第3話(後編1)――「崔家の娘」
童貫に後宮入りの望みを打ち明けた白麗華は、その前提となる身分を整えるため、崔景仁の家を訪ねることになった。
崔景仁は、かつて童貫のもとで軍需の帳簿を扱った官人である。病のため職を退き、妻の曹静蘭、16歳の息子である崔文亮と、開封の外城で暮らしている。
崔家に娘はいない。
ただし、銀を渡せば、すぐに娘になれるわけではなかった。
麗華は1か月間、週に3日、崔家へ通う。その間に静蘭から礼法、書、琴を学び、崔家は麗華の商いと評判を調べる。
麗華も、崔家の借金、親類、近所での評判を確かめる。
双方が受け入れられると判断して初めて、養女となる道が開かれるのである。
(1113年4月、北宋・開封府外城)
崔家の屋敷は、外城南東の通りから細い路地へ入った場所にあった。
通りに面した大きな門はない。塀の一部は雨で土が流れ、屋根瓦も数枚ずれていた。
しかし、門前は掃き清められていた。戸には壊れた箇所がなく、崔家の名を書いた札も傾いていない。
麗華が戸をたたくと、50歳ほどの男が出てきた。
「白麗華様でございますか」
「はい。本日、崔景仁様にお目にかかるお約束をいただいております」
「お待ちしておりました。どうぞお入りください」
男は崔家に長く仕える使用人で、何忠と名乗った。
麗華は門を入る前に、衣服の裾と履物を確かめた。
華美ではない青い上着に、濃い色の裙を合わせている。髪に挿したのは銀の簪1本だけである。
持参したのは、童貫の書付と、華宝舗の帳簿であった。
銀も薬も持っていない。
何忠に案内された客間には、崔景仁と曹静蘭が座っていた。その少し後ろには、息子の崔文亮が控えている。
景仁は37歳であった。
痩せた顔には血の気が乏しく、息を吸うたびに胸が小さく鳴った。卓上には湯の入った椀が置かれていたが、薬の臭いはしない。
静蘭は32歳である。髪を乱れなく結い、飾りの少ない衣服を着ていた。麗華が部屋へ入った時から、顔だけでなく、歩幅、手の位置、膝をつくまでの動きを見ていた。
文亮は父親に似て細身であった。麗華と同じ16歳だが、すでに経書を学んでおり、卓の脇には書物が重ねてある。
麗華は教えられた通りに礼をした。
「清河県より参りました、白麗華でございます。本日は、お目通りをお許しいただき、ありがとうございます」
静蘭が答える前に、景仁が口を開いた。
「童貫様から話は聞いている。まず座りなさい」
「はい」
麗華は用意された席へ移った。
腰を下ろした時、静蘭の視線が麗華の膝へ向いた。
「商家では、そのように座るのですか」
静蘭が尋ねた。
「失礼いたしました」
「謝る前に、どこが違うと思ったかを答えなさい」
麗華は自分の姿勢を確かめた。
「座る際、裙を払う手が大きく動きました。また、腰を下ろすのが早すぎたと思います」
「ほかにもあります。背が前へ傾きました」
「直します」
「今、立って、もう一度座りなさい」
麗華は立ち上がった。
裙の前を小さく整え、膝を曲げ、背を立てたまま腰を下ろした。
静蘭は何も言わなかった。
良くなったのか、まだ足りないのかも告げない。
何忠が茶を運んできた。
麗華は椀を受け取り、静蘭が手を伸ばすまで口を付けなかった。
「飲んでよろしいですよ」
静蘭に言われ、麗華は茶を一口飲んだ。
「熱くはありませんか」
「はい。ちょうどよい温かさでございます」
「今の答えは、商いの相手に対する答えです」
静蘭は自分の椀を置いた。
「家の中で母に答えるなら、それほど堅い言葉は使いません」
「私は、まだ曹様の娘ではございません」
「その通りです。ですから、今日はそれで構いません」
静蘭は麗華の顔を見た。
「しかし、1か月後も同じ答え方しかできないなら、娘として迎えることはできません」
「承知しました」
「その返事も、これから何度も直すことになります」
麗華は黙って頭を下げた。
銀を数える方法なら、一度教われば覚えられる。
品物の相場は、仕入れ値と売値を帳簿へ並べればよい。
だが、家族の中で使う言葉と、客に使う言葉は違う。相手の身分、年齢、親しさによっても変わる。
後宮へ入れば、それより多くの使い分けを求められる。
麗華は静蘭の言葉を一つも聞き流さなかった。
景仁は童貫の書付を開いた。
「華宝舗の帳簿を持ってきたそうだな」
「はい。昨年から現在までの、古物売買、小口貸し、注文品の帳簿でございます」
麗華は3冊の帳簿を差し出した。
景仁は最初の1冊を開いた。
「ずいぶん細かく分けている」
「元金を混ぜれば、どの商いで利益が出たのか分からなくなります」
「貸した相手が返さなかった場合は、どうする」
「返せない理由を調べます。病や事故であれば利息を止め、商いを続けながら元金を返させます。銭を賭け事に使った者には、二度と貸しません」
「情けをかけるのか」
「違います」
麗華は答えた。
「店を潰せば、元金を返す者もいなくなります。商いを続けさせた方が多く戻る場合に限り、待ちます」
文亮が麗華を見た。
娘を養女に迎える話を聞かされていたが、麗華がどのような女かは知らなかったのであろう。
景仁は貸付帳簿を文亮へ渡した。
「返済が遅れた者の頁を探しなさい」
文亮は帳簿をめくった。
「7人おります」
「そのうち、今も遅れている者は」
「2人です。1人は竹細工職人、もう1人は酒屋の女です」
麗華が答えた。
「竹細工職人は本人が病で働けません。息子の作った籠を華宝舗で売り、売上から返済させています。酒屋の女は、夫が残した借金を返しながら店を続けております。返済日は2度延ばしましたが、これまでに元金の8割が戻っております」
景仁は文亮へ尋ねた。
「帳簿と話は合っているか」
「はい。竹籠の売上と、酒屋から受け取った銭も別に記されています」
「では、次は清河県で、この帳簿が真実かを調べる」
景仁は帳簿を閉じた。
「私が童貫様の頼みを断れないと思っているか」
「思っておりません」
「私は童貫様に仕えた。今も恩を受けている。だが、頼まれたからといって、素性の分からぬ女を娘にはできない」
「はい」
「お前は、私たちが病と暮らしの苦しさにつけ込み、銀を受け取ると思っているのではないか」
「そのような方であれば、私も娘にはなりません」
静蘭の眉が動いた。
文亮は父親と麗華を交互に見た。
「お前も、私たちを調べるそうだな」
「はい」
「何を調べる」
「崔家に返していない借金があるか。親類の中に罪を犯した方がいるか。近所で争いを起こしていないか。私を養女にしたあと、華宝舗の財産を求める方が現れないかを調べます」
「実の娘でもないのに、親類を疑うのか」
「実の娘ではないからこそ、先に確かめます」
「私が、お前の店を家のものにすると言ったらどうする」
「養女になる話をお断りします」
景仁は咳き込んだ。
静蘭が背をさすり、何忠が湯を差し出した。咳はすぐに収まらず、景仁は布で口を押さえた。
麗華は席を立たなかった。
脈を診る知識もなく、病名も分からない状態で近づけば、かえって邪魔になる。
景仁の呼吸が落ち着くのを待ってから、麗華は尋ねた。
「いつから、その咳が続いておりますか」
「3年ほど前からだ」
「医師には診ていただきましたか」
「何人かに診せた」
静蘭が答えた。
「薬も飲みました。しかし、少し良くなっては、また悪くなります」
「飲まれた薬の書付と、残っている薬を拝見できますか」
「お前が薬を選ぶのですか」
「いいえ。私は医師ではございません。華宝舗が薬材を扱っているため、薬材の名と仕入れ値を確かめます。そのうえで、別の医師にも診ていただきます」
「高い薬を売るつもりではないのか」
文亮が尋ねた。
「華宝舗から売る場合も、仕入れ値と口銭を明らかにします。ほかの薬舗の方が安く、品もよければ、そちらから買ってください」
「それでは、華宝舗は儲からない」
「崔景仁様の治療で、華宝舗が大きく儲ける必要はございません」
「なぜですか」
「私が崔家の娘となれば、父の病で利益を取ることになります」
静蘭が麗華を見た。
「まだ娘ではありません」
「ですから、先に診ていただきます。娘となったあとに治療を始めれば、養女にした報酬として薬を渡したように見えます」
景仁は椀を置いた。
「童貫様が、病状を見ずに薬を持参すれば商人として失格だと申されたそうだな」
「はい」
「その意味は分かったか」
「分かりました。崔景仁様に必要なのは、薬材ではなく、病状に合った治療でございます」
「では、医師を連れてきなさい。ただし、私を診る前に銀を渡してはならぬ」
「承知しました」
麗華は再び礼をした。
その日は、養女の話を決めなかった。
静蘭から教えられたのは、客間への入り方、茶を受け取る手の位置、年長者に問われた時の答え方だけである。
それでも、同じ動作を何度もやり直したため、崔家を出る頃には日が傾いていた。
◇ ◇ ◇
翌日、麗華は周元達に頼み、開封で長く診療を続けている医師を2人紹介してもらった。
2人の医師には、別々の日に景仁を診せた。
最初の医師は、景仁がこれまで飲んでいた薬を調べ、体を温める薬が多すぎると指摘した。
次の医師は、咳だけでなく、食事の量、眠り、便通、足のむくみまで確かめた。すぐに強い薬を使わず、食事と睡眠を整えながら、10日ごとに薬を変える方がよいと診立てた。
麗華は両方の診立てを書き取り、静蘭へ渡した。
「どちらを信じればよいのですか」
静蘭が尋ねた。
「私には決められません。ただ、お2人とも、これまでの薬をそのまま飲み続けてはならないと申しております」
「薬をやめて悪くなったら、どうするのです」
「明日からすべてやめるのではなく、残っている薬と新しい薬を医師に見せ、重ならないようにします。10日後にも診ていただきます」
「そのたびに、診察の銭が要ります」
「童貫様から、治療と薬に銀30両まで使う許しをいただいております」
静蘭の顔が硬くなった。
「銀30両で、私たちに娘を受け入れろというのですか」
「違います」
「では、養女になれなかった場合でも払い続けるのですか」
「すでに始めた治療は、区切りがつくまで支払います。養女になれなかったからといって、途中で薬を止めれば、私が銀で崔家の返事を買おうとしたことになります」
「30両を使い切るつもりですか」
「必要のない薬は買いません。使わなかった銀は私のもとへ戻します」
「残りを私たちへ渡す気はないのですね」
「ございません」
静蘭はしばらく麗華を見たあと、薬の書付を受け取った。
「では、次の診察には私も立ち会います」
「お願いいたします」
「お前は口を出してはなりません。医師の話を聞き、書き留めるだけにしなさい」
「はい」
「今の返事は、少し早すぎます」
麗華は一呼吸置いた。
「承知いたしました」
「それでよろしい」
静蘭は初めて、麗華の返事を直さなかった。
◇ ◇ ◇
麗華が崔家へ通う日は、朝から昼まで礼法と書を学び、午後に琴と詩を教わった。
初めの10日間、静蘭は麗華に詩を作らせなかった。
詩を読ませ、意味を尋ね、誰が誰に向けて書いたものかを答えさせた。
麗華は文字を読むことはできたが、詩の決まりには詳しくない。
「春の花が美しいと書いております」
麗華が答えると、静蘭は首を振った。
「花が美しいことだけなら、庭を見れば分かります。この詩を書いた者は、花を見て、誰を思っていますか」
麗華はもう一度、詩を読んだ。
「都を離れた友を思っております」
「なぜ、そう思いましたか」
「最後の2句に、同じ花を別の場所で見る者が書かれているからです」
「では、最初からそのように答えなさい」
「はい」
「返事が早い」
「承知いたしました」
書では、筆を立てることからやり直した。
麗華は帳簿の文字を速く書く癖が付いていた。数字と品名が読めればよいため、線の太さや文字の間隔を考えていない。
静蘭は、麗華が書いた紙へ朱を入れた。
「この字は、銭を貸した相手へ渡す証文なら読めます。しかし、宮中へ出す書付には使えません」
麗華は静蘭の顔を見た。
静蘭は後宮という言葉を使わなかった。
だが、官人の家に入るだけなら、宮中へ書付を出す必要はない。
「童貫様から、お聞きになったのですか」
「何をですか」
「私が身分を求める理由でございます」
「私は、お前が良家の娘としての作法を必要としているとしか聞いておりません」
静蘭は新しい紙を置いた。
「ただし、普通の縁談に備える娘なら、これほど急いで学ばせる必要はありません。お前が何を望んでいるかは、いずれ自分の口で話しなさい」
「今、お話ししてもよろしいでしょうか」
「まだ聞きません」
「なぜですか」
「今のお前は、崔家に選ばれる前です。望みを聞けば、その望みに同情して娘にするのか、娘として受け入れたいのか、私自身にも分からなくなります」
静蘭は筆を麗華へ戻した。
「まず、この1行を書き直しなさい」
麗華はそれ以上尋ねなかった。
琴の稽古は、さらに進まなかった。
弦を押さえる指が強すぎ、音が途切れた。右手で弦を弾けば、次の指が遅れる。
3度続けて同じ箇所を誤ると、静蘭は麗華の手を止めた。
「商いのことを考えていますね」
「清河県から、帳簿が届く日でございます」
「今、帳簿はここにありますか」
「ございません」
「では、考えても銭は増えません」
「しかし、返済の遅れている者が――」
「琴を弾きながら銭勘定をする女を、誰が美しいと思いますか」
麗華は口を閉じた。
「後宮へ入りたいのでしょう」
静蘭が告げた。
麗華の指が弦の上で止まった。
「ご存じだったのですか」
「景仁から聞いたのは昨夜です」
「反対でございますか」
「反対です」
静蘭は即座に答えた。
「宮中がどのような場所か、お前は知らない。女官になれたとしても、陛下のお顔を遠くから見ることさえできず、年を重ねる女が大勢います。病になっても、家へ戻れるとは限りません」
「承知しております」
「承知しているはずがありません。入ったことがないのですから」
「では、教えてください」
「私も入ったことはありません」
「それでも、私より多くご存じです」
「知れば諦めますか」
「いいえ」
静蘭は麗華の顔を見た。
「では、なぜ教えるのです」
「諦めるためではなく、入ったあとに生き残るためです」
「お前は、陛下に見初められると思っているのですか」
「思っております」
「顔が美しいからですか」
「顔だけでは足りません」
「琴も満足に弾けないのに、何があるのです」
「銀と商いがございます」
「宮中へ店を持ち込むつもりですか」
「いいえ。しかし、人が何を欲しがり、何を恐れ、何を隠すかを見てきました。銀を渡して動く者と、銀を受け取っても動かない者がいることも知っております」
「宮中の女官を買うつもりですか」
「必要な相手には贈り物をします。ただし、最初から誰にでも配るつもりはございません」
「そのような振る舞いが知られれば、崔家も疑われます」
「崔家の名を使って銀を配ることはいたしません」
「お前が崔家の娘になれば、お前の行いと家の名は切り離せません」
麗華は琴から手を離した。
「では、私を娘にしないとお決めになりますか」
「まだ決めていません」
「私は、望みを変えません」
「分かっています」
静蘭は自分の手を弦へ置いた。
「だからこそ、琴を教えています」
静蘭が弦を弾いた。
先ほど麗華が何度も失敗した箇所を、ゆっくり演奏する。
「宮中で琴を弾く機会を得たとしても、1度失敗すれば、次はないかもしれません。華宝舗なら、失敗した商いを帳簿に残し、次の取引で取り戻せます。しかし、後宮では、やり直す機会を他人が与えるのです」
麗華は静蘭の指を見た。
「もう一度、弾きます」
「帳簿のことは忘れましたか」
「はい」
「今だけ忘れるのです。店を捨てる必要はありません」
麗華は弦へ手を戻した。
その日、同じ曲を最後まで間違えずに弾けたのは、日が傾いてからであった。
◇ ◇ ◇
清河県では、崔景仁の使いが華宝舗と陸家を訪ねていた。
使いは華宝舗の帳簿だけでなく、銭を借りた商人、古物を売った者、工房の職人から話を聞いた。
麗華が返済を厳しく求めること。
嘘をついた者には二度と銭を貸さないこと。
反対に、病や事故で商いを続けられなくなった者には、利息を止める場合があること。
品物の代金を値切ることはあっても、一度決めた額を後から減らしたことはない。
注文と異なる品は受け取らず、損が出ても華宝舗が買い取ると約束した品は引き取っている。
春梅は、崔家の使いに帳簿を見せたが、麗華の後宮入りについては何も話さなかった。
陸家では、趙淑英が麗華を拾った時のことから説明した。
両親も故郷も分からない娘であったこと。
言葉を覚え、薬材と帳簿を学んだこと。
陸文徳の妾になる道を選ばず、自分の銀で土地と店を買ったこと。
淑英は最後に使いへ尋ねた。
「麗華を養女にするという話は、本当ですか」
「崔家で決めることでございます。まだ、お約束はできません」
「崔家は、麗華の財産を求めているのではありませんか」
「そのような家かどうかは、麗華様も調べておられます」
「麗華らしいことです」
淑英は苦笑した。
「娘になろうとする家まで、先に調べるのですね」
その頃、麗華も崔家を調べさせていた。
周元達の店で働く者を通し、近所の米屋、薪売り、薬舗から話を聞いた。
崔家に大きな借金はなかった。
景仁が役を退いてから暮らし向きは苦しくなったが、使用人の給金を滞らせたことはない。家の修繕を延ばし、衣服を買い控え、文亮の書物を買う銭を残していた。
景仁には、城内で布を扱う従弟がいた。
その男は崔家へ何度か銭を貸すと申し出たが、景仁は断っている。代わりに文亮を店で働かせるよう求めたためである。
景仁は、息子を書物から離して商人にするつもりがなかった。
麗華はその従弟について、さらに調べさせた。
賭場へ出入りしている。
店の仕入れ代を2度滞らせている。
崔家が麗華を養女に迎えたと知れば、金を借りに来る可能性があった。
麗華は調べた内容を景仁へ渡した。
「私の従弟まで調べたのか」
「はい」
「私が、お前の銀を従弟へ渡すと思ったのか」
「崔景仁様が渡さなくても、従弟の方が、崔家の親類として華宝舗へ来るかもしれません」
「来たらどうする」
「通常の客として扱います。仕入れと売上を確かめ、返せると判断すれば貸します。親類であることを理由に条件は変えません」
「貸さないと決めているのではないか」
「今の状態では貸しません。しかし、商いを立て直し、賭場へ行かなくなれば、改めて調べます」
景仁は麗華が差し出した書付を文亮へ渡した。
「お前も読みなさい」
文亮は書付へ目を通した。
「父上。叔父上が華宝舗へ来た場合、私からも断ります」
「お前が口を出すことではない」
「しかし、麗華殿が姉上となれば――」
文亮は途中で言葉を止めた。
静蘭が文亮を見た。
「今、何と呼びましたか」
「まだ、姉上ではありません」
「そうではありません。麗華はお前と同じ16歳です。どちらが先に生まれたか、分からないでしょう」
文亮は困った顔をした。
麗華が答えた。
「文亮様が兄で構いません」
「なぜですか」
「崔家で先に暮らしておられます」
「家へ入った順で兄と妹が決まるものではありません」
静蘭は景仁へ顔を向けた。
「このことも、決めなければなりません」
景仁は久しぶりに笑った。
「では、文亮を兄としよう。麗華は崔家へ入るのだから、それでよい」
静蘭はすぐには答えなかった。
「あなたは、もう娘にすると決めたのですか」
「私は決めた」
「私は、まだ返事をしておりません」
「では、いつ決める」
「1か月が終わる日に決めます」
静蘭は麗華へ向き直った。
「それまでは、同じ稽古を続けます。娘になると決まったつもりで、気を緩めてはなりません」
「承知いたしました」
「今日は返事が遅すぎます」
麗華は静蘭の口元を見た。
わずかに笑っていた。
◇ ◇ ◇
1か月目の最後の日、麗華は朝から崔家を訪れた。
客間には景仁、静蘭、文亮だけでなく、何忠と、長く近所に住む2人の老人が呼ばれていた。
卓上には、養女とするための書付が置かれている。
まだ印は押されていなかった。
景仁が麗華へ尋ねた。
「崔家を調べた結果、娘になることを望むか」
「はい」
「私が病で再び働けなくても、その返事は変わらぬか」
「変わりません」
「崔家の財産が増えなくてもか」
「私は崔家の財産を求めておりません」
「では、何を求める」
「父、母、兄と呼べる方々と、調べられても崩れない身分でございます」
「身分だけではないのか」
麗華は少し考えた。
「最初は、身分だけを求めておりました」
「今は違うのか」
「はい。景仁様の病が悪くなれば、養女になれなくても治療を続けるつもりでございました。静蘭様に琴を教えていただけなくなれば、別の師を探すことはできます。しかし、同じように叱ってくださる方を見つけられるとは限りません」
文亮が麗華を見た。
「私については、何もないのですか」
「文亮様には、帳簿の誤りを2か所見つけていただきました」
「それだけですか」
「崔家の娘となれば、兄上とお呼びします」
文亮は姿勢を正した。
「では、私は妹と思って接します」
景仁は静蘭へ視線を移した。
「お前の返事は」
静蘭は、すぐには答えなかった。
「麗華。お前の望みを、自分の口から話しなさい」
麗華は静蘭の前へ進み、膝をついた。
「私は、後宮へ入りとうございます」
近所の老人たちは顔を見合わせた。
「後宮で、何を望むのです」
「皇帝陛下のお目に留まり、おそばへ召されることを望んでおります」
「女官になることが望みではないのですね」
「女官になるのは、皇帝陛下へ近づくための最初の段階でございます」
「女官になっても、陛下に会えるとは限りません」
「はい」
「一生、衣、食器、帳簿を扱うだけで終わるかもしれません」
「その場合は、陛下のお目に触れる役目へ移る方法を探します」
「ほかの女官に嫌われ、仕事を奪われるかもしれません」
「誰が私を嫌っているかを確かめます」
「銀を取られ、何も得られないこともあります」
「一度は失敗すると思っております」
「一度で済むと思いますか」
「いいえ。何度でも失敗すると思います」
静蘭は麗華から目をそらさなかった。
「それでも、入るのですか」
「入ります」
「崔家に迷惑をかけることになってもですか」
「崔家の名を傷つける行いはいたしません。ただし、私が後宮で争いに負けた場合、崔家も無関係ではいられないと思います」
「それを承知で、私に母になれというのですね」
「はい」
「随分、勝手な娘です」
「申し訳ございません」
「その謝り方は教えていません」
麗華は言葉を止めた。
静蘭は麗華の前へ手を差し出した。
「母に叱られた時、娘はそのように深く頭を下げません。間違いを直し、次に同じことをしないのです」
麗華は静蘭の手を見た。
「では、娘としていただけるのですか」
「まだ、その呼び方ではありません」
麗華は静蘭の手を取った。
「母上」
「はい」
静蘭は麗華を立たせた。
「後宮へ入ることには、今も反対です。しかし、崔家の娘として入るのであれば、途中で投げ出すことは許しません」
「はい、母上」
「琴も書も、まだ人前へ出せるものではありません。毎日、続けなさい」
「はい」
「華宝舗の帳簿ばかり読んではなりません」
「それは、お約束できません」
静蘭は麗華の手を離した。
「そこは、少しも変わりませんね」
「店を失えば、後宮で使う銀も失います」
「宮中へ入る前から、使うことばかり考えているのですか」
「使った額以上のものを得ます」
静蘭は小さく息をついた。
「その言葉を、外で申してはなりません」
「はい、母上」
景仁が養女の書付を開いた。
麗華は崔家の養女となる。
華宝舗の土地、建物、古物、貸付金、注文品の元金は、麗華の財産として崔家から分ける。
崔家は、麗華の許しなく華宝舗の品や銀を動かさない。
麗華は崔家で暮らすための衣食を負担するが、養女となる代金は支払わない。
景仁の治療、屋敷の修繕、文亮の学費に充てる銀も、それぞれ使途と金額を帳簿へ残す。
景仁、静蘭、麗華が内容を確かめたあと、書付へ印を押した。
立会人となった老人たちも、自分の名を記した。
何忠が酒と料理を運んできた。
華美な宴ではない。
しかし、その日から麗華は客としてではなく、崔家の娘として同じ卓に着いた。
「兄上」
麗華が呼ぶと、文亮はすぐに振り向いた。
「何ですか」
「今後、私が清河県にいる間は、父上の薬の帳簿を付けてください」
「分かりました」
「診察の日、薬の量、食事、咳が出た時刻も書いてください」
「そこまで書くのですか」
「父上が良くなった時、どの薬と暮らし方が合っていたか分かります」
「では、帳簿を1冊用意します」
「華宝舗から届けさせます」
静蘭が2人の話を聞いていた。
「姉と弟ではなく、番頭と手代のようですね」
「母上。私は兄です」
「それなら、麗華に命じられる前に帳簿を用意しなさい」
文亮は返事に詰まった。
景仁は声を立てて笑ったが、途中で咳き込んだ。
麗華は兄へ目を向けた。
「今の咳も、時刻を書いてください」
「今日からですか」
「今日からです」
文亮は食事の途中で紙を取りに立った。
崔家に、初めて娘が加わった日であった。
◇ ◇ ◇
養女の書付が整うと、役所の記録も改められた。
麗華は崔家の養女として記され、正式な名は崔麗華となった。
ただし、華宝舗では白麗華の名を引き続き用いる。
これまでに作った土地や建物の証文をすべて書き換えれば、かえって過去の記録が途切れるからである。
崔家の娘であることと、白麗華として華宝舗を営んできたことは、役所へ提出した書付によって結び付けられた。
近所の者には、景仁の遠縁にあたる娘を養女に迎えたと伝えた。
出生地や実の父母を偽って作ることはしなかった。幼い頃に家族を失い、清河県の陸家に引き取られた娘であることも隠していない。
ただし、崔家が正式に迎えた以上、今後、麗華の父母を尋ねられれば、景仁と静蘭が名乗る。
戸籍の紙だけでなく、崔家の親類、使用人、近隣の者が、麗華を崔家の娘として知ることになった。
書付が整った3日後、麗華は童貫の前へ呼ばれた。
「崔家の娘になったそうだな」
「はい。父上、母上、兄上に受け入れていただきました」
「わずか1か月で、親しげに呼ぶものだ」
「母上から、家の中で他人のように呼ぶことを禁じられました」
「静蘭らしい」
童貫は役人から、崔家と麗華について調べた書付を受け取った。
「清河県でのお前の評判も届いている。欲深く、返すべき銭を1文もまけぬ女だそうだ」
「貸した銭は、戻らなければ次に貸せません」
「病人からも取り立てるのか」
「利息を止めることはございます。しかし、元金は返していただきます」
「後宮でも、渡した銀をすべて取り戻すつもりか」
「銀で戻らなければ、別のものを得ます」
童貫は書付を卓へ置いた。
「身分は整った。礼法はどうだ」
「母上からは、まだ人前へ出せないと申されております」
「琴は」
「短い曲を2つ覚えました」
「書は」
「帳簿より遅く書けば、読めるものになりました」
「詩は作れるか」
「今は、他人の詩の意味を読み取るだけでございます」
「何もかも足りぬな」
「はい」
「それでも、宮中へ入りたいか」
「入りとうございます」
童貫は役人へ合図した。
役人は1枚の書付を麗華の前へ置いた。
「2か月後、宮中で女官を補うための選びがある」
麗華は書付へ目を落とした。
「私は、選びを受けられるのでございますか」
「受ける資格を得ただけだ」
「童貫様から、私を推薦していただけるのですか」
「崔景仁の養女として名を出す。私の名は表へ出さぬ」
「なぜでございますか」
「私が陛下へ差し出す女だと知られれば、お前に近づく者も、敵と見る者も増える。何も知らぬ娘として入れ」
「後宮へ入ったあとも、童貫様のお力をお借りできないのでしょうか」
「最初から私の名を使うなと申している」
童貫は麗華を見た。
「女官に選ばれても、陛下のおそばへ出られると思うな。最初に与えられるのは、衣を運ぶ仕事か、器を数える仕事か、香を包む仕事かもしれぬ」
「どの仕事でも構いません」
「便所の掃除でもか」
麗華は一瞬、答えなかった。
「そこから皇帝陛下へ近づく道があるなら、いたします」
「ない場合はどうする」
「ある仕事へ移ります」
「誰がお前を移す」
「これから調べます」
「宮中では、勝手に歩き回ることも許されぬぞ」
「では、動ける者を探します」
「銀を渡すのか」
「相手によります」
童貫の口元が動いた。
「お前は、まだ宮中へ入ってもおらぬ」
「ですから、2か月の間に、外から調べられることを調べます」
「誰に聞く」
「宮中へ品を納める商人、退いた女官、宦官の家族、衣装や香料を扱う職人でございます」
「むやみに後宮のことを尋ねれば、選びを受ける前に名が広まる」
「華宝舗の商いとして尋ねます」
「何を売るつもりだ」
「まず、宮中へ納められている香料、紙、布、白磁の瓶の値と仕入れ先を調べます。品の流れを調べれば、それを扱う者も分かります」
「童貫様」
そばにいた役人が口を挟んだ。
「この娘に何も命じずとも、勝手に宮中の仕入れを調べ始めます」
「そのようだな」
童貫は麗華へ告げた。
「調べてもよい。ただし、私の名を使った者、宮中の者へ銀を渡した者は、すべて帳簿へ記せ。私に隠して動けば、選びから外す」
「承知いたしました」
「崔家にも話せ」
「母上は、反対なさると思います」
「後宮へ入ることを許したのであろう」
「入り口までは許してくださいました。その先で何をするかは、まだお話ししておりません」
「ならば、今のうちに話しておけ。宮中へ入れば、家へ戻って相談できるとは限らぬ」
「はい」
童貫は女官選びの書付を麗華へ渡した。
「2か月で、琴も書も詩も身につくとは思うな。まず、選ばれればよい」
「選ばれたあとは、どなたが私の仕事を決めるのでございますか」
「それを知ることから始めろ」
麗華は書付を受け取った。
父母を得たことで、後宮へ続く門の前に立つ資格は得た。
しかし、門はまだ開いていない。
女官に選ばれても、皇帝に会えるわけではない。宮中には、麗華より早く入り、礼法、琴、書、歌舞を長く学んだ女たちがいる。
有力な家の娘もいる。
皇后や妃に仕え、すでに後ろ盾を持つ女官もいる。
麗華が持っているのは、崔家の娘という身分、華宝舗から得る銀、品と人の流れを調べる習慣だけである。
それらを使い、まず女官に選ばれなければならない。
選ばれたあとには、自分を皇帝の目に触れる場所へ出す者を探す。
その者が何を望んでいるかを知り、必要なものを渡す。
一度で届かなければ、別の道を探す。
麗華は書付を懐へ入れた。
「童貫様。2か月後、必ず女官に選ばれます」
「選ぶのは、お前ではない」
「はい。ですが、選ばれるためにできることは、すべていたします」
童貫は返事をしなかった。
麗華は礼をして部屋を出た。
その日のうちに、崔家へ戻る。
母から琴と礼法を学び、兄には華宝舗から届いた帳簿を読ませる。
翌日は周元達の店へ行き、宮中へ納められる香料と布の仕入れ先を調べる。
清河県へは、女官選びを受けることを伏せたまま、新たな注文を送る。
後宮へ入るまで、あと2か月である。
だが、後宮へ入ってからの方が長い。
麗華は、そのことを理解したうえで、皇帝へ続く最初の門へ進もうとしていた。
後編1では、麗華が開封外城の崔家を訪ね、1か月間にわたって崔景仁、曹静蘭、崔文亮と互いの身辺を調べた。
麗華は静蘭から、客間での立ち居振る舞い、言葉遣い、書、琴、詩を学った。帳簿を速く書く癖や、商いの相手に対するような堅い話し方を何度も直され、官人の娘として必要な作法を身につけ始めた。
麗華は景仁の病状を確かめ、2人の医師に別々の診立てを求めた。養女に迎えられなかった場合でも、始めた治療は途中で止めないと約束している。
一方、崔家は清河県へ使いを送り、華宝舗の帳簿と麗華の評判を調べた。麗華も、崔家の借金、親類、近所での評判を調査した。
双方が相手を受け入れられると判断し、麗華は崔家の養女となった。正式な名は崔麗華となるが、過去の証文と商いの記録を途切れさせないため、華宝舗では白麗華の名も引き続き用いる。
華宝舗の土地、建物、古物、貸付金、注文品の元金は、養女入り後も麗華の財産である。崔家は麗華の許しなく店の銀や品を動かさないことを、養女の書付へ明記した。
麗華は、父を崔景仁、母を曹静蘭、兄を崔文亮と呼ぶようになった。
崔家の娘としての身分を得た麗華に、童貫は2か月後に行われる女官選びの書付を渡した。
ただし、麗華が得たのは、選びを受ける資格にすぎない。
女官に選ばれても、皇帝に会えるとは限らない。宮中へ入り、下働きから始め、皇帝の目に触れる役目へ移らなければならない。
麗華は残された2か月で礼法、書、琴を学いながら、宮中へ納められる香料、布、紙、白磁の流れを調べる。
父母を得たことで、後宮へ続く最初の門が見えた。
しかし、皇帝へ至る道は、その門の内側から始まる。




