第4話(中編2)――「書院の灯」
(1116年10月、北宋・東平府清河県・西門家)
達也が目を覚ますと、窓の外は暗く、卓上の灯明だけが室内を照らしていた。寝台の横では、呉月娘が椅子に座ったまま眠っていた。背を柱へ預け、達也の右手を両手で包んでいる。髪には白玉の簪が挿してあった。
起こさないよう指を抜こうとすると、月娘が目を閉じたまま尋ねた。
「どこへ行くつもりですか」
「厠へ行ってきます。1人で歩けますから、月娘様はそのままお休みください」
「昨日は立つこともできなかったのですよ。侍女を呼びますから、待っていなさい」
「もう、昨日になったのですか」
「夜半を過ぎました」
月娘は目を開け、達也の額へ手を当てた。熱を確かめてから首に巻いた布を外すと、腫れは残っていたものの、呼吸は落ち着いていた。
達也は上体を起こした。胸と脇腹は痛んだが、戦いを終えた直後より身体を動かせた。肩の具合を尋ねられ、動かさなければ痛まないと答えると、月娘は無理に使わないよう念を押した。
「戻るまで、私は戸の外で待っています」
「月娘様も、もうお休みください。僕のために一晩中ここにおられては、旦那様にも失礼です」
月娘の手が止まった。
「旦那様から、付き添うよう頼まれております」
「それでも、月娘様は旦那様の奥方です。僕がそのことを忘れてはなりません」
達也が目をそらさずに告げると、月娘は返事をせず、襟元を整えた。
「あなたは時々、残酷なほど正しいことを申しますね」
「申し訳ありません」
「謝る必要はありません。私も、わきまえております」
月娘は立ち上がり、侍女を戸口へ置くと告げた。何かあれば必ず呼ぶこと、朝になったら改めて傷を見ることを言い聞かせ、数歩進んでから振り返った。
「2人だけの時まで、奥方、奥方と繰り返さなくてもよいでしょう」
「では、月娘様とお呼びします」
「それで結構です」
月娘は灯明の炎を絞り、離れを出た。達也は閉じた戸を見つめた。本当はそばにいてほしかったが、同じ屋敷に住み、衣食を与えられ、科挙のための身元まで整えてもらう自分が、その家の正室へ特別な思いを示してよいはずがなかった。
人に知られれば月娘の立場を傷つけ、西門慶から受けた恩にも背く。慕う気持ちは消せなくても、表に出さずにいることはできるはずだった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、達也は寝台で『論語』を読んでいた。西門慶が書棚から持ってこさせた本で、右肩を布で固定されているため、左手で頁を押さえていた。
「お薬の時間でございます」
戸が開き、潘金蓮が盆を持って入ってきた。薄い衣を重ねていたが胸元は大きく開き、盆には煎じ薬と粥が載っていた。
「侍女に頼んでありますから、金蓮様がわざわざ運んでくださらなくてもよかったのですが」
「命を救われた者が、薬くらい運んでもよいでしょう。私がそうしたかったのです」
金蓮は寝台の脇へ腰を下ろし、達也が閉じかけた本をのぞいた。
「起き上がるのもつらいのに、もう科挙の勉強ですか。旦那様へ頼めば、試験の方も何とかしてくださるかもしれませんよ」
「身元が整っても、学が足りなければ通りません。答案以外の力で通していただいても、僕が合格したことにはなりませんから」
金蓮は煎じ薬を匙ですくい、達也の口元へ差し出した。達也が左手で椀を受け取ろうとすると、手を引いた。
「右肩が使えないのですから、私に任せてください。武松から助けてくださった時には、もっと近くにおられましたよ」
「あの時は、朴刀が振り下ろされようとしていました。今は自分で飲めますから、椀を渡してください」
「私に襲われるとでも思っていらっしゃるのですか」
金蓮は笑い、顔を近づけた。
「その心配はしております」
「それなら、逃げてごらんなさい」
「逃げるのではなく、金蓮様に出ていただきます」
真顔の返事に、金蓮は匙を盆へ戻した。
「そこまで遠ざけるほど、私がお嫌いですか」
「嫌ってはおりません。ただ、金蓮様は旦那様の第5房です。衣食をいただき、身元まで整えていただこうとしている僕が、旦那様の妻妾へ手を出すわけにはいきません」
「旦那様が許したら、よろしいのでしょうか」
「許しを求めるつもりもありません。僕は科挙を受けるために来たのです。いま必要なのは勉強です」
達也が本を取り直すと、金蓮の目が細くなった。
「奥様にも、同じことをおっしゃれますか」
頁をめくろうとした指が止まった。
「月娘様は正室です。なおさら、僕が礼を失ってはならない方です」
「お慕いしていても、その気持ちを抑えるおつもりなのですね」
達也は金蓮を見た。
「誰が聞いているか分からないところで、そのようなことを口にしないでください。月娘様を困らせます」
「否定はなさらないのですね」
「お帰りください」
金蓮はしばらく達也を見つめた。男に拒まれれば腹が立つはずだったが、月娘の名を出した途端に声を落としたことが、かえって気になった。こちらにも同じような顔を向けさせたいと思った。
「薬は冷めないうちにお飲みください。今日は帰りますが、私は諦めませんよ」
「勉強の邪魔だけはしないでください」
「それは、お約束できません」
金蓮が出ていくと、入れ替わるように月娘付きの侍女が入ってきた。金蓮を1人で入れないよう命じられていたのに、廊下の反対側へ使いに出されていたという。
侍女が申し訳なさそうに頭を下げると、達也は次から戸を開けたままにしてほしいと頼んだ。煎じ薬を飲み、本を開き直すと、金蓮が出ていった戸口へはもう目を向けなかった。
◇ ◇ ◇
3日後には、達也は離れの庭を歩けるまで回復していた。顔の腫れは引き、首も黄色い痣が残るだけになった。右肩はまだ高く上げられなかったが、腕を吊る布は外されていた。
朝食の席で、西門慶が書付を卓へ置いた。
「登州の倉家について、話をつなげられる者が見つかった。海商で、父親の代に倉姓の船主と取引があった男だ」
達也は箸を置き、話の続きを待った。
「お前の父を知っているとは申しておらぬ。ただ、倉家の遠縁から、船を失った息子が清河県へ来ると聞いていたことにする。昔の貸しを返してもらう形で、証人を頼んだ」
「ありがとうございます。役所へ出す前に、その方へお会いしたいのですが」
「そのつもりだ。出身の村、父母の名、扱っていた荷、船を失った時期まで話を合わせねばならん」
達也は承知したと答え、席を立って深く頭を下げた。西門慶は命を救われた恩に比べれば何でもないと言ったが、達也には新しい身分を得るための大きな助けだった。
「身元が整えば、次は県学へ入る伝手だ。あれほど文章を書けるのだから、すぐにでも試験を受けられるだろう」
「まだ、こちらの試験で何を求められるのか分かっておりません。学んできた経書と手元の本では細かな字句が違いますし、策論も、いまの朝廷や州県の実情を知らずに書けば的外れになります」
西門慶は持ち上げかけた酒杯を置いた。
「熊を倒した翌日も働き、武松を倒した翌日も本を開いた。それでも足りぬというなら、何を用意すればよい」
「教えてくださる先生と書物、それに勉強する時間が必要です」
「それなら、そろえよう。県学で教えていた老先生がいる。礼金は高いが、倉殿の命ほどではない。書物も買わせる。離れでは妻たちが騒がしかろうから、東の書院を使いなさい」
達也が礼を述べようとすると、西門慶は手で制した。
「遠慮するな。俺が、清河県で一番の進士にしてみせる」
「答案を書くのは僕ですから、先生によく教わらなければなりません」
食卓に笑いが起き、西門慶も笑った。
「では、俺は金を出し、邪魔をどける役に徹しよう。月娘、書院へ勝手に入る者がないよう、皆へ申し渡しておいてくれ」
「承知しました」
月娘は正室として答えた。達也も、その場では特別な視線を向けずに一礼した。
「よろしくお願いいたします、奥様」
「科挙のためですから、旦那様のお言葉どおりにいたします」
客人と正室としての挨拶を交わす2人を、金蓮は黙って見ていた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、達也は身体を慣らすために歩くと告げて山へ向かった。途中までは下男がついてきたが、山道の入口で待たせ、そこからは1人で洞窟へ進んだ。
入口に人が入った跡はなかった。隠していた鍵で10トン車の荷台を開くと、食料、衣類、工具、薬品、金銀、武器が残されていた。達也は医薬品の箱を開き、青い錠剤の包装を取り出した。
西門慶には妻妾が6人いた。まだ30代半ばだが、毎日の酒や脂の多い食事、不規則な暮らしを見て、いずれ役に立つことがあるかもしれないと考えていた。
取り出したのは、50mgのシルデナフィルだった。100錠を数えて湿気を防ぐ小さな容器へ移し、表面に文字が見えないようにしてから、宋代の薬を入れる陶器の壺へ収めた。
西門慶は効き目を喜べば、続けて飲みかねない。渡す時には量と間隔を説明し、守るよう念を押すつもりだった。壺を布で包んで背負い袋へ入れると、箱を台にして紙を広げた。
これから学ぶべきことを書き出した。四書五経の本文と注釈に加え、詩賦と策論を学び直す必要がある。官制、租税、河川、塩、軍事についても、北宋の実情を知らなければならない。当地の文字と書式を確かめ、過去の試験問題を読み、答案を書く練習も重ねるつもりだった。
清国で身につけた知識が、そのまま使えるとは限らなかった。後世の制度や技術を知っていても、問われたことへ当時の言葉で答えられなければ落第する。達也は紙を折り、懐へ入れた。
月娘を思い、金蓮の誘いをどう断るか考えている間にも、勉強の時間は減っていく。まずは、試験を受けられるだけの学を身につける必要があった。
◇ ◇ ◇
屋敷へ戻ると、達也は西門慶の書斎を訪ねた。西門慶は帳簿を閉じ、山へ行ったと聞いたが身体は大丈夫かと尋ねた。
「無理はしておりません。旦那様へお渡ししたい物を取りに行ってきました」
陶器の壺を卓へ置くと、西門慶は蓋を開け、青い錠剤を指でつまんだ。
「見慣れぬ薬だが、何に使う物なのだ」
「男の力を助ける薬です。その気になった時、身体が応じやすくなります。必要な時に使っていただければと思い、100錠お持ちしました」
「俺には力が足りぬと申すのか」
「そうではありません。奥方が6人おられますから、いずれ役に立つこともあると思ったのです」
西門慶は錠剤と達也を交互に見てから、笑った。
「倉殿は、時々ずいぶん遠慮がないな」
「薬のことですから、曖昧には申せません。使う量も守っていただきたいのです」
達也は錠剤を壺へ戻してもらい、蓋を閉めた。
「使うなら、床へ入る1刻ほど前に、水で1錠だけ飲んでください。前に飲んでから丸1日空け、途中で足してはいけません」
「2人、3人の部屋へ行く日でも、1錠だけなのか。翌朝なら、もう飲んでもよさそうなものだが」
「訪ねる人数に合わせて増やす物ではありません。朝になっても、丸1日たっていなければ飲まないでください」
西門慶が名残惜しそうに壺を眺めたので、達也は言葉を強めた。
「せっかくお助けした旦那様を、薬で死なせたくはありません。胸が痛む時や、ひどく酔っている時、熱がある時には使わないでください。飲んだあとに胸の痛みや息苦しさ、目の異変が出たら、すぐに医者を呼び、その後は飲まないでください」
「分かった。数があるからといって、多く飲むつもりはない」
「それなら、壺は月娘様へ預けることをお勧めします。いつ何錠飲んだか、間違いなく覚えていてくださるでしょう」
西門慶は声を立てて笑った。
「俺が薬を飲んで誰の部屋へ行くかまで、正室に数えさせるつもりか」
「飲んだ時刻と数が分かれば、重ねて飲まずに済みます」
「倉殿にかかると、色事まで役所の帳面のようになるな」
それでも西門慶は、壺を大切そうに手元へ引き寄せた。
「ありがたく頂こう。倭刀に続いて、この薬か。屋敷へ来てもらってから、珍しい物が増えた」
「その代わりと言っては何ですが、お願いがあります。東の書院へ、夜明け前から入れるようにしてください。朝食までの時間を勉強に使いたいのです」
「薬の礼が勉強部屋とは、色気のない男だ」
「科挙に受かるまでは、それで結構です」
西門慶は鍵を収めた箱を開け、書院の鍵を取り出した。
「女に振り回されるなとは言わぬ。俺が言っても説得力がないからな。ただ、科挙を目指すなら、まず自分の道を通せ。妻たちの相手は俺に任せておけ」
達也は両手で鍵を受け取り、深く頭を下げた。月娘を慕っていると悟られてはならなかった。こうして助けてくれる西門慶にも、その正室にも、礼を失わずにいたかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、達也は五更の鐘が鳴る前に起きた。東の空はまだ暗かった。井戸の水で顔を洗い、傷めた肩を慎重に動かすと痛みは残っていたが、筆は持てそうだった。
東の書院へ入って灯明をともすと、卓には紙、墨、筆、硯がそろっていた。書棚には『論語』『孟子』『大学』『中庸』のほか、『詩経』『書経』『礼記』『周易』『春秋』が並んでいる。西門慶が用意させた物だった。
達也は『論語』を開き、覚えている文章と1字ずつ照らし合わせた。分からない注は別の紙へ書き出したが、右手で筆を動かすと肩が痛んだ。ある程度書くたびに手を休め、その間は本文を読み進めた。
外で衣擦れの音がし、戸の向こうに人影が映った。声をかけると月娘の返事があった。達也が戸を開けると、厚い上着をまとい、茶の器を手にして立っていた。後ろには侍女が1人控えていた。
「侍女を連れてきてくださったのですね」
「人目を気にするように言ったのは、あなたでしょう」
月娘は中へ入り、戸を開けたまま廊下で待つよう侍女へ命じた。
「それにしても、起きるのが早すぎます。まだ傷が治り切っていないのですから、無理をしてはいけません」
「朝食までは、休みながら読み進めます。そのあとは先生に会う準備をして、昼には横になるつもりです」
「金蓮にも、勉強の邪魔をしないでほしいと申したそうですね。茶を届ける私も邪魔でしょうか」
達也は廊下の侍女へ目を向けてから答えた。
「奥様が身体を案じて届けてくださったのですから、ありがたく頂きます」
月娘も、人前での返事として受け取った。卓へ茶を置き、朝食の席で会おうと告げると、達也は改めて礼を述べた。
侍女が先に廊下を進んだところで、月娘は戸口に足を止めた。
「達也」
初めて、姓も敬称も付けずに呼ばれた。達也が振り返ると、月娘は顔を見て続けた。
「必ず科挙へお通りなさい。その先で、あなたが何を望むのかを聞くのは、それからにします」
月娘は返事を待たず、侍女を追って廊下を歩いていった。達也はしばらく戸口に立っていたが、やがて卓へ戻った。
言葉の意味を考え始めれば、いくらでも時間が過ぎてしまう。いまは1行でも多く読み、覚えるべきことを書き留める時だった。新しい紙を引き寄せ、その日学ぶ章句を書き始めた。
書院の灯は、朝日が窓へ差し込むまで消えなかった。




