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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第4話(後編1)――「殿試前夜」

 (1116年11月、北宋・東平府(ドンピンフ)清河県(チンホーシエン)・西門家)


 東の書院では、五更の鐘より先に灯がともるようになった。達也は冷たい水で顔を洗い、前日に書いた答案を卓へ広げた。紙の左側には師の朱書きが連なっていた。言葉が新しすぎる、朝廷の仕組みを無視している、3年かかる事業を1年で終えると書いている。達也は指摘された箇所を読み返し、新しい紙へ書き直した。


 夜が明けると、沈克明(シェン・クーミン)が入ってきた。58歳の克明は県学で長く教え、科挙にも3度挑んだが、官職には就いていない。西門慶が高い礼金を示して招いた師だった。


 克明は書き直した答案を読み、卓へ戻した。


「昨日より悪い。私に直されるのを恐れて、何も申しておらぬ。誤りのない文を書こうとして、中身まで捨ててしまったな」


 達也は答案へ目を落とした。朱を入れられた箇所を避けることに気を取られ、何を実行すべきかという自分の考えまで曖昧になっていた。


「もう一度、書き直します」


「何度でも直せ。ただし、私が喜ぶ答えを探すな。問われたことを読み、お前の答えを定め、経書と実情で支えるのだ」


 克明は別の紙を差し出した。洪水の被害を受けた民を救い、翌年の耕作を続けさせるには、州県は何をすべきかという問いだった。


 達也の頭には、堤防や排水路の修復、備蓄の放出、種籾と農具の確保、疫病への備えが浮かんだ。しかし、知っていることを並べても、北宋の役人が実行できなければ策にはならなかった。


 達也は筆を取り、まず戸籍と被害を調べ、倉の穀物を放出すると書いた。種籾と農具は食糧と分けて貸し、春までに耕作へ戻れる家を増やす。堤の修復には被災した民を雇い、食糧と銭を与える。商人が穀物を運び込めるよう道を開き、不当に値をつり上げる者は取り締まる。その順序と理由を、一つずつ文章にした。


 書き終えると、克明は最初から最後まで2度読んだ。


「ようやく、お前の文に戻った。この1枚なら、合格を望める」


「では、ほかの問題でも書けるようにしなければなりません。次をお願いします」


 達也が新しい紙を引き寄せると、克明の口元が緩んだ。


「武松を倒した男は、休むことを知らぬらしい」


「武松との勝負は終わりましたが、試験はまだですから」


 ◇ ◇ ◇


 朝食の席へ、達也は書物を持ち込まなかった。主人と妻妾がそろう場では筆を置き、西門慶の客人として礼を守った。李嬌児(リー・ジャオアル)が新しい髪飾りを見せても、孟玉楼(モン・ユーロウ)が勉強の進み具合を尋ねても、相手に失礼のない範囲で答えた。


 潘金蓮(パン・ジンリエン)が卓の下で足袋へ触れようとすると、達也は椀を取るふりをして席を引いた。呉月娘(ウー・ユエニャン)はその動きに気づいたが、何も言わなかった。


「先生は、倉殿の出来を何と申している」


 西門慶(シーメン・チン)に尋ねられ、達也は箸を置いた。


「地方の試験へ出しても恥はかかないが、合格するとは言えないそうです」


「ずいぶん慎重な先生だな。もう少し励ましてもよかろうに」


「受けるのは僕ですから、先生が大きなことをおっしゃっても答案はよくなりません」


 西門慶は笑い、酒杯を口へ運んだ。以前なら朝から2杯、3杯と重ねていたが、この日は1杯で止めた。顔色もよく、夜更けまで飲んだ翌朝に見せていた目の濁りもなかった。


 達也が渡した薬を使い始めてから、機嫌のよい日が続いていた。ただし、言いつけた量は守っていた。薬壺は月娘が預かり、求められた日と渡した数を帳面へ記していた。


「倉殿の薬は大したものだ」


 西門慶が言うと、妻妾たちの間に笑いが広がった。


「食事の席で、その話はお控えください」


「よいではないか、月娘。倉殿も男だ」


「僕も食事中です」


 達也が真顔で答えたため、玉楼が吹き出し、嬌児と李瓶児(リー・ピンアル)も袖で口元を隠した。


 西門慶は構わず、薬はまだあるのかと尋ねた。


「最初に100錠お渡ししました。毎日使う物ではありませんから、まだ残っているはずです」


「分かっておる。用量は守っているぞ」


「旦那様は、倉様から言われたとおりになさっています」


 月娘の言葉に、達也は一礼した。


「奥様が確かめてくださるなら、安心です」


 視線が重なったのは一瞬だった。達也はすぐ西門慶へ向き直り、役所へ出す身元書を克明と確認するため、証人の商人にも改めて会いたいと頼んだ。


「使いを出しておこう。必要な銀も帳場から持っていきなさい」


「受験に必要な分をお借りします。金額は書き残しておきます」


「命の恩人から取り立てるつもりはないが、記録を残したければ好きにしろ。倉殿は、俺より月娘に似てきたな」


 西門慶が笑うと、達也は礼を述べるだけにとどめた。月娘も椀へ目を落とした。金蓮は2人を見比べたが、その場で口を挟むことはなかった。


 ◇ ◇ ◇


 冬が深まるにつれ、達也の1日は書院を中心に回るようになった。五更前に起きて前日の復習をし、朝食後は克明から経義、論、策を学んだ。午後には役所、市、倉、堤、寺院を歩き、商人から物価を、農民から作柄を聞いた。役所が出した古い布告を写し、夜には見聞きしたことを文章にまとめた。


 後世の知識をそのまま書くのではなく、北宋の役人が読んで理解し、実行できる言葉へ直す必要があった。費用や人手をどう集めるかまで考えて書くと、自分の知識が足りないところも明らかになった。


 妻妾たちが書院へ入ることは、ほとんどなくなった。瓶児は果物や温かい粥を侍女に持たせ、玉楼は珍しい古書を見つけると月娘を通じて届けた。嬌児と雪娥も、達也が朝食を抜かないよう気を配った。金蓮だけは自分で入ろうとしたため、月娘が戸口へ番を置いた。


 達也は差し入れに礼を述べたが、勉強中はきりのよいところまで筆を止めなかった。


 月娘は毎朝、侍女を伴って書院の前を通り、戸が開いている時だけ茶を置いた。人前では達也を「倉様」と呼び、達也も「奥様」と答えた。


 ある朝、克明が来る前に茶を届けた月娘は、達也の顔を見て眉を寄せた。


「少しお痩せになりましたね。身体が丈夫でも、食べなければ倒れますよ」


「朝餉は必ず頂きます。お気遣い、ありがとうございます」


 廊下には侍女がいた。達也は茶の器へ手を添え、客人として礼を述べた。


「それなら、合格してお返しください」


「力を尽くします」


 月娘はそれ以上話さず、書院を出た。達也も引き止めなかった。何も成さず西門家へ居続ければ、月娘を困らせるばかりだった。科挙を通り、自分の名と立場を得てからでなければ、その先の望みを考えることもできなかった。


 達也は、その朝の答案を3度書き直した。克明は4枚目を読み、初めて朱を入れずに返した。


 ◇ ◇ ◇


 年が改まり、春を迎えるころ、瓶児が朝餉の匂いに顔を背け、口元を押さえた。月娘はすぐに医者を呼ばせた。脈を診た医者は瓶児の前から下がり、西門慶へ深く頭を下げた。


「おめでとうございます。ご懐妊でございます」


 西門慶は立ち上がって喜び、医者へ銀を与えた。瓶児は腹へ両手を当て、目を潤ませた。医者から身体を大切にするよう言われると、何度もうなずいた。


 月娘は厨房へ食べやすい物を用意するよう命じ、瓶児付きの侍女を1人増やした。西門慶も新しい寝具と炭を運ばせ、書院へまで知らせに来た。


「倉殿、瓶児に子ができた。あの薬のおかげだ」


「おめでとうございます。ただ、薬は子を授けるための物ではありません。瓶児様とお子のためにも、これからは医者の指示を守ってください」


「分かっておる。今日は祝いだ。倉殿も飲みなさい」


「夜の勉強が終わってから、1杯だけ頂きます」


「このような日まで勉強をするのか」


「お祝いは申し上げますが、試験の準備も進めなければなりませんから」


 達也は瓶児の部屋へ行き、戸口で祝いを述べた。中には月娘、玉楼、金蓮らがそろっていた。


「どうか、お身体を大切になさってください」


「倉様こそ、少しくらいお休みください。いつも勉強ばかりではありませんか」


「合格したら、ゆっくり休みます」


 達也は一礼して書院へ戻った。遠ざかる足音を聞きながら、瓶児はほほ笑んだ。


「本当に、月娘姉様以外は目に入らないのですね」


 声を落とした瓶児の言葉に、月娘は侍女へ薬湯の用意を命じてから答えた。


「いまは、科挙しか見ておられません」


「それを信じているのは、姉様だけではありませんか」


 金蓮に言われ、月娘は顔を向けた。


「達也が何を思おうと、旦那様の客人です。私たちは勉学の邪魔をしてはなりません」


 正室として言い聞かせたつもりだったが、瓶児は、達也を呼び捨てにしたことを聞き逃さなかった。


 ◇ ◇ ◇


 瓶児の懐妊を喜ぶ西門慶は、昼は店と役所を回り、夜は妻妾の部屋へ通った。薬は言われた量を超えず、使わない日も設けていた。月娘は帳面をつけ、西門慶自身も身体に異変がないか気にするようになっていた。


 やがて、その目は屋敷の外へも向いた。


 薬種店の番頭、韓道国(ハン・ダオグオ)の妻である王六児(ワン・リウアル)は、夫より商いの話に通じ、客の顔と懐具合をよく覚えていた。30歳前後の、肉付きのよい女だった。


 韓道国の家へ帳簿を届けさせた日、西門慶もそこを訪れていた。王六児は自ら茶を運び、向けられる視線に気づいても目を伏せなかった。


「旦那様は、以前よりお若く見えます。店の者も、近ごろは朝から夜までお休みにならないと申しておりますよ」


「俺は、まだ老いておらぬ」


「存じております」


 王六児は茶碗を置き、西門慶の袖へ指先を触れた。西門慶はその手を退けなかった。


 韓道国は、やがて主人と妻の間に何が起きたかを知った。だが、店を追われることを恐れ、口を閉ざした。そればかりか、西門慶が通いやすいよう、仕事を口実に外出するようになった。


 達也は、その詳しい成り行きを知らなかった。西門慶が屋敷を空ける夜が増えたことには気づいたが、行き先を尋ねる立場でもなかった。朝食で顔を合わせても、薬の使い方と体調を確かめると、試験の話へ戻った。


 主人の暮らしに気を取られている余裕はなかった。地方試験は、目前に迫っていた。


 ◇ ◇ ◇


 試験の日、達也はまだ暗い西門家の門前で荷を確かめた。受験に必要な書付と筆、墨、硯、食べ物、衣服が、決められた箱へ収められていた。


 克明は見送りに来なかった。前日の稽古を終えると、試験場へ入るのは達也自身であり、伝えるべきことはすべて伝えたと言って、自宅へ戻っていた。


 西門慶は達也の肩をたたいた。


「倉殿なら通る。試験官ではないが、俺には人を見る目がある」


「ご期待に背かぬよう、力を尽くします」


 達也が頭を下げると、少し離れて並んでいた妻妾たちの前から、月娘が進み出た。瓶児は厚い上着をまとい、玉楼に支えられていた。金蓮も何か言いたそうだったが、正室の言葉を待った。


「忘れ物がなければ、あとは落ち着いてお書きなさい。皆で知らせを待っております」


「荷は3度確かめました。行ってまいります、奥様」


 人の目があるため、達也は月娘だけを長く見ず、妻妾全員へ一礼した。


「行っていらっしゃいませ、倉様」


 月娘は引き止めず、馬車へ乗る達也を見送った。


 門が遠ざかってからも、達也の耳にはその声が残っていた。特別な品を渡されたわけでも、2人だけの約束を交わしたわけでもない。それでも、落ち着いて答案へ向かえそうだった。


 試験場では身元書と持ち物を厳しく改められた。達也は倉姓の海商の家に生まれ、船を失って清河県へ来た者として登録されていた。西門慶が探した証人の話と、何度も確かめた経歴に食い違いはなかった。


 席へ入り、問題を受け取っても、すぐには筆を取らなかった。経書の一節と政治への用い方を論じるもの、地方の倉や税を扱うもの、飢饉の兆しがある時に官と民が何をすべきかを問うものがあった。


 達也は問いを3度読み、答案の順序を頭の中で組み立てた。知識をすべて書くのではなく、問われたことへ答える。経書の句は飾りにせず、実行できる策を支えるために用いる。克明から繰り返し教えられたことだった。


 書き直した答案や、農民から聞いた話、商人が教えてくれた穀価、役所の古い布告を思い返し、必要なものを選んだ。筆を取り、日が傾くまで書き続けた。


 ◇ ◇ ◇


 合格者の名が掲げられた日、試験場の前には大勢の人が集まった。達也は列の後ろから札を見上げ、上から名を追った。


 最初の行に、倉達也(ツァン・ダーイエ)とあった。読み違えたのではないかと確かめ直したが、姓も名も役所へ届けた文字だった。地方試験を首席で通ったのだ。


 知らせを受けた西門慶は、店を閉めさせるほど喜んだ。祝いの酒と料理を用意し、克明には約束の倍の礼金を届けさせた。


「だから申したであろう。俺には人を見る目がある」


「旦那様が答案をお書きになったわけではありませんよ」


 月娘に言われると、西門慶は身元を整え、師を雇い、書院を貸したではないかと胸を張った。達也はその前へ進み、両手をついて礼をした。


「旦那様のお力がなければ、受験することさえできませんでした。このご恩は忘れません」


「それなら、都へ行っても俺を忘れるな。倉殿が官人になれば、俺も鼻が高い」


 金蓮が酒をつごうとしたが、達也は1杯飲んだところで杯を伏せた。


「今夜はこれで十分です。次の試験へ向けて、まだ学ぶことがあります」


「首席でも、少しは喜んで休もうとなさらないのですね」


「地方で1番になっただけです。都には、各地の1番が集まりますから」


 達也は祝いの席を途中で抜け、書院へ戻った。月娘は追わず、皆が寝静まってから侍女に夜食を届けさせた。


 盆の下には小さな紙が置かれていた。開くと、月娘の字で「お見事でした」とだけ記されていた。


 達也はしばらく眺めてから折り畳み、懐へ収めた。返事を書けば、祝いへの礼だけでは済まなくなる気がした。月娘の立場を考えて筆を取らず、その代わりに次の答案へ向かった。


 会いに行きたい気持ちはあった。それでも、次の合格を知らせる方が、月娘を喜ばせられると思った。


 ◇ ◇ ◇


 開封(カイフォン)へ向かう日が近づいたころ、西門慶は達也を書斎へ呼んだ。卓には最初に渡した薬壺があり、まだ錠剤が残っていた。


「都へ行く前に、この薬をもう少し譲ってもらいたい。少なくなってから頼もうにも、倉殿がすぐ戻るとは限らぬからな」


 達也は壺の中を数えた。月娘の帳面と食い違いはなく、決めた量を守っていることは確かめられた。西門慶は、胸の痛みや息苦しさ、目の異常もないと答えた。


「では、200錠お持ちします。ただし、手元の数が増えても、飲める量は変わりません」


「1回1錠で丸1日空け、具合の悪い日や、酒にひどく酔った時は飲まぬ。月娘にも引き続き数を見てもらう」


 翌朝、達也は山へ向かった。洞窟の10トン車から50mgのシルデナフィルを200錠取り出し、文字のない容器へ移した。さらに陶器の壺2つへ100錠ずつ収め、湿気が入らないよう蓋を閉じた。


 屋敷へ戻ると、月娘が同席する場で西門慶へ渡し、数を確かめてもらった。


「これまでと同じように、奥様が記録してください」


「承知しました」


「倉殿は、俺より月娘を信用しておるな」


 西門慶が笑うと、達也は、言いつけを守っていることは承知しているが、間違いを防ぐために確認してほしいのだと答えた。


「分かっておる。殿試まで通ったら、今度は倉殿の望みを申せ。官職でも屋敷でも、俺にできることなら力を貸してやる」


「まず、次の試験を通ることに専念します」


 達也は深く頭を下げた。月娘への思いを口にすることはなかった。西門慶から受けた助けに応え、自分の力で道を開くまでは、その先の望みを語れなかった。


 ◇ ◇ ◇


 (1117年春、北宋・開封府(カイフォンフ))


 開封へ入った達也は、各地から集まった受験者とともに中央の試験へ備えた。宿でも夜明け前に起き、昼は過去の答案を読み、夜は策を1題ずつ書いた。同行した西門家の下男が食事を運んでも、書いている箇所を終えるまでは箸を取らなかった。


 地方試験の首席と聞き、同宿の受験者が議論を持ちかけることもあった。


「国の財を増やすには、まず商税を重くすべきではないか。商人には、それだけの蓄えがあるだろう」


「増税の前に、どの商いからいくら取れるかを調べる必要があります。取れない税を定めれば、役人が民を脅す口実になりかねません」


 達也はそう答え、荷の流れを止めず、同じ品への重ね取りを改め、倉や運河で失われる財を減らす方が先だと説明した。


「新しい税を設けるのは、それでも足りない分を確かめてからです。商いが続かなければ、次の年には税を取る相手も減ってしまいます」


 経書の句を挙げるだけでなく、税を払う者や荷を運ぶ者がどう動くかまで話すため、受験者たちは次第に達也の部屋へ集まるようになった。


 達也の考えには、清国で見聞きした行政、1986年までの知識、渡航前に学んだ歴史、西門家で見た商いが関わっていた。ただし、そのまま語ることはせず、北宋で実行できることを選び、相手に分かる言葉で説明した。


 議論は役に立ったが、夜更けまで続けることはなかった。


「今日は、ここまでにしましょう。話し合ったことも、最後は自分で答案に書けるようにしなければなりません」


 刻限になると客を帰し、1人で机へ向かった。


 月娘の顔が浮かぶ夜もあった。いま何をしているのか、瓶児の身体は無事か、西門慶は薬の量を守っているか。考え始めると気持ちが清河県へ戻ったが、そのたびに問題を読み直した。会いたいという思いを、勉強を怠る理由にはしたくなかった。


 試験でも、達也は学んできたことを答案へまとめた。経義では章句の意味を正確に押さえ、論では異なる意見を退けるばかりでなく、採るべき点も認めた。策では財政や治水、救荒、軍馬、塩、運河を扱い、それぞれが人と物の動きを通じてどう関わるかを示した。


 達也の答案を読み終えた試験官の1人は、別の試験官へ回した。


「この倉達也という者は、どこで学んだのだ。文章だけを習った者とは思えぬ」


「東平府の清河県から来ております。海商の家の者だそうです」


「なるほど。民の暮らしと商いを見ているのだな」


 中央の試験でも、達也は首席となった。


 合格を知った夜、宿の窓を開くと、暗い空の下に開封の灯が続いていた。清河県とは比べものにならない数だった。西門家の下男が祝いの酒を運び、主人からは合格したら好きなだけ飲ませるよう言いつけられていると告げた。


「ありがとうございます。ただ、明後日は殿試ですから、今夜も1杯だけ頂きます」


 達也は酒を飲むと、机へ戻った。


 ◇ ◇ ◇


 殿試前日の夕刻、宮城から触れが届いた。翌朝、皇帝の前で最後の試験が行われる。


 宿の廊下では足音が絶えなかった。衣冠を確かめる者、経書を読み続ける者、誰が上位に置かれるかを噂する者がいた。達也は借りた部屋で筆と衣服を整え、卓へ白紙を置いた。


 克明に学び始めたころには、1枚の答案へ20を超える朱を入れられた。それが地方と中央の試験を首席で通るところまで来たが、明日の答案で最後の順位が決まる。達也は、これまで学んだことを改めて書き出した。


 民を富ませることと国を富ませることを、対立するものとして考えてはならない。税を取るには、民が作り、商人が運び、売れる道が必要になる。災害に遭った土地では施しだけで終わらず、翌年の耕作へ戻れるようにしなければならない。軍も兵の数を増やすだけでは強くならず、馬や食糧、道、倉、給与を整える必要がある。


 書きながら、それぞれの策に費用と人手の裏付けがあるかを確かめた。北宋一の実力があるかどうかは、自分で名乗ることではなかった。明日の答案を読んだ者が判断することだった。


 筆を置くと、清河県を出た朝の月娘の声が思い出された。


「行っていらっしゃいませ、倉様」


 会いたい気持ちを抱えたまま、ここまで来た。ほかの女へ気を移すことも、西門慶を裏切ることもせず、書院へ通い、答案を書き続けた。その積み重ねを、明日は皇帝の前で示すことになる。


「必ず通ります」


 達也は誰もいない部屋で答え、筆を片づけた。夜が明ければ宮城の門をくぐり、殿試へ臨む。

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