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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第1話(前編1)――「奥方に拾われた少女」

 (1872年4月26日、イタリア・ヴェスヴィオ火山北西斜面)


 フランス女の右手から、直樹の手が離れた。足元では赤黒い溶岩が音を立てて流れ、熱風が顔を打っている。焼けた岩と硫黄の臭いが鼻や喉へ入り込み、息をするだけでも苦しかった。


 女は左手に握っていたリモコンへ目を落とした。杉山亜希子が改作した時間移動用の装置で、移動先は西暦1112年4月15日、北宋の東平府(ドンピンフ)清河県(チンホーシエン)、年齢は15歳に設定してある。


 体が溶岩へ近づき、衣服の裾が焦げ、髪の先から煙が上がった。直樹が手を離した以上、助けを求めても無駄である。女は左手の親指を動かし、リモコンのボタンを押した。


 視界を埋めていた赤い光が消え、次の瞬間、女の体は地面へ落ちた。


 ◇ ◇ ◇


 (1112年4月15日、北宋・東平府(ドンピンフ)清河県(チンホーシエン)郊外)


 頬に触れたのは、焼けた岩ではなく湿った土だった。伏せたまま耳を澄ますと、溶岩の流れる音も熱風のうなりも消えている。鳥の声が聞こえ、近くの用水路では水が流れていた。遠くでは牛が鳴き、木の車輪が土の道をきしませている。


 女が顔を上げると、周囲には桑畑が広がっていた。淡い緑色の若葉が春の日を受けて並び、畑の向こうには土壁の家が数軒、その背後には城壁らしいものが見える。


 両手を確かめると、指は細く、肌には皺も傷もなかった。火傷の痛みも消えている。胸や腰へ触れてみれば、体つきまで若い娘のものへ変わっていた。


 女は用水路まで這っていき、水面をのぞいた。そこに映っていたのは、黒い髪と白い肌、細い眉、黒い瞳を持つ見覚えのない少女である。濡れた髪が頬へ張りついている。水面へ顔を近づけ、角度を変えて確かめても、フランス人だった頃の面影は残っていなかった。


 少なくとも、この土地で異国人として目立つ心配はない。


 次にリモコンを操作したが、表示窓にはひびが入り、文字の一部が消えていた。何度ボタンを押しても反応しない。火山の熱か、転移する直前の衝撃で壊れたらしい。


 女は桑の木の根元を素手で掘ってリモコンを埋めた。土を戻して足でならし、目印になる石を3個並べる。さらに用水路の曲がり角から歩数を数え、場所を頭へ入れた。


 立ち上がって自分の衣服を見ると、裾は焼け焦げ、何か所も裂けている。形も布地も、遠くを歩く農民の服とは明らかに違った。


 女は桑畑の中へ身を隠し、街道を行き交う人々を観察した。粗末な服を着た農民が歩き、野菜を積んだ荷車が続く。馬に乗った男は、道を空けるのが遅れた老人を怒鳴りつけ、鞭まで振り上げた。次に通った荷車では若い男たちが酒の入った器を回し、大声で笑っている。


 どちらにも近づかなかった。言葉も通じず、身元を証明する物もない。相手を選ばなければ危険だった。


 昼を過ぎたころ、馬車と2台の荷車が街道を進んできた。荷車には乾燥させた草の束や木箱が積まれ、薬材らしい青臭さと乾いた根の匂いが風に乗って届く。馬車の前後には男の従者が付き、御者の隣には年配の女中が座っていた。


 窓の内側には30代なかばの女がいる。衣服の布は上等だが派手な飾りはなく、髪には銀の簪を挿し、膝の上には帳面を置いていた。後ろの荷車が大きく揺れると、女は窓を開けて何かを告げた。従者たちはすぐに荷車を止め、積み荷を縛る縄を締め直した。


 女はその様子を見て、桑畑から出る相手を決めた。


 頬と手へ土を塗り、焼けた衣服の裾をさらに裂いた。桑の枝で腕と脚へ細かな傷を付けると、馬車が近づくのを待って街道の端へ出た。馬の前へ飛び出すような真似はせず、御者と女中からよく見える場所まで歩き、そこで足をもつれさせて倒れた。


 御者が声を上げ、馬車が止まった。男の従者が近づいて何かを尋ねたが、女には言葉の意味が分からない。下手に答えるより、話せないと思わせた方が安全だった。喉を押さえ、声が出ないように見せる。


 従者が馬車を振り返ると、先ほどの女が降りてきた。少女の顔と衣服を確かめ、年配の女中へ何かを命じる。女中が持ってきた水筒を受け取り、女は水を少し口へ含んだ。喉を鳴らして飲み、途中でむせてみせる。水はぬるかったが、乾いていた口と喉には十分だった。


 女中は少女の腕や脚を調べ、骨が折れていないことを確かめてから馬車の女へ報告した。何かを尋ねられた女は首を振り、街道の後方を見たあと、怯えた顔を作って両手を合わせ、頬へ当てた。


 何を尋ねられたのかは分からない。それでも、家族も寝床も失った娘のように見せれば、少なくとも行き場がないことは伝わる。


 馬車の女が従者たちと相談を始めた。その間、従者と女中が同じ言葉を何度も使っていた。


「奥様」


 女はその音を覚えた。


 やがて奥方は、少女を馬車へ乗せるよう命じた。女は女中の腕につかまり、足元をふらつかせながら馬車へ乗り込んだ。


 車内には乾燥させた薬草と香木の匂いが残っていた。座席には厚い布が張られ、床には小さな炭入れが置かれている。向かいへ座った奥方は、自分の胸を指した。


「趙淑英(ジャオ・シューイン)」


 名前だと察した女は、淑英の唇の動きを見ながら聞こえた音を繰り返した。


「ジャオ……シューイン」


 淑英は目を見開き、女中と顔を見合わせた。今度は少女を指したが、女は胸元へ手を置いたまま答えなかった。この土地でどのような名前が使われているのか分からない。下手に名乗れば、かえって不審に思われる恐れがある。


 困った顔で首を振ると、淑英はそれ以上問い詰めなかった。


 馬車は城門を抜け、清河県の町へ入った。通りの両側には商店が並び、布、穀物、陶器、肉、魚、薬材が売られている。売り手の呼び声と家畜の鳴き声が重なり、鍋から立つ湯気に土や排泄物の臭いが混じっていた。


 女は弱った娘を装ったまま、窓の外を観察した。店先では穴の開いた銭が使われている。看板には見覚えのある漢字もあったが、読めない文字の方が多い。男女では衣服の形が違い、身なりを見れば貧富にもかなりの差がある。


 城門では荷車の積み荷が調べられていたが、淑英の馬車は長く止められなかった。門番が顔を知っているらしい。


 やがて馬車は大きな薬舗の前で止まった。看板には3文字が書かれている。女にはまだ読めなかったが、後に陸生堂(ルーションタン)と知る店である。


 淑英が降りると、番頭や使用人が集まり、薬材を積んだ荷車を店の裏へ回した。帳面もすぐに番頭へ渡される。その様子からも、淑英が単なる商家の奥方ではなく、店の仕事に深く関わっていることが分かった。


 そこへ店内から若い男が出てきた。上等な衣服を着ており、淑英へ親しげに声をかけている。ところが馬車の中にいる少女を見つけると、その顔に目を留めたまま動かなくなった。


 淑英が振り返って呼んだ。


「文徳」


 男が母親へ返事をしたので、女はその名も覚えた。


 陸文徳(ルー・ウェンドー)が馬車へ近づいてきたが、女は淑英が差し出した手を取って降りた。文徳には頭を下げるだけにとどめ、すぐ淑英の後ろへ回った。


 淑英は見知らぬ少女をいきなり屋敷の奥へ入れず、薬舗の裏にある使用人用の部屋へ連れていかせた。湯と食事が運ばれ、年配の女中が焼けた衣服を脱がせる。女は体を洗い、粗末ではあるが清潔な衣服へ着替えた。


 食事は粟の粥と漬物だった。腹は減っていたが、女はまず女中へ頭を下げた。箸の持ち方を直されると、その指の形を見て持ち直す。薄い塩味の粥には、わずかに穀物の甘みがあった。女は椀を両手で持ち、一粒も残さず食べた。


 食事を終えて椀と箸を重ねて返すと、女中が自分の胸を指した。


「孫婆(スンポー)」


「スンポー」


 女が聞こえた通りに繰り返すと、孫婆は口の形を見せながら発音を直した。


「スン・ポー」


「スン・ポー」


 今度は通じたらしく、孫婆が笑った。


 女はすぐに部屋の中の物へ目を向け、水差しを指した。孫婆が「水」と教えると「水」と繰り返し、湯気の立つ桶を指して教えられた「湯」も同じように口へ出した。孫婆が部屋を出たあとも、水差しと桶を見ながら2つの言葉を何度も繰り返した。


 その日の夕方、淑英が様子を見に来た時、女は寝台で休んではいなかった。使った食器を洗い、借りた衣服を畳み、部屋の床まで拭いている。


 戸口で足を止めた淑英が何かを尋ねると、女は粥の椀を指して頭を下げ、続いて雑巾で床を拭く動作を見せた。孫婆が昼間の様子を説明したらしく、淑英は少女へ近づいて手を取った。土を掘った時にできた小さな傷が指先に残っている。それを見つけた淑英は、孫婆へ薬を塗るよう命じた。


 翌朝、女は空が白み始める前に起きた。表へ出ると春の冷気が首筋に触れる。井戸から水をくみ、薬舗の裏庭を掃き、薬材を干す台を布で拭いた。ただし、中身の分からない籠や包みには触れなかった。


 使用人たちが起きてくると、自分勝手に仕事を広げるのをやめ、周囲の動きを見て覚えることにした。


 孫婆が井戸を指して「水」と言えば、女は桶を持ち上げて「水」と答えた。台所の釜を示されれば「湯」と返す。粥の入った椀を見せられた時には「飯」と答えたが、孫婆は粥と飯の違いを教えた。女は椀を指しながら、違いを忘れないよう2つの言葉を繰り返した。


 それからは女中たちの後について、水を運び、床を掃き、洗った布を干した。一度教えられた作業は覚え、次からは指示される前に始める。人の名前も同じで、呼び方を間違えればその場で直し、仕事の動作と言葉を結び付けながら覚えていった。


 昼には淑英の部屋へ湯を運んだ。淑英は朝から帳面を調べ、何人もの使用人へ指示を出している。その合間に何度も左肩へ手を当て、首を回していた。


 女は湯を置くと淑英の肩を指し、自分の肩を揉んでみせた。許しを得て背後へ回り、首から肩にかけて指を当てる。張っている場所を探しながら、淑英の反応を見て力を加減した。初めは背筋を伸ばしていた淑英も、しばらくすると椅子の背へ体を預けた。


 揉み終えた女は茶器へ目を向けた。茶が冷めていたので、孫婆へ身ぶりで頼んで新しい茶を入れてもらう。その手元を見ながら茶壺と茶碗を指すと、孫婆が「茶」と教えた。女も同じ音を繰り返した。


 こうして女は、淑英の部屋へ湯や茶を運ぶ仕事を任されるようになった。朝は洗顔用の湯を用意し、食事の前には卓を拭く。淑英が帳面を開けば手元が暗くならない位置へ灯火を移し、外出前には履物をそろえ、戻る時刻には上着を受け取れるよう入口で待った。淑英が好む茶の濃さも、数日で覚えた。


 3日目の午後、陸家の主人が薬舗へ戻ってきた。


 店先に番頭や使用人が集まると、女も孫婆の後ろへ立ち、周囲に合わせて頭を下げた。主人は淑英から少女を拾った経緯を聞き、焼けた衣服も確認したうえで本人へいくつか質問した。


 しかし女には、まだ十分に聞き取れない。分かったふりをして答えず、孫婆へ顔を向けた。孫婆が身ぶりを交えて、名前と出身を尋ねられていることを教えると、女は胸へ手を当ててから首を振り、遠くを指して、最後に両手を合わせて頬へ当てた。


 主人は淑英と相談し、ひとまず陸家で働かせながら様子を見ることにした。


 翌朝から女は主人に対しても距離を守った。店へ出る前に洗顔用の湯を運ぶが、部屋へ入る時には必ず声をかけ、許しを得てから戸を開ける。衣服や帳面には勝手に触れず、湯を置けば頭を下げて退いた。主人が薬舗で使った茶器も孫婆から受け取って洗い、用事がなければ近づかなかった。


 4日目の夕方、女が裏庭で洗った布を竹竿へ掛けていると、文徳がやって来た。周囲に誰もいないことを確かめて少女の前へ回り、手にしていた髪飾りを差し出して何かを言う。


 女は髪飾りへ手を伸ばさず、薬舗の方を指した。


「奥様」


 覚えたばかりの言葉だった。


 文徳は母親には言わないという身ぶりを見せ、もう一度髪飾りを差し出した。それでも女は受け取らず、まだ干していない布を持ち上げて仕事の途中であることを示すと、文徳の横を通って孫婆のいる洗い場へ向かった。文徳も追っては来なかった。


 翌日には廊下で呼び止められたが、女は礼をして立ち止まり、文徳が近づくと手にしていた茶盆を見せた。


「奥様。茶」


 文徳は母親の部屋を見て道を空けた。女は逃げるような態度も嫌そうな顔も見せず、その前を通って淑英の部屋へ入り、いつもの濃さに入れた茶を置いた。


 数日後、今度は主人が少女の覚えた言葉を確かめた。店、薬、銭を順番に指すと、女は教わった通りに「店」「薬」「銭」と答えた。帳面を指された時だけは分からず、勝手に答えず孫婆を呼んだ。


 孫婆が教えた。


「帳面」


「帳面」


 女がその言葉を覚えようと繰り返すのを見て、主人は店の奥へ戻っていった。


 その夜、女は使い終えた紙片と炭を孫婆からもらった。紙片へ物の形を描き、その横へ文字を書いてもらう。水差しの横には水、茶碗の横には茶、薬包の横には薬と書かれていた。


 女は文字を指でなぞりながら声に出して読み、発音を直されれば孫婆の舌や唇の動きを見て言い直した。孫婆が眠ったあとも灯火のそばで同じ文字を書き、翌朝には前日に教わった言葉を読み上げてみせた。


 5日目の夜、淑英が女を自室へ呼んだ。机の上には帳面が積まれ、薬草の匂いが移った衣服が衝立に掛けられている。


 椅子を勧めた淑英は、自分の胸を指した。


「趙淑英(ジャオ・シューイン)」


 続いて少女を指す。


 女はこの5日間で町の女たちの名前をいくつも耳にしていた。その中から、この土地で不自然ではない名前を選んだ。


「白麗華(バイ・リーファ)」


 淑英が確かめるように「白麗華」と繰り返すと、女も「はい。白麗華」と答えた。まだ清河県の者とは発音が違うが、名前は通じた。


 淑英は言葉を区切りながら質問を続けた。麗華に聞き取れたのは「家」「父」「母」だけだった。麗華は首を振り、遠くを指して歩く動作を見せ、両手を合わせて頬へ当てた。淑英はそれ以上詳しく問い詰めなかった。


 そこへ主人が入ってきた。淑英から少女の名を聞き、本人にも確かめる。


 麗華は頭を下げた。


「白麗華」


 主人は孫婆へ、麗華がどの程度働いているかを尋ねた。孫婆は、朝早くから働いていること、一度教えた仕事を覚えていることを説明し、さらに麗華が文字の練習に使っている紙片を見せた。


 主人は紙片を手に取り、水、茶、薬の文字を順に指した。麗華は「水」「茶」と答え、薬の文字にも正しく答えた。数日前には言葉すら通じなかった少女が、仕事をしながら文字まで覚え始めている。それを確かめた主人は紙片を孫婆へ返し、淑英としばらく話した。


 やがて淑英が麗華の手を取り、このまま陸家で働いてよいと告げた。すべての言葉を理解できたわけではない。それでも「陸家」「働く」「よい」という言葉と、淑英や主人の表情を見れば意味は分かった。


 麗華は椅子から降り、2人の前へ膝をついた。


「奥様。旦那様。ありがとうございます」


 発音はまだ拙かったが、今度はきちんと通じた。淑英は麗華を立たせ、その体を抱き寄せた。主人から仕事をよく覚えるよう言われると、麗華も自分の知っている言葉をつないで答えた。


「はい。よく働きます。言葉も覚えます」


 主人は初めて笑顔を見せた。


 麗華は淑英へ新しい茶を入れ、主人の分も用意した。2人が帳面を広げると、手元が見やすいよう灯火を机の中央へ移してから部屋を出た。


 廊下では文徳が待っていた。麗華が陸家に残ると知ったらしく、顔を明るくして廊下の奥を指し、2人で行こうと誘っている。


 麗華は礼をした。


「若様、奥様の湯を用意します」


 覚えた言葉を確かめながらそう告げ、台所へ向かった。文徳も今度は引き止めなかった。


 淑英の湯を運び終えた麗華は、自分に与えられた小部屋へ戻った。戸締まりを確かめ、灯火の前へ座って紙片を広げる。その日に覚えた「家」「父」「母」「働く」「帳面」を順に書き、最後に自分で選んだ名前を記した。


「白麗華」


 これから北宋で生きていくための名前である。


 麗華は紙片を枕元へしまい、灯火を消した。翌朝も夜明け前に起き、淑英の湯を沸かし、主人が店へ出る前には茶を用意する。孫婆から新しい言葉を教わり、今日より多くの指示を聞き取れるようにならなければならない。


 麗華は寝台へ入り、目を閉じた。

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