第10話(前編1)――「消えていた金軍」
(1225年10月上旬、開封・魯王府)
秋に入った開封では朝の冷え込みが強まり、王府の庭にも落ち葉が増えていた。夜明け前の草に露が付く中、倉達也はいつものように馬場で騎射と剣の鍛錬を終えた。湯で汗を流してから、王妃の宮へ向かった。
朝食の卓には粥、細く裂いた鶏肉、青菜、果物が並び、王妃はすでに食事を始めていた。腹は夏よりも明らかに大きくなっている。
達也は王妃のそばへ進み、朝の挨拶をした。
「王妃様。おはようございます。今朝のお加減はいかがでございますか」
「よく眠れました。朝食もいただけています」と王妃が答えると、達也は安心したと伝えた。それでも腹へ目を向け、子の様子も確かめずにはいられなかった。
「お腹のお子もお変わりございませんか」
王妃は笑った。
「毎朝同じことを聞かれても、私に分かることは限られていますよ」
「それでも毎朝伺います」と達也が言うと、王妃は承知していると応じ、粥を一口食べた。達也が気にかけているのは、自分の体だけではないことも分かっていた。
「太后様のことも、同じように気になさっているのでしょう」
達也はもちろんだと答えた。楊太后の懐妊が確認されてから、まだ1か月ほどしか過ぎていない。王妃ほど腹が目立つ時期ではなく、食欲にむらがあり、朝に吐き気を感じる日もあった。
王妃も、太后が朝食を取れない日があると聞いていた。達也は医師から今のところ問題ないと報告を受けていたが、やはり気になっていた。
そこへ女官が入り、政務殿から使いが来ていると告げた。達也が用件を確かめると、北方から軍報が届いたという。
「分かった。すぐ行く」と達也は答えた。
王妃も箸を止め、金軍の知らせかと尋ねた。達也はまだ内容を聞いていなかったが、このところ北方の報告に注意を払っていた。兵の動きだけでは説明できない変化があったからだ。
「でしたら、こちらに長くいらっしゃる場合ではありませんね」と王妃は言った。
達也が詫びると、王妃は仕事へ行くよう促した。それでも夕方にはまた伺うと約束した達也に、王妃は念を押した。
「戦の話なら、戻れる時刻まで約束なさらなくて結構です」
達也は返す言葉に困った。
「王妃様にはかないませんね」
「今は開封を守る方が先でしょう」
達也は承知したと答え、丁重に頭を下げた。王妃に見送られると、そのまま政務殿へ急いだ。
◇ ◇ ◇
政務殿では数人の将校と役人が待ち、卓上には開封周辺から黄河以北までを描いた地図が広げられていた。達也は席に着く前に、報告がどこから届いたのか確かめた。北東へ出している斥候からだった。
報告を促され、将校が地図上の道を指した。
「この半月ほど、金兵をほとんど見なくなっておりました。しかし昨日、黄河の北から戻った斥候が、多数の兵が移動しているところを確認いたしました」
達也が場所を尋ねると、将校は地図上の数か所を示した。兵が集まっているのは1か所ではなく、北と北東から別々の部隊が来ていた。全体の兵数はまだつかめていないものの、数千程度の軍ではない。騎兵のほかに歩兵もおり、多数の馬と荷車が確認されていた。
達也は地図へ目を落とした。2月に開封を失った金軍は北へ退いたが、春から夏にかけては小部隊が開封の北や東へ何度も現れていた。こちらの兵力や城外の動きを探るため、斥候を出していたのだ。
ところが夏の終わり頃から、その姿が急に減った。達也軍の斥候が北へ進んでも、金兵と出会わない日が増えていた。それだけなら、金が開封奪還を諦めたとも考えられる。しかし、同じ時期から北方との商いにも変化が出ていた。
達也は役人に、北から来る商人の様子を報告させた。9月に入ってから減り始め、開封へ入る荷車の数は夏の半分ほどになっているという。特に馬、皮、羊毛、薬材を運ぶ者が減り、塩を持ち込む商人も少なくなっていた。北へ向かう商人も同様だった。
理由を問われ、役人は答えた。
「北の街道では兵の往来が増え、商人が道を譲らされたり、別の道へ回されたりすることがあると聞いております」
その話が最初に入ったのは半月ほど前だった。達也は役人を見た。
「なぜ軍へ報告しなかった」
「街道上の一時的な混乱と考えておりました。金軍の動きと関係しているとは思わず……」
「商人の出入りや荷の量も軍へ上げろ。大軍が動けば、兵だけが動くわけじゃない」
役人が承知すると、達也はそれ以上責めなかった。相場が変わったり、雨で道が悪くなったりすれば、商人の往来は減る。金兵の姿が少なくなったことも、それだけで理由を判断するのは難しかった。
だが、兵が姿を消した時期と商人が減った時期が重なり、その北では大軍の集結が始まっている。達也には偶然とは思えなかった。
「金は逃げたんじゃないな」
将校たちが顔を向けると、達也は続けた。
「こちらから見えないところへ兵を下げて、各地の軍を集めている」
将校の1人が、金軍は開封を狙っているのかと尋ねた。達也には、これだけの兵を集めるほかの理由が見当たらなかった。
達也は地図上の開封を指した。
「2月に開封を失い、その前には帰徳府と曹州も取られている。このままでは金は黄河の南へ戻れなくなる」
将校は、こちらから先に兵を出すことを提案した。敵が集まる途中を叩くつもりだったが、達也は退けた。今攻めても金軍が北へ引き、せっかく集めた兵を逃がすことになると考えていた。
「では、こちらで待つのでございますか」と将校が尋ねると、達也はうなずき、黄河の北から開封へ指を戻した。
「開封を取り返したいなら、ここまで来てもらう」
◇ ◇ ◇
達也はすぐに斥候を増やした。ただし、金軍へ近づきすぎることは禁止した。敵陣へ無理に潜り込み、兵を1人ずつ数える必要はない。部隊がどこから集まり、荷車がどの道を使い、軍馬をどれほど伴っているかを調べさせた。集まった軍がどの方向へ動き始めるかも、確かめる必要があった。
併せて、開封から北へ続く街道や黄河の渡河点、村、宿場の状況も調べ直させた。何万もの兵が南下するなら、大量の兵糧と馬の飼葉が必要になり、それを運ぶ荷車も続く。兵を人目から隠しても、食糧や飼葉の輸送まで隠すのは難しかった。
午後には、さらに北へ出ていた斥候が戻った。長く馬を走らせてきたらしく、衣服にも靴にも乾いた泥が付いていた。
「申し上げます。黄河の北で金軍がさらに増えております」
達也は兵が来る方角と、荷車の様子を確かめた。北東と北西の両方から、旗の異なる部隊が同じ場所へ集まっているという。多数の荷車に牛車も交じり、軍馬とは別に、替え馬と思われる馬の群れも連れていた。
先に集まった部隊の一部は、すでに南へ動き始めていた。全軍ではないが、黄河へ向かっている可能性が高かった。
兵数を尋ねられると、斥候は見てきた様子を思い返して答えた。
「私が確認した場所だけでも1万を大きく超えております。さらに離れた場所にも同じほどの兵がおりました」
北から来る兵は、まだ途切れていなかった。達也はそこまで確かめると、斥候をねぎらって休ませた。
斥候が下がったあと、将校が、すでに2万以上の兵がいることになると確認した。達也は、今見えているだけの数だと答えた。金は開封を取り返すため、残っている兵をかなり集めている。さらに増えると見ていた。
「4万ほどになる可能性もございますか」と将校が尋ねた。
「ある。それ以上でも驚かん」
将校たちの表情が引き締まる中、達也は地図から目を離さず、耶律玉蘭を呼ぶよう命じた。さらに、東平と曹州の兵にも準備をさせた。ただし、すぐに開封へ集めるつもりはなかった。
敵に気付かせないためかと将校が確かめると、達也はそのとおりだと答えた。
「金には、こちらがまだ何もしていないように見せる」
◇ ◇ ◇
翌日の午後、玉蘭が開封へ入った。年初の開封攻略で騎兵を率い、達也と連携して金軍を崩した将軍だ。攻略後も北東方面の兵と軍馬をまとめ、東平や曹州へ何度も足を運んでいた。
王府へ着くと、玉蘭は旅装のまま政務殿に入った。達也は席を勧め、地図を広げた。
「金が動いた」
玉蘭が場所を尋ねると、達也は黄河の北で兵が集まっている範囲を示した。かなり広い地域に各地の部隊が集結し、兵数はすでに2万を超えていた。なお北から増え続けており、正確な数は確定していない。狙いは開封だと、達也は伝えた。
玉蘭は地図を確かめ、こちらから迎え撃つのか、それとも待つのかを尋ねた。達也は金軍に黄河を渡らせ、開封の近くまで来させるつもりだった。
玉蘭は地図上の街道を指でたどった。
「開封まで南下すれば、金軍は黄河からかなり離れます」
達也が同意すると、玉蘭は続けた。
「兵糧も使う。馬も疲れる」
「荷車も全部こちら側まで来る」と達也が付け加えた。
玉蘭はその狙いに気付いた。
「その時に、退路へ回るのですね」
達也はうなずいた。2月とは戦い方を変えるのかと問われ、前の戦との違いを説明した。
「前は開封を取るのが目的だった。敵が逃げても、城さえ取れればよかった」
年初の戦いでは、達也は金軍を無理に包囲しなかった。開封を攻めた際も西側に逃げ道を残し、守備兵を城外へ誘い出している。城そのものを大きく壊さずに奪うためだった。
「今度は開封を守るための戦ですか」と玉蘭は尋ねた。
「守るだけなら、城に籠もっていればいい」と達也は答えた。「金が大軍を集めて来るなら、その軍をここで潰す」
玉蘭は地図から顔を上げた。
「逃がさないのですね」
達也に迷いはなかった。
「ああ」
そして、念を押すように続けた。
「今度は帰さん」
◇ ◇ ◇
2人はそのまま軍の配置を詰めた。開封には十分な守備兵を残し、各門の倉へ矢と食糧を補充する。城壁に上げる兵も少しずつ増やすが、金軍が来る前から城門を閉ざしたり、城外に大軍を並べたりはしない。待ち構えていると知られれば、敵が黄河の北で止まる恐れがあった。
玉蘭は東平と曹州の騎兵を一度に集めず、命令が届けばすぐ動けるよう、各地で準備させることになった。
「契丹兵300騎は私の近くへ集めます」と玉蘭は言った。
「ああ。騎兵をまとめる時の中核にしてくれ」
玉蘭が替え馬も多めに用意させると伝えると、達也はそれも頼んだ。今回は敵が崩れたあとも追うつもりだった。
玉蘭は地図から顔を上げ、どこまで追うのかと尋ねた。達也は金軍次第だと答え、黄河を越えたところで追撃を終えるとも決めていなかった。
「やはり、開封を守って終わりではないのですね」と玉蘭は笑った。
「向こうが大軍を連れて来るんだ。開封の前から追い返すだけではもったいない」
相変わらず欲が深いと玉蘭に言われ、達也は今さらだと返した。玉蘭も笑って認めた。
達也は再び地図へ目を向けた。まずは金軍を引き寄せなければならない。玉蘭の騎兵をどこへ回すかは、敵が黄河を渡り、開封へ向かう道が分かってから決めるつもりだった。
それまでは騎兵の姿を見せず、金軍が開封へ十分近づいたところで北へ回る。退路と兵糧隊を押さえ、荷車も馬もできるだけ奪う方針だった。
玉蘭は地図を見ながら、動き出す時機を考えた。
「早く動けば金軍に気付かれます」
達也も同じ考えだった。玉蘭は東平へ戻ってからも、兵を一度に動かさないようにすると約束した。
「急がなくていい。金は自分から来る」と達也は言った。
ずいぶん落ち着いていると玉蘭が言うと、達也は答えた。
「半年近く待ったんだ。ここで慌てる必要はない」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、達也は玉蘭とともに王妃の宮を訪れた。玉蘭は王妃と楊太后の懐妊を聞いていたが、太后の懐妊が確認されてから王府へ来たのは初めてだった。
王妃は玉蘭を笑顔で迎えた。玉蘭は懐妊を祝い、前に会った時よりも大きくなった腹へ目を向けた。
「前にお目にかかった時より、随分大きくなられましたね」
「私も毎日見ているので気付きにくいのですが、夏に着ていた衣はもう合わなくなりました」と王妃は答えた。
達也が、新しい召し物は用意してあると口を挟むと、王妃は達也へ顔を向けた。
「今は玉蘭殿とお話ししているのですよ」
達也が詫びるそばで、玉蘭は笑った。
「達也様は相変わらずですね」
達也に意味を問われると、玉蘭は遠慮なく答えた。
「王妃様のお体のことになると、何にでも口を出されるという意味です」
「それは仕方ないだろう」と達也が言うと、玉蘭は同意し、王妃も笑った。
しばらくして、楊太后も王妃の宮へ来た。玉蘭は立ち上がって礼をし、懐妊の祝いを述べてから体調を尋ねた。
「今日は大丈夫です。ただ、朝はまだ食べられない日があります」と太后は答えた。
玉蘭が無理をしないよう勧めると、太后は達也と王妃から毎日のように言われていると話した。
「それでしたら、私から申し上げるまでもありませんね」と玉蘭は笑った。
「本当にそうなのです」
達也は口を挟まず、3人のやり取りを聞いていた。やがて王妃が、今日は軍の話で開封へ来たのだろうと玉蘭に尋ねた。
玉蘭は肯定してから、達也へ顔を向けた。軍の状況をどこまで伝えるかは、達也が決めることだった。
達也は王妃と太后の前へ座った。
「王妃様、太后様。お二方にもお話ししておかなければならないことがございます」
王妃の表情が改まり、金軍のことかと尋ねた。達也は、黄河の北で各地の兵が集められていると説明した。正確な兵数はまだ分からないが、かなりの大軍となり、開封へ向かってくる可能性が高かった。
太后は城の安全を確かめた。
「開封は危ないのですか」
「すぐに城が危うくなるとは考えておりません。そのための準備も始めております」と達也は答えた。
自分たちはどうすればよいかと問われると、しばらく王府から出ないよう頼み、警備も増やすと伝えた。王妃と太后はともに了承した。
達也は礼を述べて頭を下げた。
「医師と女官の方々にも、できるだけ王府内にいていただきます」
王妃は達也の出陣について尋ねた。金軍が南へ来れば、達也も城外へ出るつもりだった。玉蘭も出陣し、そのために今日、軍の配置を相談していたと説明した。
王妃は達也に言った。
「でしたら、戦が始まったあとは、私たちのことは医師や女官に任せてください」
「しかし王妃様はご懐妊中でございます」
「だからこそ、医師を付けてくださったのでしょう」
達也がうなずくと、王妃は太后にも女官と医師が付いていると続けた。太后も同じ考えだった。
「こちらのことを戦場まで持ち込まないでください」
達也が「太后様」と言いかけると、太后は言葉を継いだ。
「王妃と私は王府におります。達也様は兵のことをお考えください」
達也は2人の顔を見た。どちらも考えを変えるつもりはなかった。やがて頭を下げ、承知したと答えた。
「今回は素直ですね」と王妃は笑った。
「お二方がおっしゃることはもっともでございます」
それでも、出陣までは毎日来るのだろうと王妃が言うと、達也は即座に答えた。
「もちろんでございます」
太后は呆れた顔になった。
「そこだけは絶対に譲らないのですね」
達也が肯定すると、太后はそれ以上言うのを諦めた。
「分かりました。もう何も申しません」
◇ ◇ ◇
玉蘭は翌朝、開封を出た。契丹兵300騎を中心に、東平と曹州の騎兵へ準備を命じるためだった。
達也は玉蘭に大軍を同行させなかった。開封から多数の兵が北東へ向かえば、金軍にも情報が届く。玉蘭の騎兵は小さな隊に分け、普段の移動に見えるよう集めることになっていた。
開封でも、兵の動きが目立たないよう準備を進めた。城壁へ上げる兵は一度に増やさず、数日をかけて交代させた。倉へ矢、穀物、馬の飼葉を補充する一方、城門周辺の井戸や水桶を点検し、負傷兵を運び込む場所も決めた。
市場は閉じず、城門も普段どおり開けていた。商人や農民の出入りも止めていない。町の様子を見ただけでは、大きな戦が近づいているとは分からなかった。達也が望んだとおりに準備は進んでいた。
◇ ◇ ◇
3日後の日暮れ頃、北から戻った斥候が王府へ駆け込んだ。達也は政務殿で報告を受けた。
「申し上げます。金軍が南へ動き始めました」
先鋒だけではなく、後続の部隊も続いていた。正確な兵数は不明だが、確認できた分だけでも3万を超えると見られ、まだ北に残っている兵もいた。
達也は地図を開き、進路を確かめた。金軍は黄河へ向かい、すでに渡河のための舟を集めているという。斥候が、その場所を地図上で示した。
今のところ、開封へ向かう道から外れている部隊は確認されていなかった。軍の後ろには、兵糧を運ぶ長い荷車の列が続いていた。
達也は報告を聞き終えると、各隊に知らせるよう将校たちへ命じた。ただし、出陣はまだだった。
将校の1人が驚いて尋ねた。
「3万を超える軍が南へ動いております。それでも待つのでございますか」
達也はうなずき、黄河から開封までの道を指でたどった。
「まず黄河を渡らせる」
そのあとも迎え撃たず、開封まで来させる方針だった。将校が承知すると、達也は念を押した。
「こちらから大軍を出すな。途中で警戒して引き返されたら困る」
玉蘭にも金軍の動きを伝え、まだ動かないよう命じた。将校たちが命令を受けると、達也は地図上の開封へ指を置いた。
半年近く目立った動きを見せなかった金軍が、ようやく大軍となって南へ向かい始めた。開封を取り返すため、各地から集めた軍だった。
達也も、その大軍が南へ来るのを待っていた。少数の部隊を何度追い払っても、金には次の軍が残る。今回は集まった兵を開封まで引き寄せ、まとめて叩くつもりだった。黄河を渡り、長い街道を南下して、退却にも時間がかかる場所まで進ませる。そのうえで背後を断てば、これまでのように北へ逃げることはできない。
「来い」と達也は地図に目を据えたまま言った。
将校たちが顔を向けると、達也は続けた。
「今度は逃がさん」




