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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第4話(前編2)――「贈り物の朝」

 1116年10月、北宋・東平府(ドンピンフ)清河県(チンホーシエン)


 山中で熊に襲われていた呉月娘(ウー・ユエニャン)たちを救った倉達也(ツァン・ダーイエ)は、西門慶(シーメン・チン)の屋敷へ迎えられた。


 達也は経書を学んできたことを認められ、科挙を受けるための身元と保証人が整うまで、西門家の離れで暮らすことになった。


 月娘は、熊を倒すほど強いのに、女を前にするとすぐ耳を赤くする達也を、可愛く感じ始めている。


 達也もまた、自分を気遣ってくれる月娘に心をひかれていた。

 1116年10月、北宋・東平府(ドンピンフ)清河県(チンホーシエン)


 山中で熊に襲われていた呉月娘(ウー・ユエニャン)たちを救った倉達也(ツァン・ダーイエ)は、西門慶(シーメン・チン)の屋敷へ迎えられた。


 達也は経書を学んできたことを認められ、科挙を受けるための身元と保証人が整うまで、西門家の離れで暮らすことになった。


 月娘は、熊を倒すほど強いのに、女を前にするとすぐ耳を赤くする達也を、可愛く感じ始めている。


 達也もまた、自分を気遣ってくれる月娘に心をひかれていた。


本文


 (1116年10月、北宋・東平府(ドンピンフ)清河県(チンホーシエン)・西門家)


 翌朝、達也は鐘も鶏の声も聞かないうちに目を覚ました。


 離れの窓はまだ暗い。枕元へ置いた懐中時計は、午前5時を指していた。


 達也は寝台の上で身体を起こし、左腕を回した。前夜は皮膚が引きつるたびに痛んだが、今朝は何も感じない。布を外してみると、熊の爪がかすめた傷は閉じ、赤い線が薄く残っているだけであった。


 右脚の切り傷も同じである。


 19歳に戻った身体の回復が早いことは、清国にいたころから分かっていた。それでも、血を流した翌朝にここまで治るとは思わなかった。


 達也は立ち上がり、膝を曲げてみた。痛みはない。片脚で身体を支えても、傷口は開かなかった。


「これなら動ける」


 月娘は朝になれば傷を見に来ると言っていた。


 寝台で待っていれば、月娘が布を解き、腕や脚へ手を触れることになる。その光景を思い浮かべた途端、達也は昨夜の浴室を思い出した。


 暗い部屋の中で耳が熱くなった。


 達也は急いで衣服を着た。


 ◇ ◇ ◇


 母屋の裏へ回ると、厨房の周りでは、すでに朝の支度が始まっていた。


 下男が井戸から水をくみ、侍女が薪を運び、厨房では孫雪娥(スン・シュエオー)が粥の鍋と蒸籠を見ている。庭の隅には、昨日運び込んだ熊の骨と肉を入れた桶が並んでいた。


 達也は、2個の水桶を担ごうとしている年配の下男へ声をかけた。


「それを運びます」


「倉様、そのようなことをなさっては困ります」


「僕は客として寝ているより、身体を動かした方が楽なのです」


「ですが、奥様から、傷を負った客人に仕事をさせてはならぬと――」


 下男が言い終える前に、達也は水桶を左右の手で一つずつ持ち上げた。


 天秤棒を使わず、そのまま厨房まで運ぶ。


 井戸端にいた者たちが手を止めた。


「どこへ置きますか」


 雪娥は一瞬答えるのを忘れ、かまどの横を指した。


「そちらです。ですが、その桶は二つで――」


「まだ運びます」


 達也は井戸へ戻った。


 水を6桶運んだあとは、薪の束を抱えた。下男が2人で運ぶ太い丸太も肩へ載せ、薪割り場まで運んだ。斧を借りると、乾いた木を次々に割っていく。


 清国にいたころ、達也は毎朝、走り込みと筋力鍛錬を欠かさなかった。北宋へ渡る前には、25キログラムの背負い袋を担いで斜面を歩き、重い荷を持ったまま身体を守る訓練も続けている。


 薪を運ぶ程度では、息も乱れなかった。


 やがて、昨日の熊を処理するため、大きなまな板を動かすことになった。4人の下男が四隅を持とうとしたが、達也は中央へ手をかけた。


「行く場所を教えてください」


 腰まである厚い板を持ち上げ、1人で庭の反対側へ運んだ。


 下男たちは、その後ろを空手でついていった。


「倉様、それでは私どもの仕事がなくなります」


 若い下男が困った顔で言った。


「朝食までには戻します」


「仕事は、借りて返すものではございません」


 周りで笑いが起きた。


 達也は、ようやく自分が働きすぎたことに気づいた。


「では、何をすれば邪魔になりませんか」


「客人は、離れでお待ちになるのが一番邪魔になりません」と雪娥。


「何もせずに待つのは苦手です」


「それなら、そこの胡麻をすってください。腕の傷が痛んだら、すぐにやめるのですよ」


 達也は石臼の前へ座った。


 力任せに回すと胡麻が外へ飛びそうになり、雪娥に手首を押さえられた。


「早ければよいものではありません。ゆっくり回して、潰してください」


「分かりました」


 熊を倒し、大きなまな板を運んだ男が、雪娥の言いつけどおり、石臼をそろそろと回し始める。


 侍女たちは笑いをこらえながら、膳を整えた。


 ◇ ◇ ◇


 月娘が離れへ着いた時、寝台は空であった。


 掛け物は畳まれ、卓の上も整っている。達也の姿だけがない。


 月娘は、離れの前を掃いていた侍女へ尋ねた。


「倉殿はどこへ行ったのです」


「夜明け前に、母屋の方へ歩いていかれました」


「傷を負った身体で、何をしているのでしょう」


 厨房へ向かうにつれ、笑い声と石臼の音が聞こえてきた。


 戸口から中を見ると、達也が床へ座り、真剣な顔で胡麻をすっていた。その周りでは侍女たちが膳を運び、雪娥が鍋の味を見ている。


「倉殿」


 月娘が呼ぶと、達也は石臼から手を離した。


「おはようございます」


「私は、離れで傷を見ると申しましたね」


「傷なら治りました」


「一晩で治るはずがありません」


 月娘は達也の前へ座り、左の袖をまくり上げた。


 白い布を解くと、昨日まで開いていた傷が塞がっている。腫れも熱もない。指で周りを押しても、達也は顔をしかめなかった。


「痛くありませんか」


「何も感じません」


「右脚も見せてください」


 達也が下衣を膝まで上げると、こちらも傷は薄い線になっていた。


 月娘は驚いたあと、達也の腕をつまんだ。


「それでも、朝から力仕事をする方がありますか」


「身体を動かすのは毎朝の習慣です」


「水を6桶運び、薪を割り、まな板まで担ぐのが習慣なのですか」


 達也は、早くもすべて知られていることに気づいた。


「役に立ちたかったのです」


 叱られると思ったのか、目を伏せて答える。


 月娘は、その顔を見ると、強い言葉を続けられなくなった。


「あなたは客人です。働かなければ食事を出さないとは、誰も申しません」


「皆が働いているのに、僕だけ寝ているのは落ち着きません」


「では、今後は先に私へ申しなさい。勝手に傷を開けば、また私が手当てをしなければなりません」


「月娘様が手当てしてくださるのなら――」


 達也はそこまで言って、口を閉じた。


「何です」


「何でもありません」


 耳が赤くなっている。


 月娘は笑みを隠せなかった。


「もう少し傷が残っていた方がよかったとでも申すのですか」


「そのような意味ではありません」


「では、どのような意味です」


「胡麻をすり終えてもよろしいでしょうか」


 達也は逃げるように石臼へ手を伸ばした。


「もう十分です」と雪娥。


 石臼の中では、胡麻が滑らかな油状になっていた。


 達也は行き場をなくした手を膝へ戻した。


 侍女たちが一斉に笑った。


 月娘は達也の袖を下ろし、布を巻かずに整えた。


「治ったことは喜ばしいのです。次からは、私が確かめるまで待っていなさい」


「はい」


 素直にうなずく達也を見て、月娘はまた可愛いと思った。


 ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、達也が働いた話が、浴室の話より速く広がっていた。


「今朝は水桶を左右に一つずつ持って歩かれたそうですね」と李瓶児(リー・ピンアル)


「はい」


「まな板も1人で運んだとか」と李嬌児(リー・ジャオアル)


「皆さんが忙しそうでしたので」


「では、明日は私の部屋の長持を動かしてください」と潘金蓮(パン・ジンリエン)


「金蓮。客人を下男の代わりにしてはなりません」と月娘。


「奥様は厨房で働かせておいて、私には貸してくださらないのですか」


「私が働かせたのではありません。止めに行ったのです」


「止めたあと、随分長く厨房におられましたね」と孟玉楼(モン・ユーロウ)


「傷を見ていたのです」


「傷は治っていたのでしょう」と嬌児。


 月娘は返事をせず、粥の椀を達也の前へ置いた。


「働いた分、しっかり食べなさい」


「はい」


 達也がうれしそうに匙を取ると、玉楼と金蓮が顔を見合わせた。


 西門慶は焼餅をちぎりながら、達也へ尋ねた。


「今日は、どうするつもりです」


「山へ置いた荷を取りに戻りたいと考えております」


「人を出しましょう。馬も使えばよい」


「場所を知られたくない品もあります。途中まで下男の方に来ていただき、そこで待ってもらえれば助かります」


 西門慶の目に、商人らしい光が浮かんだ。


「高価な品ですか」


「僕にとって大切な品です」


「分かりました。場所は尋ねません。2人付けましょう」


 金蓮がすぐに口を挟んだ。


「私も山へ参ります」


「何をしに行くのです」と月娘。


「昨日の熊が、本当にもういないか確かめます」


「熊を確かめに行く者が、なぜそのようにうれしそうなのです」


「倉殿の荷がどれほど大切か、私も守らなければなりません」


「金蓮様に知られないよう、守りたいのです」と達也。


 西門慶が笑い、玉楼も袖で口元を隠した。


「倉殿も、少しは女の扱いを覚えたようですね」と玉楼。


「正直に答えただけです」


 金蓮は唇を尖らせた。


「では、戻ったら最初に私へ見せてください」


「それもできません」


「なぜです」


「皆様に見ていただく物ですから、1人だけ先には見せられません」


 6人の女が同時に達也を見た。


 達也は、口にしてから余計なことを漏らしたと気づいた。


「私たちに見せる物とは何でしょう」と瓶児。


「戻ってからのお楽しみにしてください」


「奥様にも内緒ですか」と嬌児。


 達也は月娘を見た。


「はい。月娘様にも、まだ内緒です」


 月娘は、達也が自分へ何を見せようとしているのか気になった。しかし、正室が妻妾と並んで催促するわけにはいかない。


「山道に気をつけて、昼までには戻りなさい」


「分かりました」


 達也は答えたが、月娘の顔を見て、すぐに言い直した。


「戻れるようにいたします」


「それでよろしい」


 ◇ ◇ ◇


 達也は下男2人を連れ、昨日下ってきた山道を戻った。


 荷を載せるための騾馬が1頭いる。達也は何度も後ろを振り返り、人につけられていないことを確かめた。


 洞窟へ続く沢の手前まで来ると、下男たちを止めた。


「ここで待っていてください。1人で運べない物だけ、ここから頼みます」


「倉様。熊が出た山へ、1人で入るのですか」


「熊が出れば、今度は肉をすべてお渡しします」


「肉の心配ではございません」


「大丈夫です。長くても半刻ほどです」


 達也は木々の間へ入り、沢を上った。


 洞窟の入口に異常はなかった。枝葉の隙間から内部を確かめ、10トン車へ近づく。


 扉を開けると、見慣れた車内の匂いがした。


 達也は持ち込んだ品々を、北宋へ渡る前から用途別に分けていた。自分が生活する物、売って資金に換える物、協力を得た相手へ贈る物である。


 西門家の世話になるとは予想していなかったが、恩を受けた時に何も返せない事態には備えていた。


 達也は、外から見ても不自然でない木箱を荷台から下ろした。


 最初の箱には、女へ贈る装飾品を入れる。


 赤珊瑚を飾った金の簪、翡翠の耳飾り、真珠を連ねた首飾り、金糸と銀糸の腕輪、瑠璃をはめた帯飾り、銀の香盒を一つずつ選んだ。いずれも北宋に存在する素材と技法で作らせ、留め金や継ぎ目にも後世の品と分かるものは使っていない。


 6人へ同じ品を渡せば、値打ちを比べられることはない。しかし、達也は食卓で見た顔を思い出しながら、それぞれに似合う品を選んだ。


 最後に、月娘のために用意していた小箱を開いた。


 中には、白玉を削った簪が収められている。


 飾りは大きくない。白玉の輪の内側に、金で作った小さな月桂の枝を渡し、その下へ真珠を一粒だけ下げてある。動けば真珠がわずかに揺れるが、派手な音は立てない。


 華やかさだけなら、ほかに高価な品はいくらでもあった。


 だが、家の中を静かに見渡し、声を荒らげずに人を動かす月娘には、これが最も似合うと達也は思った。


 白玉には傷も曇りもない。月娘の名にある月を思わせた。


 達也は小箱を布で包み、ほかの5人の品とは別に懐へ入れた。


 西門慶には、黒漆塗りの鞘へ金具を施した日本刀を選んだ。


 鮫皮を巻いた柄に黒糸を掛け、鍔には波と昇る日の文様が彫られている。鞘の金具も金で飾られているが、見せるだけの刀ではない。刃を抜けば、よく鍛えられた地鉄と刃文が現れる。


 宋の人々が海の向こうから来た日本の刀を珍重したことは、出発前に調べてあった。海商の家に生まれたという達也の身の上にも合う。


 ただし、これほどの刀を19歳の若者が持っている理由は問われるだろう。


 達也は、答えも用意していた。


 刀袋へ収め、長い木箱へ入れる。


 さらに、当面の衣類、薬、書物、紙、墨、銅銭と少量の銀を別の箱へ移した。現代の容器や印刷物は見えないようにし、木箱の隙間を布で埋める。


 3箱を縄で縛り、最も重い箱を背負った。装飾品の箱を左手に持ち、右手には刀の箱を抱える。


 洞窟を出る前に、車体を覆う布と入口をもう一度確かめた。


 秘密は、まだ山の中に残っていた。


 ◇ ◇ ◇


 沢まで戻ると、下男たちは達也の姿を見て立ち上がった。


「お1人で、すべて運ばれたのですか」


「小さい箱は軽いのです。重い物だけ騾馬に載せてください」


 下男が背中の箱を受け取ろうとしたが、持ち上げた途端に顔をしかめた。


「これを背負って、山を下りてこられたのですか」


「下り道でしたから」


「上りでも同じことをなさりそうです」


 箱を騾馬へ載せ、3人は屋敷へ戻った。


 昼を過ぎたころ、西門家の門が見えた。


 門前には、月娘だけでなく、玉楼、金蓮、嬌児、雪娥、瓶児まで並んでいた。


「皆様で、門を見に来たのですか」


 達也が尋ねた。


「あなたが昼までに戻らないからです」と月娘。


「半刻ほど遅れただけです」


「奥様は、その半刻の間に3度も門番へ尋ねました」と玉楼。


「玉楼」


「私どもは贈り物を待っておりましたが、奥様は倉殿を待っておられました」と金蓮。


 月娘が金蓮を見た。


「皆が門へ集まるから、何事かと見に来ただけです」


「それで3度も尋ねたのですね」と嬌児。


 達也は、自分を待っていてくれた月娘へ笑顔を向けた。


「ご心配をおかけしました」


「無事なら、それでよいのです」


 月娘はそう答えたが、達也の顔を見た途端に力が抜けたことを、玉楼は見逃さなかった。


 ◇ ◇ ◇


 西門慶の客間へ木箱が運ばれた。


 妻妾6人は卓を囲み、西門慶は上座から箱を眺めている。使用人たちも、何が出てくるのか気になり、戸口の外へ集まっていた。


 達也は最初に、長い木箱を西門慶の前へ置いた。


「妻を3人も助けていただいたうえに、何をくださるのです」


「昨夜から世話になっております。そのお礼です。父が海を渡る商いで手に入れ、僕へ残した品の一つです」


 達也は蓋を開け、日本刀を両手で差し出した。


 西門慶の笑みが消えた。


「倭の刀か」


「はい」


 西門慶は慎重に受け取り、鞘や柄の金具を見た。少しだけ刃を抜いた瞬間、客間へ差し込む光が刃文の上を走った。


「すべて抜いてもよいか」


「人へ刃先を向けなければ、構いません」


 西門慶は立ち上がり、刃を上へ向けて抜いた。


「これは飾りではないな」


「よく切れます。試されますか」


 庭へ青竹が運ばれた。


 達也は刀を借り、竹の前へ立った。西門慶も妻妾たちも、縁側から見ている。


 達也は鞘を下男へ預け、両手で柄を握った。


 一歩踏み込み、斜めに振り下ろす。


 乾いた音が一つした。


 青竹の上半分はすぐには動かなかった。遅れて切り口がずれ、地面へ落ちた。


 周りから声が上がった。


 達也は刃を布でぬぐい、鞘へ戻した。


「刃が欠けにくく、よく切れます。ただし、手入れを怠れば錆びます」


 西門慶は刀を受け取ると、もう一度鞘から鍔まで眺めた。


「これを礼として受け取れば、湯と飯だけでは釣り合わぬ」


「では、しばらく置いていただく分も含めてください」


「この刀を受け取って、数日で出ていかれては、私が人から笑われる。身元が整い、学へ入る道がつくまで、好きなだけいなさい」


「それでは、刀を渡したために、さらに世話になることになります」


「商いとは、時にそういうものです」


 西門慶は満足そうに笑った。


「倉殿。この刀は、家の宝にしましょう」


 達也は頭を下げた。


 次に、小さな箱を卓へ載せた。


「こちらは、皆様へ」


「私が最初に選びます」と金蓮。


「選ばなくても、決めてあります」


 達也は、雪娥へ銀の香盒を差し出した。蓋には梅の枝が彫られ、香木や香辛料を入れられる。


「厨房で何度も香りを確かめておられましたので、雪娥様にはこれがよいと思いました」


 雪娥は蓋を開き、内側まで銀で仕上げられていることを確かめた。


「料理の匂いばかり嗅いでいる女だと思ったのですか」


「おいしい物を作る方は、香りを大切にするのだと思いました」


 雪娥は言い返さず、香盒を手元へ置いた。口元は緩んでいる。


 瓶児には、小粒の真珠を連ねた首飾りを渡した。


「瓶児様は、昨日から僕の傷を何度も心配してくださいました。柔らかな色の方が似合うと思います」


「覚えていてくださったのですね」


 瓶児は真珠へ触れ、うれしそうに笑った。


 嬌児には、瑠璃をはめた金の帯飾りを選んだ。


「衣服を見る目をお持ちですから、身につける場所をご自分で決めていただけます」


「私の衣服を見ていたのですか」


「借り物の袖を見られていた時に、こちらからも見ていました」


 嬌児は声を上げて笑い、帯飾りを腰へ当てた。


 玉楼には、深い緑の翡翠を使った耳飾りを渡した。


「玉楼様は、人の話を聞く時に顔を少し傾けます。その時に似合うと思いました」


「まあ。随分細かいところまでご覧になったのですね」


「観察されていると分かりましたので、僕も見ておりました」


 玉楼は楽しそうに耳飾りを受け取った。


 金蓮には、赤珊瑚の簪を差し出した。


 金の枝の先に赤珊瑚の花を配した、ひときわ華やかな品である。


「私には、なぜこれを選んだのです」


「6人の中で、最も目立つ品を欲しがられると思いました」


「私が欲深いと申すのですか」


「似合うと申したのです」


 金蓮は簪を髪へ当て、鏡を持ってこさせた。


「では、似合うかどうか、ご自分で確かめてください」


 達也が困った顔になると、女たちは笑った。


 卓の上には、金糸と銀糸を編んだ腕輪が一つ残っていた。


 達也はそれを手に取り、月娘へ差し出した。


「月娘様には、こちらを」


 月娘は腕輪を受け取った。


 金と銀を交互に編み、留め金へ小さな白玉を付けた品である。華美ではないが、細工は精緻であった。


「ありがとうございます。大切にいたします」


 月娘は穏やかに答えた。


 ほかの女たちと同じように、自分にも似合う品を選んでくれた。それだけで十分うれしかった。


 しかし、達也は座ったまま動かない。


「まだ、何かあるのですか」


 達也は懐から、布に包んだ小箱を取り出した。


「これは、3人を代表する正室への礼ではありません。僕から月娘様へ、お渡ししたい品です」


 客間が静かになった。


 月娘はすぐには手を伸ばさなかった。


「私だけが、もう一つ頂くわけにはいきません」


「値打ちで選んだものではありません。月娘様に似合うと思って、別にしました」


 金蓮が身を乗り出した。


「奥様。受け取らなければ、私がいただきます」


「あなたは、すでに簪を頂いたでしょう」


 月娘は金蓮へ答えてから、小箱を受け取った。


 蓋を開くと、白玉の簪が現れた。


 窓から入る光を受け、輪の中の金の枝と、一粒の真珠が柔らかく輝いた。


「月のようですね」と瓶児。


「奥様のお名前に合わせたのでしょう」と玉楼。


 達也は月娘を見た。


「白玉の月に、金の枝を渡してあります。派手な品ではありませんが、月娘様には、これが一番似合うと思いました」


「なぜ、私には派手な品が似合わないのです」


 月娘が尋ねると、達也は慌てた。


「似合わないのではありません。月娘様は飾りがなくても――」


 そこまで言い、達也は言葉を止めた。


「なくても、何です」と玉楼。


「最後まで聞きたいものですね」と金蓮。


 達也の耳が赤くなった。


 月娘も、自分の頬が熱くなるのを感じた。


「倉殿。申しかけたことは、最後まで申しなさい」


「月娘様は、飾りがなくても美しい方です。ですから、大きな宝石より、静かな品が似合うと思いました」


 言い終えた達也は、客間から逃げ出したい顔をしていた。


 西門慶が最初に笑い出した。


「倉殿。昨日より女の扱いが上達したではありませんか」


「扱ったつもりはありません」


「それで、そのようなことを申すのなら、なお悪い」と玉楼。


「奥様だけ、二つも頂いた理由が分かりました」と金蓮。


「私たちを熊から守ったのは倉殿ですが、倉殿を屋敷へ連れ帰ったのは奥様ですからね」と嬌児。


 月娘は妻妾たちをたしなめようとした。


 だが、白玉の簪を箱へ戻す気にはなれなかった。


「倉殿」


「はい」


「髪へ挿してください」


 達也は目を見開いた。


「僕が、ですか」


「私に似合うと思って選んだのでしょう。ご自分で確かめなさい」


 侍女が月娘の後ろへ回り、もともと挿していた簪を1本抜いた。


 達也は白玉の簪を受け取った。


 熊へ向かう時より慎重な足取りで月娘へ近づく。髪へ触れないようにしながら簪を挿そうとしたが、角度が分からず手が止まった。


「もう少し上です」と瓶児。


「右へ寄っています」と嬌児。


「いっそ、奥様の後ろから抱えるようにすればよろしいのでは」と金蓮。


「金蓮」


 月娘がたしなめると、達也の手がさらに固くなった。


「私がいたします」と侍女。


「いいえ。この方に任せます」


 月娘は動かなかった。


 達也は息を整え、侍女に示された位置へ簪を通した。


 真珠が、月娘のこめかみの後ろで小さく揺れた。


「できました」


 月娘が振り返る。


「似合いますか」


 達也は近いところから月娘の顔を見た。


「はい。思っていたより、よく似合います」


「それなら、頂きます」


 月娘はほほ笑んだ。


 その笑顔を見た達也は、苦労して山へ戻ったことも、重い箱を運んだことも、すべて報われたと思った。


 金蓮が小さく息をついた。


「奥様だけ、贈り物の渡し方まで違います」


「正室ですから」と月娘。


「便利な言葉でございますね」


「あなたも、第5房という立場を便利に使っているでしょう」


 女たちの笑いが客間へ広がった。


 ◇ ◇ ◇


 その日の午後、西門家では二つの噂が広まった。


 一つは、若い客人が水桶を両手で運び、4人がかりのまな板を1人で担いだという話である。


 もう一つは、月娘が達也から白玉の簪を贈られ、本人の手で髪へ挿してもらったという話であった。


 下男たちは力仕事の話をし、侍女たちは簪の話をした。


 夕方までに、前者には「熊より重い丸太を持った」という尾ひれが付き、後者には「月娘が自分から頭を寄せた」という話が加わった。


 達也は離れで、洞窟から持ち帰った書物と紙を卓へ並べていた。


 西門慶から借りた県内の地図も広げ、これから通う学と、保証人を探す商人の住まいを書き込もうとしている。


 戸をたたく音がした。


「どうぞ」


 月娘が入ってきた。


 髪には、昼に贈った白玉の簪が挿されたままである。


「まだ、付けてくださっているのですね」


「頂いたその日に外せと申すのですか」


「いいえ。うれしいです」


 達也の顔が明るくなった。


 月娘は、その顔を見るために簪を外さずに来たのだと、自分で気づいた。


「旦那様が、明日の朝、登州から来た商人を呼ぶそうです。あなたの話を聞き、保証人となれる倉姓の家を知っているか尋ねます」


「もう、動いてくださったのですか」


「あの刀を頂いては、旦那様も急がないわけにはいきません」


「刀がなくても、動いてくださったと思います」


「なぜ、そう思うのです」


「月娘様のご主人だからです」


 月娘は答えに詰まった。


 達也は人を疑うことを知らないわけではない。洞窟の場所を隠し、身の上についても話す範囲を選んでいる。それでも、一度恩を受けた相手には、まっすぐな信頼を返そうとする。


 その素直さを、月娘は可愛いと思った。同時に、誰にでも向けさせてはならないとも思った。


「倉殿。贈り物は、むやみに人へ渡してはなりません」


「気に入りませんでしたか」


「その逆です。あれほどの品を差し出せば、あなたの荷を探ろうとする者が現れます」


「気をつけます」


「私たち以外には、持っている物を見せないことです。売る時も、先に旦那様か私へ相談なさい」


「分かりました」


「それから、洞窟へ戻る時も、1人で決めてはなりません」


「月娘様へ申し上げれば、行ってもよいのですか」


「理由を聞いてから決めます」


「厳しいですね」


「あなたが隠し事に慣れていないからです」


 月娘は卓の横へ立ち、達也が持ち帰った書物を見た。


 経書、文章の手本、清河県の地理を書いた古い写本が並んでいる。科挙を受けたいという話が、その場しのぎの言葉ではなかったことが分かる。


「今夜も勉強するのですか」


「はい。早く学へ入れるようになりたいのです」


「朝は力仕事をし、昼は山へ行き、夜は書物を読む。身体が治っても、倒れてしまいますよ」


「少しくらいなら大丈夫です」


 月娘は、達也の前から硯を取り上げた。


「今夜は、夕食まで休みなさい」


「まだ明るいのですが」


「私の言うことは聞けないのですか」


 達也は月娘と硯を交互に見た。


「分かりました」


「よくできました」


 月娘が前夜と同じ言葉を返すと、達也はまた耳を赤くした。


 月娘は白玉の簪へ指を触れた。


 この若者を守り、学へ入れるまで世話をする。それは命を救われた正室の務めである。


 そう考えれば、離れへ足を運ぶ理由はいくらでも作れた。


 達也は寝台へ座り、月娘が硯を持って離れを出るのを見送った。


 贈り物を喜んでもらえた。しかも、月娘は夕食まで外すつもりがないらしい。


 達也は満足して横になった。


 母屋へ戻る月娘の後ろには、廊下の角から5人の妻妾が次々に現れた。


「奥様。客人へ硯を借りに行かれたのですか」と玉楼。


「休ませるために預かったのです」


「それなら、私が返してまいります」と瓶児。


「夕食まで預かります」


「簪を見せに行ったのではありませんか」と金蓮。


「用件は、旦那様からの伝言です」


「伝言を届けるだけで、随分時間がかかりましたね」と嬌児。


 月娘は5人を振り返った。


「皆、夕食の支度は済んだのですか」


 雪娥だけが、何も言わず厨房へ戻った。


 残る4人も、それぞれもっともらしい用事を思い出し、母屋へ散っていく。


 月娘は硯を抱えたまま、自分の部屋へ向かった。


 歩くたびに、白玉の輪の下で真珠が揺れる。


 達也が自分を思い浮かべて選んだ品である。


 そのことを考えると、外す理由は見つからなかった。

 第4話前編2では、西門家で迎えた最初の朝、達也の傷が一晩でほとんど治った。


 清国にいたころから毎朝の鍛錬を続けてきた達也は、朝食の準備を手伝い、水桶、薪、大きなまな板まで運んだ。最後には雪娥から胡麻すりを任されたが、ここでも力を入れすぎて注意されている。


 達也は山中の洞窟へ戻った。ただし、同行した下男を沢の手前で待たせ、10トン車と洞窟の場所は見せていない。


 洞窟からは、自分の衣類、薬、書物、紙、墨、銅銭、銀のほか、西門家への贈り物を持ち出した。


 西門慶へ贈ったのは、黒漆の鞘と金具を備えた豪華な日本刀である。宋代の中国でも日本の刀は珍重されており、西門慶は家の宝にすると喜んだ。


 妻妾6人には、それぞれの性格や姿に合わせ、香盒、真珠の首飾り、帯飾り、翡翠の耳飾り、赤珊瑚の簪、金銀の腕輪を贈った。


 月娘だけには、さらに白玉の月へ金の枝と一粒の真珠を添えた簪を渡した。達也は、月娘を思い浮かべて特別に選んだと明かし、自らその髪へ挿している。


 月娘は、簪を贈られたその日から、達也が持つ品を他人に狙われないよう守り、洞窟へ戻る時にも相談させようと考え始めた。


 正室として客人を守るためである。


 もっとも、達也の喜ぶ顔を見るため、簪を外さず離れへ足を運んだことまで、正室の務めとは言えなかった。

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