第10話(前編2)――「開封を攻めさせろ」
(1225年10月中旬、開封・魯王府)
北からの軍報は、朝から途切れなかった。政務殿の卓には黄河から開封までの地図が広げられ、斥候から届いた報告書が何枚も置かれている。倉達也は1枚ずつ読み、金軍の位置を確かめていた。
達也が渡河の状況を尋ねると、将校は昨日から先鋒が渡り始め、本隊も今朝から続いていると報告した。確認できた兵だけで4万を超え、後方にもまだ部隊がいた。兵糧を積んだ荷車や牛車が長く続き、先鋒には多数の騎兵が含まれていた。
達也は地図上の渡河点へ目を移した。
「舟は足りているのか」
「周辺から集めたようでございます。筏も使っておりますので、渡河にはかなり時間がかかっております」と将校は答えた。
「構わん。急いでもらう必要はない」
将校は、渡河の最中を襲えば大きな損害を与えられると進言した。達也も、その見込みは認めた。しかし、今攻めれば北岸に残った部隊は逃げてしまう。
達也は黄河の北を指した。
「俺が狙っているのは、渡ってきた兵の一部じゃない。開封を取り返すために集めた軍そのものだ」
全軍を黄河の南へ入れると聞き、将校は危険を指摘した。達也は承知のうえだった。
「危険がない戦などない」
達也は開封へ指を移し、続けた。
「だが、開封を取れると思わせなければ、金は大軍をここまで持ってこない」
別の将校が、敵がそのまま城へ攻め寄せた場合の備えを尋ねた。達也は、そのために城壁があると答えた。
「守備兵も食糧も矢も用意してある。数日攻められた程度で落ちる城にはしていない」
将校たちが承知すると、達也は役人に城外の村の避難状況を報告させた。住民には城内へ入るよう知らせていたが、家財をすべて運び込もうとすれば時間がかかる。達也は人と家畜を先に避難させ、穀物は運べる分だけにするよう命じた。
「金軍に食わせる物は残すな。運べない穀物は隠すか、処分しろ」
役人が命令を受けると、達也は次の報告書を取り、玉蘭から連絡が来ているか確かめた。まだ届いていなかったが、達也はそれでよいと答えた。
将校が意外そうに顔を向けたため、達也は理由を説明した。
「今はな。玉蘭が何度も使者を寄越せば、それだけ人の動きが増える。敵の斥候に見つかる恐れもある」
予定どおり動いていると考えてよいのかと問われ、達也は答えた。
「あいつなら動く」
それ以上は言わず、次の報告へ目を移した。
◇ ◇ ◇
同じ頃、耶律玉蘭は開封の北東にいた。契丹兵300騎を中核に置き、その周囲へ東平と曹州から動かした騎兵を、小隊ごとに分けて配置していた。
村へ入る際も、数十騎ずつ時間をずらして移動した。野営地を分け、夜間に焚く火の数も抑え、大軍が集まっていると気付かれないようにしていた。
玉蘭は高台から西の街道を見ていた。遠くには、金軍の荷車が巻き上げる土煙が見える。隣の部下は、敵が黄河を渡り始めた今も待ち続けてよいのかと尋ね、先に兵糧隊を襲えば多くの荷を奪えると進言した。
「今襲えば、金軍は南下を止めるでしょう」と玉蘭は街道を見ながら答えた。「達也様は開封まで来させるおつもりです」
部下は、敵が4万を超えていると聞いていた。その大軍を引き寄せることに不安があったが、玉蘭の考えは達也と同じだった。
「金が開封を取り返すために集められるだけ兵を集めたのであれば、その軍を失わせる意味は大きいでしょう」
部下が納得すると、玉蘭はまだ姿を見せないと伝えた。そのうえで、監視する場所を指示した。
「金軍の先頭ではなく、最後尾を見ていなさい」
部下が聞き返すと、玉蘭は説明した。
「全軍が黄河を渡ったかどうかが重要です。北岸に大部隊が残っている間は動きません」
さらに、渡河点へ近づきすぎないよう注意した。金軍も斥候を出している。こちらが背後から動きを見ていると知られれば、敵の進軍にも影響する。
部下が命令を受けると、玉蘭は再び西へ目を向けた。金軍は南下を続け、まだこちらの騎兵には気付いていなかった。できるだけ長く、その状態を保つ必要があった。
◇ ◇ ◇
翌朝、開封北方から新たな報告が届いた。斥候は馬を降りると、そのまま政務殿へ通された。
「申し上げます。金軍の本隊が黄河を渡り終えました」
達也は北岸に残っている兵を確かめた。渡河を助ける兵と荷車の一部を除き、大部分が南岸へ移っていた。全体の兵数は、およそ4万5,000から5万と見られていた。
政務殿にいた将校たちの表情が引き締まった。達也は続けて進軍方向を尋ねた。金軍は開封へ向かい、大きく別方向へ動いた部隊は、今のところ確認されていなかった。
達也は地図を見ながら、城外に残る住民の避難を急がせた。
「北門周辺の市場は今日で閉じる。商人には城内へ入るか、南側へ移るよう知らせろ」
城門については、日暮れに北門を閉め、東門と西門も翌日から出入りを制限することにした。南門は、まだ避難してくる者のために、しばらく開けておく。
続いて達也は、城壁の兵を予定の人数まで増やし、矢と投げ落とす石を各所へ運ぶよう命じた。ただし、敵が見えるまでは旗を増やさせなかった。
将校は、金軍がすでに開封へ向かっているのに、まだ兵力を隠す必要があるのかと尋ねた。達也は、途中で警戒して進軍を止める可能性が残っていると考えていた。
「最後まで、攻めやすそうな城に見せておく」
将校が達也自身は城内に残るのかと確かめると、達也は南東の城外へ出ると答えた。政務殿にいた者たちが顔を向けた。
「金軍が開封の北に布陣してから俺の軍が城外へ出れば、すぐ気付かれる。それでは遅い」
達也は地図上の南東を指した。
「先に主力を外へ出し、敵から見えない場所で待たせる」
城には十分な守備兵を残す。金軍には、達也の主力が城内にいるのか、別の場所にいるのか分からないようにするつもりだった。
将校たちが方針を理解すると、達也は移動を命じた。
「今夜から兵を分けて南門から出せ。一度に動かすな」
達也自身も、翌日の夜には城外へ出る予定だった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、達也は王妃の宮を訪れた。王妃と楊太后が一緒にいた。窓の外では、城外から避難してきた者たちが王府周辺へ入り込まないよう、兵が道を整理している。遠くから荷車の車輪の音や、家畜の鳴き声が聞こえていた。
王妃は、金軍が近づいているのだろうと尋ねた。達也は黄河を渡って開封へ向かっていると伝え、兵数は5万近いと説明した。
太后の表情が変わった。
「5万もいるのですか」
達也が肯定すると、太后は味方の兵が足りるのかと尋ねた。
「十分におります。ご心配には及びません」と達也は答えた。
王妃は達也の顔を見て、今夜は宮へ戻るのかと確かめた。達也は今夜は王府にいると答えたが、その言い方から、王妃は出陣が近いと察した。
達也は翌日の夜、城外へ出る予定を伝えた。金軍が来る前に開封を離れると聞き、太后は城の守りを案じた。
「城には十分な兵を残します」と達也は答え、2人に説明した。「私の主力は城の外に置きます。金軍には開封の守備兵だけを相手にしていると思わせます」
王妃は玉蘭の居場所を尋ねた。達也は別の場所にいるとだけ答えたが、王妃が詳しく知ろうとしたため、伝えられる範囲を説明した。
「金軍の背後へ回れる位置でございます。詳しい場所は、今は王府の中でも限られた者にしか知らせておりません」
「私たちにも教えられないのですか」と王妃は尋ねた。
「申し訳ございません。玉蘭の居場所を知る者は少ない方が安全でございます」
王妃は理由を聞くと納得し、それ以上は尋ねなかった。達也が礼を述べると、今度は太后が口を開いた。
「本当に勝てるのですか」
達也は太后へ向き直った。
「勝つために、ここまで金軍を引き寄せました」
それでも太后には、5万という兵数が気にかかった。達也は、多いからこそ、この軍を失えば金の痛手も大きくなると答えた。
「達也様は怖くないのですか」と太后は尋ねた。
「怖くないとは申しません」
太后は意外そうな顔になった。達也は、戦では予定どおりにいかないこともあるからこそ、できる限りの準備をすると説明した。
「ただし、金軍が開封まで来ること自体は、こちらが望んでいた通りでございます」
王妃は、開封が攻められると分かったうえで、わざと敵を引き寄せたのだと確かめた。達也が認めると、太后は驚きを隠さなかった。
「ずいぶん思い切ったことをなさいますね」
達也は、開封を守るだけなら黄河で迎え撃つ方法もあったと説明した。それを選ばなかったのは、金軍を逃がしたくなかったからだ。
「開封を取り返しに来た軍を、ここでまとめて潰すおつもりなのですね」と王妃は言った。
「そのつもりでございます」
太后も、玉蘭が敵の背後へ回り、達也が城外から攻める手順を理解した。王妃はしばらく達也を見ていたが、やがて自分の考えを伝えた。
「今は私たちが余計なことを申し上げる時ではありません」
王妃はそのまま続けた。
「達也様は、ご自分で決めた通りになさってください」
達也が応じかけると、王妃は念を押した。
「ただし、必ず戻ってきてください」
達也は丁重に頭を下げた。
「必ず戻ってまいります」
太后も、王妃と同じ願いを伝えた。
「勝つことだけではありません。達也様ご自身が無事に戻ることも忘れないでください」
「承知いたしました」
達也は2人へ改めて礼をした。
◇ ◇ ◇
その夜、開封の南門から兵が動き始めた。最初に数百人を出し、時間を置いて別の隊を続かせた。夜が深くなると騎兵も移動した。松明は必要な数に抑え、城門付近に軍勢が滞留しないよう、順番に送り出していった。
城外へ出た兵は南東へ進み、あらかじめ決めていた場所に分かれて待機した。夜明けまでにかなりの兵が移ったが、城壁には十分な守備兵を残していた。
翌日の日中は軍を動かさず、夜になってから再び別の部隊を南門から出した。金軍の斥候が、すでに開封の北へ現れ始めていたためだった。達也もこの夜、城外へ移った。
◇ ◇ ◇
その翌朝、開封北方の見張り台から、金軍の先鋒が確認された。地平近くに土煙が上がり、その下を騎兵の列が進んでいた。さらに後ろには歩兵が続き、荷車の列も途切れなかった。
「金軍が見えました!」
見張りの兵が城壁へ声を上げた。北門はすでに閉じられ、城外に残っていた住民も、ほとんどが避難を終えていた。
金軍はその日のうちには攻めず、城から距離を取って、北側を中心に陣を築き始めた。歩兵が次々と到着し、幕舎が並んでいく。荷車を集め、軍馬をつなぐ場所も設けられた。夕方までには、開封の北に大きな陣が出来上がっていた。
金軍が城壁の守備兵を調べている間に、達也の主力は開封の南東で待機を終えていた。
◇ ◇ ◇
達也は城外の陣で、金軍の布陣について報告を受けた。東西へ回った兵も一部いたが、主力は開封の北に置かれていた。荷車から木材を降ろし、多数の梯子も用意しているという。
「本気で攻めるつもりだな」と達也は言った。
こちらの位置に気付いた様子は、今のところなかった。玉蘭からも昼前に使者が来ており、金軍の最後尾が開封方面へ進んだことを確認していた。黄河の北には、渡河点を守る程度の兵しか残っていないという。
達也は地図へ目を落とし、金軍の北側を指した。
「玉蘭へ伝えろ。予定どおり敵の北へ回れ」
退路を押さえるためだったが、まだ襲わせるつもりはなかった。将校にいつまで待たせるかと尋ねられ、達也は金軍が開封を攻め始めるまでだと答えた。
「攻城が始まれば、敵の目は城壁へ向く」
その時に玉蘭を背後へ入れ、達也の主力も、それまでは動かさない方針だった。将校は、金軍に先に開封を攻めさせるのだと確認した。
達也は同意し、言い添えた。
「ここまで来た以上、開封を取れると思って攻めてもらう」
◇ ◇ ◇
翌朝、日の出とともに金軍の陣から太鼓が鳴った。開封の城壁でも警鐘が響き、兵たちが持ち場へ走った。
北側では金軍の歩兵が列を作り、盾を持つ兵が前へ出た。その後ろには弓兵が並び、さらに後方から長い梯子が何本も運ばれてくる。城壁からは、北側の地面を埋めるほどの軍勢に見えた。
太鼓の音が激しくなると、前列の兵が一斉に進み、北壁へ向かって走り出した。城壁から矢が放たれ、金軍の弓兵も射返した。開封を巡る新たな戦いが始まった。
◇ ◇ ◇
城の南東では、達也が馬上から開封の方角を見ていた。遠くから太鼓と警鐘の音が重なって聞こえてくる。しばらくすると、使者が馬を走らせてきた。
「魯王様!」
達也が攻撃は始まったかと尋ねると、使者は金軍が北壁を攻め始めたと報告した。守備兵は予定どおり迎え撃ち、今のところ問題はなかった。
達也は周囲の将校たちを見た。
「玉蘭へ知らせろ」
伝える内容を尋ねられると、達也は答えた。
「動け、とな」
使者が命令を受けて馬を返しても、達也はまだ自軍に前進を命じなかった。金軍は開封の城壁へ意識を集中させている。その後方には兵糧を積んだ荷車が並び、さらに北へは黄河に戻る街道が伸びていた。玉蘭の騎兵をその退路へ回すには、もう少し時間が必要だった。
「もう少しだ」と達也は開封の方角を見ながら言った。
そばの将校が何を待つのかと尋ねると、達也は玉蘭が敵の後ろへ入るまでだと答えた。その動きが確認できれば、主力も前進させる。
「俺たちも動く」
開封の城壁では、金軍の太鼓が鳴り続けていた。金軍は城を攻めることに集中していたが、北へ戻る道には玉蘭の騎兵が回ろうとしている。南東で待つ達也の主力も、命令が出れば城の東側を回って攻めかかる。
金軍は自ら黄河を渡り、開封まで南下していた。退却するにも、長い道を引き返さなければならない。達也が待ち続けた、敵を前後から攻める機会が近づいていた。




