第4話(前編2)――「贈り物の朝」
1116年10月、北宋・東平府清河県。
山中で熊に襲われていた呉月娘たちを救った倉達也は、西門慶の屋敷へ迎えられた。
達也は経書を学んできたことを認められ、科挙を受けるための身元と保証人が整うまで、西門家の離れで暮らすことになった。
月娘は、熊を倒すほど強いのに、女を前にするとすぐ耳を赤くする達也を、可愛く感じ始めている。
達也もまた、自分を気遣ってくれる月娘に心をひかれていた。
1116年10月、北宋・東平府清河県。
山中で熊に襲われていた呉月娘たちを救った倉達也は、西門慶の屋敷へ迎えられた。
達也は経書を学んできたことを認められ、科挙を受けるための身元と保証人が整うまで、西門家の離れで暮らすことになった。
月娘は、熊を倒すほど強いのに、女を前にするとすぐ耳を赤くする達也を、可愛く感じ始めている。
達也もまた、自分を気遣ってくれる月娘に心をひかれていた。
本文
(1116年10月、北宋・東平府清河県・西門家)
翌朝、達也は鐘も鶏の声も聞かないうちに目を覚ました。
離れの窓はまだ暗い。枕元へ置いた懐中時計は、午前5時を指していた。
達也は寝台の上で身体を起こし、左腕を回した。前夜は皮膚が引きつるたびに痛んだが、今朝は何も感じない。布を外してみると、熊の爪がかすめた傷は閉じ、赤い線が薄く残っているだけであった。
右脚の切り傷も同じである。
19歳に戻った身体の回復が早いことは、清国にいたころから分かっていた。それでも、血を流した翌朝にここまで治るとは思わなかった。
達也は立ち上がり、膝を曲げてみた。痛みはない。片脚で身体を支えても、傷口は開かなかった。
「これなら動ける」
月娘は朝になれば傷を見に来ると言っていた。
寝台で待っていれば、月娘が布を解き、腕や脚へ手を触れることになる。その光景を思い浮かべた途端、達也は昨夜の浴室を思い出した。
暗い部屋の中で耳が熱くなった。
達也は急いで衣服を着た。
◇ ◇ ◇
母屋の裏へ回ると、厨房の周りでは、すでに朝の支度が始まっていた。
下男が井戸から水をくみ、侍女が薪を運び、厨房では孫雪娥が粥の鍋と蒸籠を見ている。庭の隅には、昨日運び込んだ熊の骨と肉を入れた桶が並んでいた。
達也は、2個の水桶を担ごうとしている年配の下男へ声をかけた。
「それを運びます」
「倉様、そのようなことをなさっては困ります」
「僕は客として寝ているより、身体を動かした方が楽なのです」
「ですが、奥様から、傷を負った客人に仕事をさせてはならぬと――」
下男が言い終える前に、達也は水桶を左右の手で一つずつ持ち上げた。
天秤棒を使わず、そのまま厨房まで運ぶ。
井戸端にいた者たちが手を止めた。
「どこへ置きますか」
雪娥は一瞬答えるのを忘れ、かまどの横を指した。
「そちらです。ですが、その桶は二つで――」
「まだ運びます」
達也は井戸へ戻った。
水を6桶運んだあとは、薪の束を抱えた。下男が2人で運ぶ太い丸太も肩へ載せ、薪割り場まで運んだ。斧を借りると、乾いた木を次々に割っていく。
清国にいたころ、達也は毎朝、走り込みと筋力鍛錬を欠かさなかった。北宋へ渡る前には、25キログラムの背負い袋を担いで斜面を歩き、重い荷を持ったまま身体を守る訓練も続けている。
薪を運ぶ程度では、息も乱れなかった。
やがて、昨日の熊を処理するため、大きなまな板を動かすことになった。4人の下男が四隅を持とうとしたが、達也は中央へ手をかけた。
「行く場所を教えてください」
腰まである厚い板を持ち上げ、1人で庭の反対側へ運んだ。
下男たちは、その後ろを空手でついていった。
「倉様、それでは私どもの仕事がなくなります」
若い下男が困った顔で言った。
「朝食までには戻します」
「仕事は、借りて返すものではございません」
周りで笑いが起きた。
達也は、ようやく自分が働きすぎたことに気づいた。
「では、何をすれば邪魔になりませんか」
「客人は、離れでお待ちになるのが一番邪魔になりません」と雪娥。
「何もせずに待つのは苦手です」
「それなら、そこの胡麻をすってください。腕の傷が痛んだら、すぐにやめるのですよ」
達也は石臼の前へ座った。
力任せに回すと胡麻が外へ飛びそうになり、雪娥に手首を押さえられた。
「早ければよいものではありません。ゆっくり回して、潰してください」
「分かりました」
熊を倒し、大きなまな板を運んだ男が、雪娥の言いつけどおり、石臼をそろそろと回し始める。
侍女たちは笑いをこらえながら、膳を整えた。
◇ ◇ ◇
月娘が離れへ着いた時、寝台は空であった。
掛け物は畳まれ、卓の上も整っている。達也の姿だけがない。
月娘は、離れの前を掃いていた侍女へ尋ねた。
「倉殿はどこへ行ったのです」
「夜明け前に、母屋の方へ歩いていかれました」
「傷を負った身体で、何をしているのでしょう」
厨房へ向かうにつれ、笑い声と石臼の音が聞こえてきた。
戸口から中を見ると、達也が床へ座り、真剣な顔で胡麻をすっていた。その周りでは侍女たちが膳を運び、雪娥が鍋の味を見ている。
「倉殿」
月娘が呼ぶと、達也は石臼から手を離した。
「おはようございます」
「私は、離れで傷を見ると申しましたね」
「傷なら治りました」
「一晩で治るはずがありません」
月娘は達也の前へ座り、左の袖をまくり上げた。
白い布を解くと、昨日まで開いていた傷が塞がっている。腫れも熱もない。指で周りを押しても、達也は顔をしかめなかった。
「痛くありませんか」
「何も感じません」
「右脚も見せてください」
達也が下衣を膝まで上げると、こちらも傷は薄い線になっていた。
月娘は驚いたあと、達也の腕をつまんだ。
「それでも、朝から力仕事をする方がありますか」
「身体を動かすのは毎朝の習慣です」
「水を6桶運び、薪を割り、まな板まで担ぐのが習慣なのですか」
達也は、早くもすべて知られていることに気づいた。
「役に立ちたかったのです」
叱られると思ったのか、目を伏せて答える。
月娘は、その顔を見ると、強い言葉を続けられなくなった。
「あなたは客人です。働かなければ食事を出さないとは、誰も申しません」
「皆が働いているのに、僕だけ寝ているのは落ち着きません」
「では、今後は先に私へ申しなさい。勝手に傷を開けば、また私が手当てをしなければなりません」
「月娘様が手当てしてくださるのなら――」
達也はそこまで言って、口を閉じた。
「何です」
「何でもありません」
耳が赤くなっている。
月娘は笑みを隠せなかった。
「もう少し傷が残っていた方がよかったとでも申すのですか」
「そのような意味ではありません」
「では、どのような意味です」
「胡麻をすり終えてもよろしいでしょうか」
達也は逃げるように石臼へ手を伸ばした。
「もう十分です」と雪娥。
石臼の中では、胡麻が滑らかな油状になっていた。
達也は行き場をなくした手を膝へ戻した。
侍女たちが一斉に笑った。
月娘は達也の袖を下ろし、布を巻かずに整えた。
「治ったことは喜ばしいのです。次からは、私が確かめるまで待っていなさい」
「はい」
素直にうなずく達也を見て、月娘はまた可愛いと思った。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、達也が働いた話が、浴室の話より速く広がっていた。
「今朝は水桶を左右に一つずつ持って歩かれたそうですね」と李瓶児。
「はい」
「まな板も1人で運んだとか」と李嬌児。
「皆さんが忙しそうでしたので」
「では、明日は私の部屋の長持を動かしてください」と潘金蓮。
「金蓮。客人を下男の代わりにしてはなりません」と月娘。
「奥様は厨房で働かせておいて、私には貸してくださらないのですか」
「私が働かせたのではありません。止めに行ったのです」
「止めたあと、随分長く厨房におられましたね」と孟玉楼。
「傷を見ていたのです」
「傷は治っていたのでしょう」と嬌児。
月娘は返事をせず、粥の椀を達也の前へ置いた。
「働いた分、しっかり食べなさい」
「はい」
達也がうれしそうに匙を取ると、玉楼と金蓮が顔を見合わせた。
西門慶は焼餅をちぎりながら、達也へ尋ねた。
「今日は、どうするつもりです」
「山へ置いた荷を取りに戻りたいと考えております」
「人を出しましょう。馬も使えばよい」
「場所を知られたくない品もあります。途中まで下男の方に来ていただき、そこで待ってもらえれば助かります」
西門慶の目に、商人らしい光が浮かんだ。
「高価な品ですか」
「僕にとって大切な品です」
「分かりました。場所は尋ねません。2人付けましょう」
金蓮がすぐに口を挟んだ。
「私も山へ参ります」
「何をしに行くのです」と月娘。
「昨日の熊が、本当にもういないか確かめます」
「熊を確かめに行く者が、なぜそのようにうれしそうなのです」
「倉殿の荷がどれほど大切か、私も守らなければなりません」
「金蓮様に知られないよう、守りたいのです」と達也。
西門慶が笑い、玉楼も袖で口元を隠した。
「倉殿も、少しは女の扱いを覚えたようですね」と玉楼。
「正直に答えただけです」
金蓮は唇を尖らせた。
「では、戻ったら最初に私へ見せてください」
「それもできません」
「なぜです」
「皆様に見ていただく物ですから、1人だけ先には見せられません」
6人の女が同時に達也を見た。
達也は、口にしてから余計なことを漏らしたと気づいた。
「私たちに見せる物とは何でしょう」と瓶児。
「戻ってからのお楽しみにしてください」
「奥様にも内緒ですか」と嬌児。
達也は月娘を見た。
「はい。月娘様にも、まだ内緒です」
月娘は、達也が自分へ何を見せようとしているのか気になった。しかし、正室が妻妾と並んで催促するわけにはいかない。
「山道に気をつけて、昼までには戻りなさい」
「分かりました」
達也は答えたが、月娘の顔を見て、すぐに言い直した。
「戻れるようにいたします」
「それでよろしい」
◇ ◇ ◇
達也は下男2人を連れ、昨日下ってきた山道を戻った。
荷を載せるための騾馬が1頭いる。達也は何度も後ろを振り返り、人につけられていないことを確かめた。
洞窟へ続く沢の手前まで来ると、下男たちを止めた。
「ここで待っていてください。1人で運べない物だけ、ここから頼みます」
「倉様。熊が出た山へ、1人で入るのですか」
「熊が出れば、今度は肉をすべてお渡しします」
「肉の心配ではございません」
「大丈夫です。長くても半刻ほどです」
達也は木々の間へ入り、沢を上った。
洞窟の入口に異常はなかった。枝葉の隙間から内部を確かめ、10トン車へ近づく。
扉を開けると、見慣れた車内の匂いがした。
達也は持ち込んだ品々を、北宋へ渡る前から用途別に分けていた。自分が生活する物、売って資金に換える物、協力を得た相手へ贈る物である。
西門家の世話になるとは予想していなかったが、恩を受けた時に何も返せない事態には備えていた。
達也は、外から見ても不自然でない木箱を荷台から下ろした。
最初の箱には、女へ贈る装飾品を入れる。
赤珊瑚を飾った金の簪、翡翠の耳飾り、真珠を連ねた首飾り、金糸と銀糸の腕輪、瑠璃をはめた帯飾り、銀の香盒を一つずつ選んだ。いずれも北宋に存在する素材と技法で作らせ、留め金や継ぎ目にも後世の品と分かるものは使っていない。
6人へ同じ品を渡せば、値打ちを比べられることはない。しかし、達也は食卓で見た顔を思い出しながら、それぞれに似合う品を選んだ。
最後に、月娘のために用意していた小箱を開いた。
中には、白玉を削った簪が収められている。
飾りは大きくない。白玉の輪の内側に、金で作った小さな月桂の枝を渡し、その下へ真珠を一粒だけ下げてある。動けば真珠がわずかに揺れるが、派手な音は立てない。
華やかさだけなら、ほかに高価な品はいくらでもあった。
だが、家の中を静かに見渡し、声を荒らげずに人を動かす月娘には、これが最も似合うと達也は思った。
白玉には傷も曇りもない。月娘の名にある月を思わせた。
達也は小箱を布で包み、ほかの5人の品とは別に懐へ入れた。
西門慶には、黒漆塗りの鞘へ金具を施した日本刀を選んだ。
鮫皮を巻いた柄に黒糸を掛け、鍔には波と昇る日の文様が彫られている。鞘の金具も金で飾られているが、見せるだけの刀ではない。刃を抜けば、よく鍛えられた地鉄と刃文が現れる。
宋の人々が海の向こうから来た日本の刀を珍重したことは、出発前に調べてあった。海商の家に生まれたという達也の身の上にも合う。
ただし、これほどの刀を19歳の若者が持っている理由は問われるだろう。
達也は、答えも用意していた。
刀袋へ収め、長い木箱へ入れる。
さらに、当面の衣類、薬、書物、紙、墨、銅銭と少量の銀を別の箱へ移した。現代の容器や印刷物は見えないようにし、木箱の隙間を布で埋める。
3箱を縄で縛り、最も重い箱を背負った。装飾品の箱を左手に持ち、右手には刀の箱を抱える。
洞窟を出る前に、車体を覆う布と入口をもう一度確かめた。
秘密は、まだ山の中に残っていた。
◇ ◇ ◇
沢まで戻ると、下男たちは達也の姿を見て立ち上がった。
「お1人で、すべて運ばれたのですか」
「小さい箱は軽いのです。重い物だけ騾馬に載せてください」
下男が背中の箱を受け取ろうとしたが、持ち上げた途端に顔をしかめた。
「これを背負って、山を下りてこられたのですか」
「下り道でしたから」
「上りでも同じことをなさりそうです」
箱を騾馬へ載せ、3人は屋敷へ戻った。
昼を過ぎたころ、西門家の門が見えた。
門前には、月娘だけでなく、玉楼、金蓮、嬌児、雪娥、瓶児まで並んでいた。
「皆様で、門を見に来たのですか」
達也が尋ねた。
「あなたが昼までに戻らないからです」と月娘。
「半刻ほど遅れただけです」
「奥様は、その半刻の間に3度も門番へ尋ねました」と玉楼。
「玉楼」
「私どもは贈り物を待っておりましたが、奥様は倉殿を待っておられました」と金蓮。
月娘が金蓮を見た。
「皆が門へ集まるから、何事かと見に来ただけです」
「それで3度も尋ねたのですね」と嬌児。
達也は、自分を待っていてくれた月娘へ笑顔を向けた。
「ご心配をおかけしました」
「無事なら、それでよいのです」
月娘はそう答えたが、達也の顔を見た途端に力が抜けたことを、玉楼は見逃さなかった。
◇ ◇ ◇
西門慶の客間へ木箱が運ばれた。
妻妾6人は卓を囲み、西門慶は上座から箱を眺めている。使用人たちも、何が出てくるのか気になり、戸口の外へ集まっていた。
達也は最初に、長い木箱を西門慶の前へ置いた。
「妻を3人も助けていただいたうえに、何をくださるのです」
「昨夜から世話になっております。そのお礼です。父が海を渡る商いで手に入れ、僕へ残した品の一つです」
達也は蓋を開け、日本刀を両手で差し出した。
西門慶の笑みが消えた。
「倭の刀か」
「はい」
西門慶は慎重に受け取り、鞘や柄の金具を見た。少しだけ刃を抜いた瞬間、客間へ差し込む光が刃文の上を走った。
「すべて抜いてもよいか」
「人へ刃先を向けなければ、構いません」
西門慶は立ち上がり、刃を上へ向けて抜いた。
「これは飾りではないな」
「よく切れます。試されますか」
庭へ青竹が運ばれた。
達也は刀を借り、竹の前へ立った。西門慶も妻妾たちも、縁側から見ている。
達也は鞘を下男へ預け、両手で柄を握った。
一歩踏み込み、斜めに振り下ろす。
乾いた音が一つした。
青竹の上半分はすぐには動かなかった。遅れて切り口がずれ、地面へ落ちた。
周りから声が上がった。
達也は刃を布でぬぐい、鞘へ戻した。
「刃が欠けにくく、よく切れます。ただし、手入れを怠れば錆びます」
西門慶は刀を受け取ると、もう一度鞘から鍔まで眺めた。
「これを礼として受け取れば、湯と飯だけでは釣り合わぬ」
「では、しばらく置いていただく分も含めてください」
「この刀を受け取って、数日で出ていかれては、私が人から笑われる。身元が整い、学へ入る道がつくまで、好きなだけいなさい」
「それでは、刀を渡したために、さらに世話になることになります」
「商いとは、時にそういうものです」
西門慶は満足そうに笑った。
「倉殿。この刀は、家の宝にしましょう」
達也は頭を下げた。
次に、小さな箱を卓へ載せた。
「こちらは、皆様へ」
「私が最初に選びます」と金蓮。
「選ばなくても、決めてあります」
達也は、雪娥へ銀の香盒を差し出した。蓋には梅の枝が彫られ、香木や香辛料を入れられる。
「厨房で何度も香りを確かめておられましたので、雪娥様にはこれがよいと思いました」
雪娥は蓋を開き、内側まで銀で仕上げられていることを確かめた。
「料理の匂いばかり嗅いでいる女だと思ったのですか」
「おいしい物を作る方は、香りを大切にするのだと思いました」
雪娥は言い返さず、香盒を手元へ置いた。口元は緩んでいる。
瓶児には、小粒の真珠を連ねた首飾りを渡した。
「瓶児様は、昨日から僕の傷を何度も心配してくださいました。柔らかな色の方が似合うと思います」
「覚えていてくださったのですね」
瓶児は真珠へ触れ、うれしそうに笑った。
嬌児には、瑠璃をはめた金の帯飾りを選んだ。
「衣服を見る目をお持ちですから、身につける場所をご自分で決めていただけます」
「私の衣服を見ていたのですか」
「借り物の袖を見られていた時に、こちらからも見ていました」
嬌児は声を上げて笑い、帯飾りを腰へ当てた。
玉楼には、深い緑の翡翠を使った耳飾りを渡した。
「玉楼様は、人の話を聞く時に顔を少し傾けます。その時に似合うと思いました」
「まあ。随分細かいところまでご覧になったのですね」
「観察されていると分かりましたので、僕も見ておりました」
玉楼は楽しそうに耳飾りを受け取った。
金蓮には、赤珊瑚の簪を差し出した。
金の枝の先に赤珊瑚の花を配した、ひときわ華やかな品である。
「私には、なぜこれを選んだのです」
「6人の中で、最も目立つ品を欲しがられると思いました」
「私が欲深いと申すのですか」
「似合うと申したのです」
金蓮は簪を髪へ当て、鏡を持ってこさせた。
「では、似合うかどうか、ご自分で確かめてください」
達也が困った顔になると、女たちは笑った。
卓の上には、金糸と銀糸を編んだ腕輪が一つ残っていた。
達也はそれを手に取り、月娘へ差し出した。
「月娘様には、こちらを」
月娘は腕輪を受け取った。
金と銀を交互に編み、留め金へ小さな白玉を付けた品である。華美ではないが、細工は精緻であった。
「ありがとうございます。大切にいたします」
月娘は穏やかに答えた。
ほかの女たちと同じように、自分にも似合う品を選んでくれた。それだけで十分うれしかった。
しかし、達也は座ったまま動かない。
「まだ、何かあるのですか」
達也は懐から、布に包んだ小箱を取り出した。
「これは、3人を代表する正室への礼ではありません。僕から月娘様へ、お渡ししたい品です」
客間が静かになった。
月娘はすぐには手を伸ばさなかった。
「私だけが、もう一つ頂くわけにはいきません」
「値打ちで選んだものではありません。月娘様に似合うと思って、別にしました」
金蓮が身を乗り出した。
「奥様。受け取らなければ、私がいただきます」
「あなたは、すでに簪を頂いたでしょう」
月娘は金蓮へ答えてから、小箱を受け取った。
蓋を開くと、白玉の簪が現れた。
窓から入る光を受け、輪の中の金の枝と、一粒の真珠が柔らかく輝いた。
「月のようですね」と瓶児。
「奥様のお名前に合わせたのでしょう」と玉楼。
達也は月娘を見た。
「白玉の月に、金の枝を渡してあります。派手な品ではありませんが、月娘様には、これが一番似合うと思いました」
「なぜ、私には派手な品が似合わないのです」
月娘が尋ねると、達也は慌てた。
「似合わないのではありません。月娘様は飾りがなくても――」
そこまで言い、達也は言葉を止めた。
「なくても、何です」と玉楼。
「最後まで聞きたいものですね」と金蓮。
達也の耳が赤くなった。
月娘も、自分の頬が熱くなるのを感じた。
「倉殿。申しかけたことは、最後まで申しなさい」
「月娘様は、飾りがなくても美しい方です。ですから、大きな宝石より、静かな品が似合うと思いました」
言い終えた達也は、客間から逃げ出したい顔をしていた。
西門慶が最初に笑い出した。
「倉殿。昨日より女の扱いが上達したではありませんか」
「扱ったつもりはありません」
「それで、そのようなことを申すのなら、なお悪い」と玉楼。
「奥様だけ、二つも頂いた理由が分かりました」と金蓮。
「私たちを熊から守ったのは倉殿ですが、倉殿を屋敷へ連れ帰ったのは奥様ですからね」と嬌児。
月娘は妻妾たちをたしなめようとした。
だが、白玉の簪を箱へ戻す気にはなれなかった。
「倉殿」
「はい」
「髪へ挿してください」
達也は目を見開いた。
「僕が、ですか」
「私に似合うと思って選んだのでしょう。ご自分で確かめなさい」
侍女が月娘の後ろへ回り、もともと挿していた簪を1本抜いた。
達也は白玉の簪を受け取った。
熊へ向かう時より慎重な足取りで月娘へ近づく。髪へ触れないようにしながら簪を挿そうとしたが、角度が分からず手が止まった。
「もう少し上です」と瓶児。
「右へ寄っています」と嬌児。
「いっそ、奥様の後ろから抱えるようにすればよろしいのでは」と金蓮。
「金蓮」
月娘がたしなめると、達也の手がさらに固くなった。
「私がいたします」と侍女。
「いいえ。この方に任せます」
月娘は動かなかった。
達也は息を整え、侍女に示された位置へ簪を通した。
真珠が、月娘のこめかみの後ろで小さく揺れた。
「できました」
月娘が振り返る。
「似合いますか」
達也は近いところから月娘の顔を見た。
「はい。思っていたより、よく似合います」
「それなら、頂きます」
月娘はほほ笑んだ。
その笑顔を見た達也は、苦労して山へ戻ったことも、重い箱を運んだことも、すべて報われたと思った。
金蓮が小さく息をついた。
「奥様だけ、贈り物の渡し方まで違います」
「正室ですから」と月娘。
「便利な言葉でございますね」
「あなたも、第5房という立場を便利に使っているでしょう」
女たちの笑いが客間へ広がった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、西門家では二つの噂が広まった。
一つは、若い客人が水桶を両手で運び、4人がかりのまな板を1人で担いだという話である。
もう一つは、月娘が達也から白玉の簪を贈られ、本人の手で髪へ挿してもらったという話であった。
下男たちは力仕事の話をし、侍女たちは簪の話をした。
夕方までに、前者には「熊より重い丸太を持った」という尾ひれが付き、後者には「月娘が自分から頭を寄せた」という話が加わった。
達也は離れで、洞窟から持ち帰った書物と紙を卓へ並べていた。
西門慶から借りた県内の地図も広げ、これから通う学と、保証人を探す商人の住まいを書き込もうとしている。
戸をたたく音がした。
「どうぞ」
月娘が入ってきた。
髪には、昼に贈った白玉の簪が挿されたままである。
「まだ、付けてくださっているのですね」
「頂いたその日に外せと申すのですか」
「いいえ。うれしいです」
達也の顔が明るくなった。
月娘は、その顔を見るために簪を外さずに来たのだと、自分で気づいた。
「旦那様が、明日の朝、登州から来た商人を呼ぶそうです。あなたの話を聞き、保証人となれる倉姓の家を知っているか尋ねます」
「もう、動いてくださったのですか」
「あの刀を頂いては、旦那様も急がないわけにはいきません」
「刀がなくても、動いてくださったと思います」
「なぜ、そう思うのです」
「月娘様のご主人だからです」
月娘は答えに詰まった。
達也は人を疑うことを知らないわけではない。洞窟の場所を隠し、身の上についても話す範囲を選んでいる。それでも、一度恩を受けた相手には、まっすぐな信頼を返そうとする。
その素直さを、月娘は可愛いと思った。同時に、誰にでも向けさせてはならないとも思った。
「倉殿。贈り物は、むやみに人へ渡してはなりません」
「気に入りませんでしたか」
「その逆です。あれほどの品を差し出せば、あなたの荷を探ろうとする者が現れます」
「気をつけます」
「私たち以外には、持っている物を見せないことです。売る時も、先に旦那様か私へ相談なさい」
「分かりました」
「それから、洞窟へ戻る時も、1人で決めてはなりません」
「月娘様へ申し上げれば、行ってもよいのですか」
「理由を聞いてから決めます」
「厳しいですね」
「あなたが隠し事に慣れていないからです」
月娘は卓の横へ立ち、達也が持ち帰った書物を見た。
経書、文章の手本、清河県の地理を書いた古い写本が並んでいる。科挙を受けたいという話が、その場しのぎの言葉ではなかったことが分かる。
「今夜も勉強するのですか」
「はい。早く学へ入れるようになりたいのです」
「朝は力仕事をし、昼は山へ行き、夜は書物を読む。身体が治っても、倒れてしまいますよ」
「少しくらいなら大丈夫です」
月娘は、達也の前から硯を取り上げた。
「今夜は、夕食まで休みなさい」
「まだ明るいのですが」
「私の言うことは聞けないのですか」
達也は月娘と硯を交互に見た。
「分かりました」
「よくできました」
月娘が前夜と同じ言葉を返すと、達也はまた耳を赤くした。
月娘は白玉の簪へ指を触れた。
この若者を守り、学へ入れるまで世話をする。それは命を救われた正室の務めである。
そう考えれば、離れへ足を運ぶ理由はいくらでも作れた。
達也は寝台へ座り、月娘が硯を持って離れを出るのを見送った。
贈り物を喜んでもらえた。しかも、月娘は夕食まで外すつもりがないらしい。
達也は満足して横になった。
母屋へ戻る月娘の後ろには、廊下の角から5人の妻妾が次々に現れた。
「奥様。客人へ硯を借りに行かれたのですか」と玉楼。
「休ませるために預かったのです」
「それなら、私が返してまいります」と瓶児。
「夕食まで預かります」
「簪を見せに行ったのではありませんか」と金蓮。
「用件は、旦那様からの伝言です」
「伝言を届けるだけで、随分時間がかかりましたね」と嬌児。
月娘は5人を振り返った。
「皆、夕食の支度は済んだのですか」
雪娥だけが、何も言わず厨房へ戻った。
残る4人も、それぞれもっともらしい用事を思い出し、母屋へ散っていく。
月娘は硯を抱えたまま、自分の部屋へ向かった。
歩くたびに、白玉の輪の下で真珠が揺れる。
達也が自分を思い浮かべて選んだ品である。
そのことを考えると、外す理由は見つからなかった。
第4話前編2では、西門家で迎えた最初の朝、達也の傷が一晩でほとんど治った。
清国にいたころから毎朝の鍛錬を続けてきた達也は、朝食の準備を手伝い、水桶、薪、大きなまな板まで運んだ。最後には雪娥から胡麻すりを任されたが、ここでも力を入れすぎて注意されている。
達也は山中の洞窟へ戻った。ただし、同行した下男を沢の手前で待たせ、10トン車と洞窟の場所は見せていない。
洞窟からは、自分の衣類、薬、書物、紙、墨、銅銭、銀のほか、西門家への贈り物を持ち出した。
西門慶へ贈ったのは、黒漆の鞘と金具を備えた豪華な日本刀である。宋代の中国でも日本の刀は珍重されており、西門慶は家の宝にすると喜んだ。
妻妾6人には、それぞれの性格や姿に合わせ、香盒、真珠の首飾り、帯飾り、翡翠の耳飾り、赤珊瑚の簪、金銀の腕輪を贈った。
月娘だけには、さらに白玉の月へ金の枝と一粒の真珠を添えた簪を渡した。達也は、月娘を思い浮かべて特別に選んだと明かし、自らその髪へ挿している。
月娘は、簪を贈られたその日から、達也が持つ品を他人に狙われないよう守り、洞窟へ戻る時にも相談させようと考え始めた。
正室として客人を守るためである。
もっとも、達也の喜ぶ顔を見るため、簪を外さず離れへ足を運んだことまで、正室の務めとは言えなかった。




