第1話(前編2)――「童貫の目に留まった娘」
北宋へ来て1か月が過ぎた。
白麗華は夜明け前に起き、台所の竈へ火を入れた。井戸からくんだ水を釜へ移し、湯が沸くまでの間に前夜に干した布を取り込む。空には薄い雲が残り、裏庭の土は雨を吸って黒く湿っていた。
軒下には乾いた根や薬草の匂いがこもっている。その中に、昨日まではなかった酸味を帯びた臭気が混じっていた。麗華は布を抱えたまま土蔵へ目を向けた。
戸は閉じられている。中には陸生堂で扱う薬材が保管されているが、使用人になったばかりの麗華が勝手に開けることは許されていない。取り込んだ布を部屋へ運んでから、台所にいた孫婆を呼んだ。
「孫婆、薬の蔵から、いつもと違う匂いがします」
まだ長い説明を流暢に話すことはできないが、毎日の仕事で使う言葉なら相手へ伝えられるようになっていた。孫婆は裏庭へ出て土蔵の前で臭いを確かめた。
「雨が続いたからね。番頭さんを呼んでおいで」
麗華は店へ向かい、開店の支度をしていた番頭へ事情を伝えた。番頭が鍵を持って土蔵へ来て戸を開けると、湿った空気が外へ流れ出した。中には木箱や竹籠が並び、壁際には薬材を入れた布袋が積まれている。
番頭は一番上の袋を開け、乾燥させた根を取り出した。
「少し湿っただけだ。晴れた日に干せばよい」
麗華が気になったのは、その下だった。布袋は土を固めた床へ直接置かれ、下にある袋ほど色が濃くなっている。雨水が流れ込んだ跡はないが、壁際の木箱には白いものが付着していた。
「下の袋も見ていただけませんか」
「上と同じだ。奥に積んだ物を全部動かしていたら、店を開けられない」
「私は薬の良し悪しが分かりません。ですから、奥様に見ていただきたいのです」
麗華は薬が腐っているとは断定しなかった。この時代の薬については、知らないことの方が多い。臭いと湿り気だけで使えないと決めれば、陸家へ損害を与える恐れがある。
孫婆は番頭と麗華を見比べると母屋へ向かった。しばらくして、36歳の趙淑英が夫の陸世昌を伴って現れた。
38歳の世昌は、清河県でも名の通った薬種商である。父から継いだ陸生堂を広げ、近隣の州県に仕入れ先を持っていた。客への愛想はよくないが、薬の品質と代金の支払いには厳しく、それによって店の信用を守ってきた。
淑英は番頭が調べた袋だけで済ませず、その下に積まれた袋も開けさせた。上の薬材には大きな異常がなかったが、床に近い袋から取り出した根には白い黴が広がっていた。別の木箱に入っていた薬材も湿気を吸って固まり、一部は黒く変色している。
淑英は根を指で折り、内側の色と臭いを確かめた。
「これは店へ出してはなりません。隣の袋も調べます」
番頭の顔から血の気が引いた。
「申し訳ありません。昨日も見回りましたが、気付きませんでした」
「上にある袋だけを見たのでしょう。ほかの者も呼んでください。全部調べます」
淑英が使用人を集めさせる一方、世昌は変色した薬材を指先で砕いた。本来なら乾いて粉になるはずの根が、湿り気を残したまま割れた。
「客へ売る前に見つかったのは幸いだ。黴の出た物は、使える品と離して置け。仕入れ先へも知らせる」
そう命じた世昌は、麗華へ目を向けた。
「お前は、なぜ気付いた」
「匂いが昨日と違いました。雨が続いたので、下の袋が湿っているのではないかと思いました」
「薬を扱ったことがあるのか」
「ありません。薬の名前も、まだ少ししか分かりません。ただ、濡れた穀物や布を重ねて置けば、傷みやすくなります」
麗華は土蔵の床を示した。
「袋を床から離し、壁との間を空ければ、今より湿りにくくなります。古い薬と新しい薬が分かるように札を付ければ、先に入った物から使えます」
世昌は土蔵の広さを確かめ、裏庭に積まれている木材へ目を向けた。
「どれほど床から離せばよい」
「手が入るくらいでよいと思います。低い台を作れば、下へ風が通ります。毎朝、戸を開けた時に匂いも確かめます」
話を聞いていた淑英は、すぐ番頭へ仕事を割り振った。
「店の者で台を組みなさい。袋と箱には、薬の名、入荷した日、仕入れ先を書いた札を付けます」
「承知しました」
「誰が調べたかも帳面へ残せ」と世昌が付け加えた。「見回ったと報告するだけでは役に立たない」
その日は朝から使用人総出の作業になった。麗華も布袋や木箱を運び、使える薬材は日に当て、黴の出た物は店の商品と混ざらない場所へ移した。
作業が終わる頃には朝の冷気も消え、裏庭へ日が差していた。借りている衣服の袖には土が付き、掌には布袋の縄の跡が残っている。井戸端で手を洗っていた麗華へ、淑英が声をかけた。
「午後から、私のそばで荷札を書きなさい」
「私が書いてもよいのですか」
「見本と同じ文字を書けばよいのです。ただし、分からない時は勝手に決めず、私に尋ねなさい」
「はい。必ず尋ねます」
それから麗華は、淑英の部屋で仕事をする時間が増えた。薬包を数え、見本を見ながら薬材の名と入荷日を札へ書く。古い品が手前に来るよう並べ、仕入れ先の違う物は場所を分けた。淑英が帳面を読み上げる時には、そばで品数を確かめた。
ただし、麗華は自分から帳面を開かなかった。机に置かれた書状や契約書にも、淑英から命じられない限り触れない。麗華が陸家で求めているのは店でも財産でもなく、この時代で生きるための言葉と知識、そして不用意に扱われない立場だった。
陸家の一人息子である18歳の陸文徳は、麗華が母親の部屋へ出入りするようになってから、以前より頻繁に姿を見せるようになった。
ある日の夕方、麗華が荷札を母屋へ運んでいると、文徳が廊下で待っていた。
「麗華、少し話がある」
「若様、奥様がお待ちです」
「すぐに済む」
文徳は袖の中から、銀の花に赤い石をはめた髪飾りを取り出した。以前に差し出した物より明らかに高価だった。
「町の細工師に作らせた。今度は受け取ってくれ」
麗華は手を伸ばさなかった。
「申し訳ありません。私は奥様に拾っていただき、陸家で働かせていただいております。若様からこのような品を頂けば、旦那様と奥様に顔向けできません」
「母上には、私から話す」
「奥様がお許しになっても、頂けません」
文徳は納得しなかった。
「なぜだ。私が嫌いなのか」
「若様は陸家の跡取りです。人に隠れて使用人へ贈物をすれば、若様のお立場が悪くなります」
文徳は髪飾りを握ったまま麗華を見た。
「私が妻にすると言えば、どうする」
「そのようなことは、旦那様と奥様がお決めになることです。廊下で私が答えることではありません」
麗華は頭を下げ、その横を通った。
文徳は美しい女を手に入れれば、友人たちに自慢できると考えているだけである。父親が築いた店と人脈を自分の力だと思い、陸家の名を出せば相手が従うと信じていた。
麗華にとって文徳は陸家の若主人であり、それ以上の相手ではない。文徳へ身を任せて陸家での立場を得れば、この先は誰の前へ出ても文徳の女として見られる。それは麗華が望む道ではなかった。
淑英の部屋へ入ると、世昌も来ていた。机には破られた荷札と、仕入れ商から届いた書状が置かれている。世昌は怒りを隠そうともせず、妻へ事情を話した。
「淑英、今日届いた川芎と当帰は、注文した量の半分しかなかった」
「仕入れ先で何かあったのですか」
「西門慶の店が、こちらより高い値を出して買い占めた。長く付き合ってきた商人まで、あちらへ流れた」
麗華は茶を入れながら、初めて西門慶という名を聞いた。
そこへ文徳も入ってきた。髪飾りはすでに袖へ戻している。
「父上、西門慶の店へ行ってまいります。仕入れ先を横取りするなと言ってやります。それでも返さなければ、県の役人へ訴えます」
「西門慶が金を払って買った薬材だ。何の罪で訴えるつもりだ」
「陸生堂の仕入れだと知っていて、横から奪いました」
「先に注文しただけでは、こちらの物にはならない。代金を払い、荷を受け取るまでは商人の品だ」
文徳が黙ると、世昌はさらに言った。
「相手が小さな仕入れ商なら、陸家の名を出して脅せば従うと思っているのだろう。しかし、西門慶はお前が声を上げたくらいで退く男ではない。役人へ訴えても、向こうは同じ役人へ、こちらより多くの金を渡す」
「では、黙って取られるのですか」
「商売で奪われた品は、商売で取り戻す。お前は余計なことをするな」
世昌は番頭を呼び、別の州県にある仕入れ先へ人を走らせた。取引を断った商人についても、これまでの支払いと納入の記録を調べさせる。
38歳の世昌は、父の代から付き合いのある商人を相手にしても、若さを理由に退いたことはなかった。薬の品質を守り、代金を遅らせず、それを積み重ねて清河県で西門慶と張り合える店を築いてきた。
ただし、西門慶は薬材だけを扱う商人ではない。生薬、絹、質屋、酒などへ手を広げ、役人ともつながっている。財力だけなら世昌より上だった。
淑英は机の書状を取り上げた。
「不足した薬材は、いつまでに必要なのですか」
「10日後だ。開封から、西北へ送る軍用の薬をそろえてほしいと言ってきた。傷薬、腹の薬、熱を下げる薬、馬へ使う薬も必要になる」
文徳は軍への納入と聞いて身を乗り出した。
「それなら大きな利が出ます。すぐに受けるべきです」
「数をそろえられなければ違約になる。粗悪な品が混じれば、陸生堂の名が潰れる。利益だけを見て受けられる仕事ではない」
「西門慶が邪魔をしたのも、その話を知ったからではありませんか」
「その可能性はある。向こうも軍へ薬を納めるつもりなのだろう」
淑英が書状を確かめながら尋ねた。
「誰が薬を集めているのですか」
「童貫様の配下にいる調達役だ。開封で品を改めてから、西北へ送る」
童貫の名が出た途端、文徳の関心は商売から自分の出世へ移った。
「父上、私も開封へ連れていってください。童貫様のお目にかかれるかもしれません。陸生堂の薬が軍で使われれば、いずれ名を覚えていただけます。私が武官になる道も開けます」
「童貫様がお前に会うとは、どこにも書かれていない。それに、薬の名も満足に覚えていない者が兵を率いるつもりか」
世昌に言い返され、文徳は口を閉じた。
麗華は部屋の隅で一連の話を聞いていた。童貫がどのような人物かは知らない。それでも、世昌と淑英の態度を見れば、地方の薬種商とは比べものにならない力を持つ人物だと分かる。麗華はその名を覚えておくことにした。
それから数日間、世昌は清河県の外にある仕入れ先を回った。西門慶が高値を付けても、陸生堂との長年の付き合いを重んじる商人は残っている。淑英も在庫を調べ、同じ効能があるというだけで別の薬材へ置き換えることはせず、指定された品を集めた。
麗華は淑英のそばで数量を確かめ、木箱には品名、数量、用途、仕入れ先を書いた札を付けた。傷へ使う薬と口から飲む薬は箱を分け、馬へ使う薬には別の印を付ける。
それを見た文徳は不満を漏らした。
「開封で箱を開ければ分かる。札を何枚も書けば手間が増えるだけだ」
麗華は文徳と争わず、淑英へ考えを説明した。
「開封には、陸生堂の薬だけが届くのではありません。箱の外から中身が分かれば、改める方が早く調べられます。それに、外の札が雨で読めなくなることもありますので、中にも同じ札を入れてはいかがでしょうか」
「仕入れ先まで書くのは、なぜですか」
「悪い薬が混じっていた時、どこから仕入れた品か分からなければ、同じことが繰り返されます。荷を出した時の数も残しておけば、途中で足りなくなった時に確かめられます」
淑英は麗華の提案を採用した。完成した木箱を世昌も調べ、外側と内側に付けられた札を確かめた。
「よく考えてある。開封で品数が足りないと言われても、どの箱から消えたか分かる」
「私も、札を付けた方がよいと思っていました」と文徳が口を挟んだ。
「ならば、なぜ手間が増えると言った」
世昌に問われると、文徳は答えられなかった。
開封へ向かう日、世昌は薬を自分で届けることにした。西門慶との競争を息子へ任せるつもりはない。
「淑英、お前も来てくれ。薬の使い方を尋ねられた時、私一人ではすべてに答えられない」
「分かりました。麗華も連れていきます。荷札と箱の分け方は麗華が考えましたから、品数を確かめる時にも役立ちます。私の身の回りの世話もさせます」
世昌は麗華を見た。
「開封では、見聞きしたことを勝手に話してはならない。問われたことだけに答えろ」
「承知しました」
「文徳も連れていく。店の跡取りなら、品を売るだけでなく、仕入れて届けるまでの仕事を覚えろ」
文徳は童貫に会えるかもしれないと考え、顔を明るくした。
陸家の一行は薬を積んだ荷車とともに清河県を出た。道は乾いた土に覆われ、車輪が通るたびに細かな埃が舞う。宿場には馬の汗と干し草の匂いが漂い、夜になると壁の薄い部屋へ旅人の話し声が響いた。
麗華は淑英と同じ馬車に乗り、休憩するたびに荷札が外れていないか確かめた。雨に遭えば油を引いた布を木箱へ掛け、緩んだ縄を締め直す。
開封へ近づくにつれ、文徳は上機嫌になった。
「童貫様の配下に認められれば、陸生堂は清河県だけの店ではなくなる。西門慶にも負けない。いずれ陸生堂は私が継ぐのですから、今から名を覚えていただく方がよいでしょう」
「西門慶と商売を争っているのは私だ。お前が勝ったような顔をするな。それに、店は継いだだけで守れるものではない。今回の荷を無事に納めてから先の話をしろ」
世昌に釘を刺され、文徳はそれ以上言わなかった。
開封の城門をくぐると、清河県とは人の数も、通りを行き交う荷の量も違っていた。大路には荷車、馬、役人の輿が続き、店先には絹、香料、茶、陶器、書物が並んでいる。水路には荷船が浮かび、船頭の掛け声と車輪の音が絶えない。
麗華は馬車の窓から町を見た。珍しい品へ目を奪われるのではなく、どのような服装の者が役人で、どの門に兵が立ち、商人たちが誰へ頭を下げているのかを確かめていく。
陸家の一行が入ったのは、軍需品を集めている役所の一角だった。広い庭には薬、布、穀物、馬具を積んだ荷車が並び、役人たちが箱を開けて品物と書付を照合している。
その一角には、西門慶の店から届いた薬箱も置かれていた。陸生堂より箱の数は多いが、異なる薬材が同じ箱へ詰め込まれ、外側には店名しか書かれていない。世昌はその荷へ目を向けたものの、何も言わずに自分たちの順番を待った。
やがて陸生堂が呼ばれ、世昌が書状を差し出した。役人は木箱の外に付けられた札を読み、そこで手を止めた。
「箱ごとに、品名と数量が書かれているのか」
「中にも同じ札を入れてございます」と世昌が答えた。
役人は箱を1つ開けさせた。薬包は用途ごとに分けられ、数えやすいように並べられている。底の札には品名、数量、用途、仕入れ先まで書かれていた。
「これは調べやすい。ほかの箱も同じか」
「すべて同じ形でございます」
役人は配下へ、陸生堂の荷を先に改めるよう命じた。
文徳は自分の仕事が褒められたような顔をしたが、役人から薬の用途を尋ねられると、すぐに行き詰まった。
「この傷薬は、膿んだ傷にも使えるのか」
「傷薬ですから、使えると思います」
その返事を聞いた淑英が前へ出た。
「その薬は、血を止めた後に使う物です。すでに膿が出て熱を持った傷には、こちらを使います」
淑英は実物を示しながら、血を止める薬、傷を洗った後に使う薬、熱を持った傷へ使う薬の違いを説明した。役人は納得すると、次に馬の薬が入った箱を開けさせた。
その時、庭の入口で兵が声を上げた。
役人たちは作業を止め、一斉に姿勢を正した。数人の武官と従者を伴い、50歳を過ぎた男が庭へ入ってくる。衣服は華美ではないが、周囲の役人は誰も無遠慮に顔を向けようとしなかった。
文徳が麗華へ聞こえる声で教えた。
「あの方が童貫様だ」
西北の軍を率いる童貫が、集められた軍需品を自ら確かめに来たのである。
童貫は布や馬具を見ながら庭を進み、西門慶の店から届いた薬箱の前で足を止めた。役人が箱を開けると、何種類もの薬包が一緒に詰められている。
「中身を調べるのに、すべて出さねばならないのか」
「店から届いた時から、この状態でございます」
役人の答えを聞いた童貫は、隣に並んでいた陸生堂の木箱へ目を移した。
「こちらは何だ」
「清河県の陸生堂が納めた薬でございます。箱ごとに品名、数量、用途、仕入れ先が記されております」
役人は木箱を開け、内側に入っていた札を見せた。童貫は札と薬包を見比べた。
「外と中に、同じ札があるのか」
「雨などで外の札が読めなくなっても、確かめられるようにしたとのことでございます」
「誰が考えた」
文徳が一歩前へ出ようとしたが、世昌が先に答えた。
「妻の世話をしております、白麗華という娘が考えました。妻が薬の中身を確かめ、麗華が箱の分け方と札の付け方を整えました」
童貫は世昌の後ろに立つ麗華へ目を向けた。麗華が礼をして顔を伏せると、童貫が命じた。
「顔を上げよ」
麗華は顔を上げた。
童貫はその容貌を見たあと、世昌へ尋ねた。
「この娘は陸家の者か」
「妻が街道で助け、今は使用人として働かせております」
「薬を学んでいるのか」
麗華は淑英を見た。淑英が答えるよう促したので、前へ出た。
「薬の名と文字を、奥様から教わっております。私はまだ、薬の良し悪しを自分では決められません」
「それなのに、箱の分け方を考えたのか」
「薬を使う方が、必要な物を早く見つけられるようにしたかったのです。外の札が失われても、中に同じ札があれば、品名と数を確かめられます」
「仕入れ先まで書いたのは、なぜだ」
「悪い薬が混じっていた時、どこから来た物か分からなければ、同じ間違いが続くからです」
童貫は木箱へ目を戻した。
「荷を出した時の数が分かれば、途中で抜かれた時にも確かめられるな」
「はい。出した時と着いた時の数を比べられます」
麗華は尋ねられたことだけに答え、知恵を誇るようなことは言わなかった。童貫の目に留まろうとして余計な話をする必要もない。
童貫は役人へ命じた。
「今後、薬を納める者には、この形を手本にさせよ。品名と数量だけでなく、用途と仕入れ先も書かせる」
「承知いたしました」
童貫は次の荷へ向かいかけたが、もう一度麗華を見た。
「白麗華と申したな」
「はい」
「美しいだけの娘ではないらしい」
それだけ告げると、童貫は従者を伴って歩き去った。
文徳はその背中を追うように見ていた。武官になりたいと願い、名を覚えてもらおうとしていた自分より先に、陸家へ来てまだ1か月の麗華が童貫の記憶に残ったのである。
世昌は西門慶の荷が並ぶ庭で陸生堂の仕事を認められたことに満足していたが、それを顔には出さず、役人が改め終えた薬の受取書を確かめた。
麗華も童貫を呼び止めず、その後を追わなかった。淑英のそばへ戻り、開けられた木箱の中身を整える。折れた札を直し、数え終えた薬包を元の位置へ戻した。
童貫が自分の名を覚えた。それだけで今は十分だった。
童貫ほどの力を持つ男へ自分から近づこうとすれば、何を望んでいるのか警戒される。文徳を利用して陸家での立場を得る道もあるが、それでは麗華自身が文徳の女として扱われるだけである。
美しい容貌は人の目を向けさせる。しかし、相手がその名まで覚えるかどうかは別の話だった。童貫が覚えたのは、白麗華という美しい娘だけではない。軍用の薬を調べやすくする方法を考えた女でもある。
麗華は淑英とともに陸生堂の荷を片付けた。
童貫が再び自分を必要とする日が来るかどうかは、まだ分からない。だからこそ先を急ぐ必要はなかった。一度名前を覚えられたのなら、陸家で言葉と商いを学びながら、次の機会が来た時につかめるだけの力を身に付けておけばよい。




