第4話(後編2)――「状元の帰還」
(1117年春、北宋・開封府)
夜明け前、宮城へ通じる道には、殿試を受ける者たちの列ができていた。倉達也も衣冠を整え、その中で門が開くのを待った。地方と中央の試験では落ち着いていたが、この朝は胸の鼓動が速かった。それでも、持ち物を確かめ、呼ばれるのを待つ間の手順は変えなかった。
門が開くと、受験者は名簿と照合され、順に中へ通された。達也も両腕を広げ、筆、墨、硯から衣服の内側まで検査を受けた。
案内された殿庭には朝の冷気が残っていた。石畳の先に大殿があり、御座には皇帝趙佶がいた。左右に並ぶ高官たちの前で、達也はほかの受験者とともに伏して礼をし、定められた席へ進んだ。
これまで何百枚もの答案を書き、沈克明に朱を入れられては書き直した。清河県の倉や堤を見て、農民と商人の話を聞き、開封へ来てからも受験者たちと議論を重ねた。いま頼れるのは、その積み重ねだった。
示されたのは、国の財を満たし、民の暮らしを安んじ、辺境を守るために、朝廷はいかなる策を採るべきかという問いだった。財を求めれば民が疲れ、民を休ませれば国用が足りなくなる。その両立を論じなければならなかった。
達也は問題を3度読んだ。周囲ではすでに筆の音がしていたが、まず書く順序を考えた。
民が作り、商人が運び、市で売る。その営みが続いて初めて税が生まれる。税率だけを上げても、作る者が減り、荷が止まれば、翌年の収入はかえって減る。その考えを冒頭に置き、具体策へ進んだ。
州県ごとに田畑、戸数、収穫、穀価を調べ、古い数字のまま課税しないこと。運河と倉を整え、輸送中に失われる穀物を減らすこと。同じ荷へ何度も税を掛ける関所を改め、商いを妨げないことを記した。
飢饉への備えでは、穀価が暴騰してから粥を施すだけでは遅いと論じた。早く倉を開くとともに、種籾と農具を貸し、翌年の耕作を守る必要があった。辺境の軍についても、兵の数だけを増やす策では足りなかった。兵には食糧と給与が、馬には飼料が要る。道と倉がなければ、大軍も戦う前に飢える。
軍費、運河、農政、商いを別々に扱わず、人と物が滞りなく動くよう整える。そのために、どの役所が何から始めるかまで書いた。経書の句も用いたが、言葉を飾るためではなく、判断の根拠として添えた。
日が高くなってからも筆を動かし、書き終えると冒頭から読み返した。意味の重なる文をまとめ、実行する者が曖昧な箇所には役所の名を加えた。費用の裏付けが弱い策は、ほかの事業で損失を減らしてから着手するよう順序を改めた。
最後の字を直したところで、終了の合図が出た。筆を置くと、清河県を発った朝の月娘の声が思い出された。
「行っていらっしゃいませ、倉様」
達也は答案から手を離した。書けることは、すべて書いた。
◇ ◇ ◇
答案は、その日のうちに高官たちへ渡った。達也の文章を読んだ官人は途中で隣の者を呼び、読み終えると、さらに上席へ回した。
「端正な文章だが、それだけではない。州県で政務に就いた者のように、役人と荷の動きを知っている」
「官職に就いたことはないはずです。海商の家に生まれたとありますから、商いを見てきたのでしょう」
ほかにも優れた答案はあった。経書に通じ、典故を巧みに用いて格調の高い文章を書く者は何人もいた。それでも達也の答案は、何を改め、誰を動かし、どの損失から減らすかが具体的だった。民の生産を守ることが国の財につながる道筋も示されていた。
2位に推す答案が決まったあとも、達也を首席から動かそうとする者はいなかった。
皇帝は上位の答案を読み、達也を御前へ呼んだ。達也は大殿へ進み、定められた位置で伏した。
「そなたは、税を増やす前に失われる財を減らせと書いた。倉を預かる役人が損失を少なく申告したなら、どうして見抜く」
「倉を預かる者の帳面だけでなく、入れた者、運んだ者、受け取った者の記録を照らし合わせます。毎月確かめれば、大きな損失になる前に食い違いを見つけられます」
「役人を疑って政を行うつもりか」
「正しく務めた者が疑われぬためにも、記録は必要でございます。誰がどこまで責任を果たしたか分かれば、誤って罰することも避けられます」
皇帝は続けて、飢えた民への救済を尋ねた。
「穀物を与えれば、働かずに施しを待つ者も出よう。その者たちも養い続けるのか」
「食べる物のない者には、まず命をつなぐ穀物を与えます。その後、堤や道、水路を直す仕事を用意し、働いた者へ穀物を渡します。ただし、病人や老人、幼子には同じ働きを求められません。働ける者と働けぬ者を同じに扱えば、公平に見えても、多くの者を死なせます」
皇帝はしばらく達也を見ていた。
「そなたは、文章より政を好むようだ」
「考えた策を誤りなく伝えるためにも、文章を学んでまいりました」
皇帝の口元がわずかに動いた。達也は退出を命じられ、殿庭で発表を待った。
やがて順位が読み上げられた。第3位、第2位と名が告げられ、最後に首席の名が響いた。
「第一甲第一名、倉達也」
状元だった。達也は伏し、額を石畳へ近づけた。地方、中央に続き、殿試でも首席となった。2位以下を大きく引き離し、北宋の受験者の頂点へ立ったのだ。
喜びとともに、克明に直された最初の答案が思い出された。身元を整え、書院を貸し、費用を惜しまなかった西門慶と、夜明け前に茶を届けてくれた月娘の顔も浮かんだ。ようやく帰って、よい報告ができると思った。
◇ ◇ ◇
達也には、その場で辞令が下された。任じられたのは、開封知府だった。
都の治安、訴訟、税、倉、河川を預かり、膨大な人口と商いを支える役目だった。達也の知る時代の東京都知事にも似ていたが、裁判や警察に当たる権限まで握る。皇帝と朝廷が間近にあるだけに、判断を誤った時の影響も大きかった。
辞令を両手で受けると、合格の喜びに浮き立っていた気持ちが引き締まった。答案へ書いた策を、今度は実際の政務で試される。紙の上では1行で済んだ命令が、何万人もの暮らしを変えることになる。
「謹んで、お受けいたします」
達也は深く礼をした。
宮城を出ると、門外で待っていた西門家の下男が駆け寄ってきた。達也が辞令を見せ、状元となり、開封知府を命じられたと伝えると、下男は口を開けたまま動かなくなった。
「聞こえたか。まず、清河県へ知らせを出してほしい」
「はい、聞こえております。ただ、あまりに大きなお話で……」
そう言った直後、下男は両手を上げた。
「倉様が状元になられました。しかも、開封知府でございます」
道を行く者まで振り返った。達也は慌てて腕を下ろさせ、早馬の手配を頼んだ。下男が喜びながら走っていくと、達也は宮城を振り返った。
都を預かる官職を得たばかりだったが、この時は西門家へ帰り、世話になった人々に会いたかった。
◇ ◇ ◇
早馬が清河県へ着いた時、西門慶は店の奥で帳簿を見ていた。使者の報告を聞くなり、椅子を倒して立ち上がった。
「状元になったうえに、開封知府を命じられたのか。間違いではあるまいな」
「倉達也様は殿試第一名でございます。辞令も下されました」
西門慶は使者の肩をつかんで確かめると、大声で笑った。番頭や小僧を集め、酒と祝儀を出すよう命じたあと、通りへまで出て達也の名を告げた。
「俺の屋敷から状元が出たぞ」
屋敷へも知らせが届き、妻妾たちは一斉に立ち上がった。李嬌児は新しい衣装が要ると言い、孟玉楼は迎える席順を考え始めた。孫雪娥は厨房へ走って献立を組み直し、身重の李瓶児は涙を流した。潘金蓮は贈られた赤珊瑚の簪へ触れ、達也が戻る日を尋ねた。
呉月娘は、西門慶がすでに知らせを受けたと確かめてから、門と客間を整え、使用人の衣服も改めるよう命じた。立ったまま喜んでいる瓶児を座らせ、必要な指示を済ませると、自室へ戻った。
戸を閉め、卓へ両手をついて初めて、言葉がこぼれた。
「状元……」
声にした途端、涙が落ちた。夜明け前から机へ向かい、何度も答案を書き直していた達也が、最も優れた受験者として選ばれた。合格を願ってきた月娘にとって、これほどうれしい知らせはなかった。
それでも、開封知府となれば、西門家の離れで暮らす客人ではなくなる。合格すれば遠くへ行くことは分かっていたが、いよいよ別れが近づいたと思うと、涙が止まらなかった。
月娘は目元を拭いた。皆が喜んでいる日に、自分の寂しさを表へ出すわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
達也が戻った日、門前には店の者や使用人だけでなく、近隣の商人まで集まっていた。馬車を降りると、拍手と祝いの声が上がった。
官服ではなく、出発した時と変わらない衣服を選んでいたが、人々の見る目は違っていた。「状元」「知府様」と呼びかけられる中、西門慶が階を下りてきて、両腕で抱き締めた。
「よくやった。よくぞ状元になった」
「旦那様のお力がなければ、試験場へ入ることもできませんでした」
「聞いたか。状元になっても、俺への礼を忘れておらぬ」
周囲へ自慢する西門慶に背をたたかれ、達也は妻妾たちの前へ進んだ。嬌児、玉楼、雪娥、金蓮、瓶児へ礼を述べ、最後に月娘の前で頭を下げた。
「奥様、ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ、倉様。このたびは、まことにおめでとうございます」
大勢の目があるため、それ以上は言葉を交わさなかった。月娘は達也が少し痩せたことに気づき、達也は月娘の目元が赤いことに気づいたが、互いに尋ねなかった。
その夜から祝宴が始まった。西門慶は達也を上座へ座らせようとしたが、達也は主人を差し置けないと断った。官職を得ても、この家では世話になった客人であることに変わりはなかった。
酒が進むと、西門慶は初めて会った日から大人物になると思っていたと繰り返した。
「最初は、身元の分からない若者をどうするか迷っておられましたよ」
月娘が言うと、西門慶は用心していただけだと答えた。玉楼まで、最初の答案を見て顔をしかめていたと指摘したが、それも将来の伸びを考えていたのだと言い張った。
妻妾たちが笑い、達也も笑いながら酒をついだ。
「身元を整え、克明先生を見つけてくださったご恩は、生涯忘れません」
西門慶は杯を置き、目を潤ませた。
「倉殿は、俺の面目を大いに施してくれた。清河県のどの家を探しても、状元を世に出した者はおらぬ」
最初の宴が終わる前に、翌日の客が決まった。2日目には役人や商人が詰めかけ、3日目には近隣の者へも酒と料理が振る舞われた。昼夜を問わず音楽が鳴り、厨房では火を使い続けた。
達也は勧められた酒を飲んだが、礼を失うほどには酔わなかった。金蓮が隣へ来ようとすると瓶児に席を勧め、嬌児が腕を取れば、客への挨拶を口実に離れた。月娘へ近づくことは、なおさら控えた。
状元となって注目される今、軽率な振る舞いは月娘の立場を傷つける。達也は宴の間も正室として敬い続けた。月娘には、その慎みがうれしく、同時に苦しかった。
◇ ◇ ◇
3日目の夕刻、西門慶は王六児の家へ出かけた。
「今夜は戻らぬ。祝いは好きに続けてくれ」
そう言い残し、供を連れて門を出た。王六児の家へ泊まれば、翌日も戻らないことがあった。妻妾たちは慣れており、誰も止めなかった。
その夜も宴は続いたが、3日間の疲れで客は早めに引き上げた。瓶児は先に休み、嬌児と玉楼も自室へ戻った。雪娥は厨房を片づけ、金蓮は酔って侍女に支えられていった。
夜半になって屋敷が静まると、達也は離れで辞令を広げた。数日後には開封へ戻り、官舎へ入らなければならない。ここで過ごす夜は、もうわずかだった。
戸をたたく音がし、返事をすると月娘が入ってきた。薄い色の上着をまとい、酒壺と2つの杯を載せた盆を持っていた。侍女はいなかった。
「奥様、こんな時刻にどうなさったのです」
「私からのお祝いが、まだ済んでおりません。3日間の宴は西門家の祝いですから、今夜は私にも祝わせてください」
月娘は戸を閉め、内側から掛け金を下ろした。その音を聞いた途端、達也の胸が強く打った。
「今夜だけは、奥様と呼ばないでください」
達也が立ち尽くしている間に、月娘は盆を卓へ置き、2つの杯へ酒を注いだ。
「状元になり、開封知府まで命じられたのですね。もう、私が朝餉を食べなさいと叱ることもなくなります」
笑おうとした声が震え、目に涙がたまった。達也はその顔を見て、抑えていた言葉を口にした。
「月娘様がいてくださったから、僕は筆を置かずに済みました」
「私のために学んだなどと、申してはなりません。あなたは自分の力で状元になったのです」
「始めたのは自分のためです。でも、途中からは、あなたに恥じない男になりたいと思っていました」
月娘は杯へ目を落とした。
「そのようなことを言われると、帰れなくなります」
「帰らないでください」
達也は初めて、自分から月娘の手を取った。人前では視線さえ長く重ねず、何度も言葉をのみ込んできた。それでも、あと数日で離れなければならないと思うと、手を放せなかった。
月娘も引かなかった。
「今夜ここへ来たのは私です。ですが、旦那様を裏切ることになります。明日の朝には、何もなかった顔をしなければなりません。それでも、ここにいてほしいのですか」
「分かっています。それでも、帰らないでほしいのです」
月娘の涙が頬を伝った。達也は指でぬぐい、抱き寄せた。最初の口づけは、唇が触れただけで離れた。月娘が目を開くと、達也はもう一度重ねた。今度は月娘も目を閉じ、胸元をつかんだ。
達也が寝台へ抱き上げると、月娘は首へ腕を回した。衣が解かれ、灯が絞られた。
月娘は、浴室で裸を見られただけで耳まで赤くした日の達也を思い出した。今も大切に扱おうとしていることは伝わったが、触れる手には抑えてきた思いと若い身体の熱があった。
「月娘様、苦しくありませんか。痛ければ言ってください」
「状元になっても、あなたは変わりませんね」
月娘は達也の頬へ手を当てた。
「でも、今夜は止まらないでください」
その言葉を聞いて、達也のためらいが消えた。2人は深く結ばれ、達也は何度も月娘の名を呼んだ。月娘も声を抑えながら背へ腕を回した。
一度、静けさが戻っても、達也は月娘を離さなかった。夜が明ければ、また正室と客人に戻らなければならない。眠ろうとする月娘を再び抱き寄せると、少し休ませてほしいと言われた。
「申し訳ありません」
謝っても腕を緩めない達也に、月娘は呆れたように笑い、その胸へ額を寄せた。
「今夜だけですよ」
達也はうなずいたが、結局、一晩中月娘を眠らせなかった。何度結ばれても別れの朝が遠のくわけではないと知りながら、2人は残された夜を惜しむように求め合った。
◇ ◇ ◇
鶏が鳴く前に、月娘は寝台を出た。床へ落ちた衣を拾い、音を立てずに身につける。その背を見ていた達也が呼び止めると、月娘はまだ暗いうちに戻らなければならないと答えた。
「僕と結婚してください。開封へ一緒に来てほしいのです」
月娘の手が止まった。達也は寝台を下り、その前へ立った。
「官舎へ入れば、あなたを迎える場所を用意できます」
「私は、西門慶の正室です。旦那様と別れ、状元になったあなたへ嫁げば、以前から通じていたと必ず疑われます」
「僕から説明します。あなたを手放したくありません」
「説明して消える噂ではありません」
月娘は達也の襟を整えた。
「あなたは陛下が選ばれた状元であり、都を預かる知府です。私を迎えるために、そのすべてを危うくしてはなりません」
「官職より、あなたが大切です」
「その言葉がうれしいからこそ、受け入れられません。あなたが私を選んだために失脚する姿を、私は見たくないのです」
月娘の目から涙が落ちた。
「旦那様は、あなたに家族と自分の命を救われ、今度は科挙の道を開こうと力を尽くしました。あなたも、その助けに感謝していたでしょう。恩人の妻を奪ったと知られれば、ご自分でも耐えられないはずです」
達也は否定できなかった。西門慶は欲に任せて王六児の家へ通う男だったが、身元を整え、師を雇い、家族同然に迎えてくれた恩人でもあった。
「では、昨夜のことを後悔しているのですか」
「後悔しておりません。生涯忘れません。ただ、もう一度求められれば、私は断れなくなります。ですから、今夜限りにしてください」
達也は月娘を抱き締めた。
「僕はあなたを愛しています。これからも変わりません」
「それでも、立派な知府になってください。私を愛した証しを、私を奪うことではなく、よい政を行うことで見せてほしいのです」
月娘は達也の胸から離れた。戸の掛け金へ手を伸ばす前に振り返り、もう一度祝いを述べた。
「状元、おめでとうございます」
正室が客人へ向ける声ではなかった。達也が返事をする前に、月娘は戸を開け、暗い廊下へ出ていった。その姿を見た者はいなかった。
◇ ◇ ◇
西門慶が戻ったのは、それから3日後だった。王六児の家で過ごして満足したらしく、機嫌よく達也の赴任支度を手伝った。月娘も普段と変わらず、衣服や書物、辞令を収める箱を確かめた。
達也と2人きりになることはなく、人前では「倉様」と呼び、達也も「奥様」と答えた。妻妾も使用人も、月娘が離れで一夜を過ごしたとは知らなかった。祝い疲れで早く休み、翌朝もいつもどおり帳場と厨房を見て回ったと思っていた。
開封へ戻った達也には、着任した日から仕事が押し寄せた。訴状、治安や物価の報告、倉の記録、人事に関する書付が卓へ積まれた。忙しさの中でも清河県を忘れなかったが、月娘へ私的な手紙は出さなかった。誰かの手に渡れば、彼女の立場を危うくするからだった。
西門慶へ礼状を送り、その中で妻妾たちの健康を尋ねるにとどめた。
月娘は、月のものが来ないことに気づいていた。初めは祝いの疲れかと考えたが、翌月になっても来ず、朝餉の匂いで胸が悪くなった。人目を避けて医者を呼ぶと、脈を診た医者は笑顔で頭を下げた。
「奥様、ご懐妊でございます」
月娘は腹へ手を当てた。
西門慶と最後に床をともにしたあと、月のものは一度来ていた。その後、夫は瓶児や王六児のもとへ通い、自分の部屋へは来ていなかった。達也と結ばれたのは、月のものが終わって十数日後だった。それから今まで、西門慶と同じ寝台で過ごしたことはなかった。
屋敷の者は、そこまで夫婦の内情を知らない。西門慶も、瓶児に続いて正室まで懐妊したと喜ぶだろう。だが、月娘には父親が誰なのか分かっていた。
「このことは、まず私から旦那様へ話します。それまでは、ほかへ知らせないでください」
医者へ口止めし、十分な礼を渡した。1人になると、腹を両手で包んだ。
「あなたのお父様は、状元なのですよ」
語りかけた途端、涙がこぼれた。
子は西門慶の子として産み、この家で育てるつもりだった。達也の将来と子の命をともに守るには、それしかないと考えた。達也にも知らせられなかった。知れば清河県へ戻り、自分と子を引き取るために、知府の地位まで捨てようとしかねなかった。
月娘は涙を拭い、腹へ手を添えたまま語りかけた。
「私たちで、あの方を守りましょう」
達也は何も知らず、開封の官衙で夜遅くまで仕事をしていた。月娘へ約束したとおり、状元の名に恥じない政を行おうとしていた。
清河県では月娘が腹の子の父親を誰にも明かさず、西門家の正室としての日々を送っていた。




