第3話(後編2)――「後宮の最下層」
崔景仁と曹静蘭の養女となった崔麗華は、2か月後に行われる女官選びを受けることになった。
しかし、麗華が得たのは、選びを受ける資格にすぎない。
女官に選ばれても、皇帝の前へ出られるとは限らない。宮中には、衣を運ぶ者、器を洗う者、香を包む者、部屋を掃除する者が大勢いる。
麗華は残された2か月で礼法、書、琴を学いながら、宮中へ品を納める商人と、そこで働く者の関係を調べ始めた。
後宮へ続く門は見えた。
だが、その門の内側には、麗華の知らない決まりと、すでに居場所を持つ女たちが待っていた。
童貫から女官選びの書付を受け取った翌朝、麗華は崔家の客間で、父母と向かい合っていた。
卓上には、女官選びの日取りと、受ける者が用意すべき書付が並べられている。
養父の崔景仁は37歳、養母の曹静蘭は32歳である。
麗華は、童貫との話を最初から説明した。
ただし、童貫の名を表へ出さず、崔家の娘として選びを受けることも隠さなかった。
「宮中へ納められる布、香料、紙、白磁の瓶について調べとうございます」
麗華が告げると、静蘭はすぐに尋ねた。
「何のためですか」
「品の流れをたどれば、それを受け取る役目にある者が分かります。誰が何を扱い、誰の許しがなければ動かせないかを、宮中へ入る前に知っておきたいのです」
「女官選びに、仕入れ値は出ません」
「選ばれたあとのためでございます」
「まだ選ばれてもいないのに、その先を調べるのですか」
「選ばれてから調べ始めれば、遅いと思います」
静蘭は麗華の前に置かれた書付へ目を落とした。
「商人に宮中のことを尋ねれば、崔家の娘が後宮へ入ろうとしていると知られます」
「華宝舗が開封で扱う品を増やすためと申します。宮中へ直接納めるのではなく、納入商人へ品を卸せないかを調べます」
「嘘ではありませんか」
「実際に条件が合えば、品を卸します」
「調べるためだけに、取引を始めるのですね」
「利益が出ない取引はいたしません」
景仁が咳を抑えながら、麗華へ尋ねた。
「宮中へ出入りする商人を、銀で買うつもりか」
「買うのではございません。品を売り、代金を受け取ります。その取引の中で、相手が何を求めているかを見ます」
「相手が、宮中の内情を話す代わりに銀を求めた場合はどうする」
「話の内容を確かめ、払う価値があれば払います」
「その銀は帳簿へ記すのか」
「はい。童貫様からも、宮中の者へ渡した銀はすべて記すよう命じられております」
静蘭が顔を上げた。
「宮中へ入る前から、誰かへ銀を渡すつもりなのですか」
「必要がなければ渡しません」
「麗華。私が恐れているのは、銀を失うことではありません」
「何を恐れておられるのですか」
「お前が、銀さえあれば人を動かせると思うことです」
麗華はすぐに答えなかった。
華宝舗では、銀で品を買える。人を雇うこともできる。
だが、崔家は銀だけでは麗華を娘にしなかった。静蘭も、謝礼を受け取ったから琴と礼法を教えたのではない。
「銀を受け取らない者がいることは、承知しております」
「受け取っても、動かない者もいます」
「はい」
「銀を受け取り、お前の敵へ話す者もいます」
「その者には、二度と渡しません」
「一度目に渡したことで、お前が宮中から追われるかもしれません」
麗華は静蘭を見た。
「では、母上なら、どのようになさいますか」
「私なら、まず人を見ます」
「何を見ればよろしいでしょうか」
「その者が誰に頭を下げ、誰の前で口を閉じるかです。欲しがる物だけを見てはなりません。その者が恐れている相手を見なさい」
麗華は静蘭の言葉を覚えるため、卓上の紙へ手を伸ばした。
「今の話を書いてもよろしいでしょうか」
「いけません」
「なぜでございますか」
「母から教わったことまで帳簿にする娘が、どこにいますか」
「忘れないためです」
「忘れないように、頭へ入れなさい」
麗華は筆から手を離した。
「承知いたしました」
「今の返事は、よろしいでしょう」
静蘭は女官選びの書付をたたんだ。
「商人を調べることは許します。ただし、昼からは琴の稽古です」
「午前だけでは、回れる店が限られます」
「では、明日は書を休みます」
「詩も休んでよろしいでしょうか」
「いけません」
「なぜ、詩だけ残すのですか」
「お前が最も苦手だからです」
麗華は反論しなかった。
景仁が口元を緩めた。
「後宮へ入るより、静蘭の稽古から逃げる方が難しいようだな」
「父上も笑っておられず、薬をお飲みください」
麗華は卓上の椀を景仁の前へ押した。
「兄上が付けた帳簿では、昨日の夕刻にも咳が続いております」
「お前は、自分の女官選びについて話していたのではないのか」
「父上の治療も、途中でございます」
景仁は椀を手に取った。
娘となってからも、麗華の話し方は商人の頃と大きく変わっていない。
しかし、景仁も静蘭も、そのことだけを叱ることはなくなっていた。
◇ ◇ ◇
麗華が最初に訪ねたのは、開封内城で絹を扱う許金福の店であった。
以前、白絹を仕入れた相手であり、宮中へ衣を納める商人とも取引がある。
麗華は華宝舗で扱う香料と染料の品書きを見せた。
「上質の蘇木と鬱金を、毎月そろえることができます」
「染物屋でも始めるのか」
「布を染める店へ卸します。宮中へ納める布を扱う方とも、取引をしたいと思っております」
金福の手が止まった。
「宮中へ納める品は、町の客へ売る品とは違う」
「どこが違うのでございますか」
「同じ色に染めても、毎回、同じ色にならなければ受け取られぬ。染料がよくても、布の織りが悪ければ返品される。納める日が1日遅れれば、次の注文を失うこともある」
「品を受け取るのは、宦官でございますか」
「中へ入れるところまでは男が扱う。そこから先は、女官の役目だ」
「どの役所の方でございますか」
金福は麗華を見た。
「随分、詳しく尋ねるのだな」
「返品された場合、誰の判断で戻されるのかを知らなければ、仕入れる量を決められません」
「品を調べる女がいる。だが、その女の名を知ったところで、会えるわけではない」
「お名前をご存じなのですか」
「以前は劉彩雲という女官が布を見ていた。今も同じ役目かは知らぬ」
「お幾つぐらいの方でしょうか」
「40歳には届いていないはずだ。糸のむらを見つける目は厳しい。賄賂を渡して悪い布を通そうとした商人が、宮中への出入りを止められたこともある」
「銀を受け取らない方なのですね」
「少なくとも、商人からは受け取らぬ」
「何を好まれますか」
「知らぬ。お前は布を売りたいのか、その女を買いたいのか」
「悪い布を通していただくつもりはございません。どのような品なら受け取られるかを知りたいのです」
金福は麗華の品書きをもう一度見た。
「ならば、来月までに蘇木を5斤そろえろ。私の取引先に見せる。値と品質が合えば、染料を買わせる」
「代金は、品をご覧になったあとで決めていただきます」
「先に値を出さぬのか」
「宮中へ納める品に使えるかどうかで、価値が変わります」
「相変わらず、損をしない女だな」
「損をすれば、次の品を仕入れられません」
麗華はその場で約束を書付へ残した。
劉彩雲という名は、帳簿へ書かなかった。
静蘭から、誰が何を恐れているかを見るよう教えられている。
商人から銀を受け取らず、悪い布を通そうとした者を出入り禁止にできる女であれば、金だけでは動かない。劉彩雲が恐れているのは、品の不備を見逃した責任か、さらに上の女官から受ける処分であろう。
麗華は、ほかの納入商人にも話を聞いた。
紙を納める店では、同じ厚さにすいた紙を100枚ずつ包むことを求められた。
白磁の瓶を扱う店では、傷だけでなく、口の大きさがそろっていなければ香油を移す際に量が変わると聞いた。
香料を扱う店では、重さが合っていても、湿気を含んだ品は受け取られなかった。
どの品にも、宮中へ運び込む男と、受け取って数える女がいる。
品が不足すれば、帳簿を付けた者が責められる。余っても、勝手に持ち出すことはできない。
麗華が後宮へ入った場合、最初に任されるのは、そのような品を運び、数え、保管する仕事かもしれなかった。
琴や詩では、長く学んできた娘たちに及ばない。
しかし、品名、数量、受け取った日、使った量を記すことなら、華宝舗で続けてきた仕事である。
麗華は、初めて自分が後宮へ持ち込めるものを見つけた。
銀だけではなかった。
◇ ◇ ◇
女官選びまで残り10日となった日、童貫は麗華を役所へ呼んだ。
麗華は、2か月間に調べた内容をまとめた書付を持参した。
童貫は最初の数行を読んだあと、麗華へ顔を向けた。
「誰が、宮中の納入商人を調べろと命じた」
「童貫様から、外から調べられることを調べるよう、お許しをいただきました」
「許したが、ここまで調べろとは申しておらぬ」
「止めるようにも命じられませんでした」
そばにいた役人が下を向いた。
笑いをこらえているようであった。
童貫は書付を読み進めた。
「劉彩雲の名を、なぜ記していない」
「ご存じであったのですか」
「私が知らぬと思ったか」
「いいえ。ただし、この書付が誰の手へ渡るか分かりません。宮中の女官の名を、商人から聞いた話だけで記すべきではないと考えました」
「では、なぜ私には話した」
「童貫様が、ご存じであると分かったからです」
「随分、用心するようになったな」
「母上から教わりました」
「静蘭は、何と申した」
「人が欲しがる物だけでなく、誰に頭を下げ、誰を恐れているかを見よと申しました」
「それで、劉彩雲は誰を恐れている」
「まだ分かりません」
「分からぬのか」
「商人から銀を受け取らず、悪い布を通そうとした者を退けたことは分かりました。しかし、それが務めに忠実だからか、上役の処分を恐れているからかは分かりません」
「分からぬことを、勝手に決めなかったのはよい」
童貫は書付を卓上へ戻した。
「選びには、崔家の娘として出ろ。華宝舗の名は、自分から話すな」
「商いをしていたことも隠すのでございますか」
「尋ねられれば答えよ。だが、銀を持っていることを誇れば、宮中へ入る前に目を付けられる」
「誰にでございますか」
「銀を欲しがる者と、商人の娘を見下す者の両方だ」
「女官選びで、何を見られるのでしょうか」
「身元、健康、姿、言葉遣い、読み書き、針仕事だ。琴や詩を試される者もいる」
「すべて同じように試されるのですか」
「入れる役目によって違う」
「私を選ぶ方は、どなたですか」
「名を知ってどうする」
「その方が求める女官になれるよう、備えます」
「残り10日で、人が変わると思うか」
「変えられないところは隠しません。使えるところを見せます」
童貫は麗華をしばらく見た。
「女官に選ばれるため、銀を渡そうとするな」
「渡す相手が分かりません」
「分かれば渡すのか」
「童貫様が禁じておられますので、渡しません」
「禁じなければどうする」
「選ばれるだけのためには、渡さないと思います」
「なぜだ」
「銀を受け取った方に弱みを握られます。宮中へ入ったあと、さらに求められるからです」
「少しは考えたようだな」
「母上からも、同じことを申されました」
「静蘭の娘になった甲斐はあったようだ」
童貫は女官選びの書付を麗華へ返した。
「選ばれなかった場合は、どうする」
「理由を調べ、次の機会を探します」
「年を取れば、次は受けられぬかもしれぬ」
「その時は、別の道を探します」
「妃や女官へ品を納め、外から近づくのか」
「それも1つでございます」
「諦めるとは申さぬのだな」
「申しません」
童貫はそれ以上、尋ねなかった。
麗華は書付を受け取り、役所を出た。
選びまで、あと10日である。
琴を長く学ぶことはできない。
詩を何十首も覚えることもできない。
だが、知らないことを知っているように見せず、自分が何をできるかを相手へ伝えることはできる。
それは商いと同じであった。
◇ ◇ ◇
女官選びの前夜、崔家では、静蘭が麗華の髪を結っていた。
鏡の前に座る麗華は、薄い青色の上着と白い裙を着ている。
華美な刺繍はなく、髪飾りも崔家に以前からあった銀の簪1本だけであった。
「華宝舗で買った簪ではないのですか」
麗華が尋ねた。
「これは、私が崔家へ嫁いだ時に、母から持たされた物です」
静蘭が答えた。
「私が使ってよろしいのでしょうか」
「崔家の娘が使うのです。何か問題がありますか」
「ございません」
「では、動かないでいなさい」
静蘭は麗華の髪へ簪を挿した。
麗華は鏡の中にいる自分を見た。
華宝舗の女主人として客の前へ出る時は、品の良し悪しを見分けられる者に見える衣装を選んできた。若い娘と侮られないよう、濃い色の衣服を着ることも多かった。
今の麗華は、商人ではなく、元官人の家で育てられた娘に見えた。
「母上」
「何ですか」
「選ばれた場合、すぐに宮中へ入るのでしょうか」
「支度のため、何日かは戻れるはずです」
「戻れない場合は、華宝舗へ伝えてください」
「店の心配ですか」
「春梅へ、次の仕入れについて書付を残してあります。ただし、蘇木の値が1斤当たり――」
「今、その話をするのですか」
「宮中へ入れば、すぐには伝えられません」
「文亮に預けなさい」
「兄上は、絹と染料の値をご存じありません」
「ならば、分かるように書くのです」
「すでに書いてございます」
静蘭は麗華の肩へ手を置いた。
「それなら、店のことは置いていきなさい」
「捨てるのではございません」
「置いていくのです。お前が戻る場所として、ここに残します」
麗華は鏡の中の静蘭を見た。
「戻らないつもりで入りとうございます」
「宮中から追われることも、病で戻されることもあります」
「その時は、失敗した理由を調べます」
「母としては、戻ってきてもよいと申しているのです」
麗華は振り返った。
「後宮へ入ることに、今も反対でございますか」
「反対です」
「では、選ばれない方がよいと思っておられますか」
静蘭はすぐに答えなかった。
「選ばれず、お前が崔家へ残れば、私は安心します」
「はい」
「しかし、お前が望んだ道へ進めず、何年もそのことを悔やむ姿は見たくありません」
静蘭は麗華の肩から手を離した。
「ですから、明日は選ばれてきなさい」
「承知いたしました」
「ただし、皇帝陛下のお目に留まることだけを考えてはなりません。まず、宮中で生きなさい」
「はい、母上」
客間へ行くと、景仁と文亮が待っていた。
文亮は小さな帳面を麗華へ差し出した。
「宮中へ持ち込めるか分かりませんが、紙をとじました」
「何を書くためですか」
「姉上は、書く物がなければ困るでしょう」
麗華は帳面を開いた。
1枚目には、文亮の字で、崔家の住所と、父母、兄の名が記されている。
「これは何ですか」
「宮中で身元を尋ねられた時、間違えないためです」
「父上と母上の名を忘れると思ったのですか」
「姉上は緊張しないのでしょうか」
「すると思います」
「そうは見えません」
「選ばれるかどうかは、明日にならなければ分かりません。今から緊張しても、変わりません」
「やはり、いつもの姉上です」
麗華は帳面を閉じた。
「ありがとうございます、兄上」
景仁は咳を抑えたあと、麗華へ告げた。
「選ばれるために、崔家を大きな家に見せる必要はない」
「分かっております」
「父が高い官位にあったと申すな。私が今も童貫様のもとで働いているとも申すな」
「そのような嘘は申しません」
「お前は嘘をつかぬ代わりに、相手が勝手に思い違いをするよう話すことがある」
麗華は景仁を見た。
「父上は、私をそのような娘と思っておられるのですか」
「違うのか」
「商いでは、尋ねられなかったことまで話す必要はございません」
「明日は、商いではない」
「はい」
「分からぬことは分からぬと答えよ。できぬことをできると申すな」
「承知いたしました」
景仁はうなずいた。
「それでよい」
麗華は父母と兄へ頭を下げた。
翌朝、崔家の娘として、女官選びへ向かうことになった。
◇ ◇ ◇
女官選びが行われた建物には、開封と周辺の州県から集められた娘たちが並んでいた。
麗華より年下に見える者もいれば、すでに宮中で働いた経験があると思われる者もいる。
衣服は華美でなくても、上質な布を使っている娘がいた。母や叔母から長く礼法を学んだのであろう。立って待つ姿にも乱れがない。
麗華は自分より美しい娘を3人見つけた。
琴を持参した娘もいる。
針仕事を包んだ箱を抱える者もいた。
麗華が持っているのは、身元を記した書付と、文亮が作った小さな帳面だけである。
最初に、名、年齢、父母、住まいを確認された。
「名は」
「崔麗華でございます」
「年は」
「16歳でございます」
「父は」
「崔景仁でございます。以前は軍需の帳簿を扱う役に就いておりましたが、病のため退いております」
「母は」
「曹静蘭でございます」
「実の父母ではないな」
麗華の前にいた役人は、養女の記録を見ていた。
「はい。私は幼い頃に家族を失い、清河県の陸家に引き取られました。その後、崔家の養女となりました」
「実の父母の名は」
「存じません」
「出生地は」
「存じません」
「なぜ、崔家の養女となった」
「父上と母上が、娘として受け入れてくださいました」
「それだけか」
「父上の治療と、兄上の学費、私が崔家で暮らすための衣食は、私が負担しております。ただし、養女となる代金は渡しておりません」
役人の筆が止まった。
「自分の銀を持っているのか」
「はい」
「どのように得た」
「清河県で華宝舗という店を営み、古物、薬材、香料を扱っております」
後ろに並ぶ娘たちの間で、小さな声がした。
役人も麗華の顔を見直した。
「店の女主人が、なぜ女官になろうとする」
「宮中でお仕えしたいからでございます」
「店はどうする」
「奉公人に任せます」
「宮中へ店の銀を持ち込むつもりか」
「許されない物は持ち込みません」
「銀を使い、役目を得ようと考えているのではないか」
麗華は一呼吸置いた。
「役目を銀で買えば、銀を受け取った方のために働くことになります。私は、与えられた役目を果たしたうえで、次の役目を求めます」
「銀を使わぬとは申さぬのだな」
「使ってはならないと定められた場所では、使いません」
役人は麗華の書付へ何かを書き加えた。
麗華には、その内容を見ることができなかった。
次に、歩き方、座り方、食事の作法を見られた。
静蘭に何度も直された動きである。
椀を取る時、麗華の指が一度だけ早く動いた。
静蘭なら、すぐにやり直しを命じたはずであった。
だが、選びの場では、誰も間違いを教えない。
見る者は、黙って書付へ印を付けただけである。
書では、示された文章を書き写した。
麗華は帳簿のように速く書かず、字と字の間をそろえた。
詩の意味を尋ねられた時は、花の美しさだけを答えず、その花を見て故郷に残した母を思う詩であると答えた。
琴では、静蘭から習った短い曲を弾いた。
途中で弦を押さえる指が強くなり、音がわずかに途切れた。
麗華は止まらず、最後まで弾いた。
「琴を学んで、何年になる」
女官の1人が尋ねた。
「2か月でございます」
部屋にいた者たちが顔を上げた。
「2か月で、この選びを受けたのか」
「はい」
「長く学んだように見せようとは思わなかったのですか」
「尋ねられれば、2か月とお答えします」
「では、得意なものは何です」
「帳簿でございます」
「後宮で商いをするつもりですか」
「いいえ。品名と数を確かめ、受け取った量と使った量を記すことができます」
女官は卓の上に置かれていた紙を麗華へ渡した。
紙には、布、糸、香、油、紙、炭の数量が記されている。
「この品書きを見なさい」
麗華は紙を受け取った。
同じ品が、受け取った日ごとに分けて記されている。使った数と残った数も書かれていた。
「何かおかしいところがありますか」
「1か所だけでございますか」
「見つけたものを申しなさい」
「白絹は50疋を受け取り、12疋を使っております。残りは38疋でございます。しかし、こちらには39疋と記されております」
「ほかには」
「香油の瓶は、受け取った数と使った数が合っております。ただし、前日の残り2瓶が加えられておりません」
「ほかには」
「炭は重さで受け取り、籠の数で使った量を記しております。このままでは、残りの重さを確かめられません」
女官は、麗華から紙を受け取った。
「琴より、こちらの方がよいようですね」
「はい」
「詩よりもですか」
「はい」
「随分、迷わず答えるのですね」
「琴と詩については、母上から、まだ人前へ出せるものではないと申されております」
そばにいた別の女官が尋ねた。
「それでも、なぜ披露したのですか」
「命じられたからでございます」
最初の女官が、わずかに口元を緩めた。
「下がりなさい」
麗華は礼をして部屋を出た。
選ばれたかどうかは、その場では告げられなかった。
◇ ◇ ◇
崔家へ結果が届いたのは、7日後であった。
役所の使いが持参した書付を、景仁が開いた。
静蘭と文亮が左右からのぞき込む。
麗華は向かいに座り、景仁が読み終えるのを待った。
「姉上は、選ばれたのですか」
文亮が先に尋ねた。
「今、父上が読んでおられます」
「姉上は、気にならないのですか」
「気になります。しかし、横から読めば父上に叱られます」
「麗華」
景仁が顔を上げた。
「はい」
「宮中へ入るよう命じられている」
文亮が息を吐いた。
静蘭は何も言わなかった。
麗華は両手を膝の上へ置いたまま、景仁を見た。
「どの役目でございますか」
「最初に尋ねるのが、それか」
「役目によって、用意するものが変わります」
景仁は書付を麗華へ渡した。
「衣服や布を扱うところへ回されるようだ。まず見習いとして、受け取った品を運び、数を確かめる」
「尚服局でございますか」
「その下で働くことになる。位を得た女官ではない。名を呼ばれる時も、崔家の娘としてではなく、働く女の1人として扱われる」
「承知しております」
「3日後に入るよう記されている」
「持ち込める物は、どこに書かれておりますか」
「麗華」
静蘭が呼んだ。
麗華は書付から顔を上げた。
「何でございますか、母上」
「選ばれたのですよ」
「はい」
「少しは、うれしそうな顔をしなさい」
麗華は静蘭を見た。
「うれしゅうございます」
「そうは見えません」
「まだ、皇帝陛下にお会いできるわけではございません」
「分かっています」
「宮中へ入ったあと、どなたのもとで働くかも分かりません」
「それも分かっています」
「今から喜べば、気が緩みます」
静蘭は立ち上がり、麗華のそばへ来た。
「では、今日だけ喜びなさい。明日から、気を引き締めればよろしい」
麗華が返事をする前に、静蘭はその肩を抱いた。
麗華の体が固くなった。
陸家へ拾われてからも、華宝舗を持ってからも、誰かにこのように抱かれた記憶は少ない。
「母上」
「何ですか」
「苦しゅうございます」
「少し我慢しなさい」
「はい」
文亮が笑った。
「姉上にも、我慢できないことがあるのですね」
「兄上。父上の薬の帳簿は、私がいなくなっても続けてください」
「今、その話をするのですか」
「母上から離していただくまで、ほかにすることがございません」
静蘭は麗華の肩から手を離した。
「この娘は、本当に変わりませんね」
「変わらぬから、宮中でも生きられるかもしれぬ」
景仁が告げた。
麗華は、もう一度、選びの書付を読んだ。
女官選びには通った。
だが、皇帝の名は、どこにも書かれていない。
麗華へ与えられたのは、宮中で使う布を運び、その数を確かめる仕事である。
皇帝からは遠い。
それでも、宮中の外にいた昨日より、門を1つ進んだ。
◇ ◇ ◇
宮中へ入る朝、麗華が持つことを許された荷は少なかった。
着替え、櫛、布、許可された紙と筆、薬、崔家の書付である。
銀は、わずかな額しか持ち込めない。
華宝舗の帳簿は、崔家へ残した。
店の印も、静蘭に預けている。
門の前まで、景仁、静蘭、文亮が見送りに来た。
「父上。薬を飲んだあとは、半刻ほど横になってください」
「分かっている」
「兄上。咳が増えた場合は、医師を呼んでください。薬を勝手に増やしてはなりません」
「分かりました」
「母上。華宝舗から帳簿が届いた場合は――」
「文亮と確かめます」
「蘇木の取引は――」
「許金福殿から返事が来てから決めます」
「清河県へ送る銀は――」
「お前が書き残した通りにします」
静蘭は麗華の衣服の襟を直した。
「宮中で、困ったことがあっても、すぐに銀を使ってはなりません」
「はい」
「相手が誰に頭を下げるかを見なさい」
「はい」
「お前を嫌う者がいても、すぐに敵と決めてはなりません」
「なぜでございますか」
「嫌うことと、陥れることは違います」
「承知いたしました」
「食事は残さず、眠れる時に眠りなさい」
「はい、母上」
景仁が麗華へ告げた。
「崔家の名を守ることより、まず命を守れ」
「しかし、私が問題を起こせば――」
「生きて戻れば、家で叱ることができる。死ねば、それもできぬ」
麗華は父を見た。
「承知いたしました」
文亮は、先日渡した小さな帳面を指した。
「姉上。父上と母上の名は、書いてあります」
「忘れません」
「宮中で、誰も信じられないと思った時に読んでください」
「兄上の名も書いてございました」
「私だけ忘れられては困ります」
「忘れません」
麗華は3人へ頭を下げた。
「行ってまいります」
「はい」
静蘭が答えた。
「戻る場所は、ここです」
麗華は門へ向かった。
宮中の門を越えると、見送りに来た家族の姿は見えなくなった。
中では、同じ日に入る娘たちが並ばされていた。
名を確認され、荷を調べられ、衣服と寝所について説明を受ける。
麗華たちを指導する女官は、30歳ほどに見えた。
「私は孫玉英です。今日から、お前たちの仕事を見ます」
玉英は娘たちの顔を順に見た。
「ここでは、家が裕福であったことも、父が役人であることも役には立ちません。命じられた物を運び、数を間違えず、勝手に口を利かない者だけが残ります」
1人の娘が尋ねた。
「皇后様や妃の方々へ、衣をお届けすることもございますか」
「お前たちが直接、お渡しすることはありません」
「皇帝陛下のお召し物を扱うことは――」
「ありません」
玉英は即座に答えた。
「お前たちが運ぶのは、倉から作業場までの布と糸です。汚せば弁償では済みません。数を間違えれば、全員が調べられます。外で何を学んできたかは知りませんが、ここでは最初から覚えなさい」
麗華は黙って聞いた。
最初に案内されたのは、布を保管する倉であった。
棚には、色と種類ごとに分けられた布が積まれている。札には、受け取った日と数量が記されていた。
麗華は棚の前に立つ女官を見た。
40歳には届いていない。
布を持つ手は細いが、目は品の表面から離れない。
女官は、納入された白絹を広げ、端から端まで確かめていた。
「彩雲様。新しく入った者たちでございます」
玉英が頭を下げた。
麗華は、許金福から聞いた名を思い出した。
劉彩雲である。
彩雲は新しく入った娘たちを見たあと、白絹の一部を指した。
「この布を、そちらへ運びなさい」
2人の娘が前へ出た。
「待ちなさい」
麗華は声を上げかけ、口を閉じた。
勝手に口を利くなと命じられたばかりである。
だが、運ばれようとしている白絹の端には、細い染みがあった。
玉英が麗華の動きに気づいた。
「何ですか」
「申し上げてもよろしいでしょうか」
「申してみなさい」
「その白絹の端に、染みがございます」
布を持った娘たちが足を止めた。
彩雲は麗華を見た。
「どこです」
麗華は布へ触れず、染みのある箇所を指した。
彩雲が白絹を広げる。
薄い茶色の跡が、端から指2本分ほど内側に残っていた。
「よく見つけましたね」
「華宝舗で、布と古物を扱っておりました」
「店の娘ですか」
「店を営んでおりました」
玉英の眉が動いた。
ほかの娘たちも麗華を見る。
彩雲だけは、表情を変えなかった。
「ここは、お前の店ではありません」
「承知しております」
「では、勝手に布へ値を付けてはなりません」
「はい」
「ただし、傷や染みを見つけた時は申告しなさい。黙って運べば、お前も見逃した者になります」
「承知いたしました」
彩雲は染みのある布を別の棚へ移すよう命じた。
麗華は自分に割り当てられた布を抱え、ほかの娘たちと作業場へ向かった。
皇帝のいる場所は分からない。
皇后や妃の姿も見えない。
麗華が最初に覚えたのは、布を置く棚の位置と、倉から作業場までの道であった。
その日の仕事が終わったあと、玉英は麗華たちを狭い部屋へ集めた。
「明日からは、日の出前に起きなさい。遅れた者は食事を取れません」
娘たちが返事をした。
麗華も頭を下げた。
「はい」
寝所へ入ると、6人が同じ部屋で休むよう命じられた。
華宝舗の帳場も、崔家で与えられた部屋もない。
店の者を呼ぶこともできず、母へ相談することもできない。
麗華は文亮から渡された小さな帳面を開いた。
最初の頁には、父、母、兄の名が並んでいる。
その次の頁へ、今日覚えた名を書いた。
孫玉英。
劉彩雲。
玉英は、新しく入った娘たちを直接指導する。
彩雲は、倉へ入る布を調べ、玉英も頭を下げる。
誰が誰へ命じ、誰が誰に頭を下げるか。
麗華は、母から教わった通りに記憶した。
だが、まだ誰にも銀を渡していない。
誰が味方となるかも、誰が敵となるかも分からない。
皇帝へ続く道も見えなかった。
麗華が進んだのは、後宮の最下層にある、布を運ぶ女たちの中までである。
それでも、門の外にはいない。
翌朝も、命じられた布を運ぶ。
数を覚え、棚を覚え、人を覚える。
その中から、皇帝へ近づく道を探す。
麗華は帳面を閉じ、灯を消した。
後宮での最初の夜であった。
後編2では、崔家の養女となった麗華が、2か月後の女官選びに備えた。
養父の崔景仁は37歳、養母の曹静蘭は32歳である。兄の崔文亮は、麗華と同じ16歳である。
麗華は静蘭から礼法、書、琴、詩を学う一方、宮中へ納められる布、紙、白磁、香料の流れを調べた。
その過程で、宮中へ品を運び込む商人だけでなく、受け取った品を調べ、数を記し、保管する女官がいることを知った。
麗華は、琴や詩では長く学んだ娘たちに及ばない。しかし、華宝舗で身につけた帳簿、品物の鑑定、数量の管理は、宮中でも使える能力であった。
女官選びでは、麗華は自分が清河県で華宝舗を営んでいたことを隠さなかった。琴を学んだ期間が2か月であることも正直に答え、与えられた品書きの誤りを見つけた。
選びに通った麗華は、衣服や布を扱う場所へ、見習いとして入ることになった。
ただし、皇帝の衣を直接扱う役目ではない。
倉から作業場へ布と糸を運び、その数を確かめる、最下層の仕事である。
宮中へ入った初日、麗華は、新人を指導する孫玉英と、納入された布を調べる劉彩雲に出会った。
麗華はまだ皇帝の姿を見ていない。
皇后や妃に近づく道も分かっていない。
しかし、誰が誰に命じ、誰が誰へ頭を下げるかを見始めた。
後宮の門は開いた。
皇帝へ続く道を探す戦いは、最下層の倉から始まる。




