第5話(前編1)――「6人部屋の掟」
崔麗華は、戸が開く音で目を覚ました。外はまだ暗く、窓紙がわずかに白んでいる。戸口から冷気が流れ込み、6人分の寝具と衣服の臭いがこもった部屋を冷やした。
「起きなさい。鐘が鳴ってからでは遅いですよ」
戸を開けたのは、部屋で最も古い寝台を使っている女だった。20歳を過ぎているように見える。昨夜、ほかの女たちが李月娥と呼んでいた。
麗華は掛布をたたみ、寝台の端へ置いた。同じ日に宮中へ入った沈香児は、周囲の様子をうかがいながら髪をまとめている。農家の娘の張玉蘭は、寝台の下へ落とした履物を探していた。
ほかの2人は、役人の庶子の周小蓮と、寡婦の娘の呉春燕だ。麗華たちより前から働いており、月娥が戸を開ける前に着替えを済ませていた。
「顔を洗う水は、どちらにございますか」
香児が尋ねると、月娥は自分の髪を結いながら答えた。
「裏の水場です。ただし、今から行っても湯は残っていません。水を使いなさい」
「朝は湯を使えると、昨夜伺ったのですが……」
「早く起きた者から使いますから、残っているうちに行かなければなりません」
春先とはいえ、夜明け前の水は冷たい。香児は不満そうな顔をしたが、それ以上は口にしなかった。
麗華が水場へ行くと、桶の前にはすでに数人の女が並んでいた。石敷きの床は濡れ、足袋を通して冷たさが伝わってくる。湯の桶は空で、残っているのは井戸水だけだった。
手拭いを浸して顔と首を洗ううちに、指先が痛み始めた。後ろにはさらに人が待っているため、手早く済ませて髪を整えた。寝所へ戻ると、月娥が香児の寝具を指していた。
「掛布は端をそろえてください。乱れていれば、部屋の6人が揃って叱られます」
「私の寝具のことで、皆さんまで叱られるのでございますか」
「同じ部屋の者は、まとめて責任を問われることがあります。1人の支度が遅れて仕事へ出る時刻に間に合わなければ、叱られるのは6人全員です」
香児は返事をせず、掛布をたたみ直した。月娥は麗華の寝台にも目を向けたが、直す箇所がないと分かると、部屋の者たちへ話を続けた。
「朝の粥は仕事場へ向かう前に食べます。遅れれば残りません。洗濯は夕食のあとですが、水場では先に働いている者へ場所を譲りなさい。それから、油や針、紙は大事に使うこと。支給された分をなくしても、すぐには新しい物をもらえません」
「足りなくなった時は、どなたかに分けていただくのでございますか」
玉蘭が尋ねた。
「持っている者に頼みます。ただでもらえるとは思わないでください。相手の洗濯を代わることもあれば、菓子や髪油で返すこともあります」
麗華は月娥の寝台脇へ目を向けた。小さな木箱には、糸や針、灯明油の器が収められている。糸は色も太さも何種類かあり、支給品だけではないらしかった。
月娥は宮中で3年間働いているが、まだ位のある女官にはなれず、この部屋で下働きの女たちをまとめていた。求められた品を分けたり仕事を手伝ったりする代わりに、別の品や働きを受け取っている。下働きの暮らしの中にも、小さな商いが成り立っていた。
麗華は、銀や品を差し出して機嫌を取るつもりはなかった。相手が何を求めているか分からないうちに渡せば、次からも同じ物を求められる。
朝の粥は豆と砕いた麦を煮たもので、塩気が薄く、すでに冷えかけていた。麗華が椀を空にして漬物を1切れ食べるそばで、香児が月娥に昼の食事も同じようなものかと尋ねた。
「味より、食べる時刻を気にしなさい。仕事が遅れれば、食べ損ねますよ」
月娥は椀を返して立ち上がり、麗華と香児についてくるよう告げた。玉蘭たちが向かうのは糸の倉だった。
外へ出ると、東の空が赤みを帯び、屋根の向こうから差し始めた朝日が石敷きの通路を照らしていた。宮中には似た造りの建物と塀が続き、門の前を宦官や女官が行き来している。許可なく入ってはならない道もあるため、麗華は月娥から離れずに歩き、通った門と建物の位置を覚えた。
◇ ◇ ◇
布の倉では、すでに孫玉英が待っていた。
「遅れてはいませんね。今日は麻布と白絹を作業場へ運びます」
玉英は麗華と香児の衣服や髪を見たあと、手元を確かめた。
「爪は伸ばさないように。布へ引っかければ、言い訳はできません。香を身につけることも禁じます。布へ匂いが移りますから」
棚から出された布を示され、月娥が麻布の束を床へ下ろした。
「麻布は8反でございます」
「香児、棚の札を読んで、運び出す数と残る数を確かめなさい」
香児は木札を読み、棚の布へ目を移した。
「昨日の残りは26反で、本日はこちらの8反を運びます。倉に残るのは18反でございます」
玉英が麗華にも白絹を確かめるよう命じた。麗華は棚の札と木枠に載った布を見比べてから答えた。
「白絹は12疋ございます。このうち4疋を裁縫場へ運びますので、残りは8疋でございます」
「昨日、染みを見つけた布も、その数に入っていますか」
「入っておりません。そちらは別の棚へ移され、札も分けられております」
玉英が運び出すよう命じると、白絹4疋が2疋ずつ重ねて木枠に載せられた。麗華が前、香児が後ろを持ち、裁縫場へ向かった。
白絹は見た目より重く、腕だけで支えると木枠が傾いた。腰を落とし、互いの歩幅をそろえなければならない。後ろから香児に歩く速さを落としてほしいと頼まれ、麗華は歩調を緩めた。通路の角では体を外側へ寄せ、木枠が壁へ当たらないように曲がった。
裁縫場には、布を裁つ台と糸を扱う卓が並んでいた。窓から入る朝日が白絹に反射し、室内を明るくしている。鋏で布を裁つ音に交じり、糸巻きを卓へ置く乾いた音が聞こえた。
受け取りを担当する女官が、白絹を1疋ずつ改めた。麗華たちが口を出すことは許されず、数の記入も女官同士で行われた。
倉へ戻る途中、香児が声を落とした。
「店を持っていらしたというのは、本当でございますか。人へ命じる立場だった方が、なぜ宮中で布を運んでいらっしゃるのか、私には分かりません」
「店を持っていたのは本当です。ただ、私は宮中へ入りたくて、店を離れました。今は布を運ぶ仕事しか任されておりませんが、それを務めるつもりです」
香児は納得できない様子だったが、それ以上は尋ねなかった。午前の仕事が終わるまでに、麗華は白絹を2度、麻布を3度、染めた糸を1度運んだ。
昼の粥には青菜が入り、朝より温かかった。ただ、食事にかけられる時間は長くない。月娥が椀を空にすると、玉蘭と春燕も急いで箸を動かした。
食事を終えた麗華は、月娥が竹札を前にして困っていることに気づいた。午前に運んだ糸の数をまとめているらしく、赤、黄、青の糸巻きが、運んだ時刻ごとに記されている。途中で返された物もあり、書き直した跡が重なっていた。
「こちらの2巻は、返されて倉へ戻った分でございますね」
麗華が声をかけると、月娥は竹札を隠さずに見せた。
「ええ。ただ、青糸は4巻を渡して2巻が戻り、そのうち1巻を別の作業場へ回しました。書き直しているうちに、どこへ記せばよいのか分からなくなったのです」
「それでしたら、受け取った数と、それぞれの作業場へ渡した数、返された数を分けて書くと分かりやすくなります」
麗華は竹札の空いている所を指で示した。
「初めの作業場に残ったのが2巻、別の作業場へ渡したのが1巻、倉に戻ったのが1巻です。合わせれば、最初に運んだ4巻になります。倉の残りだけでなく、別の作業場へ渡した分も記しておけば、あとで尋ねられても説明できます」
月娥は竹札の記載と照らし合わせ、麗華の示した通りに書き直した。
「店でも、こうして数を確かめていたのですか」
「はい。品を受け取り、売れた分と残った分を調べておりました。数が合わなければ、その日のうちに確かめます」
「宮中では、その日のうちに調べても分からないことがあります。布や糸を動かす者が多く、別の場所へ回したという書付が、あとから届くこともあるのです」
「受け取った方へ確かめられればよいのですが、こちらから尋ねに行くのは難しいのでございますね」
「相手によります。誰にでも尋ねてよいわけではありません」
月娥は竹札を懐へ入れた。
「助かりました。今夜、髪油が必要なら分けます」
「まだ残っておりますので、必要になった時にお願いいたします」
麗華はその場で品を受け取らなかった。月娥が数量の確認を苦手としていることは分かった。仕事を助けておけば、針や油が必要になった時にも頼みやすい。こちらから先に品を渡さなくても、貸しを作ることはできた。
◇ ◇ ◇
午後、麗華は染色場へ藍染めの絹を運んだ。布を置く際、端の糸が引き出されていることに気づいた。昨日の白絹の染みほど目立たず、織り目を確かめなければ見落とす程度の傷だった。
「こちらの端に、糸が出ております」
布には触れず、そばにいた月娥へ知らせた。月娥は周囲を見てから、麗華を布から離した。
「これは申し出なくてよい傷です。端を切れば使えます」
「ですが、昨日は彩雲様から、傷や染みを見つけたら申告するよう命じられました」
「今から倉へ戻せば、受け取る時になぜ見つけなかったのかと問われます。見つけた傷を、何でも申し出ればよいわけではありません」
麗華は月娥の顔を見た。
「受け取ったのは、どなたでございますか。その方が見逃した傷ならば、私たちが申し出ては困るということでしょうか」
月娥はすぐには答えず、やがて尋ねるのをやめるよう促した。
「今は、それ以上聞かない方がよいでしょう」
「ただ、私たちが運んだあとで傷が見つかれば、こちらの責任にされるかもしれません。運ぶ前からあったと証明できればよいのですが……」
「証明できれば、責任は問われません。けれど、それができるとは限らないのです。だから、すべてを見つけて申し出ればよいわけではないと申しています」
月娥は布の端を内側へ折り、傷を隠した。麗華はそれ以上口を出さなかった。
受け取りの際に女官が傷を見逃していれば、あとから申告することで、その落ち度を明らかにしてしまう。正しい数を記し、傷を知らせるだけでは自分を守れない。誰が受け取り、誰が検め、責任を負うのは誰なのかまで知っておく必要があった。
夕刻、倉へ戻ると玉英が待っていた。
「裁縫場へ緋色の絹を運びます。今日中に届けなさい」
倉には、深い緋色に染められた絹が4疋並んでいた。西日が差す所では、赤にわずかな橙色が交じって見える。染料の匂いが残り、白絹よりも湿気を含んで重かった。
倉の中堅女官の陳素娟が帳簿を開いた。
「4疋です。木枠へ2疋ずつ載せなさい」
運ぶのは麗華と月娥、玉蘭、春燕、香児、小蓮の6人だった。2台の木枠に絹を載せ、太い縄で固定する。麗華は、それぞれに2疋ずつ、合わせて4疋あることを目で確かめた。
素娟は帳簿へ筆を走らせたが、記した数字を下働きの6人には見せなかった。
「行きなさい。裁縫場を閉める前に届けるのです」
最初の木枠を月娥と玉蘭が持ち、2台目を麗華と香児が持った。春燕と小蓮は左右を歩き、布が壁や柱へ当たらないよう見張った。
通路の途中で、麗華の持つ木枠が傾いた。上の絹を縛る縄が、片側だけ緩んでいる。
「止まってください。縄が緩んでおります」
香児も足を止め、2人で木枠を床へ下ろした。前を歩いていた月娥が振り返り、急ぐよう促したが、麗華は結び目に手をかけた。
「このままでは、上の1疋が落ちます。締め直してから参ります」
縄を引き、絹が動かないことを確かめてから、麗華と香児は木枠を持ち上げた。
裁縫場では、女官が閉めかけていた戸を開けて荷を受け入れた。麗華たちは所定の場所へ木枠を下ろしたが、受け取りの確認に立ち会うことは許されなかった。
「もうよい。戻りなさい」
女官に命じられ、6人は空になった木枠を持って倉へ戻った。
◇ ◇ ◇
日が沈むと、部屋の空気は昼より冷えた。麗華は夕食後に衣服を洗い、寝台へ戻った。月娥は灯明のそばで竹札を確かめ、小蓮は破れた袖を縫っている。玉蘭と香児は、水場を使う順番について話していた。
麗華は文亮からもらった帳面を開き、同室の5人の名を書いた。月娥、玉蘭、小蓮、春燕、香児の名を記した下に、月娥が数量の確認を苦手としていることや、針や油を分ける代わりに仕事を頼んでいることを書き添えた。
藍染めの絹の傷については、日付と運んだ場所だけを残した。誰が見逃したのかは分からないため、名は書かなかった。
最後に、夕刻に運んだ緋色の絹について記した。倉で確かめた数は4疋で、2台の木枠に2疋ずつ載せたこと、途中で縄を締め直したことを書き、帳面を閉じた。
翌朝、朝食を終えて倉へ向かうと、裁縫場から来た女官が玉英に何かを訴えていた。玉英は帳簿を受け取り、数字を確かめた。
「倉から出したのは4疋です。受け取ったその場で数を確かめたのでしょうね」
「戸を閉める時刻でしたので、木枠が2台届いたことを確かめただけでございます。今朝、布を広げたところ、3疋しかなく、1疋足りないと分かりました」
玉英は倉にいた者たちを見回した。
「昨日、緋色の絹を運んだ6人を呼びなさい」
麗華は足を止めた。倉では確かに4疋あり、途中で縄を締め直した時にも、自分たちの木枠には2疋載っていた。それなのに、裁縫場の女官は3疋しかないと訴えている。このままでは、運ぶ間に1疋が消えたことにされる。




