第4話(中編1)――「虎殺しと熊殺し」
1116年10月、北宋・東平府清河県。
山中で熊に襲われていた呉月娘たちを救った倉達也は、西門慶の屋敷へ迎えられた。
達也は正室の月娘へ白玉の簪を贈り、自らその髪へ挿した。月娘は、熊を倒すほど強いのに女を前にすると赤くなる達也を、可愛く感じている。
しかし、西門家には、達也の知らない過去があった。
第5房の潘金蓮と西門慶を捜し、1人の大男が表門へ迫っていた。
(1116年10月、北宋・東平府清河県・西門家)
西門家の表門を、重い物で打つ音がした。
朝食を終えた達也は、離れの卓へ地図と書物を広げていた。登州から来る商人に身の上を説明するため、話す内容を書き出していたのである。
最初の一撃で、硯の水面が震えた。
続く一撃では、庭にいた鳩が一斉に飛び立った。男たちの怒鳴り声と、女中の悲鳴が母屋の方から聞こえる。
達也は筆を置き、戸を開けた。
廊下を若い侍女が駆けてきた。達也の姿を見つけると、足をもつれさせながら離れへ飛び込んだ。
「倉様、表に恐ろしい男が来ております」
「何者です」
「武松と名乗りました。旦那様と金蓮様を出せと申しております。下男が止めましたが、3人とも投げ飛ばされました」
「旦那様と金蓮様を、なぜ」
「分かりません。仇を討つと怒鳴っております」
達也は事情を尋ねようとしたが、表門の方で木の裂ける音が響いた。考えている暇はなかった。
「月娘様はどこです」
「奥様方を奥へ逃がしておられます」
「あなたも裏へ下がってください。戸を閉め、呼ばれるまで出てはいけません」
達也は表門へ向かって走った。
◇ ◇ ◇
表庭には、折れた門の閂が転がっていた。
両開きの門は片方が内側へ傾き、蝶番が土壁から外れかけている。その前に、旅装の大男が立っていた。
年は30をいくつか越えたほどで、背丈は達也と大きく変わらない。しかし、肩から腕にかけての厚みが違った。日に焼けた顔には古い傷があり、眉の下の目は屋敷の奥だけを見据えている。右手には幅広の朴刀を持っていた。
足元では、下男3人が倒れている。1人は肩を押さえ、もう1人は鼻から血を流していたが、いずれも息はある。
西門家の用心棒が6人、棍や刀を構えて男を囲んでいた。だが、誰も間合いへ入ろうとしない。
「西門慶を出せ」
武松の声が庭へ響いた。
「潘金蓮もだ。隠せば、屋敷の中を捜す」
用心棒の1人が背後から棍を振り上げた。
武松は振り返らず、半歩だけ身体を外した。棍が肩先を通り過ぎると、その腕をつかんで引き寄せ、肘で胸を打った。男は息を吐き、土の上へ転がった。
「お待ちください」
達也は用心棒たちの間を抜けた。その時、母屋から西門慶が転がるように走り出てきた。顔は青ざめ、上衣の帯も結んでいない。別の廊下からは金蓮が駆けてきた。武松から逃れようとした2人が、行き違って表庭へ出てしまったのである。
「武松、話を聞け」
西門慶が叫んだ。
「聞くことはない」
武松が朴刀を振り上げ、2人へ踏み出した。
達也には、武松が誰なのか、3人の間に何があったのか分からなかった。ただ、刃を持つ男が、逃げる西門慶と金蓮を斬ろうとしていることだけは分かった。
達也は横から武松の腕へ体当たりした。朴刀の切っ先がそれ、庭石へ当たって火花を散らした。
「裏へ逃げてください」
達也が叫ぶと、西門慶は金蓮の手首をつかみ、母屋へ駆け戻った。
武松の目が達也へ移った。
「お前は西門慶の手下か」
「2日前に世話になった客人です。倉達也と申します」
「客なら退け。俺が用のあるのは2人だけだ」
「何があったのかは知りません。ですが、ここで人を斬らせるわけにはいきません」
「何も知らぬ客が、俺の邪魔をしたのか」
「刃物を持った人が、逃げる2人を追っていました。それを見れば止めます」
「あの2人が何をしたか聞いても、同じことを申せるか」
「それを聞く前に、朴刀を置いてください」
「断る」
武松は朴刀を構え直した。
「兄の武大は、潘金蓮に毒を飲まされて死んだ。西門慶はあの女と通じ、兄の死後に屋敷へ入れた。役所へ訴えても退けられた。俺は兄の仇を討ちに来た」
庭にいた者たちが息を潜めた。
達也は初めて、武松の怒りの理由を知った。しかし、それが事実かどうかを確かめるすべはなく、武松にこの場で2人を殺す権利があるとも思えなかった。
「今の話が本当かどうか、僕には分かりません」
「俺が嘘をついていると申すか」
「そうは申していません。事情を何も知らない僕には、どちらが正しいとも決められません。ですが、目の前で人が殺されるのを見過ごすこともできません」
武松の眉が動いた。
「事情も知らずに、命を懸けるのか」
「西門家の方々には助けていただきました。今度は僕が助けます」
「2人を差し出せば、ほかの者には手を出さぬ」
「僕に2人を差し出す権利はありません」
「では、命を捨てるか」
武松が朴刀の切っ先を達也へ向けた。
達也は両手を下げたまま答えた。
「あなたが武器を置くなら、僕も武器を使いません」
「素手で俺を止めるつもりか」
用心棒の1人が、隣の男へささやいた。
「あれが、景陽岡で虎を倒した武松か」
達也はその声を聞き、武松を見据えた。
「虎を殺した武松と、熊を殺した僕との勝負です」
庭の端で、誰かが息をのんだ。
武松は初めて達也の全身を見た。借り物の上着から出た手首、厚い胸、土を踏みしめる脚へ順に目を移す。
「山で熊を倒した若者がいるとは聞いた。お前か」
「はい」
「熊には刃物を使ったそうだな」
「虎にも棒を使ったそうですね」
武松の口元がわずかに動いた。
「よかろう」
朴刀を地面へ突き立てる。
「俺に勝てば、今日は引く。負ければ、二度と邪魔をするな」
「僕が負けた時、死んでいなければ約束します」
「死なせぬ加減ができる相手か、まず確かめてやる」
武松は外衣を脱ぎ、地面へ投げた。
◇ ◇ ◇
達也に逃がされた金蓮は、母屋の廊下で月娘に出会った。月娘は金蓮の手を引き、屋敷の奥へ走っていた。
玉楼と瓶児が後ろに続き、嬌児と雪娥は女中たちを裏庭へ逃がしている。西門慶は途中で金蓮の手を離し、帳場の脇から裏門へ向かった。
「奥様、手を離してください。自分で走れます」
金蓮はそう言ったが、顔から血の気が引いていた。
「走れるのであれば、足を止めてはなりません」
「武松は私を捜しております。私がいなければ、旦那様と皆様が殺されます」
「あなたが出れば、あなたが殺されます」
月娘は金蓮を納戸へ押し入れた。
「ここから動いてはなりません」
「ですが――」
表庭から、男たちの歓声が上がった。
月娘は戸を閉める手を止めた。聞こえた言葉の中に、倉殿、熊殺し、勝負という声が混じっている。
「達也様が、表へ出たのですか」
金蓮が月娘の腕をつかんだ。
月娘は答えず、来た廊下を戻り始めた。
「奥様、どちらへ」と玉楼。
「表の様子を見ます」
「危険です」
「倉殿が1人で立っているのに、私だけ隠れているわけにはいきません」
金蓮も納戸から出てきた。
「私も参ります」
「あなたは残りなさい」
「達也様は、私のために戦うのでしょう」
「あなたのためだけではありません」
月娘の声が強くなった。
「倉殿は、屋敷にいる者を守ろうとしているのです。そこを取り違えてはなりません」
金蓮は月娘を見返したが、引き下がらなかった。
「それでも、私が見届けます」
2人は玉楼と瓶児に止められながら、表庭の見える渡り廊下まで戻った。
◇ ◇ ◇
達也は武松の右拳を両腕で受けた。
骨同士がぶつかる音がし、身体が横へ流された。踏みとどまった時には、右足が土を深くえぐっていた。
熊とは違う。
熊の攻撃は大きく、爪や牙の届く方向も限られていた。武松の拳は構えた位置から最短の距離を走り、当たる直前まで胸、顔、腹のどこを狙うか読めない。
達也は距離を取り直した。
「力はある」
武松が言った。
「だが、力の使い方が遅い」
言葉が終わるより先に、武松の身体が沈んだ。
達也は顔を守ったが、脇腹へ拳が入った。息が詰まり、上半身が折れる。そこへ肩をつかまれ、膝が胸へ突き上げられた。
達也は両腕で膝を受け、武松の軸足を払った。
武松は片手を地面へ突き、倒れずに身体を回した。踵が達也のこめかみに当たり、目の前が白くなった。
膝をついた達也の顔へ、さらに拳が迫る。
達也は転がって避け、武松の脚へ組み付いた。そのまま腰を入れて持ち上げようとしたが、武松は達也の背へ肘を落とした。
肺から空気が抜けた。
達也は腕を離し、地面へ伏せた。
「倉殿」
月娘の声が聞こえた。
達也が顔を上げると、渡り廊下に月娘、金蓮、玉楼、瓶児が立っている。月娘の髪には、朝に贈った白玉の簪が挿されたままであった。
武松も金蓮を見つけた。
目の色が変わった。
「そこにいたか」
武松は達也を越え、廊下へ向かおうとした。
達也は地面から腕を伸ばし、その足首をつかんだ。
「勝負は、まだ終わっていません」
武松は足を振ったが、達也の指は外れなかった。
「離せ」
反対の足が、達也の肩を蹴った。
達也の身体が半回転した。それでも足首を抱えたまま立ち上がり、武松の脚を肩へ担いだ。
武松は片脚で跳び、達也の顔へ拳を打ち込んだ。唇が切れ、血が口へ広がる。2発目で鼻からも血が流れた。
達也は武松の脚を抱えたまま、前へ突進した。
2人の身体が庭の石灯籠へぶつかった。石の笠が傾き、地面へ落ちて割れた。
武松は背を打ちながらも、達也の髪をつかみ、額を鼻へ打ち付けた。
達也の指が緩んだ。
武松は脚を抜き、肘で達也の顎を跳ね上げた。達也は仰向けに倒れた。
庭の空が回っていた。
武松の顔が視界へ入る。拳を固め、達也の胸へ馬乗りになろうとしている。
達也は両脚を引きつけ、武松の腹を蹴った。
武松は2歩下がっただけで倒れなかった。
達也は起き上がろうとしたが、右腕に力が入らない。左の肋骨も、息を吸うたびに痛んだ。
熊を倒した時の傷は一晩で塞がった。しかし、傷が治りやすいことと、その場で痛みを感じないことは別である。
「もうやめてください」
月娘が廊下から叫んだ。
「倉殿は、あなたの兄上を殺しておりません」
「俺の仇討ちを邪魔した」
武松は達也の胸倉をつかみ、立たせた。
「邪魔をする者は、誰であろうと倒す」
達也は武松の手首を握った。
「それでは、兄上の仇を討つのではなく、あなたの前にいる者を殺して回るだけです」
「黙れ」
拳が頬へ入った。
達也は再び倒れたが、すぐに武松の腰へ組み付いた。
今度は持ち上げようとせず、身体を密着させた。拳を振る距離を与えず、腕を回して背後へ移る。
武松は達也の指を外そうとした。1本ずつ逆へ曲げられ、達也の顔が苦痛にゆがむ。
それでも腰へ回した腕を解かなかった。
「熊殺しは、この程度か」
「熊は、あなたほど喧嘩が上手ではありませんでした」
武松は鼻で笑い、後頭部を達也の顔へ打ち付けた。
達也の口から血が飛んだ。
次の瞬間、武松は腰を落とし、達也の腕を引いた。達也の身体が肩越しに浮き、地面へ叩きつけられた。
背中に衝撃が走り、息ができなくなった。
武松は達也の首へ腕を回した。
太い前腕が喉へ食い込み、後ろから締め上げる。達也は腕へ指をかけたが、わずかな隙間も作れない。
耳の奥で血の流れる音がした。
庭の色が薄くなる。
「参ったと申せ」
武松の声が遠く聞こえた。
達也は返事をしなかった。
廊下では、月娘が欄干を越えようとしていた。玉楼と瓶児が両側から腕をつかみ、必死に止めている。
「離しなさい。倉殿が殺されます」
「奥様が出れば、奥様まで殺されます」と玉楼。
「それでも、このまま見てはいられません」
金蓮は欄干の前で立ち尽くしていた。
武松が自分を殺しに来ることは覚悟していた。だが、2日前に会ったばかりの達也が、その武松に首を締められている。
「武松」
金蓮が声を上げた。
「その方を放しなさい。お前が欲しいのは、私の命でしょう」
武松の腕は緩まなかった。
「お前はあとだ」
達也の視界から光が消えかけた。
月娘の髪にある白玉の簪だけが、日を受けて見えていた。
達也は月娘へ贈った時の言葉を思い出した。
飾りがなくても美しい方である。
その月娘が、欄干を越えてこちらへ来ようとしている。達也が倒れれば、武松を止められる者はいない。西門慶と金蓮だけではなく、間に入った月娘まで殺されるかもしれなかった。
達也は地面へ落としていた両手を動かした。
武松の腕を外すのではなく、背後にある頭を探った。指が髪と耳に触れ、やがて顎へ届いた。
左手で顎をつかみ、右腕を武松の頭の後ろへ回す。
「何を――」
武松が言い終える前に、達也は両腕へ残った力をすべて込めた。
腰を浮かせ、武松の身体を背負ったまま立ち上がる。
首を締めていた腕が一瞬緩んだ。
達也は左へ身体をひねった。
武松も反対へ力を入れた。首と肩の筋が盛り上がり、達也の指を顎から外そうとする。
達也は止めなかった。
熊を転がした時、水桶を両手で持った時、4人がかりのまな板を担いだ時にも使わなかった力が、腕、肩、背、腰から一度に噴き出した。
骨が砕ける鈍い音がした。
武松の身体から力が抜けた。
達也は、なおも回した。
皮膚と筋が裂け、首が胴から外れた。
武松の身体が背後へ倒れ、頭部だけが達也の両手に残った。
庭が静まり返った。
達也は何が起きたのか分からない顔で、自分の手を見た。武松の目は開いたままで、先ほどまでの怒りが消えている。
達也は頭部を地面へ置いた。
その場に膝をつき、激しく咳き込んだ。喉に指を当てると、締められた跡が熱を持っている。
「倉殿」
月娘が玉楼たちの手を振り切り、庭へ駆け下りた。
血で汚れることも構わず達也の肩を抱く。
「私が分かりますか」
達也は何度か息を吸った。
「月娘様……簪が、落ちていませんね」
月娘の目から涙がこぼれた。
「このような時に、何を見ているのです」
「よく似合っています」
「もう話してはなりません」
月娘は達也の頭を胸元へ抱き寄せた。
金蓮も庭へ下りてきた。しかし、月娘の腕の中にいる達也へ近づくことができず、数歩離れたところで立ち止まった。
地面には、自分を殺しに来た武松の亡骸がある。
その横には、自分とは何の縁もなかったはずの若者が、全身を傷つけて座り込んでいる。
金蓮は達也の裂けた唇と、腫れ始めた頬を見た。
「なぜ、そこまでして私を助けたのです」
達也は月娘に支えられたまま、金蓮へ顔を向けた。
「金蓮様だけを助けたのではありません」
「分かっております」
「武松が話したことが本当かどうか、僕には分かりません」
「あなたは、本当に何も知らなかったのですね」
「はい。旦那様と金蓮様が逃げてくるのを見て、武松が朴刀を振り上げました。だから止めただけです」
金蓮は達也の前へ膝をついた。
「何も知らずに、私たちを助けたのですか」
「知っているかどうかは関係ありません。あの場で、お2人を斬らせるわけにはいきませんでした」
金蓮は達也の答えを疑わなかった。達也は表庭へ来た時、武松に何があったのかと尋ねていた。その声は用心棒や下男も聞いている。達也が事情を知ったふりをしているのではないことは、あの場にいた誰の目にも明らかであった。
金蓮は達也の手へ触れようとしたが、月娘が先にその手を包んだ。
「金蓮。医者を呼ばせなさい」
月娘の声は静かであった。
「今すぐにです」
金蓮は月娘を見た。
その顔には正室としての命令だけでなく、達也を自分の腕から誰にも渡したくないという感情が表れていた。
「はい、奥様」
金蓮は立ち上がり、母屋へ走った。
◇ ◇ ◇
西門慶は、裏門の外に止めた馬車の陰へ隠れていた。
表庭から歓声も打撃音も聞こえなくなると、様子を見に行かせた下男が戻ってきた。
「旦那様、武松が死にました」
「誰が殺した」
「倉様です。武松の首を、素手で……」
下男は最後まで言えず、自分の首を押さえた。
西門慶は馬車の陰から出た。
「倉殿は生きているのか」
「全身を打たれておりますが、生きておられます。奥様が抱いて離しません」
西門慶は膝から力が抜け、その場へ座り込んだ。
武松が門を破ったと聞いた時、自分は殺されると思った。役所へ訴えても、捕吏が来るまで命があるとは限らない。用心棒を何人雇っても、虎を倒した男を止められる保証はなかった。
その武松を、2日前に屋敷へ入れた若者が殺したのである。
「倉殿は、武松が何者か知っていたのか」
「いいえ。武松本人へ、何があったのかと尋ねておられました。旦那様と金蓮様が追われるのを見て、話を聞く前に飛び込まれたのです」
西門慶は両手を膝へ置き、深く息を吐いた。達也は過去を知って西門慶に味方したのではない。何も知らず、逃げる自分たちを見たというだけで武松の前へ立ったのである。
「倉殿を離れへ運べ。医者は町中から呼べ。薬種蔵を開け、必要なものは何でも使わせろ」
西門慶は立ち上がった。
「それから、役所へ使いを出せ。武松が門を壊し、手下を打ち倒し、屋敷の者を殺そうとした。倉殿は止めるために戦ったのだ。見ていた者の名をそろえろ」
「武松の亡骸は、いかがいたしますか」
西門慶は表門の方を見た。
「粗末に扱うな。兄の仇を討ちに来た男だ。身体と首を清め、棺へ入れろ」
恐怖が去った今になって、庭で武松が訴えた言葉を思い出していた。
だが、自分の命を救った達也への恩は、それとは別である。
西門慶は早足で屋敷へ戻った。
◇ ◇ ◇
達也は離れの寝台へ寝かされた。
医者は右肩の脱臼を戻し、胸と脇腹を触って骨の具合を確かめた。幸い、折れた骨が内臓へ刺さった様子はない。顔の傷を洗い、腫れた箇所へ薬を塗ると、首へ冷やした布を巻いた。
月娘は寝台の横から動かなかった。
医者が帰ったあとも、血の付いた達也の上着を自分で脱がせ、湯に浸した布で顔と胸を拭いた。前日の浴室では達也の赤くなる顔が可愛く、ついからかいた。今は同じ肌へ触れても、笑う気にはなれなかった。
「月娘様」
「何です」
「武松を、殺してしまいました」
「あなたが殺さなければ、あなたが殺されていました」
「最初から屶を持っていけば、首をねじ切らずに済んだかもしれません」
「武器を持ったあなたを見れば、武松も朴刀を使ったでしょう。何が正しかったかなど、今になって誰にも分かりません」
達也は目を閉じた。
「あの人の話が本当なら、兄上の仇を討つ理由がありました」
「それでも、私にはあなたを失ってよい理由などありません」
月娘は言い切ったあと、自分の言葉に気づいた。
達也が目を開ける。
「西門家には、と申したのです」
「僕には、私にはと聞こえました」
「首を締められて、耳まで悪くなったのでしょう」
月娘は布を冷たいものへ替え、達也の額へ載せた。
達也はそれ以上尋ねなかったが、痛みの中で少しだけ笑った。
その笑顔を見た時、月娘は胸の奥に押し込めていたものを認めた。
達也が可愛いから世話を焼きたいだけではない。妻妾たちの好奇心から守りたいだけでもない。
武松に首を締められ、達也の身体から力が抜けていくのを見た時、月娘は自分の命より大切なものを失うと思った。
この若者を愛している。
西門慶の正室である自分が、屋敷へ来て2日しかたたない男を愛してしまったのである。
月娘は白玉の簪へ手を触れた。
達也は何の駆け引きもしていない。月娘だけに簪を選んだ時も、飾りがなくても美しいと言った時も、思ったことをそのまま口にしただけである。
だからこそ、月娘には逃げ道がなかった。
「眠りなさい。目を覚ますまで、ここにおります」
「ずっと、ですか」
「はい」
達也は安心したように目を閉じた。
月娘は、その手を握ったまま離さなかった。
◇ ◇ ◇
戸の外には、金蓮が立っていた。
達也の手を握る月娘と、目を閉じた達也が、わずかに開いた戸の隙間から見える。
金蓮は部屋へ入らなかった。
これまで男を追わせることはあっても、自分から追ったことはほとんどない。武大の家を出た時も、西門慶の妾になった時も、自分が最も得をする道を選んだつもりでいた。
達也に近づいたのも、最初は珍しい若者をからかうためであった。熊を倒す力がありながら、女の言葉には慣れていない。その顔を赤くさせれば面白いと思っただけである。
達也は、武松と西門慶の間に何があったのかを知らなかった。武大という男の名も、金蓮がその妻であったことも、武松が庭で叫ぶまで知らなかったのである。
それでも達也は、朴刀を持って追う男と、逃げる西門慶たちの間へ迷わず飛び込んだ。金蓮を善人だと思ったからでも、武松を悪人だと思ったからでもない。事情を知らない客人が、目の前の2人を見殺しにできず、身体を張って助けたのである。
金蓮には、それがかえって重かった。過去を知ったうえで許されたのなら、恩を売る思惑を疑うこともできる。だが達也は何も求めず、誰の言い分が正しいかも決めず、ただ命を救った。
金蓮は、達也を欲しいと思った。
命を救われた恩だけではない。月娘が大切に抱いている男を自分へ振り向かせたいという欲もあった。
それが長く続く恋かどうかなど、金蓮は考えなかった。
手に入れるまで追う。
手に入れたあとに飽きるかどうかは、その時に決めればよい。
金蓮が戸から離れようとすると、廊下の向こうに西門慶が立っていた。
「中へ入らぬのか」
「奥様が、そばにおられます」
「倉殿は、俺とお前の命を救った」
「分かっております」
「一生かけても返せぬ恩だ」
西門慶は戸の隙間から達也を見た。
「倉殿が望むものは、何でも用意する。科挙の身元も、保証人も、役所との話も、俺が必ず整える」
金蓮は西門慶の横顔を見た。
「旦那様。あの方が、私を望んだらどうなさいます」
西門慶は金蓮へ顔を向けた。
冗談だと笑うことも、怒って頬を打つこともできた。しかし、庭に横たわっていた武松の亡骸と、達也の潰れかけた喉を思い出すと、どちらもできなかった。
「倉殿は、そのようなことを申さぬ」
「申さなければ、私から望みます」
「金蓮」
「命を救われた礼でございます」
「お前の顔は、礼をする女の顔ではない」
西門慶は低い声で言った。
「人のものを欲しがる時の顔だ」
金蓮は戸の向こうにいる月娘を見た。
「まだ、誰のものでもございません」
そう答えると、自分の部屋へ戻っていった。
西門慶は追わなかった。
離れの中では、月娘が達也の手を握っている。
金蓮はあの若者を追うだろう。夫である西門慶にも、それを止め切れる自信はなかった。
そして月娘は、金蓮とは違う。
欲しい男を奪うために近づくのではない。達也が再び傷つかないよう守り、その望みをかなえ、その先の人生まで支えようとしている。
熊殺しと虎殺しの勝負は終わった。
しかし、達也が知らないところで、潘金蓮と呉月娘の間には、別の勝負が始まろうとしていた。
第4話中編1では、武松と西門家の因縁を何も知らない達也の前で、武松が門を破って押し入った。
逃げる西門慶と潘金蓮へ武松が朴刀を振り上げたため、達也は事情を聞くより先に2人を助けた。武松が兄・武大の死について訴えたあとも、達也には真偽を確かめられなかった。そのため、どちらが正しいかを決めるのではなく、目の前で2人を殺させないために戦った。
虎殺しの武松と、熊殺しの倉達也は、武器を置いて戦った。
武松は実戦経験と技で達也を圧倒し、最後には背後から首を締め上げた。しかし、月娘まで危険にさらされると考えた達也は、全身の力で武松の首をねじり、胴から引き離した。
西門慶は、自分と金蓮の命を救った達也に一生返せない恩を感じ、科挙に必要な身元、保証人、役所との話を必ず整えると決めた。
金蓮は、達也が自分の過去を知りながら許したとは考えていない。何も知らない客人が、見返りを求めず命を救ったことに心を動かされ、今度は自分から達也を追うと決めた。ただし、その思いには恩だけでなく、月娘が大切にする男を奪いたいという欲が混じっている。
一方の月娘は、達也が武松に殺されかける姿を見て、自分の気持ちを悟った。
達也を可愛いと思うだけではない。傷を防ぎ、望みをかなえ、その人生を支えたいと願う本気の愛である。
達也本人に恋の駆け引きをしたつもりはない。
それでも、武松との死闘を境に、潘金蓮と呉月娘は、それぞれ異なる思いで達也を追い始めた。




