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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第10話(中編1)――「前にも後ろにも敵」

 (1225年10月中旬、開封(カイフォン)北方)


 金軍の太鼓が鳴り続けていた。北壁へ向かう歩兵の前列では、大盾を持つ兵が進み、その後ろを弓兵と梯子を担いだ兵が続いていた。


 城壁から矢が降り、盾で防ぎきれなかった兵が倒れた。後続の兵はその脇を通って前へ出る。金軍の弓兵も城壁へ向けて射返し、矢の一部は石壁に当たり、別の矢は城壁を越えた。守備兵にも負傷者が出始めていたが、持ち場を崩すことはなかった。


「梯子を近づけさせるな!」と城壁の将校が命じた。


 弓兵が狙いを変えると、梯子を担ぐ兵へ矢が集まり、何本もの梯子が地面に倒れた。金軍は別の隊にそれを拾わせ、さらに兵を送り込んできた。


 城壁の下までたどり着いた兵が梯子を立てると、守備兵は上から石を落とし、梯子を押し返した。最初の攻撃は激しかったが、北壁の守りを破るには至らなかった。それでも金軍は攻撃を止めず、後方から次の部隊を進ませた。


 ◇ ◇ ◇


 開封の南東では、倉達也(ツァン・ダーイエ)が玉蘭からの使者を待っていた。主力はすでに出陣できる状態にあり、歩兵は武器を手に待機し、騎兵は馬の腹帯や鐙を確かめていた。達也も馬上にいた。開封の方角からは、太鼓と警鐘の音が絶えず届いていた。


 将校は城壁への攻撃が激しいことを気にかけ、まだ動かないのかと尋ねた。達也は玉蘭からの知らせを待つと答えた。城の守りについても、持ちこたえられると判断していた。


「城壁の兵には、無理に敵を遠ざけようとするなと言ってある。城壁へ登らせなければいい」


 敵を疲れさせるためかと将校が確かめると、達也はそれもあると認め、開封の方角へ目を向けた。


「何より、金軍には攻城を続けてもらわんと困る」


 しばらくして、東から1騎の使者が走ってきた。長く走らせてきたらしく、馬の首筋が汗で濡れていた。玉蘭からの使者だった。


 使者は馬を止めて報告した。

「鎮北将軍は金軍の北側へ回り込みました。敵の兵糧隊と黄河へ戻る街道を確認しております」


 金軍には、まだ大きな動きはなかった。玉蘭は達也の命令があれば、すぐに攻撃できるという。達也は後方に残る敵の兵力を確かめた。


「兵糧隊を守る兵がおります。ただ、開封への攻撃が始まってから前線へ移された部隊もあり、かなり手薄になっております」と使者は答えた。


「待った甲斐があったな」


 達也が地図へ目を落とすと、周囲の将校たちも集まった。達也は金軍の北側を指した。


「玉蘭に伝えろ。まず兵糧隊を叩け」


 荷車は焼かず、使える物は奪うよう命じた。その後は黄河(ホワンホー)へ戻る街道を押さえさせるが、金軍本隊へ深く入りすぎないよう注意した。


 使者に理由を問われ、達也は説明した。

「玉蘭が本隊へ食い込みすぎれば、金軍は背後への攻撃を主攻と見て、大軍を北へ回すかもしれん」


 達也は開封の東を指した。

「敵が後ろへ兵を回したところで、俺たちが東から入る」


 使者は命令を受け、再び馬を走らせた。達也は周囲の兵にも準備を命じたが、出陣の時機は変えなかった。


「玉蘭が後方を乱してから動く」


 ◇ ◇ ◇


 金軍の後方には、兵糧を積んだ荷車が長く並んでいた。開封への攻撃に兵を出しているため、周囲に残された兵は多くなかった。兵たちは荷車の間で穀物の袋を運び、馬や牛に水を与えていた。


 その北東から、耶律玉蘭(イェリュ・ユーラン)の騎兵が近づいていた。玉蘭は契丹兵300騎を先頭に置き、後続の騎兵を左右へ分けた。


「最初に見張りを崩します」と玉蘭は部下に告げた。「荷車は焼かないでください。こちらで使える物まで失います」


 馬と牛も確保するよう命じたうえで、追撃について念を押した。


「逃げた兵を深追いする必要はありません。私たちの目的は兵糧隊と街道です」


 金軍の陣からは、開封を攻める太鼓の音が聞こえていた。後方の兵も前線の様子を気にしている。玉蘭は前方を確かめ、馬を進めた。


「行きます」


 騎兵が一斉に動き出した。しばらくは速度を抑えていたが、金軍の見張りが気付く距離まで近づくと、一気に駆け出した。


「敵襲!」と金兵が叫んだ。


 警告が荷車の列へ伝わるより早く、玉蘭の騎兵は見張りの隊へ迫った。馬上から矢が放たれ、金兵が次々と倒れた。残った兵は慌てて武器を取ったが、陣形を整える間もなく騎兵に踏み込まれた。


 荷車を守っていた兵の一部は前線へ知らせに走り、別の兵は北へ逃げ始めた。


「荷車を押さえなさい!」と玉蘭は命じた。


 騎兵の一部が荷車の列へ入り、馬と牛を確保した。別の部隊は西へ進み、黄河へ続く街道へ向かった。金軍の後方では、逃げる兵と知らせを運ぶ兵が入り交じり、荷車を守る隊はまとまりを失った。


 ◇ ◇ ◇


 開封北側の金軍本陣へ、後方から使者が駆け込んだ。


「申し上げます! 後方が襲われました!」


 将たちが使者へ顔を向けた。目の前では城壁への攻撃が続き、兵が何本もの梯子を立てようとしている最中だった。


 敵の正体を問われ、使者は北東から騎兵が現れ、兵糧隊を襲っていると答えた。兵数は分からず、見張りが気付いた時には、すでに迫られていたという。


 金軍の将が北を見ると、兵糧隊を置いた場所に大きな土煙が上がっていた。


「後備を回せ!」


 開封への攻撃をどうするかと部下に問われると、将は続行を命じた。後方に残されていた兵が集められ、玉蘭の騎兵へ向かった。


 その動きは、南東で待つ達也にも間もなく伝わった。


 ◇ ◇ ◇


 斥候が達也のもとへ走り込み、金軍が後方へ兵を回し始めたと報告した。兵糧隊の付近からは大きな土煙が上がっていた。一方、開封への攻撃は続いていた。


 達也は敵の対応を聞いて笑った。

「欲張ったな」


 将校が意味を尋ねると、達也は答えた。

「開封も攻めたい。兵糧隊も守りたい。それで兵を分けた」


 達也は手綱を握り直した。敵が前後へ兵を割いた今が、攻める時だった。


「全軍、出るぞ」


 号令が伝わり、待機していた歩兵が動き始めた。騎兵も列を整え、達也はその先頭近くへ馬を進めた。城の東側を回り、金軍の側面を叩くつもりだった。


 達也自身も騎兵とともに出ると聞き、将校は危険だと案じた。


「兵を率いて戦うためにここまで来たんだ」と達也は答えた。


 達也の号令で騎兵が先に進み、歩兵も続いた。開封の南東に隠れていた主力が、城の東側を回って北へ向かい始めた。


 ◇ ◇ ◇


 金軍の前線では、まだ開封への攻撃が続いていた。北壁近くには倒れた兵が増え、梯子も何本か壊されていたが、後方から新しい兵が送り込まれていた。


 そこへ東から、馬の蹄と大勢の兵が進む音が近づいてきた。最初に気付いたのは、東寄りにいた金軍の騎兵だった。


「東に軍勢!」


 将校が振り返ると、土煙の中から多数の騎兵が現れ、その後ろには歩兵も続いていた。東から敵が来たとの叫びが周囲へ広がった。


 金軍の多くは開封の城壁を攻めるため南を向き、東側への備えは薄かった。将校たちは向きを変え、騎兵を東へ回すよう命じたが、前線へ進む兵と後方へ戻る兵がぶつかり、隊列が乱れた。


 達也軍の騎兵は、その間にも距離を詰めた。


「弓!」と達也が命じた。


 騎兵は馬を走らせながら弓を構え、金軍の側面へ矢を放った。盾を持たない兵が倒れ、矢を受けた馬が暴れた。続けて2度目の矢が飛んだ。


「槍を構えろ!」と金軍の将校が叫んだ。


 金兵は迎え撃とうとしたが、陣形が整う前に達也軍が迫った。達也は馬上で剣を抜いた。


「突っ込め!」


 騎兵が金軍の側面へ突入すると、馬の勢いを受け止めきれず、金兵の列が崩れた。達也も先頭近くで馬を進めた。


 目の前に槍を構えた兵が出てきた。達也は馬の向きを変えて槍先をかわし、すれ違いざまに剣を振った。その後ろから味方の騎兵が次々と入り込み、金軍の東側を押し込んでいった。


 ◇ ◇ ◇


 金軍本陣には、今度は東から使者が飛び込んだ。


「東側から大軍が攻めております!」


 魯王の軍と思われるとの報告に、将の1人が声を上げた。

「魯王は城内ではなかったのか!」


 使者にも事情は分からなかった。後方では玉蘭の騎兵に兵糧隊を襲われ、東からは達也の主力が迫っている。それでも南では攻城を続けていたため、将たちは対応を変えざるを得なかった。


「攻城を止めろ!」


 続けて、城壁から兵を戻し、東側を支えるよう命令が出た。太鼓の調子が変わり、前線へ後退の合図が送られた。


 しかし、城壁の近くまで進んだ兵には、命令がすぐには伝わらなかった。そのまま攻める部隊がある一方、後ろへ戻る部隊や、東へ向きを変える部隊も動き始めた。異なる方向へ進もうとする兵がぶつかり、陣形はさらに乱れた。


 開封の守備兵は、その様子を城壁から見ていた。


 ◇ ◇ ◇


 北門の守備を任されていた将校のもとへ、伝令が走ってきた。


「城外の魯王様からの命令でございます!」


 将校が内容を尋ねると、伝令は告げた。

「金軍が攻城を止めて兵を戻し始めたら、北門から打って出よとのことでございます!」


 将校は城外を確かめた。先ほどまで城壁へ殺到していた金兵が、後ろへ戻り始めていた。東側では達也軍との戦いが始まり、遠くの北方にも土煙が上がっている。


「門を開ける準備をしろ!」


 将校は騎兵を先に出し、その後へ歩兵を続かせるよう命じた。兵たちが北門の内側へ集まり、門を閉じていた横木が外された。重い扉が内側へ開くと、城外の金兵が気付いて声を上げた。


「門が開いたぞ!」


 だが、攻城部隊はすでに後退を始め、迎え撃つ陣形を整えていなかった。開封の騎兵が北門から飛び出し、歩兵もその後を追った。守備隊の将校が前進を命じ、それまで城壁を守っていた兵が、今度は城外へ攻め出した。


 ◇ ◇ ◇


 金軍は3方向から攻撃を受けることになった。北では玉蘭が兵糧隊を襲い、黄河へ戻る街道へ進んでいた。東では達也の主力が側面を押し込み、南では開封の守備兵が北門から打って出た。


 金軍の将校たちは、東を支えるよう命じる一方で、城門から出てきた敵への対応も迫られた。兵糧隊が奪われるとの知らせを受け、北へ兵を戻せと叫ぶ者もいた。命令が入り乱れ、兵たちは自分の隊がどこへ向かうべきか判断できなくなり始めていた。


 達也はその様子を馬上から見た。

「崩れてきたな」


 隣の将校も、押し込んでいる側面は持たないと見ていた。達也はさらに騎兵を投入させたが、深く入りすぎないよう注意した。


「敵が崩れて逃げ始めるまで、こちらの隊列も乱すな」


 将校が、そのあと追撃するのかと確かめると、達也は答えた。

「そこからが本番だ」


 達也は剣を掲げ、前進を命じた。再び騎兵が突入し、金軍の隊列にできた崩れ目を広げた。持ち場を離れ、後ろへ下がろうとする兵が増えていった。


 ◇ ◇ ◇


 北側では、玉蘭が兵糧隊をほぼ制圧していた。荷車の多くは無傷で残り、穀物の袋、干し肉、飼葉のほか、矢や予備の武器も積まれていた。


 部下は荷車をかなり確保したと報告した。馬と牛は逃げたものもあったが、大半が残っていた。街道へ向かわせた別働隊は、西へ回っているという。


 玉蘭は自分たちも進むと告げた。部下が金軍本隊を攻めるのかと確かめると、玉蘭は否定した。


「黄河へ戻る道を押さえます」


 街道を確保する範囲について尋ねられ、玉蘭は指示した。

「街道だけに固まらないでください。逃げる兵が脇へ回ることも考え、左右へ騎兵を広げます」


 部下は命令を受け、開封の方角を見た。遠くから戦の音が届いていた。金軍はもう崩れ始めているだろうかと尋ねると、玉蘭は答えた。


「達也様が動いたのであれば、長くは持たないでしょう」


 玉蘭は馬を進めた。

「急ぎます。逃げ道を開けたままにしては、ここまで待った意味がありません」


 確保した荷車を後続に任せ、騎兵は再び動き出した。黄河へ続く街道を押さえるため、西へ進んでいった。


 ◇ ◇ ◇


 開封北方では、金軍の陣形が目に見えて崩れ始めていた。城壁を攻めていた兵の多くは本陣へ戻れず、東から迫る達也軍を避け、北西へ流れ始めていた。


 そこへ、後方の兵糧隊が襲われたとの情報が伝わった。荷車が奪われ、北にも敵がいるという叫びが広がった。黄河への道まで押さえられるとの声も上がり、正確な状況が分かる前に、帰れなくなるという不安が兵たちを動揺させた。


 金軍の将たちは、勝手に下がらず陣を組み直せと命じた。しかし兵は止まらなかった。東からは達也軍の騎兵が迫り、南からは開封の守備兵が押していた。北の帰路にも敵がいると知り、金兵の一部が西へ逃げ始めた。


 それを見た別の部隊も続いた。もはや指揮に従った退却ではなく、各隊が自分たちで逃げ道を探していた。


 達也は敵の動きを確認した。

「来たな」


 将校が追撃を確かめると、達也はうなずいた。敵はすでに崩れていたが、ここで追い払うだけでは、これまでと変わらない。


「今度は逃がさん」


 達也が馬を前へ進めると、号令を受けた騎兵が、崩れた金軍を追って動き出した。北では玉蘭が帰路へ向かい、南には開封の守備兵がいる。東から押され続けた約5万の金軍は、もはや城を攻めるどころではなかった。


 兵たちは隊列を失い、それぞれ逃げられる方向へ走り始めた。達也はその軍を立て直させるつもりはなかった。開封を守るために待ち構えていた戦いは、崩れた金軍を追い、再び攻めてくる力を奪う段階に入った。

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