第4話(中編1)――「虎殺しと熊殺し」
(1116年10月、北宋・東平府清河県・西門家)
西門家の表門を、重い物で打つ音がした。朝食を終えた達也は、離れの卓に地図と書物を広げ、登州から来る商人へ説明する身の上を書き出していた。
最初の一撃で筆を止めると、続く音に驚いた庭の鳩が一斉に飛び立った。母屋の方から男たちの怒鳴り声と女中の悲鳴が聞こえたため、達也は戸を開けた。
廊下を駆けてきた若い侍女が、達也を見つけて離れへ飛び込んだ。
「倉様、表に恐ろしい男が来ております。武松と名乗り、旦那様と金蓮様を出せと……。止めに入った下男も、3人とも投げ飛ばされました」
「その男は、何のためにお2人を捜しているのですか」
「仇を討つと怒鳴っておりますが、詳しいことは分かりません」
さらに尋ねようとした時、表門の方で木の裂ける音が響いた。達也は月娘の居場所を確かめた。ほかの妻妾を屋敷の奥へ逃がしていると聞くと、侍女にも裏へ下がるよう伝えた。
「戸を閉め、呼ばれるまで出ないでください。僕は表へ行きます」
侍女を残し、達也は表門へ走った。
◇ ◇ ◇
表庭には折れた閂が転がり、両開きの門の片方が内側へ傾いていた。蝶番は土壁から外れかけ、その前には旅装の大男が立っていた。
年は30をいくつか越えたほどで、背丈は達也と大きく変わらない。ただ、肩から腕にかけての厚みが違った。日に焼けた顔には古い傷があり、眉の下の目は屋敷の奥を見据えていた。右手には幅広の朴刀を持っている。
足元では下男3人が倒れていた。1人は肩を押さえ、もう1人は鼻から血を流していたが、いずれも息はあった。西門家の用心棒6人が棍や刀を構えて取り囲んでいるものの、誰も正面から間合いへ入ろうとしなかった。
「西門慶と潘金蓮を出せ。隠すなら、屋敷の中を捜すぞ」
武松の声が庭に響いた。背後の用心棒が棍を振り上げると、武松は半歩だけ身をかわした。棍が肩先を通り過ぎたところで相手の腕をつかみ、引き寄せて胸へ肘を打ち込んだ。男は息を詰まらせ、土の上へ転がった。
「お待ちください」
達也が用心棒たちの間を抜けた時、母屋から西門慶が転がるように走り出てきた。顔は青ざめ、上衣の帯も結んでいない。別の廊下からは潘金蓮が駆けてきた。逃げ道を求めた2人が、行き違って表庭へ出てしまったのだ。
「武松、話を聞け」
西門慶の叫びを聞いても、武松は足を止めなかった。朴刀を振り上げ、2人へ踏み出した。
達也には3人の間に何があったのか分からなかった。ただ、逃げる2人が斬られようとしている。横から武松の腕へ体当たりすると、朴刀の切っ先がそれ、庭石に当たって火花を散らした。
「裏へ逃げてください」
達也が叫ぶと、西門慶は金蓮の手首をつかみ、母屋へ駆け戻った。武松は追おうとせず、まず達也へ目を向けた。
「お前は西門慶の手下か。あの2人をかばえば、ただでは済まぬぞ」
「2日前から世話になっている客人です。倉達也と申します。何があったのかは知りませんが、ここで人を斬らせるわけにはいきません」
「客なら退け。俺が用のあるのは、あの2人だけだ」
「逃げる人へ刃を振り下ろすのを見れば、止めます。事情を聞きますから、まず朴刀を置いてください」
武松は拒み、朴刀を構え直した。
「兄の武大は、潘金蓮に毒を飲まされて死んだ。西門慶はあの女と通じ、兄の死後に屋敷へ入れた。役所へ訴えても退けられたから、俺は兄の仇を討ちに来たのだ」
庭にいた者たちが息を潜めた。達也は初めて武松の怒りの理由を知ったが、その話が事実かどうかは確かめようがなかった。
「事情は分かりました。ただ、いま聞いた話だけで、僕にはどちらが正しいとも決められません」
「俺が嘘をついていると申すのか」
「そうではありません。何も知らずに来た僕には、判断できないのです。それでも、目の前で人が殺されるのを見過ごすことはできません」
武松の眉が動いた。
「事情も知らず、命を懸けるつもりか。2人を差し出せば、ほかの者には手を出さぬ」
「西門家の方々には助けていただきました。今度は僕が助けます。それに、僕にはお2人を差し出す権利もありません」
武松が切っ先を向けても、達也は退かなかった。
「あなたが武器を置くなら、僕も武器を使いません」
「素手で俺を止めるつもりか」
用心棒の1人が、隣の男へささやいた。
「あれが、景陽岡で虎を倒した武松か」
その声を聞いた達也は、武松を見据えた。
「虎を殺した武松と、熊を殺した僕との勝負です」
武松は初めて、達也の全身を確かめるように見た。借り物の上着から出た手首、厚い胸、土を踏みしめる脚へと目を移した。
「山で熊を倒した若者がいるとは聞いた。お前だったのか。もっとも、熊には刃物を使ったそうだな」
「あなたも、虎には棒を使ったそうですね」
武松の口元がわずかに動いた。朴刀を地面へ突き立て、外衣を脱いで投げ捨てた。
「よかろう。俺に勝てば、今日は引く。負ければ、二度と邪魔をするな」
「僕が負けた時、死んでいなければ約束します」
「死なせぬ加減ができる相手か、まず確かめてやる」
◇ ◇ ◇
達也に逃がされた金蓮は、母屋の廊下で呉月娘と出会った。西門慶が帳場の脇から裏門へ向かうと、月娘は代わって金蓮の手を引き、屋敷の奥へ走った。
孟玉楼と李瓶児もあとに続いていた。李嬌児と孫雪娥は、女中たちを裏庭へ逃がしていた。
「奥様、手を離してください。自分で走れます」
そう言いながらも、金蓮の顔からは血の気が引いていた。
「それなら、足を止めずについてきなさい」
「武松が捜しているのは私です。見つからなければ、旦那様や皆様に何をするか分かりません」
「あなたが出れば、あなたが殺されます。まず隠れることです」
月娘は金蓮を納戸へ押し入れ、そこから動かないよう言い聞かせた。戸を閉めようとした時、表庭から男たちの声が上がった。「倉殿」「熊殺し」「勝負」という言葉が聞こえ、月娘の手が止まった。
「達也様が、表へ出たのですか」
金蓮が腕をつかんだが、月娘は答えず、来た廊下を戻り始めた。玉楼が危険だと止めると、月娘は足を止めずに言った。
「表の様子を見ます。倉殿が1人で立っているのに、私だけ隠れてはいられません」
金蓮も納戸から出てきた。
「私も参ります。達也様が私のために戦っているのなら、見届けなければなりません」
「あなたのためだけではありません。倉殿は、この屋敷にいる者を守ろうとしているのです。そこを取り違えてはなりません」
月娘の声は強かった。それでも金蓮は引き下がらず、あとについてきた。2人は玉楼と瓶児に止められながら、表庭を見渡せる渡り廊下まで戻った。
◇ ◇ ◇
達也は武松の右拳を両腕で受けた。骨同士がぶつかる音がし、身体が横へ流された。踏みとどまった右足が、庭の土を深くえぐった。
熊の攻撃とは違った。大きく振られる爪や噛みついてくる牙と違い、武松の拳は構えた位置から最短の距離を進んでくる。胸、顔、腹のどこを狙っているのか、当たる直前まで読み切れなかった。
「力はあるが、使うのが遅い」
武松は言い終えるより早く身を沈めた。達也が顔を守ると、脇腹へ拳が入り、息が詰まった。上半身が折れたところで肩をつかまれ、膝が胸へ突き上げられた。
達也は両腕で受けながら武松の軸足を払ったが、相手は片手を地面へ突いて身体を回した。その踵がこめかみに当たり、目の前が白くなった。膝をつく間にも次の拳が迫っていた。
転がって避けた達也は武松の脚へ組みつき、腰を入れて持ち上げようとした。だが、背中へ肘を落とされて息が抜け、腕を離して地面へ伏せた。
「倉殿」
月娘の声に顔を上げると、渡り廊下に4人の女が立っていた。月娘の髪には、昨日贈った白玉の簪が挿してあった。
武松も金蓮を見つけ、目つきを変えた。
「そこにいたか」
達也を越えて廊下へ向かおうとした武松の足首を、達也が地面からつかんだ。
「勝負は、まだ終わっていません」
武松は足を振ったが、指は外れなかった。反対の足で肩を蹴られ、達也の身体が半回転した。それでも足首を放さず、起き上がって武松の脚を肩へ担いだ。
武松は片脚で跳びながら拳を打ち込んできた。唇が切れて口の中に血が広がり、2発目で鼻からも血が流れた。達也は構わず前へ突進し、2人の身体が石灯籠へぶつかった。傾いた笠が地面へ落ちて割れた。
背を打った武松は、なおも達也の髪をつかみ、額を鼻へ打ちつけた。達也の指が緩むと脚を抜き、肘で顎を跳ね上げた。
仰向けに倒れた達也の視界で空が回った。そこへ武松の顔が入り、胸へ馬乗りになろうとする。達也は両脚を引きつけて腹を蹴ったが、武松は2歩下がっただけで踏みとどまった。
達也は起き上がろうとして、右腕に力が入らないことに気づいた。左の肋骨も息を吸うたびに痛んだ。熊に負わされた傷が一晩で塞がったからといって、いま受けている打撃に耐えられるわけではなかった。
「もうやめてください。倉殿には、何の関わりもないでしょう」
月娘が廊下から叫んだ。武松は達也の胸倉をつかみ、立たせた。
「俺の仇討ちを邪魔したのだ。立ちはだかる者は、誰であろうと倒す」
達也は武松の手首を握った。
「それでは、兄上の仇を討つのではなく、目の前に立つ者を殺して回るだけです」
「黙れ」
頬に拳を受けて再び倒れたが、達也はすぐに武松の腰へ組みついた。今度は持ち上げようとせず、身体を密着させた。拳を振る距離を与えないよう腕を回し、背後へ移った。
武松は腰へ回された指を1本ずつ逆に曲げ、外そうとした。達也の顔が苦痛にゆがんだが、腕は解かなかった。
「熊殺しは、この程度か」
「熊は、あなたほど喧嘩が上手ではありませんでした」
武松は鼻で笑い、後頭部を達也の顔へ打ちつけた。口から血が飛んだ直後、腰を落とした武松に腕を引かれた。達也の身体は肩越しに浮き、地面へ叩きつけられた。
背中に衝撃が走り、息ができなくなった。そこへ武松の太い腕が回り、背後から首を締め上げた。達也は腕に指をかけたが、隙間を作れなかった。耳の奥で血の流れる音がして、庭の色が薄れていった。
「参ったと申せ」
武松の声が遠く聞こえたが、達也は答えなかった。
廊下では月娘が欄干を越えようとし、玉楼と瓶児が両側から腕をつかんでいた。
「離しなさい。倉殿が殺されます」
「奥様が出れば、奥様まで殺されます」
玉楼に止められても、月娘は腕を振りほどこうとした。金蓮は欄干の前に立ち尽くしていたが、やがて武松へ叫んだ。
「その方を放しなさい。お前が欲しいのは、私の命でしょう」
「お前はあとだ」
武松の腕は緩まなかった。
達也の視界から光が消えかけていた。その中で、月娘の髪にある白玉の簪が日を受けて見えた。贈った時に、飾りがなくても美しいと告げた相手が、欄干を越えて来ようとしている。
自分が倒れれば、武松を止められる者はいない。西門慶と金蓮だけでなく、間に入った月娘まで殺されるかもしれなかった。
達也は地面へ落としていた両手を動かした。首を締める腕を外すのをやめ、背後の頭を探った。指が髪と耳に触れ、顎へ届くと、左手でつかみ、右腕を頭の後ろへ回した。
武松が声を上げるより早く、達也は残った力を両腕へ込めた。腰を浮かせ、相手を背負ったまま立ち上がると、首を締めていた腕が一瞬緩んだ。その隙に身体を左へひねった。
武松も逆方向へ力を入れ、顎にかかった指を外そうとした。達也は止めなかった。腕だけでなく肩、背中、腰まで使い、全身の力を込めて頭をねじった。
骨が砕ける鈍い音がして、武松の身体から力が抜けた。それでも達也の手は止まらず、皮膚と筋が裂け、首が胴から外れた。身体が背後へ倒れ、頭部だけが両手に残った。
庭は静まり返った。達也は何が起きたのか分からない顔で手元を見た。武松の目は開いたままだったが、先ほどまでの怒りはもうなかった。
頭部を地面へ置くと、達也は膝をついて激しく咳き込んだ。喉へ指を当てると、締められた跡が熱を持っていた。
月娘は玉楼たちの手を振り切って庭へ駆け下り、血で汚れるのも構わず達也の肩を抱いた。
「倉殿、私が分かりますか」
達也は何度か息を吸い、月娘を見上げた。
「月娘様……簪が、落ちていませんね。よく似合っています」
「こんな時に、何を見ているのです。もう話してはなりません」
月娘の目から涙がこぼれた。達也の頭を胸元へ抱き寄せると、金蓮も庭へ下りてきたが、数歩離れたところで立ち止まった。
地面には、自分を殺しに来た武松の亡骸があった。その横では、2日前まで縁もなかった若者が、全身を傷つけて座り込んでいた。金蓮は裂けた唇と腫れ始めた頬を見つめた。
「なぜ、そこまでして私たちを助けたのです」
達也は月娘に支えられたまま、金蓮へ顔を向けた。
「旦那様と金蓮様が逃げてきたところへ、武松が朴刀を振り上げたからです。あの場で、お2人を斬らせるわけにはいきませんでした」
「武松との間に何があったか、本当に知らなかったのですね」
「はい。あの人が話したことが本当なのかも、僕には分かりません」
金蓮は達也の前へ膝をついた。その答えを疑う気にはなれなかった。過去を知って自分を許したのではなく、何も知らずに斬られるところを助けたのだ。
達也の手へ触れようとすると、月娘が先にその手を包んだ。
「金蓮。すぐに医者を呼ばせなさい」
月娘は声を荒らげなかったが、返事を待つ目には有無を言わせぬものがあった。金蓮はうなずいて立ち上がり、母屋へ走った。
◇ ◇ ◇
西門慶は裏門の外に止めた馬車の陰へ隠れていた。表庭から物音が聞こえなくなり、様子を見に行かせた下男が戻ってくると、身を乗り出した。
「どうなった。武松は、まだ屋敷にいるのか」
「武松は死にました。倉様が素手で首を……。ですが、倉様も全身を打たれ、奥様がそばについておられます」
下男は最後まで言えず、自分の首を押さえた。西門慶は馬車の陰から出たものの、膝から力が抜け、その場へ座り込んだ。
武松が門を破ったと聞いた時には、殺されると思った。役所へ訴えても、捕吏が来るまで命があるとは限らない。用心棒を何人雇っていても、虎を倒した男を止められなかった。その武松を、2日前に迎えたばかりの達也が倒したのだ。
「倉殿は、武松が何者か知っていたのか」
「ご存じなかったようです。旦那様と金蓮様が追われるのを見て飛び込み、そのあとで事情を尋ねておられました」
達也は過去を知って味方したのではなかった。逃げる自分たちを見ただけで、武松の前へ立ってくれた。西門慶は両手を膝へ置き、息を整えて立ち上がった。
「倉殿を離れへ運び、町中から医者を呼べ。薬種蔵も開けて、必要な物は何でも使わせろ。それから役所へ使いを出すのだ」
下男がうなずくと、西門慶は続けた。
「武松は門を壊し、使用人を打ち倒し、屋敷の者を殺そうとした。倉殿は、それを止めるために戦った。見ていた者の名をそろえておけ」
「武松の亡骸は、どのようにいたしましょう」
西門慶は表門の方を見た。
「粗末に扱うな。兄の仇を討ちに来た男だ。身体と首を清め、棺へ入れろ」
恐怖が去ると、庭で聞いた武松の言葉が思い出された。それでも、自分の命を救った達也への恩が変わるわけではなかった。西門慶は早足で屋敷へ戻った。
◇ ◇ ◇
達也は離れの寝台へ寝かされた。医者は右肩の脱臼を戻し、胸と脇腹に触れて骨の具合を確かめた。折れた骨が内臓を傷つけた様子はないという。顔の傷を洗って腫れた箇所へ薬を塗り、首には冷やした布を巻いた。
月娘は寝台の横から動かなかった。医者が帰ったあとも、血の付いた上着を自分で脱がせ、湯に浸した布で顔と胸を拭いた。浴室では赤くなる顔が可愛くてからかったが、今は同じ肌へ触れても笑う気になれなかった。
「月娘様。僕は武松を殺してしまいました。最初から屶を持っていけば、あんなふうに首をねじ切らずに済んだかもしれません」
「武器を持っていけば、相手も朴刀を使ったでしょう。あなたが殺さなければ、あなたが殺されていました。何が正しかったかなど、今になって誰にも分かりません」
達也は目を閉じた。
「あの人の話が本当なら、兄上の仇を討とうとしたのには理由があったのです」
「それでも、私にはあなたを失ってよい理由などありません」
言い切ってから、月娘は自分の言葉に気づいた。達也が目を開けると、布を持ち直した。
「西門家には、と申したのです」
「僕には、私にはと聞こえました」
「首を締められて、耳まで悪くなったのでしょう。もう話さず、休んでください」
月娘は布を冷たいものへ替え、額へ載せた。達也はそれ以上尋ねず、痛みに耐えながらも少し笑った。
その顔を見て、月娘は自分の気持ちを認めた。可愛いから世話を焼きたいだけではなかった。武松に首を締められ、達也の身体から力が抜けていくのを見た時には、自分の命より大切なものを失うと思った。
西門慶の正室でありながら、屋敷へ来て2日しかたたない若者を愛してしまったのだ。
月娘は白玉の簪へ触れた。達也は、自分だけにこの品を選んだ時も、飾りがなくても美しいと言った時も、駆け引きをしたのではなかった。思ったことを口にして、こちらが喜ぶと自分もうれしそうな顔をした。その素直さに、月娘はひかれていた。
「眠りなさい。目を覚ますまで、ここにおります」
達也は確かめるように月娘を見た。手を握り直してやると、ようやく安心した顔で目を閉じた。月娘は、その手を離さなかった。
◇ ◇ ◇
戸の外には金蓮が立っていた。わずかに開いた隙間から、達也の手を握る月娘が見えたが、中へ入る気にはなれなかった。
これまで、男に追わせることはあっても、自分から追うことはほとんどなかった。武大の家を出た時も、西門慶の妾になった時も、自分が最も得をする道を選んだつもりだった。
達也へ近づいたのも、最初は珍しい若者をからかいたかっただけだ。熊を倒す力がありながら女の言葉には慣れず、すぐに顔を赤くする。それを見るのが面白かった。
ところが、その達也が命を救ってくれた。金蓮の過去を知って許したわけでも、武松の言い分が間違っていると決めたわけでもない。何も知らないまま刃の前へ飛び込み、事情を聞いたあとも退かなかった。
金蓮には、それがかえって重かった。過去を知ったうえでかばったのなら、恩を売る思惑を疑うこともできた。達也は何も求めず、ただ自分たちを斬らせまいとして傷ついた。
あの若者を、自分へ振り向かせたかった。命を救われた恩だけでなく、月娘が大切にしている男を奪いたいという欲もあった。長く続く恋かどうかなど、今は考えなかった。手に入れるまで追い、そのあとに飽きるかどうかは、その時に決めればよかった。
戸から離れようとすると、廊下の向こうに西門慶が立っていた。
「中へは入らぬのか」
「奥様がそばにおられますので、今は控えております」
西門慶も戸の隙間から達也を見た。
「倉殿は、俺とお前の命を救った。一生かけても返せぬ恩だ。望む物は何でも用意する。科挙に必要な身元も保証人も、役所との話も、俺が必ず整える」
金蓮は夫の横顔を見た。
「旦那様。あの方が私を望んだら、どうなさいます」
西門慶は金蓮へ顔を向けた。冗談だと笑うことも、怒って頬を打つこともできたはずだった。だが、庭に横たわる武松の亡骸と、達也の潰れかけた喉を思い出すと、どちらもできなかった。
「倉殿は、そのようなことを申さぬ」
「それなら、私から望みます。命を救われた礼でございます」
「お前の顔は、礼をする女の顔ではない。人のものを欲しがる時の顔だ」
西門慶に声を落として指摘されても、金蓮は目をそらさなかった。戸の向こうの月娘を見てから答えた。
「まだ、誰のものでもございません」
金蓮は自分の部屋へ戻っていった。西門慶は追わず、戸口に残った。金蓮は達也を追うだろう。夫である自分にも、それを止め切れる自信はなかった。
離れの中では、月娘が眠る達也の手を握っていた。金蓮の言葉を聞いたあとでは、その姿も単なる客人の看病とは思えなかった。それでも月娘は、達也を奪いたいというだけでそばにいるのではないだろう。もう傷つけたくないと願い、学へ入りたいという望みを支えようとしていた。
達也は、戸の内外で自分に向けられている思いを知らずに眠っていた。




