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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第4話(前編1)――「西門家の客人」

 1116年10月、北宋・東平府(ドンピンフ)清河県(チンホーシエン)


 北宋へ渡った初日、倉田達也は山中で熊に襲われていた3人の女を救った。


 女たちは、西門慶(シーメン・チン)の正室である呉月娘(ウー・ユエニャン)、第3房の孟玉楼(モン・ユーロウ)、第5房の潘金蓮(パン・ジンリエン)であった。


 熊の血と獣脂にまみれた達也は、3人とともに西門家へ向かった。


 湯と食事を借りたあとは、山中の洞窟へ戻るつもりであった。しかし、命を救われた月娘は、そのような別れ方を認めなかった。

 (1116年10月、北宋・東平府(ドンピンフ)清河県(チンホーシエン)・西門家)


 白い湯気が、大きな木桶の上にこもっていた。


 達也が湯を両手ですくって顔を洗うと、薄赤い筋が胸を伝った。髪の生え際に固まっていた熊の血が、ようやく溶け始めたのである。


 西門家へ着くなり、月娘は使用人へ次々に指示を出した。湯を沸かす者、傷薬を用意する者、熊の肉を厨房へ運ぶ者、毛皮を職人へ届ける者が、それぞれ別の方向へ走っていった。


 達也は侍女に案内され、屋敷の奥にある浴室へ入った。


 左腕と右脚の傷へ湯が触れるたびに痛んだ。だが、顔や髪、身体にこびりついた血、土、汗、獣脂を洗い落としていくうちに、張り詰めていた力が抜けていった。


 木桶の縁へ頭を預けると、月娘の顔が浮かんだ。


 熊を前にしても声を乱さず、玉楼と金蓮を自分の後ろへ下がらせていた。達也が熊を解体している間も、その場から逃げず、腰を抜かした男たちへ指示を出していた。


 整った顔立ちだけではない。人を安心させながら動かす落ち着きに、達也はひかれていた。


 馬車の中では向かいに座る月娘をまともに見られず、窓の外ばかり眺めていた。いまになって、その横顔や声が何度も思い出された。


「僕は、何を考えているのだ」


 北宋へ渡ったその日に、会ったばかりの人妻へ心を奪われている。


 達也は両手で顔を覆い、しばらく湯へ沈んだ。


 十分に温まってから木桶を出た。脱衣場に布が置かれていると思い、戸の方へ歩いた時である。


 戸が勢いよく開いた。


 新しい衣服を抱えた月娘が立っていた。その後ろには、大きな布と傷薬を持った2人の侍女がいる。


 月娘は、達也がまだ湯の中にいると思っていたらしい。


 達也と月娘の目が合った。


 月娘の視線が下がった。


 2人の侍女も、つられるように同じところを見た。


 達也は、自分が何も身につけていないことを思い出した。しかも、湯の中で月娘のことばかり考えていた若い身体は、目の前に本人が現れたことで、さらに困った反応を示し始めた。


 達也は慌てて両手で前を隠した。


「失礼しました」


 口から出たのは、なぜか達也の謝罪であった。


 右側の侍女が頬を膨らませた。隣の侍女と顔を見合わせた途端、2人は耐えきれずに笑い出した。


「笑ってはなりません」


 月娘がたしなめた。


 声は平静であったが、頬には赤みが差している。


「ですが、奥様。あれは――」


「見たものを、いちいち口へ出すものではありません」


「奥様もご覧になったではありませんか」


「私は傷を見たのです」


 月娘は侍女の手から大きな布を取ると、達也の腰へ巻いた。


「これで手を離しても大丈夫です」


 言われても、達也はすぐには両手を動かせなかった。


「もう隠れておりますよ」


 月娘の声に笑いが混じった。


 達也が恐る恐る手を離すと、侍女たちはまた肩を震わせた。


「自分で拭きます」


 達也は別の布を取ろうとしたが、月娘が先に手を伸ばした。


「左腕に傷があります。背中にも血が残っています」


「これくらいなら、1人でできます」


「熊を倒した方が、身体を拭かれるくらいで逃げるのですか」


「逃げているのではありません」


「では、じっとしていなさい」


 月娘は達也を横へ向かせ、肩から背中へ布を滑らせた。髪から落ちた水を拭き、左腕の傷を避けながら、脇腹に残った血も丁寧にぬぐった。


 達也は背筋を伸ばし、目の前の壁だけを見ていた。耳まで赤くなっている。


 月娘は、その横顔を見て口元を緩めた。


 熊へ向かった時には、あれほど大きく見えた若者である。それが今は、叱られた少年のように身を固くしていた。月娘には、その落差が妙に可愛く感じられた。


「痛みますか」


「いいえ」


「では、なぜそのような顔をしているのです」


「どのような顔でしょうか」


「今にも壁の中へ逃げ込みそうな顔です」


 侍女たちが再び笑った。


「奥様まで笑わないでください」


 達也が困り切った声を出すと、月娘はとうとう顔をほころばせた。


「申し訳ありません。もう笑いません」


 そう答えたものの、目元には笑みが残っていた。


 身体を拭き終えると、月娘は乾いた下衣を達也へ渡した。


「私たちは外へ出ます。着替えたら声をかけてください」


「最初から、そうしていただければよかったのですが」


「戸を開けた時、あなたが木桶を出ているとは思わなかったのです」


「それでも、すぐに閉めることはできたと思います」


 月娘は答えず、2人の侍女を連れて戸口へ向かった。


 外へ出る前に振り返り、達也の腰の布をもう一度見た。


「その布は、手を離しても落ちません。今度こそ安心して着替えなさい」


 戸が閉まると、廊下から侍女たちの笑い声が聞こえた。


 達也は顔を覆い、その場へしゃがみ込んだ。


 ◇ ◇ ◇


 用意された衣服は、達也の肩には少し窮屈であった。


 上着の袖も短く、手首が出ている。西門家で最も背の高い若い使用人の衣服を借りたというが、鍛えた達也の身体には合わなかった。


 着替えを終えて廊下へ出ると、月娘が待っていた。


 月娘は達也の前へ立ち、帯を結び直した。さらに袖口を引き、左右の長さを見比べる。


「今夜だけは、これで我慢してください。明日、仕立屋を呼びます」


「明日には出ていくつもりです」


「どちらへ行くのです」


 達也は答えに詰まった。


「町で泊まるところを探します」


 月娘は、短い袖から出た達也の手首を見た。


「それなら、今夜は離れでお休みなさい。明日のことは、明日考えればよいでしょう」


「しかし、これ以上ご厄介になるわけには……」


「熊から私たちを助けた方を、日が暮れてから追い出したとあっては、西門家が笑われます」


「追い出されるとは思っておりません」


「では、私が引き留めているうちに、素直にうなずきなさい」


 達也が月娘を見ると、その目は笑っていた。


「分かりました。今夜だけ、お世話になります」


「はい。よくできました」


 子どもへ言い聞かせるような返事である。


 達也がまた耳を赤くすると、月娘は自分でも不思議なほど楽しくなった。素直で、からかえばすぐ顔に出る。家の男たちには見られない反応であった。


「食事の支度ができています。参りましょう」


 月娘は先に廊下を歩き始めた。


 達也がそのあとを追うと、浴室にいた侍女の1人が、柱の陰で別の侍女へ何かをささやいていた。聞いた侍女は達也の顔を見たあと、腰の辺りへ視線を落とし、慌てて横を向いた。


 秘密は、すでに浴室から廊下まで進んでいた。


 食堂へ着くまでに、達也は同じような視線を5回受けた。


 熊を倒した話より、浴室で起きた珍事の方が速く伝わっているらしい。


 ◇ ◇ ◇


 食堂には、西門慶(シーメン・チン)が待っていた。


 30代半ばに見える男で、体格がよく、衣服にも装身具にも金がかかっている。達也を迎える笑顔は大きかったが、その目は初対面の客を細かく見ていた。


「倉殿、こちらへ。妻たちから話を聞きました。よくぞ3人を助けてくださった」


 西門慶は達也を自分の近くへ座らせた。


 食卓には、山中で会った月娘、孟玉楼(モン・ユーロウ)潘金蓮(パン・ジンリエン)のほかに、3人の女がいた。


 月娘が順に名を告げた。


 第2房の李嬌児(リー・ジャオアル)は華やかな衣服をまとい、髪にも金の飾りを挿している。第4房の孫雪娥(スン・シュエオー)は料理が運ばれるたび、椀の置き方まで確かめていた。第6房の李瓶児(リー・ピンアル)は達也の左腕を見て、席に着くより先に尋ねた。


「傷薬は塗りましたか」


「はい。月娘様に手当てをしていただきました」


「奥様が、身体を拭くところから手当てなさいました」と侍女が付け加えた。


 月娘が振り向いた時には、侍女はもう食堂の外へ下がっていた。


 金蓮が箸を置いた。


「身体を拭くところから、でございますか」


「傷へ血が残っていたのです」と月娘。


「左腕の傷であれば、左腕だけで済みますね」と嬌児。


「背中にも残っておりました」


「背中であれば、背中までで済みますね」と玉楼。


 月娘は玉楼を見た。


「命を救ってくださった方です。血が残っていれば、どこであろうと拭きます」


「奥様は、どこまで拭かれたのでしょう」と金蓮。


「金蓮」


 名を呼ばれた金蓮は、何も知らない顔で酒杯を持った。


 達也は卓の上の料理だけを見ていた。


「何の話だ」


 西門慶が尋ねた。


 食堂が静かになった。


「熊の血は落ちにくいという話でございます」と月娘。


「そうなのか」


「はい」と達也。


 西門慶は納得してうなずいた。


 嬌児が袖で口元を隠し、瓶児は下を向いた。雪娥だけは厨房へ顔を向け、次の料理を運ぶよう命じた。


 秘密は食堂まで到達していた。ただし、西門慶だけは、その中身に気づいていなかった。


「倉殿。まず、名をもう一度聞かせてください」


 西門慶に促され、達也は姿勢を正した。


「私は倉達也(ツァン・ダーイエ)と申します」


 日本での姓を、中国の姓として名乗った。倉という姓は珍しいが、存在しないわけではない。


「どちらの生まれです」


「登州の沿岸です。父は海を渡る商いに加わっておりました。船を失ってから家が散り、私も各地を移ってまいりました」


「いま、頼れる親族は」


「おりません」


「山中で暮らしているのですか」


「数日前に着き、雨露をしのげる場所へ荷を置きました」


 西門慶はそれ以上、場所を尋ねなかった。代わりに達也の手元へ目を向けた。


「刀を扱う手だが、筆も持つと聞きました」


「経書と策論を学んでおります」


「では、食事の前に一つ見せてもらおう」


 西門慶が合図すると、使用人が紙、筆、硯を運んできた。


「『孟子』の一節を書き、その意味を添えてください」


 達也は筆へ墨を含ませた。


 4年間、毎日続けた勉強である。最初は線の太ささえそろわなかったが、いまでは考えをまとめながら文字を組み立てられる。


 十数行を書き、筆を置いた。


 西門慶は紙を取り上げた。初めは笑みを浮かべていたが、読み進めるうちに目つきが変わった。


「暗記した句を書いただけではないな。この考えは、誰に学んだ」


「各地を巡る間に、何人かの先生から教わりました」


「熊を屶で倒し、その場で解体し、席へ着けば『孟子』を書く。随分と忙しい客人が来たものだ」


 西門慶が笑うと、女たちも達也の書いた紙を順にのぞき込んだ。


「これほど書ける方が、なぜ山中にいたのです」と瓶児。


「町へ入る前に、周囲を見ておきたかったのです」


「そこで熊に出会ったのですね」と玉楼。


「熊を探していたわけではありません」


「こちらも、熊を連れて迎えに行ったわけではございません」と金蓮。


 西門慶が大声で笑った。


「倉殿。あなたは堅い顔で話すほど、周りを笑わせる男らしい」


「そのつもりはないのですが」


「それがよいのです」


 月娘は、何を言われても真面目に答える達也を見ていた。褒められてよいのか、笑われているのか分からず、わずかに困った顔をしている。


 また、可愛いと思った。


 月娘は杯を口へ運び、その言葉が顔へ出ないようにした。


 料理が次々に並べられた。鶏と茸の煮物、魚の蒸し物、青菜、豆腐、羊肉の羹に続き、雪娥が熊肉の椀を達也の前へ置いた。


「柔らかいところを選び、酒、葱、生姜と一緒に煮ました」


 達也が熊肉を口へ入れると、思った以上に硬かった。奥歯で何度か噛むうちに、酒、葱、生姜の味が広がった。野獣の臭みは、ほとんど残っていない。


「いかがですか」


 雪娥が尋ねた。


「少し硬いですが、味はよく染みています」


「硬いものを、柔らかいとは申せませんからね」


 雪娥はそう言いながらも、達也の椀へ熊肉をもう一切れ入れた。


「ありがとうございます」


「おや、気に入ったようですね」と瓶児。


「はい。熊を食べるのは初めてです」


 金蓮が箸を止めた。


「先ほどまで人を食べようとしていた熊が、もう椀の中にいるのですね。考えてみれば、恐ろしい話です」


「それを申すなら、熊より雪娥姉様の方が恐ろしいでしょう。あれほど大きな獣を、半日もたたずに料理してしまったのですから」と玉楼。


「私は、運び込まれた肉を煮ただけです。熊を屋敷へ運ばせたのは旦那様でしょう」


 雪娥が西門慶を見た。


「倒したのは倉殿だ」と西門慶。


「煮たのは雪娥様です」と達也。


 月娘が達也の椀を見た。


「そして、最初に食べたのはあなたです」


 達也は、箸でつまんだ熊肉を見た。


「では、皆で食べたことにすればよいのではありませんか」


 一瞬の静けさのあと、西門慶が笑い出した。


「その通りだ。倉殿、遠慮せず食べなさい。熊一頭分ある。今夜でなくなる心配はない」


「はい。では、もう少しいただきます」


「少しと申して、もう3切れ目です」と瓶児。


「体が大きいのですから、それくらい食べますよ」と月娘。


 月娘が取りなすと、達也はうれしそうに頭を下げた。


「ありがとうございます」


 ただ食べることを許されただけなのに、達也の顔には隠しようのない喜びが浮かんだ。


 月娘は箸を持ったまま、その顔を見つめた。


 どうやら、この若者は自分が何か言うたびに喜ぶらしい。そのことが分かると、もう一切れ食べさせたくなった。


 月娘は熊肉を取り、達也の椀へ入れた。


「傷を負ったのです。今夜は十分に食べなさい」


「はい」


 達也は、先ほどより大きくうなずいた。


 金蓮は達也と月娘を見比べた。玉楼も気づいたらしく、黙って酒杯を口へ運んだ。


 西門慶だけは何も気にせず、自分の杯へ酒を注がせていた。


「それだけ学んだのなら、今後はどうするつもりだ」


 西門慶が尋ねた。


「州県の学へ入り、科挙を受けたいと考えております」


「登州へ戻るのか」


「いいえ。この県で道を探すつもりです」


 西門慶は、先ほど達也が書いた紙をもう一度見た。


「倉姓で登州と取り引きのある者を、明日から当たらせよう。お前の父を知る者か、遠縁として名を貸せる者が見つかれば、次の話ができる」


「そこまでしていただけるのですか」


「妻を3人救われたのだ。湯と飯だけで帰せば、西門家の名が廃る」


「熊の肉と毛皮もございます」と嬌児。


「あれは倉殿の物だ」


「では、預かり賃も頂けますね」と金蓮。


「お前はすぐに銭の話をする」


「旦那様ほどではございません」


 食卓に笑いが広がった。


 達也も、つられて笑った。


 北宋へ着いてから、初めて声を出して笑ったのである。


 ◇ ◇ ◇


 食事が終わると、月娘は達也を離れへ案内した。


 庭を挟んで母屋から少し離れた建物で、寝台、卓、椅子、書棚がそろっている。窓からは庭木と池が見え、戸を閉めれば屋敷の物音も遠くなった。


「今夜は、ここを使ってください」


「ありがとうございます。明日、町を見てまいります」


「町を見て、そのあとは」


「泊まれるところを探します」


 月娘は達也の顔を見た。


「まだ、その話をしているのですか」


「今夜だけと申しました」


「あれは食事の前です。いまは、旦那様が保証人を探すと決めたあとです」


「それが見つかるまで、ここにいろとおっしゃるのですか」


「はい」


「何日かかるか分かりません」


「部屋は逃げません。食事も、1人増えたくらいでなくなりません」


「しかし――」


「あなたは、熊を倒した時より、泊まれと言われた時の方が抵抗しますね」


 達也は口を閉じた。


 月娘は寝台の敷物を手で確かめ、枕の位置を直した。


「山へ置いた荷が心配なのですか」


 達也は月娘を見た。


「なぜ、分かったのですか」


「町へ入ったばかりの方が、手ぶらで山を歩いていたとは思えません。話したくなければ、場所は尋ねません。明日、必要な物だけ取りに戻ればよいでしょう」


「洞窟へ置いてあります」


 達也は、隠し続けても不自然になると考え、場所の種類だけを明かした。


「やはり、洞窟でしたか」


「そこまで分かっていたのですか」


「山中で寝るなら、野宿か洞窟です。あなたは雨に濡れた顔をしておりませんでした」


 達也は返す言葉を失った。


「月娘様には、隠し事ができそうにありません」


「隠してもよいのです。私を心配させない程度に、上手に隠しなさい」


「難しい注文です」


「熊を倒すよりは簡単でしょう」


 月娘が笑うと、達也も小さく笑った。


「では、しばらくお世話になります」


「初めから、そう言えばよいのです」


 達也は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 顔を上げた時、その喜びは隠せていなかった。


 月娘の胸の内に、また温かなものが広がった。


 この若者は、熊へ向かう時には迷いがなく、経書について尋ねられれば筋道を立てて答える。それなのに、月娘が近づけば耳を赤くし、少し優しくされただけで、子どものようにうれしそうな顔をする。


 可愛い人だ、と月娘は思った。


 19歳の若者へ抱くには、いささか甘すぎる感情であった。それでも、離れに置いて目の届くところで世話をしたいと思う気持ちは、抑えられなかった。


「今夜は早く休みなさい。明日の朝、傷を見に来ます」


「月娘様が来てくださるのですか」


 達也の顔が、また明るくなった。


「傷を見るだけです」


「はい。お待ちしております」


 あまりに素直な返事である。


 月娘は笑いそうになるのをこらえ、離れを出た。


 この若者を放っておけば、金蓮は面白がって毎日離れへ来るだろう。嬌児も、珍しい物を見つけた時の目をしていた。瓶児は世話を焼く理由を探し、玉楼は止めるより観察する方を選ぶに違いない。


 月娘は、達也をしばらく西門家へ置くと決めた。同時に、ほかの妻妾を離れへ近づけすぎないようにしようとも決めた。


 命の恩人であり、科挙を目指す大切な客人を守るためである。


 月娘は、そう理由を付けた。


 廊下へ出ると、角の向こうから衣擦れの音がした。


 月娘が歩み寄ると、金蓮、嬌児、瓶児の3人が重なるように立っていた。その後ろには玉楼までいる。


「何をしているのです」


 月娘が尋ねた。


「客人の部屋に、足りない物がないか確かめに来ました」と瓶児。


「私は、明日の衣服の色を相談しに」と嬌児。


「私は道を間違えました」と金蓮。


「私は、この3人が何をするのか見に来ただけです」と玉楼。


 月娘は4人を順に見た。


「足りない物は、私が用意します。衣服は仕立屋に任せます。道を間違えた者は、私が部屋まで送りましょう。見物も終わりです」


「奥様ばかり、ずるいではありませんか」と金蓮。


「何がずるいのです」


「身体を拭いたのも、離れへ案内したのも、明日の朝に傷を見るのも奥様です」


「正室が客人の世話をして、何が悪いのです」


「悪いとは申しておりません。ずるいと申しただけです」


 玉楼が吹き出し、嬌児と瓶児も笑った。


 月娘は金蓮の前へ一歩進んだ。


「では、道を間違えたあなたから、部屋へ送りましょう」


「もう道を思い出しました」


 金蓮は素早く身を翻し、母屋へ戻っていった。嬌児と瓶児もあとを追い、玉楼だけがその場に残った。


「奥様」


「何です」


「倉殿を、随分とお気に召したようですね」


「命を救ってくださった方です。大切にするのは当然でしょう」


「それだけでございますか」


 月娘は答えず、玉楼の肩を母屋の方へ向けた。


「見物は終わりだと申しました」


 玉楼は笑いながら歩き出した。


 月娘は1人になると、離れの戸へ目を向けた。


 中では何も知らない達也が卓の前へ座り、西門慶に書かされた文章を思い返していた。


 身元を整え、州県の学へ入り、科挙を受ける。


 北宋へ渡る前に立てた最初の目標へ、早くも道がつながろうとしている。しかも、当面の衣食住まで与えられた。


 何より、月娘と同じ屋敷で暮らせる。


 達也は寝台へ横になったあとも、明日の朝には月娘が来るという言葉を思い出していた。


 北宋へ着いた初日に熊と戦ったことも、西門家へ招かれたことも、いまだに現実とは思えない。それでも、月娘が巻いてくれた腰の布と、傷へ触れた指の感触だけは、妙に鮮明に残っていた。


 達也は掛け物を頭まで引き上げた。


「僕は、何を考えているのだ」


 浴室と同じ言葉を口にしてから、1人で顔を赤くした。


 母屋では、西門家の妻妾4人が、明日は誰が最初に離れへ行くかを話し合っていた。


 月娘だけは、その相談に加わらなかった。


 翌朝、自分が達也の傷を見に行くと、すでに本人へ約束していたからである。


 西門家での達也の暮らしは、月娘の胸に芽生えた好意と、妻妾たちの好奇心を抱えたまま始まった。

 第4話前編1では、熊の血にまみれた達也が西門家で湯を借り、正室の呉月娘(ウー・ユエニャン)と浴室で鉢合わせした。


 熊へ立ち向かう勇ましさとは対照的に、女を前にすると耳まで赤くなり、からかわれれば返す言葉を失う。月娘は、その落差を可愛く感じ、達也へ自ら衣服を用意し、傷の手当てまでした。


 浴室での出来事は、口止めする間もなく侍女たちを通じて屋敷へ広まった。ただし、西門慶(シーメン・チン)だけは、詳しい内容を知らない。


 食卓には、正室の呉月娘、第2房の李嬌児(リー・ジャオアル)、第3房の孟玉楼(モン・ユーロウ)、第4房の孫雪娥(スン・シュエオー)、第5房の潘金蓮(パン・ジンリエン)、第6房の李瓶児(リー・ピンアル)がそろった。


 達也は、登州沿岸の海商の家に生まれ、船を失って家族と離れた若者であると説明し、倉達也(ツァン・ダーイエ)と名乗った。


 達也が『孟子』の一節と自分の考えを書くと、西門慶は、その学問が暗記だけではないと認めた。科挙を目指す達也のため、登州と取り引きのある商人を当たり、倉姓の家とつながる保証人を探すことも約束した。


 達也は、身元を整える道が見つかるまで、西門家の離れで暮らすことになった。


 月娘は、達也をほかの妻妾の好奇心や誘惑から守ろうと考えている。


 しかし、達也を可愛く感じ、喜ぶ顔をもっと見たいと思い始めた月娘が、自分の好意から達也を守れるかどうかは分からない。

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