第4話(後編1)――「殿試前夜」
1116年10月、北宋・東平府清河県の西門家で、倉達也は科挙の準備を始めた。
西門慶は、達也の身元を証明する海商を探し、元県学教師の沈克明を師として招いた。東の書院には経書と紙、墨、筆、硯がそろえられた。
達也は第5房の潘金蓮の誘惑を退け、ほかの妻妾にも目を向けなかった。正室の呉月娘を一途に慕っていたが、その思いを人前へ出せば、月娘の立場も、西門慶から受けた恩も傷つける。達也は胸の内を答案へ向け、夜明け前から学び始めた。
一方、西門慶には、洞窟から持ち出した50mgのシルデナフィル100錠を渡した。1回1錠、丸1日空けるという用量を守る限り、問題はない。
(1116年11月、北宋・東平府清河県・西門家)
東の書院では、五更の鐘より先に灯がともるようになった。
達也は冷たい水で顔を洗い、昨日書いた答案を卓へ広げた。紙の右側には達也の文章があり、左側には師の朱書きが連なっている。言葉が新しすぎる、朝廷の仕組みを無視している、3年でできぬことを1年で行うと書いている。指摘はどれも短いが、逃げ道はなかった。
達也は朱を入れられた箇所を読み返し、新しい紙へ書き直した。
夜が明けると、沈克明が書院へ入ってきた。58歳の克明は県学で長く教え、科挙にも3度挑んだが、官職には就いていない。西門慶が高い礼金を示して招いた人物である。
克明は達也の答案を読み、机へ置いた。
「昨日より悪い」
「どこが悪いのでしょうか」
「私の直しを恐れ、何も申しておらぬ。誤りのない文を書こうとして、中身まで捨てた」
達也は答案へ目を落とした。
「もう一度、書き直します」
「何度でも直せ。ただし、私が喜ぶ答えを探すな。問われていることを読み、お前の答えを定め、その答えを経書と実情で支えよ」
克明は別の紙を差し出した。
洪水のあとの民を救い、翌年の耕作を続けさせるには、州県が何をすべきか。短い問いであった。
達也の頭には、堤防、排水路、備蓄、種籾、農具、疫病対策が一度に浮かんだ。しかし、未来の知識を並べても、北宋の役人が実行できなければ策にはならない。
達也は筆を持った。
まず戸籍と被害を調べ、倉の穀物を放出する。種籾と農具は食糧とは分けて貸し、春までに耕作へ戻れる家を増やす。堤の修復には被災した民を雇い、食糧と銭を与える。商人が穀物を運び込む道を開き、値をつり上げる者は取り締まる。
書き終えると、克明は最初から最後まで2度読んだ。
「ようやく、お前の文へ戻った」
「合格できますか」
「この1枚だけならな」
「では、次をお願いします」
克明は口元を緩めた。
「武松を倒した男は、休むことを知らぬらしい」
「武松には、もう勝ちました。こちらには、まだ勝っておりません」
達也は新しい紙を引き寄せた。
◇ ◇ ◇
朝食の席でも、達也は書物を持ち込まなかった。
主人と妻妾が食事をする場では筆を置き、西門慶の客人として礼を守った。李嬌児が新しい髪飾りを見せても、孟玉楼が文章の進み具合を尋ねても、必要な返事だけをした。潘金蓮が足を伸ばし、卓の下で達也の足袋へ触れようとすると、達也は椀を取るふりをして席を引いた。
月娘だけは、その動きに気づいたが、何も言わなかった。
「倉殿。先生は何と申している」と西門慶。
「地方の試験へ出しても恥はかかない。ただし、合格するとは申せないそうです」
「ずいぶん慎重な先生だな」
「試験を受けるのは僕です。先生が大言を吐いても、答案はよくなりません」
西門慶は笑い、酒杯を口へ運んだ。以前なら朝から2杯、3杯と重ねていたが、この日は1杯で止めた。顔色もよく、夜更けまで酒を飲んだ翌朝に見せていた目の濁りもない。
達也が渡した薬を使い始めてから、西門慶は機嫌のよい日が続いていた。ただし、達也の言いつけだけは守っている。薬壺は月娘が預かり、西門慶が求めた日と数を帳面へ記していた。
「倉殿の薬は大したものだ」
西門慶が言うと、妻妾の間に小さな笑いが広がった。
「食事の席で、その話をなさらないでください」と月娘。
「よいではないか。倉殿も男だ」
「僕は食事中です」
達也が真顔で答えたため、玉楼が先に吹き出し、嬌児と瓶児も袖で口元を隠した。
「薬は、まだあるのか」と西門慶。
「最初に100錠お渡ししました。毎日使う物ではありません」
「分かっている。用量は守っておる」
月娘が静かに答えた。
「旦那様は、倉様のお言葉どおりになさっています」
人前にいる月娘は、正室として西門慶の体調を管理していた。達也も、その言葉を聞いて月娘へ一礼するだけにとどめた。
「奥様が見てくださるなら、安心です」
2人の視線は、ほんの一瞬だけ重なった。
達也はすぐ西門慶へ向き直った。
「旦那様。今日、役所へ出す身元書を克明先生と確かめます。証人の方にも、もう一度お会いしたいのですが」
「使いを出しておこう。必要な銀も帳場から持っていけ」
「受験に必要な分だけ、お借りします。金額は書き残します」
「命の恩人から取り立てるつもりはない」
「それでも記録は残します」
「好きにしろ。倉殿は、俺より月娘に似てきたな」
西門慶が笑った。
達也は返事をせず、月娘も椀へ目を落とした。
誰も2人の胸の内には気づかなかった。金蓮だけが達也と月娘を交互に見たが、その場で口を挟むことはなかった。
◇ ◇ ◇
冬が深まるにつれ、達也の1日は書院を中心に回るようになった。
五更前に起き、前日の復習をする。朝食後は克明から経義、論、策を学び、午後は清河県の役所、市、倉、堤、寺院を歩いた。商人から物価を聞き、農民から今年の作柄を聞き、役人が出した古い布告を写した。夜は、それらを当時の言葉で文章へまとめた。
未来の正解を見せるためではない。北宋の土地で、いま使える答えを書くためである。
西門家の妻妾が書院へ入ることは、ほとんどなくなった。
瓶児は時折、果物や温かい粥を侍女に持たせた。玉楼は珍しい古書を見つけると、月娘を通じて届けた。嬌児と雪娥も、達也が朝食を抜かないよう気を配った。金蓮だけは自分で入ろうとしたが、月娘が戸口へ番を置いた。
達也は礼を述べたものの、誰から届いた品であっても勉強中には手を止めなかった。
月娘は毎朝、書院の前を通った。
侍女を伴い、戸が開いている時だけ、中へ茶を置いた。ほかの者がいる時には「倉様」、達也も「奥様」と呼んだ。それ以上の言葉は交わさない。
ある朝、克明が来る前に月娘が茶を置いた。
「お顔が痩せました」
「身体は丈夫です」
「丈夫な方でも、食べなければ倒れます」
「朝餉は必ずいただきます」
廊下には侍女がいた。達也は茶へ手を添え、正室へ礼を述べる客人の声で続けた。
「奥様のお心遣いに、感謝いたします」
「合格してお返しください」
「はい」
月娘はそれだけで書院を出た。
達也は、その背を追わなかった。月娘を引き止めたい気持ちが強くなるほど、筆を握った。
自分が無為に西門家へ居続ければ、月娘を困らせるだけである。科挙を通り、自分の名と立場を得なければ、その先に望みを抱く資格もない。
達也は、その朝の答案を3度書き直した。
克明は4枚目を読み、初めて朱を一つも入れずに返した。
◇ ◇ ◇
年が改まり、春を迎えるころ、西門家にも変化があった。
李瓶児が朝餉の匂いに顔を背け、口元を押さえたのである。
月娘がすぐ侍女へ命じ、医者を呼ばせた。脈を診た医者は、瓶児の前から下がると、西門慶へ深く頭を下げた。
「おめでとうございます。ご懐妊でございます」
西門慶は立ち上がり、医者へ銀を与えた。瓶児は両手で腹を押さえ、目を潤ませた。
「本当に、私の子がいるのですか」
「まだ身体を大切になさる時期です」と医者。
月娘はすぐ厨房へ食事を軽くするよう命じ、瓶児付きの侍女を1人増やした。西門慶は喜びを隠さず、瓶児の部屋へ新しい寝具と炭を運ばせた。
「倉殿。あの薬のおかげだ」
西門慶は書院へまで知らせに来た。
「薬は、子を授ける薬ではありません」
「だが、役には立った」
「瓶児様とお子のためにも、今後は医者の指示を守ってください」
「分かっておる。今日は祝いだ。倉殿も飲め」
「夜の勉強が終わってから、1杯だけいただきます」
「このような日まで勉強か」
「試験は、瓶児様のご懐妊を待ってくれません」
達也は瓶児の部屋を訪れ、戸口で祝いを述べた。月娘、玉楼、金蓮らが同席していたため、中へ長居はしなかった。
「お身体を大切になさってください」
「倉様も、少しくらいお休みください」と瓶児。
「合格したら休みます」
達也は一礼し、書院へ戻った。
瓶児は、廊下を遠ざかる足音を聞いて微笑んだ。
「本当に、月娘姉様以外は目に入らないのですね」
瓶児が小声で言うと、月娘は侍女へ薬湯の用意を命じた。
「いまは、科挙しか見ておられません」
「それを信じているのは、姉様だけではありませんか」と金蓮。
月娘は金蓮へ顔を向けた。
「達也が何を思おうと、旦那様の客人です。私たちは、勉学の邪魔をしてはなりません」
正室としての言葉であった。
しかし、瓶児は月娘が達也を呼び捨てにしたことを聞き逃さなかった。
◇ ◇ ◇
西門慶は、薬の効き目と瓶児の懐妊で、以前にも増して精力的になった。
昼は店と役所を回り、夜は妻妾の部屋へ通う。それでも薬は1日に1錠を超えず、使わない日も設けた。月娘が帳面を預かり、西門慶自身も胸の痛みや息苦しさがないことを確かめている。
やがて西門慶の目は、屋敷の外へも向いた。
薬種店の番頭である韓道国の妻、王六児は、夫よりも商いの話に通じ、客の顔と懐具合をよく覚えていた。30歳前後の、肉付きのよい女である。
西門慶が韓道国の家へ帳簿を届けさせた日、王六児は自ら茶を運んできた。西門慶の視線に気づいても、慌てて目を伏せることはなかった。
「旦那様は、以前よりお若く見えます」
「俺は、まだ老いておらぬ」
「存じております。店の者も、近ごろの旦那様は朝から夜まで休まれないと申しております」
王六児は茶碗を置き、西門慶の袖へ指先を触れた。
西門慶は、その手を退けなかった。
韓道国は主人と妻の間に何が起きたかを知ったが、店を追われることを恐れ、口を閉ざした。そればかりか、西門慶が自分の家へ通いやすいよう、仕事を口実に外出するようになった。
こうして西門慶は、番頭の妻まで自分のものにした。
達也は、その詳しい成り行きを知らなかった。
西門慶が屋敷を空ける夜が増えたことには気づいたが、主人の行き先を尋ねる立場ではない。朝餉で西門慶の機嫌がよくても、薬の用量と体調を一度確かめるだけで、すぐ試験の話へ戻った。
王六児を得たことは、西門慶の色事である。
地方試験を通ることは、達也自身の戦いであった。
◇ ◇ ◇
地方試験の日、空はまだ暗かった。
達也は西門家の門前で荷を確かめた。受験に必要な書付、筆、墨、硯、食べ物、衣服が、決められた箱へ収められている。
克明は、見送りに来なかった。
「試験場へ入るのはお前である。門前で励ます言葉は、昨日までにすべて申した」
前日にそう告げ、自宅へ戻っていた。
西門慶は達也の肩をたたいた。
「倉殿なら通る。俺が保証する」
「旦那様は試験官ではありません」
「試験官でなくとも、人を見る目はある」
「ご期待に背かぬよう、力を尽くします」
達也は深く頭を下げた。
妻妾たちは少し離れた場所に並んでいた。瓶児は腹を冷やさないよう厚い上着をまとい、玉楼に支えられている。金蓮は達也へ何か言いたそうにしていたが、月娘が正室として先に進み出た。
「忘れ物はございませんか」
「3度、確かめました」
「ならば、落ち着いてお書きなさい。西門家の者は、皆ここで知らせを待っております」
「はい、奥様」
人の目があった。
達也は月娘だけを長く見ず、妻妾全員へ一礼した。
「行ってまいります」
月娘も、達也を引き止めなかった。
「行っていらっしゃいませ、倉様」
達也は試験場へ向かう馬車へ乗った。
門が遠ざかってから、懐へ手を入れた。月娘から特別な品を渡されたわけではない。見送りの言葉も、正室が客人へかける言葉にすぎなかった。
それでよかった。
胸に残る月娘の声があれば、ほかの物は要らなかった。
試験場では、受験者の身元書と持ち物が厳しく改められた。達也は倉姓の海商の家に生まれ、船を失って清河県へ来た者として登録されている。西門慶が探した証人と、達也が何度も確かめた経歴に食い違いはなかった。
席へ入ると、達也は周囲を見回さなかった。
問題が配られる。
経書の一節を読み、その意味と政治への用い方を論じるもの。地方の倉と税を扱うもの。飢饉の兆しがある時、官と民が何をすべきかを問うものがあった。
達也は、すぐには筆を下ろさなかった。
問いを3度読み、答案の骨組みを頭の中で組み立てた。知っていることをすべて書くのではない。問われたことだけに答え、経書を飾りとして使わず、実行できる策へ結びつける。
克明に破られた答案、清河県で聞いた農民の言葉、商人が示した穀価、役所の古い布告が、一つずつ所を得て並んだ。
達也は筆を取った。
日が傾くまで、手は止まらなかった。
◇ ◇ ◇
合格者の名が掲げられた日、試験場の前には大勢の人が集まった。
達也は前へ押し出されることなく、列の後ろから札を見上げた。
上から名を追う。
最初の行に、倉達也の名があった。
達也は読み違いを疑い、もう一度確かめた。姓も名も、自分が役所へ届けた文字である。
地方試験の首席であった。
西門家へ知らせが届くと、西門慶は店を閉めさせるほど喜んだ。祝いの酒と料理を用意させ、克明には約束の倍の礼金を届けた。
「だから申したであろう。俺には人を見る目がある」
「旦那様が答案を書いたわけではありません」と月娘。
「身元を整え、先生を雇い、書院を貸した」
「それは確かです。旦那様のお力がなければ、受験することもできませんでした」
達也は西門慶の前へ進み、両手をついて礼をした。
「このご恩は忘れません」
「ならば、都へ行っても俺を忘れるな。倉殿が官人になれば、俺も鼻が高い」
金蓮が酒をつごうとしたが、達也は杯を伏せた。
「今夜は1杯だけにします。次の試験があります」
「首席でも、まだ足りませんか」と金蓮。
「地方で1番になっただけです。都には、各地の1番が集まります」
達也は祝いの席を途中で抜け、書院へ戻った。
月娘は追わなかった。
皆が寝静まったあと、侍女に夜食を届けさせた。盆の下には、小さな紙が置かれていた。
達也が開くと、月娘の字で一言だけ記されていた。
「お見事でした」
達也はその紙をしばらく見つめたあと、折り畳んで懐へ収めた。
返事は書かなかった。
月娘のためにも、自分のためにも、残すべきでない手紙がある。
その代わり、達也は次の答案を書き始めた。
月娘を慕う気持ちは、会いに行くための言い訳にはならなかった。筆を止めない力になった。
◇ ◇ ◇
開封へ向かう日が近づいたころ、西門慶は達也を書斎へ呼んだ。
卓の上には、最初に渡した薬壺が置かれていた。中には、まだ錠剤が残っている。
「倉殿。都へ行く前に頼みがある」
「何でしょうか」
「この薬を、もう少し譲ってくれ」
「まだ残っております」
「残りが少なくなってからでは困る。瓶児には子ができ、俺の身体も絶好調だ。あの薬を切らしたくない」
達也は壺の中を数えた。
西門慶は決められた量を守っていた。月娘の帳面とも数が合う。胸の痛み、息苦しさ、目の異常もないという。
「用量を守っておられる限りは、問題ありません。200錠お持ちします」
「200錠か」
「ただし、薬が増えても、1日に飲める数は増えません」
「1回1錠、丸1日空ける。具合の悪い日は飲まぬ」
「酒にひどく酔っている時もです」
「分かっておる。月娘にも数えさせる」
翌朝、達也は山へ向かった。
洞窟の10トン車からシルデナフィル50mgを200錠取り出し、文字のない容器へ移した。さらに2つの陶器の壺へ100錠ずつ収め、湿気が入らないよう蓋を閉じた。
西門慶へ渡すと、達也は月娘の前で数を確かめさせた。
「200錠です。これまでと同じように、奥様が帳面を付けてください」
「承知しました」と月娘。
「倉殿は、俺より月娘を信用しておるな」
「旦那様が用量を守っておられることも信用しております。その確認を、奥様へお願いしているのです」
西門慶は満足そうに壺を抱えた。
「殿試まで通ったら、さらに望みを申せ。官職でも屋敷でも、俺にできることなら用意してやる」
「まず、次の試験を通ります」
達也は深く頭を下げた。
月娘への思いを口にすることはなかった。
西門慶へ礼を失わず、自分の実力で道を開く。それができぬうちに、望みを語る資格はないと考えていた。
◇ ◇ ◇
(1117年春、北宋・開封府)
地方試験を通った達也は、開封へ入り、各地から集まった受験者とともに中央の試験へ臨んだ。
宿では夜明け前に起き、昼は過去の答案を読み、夜は策を1題ずつ書いた。西門家から同行した下男が食事を運んでも、書き終えるまでは箸を取らなかった。
地方試験の首席という評判を聞き、同宿の受験者が議論を挑むこともあった。
「富国には、まず商税を増やすべきではないか」
「税を増やす前に、どの商いから、いくら取れるかを調べるべきです。取れぬ税を定めれば、役人が民を脅す口実になります」
「では、国の財をどう増やす」
「荷の流れを止めず、同じ品へ重ねて税を取らず、倉と運河の損失を減らします。新しい税は、そのあとです」
達也の答えは、経書の句を競うだけのものではなかった。清国で見聞きした行政、1986年までの知識、北宋へ来る前に学んだ歴史、西門家で実際に見た商いが、すべて北宋で実行できる言葉へ変えられていた。
受験者たちは、次第に達也の部屋へ集まるようになった。
しかし、達也は議論を夜更けまで続けなかった。
「明日の答案は、今夜の話し合いではなく、自分で書くものです」
刻限を決めて客を帰し、再び1人で机へ向かった。
月娘の顔が浮かぶ夜もあった。
西門家に残った月娘が何をしているか、瓶児の身体は無事か、西門慶が薬の量を守っているか。考え始めれば、心は清河県へ戻ってしまう。
達也は、そのたびに問題用紙を開いた。
月娘を慕うからこそ、月娘の名を自分の怠ける理由にはしなかった。
中央の試験でも、達也の答案は群を抜いた。
経義では章句の意味を正確に押さえ、論では異なる意見を退けるだけでなく、採るべき点を認めた。策では財政、治水、救荒、軍馬、塩、運河を別々に扱わず、人と物がどう動くかを一つの仕組みとして示した。
試験官の1人は、最初の答案を読み終えると、別の試験官へ回した。
「この倉達也という者は、どこの学で育った」
「東平府の清河県から出ております。海商の家の者だそうです」
「文章だけを習った者ではない。民の暮らしと商いを見ている」
達也の名は、中央の試験でも首席となった。
合格を知った夜、達也は宿の窓を開けた。
開封の灯が、暗い空の下でどこまでも続いている。清河県の西門家とは比べものにならない数であった。
同行した下男が、祝いの酒を持って入ってきた。
「倉様。旦那様から、合格したら好きなだけ飲ませろと言われております」
「1杯だけいただきます」
「また1杯ですか」
「明後日には殿試です」
達也は酒を1杯だけ飲み、すぐ机へ戻った。
◇ ◇ ◇
殿試前日の夕刻、宮城から受験者への触れが届いた。
明朝、皇帝の前で最後の試験を行う。
宿の廊下では、受験者たちの足音が絶えなかった。衣冠を確かめる者、最後まで経書を読む者、誰が上位に置かれるか噂する者がいる。
達也は借りた部屋で、筆と衣服を整えた。
地方試験を首席で通り、中央の試験でも首席合格となった。克明から学び始めたころには、1枚の答案へ20を超える朱を入れられていた。それが今は、各地の秀才を押さえるところまで来た。
それでも、まだ合格ではない。
明日は皇帝が自ら問題を示し、受験者の順位を定める。
達也は卓の上に白紙を置いた。
月娘へ手紙を書こうとしたのではない。最後に、自分の考えを確かめるためである。
民を富ませることと国を富ませることを、対立させてはならない。税を取るにも、まず民が作り、商人が運び、売れる道が必要である。災害には施しだけで終わらず、翌年の耕作へ戻す策が要る。軍を強くするにも、兵の数だけでなく、馬、食糧、道、倉、給与を整えなければならない。
達也は、これまで学んだことを短く書き出した。
北宋一の実力があるかどうかは、自分で名乗ることではない。明日の答案で示すものである。
筆を置くと、清河県を出る朝の月娘の声がよみがえった。
「行っていらっしゃいませ、倉様」
達也は目を閉じ、静かに息を整えた。
月娘を慕う気持ちは、ほかの女へ向かうことも、西門慶を裏切ることもなかった。すべて書院の灯と、積み重ねた答案へ変わっていた。
「必ず通ります」
誰もいない部屋で、達也は小さく答えた。
夜が明ければ、宮城の門をくぐる。
いよいよ明日は、皇帝の前で行われる殿試である。
第4話後編1では、倉達也が元県学教師の沈克明から経義、論、策を学び、北宋の実情に即した答案を書く力を磨いた。
達也は呉月娘以外の女へ目を向けなかった。月娘を一途に慕いながらも、彼女が西門慶の正室であることをわきまえ、人前では客人と奥方の礼を守った。会いたい気持ちは書院へ向かう力へ変わり、達也の実力を北宋一と呼べる水準まで押し上げた。
西門慶は薬の用量を守り、絶好調となった。第6房の李瓶児は妊娠し、西門慶は番頭の韓道国の妻である王六児まで手に入れた。
西門慶から薬の追加を求められた達也は、シルデナフィル50mgを200錠渡した。1回1錠、丸1日空けるという用量は変えず、月娘が引き続き帳面で管理している。
達也は地方試験を首席で通り、開封で行われた中央の試験でも首席合格となった。
そして翌朝、達也は皇帝の前で行われる殿試へ臨む。
北宋一の実力を、皇帝の前で示す時が来た。




