第1話(前編2)――「童貫の目に留まった娘」
北宋へ来て1か月が過ぎ、白麗華は陸家の言葉と暮らしに慣れ始めた。陸生堂の主人は38歳の陸世昌、妻は36歳の趙淑英、一人息子の陸文徳は18歳である。麗華は淑英のそばで文字と薬舗の仕事を学びながら、陸家が清河県の豪商、西門慶と仕入れを巡って争っていることを知る。その争いが、やがて麗華を西北の軍を率いる童貫の前へ導くことになる。
北宋へ来て1か月が過ぎた。
白麗華は夜明け前に起き、台所の竈へ火を入れた。井戸からくんだ水を釜へ移し、湯が沸くまでの間に、前夜に干した布を取り込んだ。
空には薄い雲が残り、裏庭の土は雨を吸って黒く湿っていた。軒下には乾いた根や薬草の匂いがこもっている。その中に、昨日まではなかった酸味を帯びた臭気が混じっていた。
麗華は布を抱えたまま、土蔵の方へ顔を向けた。
戸は閉じられている。中には陸生堂で扱う薬材が保管されていたが、使用人になったばかりの麗華には、勝手に開けることが許されていない。
麗華は取り込んだ布を部屋へ運んだあと、台所にいた孫婆を呼んだ。
「孫婆、薬の蔵から、いつもと違う匂いがします」
麗華はまだ、長い説明を流暢には話せなかった。それでも、毎日の仕事で使う言葉なら、相手に伝えられるようになっていた。
孫婆は裏庭へ出ると、土蔵の前で臭いを確かめた。
「雨が続いたからね。番頭さんを呼んでおいで」
麗華は店へ向かい、開店の支度をしていた番頭へ事情を伝えた。
番頭は鍵を持って土蔵へ来た。戸を開けると、湿った空気が外へ流れ出した。中には木箱や竹籠が並び、壁際には薬材を入れた布袋が積まれている。
番頭は一番上の袋を開け、乾燥させた根を取り出した。
「少し湿っただけだ。晴れた日に干せばよい」
麗華は土蔵の中を見た。
布袋は土を固めた床へ直接置かれている。雨水が入った跡はないが、下にある袋ほど色が濃い。壁際の木箱には白いものが付着していた。
「下の袋も見ていただけませんか」
「上と同じだ。奥に積んだ物を全部動かしていたら、店を開けられない」
「私は薬の良し悪しが分かりません。ですから、奥様に見ていただきたいのです」
麗華は腐っているとは断定しなかった。この時代の薬については、知らないことの方が多い。臭いと湿り気だけで使えないと決めれば、陸家へ損害を与える恐れがあった。
孫婆は番頭と麗華を見比べたあと、母屋へ向かった。
しばらくして、36歳の趙淑英が夫を伴って現れた。
夫の陸世昌は38歳で、清河県でも名の通った薬種商である。父から継いだ陸生堂を広げ、近隣の州県に仕入れ先を持っていた。客への愛想はよくないが、薬の品質と代金の支払いには厳しく、それによって店の信用を守ってきた男であった。
淑英は土蔵へ入ると、番頭が調べた袋だけでなく、その下に積まれた袋も開けさせた。
上の薬材には大きな異常がなかった。しかし、床に近い袋から取り出した根には、白い黴が広がっていた。別の木箱に入っていた薬材も湿気を吸って固まり、一部は黒く変色している。
淑英は根を指で折り、内側の色と臭いを確かめた。
「これは店へ出してはなりません。隣の袋も調べます」
番頭の顔から血の気が引いた。
「申し訳ありません。昨日も見回りましたが、気付きませんでした」
「上にある袋だけを見たのでしょう」
淑英は使用人を集めるよう命じた。
世昌は変色した薬材を手に取り、指先で砕いた。乾いた根は粉にならず、湿り気を残したまま割れた。
「客へ売る前に見つかったのは幸いだ。黴の出た物は、使える品と離して置け。仕入れ先へも知らせる」
世昌は麗華を見た。
「お前は、なぜ気付いた」
「匂いが昨日と違いました。雨が続いたので、下の袋が湿っているのではないかと思いました」
「薬を扱ったことがあるのか」
「ありません。薬の名前も、まだ少ししか分かりません。ただ、濡れた穀物や布を重ねて置けば、傷みやすくなります」
麗華は土蔵の床を示した。
「袋を床から離し、壁との間を空ければ、今より湿りにくくなります。古い薬と新しい薬が分かるように札を付ければ、先に入った物から使えます」
世昌は土蔵の広さと、裏庭に積まれた木材を見比べた。
「どれほど床から離せばよい」
「手が入るくらいでよいと思います。低い台を作れば、下へ風が通ります。毎朝、戸を開けた時に匂いも確かめます」
淑英が番頭へ命じた。
「店の者で台を組みなさい。袋と箱には、薬の名、入荷した日、仕入れ先を書いた札を付けます」
「承知しました」
世昌は付け加えた。
「誰が調べたかも帳面へ残せ。見回ったと報告するだけでは役に立たない」
その日、麗華は使用人たちと一緒に薬材を運んだ。使える品は日に当て、黴の出た物は店の商品と混ざらない場所へ移した。
作業が終わる頃には朝の冷気が消え、裏庭へ日が差していた。借りている衣服の袖には土が付き、掌には布袋の縄の跡が残っていた。
淑英は井戸端で手を洗っていた麗華へ声をかけた。
「午後から、私のそばで荷札を書きなさい」
「私が書いてもよいのですか」
「見本と同じ文字を書けばよいのです。分からない時は、勝手に決めずに尋ねなさい」
「はい。必ず尋ねます」
それから麗華は、淑英の部屋で仕事をする時間が増えた。
薬包を数え、見本を見ながら薬材の名と入荷日を札へ書いた。古い品が手前に来るよう並べ、仕入れ先の違う物は場所を分けた。淑英が帳面を読み上げる時には、そばで品数を確かめた。
麗華は帳面を勝手に開かなかった。机に置かれた書状や契約書にも、淑英から命じられない限り触れなかった。
麗華が陸家で求めているのは、店でも財産でもなかった。この時代で生きるための言葉と知識、そして不用意に扱われない立場である。
陸家の一人息子である18歳の陸文徳は、麗華が母親の部屋へ出入りするようになってから、以前より頻繁に姿を見せた。
ある日の夕方、麗華が荷札を母屋へ運んでいると、文徳が廊下で待っていた。
「麗華、少し話がある」
「若様、奥様がお待ちです」
「すぐに済む」
文徳は袖の中から髪飾りを取り出した。銀の花に赤い石をはめた品で、以前に差し出した物より高価であった。
「町の細工師に作らせた。今度は受け取ってくれ」
麗華は手を伸ばさなかった。
「申し訳ありません。私は奥様に拾っていただき、陸家で働かせていただいております。若様からこのような品を頂けば、旦那様と奥様に顔向けできません」
「母上には、私から話す」
「奥様がお許しになっても、頂けません」
「なぜだ。私が嫌いなのか」
「若様は陸家の跡取りです。人に隠れて使用人へ贈物をすれば、若様のお立場が悪くなります」
文徳は髪飾りを握ったまま、麗華の顔を見た。
「私が妻にすると言えば、どうする」
「そのようなことは、旦那様と奥様がお決めになることです。廊下で私が答えることではありません」
麗華は頭を下げ、文徳の横を通った。
文徳は美しい女を手に入れれば、友人たちに自慢できると考えているだけである。父親が築いた店と人脈を自分の力だと思い、陸家の名を出せば相手が従うと信じていた。
麗華にとって文徳は陸家の若主人であり、それ以上の相手ではなかった。文徳へ身を任せて陸家での立場を得れば、これから先、誰の前へ出ても文徳の女として見られる。それは麗華が望む道ではなかった。
淑英の部屋へ入ると、世昌も来ていた。机の上には、破られた荷札と仕入れ商から届いた書状が置かれている。
世昌の顔には怒りが表れていた。
「淑英、今日届いた川芎と当帰は、注文した量の半分しかなかった」
「仕入れ先で何かあったのですか」
「西門慶の店が、こちらより高い値を出して買い占めた。長く付き合ってきた商人まで、あちらへ流れた」
麗華は茶を入れながら、初めて西門慶という名を聞いた。
文徳も遅れて部屋へ入ってきた。髪飾りはすでに袖へ戻している。
「父上、西門慶の店へ行ってまいります。仕入れ先を横取りするなと言ってやります」
世昌は息子へ顔を向けた。
「お前が行って、何をする」
「向こうの番頭を呼び出します。それでも返さなければ、県の役人へ訴えます」
「西門慶が金を払って買った薬材だ。何の罪で訴えるつもりだ」
「陸生堂の仕入れだと知っていて、横から奪いました」
「先に注文しただけでは、こちらの物にはならない。代金を払い、荷を受け取るまでは商人の品だ」
文徳は黙った。
「相手が小さな仕入れ商なら、陸家の名を出して脅せば従うと思っているのだろう。しかし、西門慶はお前が声を上げたくらいで退く男ではない。役人へ訴えても、向こうは同じ役人へ、こちらより多くの金を渡す」
「では、黙って取られるのですか」
「商売で奪われた品は、商売で取り戻す。お前は余計なことをするな」
世昌は番頭を呼び、別の州県にある仕入れ先へ人を走らせるよう命じた。さらに、取引を断った商人については、これまでの支払いと納入の記録を調べさせた。
世昌は38歳であるが、父の代から付き合いのある商人を相手に、若さを理由として退いたことはない。薬の品質と支払いの早さを守り、清河県では西門慶と張り合えるだけの店を築いていた。
ただし、西門慶は薬材だけを扱う商人ではない。生薬、絹、質屋、酒などへ手を広げ、役人ともつながっている。財力だけを比べれば、世昌より上であった。
淑英が机の書状を取り上げた。
「不足した薬材は、いつまでに必要なのですか」
「10日後だ。開封から、西北へ送る軍用の薬をそろえてほしいと言ってきた。傷薬、腹の薬、熱を下げる薬、馬へ使う薬も必要になる」
文徳の顔に期待が表れた。
「軍への納入なら、大きな利が出ます。すぐに受けるべきです」
世昌は息子を見た。
「数をそろえられなければ違約になる。粗悪な品が混じれば、陸生堂の名が潰れる。利益だけを見て受けられる仕事ではない」
「西門慶が邪魔をしたのも、その話を知ったからではありませんか」
「その可能性はある。向こうも軍へ薬を納めるつもりなのだろう」
淑英は書状へ目を通した。
「誰が薬を集めているのですか」
「童貫様の配下にいる調達役だ。開封で品を改めてから、西北へ送る」
童貫の名が出ると、文徳は身を乗り出した。
「父上、私も開封へ連れていってください。童貫様のお目にかかれるかもしれません」
「童貫様がお前に会うとは、どこにも書かれていない」
「陸生堂の薬が軍で使われれば、いずれ名を覚えていただけます。私が武官になる道も開けます」
「薬の名も満足に覚えていない者が、兵を率いるつもりか」
世昌に言い返され、文徳は口を閉じた。
麗華は部屋の隅で話を聞いていた。
童貫がどのような人物かは知らない。しかし、世昌と淑英の態度から、地方の薬種商とは比べものにならない力を持つ人物であることは理解できた。
麗華はその名を記憶した。
世昌は数日間、清河県の外にある仕入れ先を回った。西門慶の店が高値を付けていても、陸生堂との長年の付き合いを重んじる商人は残っていた。淑英も在庫を調べ、同じ効能を持つ薬材へ勝手に置き換えることなく、必要な品を集めた。
麗華は淑英のそばで数量を確かめた。
木箱には、品名、数量、用途、仕入れ先を書いた札を付けた。傷へ使う薬と口から飲む薬は箱を分け、馬へ使う薬には別の印を付けた。
文徳は木箱を見て不満を漏らした。
「開封で箱を開ければ分かる。札を何枚も書けば手間が増えるだけだ」
麗華は文徳へ反論せず、淑英へ説明した。
「開封には、陸生堂の薬だけが届くのではありません。箱の外から中身が分かれば、改める方が早く調べられます。外の札が雨で読めなくなることもありますので、中にも同じ札を入れてはいかがでしょうか」
淑英は木箱を見た。
「仕入れ先まで書くのは、なぜですか」
「悪い薬が混じっていた時、どこから仕入れた品か分からなければ、同じことが繰り返されます。荷を出した時の数も残しておけば、途中で足りなくなった時に確かめられます」
淑英は麗華の提案を採用した。
完成した木箱を調べた世昌も、外側と内側に付けた札を確かめた。
「よく考えてある。開封で品数が足りないと言われても、どの箱から消えたか分かる」
文徳が口を挟んだ。
「私も、札を付けた方がよいと思っていました」
「ならば、なぜ手間が増えると言った」
世昌に問われ、文徳は答えられなかった。
開封へ向かう日、世昌は自分で薬を届けることにした。西門慶との競争を息子へ任せるつもりはなかった。
「淑英、お前も来てくれ。薬の使い方を尋ねられた時、私一人ではすべてに答えられない」
「分かりました。麗華も連れていきます」
「この娘をか」
「荷札と箱の分け方は麗華が考えました。品数を確かめる時にも役立ちます。私の身の回りの世話もさせます」
世昌は麗華を見た。
「開封では、見聞きしたことを勝手に話してはならない。問われたことだけに答えろ」
「承知しました」
「文徳も連れていく。店の跡取りなら、品を売るだけでなく、仕入れて届けるまでの仕事を覚えろ」
文徳は童貫に会えるかもしれないと考え、顔を明るくした。
陸家の一行は、薬を積んだ荷車とともに清河県を出た。
道は乾いた土に覆われ、車輪が通るたびに細かな埃が舞った。宿場では馬の汗と干し草の匂いが漂い、夜になると壁の薄い部屋へ旅人の話し声が響いた。
麗華は淑英と同じ馬車に乗り、休憩のたびに荷札が外れていないか確かめた。雨に遭った時には、油を引いた布を木箱へ掛け、緩んだ縄を締め直した。
文徳は開封へ近づくほど機嫌がよくなった。
「童貫様の配下に認められれば、陸生堂は清河県だけの店ではなくなる。西門慶にも負けない」
世昌は息子を見た。
「西門慶と商売を争っているのは私だ。お前が勝ったような顔をするな」
「いずれ陸生堂は私が継ぎます」
「継いだだけで、店を守れるとは限らない。今回の荷を無事に納めてから、先の話をしろ」
開封の城門をくぐると、清河県とは人の数も、通りを行き交う荷の量も違っていた。
大路には荷車、馬、役人の輿が続き、店先には絹、香料、茶、陶器、書物が並んでいる。水路には荷船が浮かび、船頭の掛け声と車輪の音が絶えなかった。
麗華は馬車の窓から町を見た。珍しい品へ目を奪われるのではなく、どのような服装の者が役人で、どの門に兵が立ち、商人たちが誰へ頭を下げているのかを確かめた。
陸家の一行は、軍需品を集めている役所の一角へ入った。
広い庭には、薬、布、穀物、馬具を積んだ荷車が並んでいる。役人たちは箱を開け、品物と書付を照合していた。
その一角に、西門慶の店から届いた薬箱も置かれていた。陸生堂より箱の数は多かったが、異なる薬材が同じ箱へ詰め込まれ、外側には店名しか書かれていない。
世昌は西門慶の荷へ目を向けたものの、何も言わなかった。
陸生堂の順番が来ると、世昌が書状を差し出した。
役人は木箱の外に付けられた札を読み、手を止めた。
「箱ごとに、品名と数量が書かれているのか」
「中にも同じ札を入れてございます」と世昌。
役人は箱を1つ開けさせた。
薬包は用途ごとに分けられ、数えやすいように並べられていた。底に置かれた札には、品名、数量、用途、仕入れ先が書かれている。
「これは調べやすい。ほかの箱も同じか」
「すべて同じ形でございます」
役人は配下へ、陸生堂の荷を先に改めるよう命じた。
文徳は自分の仕事が褒められたような顔をした。しかし、役人から薬の用途を尋ねられると、満足に答えられなかった。
「この傷薬は、膿んだ傷にも使えるのか」
「傷薬ですから、使えると思います」
文徳の返事を聞いた淑英が前へ出た。
「その薬は、血を止めた後に使う物です。すでに膿が出て熱を持った傷には、こちらを使います」
淑英は実物を示しながら、血を止める薬、傷を洗った後に使う薬、熱を持った傷へ使う薬の違いを説明した。
役人は納得し、次に馬の薬が入った箱を開けさせた。
その時、庭の入口で兵が声を上げた。
役人たちは作業を止め、一斉に姿勢を正した。
数人の武官と従者を伴い、1人の男が庭へ入ってきた。年齢は50歳を過ぎているように見える。衣服は華美ではなかったが、周囲の役人は誰も無遠慮に顔を向けなかった。
文徳が麗華へ聞こえる声で告げた。
「あの方が童貫様だ」
西北の軍を率いる童貫が、集められた軍需品を自ら見に来たのである。
童貫は布や馬具を確かめながら庭を進み、西門慶の店から届いた薬箱の前で足を止めた。
役人が箱を開けると、何種類もの薬包が一緒に詰められていた。
「中身を調べるのに、すべて出さねばならないのか」
童貫の問いに、役人は頭を下げた。
「店から届いた時から、この状態でございます」
童貫は隣に並んでいた陸生堂の木箱へ目を移した。
「こちらは何だ」
「清河県の陸生堂が納めた薬でございます。箱ごとに品名、数量、用途、仕入れ先が記されております」
役人は木箱を開け、内側に入っていた札を見せた。
童貫は札と薬包を見比べた。
「外と中に、同じ札があるのか」
「雨などで外の札が読めなくなっても、確かめられるようにしたとのことでございます」
「誰が考えた」
文徳が一歩前へ出ようとした。
しかし、世昌が先に答えた。
「妻の世話をしております、白麗華という娘が考えました。妻が薬の中身を確かめ、麗華が箱の分け方と札の付け方を整えました」
童貫は世昌の後ろに立つ麗華を見た。
麗華は礼をし、顔を伏せた。
「顔を上げよ」
童貫の命令を受け、麗華は顔を上げた。
童貫は麗華の容貌を見たあと、世昌へ尋ねた。
「この娘は陸家の者か」
「妻が街道で助け、今は使用人として働かせております」
「薬を学んでいるのか」
麗華は淑英を見た。淑英が答えるよう促したため、麗華は前へ出た。
「薬の名と文字を、奥様から教わっております。私はまだ、薬の良し悪しを自分では決められません」
「それなのに、箱の分け方を考えたのか」
「薬を使う方が、必要な物を早く見つけられるようにしたかったのです。外の札が失われても、中に同じ札があれば、品名と数を確かめられます」
「仕入れ先まで書いたのは、なぜだ」
「悪い薬が混じっていた時、どこから来た物か分からなければ、同じ間違いが続くからです」
童貫は木箱へ視線を戻した。
「荷を出した時の数が分かれば、途中で抜かれた時にも確かめられるな」
「はい。出した時と着いた時の数を比べられます」
麗華は尋ねられたことだけに答えた。知恵を誇らず、童貫の目に留まろうとして余計な言葉を加えることもしなかった。
童貫は役人へ命じた。
「今後、薬を納める者には、この形を手本にさせよ。品名と数量だけでなく、用途と仕入れ先も書かせる」
「承知いたしました」
童貫は次の荷へ向かおうとしたが、もう一度、麗華を見た。
「白麗華と申したな」
「はい」
「美しいだけの娘ではないらしい」
童貫はそれだけを告げ、従者を伴って歩き去った。
文徳は童貫の背中を追うように見ていた。武官になりたいと願い、名を覚えてもらおうとしていた自分より先に、陸家へ来て1か月の麗華が童貫の記憶に残ったのである。
世昌は西門慶の荷が並ぶ庭で、陸生堂の仕事が認められたことに満足していた。しかし、それを顔へ出さず、役人が改め終えた薬の受取書を確かめた。
麗華も童貫を呼び止めず、後を追おうとしなかった。
淑英の後ろへ戻ると、開けられた木箱の中身を整えた。折れた札を直し、数え終えた薬包を元の位置へ戻した。
童貫が自分の名を口にした。
今は、それで十分であった。
童貫ほどの力を持つ男に近づこうと焦れば、何を望んでいるのか見抜かれる。文徳を利用して陸家での立場を得ても、麗華自身の経歴に傷がつくだけである。
美貌は人の目を向けさせる。
しかし、その目をとどめるには、相手が必要とする知恵と働きがなければならない。一度名前を覚えられたなら、次は機会が来るまで待てばよい。
麗華は淑英のそばへ戻り、陸生堂の荷を片付けた。
童貫が再び自分を必要とする日が来るかどうかは、まだ分からない。それでも今日、童貫は白麗華という名を知った。
麗華は先を急がなかった。
機会が訪れた時、それをつかめるだけの力を身に付けて待つのである。
北宋へ来て1か月後、麗華は土蔵の異臭から薬材の黴を見つけ、陸生堂の損害と信用の失墜を防いだ。陸生堂の主人である38歳の陸世昌は、薬材を買い占めた西門慶に対し、息子へ争いを任せず、自ら仕入れ先を回って軍用の薬をそろえた。36歳の淑英は薬の品質を確かめ、麗華は箱の外と中へ、品名、数量、用途、仕入れ先を記した札を付けた。18歳の文徳から再び髪飾りを差し出されても、麗華は受け取らなかった。開封では、陸生堂の荷が西門慶の荷より調べやすいと評価され、童貫は麗華の美貌と知恵に気付いた。麗華は童貫を追わず、次の機会が訪れるまで陸家で学び続ける道を選んだ。




