだ木枠に載っておりました」
「4疋とも確かめたのですね」
「後ろの木枠の2疋は確かめました。前の木枠は奥に置かれており、私の位置から見えたのは上の1疋だけでございます」
戸口から玉英が尋ねた。
「その布を見たのは、木枠を置く前ですか、あとですか。すでに裁たれていたかどうかも、覚えている範囲で答えなさい」
「前の木枠が置かれ、私たちが後ろの木枠を運び入れた時でございます。布の端が卓の向こうへ垂れていたため、全体は見えませんでした。ただ、女官の1人が長い物差しを持っておりました」
彩雲は受取帳を閉じた。
「昨日の捜索では、その卓も調べましたが、緋色の布はありませんでした」
「私が見た布を、失われた絹だと申しているのではございません」
「それは分かっています」
彩雲は玉英へ、運搬当日の夕刻に扱っていた緋色の布を調べるよう命じた。芳華だけでなく、その場にいた者から別々に話を聞くよう言い添えた。
玉英が戸へ手をかけた時、麗華はもう1つ思い出したことを申し出た。
「布をたたんでいた方の手に、緋色の糸が付いておりました。薄い青の衣服で、袖口に白い糸の刺繍がございました。横顔しか見ておらず、名は存じません」
「それも、今になって思い出したのですか」
彩雲が尋ねた。
「裁縫場で働く方の手に糸が付いていても、その時は気に留めませんでした。緋色の布を扱った者をお調べになるのであれば、その方のこともお伝えすべきだと思いました」
「自分に都合のよいことを申し立てているのではないでしょうね」
「春燕さんと小蓮さんにも、お確かめください。私と近い場所におりましたので、卓が見えたかもしれません」
彩雲は2人の答えを聞いて判断すると告げ、麗華を別の部屋へ移すよう命じた。ほかの5人とは会わせないという指示だった。
麗華が立ち上がると、彩雲が呼び止めた。
「今の話が事実でも、疑いが晴れたわけではありません。お前は裁縫場で前の木枠の2疋を確かめていませんし、途中で縄に触れたことも変わりません」
「承知しております。まだ安心できるとは考えておりません」
麗華は玉英に従い、小部屋を出た。
◇ ◇ ◇
次に入れられたのは、窓のない物置だった。壁際には空の籠と木箱が積まれ、乾いた藁と古い布の臭いがこもっていた。戸の外に見張りが立ち、麗華は床の筵へ座った。
春燕と小蓮が裁ち台を見ていたかどうかも、薄青の衣服の女官が何を話すかも分からない。それでも、自分たちが絹を運び入れた時、裁縫場ではすでに緋色の布を扱っていた。その布が別にあったのなら、受取帳の3疋だけを調べても、裁縫場にあった絹の総数は分からない。
正午を過ぎたころ、玉英が青菜入りの粥を持ってきた。朝の粥より冷えていたが、麗華は礼を述べて残さず食べた。
玉英は空の椀を受け取っても、すぐには出ていかなかった。
「春燕と小蓮も、裁ち台に緋色の布があったと答えました。今のところ、6人の話に大きな食い違いはありません」
「その布の出所も、お分かりになったのでございますか」
「調べの内容を教える必要はありません。ほかの者とも、まだ会わせません」
麗華は謝り、それ以上は尋ねなかった。玉英は椀を持ったまま立ち、再び受け渡しのことを持ち出した。
「お前は倉で2疋あるのを見たから、裁縫場では前の木枠を確かめなかったのですね」
「はい。月娥さんと玉蘭さんが運び、着いたあとは芳華様から戻るよう命じられました」
「命じられたので、確認せずに戻った。それが今回の原因です」
「承知しております」
「お前だけのことを申しているのではありません」
玉英は戸口の見張りへ聞こえないよう声を抑えた。
「倉の者は、送り出した数だけを記す。運ぶ者は、届ければ仕事が終わったと思う。裁縫場も、忙しければ数えるのを翌朝へ回す。相手がいくつ受け取ったと記したのか、誰も確かめていないのです」
「以前にも、数が合わないことがあったのでございますか」
「それを話すつもりはありません。食事が済んだなら、そこで待ちなさい」
戸が閉まったあと、麗華は玉英の言葉を考えた。品を渡す側と受け取る側が一緒に数を確かめなければ、その間に布が動いても、いつ、誰が動かしたのか分からなくなる。
華宝舗では、受け渡しの際に双方で数を読み上げて帳簿へ記す。宮中は店よりはるかに人が多いが、身分の違いがあるため、下の者から上の者へ確認を求めにくい。戻れと命じられたあとに数を確かめたいと申し出れば、それだけで逆らったと受け取られかねなかった。
窓のない部屋では、日がどこまで傾いたのか分からない。やがて廊下を走る足音が近づき、玉英が戸を開けた。
「立ちなさい。彩雲様がお呼びです」
呼吸の乱れた玉英に従い、麗華は朝の小部屋へ戻った。
◇ ◇ ◇
彩雲の前に、薄青の衣服を着た女官が立っていた。袖口には見覚えのある白い糸の刺繍があり、20歳前後に見える顔の目元が赤くなっている。その隣では、芳華が顔をこわばらせていた。
「裁縫場で見たのは、この者ですか」
彩雲が尋ねた。
「衣服は同じでございます。ただ、あの時は横顔しか見ておりません」
顔を確かめるよう命じられ、麗華は女官を見た。灯明の向こうで見たため、顔立ちまでは覚えていない。だが、髪をまとめた紐と左耳の下の黒子には見覚えがあった。
「この方だと思います。ですが、間違いないとまでは申し上げられません」
「言い切れないのですね」
「はい。横から見ただけでございますので」
彩雲は女官へ向き直り、名を言わせた。
「趙秀芳でございます」
「秀芳、あの夕刻に裁ち台で扱っていた緋色の絹を、どこから出したのか説明しなさい」
秀芳は芳華へ目を向けたが、彩雲に正面を見るよう命じられた。
「昼過ぎに、裁縫場の奥の棚から出しました。冬衣の袖を裁ち直すために使いました」
「使ったことを帳簿へ記しましたか」
「芳華様が記してくださると思っておりました」
「お前自身は、記していないのですね」
「はい。記しておりません」
誰に命じられたのかを問われると、秀芳は唇を結んだ。彩雲が返事を待っても、なかなか口を開かなかった。
「申せません。私が勝手にしたことにしてください」
「何を申しているのです」
芳華が振り向いたが、秀芳は芳華には何も知らせていなかったと言い張った。
彩雲は芳華へ問いを移した。
「何も知らなかったのであれば、受取帳へ3疋と記した理由を説明しなさい」
「裁縫場に残っていた数を記したのでございます。届いた時は戸を閉める時刻で、布を広げられませんでした。翌朝になって3疋を確かめ、その数を書きました」
「これは受け取った数を記す帳簿です。翌朝に残っていた数を書くものではありません。運んだ6人は4疋あったと申しています」
「受け取った時には、数えておりませんでした」
「それなのに、3疋しか届いていないと申し立てたのですね」
芳華は答えなかった。
麗華には、まだ数が合わなかった。秀芳が使った絹は、自分たちが到着する前から裁縫場にあった。そこへ4疋を届けたのだから、合わせて5疋になる。1疋から袖を裁ったとしても、その残りと、新しく届けた4疋があるはずだった。
彩雲も、使い残した絹の行方を尋ねた。
「残りは元の包みへ戻しました。そのあと、芳華様が奥の棚へ移されました」
秀芳が答えると、芳華が言い添えた。
「裁ち終えた布を置く棚でございます。裁ちかけのまま積むことはできませんので、別の布で包み直しました」
「その棚は昨日も調べています。包みには、何と記しましたか」
芳華が黙っていると、玉英が灰色の麻布に包まれた物を卓へ置いた。開いた中から緋色の絹が現れた。端の一部が裁たれていたが、残りは大きく、畳むと1疋分に近い厚みがあった。
「裁ち終えた布の棚から見つけました。札には『古い裏地』と記されていました」
麗華は卓の絹を見た。これが秀芳の使った物なら、自分たちが運んだ4疋とは別だ。無断で使われた絹は見つかったが、それだけでは、届いたはずの1疋が足りない理由は分からなかった。
「なぜ古い裏地と偽ったのですか。それに、袖の裁ち直しは誰の命令です」
彩雲に迫られ、芳華は秀芳を見た。先に答えたのは秀芳だった。
「一度仕立てた袖の長さが合わず、翌朝までに直すよう命じられました。新たに布を出す手続きを取っていては間に合わず、私が急いで仕上げたいと申しました」
「そのために、帳簿へ記さず、棚の絹を使ったのですね。芳華はいつ知ったのですか」
秀芳が答えられずにいると、芳華が口を開いた。
「使い始めてからでございます。すでに裁っており、元へ戻すことはできませんでした」
「それで包みを替え、古い裏地と書いて隠したのですね」
「はい」
彩雲は受取帳へ手を置いた。
「新しく届いた絹を3疋と記したのも、無断で裁った1疋を、その4疋に紛れ込ませて処理するためですね」
芳華の顔から血の気が引いた。
「倉から出した数まで、確かめられるとは思いませんでした」
「運んだ6人が4疋を見ています」
「下働きの者が、そこまで数を覚えているとは……」
芳華は途中で言葉を止めた。
麗華は受取帳を見た。芳華は無断で使った絹の記録を残さず、別に届いた4疋の数を減らして辻褄を合わせようとした。その結果、倉を出た4疋のうち1疋が届かなかったことになり、運んだ6人が責任を問われたのだ。
「お前は絹を盗んではいません。しかし、無断で使った絹を隠すため、運んだ者へ紛失の責任を負わせようとしました」
「そのつもりはございませんでした」
「では、3疋しか届かなかったと申せば、足りない1疋の責任を誰が負うと思ったのですか」
芳華は返答できなかった。彩雲は麗華へ向き直った。
「お前たちが運んだ絹は、4疋とも見つかっています。1疋は、裁ち終えた布を置く棚の奥へ移されていました。芳華が無断で使った絹と入れ替え、数を合わせようとしたのです」
麗華は、ようやく息をついた。運んだ絹がすべて残っていたのなら、盗んだという疑いは晴れる。華宝舗の奉公人や取引相手も、調べを受けずに済むはずだった。
だが、ほかの5人はまだ別々の場所に閉じ込められ、この結果を知らない。
「月娥さんたちにも、絹が見つかったことをお知らせいただけますか」
「先に、自分への疑いが晴れたかを尋ねないのですね」
「4疋とも見つかったのであれば、6人全員への疑いがなくなったと考えました」
「盗みの疑いはなくなりました。ただし、受け取りを確かめずに戻った責任まで消えるわけではありません」
「承知しております」
「部屋へ戻りなさい。ほかの5人も戻します」
麗華が立つと、彩雲は取り上げていた帳面を手元へ引き寄せた。
「これは、もう少し預かります。お前には、あとで尋ねることがあります」
麗華は理由を問わず、礼をして部屋を出た。廊下には夕方の光が差し、日暮れまでまだ半刻ほど残っていた。華宝舗へ調べが及ぶ前に、4疋は見つかった。
絹を盗んだ者はいなかった。それでも、手続きを省いて使った事実を隠すために帳簿が偽られ、運んだ6人が疑われた。受け取りの場で確かめなかった数を、あとから証明する難しさを、麗華は身をもって知った。




