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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第4話(後編2)――「状元の帰還」

 地方試験と中央の試験を首席で通った倉達也(ツァン・ダーイエ)は、皇帝の前で行われる殿試の日を迎える。


 清河県では、西門慶(シーメン・チン)と妻妾たちが知らせを待っていた。中でも正室の呉月娘(ウー・ユエニャン)は、達也を案じる気持ちを誰にも悟らせず、西門家の奥方として静かに吉報を待つ。

 (1117年春、北宋・開封府(カイフォンフ)


 夜明け前、宮城へ通じる道には、すでに殿試を受ける者たちの列ができていた。


 倉達也(ツァン・ダーイエ)は衣冠を整え、列の中で門が開くのを待った。地方試験の朝も、中央の試験の朝も落ち着いていたが、この日ばかりは胸の奥がわずかに速く打っている。


 緊張していないのではない。緊張していても、するべきことを変えないだけである。


 門が開くと、受験者は名簿と照合され、順に宮城へ入った。筆、墨、硯、衣服の内側まで改められる。達也も両腕を広げ、役人の検査を受けた。


 やがて受験者たちは、朝の冷気が残る殿庭へ通された。


 石畳の先には大殿があり、御座には皇帝趙佶(ジャオ・ジー)がいる。左右には宰相をはじめとする高官が並び、受験者の一挙一動を見ていた。


 合図が出ると、達也はほかの受験者とともに伏して礼をした。


 顔を上げて皇帝を見つめることは許されない。達也は定められた席へ進み、静かに腰を下ろした。


 この日のために、何百枚もの答案を書いた。沈克明(シェン・クーミン)に朱を入れられ、破られ、書き直した。清河県の倉を見て、堤を歩き、農民と商人の話を聞いた。開封へ来てからも、各地の受験者と議論を重ねた。


 ここで頼れるのは、その積み重ねだけであった。


 問題が示された。


 国の財を充たし、民の暮らしを安んじ、辺境を守るため、朝廷はいかなる策を採るべきか。財を求めれば民が疲れ、民を休ませれば国用が足りなくなる。その両者を、どのように両立させるかという問いであった。


 達也は問題を3度読んだ。


 周囲では、すでに筆を走らせる音がしている。達也は焦らず、白紙の上へ文章の骨組みを置いた。


 まず民が作り、商人が運び、市で売れる。その流れがあって初めて税が生まれる。税率だけを上げても、作る者が減り、荷が止まれば、翌年の収入はかえって減る。


 州県ごとに田畑、戸数、収穫、穀価を調べ、古い数字のまま課税してはならない。運河と倉を整え、輸送中に失われる穀物を減らす。同じ荷へ何度も税を掛ける関所を改め、商いを止めない。飢饉の兆しがあれば、穀価が暴騰してから粥を施すのではなく、早く倉を開き、種籾と農具を貸して翌年の耕作を守る。


 辺境の軍についても、兵の数だけを増やす策を退けた。兵には食糧と給与が要り、馬には飼料が要る。道と倉がなければ、大軍は戦う前に飢える。軍費、運河、農政、商いを別々の問題として扱わず、一つの流れとして整えるべきだと記した。


 経書の句も用いたが、句を飾りにはしなかった。その教えを、どの役所が、いつ、何から始めるかまで書いた。


 達也の筆は、日が高くなっても止まらなかった。


 書き終えると、最初の行から読み返した。美しい言葉に酔っている箇所を削り、同じ意味の文を一つにした。実行する者が分からない策には役所の名を加え、費用の裏付けが弱い箇所は順序を改めた。


 最後の一字を書き直した時、終了の合図が出た。


 達也は筆を置いた。


 胸の中に浮かんだのは、皇帝でも高官でもなかった。


 清河県の門前で聞いた、月娘の声である。


「行っていらっしゃいませ、倉様」


 達也は答案から手を離した。


 自分に書けるものは、すべて書いた。


 ◇ ◇ ◇


 答案は、その日のうちに高官たちの手へ渡った。


 達也の答案を読んだ官人は、途中で隣の者を呼んだ。2人目が読み終えると、さらに上席の者へ回した。


「文章は端正だが、それだけではない」


「州県で政務に就いた者のように、役人と荷の動きを知っている」


「この者は、まだ官職に就いたことがないはずだ」


「清河県の海商の家に生まれたとある。商いの実情を見てきたのであろう」


 ほかの答案も優れていた。経書に通じ、典故を巧みに用い、格調の高い文章を書く者は何人もいる。


 しかし、達也の答案とは差があった。


 達也の文章には、何を改め、そのために誰を動かし、どの損失を先に減らすかが示されている。国を富ませることと民を休ませることを二者択一にせず、民の生産が国の財へつながる道筋を描いていた。


 2位に推す答案が決まったあとも、達也を1位から動かそうとする者はいなかった。


 皇帝は上位の答案を読み、達也を御前へ呼んだ。


 達也は大殿へ進み、定められた位置で伏した。


「倉達也」


「はい」


「そなたは、税を増やす前に、失われる財を減らせと書いた。役人が倉の損失を少なく申告したなら、どうする」


 達也は顔を伏せたまま答えた。


「倉を預かる者だけに帳面を書かせず、入れた者、運んだ者、受け取った者の記録を照らし合わせます。数字が合わぬ時に初めて人を責めるのではなく、毎月確かめれば、大きな損失になる前に見つけられます」


「役人を疑って政を行うのか」


「人を疑うためではございません。正しく務めた者が疑われぬためにも、記録を残す必要がございます」


 大殿が静かになった。


 皇帝は、さらに尋ねた。


「飢えた民へ穀物を与えれば、働かず施しを待つ者も出よう」


「食べる物のない者へ、まず命をつなぐ穀物を与えます。その後は、堤や道や水路を直す仕事を用意し、働いた者へ穀物を渡します。ただし、病人、老人、幼子へ同じ働きを求めてはなりません」


「なぜ分ける」


「働ける者と働けぬ者を同じに扱えば、公平に見えても、多くの者を死なせます」


 皇帝はしばらく達也を見た。


「そなたは、文章より政を好むようだ」


「文章は、政を誤りなく伝えるために学びました」


 皇帝の口元がわずかに動いた。


 達也は退出を命じられ、再び殿庭で待った。


 やがて合格者の順位が読み上げられた。


 第3位、第2位と名が告げられる。


 そして、最後に首席の名が響いた。


「第一甲第一名、倉達也」


 状元である。


 達也は伏し、額を石畳へ近づけた。


 地方試験でも、中央の試験でも首席であった。殿試でも2位を大きく引き離し、ついに北宋の受験者の頂点へ立った。


 喜びより先に、克明に破られた最初の答案を思い出した。西門慶が身元を整え、書院を貸し、費用を惜しまなかったことも思い出した。


 そして、夜明け前の書院へ茶を置きに来た月娘の姿が浮かんだ。


 ようやく、帰って報告できる。


 ◇ ◇ ◇


 状元となった達也には、その場で辞令が下された。


 任じられたのは、開封(カイフォン)知府であった。


 開封は北宋の都である。皇帝と朝廷を間近に置き、膨大な人口、商い、訴訟、治安、税、倉、河川を預かる。達也が知る時代にたとえるなら、東京都知事を命じられたようなものであった。ただし、知府は裁判と警察に当たる権限まで握る。責任も、動かせる役人の数も大きい。


 達也は辞令を両手で受けた。


 喜びで足が浮くような感覚は、すぐに消えた。


 答案へ書いた策を、今度は現実の政務として試される。紙の上では一行で済んだ命令も、都では何万人もの暮らしを変える。


「謹んで、お受けいたします」


 達也は深く礼をした。


 宮城を出ると、門外で待っていた西門家の下男が駆け寄ってきた。


「倉様、いかがでございましたか」


 達也は辞令を見せた。


「状元だ。開封知府を命じられた」


 下男は口を開けたまま動かなくなった。


「聞こえなかったのか」


「聞こえました。聞こえましたが、あまりに大きなお話で……」


 下男は急に両手を上げた。


「状元でございます。倉様が状元になられました」


 道を行く者まで振り返った。


 達也は慌てて腕を下ろさせたが、下男はもう止まらなかった。


「しかも開封知府でございます」


「まず清河県へ知らせを出してくれ」


「はい。早馬を出します」


 達也は一度、宮城を振り返った。


 都を預かる官職を得た。それでも、この時に帰りたいと思った場所は官舎ではない。


 西門家であった。


 ◇ ◇ ◇


 早馬が清河県へ着いた時、西門慶は店の奥で帳簿を見ていた。


 使者が状元合格を告げると、西門慶は椅子を倒して立ち上がった。


「もう一度申せ」


「倉達也様は殿試第一名、状元でございます。陛下より開封知府を命じられました」


 西門慶は使者の肩を両手でつかんだ。


「本当に状元か」


「間違いございません」


 西門慶は大声で笑った。店にいた番頭や小僧を集め、全員へ酒と祝儀を出すよう命じた。通りへ出ると、近くの店にまで聞こえる声で達也の名を告げた。


「俺の屋敷から状元が出たぞ」


 屋敷へ知らせが届くと、妻妾たちも一斉に立ち上がった。


 李嬌児(リー・ジャオアル)は、新しい衣装が必要だと言い、孟玉楼(モン・ユーロウ)は状元を迎える席順を考え始めた。孫雪娥(スン・シュエオー)は厨房へ走り、祝いの献立をすべて組み直した。身重の李瓶児(リー・ピンアル)は涙を流し、潘金蓮(パン・ジンリエン)は自分が贈られた首飾りを胸へ当て、達也が戻る日を尋ねた。


 月娘だけは、その場で大声を出さなかった。


「旦那様へお知らせしましたか」


「すでに店でご存じです」と侍女。


「では、門と客間を整えなさい。使用人の衣服も改めます。瓶児は立ったままでいてはなりません」


 正室として次々に命じたあと、月娘は人のいない自室へ戻った。


 戸を閉めると、卓へ両手をついた。


「状元……」


 声にした途端、涙が落ちた。


 山中で熊の血を浴びていた若者が、北宋で最も優れた受験者となった。自分へ向けられた思いを隠し、ほかの女へ目も向けず、夜明け前から机へ向かい続けた。


 合格してほしかった。


 しかし、合格すれば遠くへ行くことも分かっていた。


 しかも達也は、都を預かる開封知府となった。もう西門家の離れで保護される客人ではない。


 月娘は涙を拭いた。


 これほど喜ばしい日に、自分の寂しさを表へ出すわけにはいかなかった。


 ◇ ◇ ◇


 達也が西門家へ帰った日、門前には店の者、使用人、近隣の商人まで集まっていた。


 馬車が止まり、達也が降りた。


 次の瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が起こった。


「状元、おめでとうございます」


「開封知府様のお帰りだ」


 達也は官服ではなく、出発した時と同じような衣服を選んでいた。それでも、人々の見る目は以前と違う。


 西門慶が階を下り、達也を両腕で抱き締めた。


「よくやった。よくぞ状元になった」


「旦那様のお力がなければ、試験場へ入ることもできませんでした」


「聞いたか。状元になっても、俺への礼を忘れておらぬ」


 西門慶は周囲へ自慢し、もう一度達也の背をたたいた。


 達也は妻妾たちの前へ進んだ。


 嬌児、玉楼、雪娥、金蓮、瓶児へ順に礼を述べ、最後に月娘の前で頭を下げた。


「奥様、ただいま戻りました」


「お帰りなさいませ、倉様。このたびは、まことにおめでとうございます」


 周囲には大勢の目がある。


 2人は、それ以上の言葉を交わさなかった。


 月娘は達也の顔が少し痩せていることに気づいた。達也は月娘の目元が赤いことに気づいた。


 それでも、互いに尋ねなかった。


 祝宴は、その夜から始まった。


 西門慶は達也を上座へ座らせようとしたが、達也は主人を差し置くことを断った。官職を得ても、西門家では恩を受けた客人であるという態度を崩さなかった。


 酒が進むと、西門慶は何度も同じ話をした。


「俺は、初めて会った日から倉殿は大人物になると思っていた」


「最初は、身元の分からない若者をどうするか迷っておられました」と月娘。


「それは用心というものだ」


「先生から最初の答案を見せられた時も、顔をしかめておられました」と玉楼。


「あの時から伸びると思っていた」


 妻妾たちが笑った。


 達也も笑いながら、西門慶へ酒をついだ。


「旦那様が身元を整え、克明先生を見つけてくださったご恩は、生涯忘れません」


 西門慶は酒杯を置き、目を潤ませた。


「倉殿は、俺の面目を大いに施してくれた。清河県のどの家を探しても、状元を世に出した者はおらぬ」


 1日目の祝いが終わる前に、2日目の客が決まった。2日目には役人や商人が詰めかけ、3日目には近隣の者にまで料理と酒が振る舞われた。


 屋敷では昼も夜も音楽が鳴り、厨房の火は消えなかった。


 達也は勧められるまま酒を飲んだが、無礼になるほど酔うことはなかった。金蓮が隣へ座ろうとすれば瓶児へ席を譲り、嬌児が腕を取れば、客へ挨拶することを口実に離れた。


 月娘へ近づくことは、なおさら控えた。


 状元となった今こそ、軽率な振る舞いは月娘を傷つける。達也は祝宴の間、彼女を西門家の正室として敬い続けた。


 月娘には、その慎みがうれしくも、苦しくもあった。


 ◇ ◇ ◇


 3日目の夕刻、西門慶は王六児(ワン・リウアル)の家へ出かけた。


「今夜は戻らぬ。祝いは好きに続けてくれ」


 そう言い残し、供を連れて門を出た。


 王六児の家に泊まれば、翌日も戻らないことがある。妻妾たちは慣れており、誰も止めなかった。


 その夜も宴は続いたが、3日間の疲れで、客は早めに引き上げた。瓶児は先に休み、嬌児と玉楼も自室へ戻った。雪娥は厨房を片付け、金蓮は酒に酔って侍女に支えられていった。


 夜半には、広い屋敷がようやく静かになった。


 達也は離れの部屋で、開封知府の辞令を見ていた。


 数日後には都へ戻り、官舎へ入らなければならない。西門家で暮らす夜は、もうほとんど残っていなかった。


 戸をたたく音がした。


「はい」


 返事をすると、月娘が1人で入ってきた。


 薄い色の上着をまとい、手には酒壺と2つの杯を載せた盆を持っている。侍女はいなかった。


「奥様。どうなさいました」


「状元のお祝いが、まだ済んでおりません」


「3日間も祝っていただきました」


「あれは西門家のお祝いです。これは、私からのお祝いです」


 月娘は戸を閉め、内側から掛け金を下ろした。


 その小さな音を聞いた途端、達也の胸が強く打った。


「月娘様」


「今夜だけは、奥様と呼ばないでください」


 達也は動けなかった。


 月娘は盆を卓へ置き、酒を2つの杯へ注いだ。


「状元になりましたね」


「はい」


「開封知府にもなりました」


「はい」


「もう、私が朝餉を食べなさいと叱る必要もありません」


 月娘は笑おうとしたが、声が震えた。


 達也は、そこで初めて月娘の目に涙がたまっているのを見た。


「月娘様のおかげです。あなたがいたから、僕は筆を置かずに済みました」


「私のために学んだなどと、申してはなりません。あなたは自分の力で状元になったのです」


「始めたのは自分のためです。しかし、途中からは、あなたに恥じない男になりたいと思っていました」


 月娘は杯へ目を落とした。


「そのようなことを申されると、帰れなくなります」


「帰らないでください」


 達也は初めて、月娘の手を取った。


 人前では、視線さえ長く重ねなかった。西門慶へ礼を失わず、正室である月娘の立場を守るため、何度も言葉をのみ込んだ。


 しかし、あと数日で離れなければならない。


 月娘も手を引かなかった。


「今夜ここへ来たのは、私です」


「分かっています」


「旦那様を裏切ることになります」


「分かっています」


「明日の朝になれば、何もなかった顔をしなければなりません」


「それも分かっています」


「それでも、帰らないでほしいのですか」


「はい」


 達也が迷わず答えると、月娘の涙が頬を伝った。


 達也はその涙を指でぬぐい、月娘を抱き寄せた。


 最初の口づけは、触れただけで離れた。


 月娘が目を開ける。


 達也は、もう一度唇を重ねた。今度は月娘も目を閉じ、達也の胸元をつかんだ。


 抑えてきた時間が長すぎた。


 達也は月娘を寝台へ抱き上げた。月娘は止めず、達也の首へ腕を回した。


 衣が解かれ、灯が小さくなる。


 月娘は、達也が浴室で裸を見られただけで耳まで赤くした日のことを思い出した。あの時の初心な若者は、いまも自分を大切に扱おうとしている。しかし、触れる手には、長く抑えた思いと若い身体の熱があった。


「月娘様、苦しくありませんか」


「そのような顔で尋ねないでください」


「痛ければ、言ってください」


「あなたは状元になっても、変わりませんね」


 月娘は達也の頬へ手を当てた。


「でも、今夜は止まらないでください」


 その言葉で、達也の最後のためらいが消えた。


 2人は深く結ばれた。


 長い間、名を呼ぶことさえ控えてきた分まで、達也は何度も月娘の名を呼んだ。月娘も声を抑えながら、達也の背へ腕を回した。


 一度、静けさが戻っても、達也は月娘を離さなかった。


 夜が明ければ、また正室と客人に戻る。それを思うほど、若い達也の熱は収まらなかった。


 月娘は眠ろうとしたが、達也が再び抱き寄せた。


「少し休ませてください」


「申し訳ありません」


 謝りながらも、達也の腕は緩まなかった。


 月娘は呆れたように笑い、その胸へ額を寄せた。


「今夜だけですよ」


「はい」


 そう答えた達也は、結局、一晩中月娘を眠らせなかった。


 何度結ばれても、別れの朝が遠のくわけではない。それでも2人は、残された夜を惜しむように互いを求め続けた。


 ◇ ◇ ◇


 鶏が鳴く前に、月娘は寝台を出た。


 床へ落ちた衣を拾い、音を立てずに身につける。達也も起き上がり、その背を見つめた。


「月娘様」


「まだ暗いうちに戻らなければなりません」


「僕と結婚してください」


 月娘の手が止まった。


 達也は寝台を下り、月娘の前へ立った。


「開封へ一緒に来てください。僕は官舎に入ります。あなたを迎える場所を用意できます」


「私は、西門慶の正室です」


「分かっています。それでも、あなたを手放したくありません」


「旦那様と別れ、状元となったあなたへ嫁げば、世間は何と申すでしょう。西門家にいたころから通じていたと、必ず疑われます」


「疑う者には、僕が説明します」


「説明して消える噂ではありません」


 月娘は達也の衣の襟を整えた。


「あなたは今日からは、陛下が選ばれた状元であり、開封を預かる知府です。私を得るために、そのすべてを危うくしてはなりません」


「官職より、あなたが大切です」


「その言葉がうれしいからこそ、受け入れられません」


 月娘の目から、再び涙が落ちた。


「私は、あなたが私を選んだために失脚する姿を見たくありません。旦那様には、熊から救われ、武松からも命を救われ、科挙の道まで開いていただきました。恩を仇で返したと知れれば、あなた自身が耐えられないでしょう」


 達也は否定できなかった。


 西門慶は色欲に任せて王六児の家へ通う男である。それでも達也にとって、身元を整え、師を雇い、家族同然に迎えた恩人であることに変わりはない。


「では、昨夜のことを後悔しているのですか」


「後悔しておりません」


 月娘は、はっきり答えた。


「生涯、忘れません。ですが、もう一度求めれば、私は断れなくなります。ですから、今夜限りにしてください」


 達也は月娘を抱き締めた。


「僕は、あなたを愛しています」


「はい」


「これからも変わりません」


「それでも、立派な知府になってください。私を愛した証しを、私を奪うことではなく、あなたがよい政を行うことで見せてください」


 月娘は達也の胸から離れた。


 戸の掛け金へ手を掛ける前に、一度だけ振り返った。


「状元、おめでとうございます」


 今度は正室が客人へ述べる祝いではなかった。


 達也が返事をする前に、月娘は戸を開け、暗い廊下へ消えた。


 誰にも見られなかった。


 ◇ ◇ ◇


 西門慶が屋敷へ戻ったのは、それから3日後であった。


 王六児の家で十分に楽しんできたらしく、機嫌よく達也の赴任支度を手伝った。月娘も普段と変わらず、衣服、書物、辞令を収める箱を一つずつ確かめた。


 達也と2人きりになることはなかった。


 人前では「倉様」と呼び、達也も「奥様」と答えた。


 妻妾も使用人も、3日目の夜に月娘が達也の部屋へ泊まったとは知らない。祝い疲れで早く休んだ正室が、翌朝もいつもどおり帳場と厨房を見て回ったと思っていた。


 達也は開封へ戻った。


 知府としての仕事は、着任した日から押し寄せた。訴状、治安、物価、倉の記録、役人の人事が卓へ積まれた。達也は忙しさの中でも、清河県を忘れなかった。


 月娘へ私的な手紙は出さなかった。届いた手紙が誰かの手に渡れば、彼女を危うくするからである。


 西門慶への礼状の中で、妻妾たちの健康を尋ねるだけにした。


 そのころ、月娘の身体に変化が現れた。


 月のものが来なかった。


 最初は祝いの疲れだと考えた。だが、翌月になっても来ず、朝餉の匂いに胸が悪くなった。


 月娘は、人目を避けて医者を呼んだ。


 脈を診た医者は、やがて笑顔で頭を下げた。


「奥様、ご懐妊でございます」


 月娘は腹へ手を当てた。


 西門慶と最後に同じ寝台へ入ったあと、月のものは一度来ていた。その後、西門慶は瓶児や王六児のもとへ通い、月娘の部屋には一度も来なかった。達也と結ばれたのは、その月のものが終わって十数日後である。それから医者に脈を診られるまで、西門慶と床をともにしたことはなかった。


 屋敷の者は、そのような夫婦の内情までは知らない。西門慶自身も、自分の薬によって瓶児に続いて正室まで懐妊したと喜ぶだろう。


 月娘には、疑う余地がなかった。


 腹に宿った子は、達也の子である。


「このことは、まず私から旦那様へ申します」


 月娘は医者へ口止めし、十分な礼を渡した。


 1人になると、腹を両手で包んだ。


「あなたのお父様は、状元なのですよ」


 小さな声で語りかけると、涙がこぼれた。


 子は西門慶の子として産み、西門家で育てる。それ以外に、達也の将来と子の命を同時に守る道はない。


 達也へ知らせることもできない。知れば、清河県へ戻って来るかもしれない。自分と子を引き取ろうとして、開封知府の地位まで捨てかねない。


 月娘は涙を拭いた。


「お父様の邪魔をしてはなりません。私たちで、あの方を守りましょう」


 それは、達也を拒んだ女の言葉ではなかった。


 愛する男の子を腹に宿し、その男の出世を守ると決めた女の言葉であった。


 達也は、まだ何も知らない。


 開封の官衙で夜遅くまで灯をともし、状元の名に恥じぬ政を行おうとしていた。


 その胸には、月娘への思いが変わらず残っている。


 清河県では月娘が、誰にも知られぬ達也の子を守りながら、西門家の正室として朝を迎えていた。

 第4話後編2では、倉達也(ツァン・ダーイエ)が皇帝趙佶(ジャオ・ジー)の前で殿試へ臨んだ。


 達也は国の財、民の暮らし、運河、倉、軍を一つの流れとして捉え、実行する役所と手順まで答案に示した。皇帝からの問いにも明確に答え、2位以下を大きく引き離して第一甲第一名、状元となった。


 皇帝から直ちに開封知府を命じられた達也は、辞令を受けて西門家へ戻った。西門慶と妻妾、使用人、商人たちは割れんばかりの拍手で迎え、祝いは3日間続いた。


 3日目の夜、西門慶は王六児(ワン・リウアル)の家へ泊まり、屋敷へ戻らなかった。呉月娘(ウー・ユエニャン)は自分から達也の部屋を訪れ、2人は初めて互いの思いを隠さず、一晩をともにした。


 達也は月娘へ結婚を申し込んだ。しかし月娘は、自分との関係が明るみに出れば、状元となった達也の官歴も、西門慶から受けた恩義も失われると考え、求婚を受け入れなかった。


 その後、月娘は達也の子を妊娠した。子は西門慶の子として産み育て、達也へも真実を知らせないつもりである。


 開封で政務を始めた達也は、まだその事実を知らない。

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