第4話(前編2)――「贈り物の朝」
(1116年10月、北宋・東平府清河県・西門家)
翌朝、達也は鐘も鶏の声も聞かないうちに目を覚ました。離れの窓はまだ暗く、枕元の懐中時計は午前5時を指していた。
寝台で身体を起こして左腕を回すと、前夜には皮膚が引きつるたびに感じた痛みがなかった。布を外してみると、熊の爪がかすめた傷は閉じ、薄い赤い線が残っているだけだった。右脚の切り傷も同じように塞がっていた。
19歳に戻った身体の回復が早いことは、清国にいたころから分かっていた。それでも、血を流した翌朝にここまで治るとは思わなかった。立ち上がって膝を曲げ、片脚で身体を支えてみても、痛みはなく、傷口も開かなかった。
「これなら動ける」
呉月娘は、朝になれば傷を見に来ると言っていた。寝台で待っていれば、月娘が布を解き、腕や脚に触れることになる。その光景を思い浮かべた途端、昨夜の浴室での出来事までよみがえった。
暗い部屋の中で耳が熱くなり、達也は急いで衣服を着た。
◇ ◇ ◇
母屋の裏へ回ると、厨房の周りでは朝の支度が始まっていた。下男が井戸から水をくみ、侍女が薪を運び、厨房では孫雪娥が粥の鍋と蒸籠を見ている。庭の隅には、昨日運び込んだ熊の骨と肉を入れた桶が並んでいた。
達也は、2個の水桶を担ごうとしている年配の下男へ声をかけた。
「その水は僕が運びます。寝ているより、身体を動かした方が楽なのです」
「倉様、そのようなことをなさっては困ります。奥様からも、傷を負った客人に仕事をさせてはならぬと申しつかっております」
下男が止める間もなく、達也は左右の手で水桶を1個ずつ持ち上げた。天秤棒を使わず、そのまま厨房へ運んでいくと、井戸端にいた者たちが手を止めた。
「水は、どちらへ置けばよいでしょうか」
雪娥は返事を忘れて達也の両手を見ていたが、やがてかまどの横を指した。
「そちらへ置いてください。ですが、そんな重い物を一度に運んでは……」
「まだ必要でしたら、運んできます」
達也は水桶を置くと井戸へ戻った。水を6桶運んだあとは薪の束を抱え、下男が2人で運ぶ太い丸太も肩に載せて薪割り場へ移した。さらに斧を借り、乾いた木を次々に割っていった。
清国にいたころから、毎朝の走り込みと筋力鍛錬は欠かさなかった。北宋へ渡る前には、25キログラムの背負い袋を担いで斜面を歩き、重い荷を持ったまま身を守る訓練も続けていた。薪を運ぶ程度では、息も乱れなかった。
やがて、熊の肉を処理するために大きなまな板を動かすことになった。4人の下男が四隅を持とうとすると、達也は中央へ手をかけた。
「僕が運びますから、置く場所を教えてください」
厚い板を持ち上げて庭の反対側へ運ぶ達也のあとを、下男たちが手ぶらでついていった。置き終えると、若い下男が困った顔を向けた。
「倉様、それでは私どもの仕事がなくなります」
「朝食までには戻します」
「仕事は、借りて返すものではございません」
周りで笑いが起き、達也はようやく、自分が働きすぎたことに気づいた。
「何か、邪魔にならずに手伝えることはありませんか。何もせずに待つのは苦手なのです」
雪娥は離れへ戻るよう勧めかけたが、達也の顔を見て石臼を指した。
「それなら、そこの胡麻をすってください。腕の傷が痛んだら、すぐにやめるのですよ」
達也は石臼の前へ座った。ところが、力を入れて回した途端、胡麻が外へ飛びそうになり、雪娥に手首を押さえられた。
「早ければよいものではありません。胡麻が潰れるように、加減して回してください」
達也は言いつけどおり、手の動きを緩めた。熊を倒し、大きなまな板を運んだ男が、今度は胡麻をこぼさないよう石臼を回している。侍女たちは笑いをこらえながら膳を整えた。
◇ ◇ ◇
月娘が離れへ着くと、寝台は空だった。掛け物は畳まれ、卓の上も整っているが、達也の姿がない。離れの前を掃いていた侍女に尋ねると、夜明け前に母屋へ向かったという。
傷を負った身体で何をしているのかと厨房へ向かううちに、達也が水や薪を運び、大きなまな板まで担いだ話が耳に入った。戸口まで来ると、笑い声と石臼の音が聞こえた。中では達也が床に座り、真剣な顔で胡麻をすっていた。
「倉殿。今朝は離れで傷を見ると申しましたね。どうして、こちらで働いているのです」
達也は石臼から手を離し、月娘を見上げた。
「おはようございます。傷なら、もう治りました。身体を動かしても痛みません」
「一晩で治るはずがありません。腕を見せてください」
月娘は達也の前へ座り、左の袖をまくって白い布を解いた。昨日まで開いていた傷は塞がり、腫れも熱もなかった。周りを指で押しても、達也は顔をしかめなかった。
「こうして押しても、痛くありませんか。右脚も確かめますから、見せてください」
達也は痛みがないと答え、下衣を膝まで上げた。脚の傷も薄い線になっている。月娘はしばらく見つめてから、達也の腕をつまんだ。
「治ったように見えても、朝から水を6桶も運び、薪を割り、まな板まで担ぐことはないでしょう」
「身体を動かすのは毎朝の習慣ですし、少しでも役に立ちたかったのです。皆が働いているのに、僕だけ寝ているのは落ち着きません」
達也は叱られると思ったのか、目を伏せた。その顔を見ると、月娘は強い言葉を続けられなくなった。
「あなたは客人です。働かなければ食事を出さないとは、誰も申しません。これからは先に私へ話してください。勝手に傷を開けば、また手当てをしなければならないのですよ」
「月娘様が手当てしてくださるのなら――」
達也は途中で口を閉じた。耳が赤くなっているのを見て、月娘は笑みを隠せなかった。
「もう少し傷が残っていた方がよかった、とでも申すつもりですか」
「そのような意味ではありません。あの、胡麻をすり終えてもよろしいでしょうか」
達也が逃げるように石臼へ手を伸ばすと、雪娥が止めた。
「もう十分です。それ以上はすらなくても使えますよ」
胡麻はすでに油がにじむほど滑らかになっていた。達也が行き場をなくした手を膝へ戻すと、侍女たちは一斉に笑った。
月娘は布を巻き直さず、達也の袖を下ろして整えた。
「治ったことは喜ばしいのです。ただ、次からは私が確かめるまで待っていなさい」
達也が素直にうなずくと、月娘の叱る気もすっかり失せていた。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、達也が働いた話が浴室の話より速く広がっていた。李瓶児は水桶を両手で運んだことに驚き、李嬌児は、大きなまな板まで1人で担いだと聞いたと言った。
「皆さんが忙しそうでしたので、手伝っただけです」
達也が答えると、潘金蓮が身を乗り出した。
「それほど力がおありなら、明日は私の部屋の長持を動かしてください」
「金蓮。客人を下男の代わりにしてはなりません」
「奥様は厨房で働かせておいて、私には貸してくださらないのですか」
「私が働かせたのではありません。止めに行って、傷を確かめていたのです」
月娘の返事に、孟玉楼が笑みを浮かべた。
「その割には、随分長く厨房におられましたね。傷は治っていたのでしょう」
月娘は答えず、達也の前へ粥の椀を置いた。
「働いた分、しっかり食べなさい」
達也がうれしそうに匙を取ると、玉楼と金蓮は顔を見合わせた。
西門慶は焼餅をちぎりながら、達也へ今日の予定を尋ねた。
「山へ置いた荷を取りに戻りたいと考えております。途中まで下男の方に来ていただければ助かりますが、そこから先は1人で参ります」
「人も馬も出しましょう。それほど用心するのは、高価な品があるからですか」
「僕にとって大切な品です。置き場所を知られたくない物もあります」
西門慶はそれ以上尋ねず、下男を2人付けると約束した。すると、金蓮がすぐに自分も行くと言い出した。
「昨日の熊が本当にもういないか、確かめてまいります」
「熊を確かめに行くのに、どうしてそんなにうれしそうなのです」
月娘に見られても、金蓮は引かなかった。
「倉殿の大切な荷も、守らなければなりませんから」
「その荷を、金蓮様に知られないよう守りたいのです」
達也が答えると、西門慶が笑い、玉楼も袖で口元を隠した。
「倉殿も、少しは女の扱いを覚えたようですね」
「正直に答えただけです」
金蓮は唇を尖らせた。
「それなら、戻ってから最初に私へ見せてください」
「皆様に見ていただく物ですから、金蓮様だけに先にお見せするわけにはいきません」
6人の女が同時に達也を見た。達也は、口にしてから余計なことを漏らしたと気づいた。
「私たちに見せる物もあるのですね。何を持ってきてくださるのでしょう」
瓶児に尋ねられ、達也は戻ってからの楽しみにしてほしいと頼んだ。嬌児が、月娘にも内緒なのかと重ねて聞くと、達也は月娘へ目を向けた。
「はい。月娘様にも、まだ内緒です」
月娘も何を見せてくれるのか気になったが、ほかの妻妾と並んで催促するのは控えた。
「それなら、戻ってから拝見しましょう。山道には気をつけて、昼までには帰りなさい」
「昼までに戻れるようにいたします」
月娘はその返事を聞いてから、達也に朝食を続けるよう勧めた。
◇ ◇ ◇
達也は下男2人と荷運び用の騾馬1頭を連れ、昨日下ってきた山道を戻った。何度も後ろを振り返り、あとをつける者がいないことを確かめた。
洞窟へ続く沢の手前で、下男たちを待たせることにした。
「ここからは1人で行きます。荷を持って戻りますから、重い物を騾馬へ載せる時に手を貸してください」
「熊が出た山へ、お1人で入られるのですか」
「また出たら、今度は肉をすべてお渡しします」
「肉の心配をしているのではございません」
達也は大丈夫だと答え、長くても半刻ほどで戻ると伝えた。木々の間へ入り、沢を上って洞窟へ向かうと、入口に異常はなかった。枝葉の隙間から内部を確かめ、10トン車へ近づいた。
扉を開けると、見慣れた車内の匂いがした。持ち込んだ品は、北宋へ渡る前から用途ごとに分けてあった。自分の生活に使う物、売って資金に換える物、協力してくれた相手に贈る物である。西門家の世話になるとは思わなかったが、恩を受けた時に礼ができるよう備えていた。
達也は外から見ても不自然でない木箱を荷台から下ろし、贈り物を選び始めた。赤珊瑚を飾った金の簪、翡翠の耳飾り、真珠の首飾り、金糸と銀糸の腕輪、瑠璃をはめた帯飾り、銀の香盒を取り出した。いずれも北宋に存在する素材と技法で作らせ、留め金や継ぎ目にも、後世の品と分かる物は使っていなかった。
6人へ同じ品を渡せば、値打ちを比べられずに済む。それでも達也は、食卓で見た顔を思い浮かべ、それぞれに似合うと思う品を選んだ。
最後に、月娘へ贈りたいと考えていた白玉の簪を取り出した。飾りは大きくない。白玉の輪の内側に金で作った月桂の枝を渡し、その下に真珠を1粒だけ下げてある。動けば真珠が揺れるが、派手な音は立てなかった。
もっと華やかで高価な品もあったが、声を荒らげずに人を動かす月娘には、この簪が最も似合う気がした。傷も曇りもない白玉の輪は、その名にある月も思わせた。達也は小箱を布で包み、ほかの贈り物とは別に懐へ入れた。
西門慶には、黒漆塗りの鞘に金具を施した日本刀を選んだ。鮫皮を巻いた柄には黒糸を掛け、鍔には波と昇る日の文様を彫ってある。鞘の金具も金で飾られていたが、見せるためだけの刀ではない。刃を抜けば、よく鍛えられた地鉄と刃文が現れた。
宋の人々が日本の刀を珍重したことは、出発前に調べてあった。海商の家に生まれたという達也の身の上にも合う。ただし、これほどの刀を19歳の若者が持っている理由は問われるだろう。その時の答えを考えながら刀袋へ収め、長い木箱に入れた。
当面の衣類や薬、書物、紙、墨、銅銭と少量の銀は別の箱へ移した。現代の容器や印刷物が見えないように包み、隙間を布で埋めた。3箱を縄で縛ると、最も重い箱を背負い、装飾品の箱を左手に、刀の箱を右手に持った。
洞窟を出る前に、車体を覆う布と入口の枝葉を確かめた。今回持ち出す品以外は、引き続きここへ隠しておくつもりだった。
◇ ◇ ◇
沢まで戻ると、下男たちは達也の姿を見て立ち上がった。
「すべてお1人で運ばれたのですか。すぐに下ろすのをお手伝いします」
「手に持っている箱は軽いので、背中の物だけ騾馬へ載せてください」
下男は背負った箱を受け取ろうとしたが、重さがかかると顔をしかめた。
「これを背負って山を下りられたのですか。よくお運びになれましたね」
「下り道でしたから、運びやすかったのです」
「上りでも、同じことをなさりそうです」
箱を騾馬へ載せ、3人は屋敷へ向かった。西門家の門が見えたころには、昼を過ぎていた。
門前には月娘だけでなく、玉楼、金蓮、嬌児、雪娥、瓶児まで並んでいた。達也は思わず足を止めた。
「皆様、どうして門の前へお集まりなのですか」
「あなたが昼までに戻らないからです」
月娘が答えると、玉楼が横から付け加えた。
「半刻ほどの遅れですが、奥様はその間に3度も門番へ尋ねておられました」
「玉楼。皆が門へ集まるから、何事かと見に来ただけです」
「私どもは贈り物を待っておりましたが、奥様は倉殿を待っておられたのですね」
金蓮にからかわれ、月娘はそちらを見た。達也は自分を待っていてくれたことがうれしく、笑顔を向けた。
「ご心配をおかけしました」
「無事なら、それでよいのです」
達也の顔を見てようやく安心した月娘の様子を、玉楼は見逃さなかった。
◇ ◇ ◇
西門慶の客間へ木箱が運ばれると、妻妾6人は卓を囲んだ。西門慶も上座から箱を眺め、使用人たちは何が出てくるのかと戸口の外へ集まっていた。
達也は最初に、長い木箱を西門慶の前へ置いた。
「昨夜からお世話になっているお礼です。父が海を渡る商いで手に入れ、僕へ残した品の1つです」
「妻を3人も助けていただいたうえに、贈り物まで受け取ることになるとは」
西門慶は笑っていたが、達也が蓋を開け、日本刀を両手で差し出すと表情を変えた。
「これは、倭の刀ではないか」
西門慶は慎重に受け取り、鞘や柄の金具を確かめた。少し刃を抜くと、客間へ差し込む光を受けて刃文が浮かんだ。
「すべて抜いて見てもよいか」
「はい。ただ、刃先を人へ向けないようお気をつけください。飾りではなく、よく切れる刀です。お望みでしたら、試してご覧に入れます」
西門慶が立ち上がって抜き放つと、妻妾たちも刀身をのぞいた。切れ味も見たいということになり、庭へ青竹が運ばれた。
達也は刀を借り、鞘を下男へ預けて竹の前に立った。西門慶と妻妾たちが縁側から見守る中、両手で柄を握り、一歩踏み込んで斜めに振り下ろした。
乾いた音がして、青竹の上半分が切り口からずれ落ちた。周りから声が上がる中、達也は刃を布でぬぐい、鞘へ戻した。
「刃は欠けにくいのですが、手入れを怠れば錆びます。使ったあとは、よくぬぐってください」
西門慶は刀を受け取り、改めて鞘から鍔まで眺めた。
「これほどの品を礼として受け取っては、湯と飯だけでは釣り合わぬ」
「では、これからしばらく置いていただく分も含めてください」
「この刀を受け取って数日で帰したら、私が人に笑われる。身元が整い、学へ入る道がつくまで、好きなだけいなさい」
「それでは、お礼をしたために、さらにお世話になることになります」
「商いとは、時にそういうものです。この刀は家の宝にしましょう」
西門慶は満足そうに笑い、達也は頭を下げた。
客間へ戻ると、今度は小さな箱を卓へ載せた。妻妾たちへの贈り物だと告げるや、金蓮が最初に選ぶと言い出した。
「皆様に似合うと思う物を、すでに選んであります」
達也はそう断ってから、雪娥へ銀の香盒を差し出した。蓋には梅の枝が彫られ、香木や香辛料を収められる品だった。
「厨房で何度も香りを確かめておられましたので、雪娥様にはこれがよいと思いました」
「料理の匂いばかり嗅いでいる女だと思ったのですか」
「おいしい物を作る方は、香りを大切にするのだと思ったのです」
雪娥は蓋を開け、内側まで銀で仕上げられていることを確かめた。それ以上は言い返さず手元へ置いたが、口元は緩んでいた。
瓶児には、小粒の真珠を連ねた首飾りを渡した。
「昨日から僕の傷を何度も心配してくださって、ありがとうございます。瓶児様には、こうした柔らかな色が似合うと思いました」
「覚えていてくださったのですね。大切にいたします」
瓶児は真珠に触れ、うれしそうに笑った。
嬌児には、瑠璃をはめた金の帯飾りを差し出した。
「衣服を見る目をお持ちですから、身につける場所はご自分で決めていただければと思います」
「私の衣服をご覧になっていたのですね」
「借り物の袖を見られていた時に、こちらからも見ていました」
嬌児は声を上げて笑い、さっそく帯飾りを腰へ当てた。
玉楼には、深い緑の翡翠を使った耳飾りを選んであった。達也は渡しながら、その理由を添えた。
「玉楼様は、人の話を聞く時に顔を少し傾けられます。その時に似合うと思いました」
「随分細かいところまでご覧になったのですね」
「僕のことも、よく見ておられるようでしたので」
玉楼は楽しそうに耳飾りを受け取った。
金蓮へ差し出したのは、金の枝の先に赤珊瑚の花を配した簪だった。箱の中でも、ひときわ華やかな品だった。
「私にこれを選んだ理由も、聞かせてください」
「6人の中で、最も目立つ品を喜ばれると思いました」
「私が欲深いとおっしゃるのですか」
「よく似合うと申したつもりです」
金蓮は簪を髪へ当て、侍女に鏡を持ってこさせた。
「それなら、本当に似合うかどうか、ご自分で確かめてください」
達也が困った顔になると、女たちは笑った。
卓には金糸と銀糸を編んだ腕輪が1つ残っていた。達也はそれを月娘へ差し出した。金と銀を交互に編み、留め金には小さな白玉を付けてある。華美ではないが、細工は精緻だった。
「ありがとうございます。大切にいたします」
月娘は腕輪を受け取り、手の上で眺めた。ほかの女たちと同じように、自分にも似合う品を選んでくれた。それだけで十分うれしかった。
ところが、達也はまだ座ったまま、何か言いたそうにしていた。月娘が目を向けると、懐から布に包んだ小箱を取り出した。
「もう1つ、お渡ししたい品があります。これは、3人を代表する正室へのお礼ではなく、僕から月娘様へ差し上げたい物です」
客間が静かになった。月娘は、すぐには手を伸ばさなかった。
「私だけが、もう1つ頂くわけにはいきません」
「値打ちで選んだのではありません。月娘様に似合うと思って、別にしました」
金蓮が身を乗り出した。
「奥様が受け取らないのでしたら、私が頂きます」
「あなたは、すでに簪を頂いたでしょう」
月娘は金蓮へ答えてから、小箱を受け取った。蓋を開くと白玉の簪が現れ、窓から入る光を受けて、輪の中の金の枝と1粒の真珠が輝いた。
「月のようですね」
瓶児がのぞき込み、玉楼は月娘の名に合わせたのだろうと口を添えた。達也は月娘を見た。
「白玉の月に、金の枝を渡してあります。派手な品ではありませんが、月娘様には、これが一番似合うと思いました」
「私には、派手な品が似合わないということですか」
「似合わないのではありません。月娘様は飾りがなくても――」
達也は慌てて説明しかけ、途中で言葉を止めた。玉楼と金蓮が、そこまで聞いたら続きを聞きたいとはやし立てた。達也の耳が赤くなり、月娘も頬が熱くなるのを感じた。
「倉殿。申しかけたことは、最後まで申しなさい」
「月娘様は、飾りがなくても美しい方です。ですから、大きな宝石より、控えめな品が似合うと思いました」
言い終えた達也は、客間から逃げ出したそうな顔をしていた。最初に笑ったのは西門慶だった。
「昨日より、女の扱いが上達したではありませんか」
「扱ったつもりはありません。思ったことを申し上げただけです」
「それで、そのようなことをおっしゃるなら、なお悪いですよ」
玉楼がからかい、金蓮は月娘だけが2つも贈られた理由が分かったと言った。嬌児まで、達也を屋敷へ連れ帰ったのは月娘だからと話に加わった。
月娘はたしなめようとしたが、白玉の簪を箱へ戻す気にはなれなかった。
「倉殿。この簪を、私の髪へ挿してください」
達也が目を見開くと、月娘は簪を差し出した。
「私に似合うと思って選んだのでしょう。ご自分で確かめなさい」
侍女が月娘の後ろへ回り、もともと挿していた簪を1本抜いた。達也は白玉の簪を受け取り、慎重に近づいた。髪に触れないよう気をつけるあまり、挿す角度が分からなくなり、手が止まった。
瓶児はもう少し上だと言い、嬌児は右へ寄っていると教えた。金蓮まで、後ろから抱えるようにすればよいのではないかと口を出した。
「金蓮。邪魔をしないでください」
月娘がたしなめると、達也の手はますます固くなった。侍女が代わろうとしたが、月娘は断った。
「この方に任せます。挿す場所だけ教えてあげなさい」
達也は息を整え、侍女が示した位置へ簪を通した。月娘のこめかみの後ろで真珠が揺れた。
「できました。思っていたより、よく似合います」
振り返った月娘を近くから見て、達也はそう告げた。
「それなら、頂きます」
月娘がほほ笑むと、山へ戻った苦労も、重い箱を運んだことも、すべて報われた気がした。
「奥様だけ、贈り物の渡し方まで違うのですね」
金蓮の不満そうな声に、月娘は笑顔のまま答えた。
「正室ですから」
「便利な言葉でございますね」
「あなたも、第5房という立場を便利に使っているでしょう」
女たちの笑いが客間に広がった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、西門家では2つの噂が広まった。下男たちは、若い客人が水桶を両手で運び、4人がかりのまな板まで担いだ話をした。侍女たちは、月娘が白玉の簪を贈られ、達也本人の手で髪へ挿してもらった話に夢中だった。
夕方までには、力仕事の話に「熊より重い丸太を持った」という尾ひれが付き、簪の話には「月娘が自分から頭を寄せた」という話が加わった。
達也はそんな噂を知らず、離れで書物と紙を卓へ並べていた。西門慶から借りた県内の地図も広げ、これから通う学や、保証人を探す商人の住まいを書き込もうとしていた。
戸をたたく音がして、声をかけると月娘が入ってきた。髪には、昼に贈った白玉の簪が挿されたままだった。
「まだ付けてくださっているのですね。うれしいです」
「頂いたその日に、外すこともないでしょう」
月娘は達也の明るくなった顔を見て、この顔を見るために簪を外さず来たのだと気づいた。
「旦那様が、明日の朝、登州から来た商人を呼ぶそうです。あなたの話を聞いたうえで、保証人になれる倉姓の家を知らないか尋ねるとおっしゃっていました」
「もう動いてくださったのですね。ありがたいことです」
「あの刀を頂いては、旦那様も急がないわけにはいきません」
「刀がなくても、動いてくださったと思います。月娘様のご主人ですから」
月娘は返事に詰まった。達也は人を疑うことを知らないわけではない。洞窟の場所を隠し、身の上も話す範囲を選んでいる。それでも、いったん恩を受けた相手には、まっすぐに信頼を返そうとする。その素直さは可愛かったが、誰にでも向けてよいものではなかった。
「倉殿。贈り物はうれしく頂きましたが、あれほどの品をむやみに人へ渡してはなりません。ほかにも高価な物を持っていると考えて、あなたの荷を探ろうとする者が現れます」
達也は顔を引き締め、気をつけると答えた。月娘は卓のそばへ進み、念を押した。
「私たち以外には、持っている物を見せないことです。売る時も、先に旦那様か私へ相談なさい。洞窟へ戻る時も、1人で決めずに話してください」
「月娘様に事情をお話ししてから、出かけるようにいたします。それなら、よろしいでしょうか」
「理由を聞いてから決めます。あなたは隠そうとする割に、持っている物を惜しげもなく出してしまうのですから」
月娘はそう言って、卓に並ぶ書物へ目を落とした。経書と文章の手本に加え、清河県の地理を書いた古い写本もあった。科挙を受けたいという言葉が、その場しのぎではなかったことが分かった。
「今夜も勉強するつもりなのですね。朝は力仕事をし、昼は山へ行ってきたのですから、少し休んではどうですか」
「早く学へ入れるようになりたいのです。少し読むくらいなら大丈夫です」
月娘は、達也の前から硯を取り上げた。
「夕食までは休みなさい。傷が治ったからといって、身体を休めなくてよいわけではありません」
「まだ明るいので、もう少しだけ……」
「私の言うことは聞けないのですか」
達也は月娘と硯を交互に見てから、休むと答えた。
「よくできました」
前夜と同じ言葉に、達也はまた耳を赤くした。月娘は白玉の簪へ指を触れた。この若者を守り、学へ入れるまで世話をするのは、命を救われた正室の務めだと思った。そう考えれば、離れへ足を運ぶ理由はいくらでもあった。
達也は寝台に座り、硯を持って出ていく月娘を見送った。贈り物を喜んでもらえたうえに、簪を外さずにいてくれる。それがうれしく、満足して横になった。
母屋へ戻る月娘の後ろには、廊下の角から5人の妻妾が次々に現れた。玉楼が、客人に硯を借りに行ったのかと尋ねた。
「休ませるために、夕食まで預かったのです」
「それなら、あとで私が返してまいります」
瓶児が申し出ると、金蓮が月娘の髪を見た。
「本当は、簪を見せに行ったのではありませんか」
「旦那様からの伝言を届けに行ったのです」
「伝言だけにしては、随分時間がかかりましたね」
嬌児まで加わったので、月娘は5人を振り返った。
「皆、夕食の支度は済んだのですか」
雪娥が何も言わず厨房へ戻ると、残る4人もそれぞれ用事を思い出したように母屋へ散っていった。
月娘は硯を抱え、自分の部屋へ向かった。歩くたびに、白玉の輪の下で真珠が揺れた。達也が自分を思い浮かべて選んだ品だと思うと、外す気にはなれなかった。




