第4話(中編2)――「書院の灯」
武松が西門家へ押し入り、兄・武大の仇として西門慶と潘金蓮を殺そうとした。
因縁を何も知らなかった倉達也は、朴刀を振り上げた武松の前へ飛び込み、2人を救った。
虎殺しの武松との死闘で、達也は全身に傷を負った。最後には武松の首をねじ切って勝ったものの、右肩を脱臼し、喉を潰されかけ、医者から安静を命じられた。
西門慶は命を救われた恩を感じ、科挙に必要な身元と保証人を必ず整えると約束した。
その一方で、金蓮は達也を自分のものにしようと決め、正室の呉月娘は達也を本気で愛していることを自覚した。
しかし、達也が北宋へ来た第一の目的は、女を追うことではない。
新しい身分を得て、科挙を受けることである。
(1116年10月、北宋・東平府清河県・西門家)
達也が目を覚ますと、窓の外は暗かった。
卓上の灯明だけが、離れの室内を照らしている。
寝台の横では、月娘が椅子に座ったまま眠っていた。背を柱へ預け、達也の右手を両手で包んでいる。髪には、達也が贈った白玉の簪が挿してあった。
達也は起こさないよう、指を少しずつ抜こうとした。
「どこへ行くのです」
月娘は目を閉じたまま尋ねた。
「厠です」
「それなら、侍女を呼びます」
「1人で行けます」
「昨日、虎を倒した男に首を締められ、立つこともできなかった方が申す言葉ではありません」
「もう昨日なのですか」
「夜半を過ぎました」
月娘は目を開け、達也の額へ手を当てた。熱を確かめたあと、首に巻いた布を外した。腫れは残っているが、呼吸は落ち着いている。
達也が上体を起こすと、胸と脇腹が痛んだ。それでも、武松との戦いを終えた直後より身体は動いた。
「肩はどうです」
「動かさなければ痛みません」
「動かしてはなりません」
「はい」
月娘は達也の返事を聞き、ようやく表情を緩めた。
「戻るまで、戸の外で待ちます」
「月娘様」
「何です」
「もう、お休みください。僕のために、正室である月娘様が一晩中ここにおられては、旦那様にも失礼です」
月娘の手が止まった。
「旦那様は、私に付き添うよう申しました」
「それでもです」
達也は月娘から目をそらさなかった。
「月娘様は、旦那様の奥方です。僕がそのことを忘れてはなりません」
月娘は返事をせず、達也の襟を整えた。
「あなたは時々、残酷なほど正しいことを申します」
「申し訳ありません」
「謝る必要はありません。私も、わきまえております」
月娘は立ち上がった。
「侍女を戸口へ置きます。何かあれば、必ず呼びなさい。朝になったら、私が傷を見ます」
「はい」
月娘は数歩進み、振り返った。
「2人だけの時まで、奥方、奥方と繰り返さなくてもよいでしょう」
「では、月娘様とお呼びします」
「それで結構です」
月娘は灯明の炎を少し小さくし、離れを出た。
達也は閉じた戸を見つめた。
本当は、そばにいてほしかった。
だが、月娘は西門慶の正室である。同じ屋敷に住み、衣食を与えられ、科挙の身元まで整えてもらおうとしている自分が、その妻へ人前で特別な思いを示せば、月娘の立場を傷つける。西門慶から受けた恩にも背くことになる。
慕う気持ちは、消せない。
だからこそ、隠さなければならなかった。
◇ ◇ ◇
翌日の午後、達也は寝台の上で『論語』を読んでいた。
西門慶が書棚から持ってこさせた本である。右肩を布で固定されているため、左手で頁を押さえていた。
戸が開いた。
「お薬の時間でございます」
金蓮が盆を持って入ってきた。
薄い衣を重ねているものの、胸元は大きく開いていた。盆には煎じ薬と粥が載っている。
「侍女へ頼んだはずですが」
「命を救われた者が、薬くらい運んではなりませんか」
「運んでいただく必要はありません」
「必要がなくても、私はしたいのです」
金蓮は寝台の脇へ腰を下ろした。達也が本を閉じるより早く、その頁をのぞき込む。
「傷を治す本ではございませんね」
「科挙のための本です」
「まだ起き上がるのもつらいのに、もう勉強ですか」
「身元が整っても、学が足りなければ試験には通りません」
「旦那様へ頼めば、試験の方を何とかしてくださるかもしれません」
「それでは、通ったことになりません」
金蓮は煎じ薬の椀を取り、匙ですくった。
「口を開けてください」
「自分で飲めます」
「右肩が使えないではありませんか」
「左手があります」
達也が椀を受け取ろうとすると、金蓮は手を引いた。
「武松から私を助けた時は、もっと近くにおられました」
「あの時は、朴刀が振り下ろされようとしていました」
「今は、私があなたを襲うとお思いですか」
金蓮は笑い、達也の顔へ自分の顔を近づけた。
「そのような心配をしております」
達也が真顔で答えると、金蓮の笑みが深くなった。
「では、逃げてください」
「逃げません。金蓮様に出ていただきます」
金蓮は匙を盆へ戻した。
「私が嫌いですか」
「嫌ってはおりません」
「では、なぜです」
「金蓮様は旦那様の第5房です。僕は旦那様から衣食をいただき、身元まで整えていただこうとしております。その僕が、旦那様の妻妾へ手を出すわけにはいきません」
「旦那様が許したら、よろしいのですか」
「許しを求めるつもりもありません」
達也は本を取り直した。
「僕は科挙を受けるために来たのです。いま必要なのは、女遊びではなく勉強です」
金蓮の目が細くなった。
「奥様にも、同じことを申せますか」
達也の指が、頁の端で止まった。
「月娘様は、旦那様の正室です。金蓮様以上に、僕が礼を失ってはならない方です」
「お慕いしていても?」
達也は金蓮を見た。
「人がいるところで、そのようなことを口にしないでください。月娘様を困らせます」
「否定はなさらないのですね」
「お帰りください」
金蓮はしばらく達也を見つめていた。
男から拒まれれば、腹が立つはずであった。ところが、達也が月娘の名を出された時だけ声を低くしたことで、かえって追いたい気持ちが強くなった。
「薬は冷めないうちにお飲みください」
金蓮は立ち上がった。
「私は、諦めません」
「勉強の邪魔だけはしないでください」
「それは、お約束できません」
金蓮が出ていくと、入れ替わるように月娘付きの侍女が入ってきた。
「奥様から、金蓮様をお1人で入れないよう命じられておりました」
「遅かったですね」
「金蓮様に廊下の反対側へ使いに出されました」
侍女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「次からは、戸を閉めないでください」
「承知しました」
達也は煎じ薬を飲み、本を開いた。
入口へ背を向けた金蓮の姿は、もう思い浮かべなかった。
◇ ◇ ◇
3日後、達也は離れの庭を歩けるまで回復した。
顔の腫れは引き、首にも黄色い痣が残るだけである。右肩はまだ高く上げられないが、腕を吊る布は外された。
朝食の席で、西門慶が書付を卓へ置いた。
「登州の倉家について、話をつなげられる者が見つかった」
達也は箸を置いた。
「本当ですか」
「登州から来た海商で、父親の代に倉姓の船主と取引があった男だ。お前の父を知っているとは申しておらぬ。倉家の遠縁から、船を失った息子が清河県へ来ると聞いていたことにする」
「証人になってくださるのですか」
「俺が昔の貸しを返してもらう。だが、役所へ出す前に、お前自身が会って話を合わせろ。出身の村、父母の名、扱っていた荷、船を失った時期まで決めねばならん」
「承知しました」
達也は席を立ち、西門慶へ深く頭を下げた。
「命を救っていただいた恩へ比べれば、これくらい何でもない」
「それでも、僕には大きなご恩です」
西門慶は上機嫌で酒杯を持った。
「身元が整えば、次は県学へ入る伝手だ。倉殿なら、すぐに試験を受けられるだろう」
「すぐには無理です」
「なぜだ。あれほど文章を書けるではないか」
「こちらの試験で何を求められるか、まだ分かっておりません。経書も、知っている文章と手元の本では細かな字句が違います。策論も、いまの朝廷と州県の実情を知らずに書けば、的外れになります」
西門慶は酒杯を置いた。
「熊を倒した翌日も働き、武松を倒した翌日も本を開いた。まだ足りぬと申すか」
「足りません」
「では、何が要る」
「先生と、書物と、勉強する時間です」
「そろえよう」
西門慶は即答した。
「県学で教えたことのある老先生がいる。金はかかるが、倉殿の命ほどではない。書物も買わせる。離れでは妻たちがうるさかろうから、東の書院を使え」
「旦那様」
「遠慮するな。俺は倉殿を、清河県で一番の進士にしてみせる」
「進士にするのは、先生と僕です」
食卓に笑いが起きた。
「分かった。俺は金を出し、邪魔をどける役に徹しよう」
西門慶が月娘を見た。
「月娘。書院へ勝手に入る者がないよう、お前から妻たちへ申し渡せ」
「承知しました」
月娘は正室として静かに答えた。
達也も、その場では月娘へ特別な視線を向けなかった。
「よろしくお願いいたします、奥様」
「科挙のためでございます。旦那様のお言葉どおりにいたします」
2人の間にあるものを知らない者が聞けば、客人と正室の会話にしか聞こえなかった。
金蓮だけが、箸の先で椀の中をゆっくりかき回していた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、達也は1人で山へ向かった。
西門家には、身体を慣らすために歩いてくると告げた。途中までは下男が付いてきたが、達也は山道の入口で待たせた。
洞窟の前に、人が入った跡はなかった。隠していた鍵を使い、10トン車の荷台へ入る。
食料、衣類、工具、薬品、金銀、武器が、持ち出した時のまま積まれていた。
達也は医薬品を収めた箱を開いた。
西門慶の屋敷で暮らし始めてから、妻妾が6人いることを知った。西門慶はまだ30代半ばである。それでも、毎日の酒、脂の多い食事、不規則な暮らしが続けば、身体に不調が出ても不思議ではない。
達也は青い錠剤の入った包装を取り出した。
シルデナフィル、50mg。
100錠を数え、湿気を防げる小さな容器へ移した。容器の表面には文字を残さず、さらに宋代の薬を入れる陶器の壺へ収める。
効き目が強ければ、喜んだ西門慶が続けて飲む恐れがある。1回に1錠、1日に1錠までという決まりを、必ず守らせなければならない。
達也は壺を布で包み、背負い袋へ入れた。
洞窟を出る前に、机の代わりにしている箱の上へ紙を広げた。
これから学ぶべきものを書き出す。
四書五経の本文と注釈。詩賦。策論。北宋の官制、租税、河川、塩、軍事。当地の文字と書式。過去の試験問題。答案を書くための筆の訓練。
清国で身につけた知識が、そのまま北宋の科挙で通用するとは限らない。未来の制度や技術を知っていても、問われたことへ当時の言葉で答えられなければ落第する。
達也は紙を折り、懐へ入れた。
月娘を慕う気持ちも、金蓮の誘惑も、科挙の答案を書いてはくれない。
まず勉強である。
◇ ◇ ◇
屋敷へ戻ると、達也は西門慶の書斎を訪ねた。
西門慶は商いの帳簿を閉じた。
「身体は大丈夫なのか」
「はい。無理はしておりません」
「山へ行ったと聞いたぞ」
「旦那様へ、お渡ししたい物を取りに行きました」
達也は陶器の壺を卓へ置いた。
西門慶が蓋を開け、中に並ぶ青い錠剤を見た。
「これは何だ」
「男の力を助ける薬です」
西門慶は1錠を指でつまみ、灯明へかざした。
「飲めば、どのようになる」
「その気になった時、身体が応じやすくなります。旦那様には奥方が6人おられます。いずれ役に立つと思い、100錠お持ちしました」
西門慶は錠剤と達也を交互に見た。
「倉殿は、俺に力が足りぬと申すのか」
「足りないとは申しておりません。必要な時に使える物をお渡ししただけです」
「倉殿は、時々ずいぶん遠慮がないな」
「薬ですから、曖昧には申せません」
達也は壺の蓋を閉めた。
「これは、酒の勢いで飲む物ではありません。使うなら、床へ入る1刻ほど前に、水で1錠だけ飲んでください。1日に2錠以上は、決して飲んではなりません」
「2人のところへ行く日は、どうする」
「1錠です」
「3人なら」
「1錠です」
「翌朝になったら、もう1錠――」
「飲んではなりません。前に飲んでから丸1日空けてください」
西門慶は名残惜しそうに壺を見た。
「100錠もあるのだ。少しくらい多く飲んでもよかろう」
「命を助けた旦那様を、薬で死なせたくありません。胸が痛む時、ひどく酔っている時、熱がある時には使わないでください。飲んだあとに胸が痛む、目が見えにくい、息が苦しいなどの異変があれば、すぐ医者を呼び、二度と飲まないでください」
「分かった、分かった。1日に1錠だな」
「壺は、月娘様に預けることをお勧めします」
「なぜ月娘なのだ」
「旦那様が何錠飲んだか、正しく数えられる方だからです」
西門慶は声を立てて笑った。
「俺が薬を飲んで誰の部屋へ行くかまで、正室に数えさせるつもりか」
「薬を間違えて飲むより安全です」
「倉殿が申すと、色事まで役所の帳面のようになる」
西門慶は壺を大切そうに抱えた。
「ありがたく頂こう。倭刀に続き、この薬か。倉殿を屋敷へ置いてから、珍しい物が次々に増える」
「その代わり、お願いがあります」
「申せ」
「東の書院へ、夜明け前から入れるようにしてください。朝食までの時間を勉強に使います」
「薬の礼が勉強部屋とは、色気のない男だ」
「科挙に受かるまでは、それで結構です」
西門慶は鍵を収めた箱を開け、書院の鍵を取り出した。
「倉殿。女に振り回されるなとは申さぬ。俺が申しても説得力がない」
西門慶は苦笑し、鍵を卓の上へ置いた。
「だが、科挙を目指すなら、まず自分の道を通せ。妻たちの相手は俺に任せておけ」
「はい。よろしくお願いいたします」
達也は両手で鍵を受け取り、深く頭を下げた。
月娘を慕っていることを、西門慶に悟られてはならない。
それは恐れているからではない。恩を受けた主人と、その正室に対して守るべき礼であった。
◇ ◇ ◇
翌朝、達也は五更の鐘が鳴る前に起きた。
東の空には、まだ光がない。
井戸の水で顔を洗い、傷めた肩をゆっくり動かす。痛みは残っているが、筆を持つことはできた。
東の書院へ入り、灯明へ火を移した。
卓には、西門慶が用意させた紙、墨、筆、硯が並んでいる。書棚には『論語』『孟子』『大学』『中庸』のほか、『詩経』『書経』『礼記』『周易』『春秋』がそろえられていた。
達也は最初に『論語』を開いた。
知っている文章と1字ずつ照らし合わせ、分からない注を別の紙へ書き出す。右手で筆を持つと肩が痛むため、一定の字数を書くたびに休んだ。
外で衣擦れの音がした。
達也が顔を上げると、戸の向こうに人影があった。
「どなたです」
「私です」
月娘の声であった。
達也は筆を置き、戸を開けた。
月娘は厚い上着をまとい、手に茶の入った器を持っている。後ろには侍女が1人立っていた。
「お1人ではないのですね」
「人目を気にするよう申したのは、あなたでしょう」
「ありがとうございます」
月娘は書院へ入り、侍女には戸を開けたまま廊下で待つよう命じた。
「起きるのが早すぎます。傷が開いたら、また寝台へ縛りますよ」
「朝食までは勉強します。そのあとは先生に会う準備をします。昼に休みます」
「昨日から、金蓮にも同じことを申しているそうですね」
「金蓮様には、勉強の邪魔をしないでほしいと申しました」
「私も邪魔ですか」
達也は答える前に、廊下の侍女を見た。
「奥様が客人の身体を案じ、茶を届けてくださったのです。邪魔であるはずがありません」
達也は、人前で使うべき返事をした。
月娘も、正室の顔でうなずいた。
「では、茶を置いて戻ります。朝食の席でお会いしましょう」
「お気遣い、ありがとうございます」
月娘が戸口へ向かう。
侍女が先に数歩進んだ時、月娘は足を止めた。
「達也」
初めて、姓も敬称も付けずに呼んだ。
達也が振り返る。
「必ず、科挙へお通りなさい」
「はい」
「その先で、あなたが何を望むのかを聞くのは、それからにします」
月娘は達也の返事を待たず、侍女のあとを追った。
達也はしばらく、開いた戸の前に立っていた。
やがて卓へ戻り、筆を取った。
月娘の言葉の意味を考え始めれば、1刻でも2刻でも過ぎてしまう。
いまは、1行でも多く読み、1字でも多く書くべき時である。
達也は新しい紙の上へ、今日覚える章句を書き始めた。
書院の灯は、朝日が窓へ差し込むまで消えなかった。
第4話中編2では、武松との死闘から回復し始めた倉達也が、科挙の準備へ着手した。
潘金蓮は薬を運ぶ名目で離れへ入り、達也へ迫った。しかし達也は、金蓮が西門慶の第5房であることを理由に、明確に退けた。金蓮以外の妻妾にも目を向けず、科挙に受かるまでは女遊びをしないと決めている。
達也は呉月娘を一途に慕っている。それでも、月娘が西門慶の正室であることを忘れず、ほかの者がいる場では客人と奥方として振る舞った。月娘の立場を守り、西門慶から受けた恩へ礼を尽くすためである。
西門慶は、登州から来た海商を証人に立て、達也の身元を整える準備を進めた。さらに、元県学の教師、科挙に必要な書物、東の書院を用意すると約束した。
達也は洞窟から、50mgのシルデナフィル100錠を持ち出した。妻妾が6人いる西門慶に贈り、1回1錠、丸1日空けること、体調が悪い時には使わないことを厳しく言い含めた。
西門慶は礼として書院の鍵を渡した。そして達也は夜明け前から四書五経を開き、北宋で受ける科挙のための勉強を始めた。
金蓮の誘惑にも、月娘への思慕にも、科挙の答案を書かせることはできない。
達也の新しい戦いは、書院の灯の下で始まった。




