第3話(後編2)――「後宮の最下層」
童貫から書付を受け取った翌朝、崔麗華は崔家の客間で父母と向かい合っていた。卓には女官選びの日取りと、必要な書類を記した紙が並んでいる。
麗華は童貫とのやり取りを説明した。推薦者の名は表へ出さず、崔家の娘として選びを受ける。その準備と並行して、宮中へ納められる布、香料、紙、白磁の瓶について調べたいと申し出た。
「品がどこへ運ばれ、誰が受け取るかを知っておけば、選ばれたあとにも役立ちます。誰の許しがなければ動かせないのかも、外で分かる範囲は確かめたいのです」
曹静蘭は、商人に尋ね回れば、娘が後宮へ入ろうとしていると知られるのではないかと心配した。
「華宝舗の取引先を増やすため、納入商人へ品を卸せないか尋ねます。条件が合えば、実際に商いをいたします」
「内情を聞くために、儲からない仕事まで引き受けるつもりではないでしょうね」
「利益の出ない取引はしません。品を売る中で、相手が何を必要としているかを見ます」
崔景仁は咳を抑え、話の代わりに銀を求められた場合の扱いを尋ねた。麗華は内容を確かめ、払う価値があれば払うと答えた。宮中の者へ渡す銀は全て記録するよう、童貫からも命じられていた。
静蘭は書付から顔を上げた。
「私が恐れているのは、銀を失うことではありません。受け取った相手がお前の敵へ話せば、一度の支払いで宮中から追われるかもしれないのです」
「その危険を、どう見分ければよいのでしょうか」
「欲しがる物だけを見ず、誰に頭を下げ、誰の前で口を閉じるかを見なさい。相手が何を恐れているかを知ることも必要です」
麗華は紙へ手を伸ばし、書き留めてよいかと尋ねた。静蘭は筆を取らせず、母から教わったことくらい頭に入れなさいと告げた。
「商人を訪ねるのは構いません。ただし、昼からは琴の稽古です」
「午前だけでは回れる店が限られます。明日は書と詩を休ませていただけませんか」
「書は休んでも、詩は続けます。最も苦手なものを後回しにしてはいけません」
麗華が引き下がると、景仁は後宮へ入るより静蘭の稽古から逃げる方が難しそうだと笑った。麗華は卓上の薬の椀を父の前へ寄せた。
「父上も、笑っておられず薬をお飲みください。兄上の記録では、昨日の夕方も咳が続いています」
「今はお前の選びについて話していたのではないか」
「父上の治療も、まだ途中です」
景仁は椀を取り上げた。娘になっても、麗華の物言いには商人だった頃の癖が残っていたが、父母はそればかりを直そうとはしなくなっていた。
◇ ◇ ◇
麗華は、白絹の仕入れで取引のある許金福を訪ねた。宮中へ衣を納める商人とも付き合いがあると聞き、華宝舗で扱う染料の品書きを見せた。
「上質の蘇木と鬱金を毎月そろえられます。宮中へ納める布を染める方にも、ご覧いただけませんか」
「宮中向けは、町で売る品より厳しいぞ。毎回同じ色に染めなければならず、布の織りが悪ければ染料がよくても返される。1日の遅れで、次の注文を失うこともある」
「受け取りや返品の判断は、どなたがなさるのでしょうか」
金福は麗華を見た。
「随分詳しく知りたがるな」
「どこで、どのような理由で戻されるかが分からなければ、仕入れの量を決められません」
金福によれば、宮中へ運び込むところまでは男が扱い、その先で女官が品を調べていた。以前、布を見ていたのは劉彩雲という女官で、40歳には届いていないはずだという。
「糸のむらを見つける目は厳しい。悪い布を通そうと賄賂を持ちかけ、出入りを止められた商人もいた」
「銀を受け取らない方なのですね」
「少なくとも、商人からは受け取らぬ」
「好みなどは、ご存じでしょうか」
「お前は布を売りたいのか、その女を買いたいのか」
麗華は、質の悪い品を通してもらうつもりはなく、求められる品を知りたいのだと答えた。金福は品書きを読み直し、来月までに蘇木5斤を用意するよう求めた。取引先に見せ、値と品質が合えば買わせるという。
「使える品かを見ていただいてから、代金を決めましょう」
「先に値を示さぬとは、相変わらず損をしない女だ」
「次の仕入れを続けられる値で、お取引をしたいのです」
約束は書付に残したが、彩雲の名は帳簿に記さなかった。商人から銀を受け取らず、出入りを止める判断までできる女官だった。務めに厳しいのか、不備を見逃した責任を恐れているのか、それはまだ分からなかった。
ほかの納入商人にも話を聞いた。紙は厚さをそろえて100枚ずつ包み、白磁の瓶は傷だけでなく口の大きさもそろえる必要があった。香油を移す際、瓶ごとに量が変わっては困るからだった。香料は重さが合っていても、湿気を含めば受け取られなかった。
どの品にも、運び込む者と、数を確かめて受け取る者がいる。不足すれば帳簿を付けた者が責められ、余っても勝手には持ち出せない。麗華が初めに任されるのも、そうした品を運び、数え、保管する仕事かもしれなかった。
琴や詩では、幼い頃から学んだ娘には及ばない。しかし、受け取った品と使った量を記し、現物と照らし合わせる仕事なら、華宝舗で毎日続けてきた。麗華は宮中でも役立てられる経験があると分かり、納品後の扱いにも注意を向けるようになった。
◇ ◇ ◇
選びまで10日となった日、麗華は童貫へ調査の書付を持参した。童貫は数行読んだところで顔を上げた。
「外から調べることは許したが、ここまで納入商人を調べろとは命じていない」
「止めるようにも命じられませんでしたので、商いに必要なところを確かめました」
そばの役人が顔を伏せた。童貫は読み進め、彩雲の名がないことを尋ねた。
「商人から聞いただけの女官の名を、誰の手へ渡るか分からない書付には残せません」
「それで、彩雲が誰を恐れているかは分かったのか」
「まだ分かりません。銀を断ったのが務めに忠実なためか、上役の処分を恐れたためかも、今の話だけでは決められません」
童貫は、分からぬことを決めつけなかった点はよいと答えた。
「選びでは、華宝舗の名を自分から話すな。尋ねられたら答えればよい。銀を持つことを誇れば、欲しがる者にも商人を見下す者にも目を付けられる」
「試されることを、お教えいただけますか」
「身元、健康、姿、言葉遣い、読み書き、針仕事だ。役目によっては琴や詩も見られる。だが、残る10日で全てを変えようと思うな」
「できないことは隠さず、役立てられることを示します」
童貫は麗華を見据え、選ばれるために銀を渡してはならないと命じた。麗華は従うと答え、禁じられなくても、そのためだけには払わないと思うと付け加えた。
「受け取った相手に弱みを握られれば、入ってからも求められます。母上からも注意されました」
「静蘭の娘になった甲斐はあったようだな。落ちた時はどうする」
「理由を調べ、次の機会を探します。年齢で受けられなくなれば、品を納めるなど別の道を考えます」
童貫はそれ以上尋ねず、選びの書付を返した。麗華は礼をして退出した。残る日数では、琴の曲をいくつも増やし、詩を何十首も覚えることはできない。今できることを確実に示し、知らないことを知っているように振る舞わない。それを心に留めて、最後の稽古を続けた。
◇ ◇ ◇
選びの前夜、静蘭は鏡の前で麗華の髪を結い、衣装を確かめていた。薄い青の上着と白い裙に、華美な刺繍はなかった。髪に挿した銀の簪も、華宝舗で買った物ではなかった。
「私が嫁いだ時、母から持たされた簪です。明日はこれを使いなさい」
「大切な品を、お借りしてよろしいのでしょうか」
「崔家の娘が使うのです。遠慮することはありません」
鏡に映る姿は、濃い色の衣服で若さを侮られないようにしていた店の主人とは違っていた。麗華は、選ばれた場合にはすぐ宮中へ入るのかと尋ねた。静蘭は支度のため数日は戻れるはずだと答えたが、麗華は念のため、春梅へ伝える仕入れの指示を残してあると話し始めた。
「店のことは文亮へ預けなさい。分からない品なら、分かるように書いておけばよいのです」
「すでに書いてあります」
「それなら明日は置いていきなさい。捨てるのではなく、戻る場所として残しておくのです」
麗華は戻らないつもりで入りたいと答えた。静蘭はその肩へ手を置いた。
「追われることも、病で帰されることもあります。母としては、その時に戻ってきてよいと申しているのです」
「母上は、今も反対なのですね」
「反対です。選ばれず家に残れば安心します。ですが、望む道へ進めなかったことを、何年も悔やむ姿は見たくありません」
静蘭は簪の位置を直した。
「ですから、明日は選ばれてきなさい。ただし、陛下の目に留まることだけを考えず、まず宮中で生きるのです」
「はい、母上」
客間では景仁と崔文亮が待っていた。文亮は手で綴じた小さな帳面を差し出した。
「持ち込めるかは分かりませんが、書く物がないと困るでしょう」
初めの頁には崔家の住所と父母、兄の名が書かれていた。麗華が、家族の名を忘れると思ったのかと尋ねると、文亮は緊張した時のためだと答えた。
「兄上、ありがとうございます。私も緊張はすると思いますが、選ばれるかどうかは明日まで分かりません」
「やはり、いつもの麗華ですね」
景仁は、家を実際より大きく見せようとしてはならないと念を押した。自分が高官だったとも、今も童貫に仕えているとも言うなという。
「そのような嘘は申しません」
「お前は嘘をつかずとも、相手が思い違いをするよう話すことがある。明日は商いではない。分からぬことは分からぬと答え、できぬことをできると申すな」
麗華は父の注意を受け、3人へ頭を下げた。
◇ ◇ ◇
選びの会場には、開封と周辺の州県から来た娘が並んでいた。年下に見える者もいれば、すでに宮中で働いた経験がありそうな者もいた。上質な布を控えめに着こなし、待つ姿にも乱れのない娘がいる。麗華は、自分より美しいと思う者を3人見つけた。
琴を携えた娘や、針仕事を納めた箱を抱える者の間で、麗華は身元の書付と文亮の帳面だけを持って待った。
最初の確認では、名と年齢、父母、住所を答えた。役人は養女の記録を調べ、実の父母と出生地について尋ねた。
「どちらも存じません。家族を失い、清河県の陸家に引き取られ、その後、崔家の養女になりました」
「なぜ崔家が迎えた。銀を渡したのか」
「父の治療、兄の学費、自分の衣食は負担しております。ただし、養女になる代金は渡しておりません」
役人の筆が止まった。資金の出所を問われ、麗華は華宝舗を営み、古物や薬材、香料を扱っていると答えた。後ろの娘たちの間で声がしたが、振り返らなかった。
「店の主人が、なぜ女官になる。商いはどうするのだ」
「宮中でお仕えしたいと望んでおります。店は奉公人に任せます」
「銀で役目を得ようと考えているのではないか」
麗華は間を置いて答えた。
「役目を買えば、受け取った方のために働くことになります。与えられた仕事を果たし、そのうえで次の役目を求めたいと考えております。持ち込みや使用を禁じられた物は、決まりに従います」
役人は書付へ何かを書き加えた。麗華からは内容が見えなかった。
次に歩き方、座り方、食事の作法を見られた。椀に手を伸ばす時、1度だけ指が早く動いた。静蘭ならやり直させるところだったが、ここでは誰も直し方を教えず、見ている者が印を付けただけだった。
書は速さを抑え、文字の間隔をそろえて写した。詩の意味を問われると、花を見て故郷の母を思っていると答えた。琴は教わった短い曲を弾いた。途中で指に力が入り、音がわずかに途切れたが、止まらず最後まで続けた。
「琴を学んで何年になりますか」
女官に尋ねられ、2か月だと答えると、周囲の者が顔を上げた。
「その期間で選びを受けたのですね。では、最も得意なものは何ですか」
「帳簿です。品名と数を確かめ、受け取った量と使った量を記すことができます」
女官は卓の紙を渡した。布、糸、香、油、紙、炭について、入荷日と数量、使用量、残量が記されている。
「おかしいところを、見つけただけ申しなさい」
麗華は上から順に読み、白絹の欄を示した。
「50疋から12疋を使えば38疋ですが、残りが39疋になっています。香油は当日の出入りは合っていますが、前日の残り2瓶を加えておりません。炭は重さで受け取ったあと、籠の数で使用量を記していますので、この帳簿だけでは残りの重さを確かめられません」
女官は紙を受け取り、琴や詩よりこちらの方がよいようだと評した。麗華は迷わず認め、芸事はまだ人前へ出せないと母から言われていると答えた。
「それでも披露したのは、なぜですか」
「命じられたからでございます」
女官の口元がわずかに緩んだ。退出を命じられ、麗華は礼をしたが、その場では結果を知らされなかった。
◇ ◇ ◇
7日後、崔家へ結果の書付が届いた。景仁が開くと、静蘭と文亮がそばからのぞき込んだ。麗華は向かいで待ち、父が読み終えると顔を上げた。
「宮中へ入るよう命じられている。衣や布を扱う仕事の見習いだ」
「どの部署になりますか」
「尚服局の下で、まず品を運び、数を確かめる。位のある女官ではなく、働く女の1人として扱われる。入るのは3日後だ」
麗華は書付を受け取り、持ち込める物を探した。静蘭がその手を止めた。
「選ばれたのですよ。少しは喜んでもよいでしょう」
「うれしゅうございます。ただ、陛下にお会いできるわけではありませんし、どなたの下で働くかも分かりません」
「今日は喜び、明日から気を引き締めればよいのです」
静蘭は立ち上がって肩を抱いた。麗華は慣れない抱擁に体をこわばらせ、苦しいと訴えたが、少し我慢しなさいと返された。
文亮が笑うと、麗華は父の薬の記録を留守中も続けるよう頼んだ。
「今、その話をするのですか」
「母上に離していただくまで、ほかにすることがありません」
静蘭は手を離し、本当に変わらない娘だと言った。景仁は、変わらないから宮中でも生きられるかもしれないと答えた。
麗華はもう一度書付を読んだ。与えられたのは布を運び、数を確かめる仕事で、皇帝に近い役目ではなかった。それでも、これからは宮中で働くことができる。誰の命令で何が動くのかを、自分の目で見る機会は得られた。
◇ ◇ ◇
入る朝、許された荷は着替え、櫛、布、紙と筆、薬、身元の書付ほどだった。銀もわずかな額に限られた。華宝舗の帳簿は崔家に残し、店の印は静蘭へ預けた。
門まで父母と文亮が見送りに来た。麗華は父に薬のあとの休息を頼み、兄には咳が増えたら医師を呼ぶよう伝えた。続いて店の話を始めると、静蘭が先に答えた。
「帳簿は文亮と確かめます。蘇木の取引は金福殿の返事を待ち、清河県へ送る銀も書付どおりにします。心配するより、これからのことを考えなさい」
襟を直しながら、静蘭は困ってもすぐに銀を使わず、人の関係を見るよう教えた。
「嫌われたからといって、すぐ敵にしてもいけません。嫌うことと、陥れることは違います。あとは食事を取り、眠れる時に眠りなさい」
「はい、母上」
景仁は、家名より先に命を守れと告げた。
「生きて戻れば、家で叱ることができる。死ねば、それもできぬ」
文亮は小さな帳面を指した。
「誰も信じられないと思った時には、初めの頁を読んでください。父上と母上の名が書いてあります」
「兄上の名もありました。忘れません」
麗華は3人に礼をし、行ってくると告げた。静蘭は戻る場所はここだと答えた。門を越えると、家族の姿は見えなくなった。
中では同じ日に入る娘たちが並び、名と荷を調べられていた。衣服と寝所の説明をした女官は、30歳ほどに見えた。
「孫玉英です。今日からお前たちの仕事を見ます。家の豊かさや父の役職は、ここでは役に立ちません。命じた品を運び、数を間違えず、勝手に口を利かないことです」
娘の1人が、皇后や妃へ衣を届けることもあるのかと尋ねた。玉英は直接渡すことはないと答え、皇帝の衣を扱うのかという問いにも否と答えた。
「運ぶのは倉から作業場までの布と糸です。汚せば弁償だけでは済まず、数を間違えれば全員が調べられます。外で覚えたことがあっても、ここの扱いを最初から学びなさい」
案内された倉には、色と種類で分けた布が棚に積まれ、札に入荷日と数量が記されていた。1人の女官が白絹を広げ、端まで調べている。
「彩雲様、新しく入った者たちでございます」
玉英が頭を下げた。麗華は金福から聞いた劉彩雲の名を思い出した。40歳には届いていないように見え、布から目を離さない姿も聞いた話に合っていた。
彩雲は娘たちを見渡し、白絹を指して運ぶよう命じた。2人が前へ出た時、麗華は端に染みがあるのに気付いた。声をかけようとしたが、勝手に話すなという命令を思い出し、口を閉じた。
玉英がその様子を見た。
「何かありますか」
「申し上げてもよろしいでしょうか。その白絹の端に、染みが見えます」
娘たちが止まると、彩雲は場所を尋ねた。麗華は触れずに指し、彩雲が広げると、端から指2本ほど内側に薄茶色の跡があった。
「よく見つけましたね」
「華宝舗で布と古物を扱っておりました」
「店の娘だったのですか」
「自分で営んでおりました」
玉英や娘たちが麗華を見たが、彩雲の表情は変わらなかった。
「ここはお前の店ではありません。勝手に値を付けることは許しません。ただ、傷や染みを見つけたら申告しなさい。黙って運べば、お前も見逃した者になります」
「承知いたしました」
彩雲はその白絹を別の棚へ移させた。麗華も割り当てられた布を抱え、作業場へ向かった。皇帝がどこにいるのかも分からず、皇后や妃を見ることもなかった。初日に覚えたのは、棚の位置と、倉から作業場までの道だった。
仕事を終えると、玉英は翌日から日の出前に起きるよう命じた。遅れれば食事は取れないという。娘たちは返事をし、6人で使う寝所へ入った。
麗華には自分だけの部屋も、呼べば来る奉公人もいなかった。母へすぐ相談することもできない。文亮の帳面を開くと、初めの頁に家族の名があった。その次に玉英と彩雲の名を書き、覚えた役目を記した。
玉英が新人を直接指導し、その玉英も、布を調べる彩雲には頭を下げる。誰が何を命じるのかは少し見えたが、まだ味方も敵も分からず、銀を渡した相手もいなかった。
明日も布を運び、数と置き場を覚える。まず仕事を身に付け、その間に人の動きを見るつもりだった。麗華は帳面を閉じて灯を消した。後宮で最初の夜を迎えた寝所には、同室の娘たちが寝支度をする音が残っていた。




