第3話(中編2)――「身分を買う銀」
(1113年4月、北宋・東平府清河県)
華宝舗の土蔵から、龍脳を入れた木箱が運び出された。箱には前年10月の札が残り、品名、重さ、仕入れ先、購入日、保管開始日が記されていた。毎月の検査記録も添えてある。
初めに量った4両は、半年たっても目盛りで分かるほど減っていなかった。白麗華は新しい紙と布で包み直し、元の札を付けた。古い包み紙も捨てず、別の袋へ納めた。帳簿には重さや香りだけでなく、月ごとの気候、土蔵の湿り具合、棚の高さ、包み紙を替えた日まで記録してあった。
帳場では、王志明が今回の荷を読み上げていた。
「龍脳4両のほかに、白絹30疋、紙200帖、白磁の香油瓶120個を運びます。全て周元達様からの注文です。赤絹の代金も昨日届き、運送費と口銭を引いて12貫400文が残りました」
「そのうち2貫文を染色工房へ追加で渡してください。次に同じ色で40疋を作れるよう、染料を確保していただきます。注文を受けてからでは、値が上がるかもしれません」
志明が書き留めると、宋春梅は別の帳簿を開いた。
「開封から注文を受け始めて以来、利益は合わせて74貫800文です。古物と貸付の利益は含めておりません。注文品に使う元金は、手付を除いて112貫文ございます」
「その元金は残しておいてください。私が持っていく銀とは、別にしてあります」
麗華は卓の脇の箱を開けた。中には、自分の資産から取り分けた銀300両が並んでいた。清河県の日々の取引では銅銭や交子を使うことが多く、重さと純度を確かめる銀は扱いにくい。しかし、開封へまとまった額を運ぶには、縄に通した銭より都合がよかった。
「これほどの銀を、全て童貫様へお渡しになるのですか。開封に店を借りることもできる額です」
「どなたに、いくら必要かはまだ分かりません。店は商いが決まってから借ります。今回は、私の身分を整えるために持っていきます」
土地の証文にも県衙の記録にも、白麗華という名は残っていた。だが、それで分かるのは清河県で商いを営んでいる事実だけだった。生まれた場所、父母の名、一族に罪人がいるかを尋ねられても答えられない。陸家に拾われた孤児というだけでは、後宮へ進めないと麗華は考えていた。
春梅は声を落とした。
「童貫様には、本当の望みまでお話しになるのですね。お怒りになるかもしれません」
「それでも、身分を整えていただく理由はお伝えします。目的を隠して頼めば、かえって疑われます」
童貫の妾になりたいのではない。皇帝に抱かれるため、後宮へ入りたいのである。その違いを曖昧にしたまま助力を求めるつもりはなかった。
今回は帰る日を決められなかった。話が進めば、開封に長く残ることもある。麗華は志明と春梅へ書付を渡し、古物の買い取りは1件5貫文、貸付は1人3貫文まで任せた。開封からの注文も、仕入れと運送の費用が50貫文以内なら受けてよい。それを超える場合は、返事を待たせることにした。
日々の販売は続けさせるが、土地や建物、土蔵の在庫、貸付金をまとめて処分する権限は与えなかった。
「帳簿は10日ごとに周元達様の店へ送ってください。滞在先が変われば知らせます。私の身分が変わっても、華宝舗の所有は変えません」
「どなたかの娘になられても、その家へ店をお渡しにはならないのですね」
「はい。身分を整える費用は払っても、商いを続けるための財産まで渡すつもりはありません」
◇ ◇ ◇
(1113年4月、北宋・開封府)
荷車は前年と同じ城門から開封へ入った。周元達が出した品書きには、注文品に加え、童貫の命令で保管した龍脳4両が記されていた。門吏は箱の封と書付を調べ、半年前にも龍脳を運んだ店だと確かめると、華宝舗の名を帳簿へ記した。
周元達の店では、到着後すぐに検品が始まった。白絹30疋のうち1疋に織りむらがあり、麗華は持参した予備2疋から1疋を出して交換した。紙200帖は厚さも色もそろっていた。白磁の瓶は注文の120個に対して130個を運び、道中で3個割れたが、納品には不足しなかった。
周元達は受取書に印を押した。
「半年で、品をそろえるのが早くなったな」
「作り手に代金の一部を前払いし、材料を用意していただいております。注文に合えば華宝舗が買い取りますので、工房も仕事を進められます」
「売り先を決めてから作らせているわけか。それで、いくら儲けた」
「帳簿をご覧になりますか」
「いや、そこまで見せる必要はない」
周元達は龍脳の箱へ目を移した。
「これは童貫様の役所へ運ばせる。お前も来るよう命じられている。こちらの重い箱も一緒に運ぶのか」
「私個人の銀です。品を買うためのものではございません」
麗華はそれ以上説明せず、銀箱も持参するよう手配した。
◇ ◇ ◇
童貫の前には龍脳と保管帳簿が置かれた。役人は重さと香りを調べ、目立った変化はないと報告した。毎月同じ分銅で量り、保管場所や包み紙の交換まで記録していると聞くと、童貫は帳簿を開いた。
麗華は少し離れた場所に膝をついていた。命じられた保管は終えたが、その報告だけで帰るわけにはいかなかった。
「同じ龍脳を、ほかの場所にも置いて比べたのか」
「場所は同じですが、同じ仕入れ先の品を少量ずつ、紙、陶器、漆塗りの箱に分けて試しました。内側に薄い紙を敷いた陶器が、最もよい状態を保ちました。ただし割れる恐れがありますので、長く置くなら陶器、軍へ運ぶなら木箱がよいと考えております」
童貫は、その試し方が帳簿にないと指摘した。
「ご命令の4両とは別の品で試しましたので、記録を分けました。華宝舗に試験帳がございます」
「次に来る時、それも持たせよ」
役人へ命じると、童貫は保管した龍脳の代金も支払わせると告げた。麗華が礼を述べると、今はほかに何を扱っているのかと尋ねた。
麗華は今回納めた白絹、紙、白磁の瓶について説明し、古物売買、小口貸し、注文品の取引を分けて営んでいると答えた。
「店は儲かっているようだな。銀も持ってきたと聞いた」
「私個人の銀300両を持参いたしました。龍脳とは別に、お願いしたいことがございます」
「申してみよ」
「開封で良家の娘として認められるよう、身分を整えていただきとうございます」
役人の1人が麗華を見た。童貫は表情を変えず、清河県で店を持つだけでは足りないのかと尋ねた。
「華宝舗の主人であることは証文と帳簿で示せますが、私には父母も一族もございません。陸家には拾っていただき、奉公人として暮らしました。養女ではありません」
「白という姓は、誰から得た」
「自分で名乗りました」
役人が身じろぎした。名を自ら定めた身元不明の娘が、土地を買い、店を営み、童貫の前まで来ている。商いができても、官人の家や宮中へ近づくには別の身元が必要だった。
「良家の娘になって、何をするつもりだ」
「後宮へ入り、皇帝陛下のお目に留まりとうございます。女官になることではなく、おそばへ召されることが望みです」
「陛下に抱かれたいと、私の前で申すのか」
「はい。目的を隠したまま、身分だけを整えていただくことはできません」
童貫の口元が動いたが、笑ったのか、呆れたのかは分からなかった。
「銀を積めば、後宮へ入れると思っているのか」
「いいえ。ただ、私を娘として迎える家や証人、住まい、礼法の師、衣装には費用がかかります。銀で整えられる条件を用意し、機会を得たいのです。その先で陛下のお目に留まるかどうかは、私自身の責任でございます」
「私にも払うつもりか」
「お求めになるのであれば、お渡しいたします」
童貫はしばらく黙ったあと、容貌だけでは足りず、礼法も琴も書も必要だと告げた。麗華はこれから学ぶと答えた。
「年齢も確かではないのだろう」
「北宋へ参りました時を15歳としております。今は16歳でございます」
「北宋へ参った時、か」
童貫の目が細くなった。麗華はそれ以上話さず、童貫も追及しなかった。
「戸籍に父母の名を書き足せば済む話ではない。後宮へ入れる際には、親類や近隣の者、産婆まで調べることがある。実在しない家を作っても、役には立たぬ」
「ですから、実在する家の娘にしていただきたいのです」
童貫は卓を指で2度たたいた。
「お前を養女に迎え、調べられても娘だと答える家が要る。その家に罪人や商いの揉め事があってはならず、娘を売ったと思われても困る。銀だけで口を閉じる者は、別の者に払われれば話すぞ」
「迎えていただいた家には、華宝舗から暮らしを支える銭を毎年渡します。後宮へ入れなくても止めません。私が死んだ場合に備え、初めに数年分を預けることもできます」
童貫は店を渡すのかと尋ねた。麗華は、それはしないと答えた。
「華宝舗の土地、建物、古物、貸付金、銀は私の財産です。養女になっても所有は移しません」
「娘の財産は家の物だと申す者もいる」
「そのような家には入れません。店を失えば、後宮へ進むための費用を出せなくなります」
童貫は声を立てて笑った。
「身分を頼みながら、迎える家を選ぶのか」
「入り口で全財産を使えば、入ったあとに何もできません。自由に使える300両は持参しましたが、店や注文品の元金には手を付けません」
宮中でも銀を使うつもりかと聞かれ、麗華は必要なら使うと答えた。誰に払えばよいかは、まだ分からない。女官や宦官、衣装を整える者、皇帝の目に触れる場所へ出す者の中で、力を借りる必要のある相手を見定めるつもりだった。
「皆にだまされるかもしれぬぞ」
「その時は、だました者へ二度と渡しません」
童貫は笑うのをやめた。麗華は1度の口利きに全てを賭けるつもりではなかった。身元と礼法を整え、必要な相手へ銀を使い、失敗すれば別の方法を探す。その間も、店の利益で資金を補う考えだった。
銀箱を運ぶよう命じられ、役人が部屋を出た。4人がかりで箱が持ち込まれると、銀が並べられ、そのうち3つを役人が選んで重さと純度を調べた。300両に相違ないという報告を聞いても、童貫は銀に触れなかった。
「全て持ち帰れ。まだ使う相手が決まっておらぬ」
「童貫様への謝礼だけでも、先にお納めいたします」
「私が300両でお前を陛下へ売ったと、噂されたいと思うか。私には渡すな」
麗華が頭を下げると、童貫は役人へ崔景仁の家を調べるよう命じた。かつて軍需の帳簿を扱っていた男で、父は下級官人だったが、すでに亡くなっている。景仁自身も病で役を退き、外城で妻と息子と暮らしていた。
「娘はいないが、お前を迎えるかはまだ分からぬ。金額を先に出せば、娘を売るようなことはできぬと断る男だ」
「では、どのようにお願いすればよろしいでしょうか」
「まず治療と暮らしを助けよ。薬材を正しい値で届け、息子の学費を出せ。養女になる話は、そのあとだ」
麗華は時間がかかると述べた。童貫の声が低くなった。
「紙に名を書くだけなら今日中にできる。だが、お前が求めるのは、調べられても崩れぬ身分だろう。妻が娘として受け入れなければ、近所の者も信じぬ。家へ通い、親類や使用人に顔を覚えさせてから書付を作る」
どれほどかかるかは麗華の振る舞い次第だと、童貫は告げた。卓上の保管帳簿を取り、半年間記録を続けたのと同じように、家との関係も日々作る必要があると説いた。
「300両のうち、今使ってよいのは100両までだ。残りは私の許しを待て。銀があると知れば、親類が群がるかもしれぬ。総額を話すな」
「100両の使い道も、お決めいただけますか」
「30両は治療と薬、20両は家の修繕に充てよ。30両は息子の学費として毎年10両ずつ渡し、残る20両は、お前がその家で暮らす衣食に使え」
麗華は、養女になったあとに別の謝礼を渡すのかと尋ねた。童貫はそれも自分が決めると答え、代金で娘を買ったと見られれば、その身分に意味はないと念を押した。
「それから、崔家へ入れば商人としての振る舞いだけでは済まぬ。言葉遣い、歩き方、食事、琴、書、詩を学べ。景仁の妻、曹静蘭は官人の娘として育ち、琴と書を知っている。まずは静蘭に教われ」
「承知いたしました。謝礼は100両の中から用意し、毎日学びます」
「銀を渡せば身に付くわけではないぞ。店の仕事はどうする」
「奉公人に任せ、10日ごとに帳簿を取り寄せます。開封で取った注文も清河県で作らせます」
童貫は、店の者が養女の話まで知っているのかと確かめた。麗華は春梅だけが本当の望みを知り、ほかの者には開封で商いを広げるためと伝えていると答えた。
「その女の口が堅いなら、今はそれ以上広めるな。崔家でも、後宮の話は自分からするな。景仁には私から伝えるが、妻と息子には、開封で良家との縁を必要としているとだけ話す」
「あとで知られれば、だましたことになりませんか」
「道が開いた時に話せ。今は、かなうと決まった望みではない。初めから陛下に抱かれたいと聞かされれば、静蘭が家へ入れぬかもしれぬ」
麗華は考えてから、景仁が全てを知っているなら従うと答えた。
「養父となる方まで目的を知らなければ、一方的に利用したことになります。何のためかをご承知のうえで、受け入れていただきたいのです」
童貫は役人へ、景仁には全て話すよう命じた。
「断られたら、すぐ別の家を探せると思うな。なぜ受け入れられなかったかを調べ、それを直せなければ、どこへ行っても同じだ。今日は周元達の店へ戻れ。3日後に返事を伝える」
さらに、華宝舗の試験帳も取り寄せ、軍へ送る香料の包み方を比べさせるよう指示した。身分の相談だけでなく、新たな仕事も残った。麗華は礼を述べ、300両の銀を持って部屋を出た。
◇ ◇ ◇
3日後、童貫の使いが周元達の店へ来た。崔景仁は麗華と会うことを承知したが、養女にするとまでは約束していなかった。
まず景仁と静蘭、16歳の息子崔文亮に会い、1か月間、週に3日通って礼法と書を学ぶ。その間に景仁は華宝舗の帳簿と、清河県での麗華の評判を調べる。麗華も崔家の借金や親類、近所の評判を調べてよく、双方が納得した時に養女の書付を作り、役所の記録を整えるという条件だった。
使いは童貫の書付を渡し、初めて訪ねる際には銀も華美な衣装も持参しないよう告げた。
「薬もお持ちしてはならないのでしょうか」
「病状を知らずに薬を選べば、商人としても失格だとの仰せです」
「承知しました。今ある衣装で参ります」
使いが去ると、周元達が奥から出てきた。
「童貫様へ何を頼んだ。家を紹介される話とは思わなかった」
「父母を持てるよう、お願いしました。私には自分で頼むほかに方法がありません」
「300両はそのためだったのか。童貫様が受け取らなかったなら、持ってきた甲斐もないな」
「いいえ。使う相手と額を決めていただきました。すぐに養女になれるわけではありませんが、会ってくださる家が見つかりました」
周元達は、結果の分からないことに100両を使うのかと尋ねた。麗華は書付を卓に置いた。
「孤児のままでは、後宮へ続く門の前にも立てません。そのために必要な費用です」
後宮という言葉を聞き、周元達は黙った。麗華は銀箱を閉じた。金を積むだけでは身分を得られなかったが、童貫は望みを退けず、実在する家へ迎えられるための道を示した。その先は麗華自身が通い、教わり、家の者や近隣に受け入れられなければならなかった。
翌朝、麗華は青い上着を着て、銀の簪を1本だけ挿した。贈り物は持たず、童貫の書付と華宝舗の帳簿を携えた。父母となるかもしれない2人に会うため、崔家へ向かった。




