第9話(後編2)――「太后の奇跡」
(1225年9月上旬、開封)
9月に入ると、開封の朝晩は涼しくなった。日中には夏の暑さが残っていたが、夜明け前の王府には秋の気配があった。
達也はこの日も、空が明るくなる前から馬場に出ていた。騎射を終えて馬を降り、弓を兵に渡すと、政務殿へ向かう前に王妃の宮へ立ち寄った。
王妃はすでに起きていた。腹の膨らみは、衣服の上からも分かるようになっている。達也が朝の挨拶に続けて体調を尋ねると、王妃は腹に手を添えた。
「昨夜は途中で一度目が覚めましたが、よく眠れました。医師からも、今のところ問題はないと言われています」
「それなら安心いたしました」
「今日は、太后様の様子も見て差し上げてください。昨日から少しお疲れのようで、夕食もあまり召し上がりませんでした」
達也は顔を上げた。昨夜、太后の宮を訪れた際にも疲れている様子だったため、早く休ませていた。ただ、食事が進まなかったことまでは知らなかった。
「それでしたら、医師に診ていただきましょう。教えていただき、ありがとうございます」
「太后様は私にとっても大切な方です。そこは、達也様にお礼を言われるところではありません」
以前、太后にも同じことを言われた。達也はそれを思い出して笑い、王妃の宮を出た。
◇ ◇ ◇
楊太后の宮では、朝食がほとんど手を付けられずに残っていた。太后は粥を数口食べただけで箸を置き、別のものを用意しようかと尋ねる女官にも、要らないと答えた。
「夏の疲れが残っているのでしょう。少し体が重いだけです」
「昨夜もあまり召し上がっておりませんし、お顔の色もよくないように見えます。一度、医師に診ていただいてはいかがでしょう」
太后が水を飲んだ時、運ばれてきた肉料理の匂いが部屋に広がった。眉を寄せ、すぐに下げるよう命じた。
「今日は、その匂いが駄目です」
女官が皿を遠ざけると、太后は口元を押さえて吐き気が治まるのを待った。吐くほどではないと言ったが、女官は心配そうに顔を見ていた。王妃が懐妊した時にも、似た症状があった。ただ、確かなことが分からないうちは口にできなかった。
「やはり、医師をお呼びいたしましょう。魯王様がお知りになれば、必ずそうなさいます」
「達也様を理由にするのですか」
「その方が、お聞きくださるかと存じました」
「随分と知恵が付きましたね」
女官が頭を下げたところへ、達也の来訪が告げられた。太后は入口へ目を向け、噂をしていたところだとつぶやいた。
部屋に入った達也は、卓に残った料理を見た。
「王妃様から、お加減が悪いと伺いました。朝食も進まないようですし、医師を呼ばせます」
「少し疲れているだけです。病人になったわけではありません」
「それを確かめるためにも、一度診ていただきましょう。お体のことですから、ここは譲れません」
太后は達也の顔を見ていたが、やがて諦めた。
「分かりました。ただし、政務を放り出して、ここに居座らないでください」
「診察の結果を伺ってから参ります」
「結局、残るのですね」
太后は呆れたものの、それ以上追い出そうとはしなかった。
◇ ◇ ◇
ほどなく医師が来た。達也は部屋の外で待ち、太后は必要な女官だけを残して診察を受けた。
ここ数日は体が重く、朝になると食欲が落ちる。匂いの強い食べ物を受け付けないこともある。医師は話を聞いてから脈を取った。診察が長くなるにつれ、太后はその表情が気になった。
「何か悪いところがあるのですか。黙っていないで、話してください」
「悪いということではございません。ご懐妊の兆しがございます」
太后は医師を見つめた。すぐには言葉の意味を受け止められなかった。
「私が、子を宿したというのですか」
「まだ初めの頃と思われますので、今日だけで断定はできません。ただ、脈とお体の変化から見ますと、その可能性は高いと存じます。数日後に、もう一度診せていただけますでしょうか」
太后は自分の腹へ目を落とした。王妃の懐妊を聞いた時、達也は自分にも同じことを望んでいるのかと、からかったことがあった。達也は、そうなれば嬉しいと答えていたが、太后自身は本当にその日が来るとは考えていなかった。
そばの女官が祝いを述べると、太后はまだ決まったわけではないと返した。その声には、普段にない戸惑いがあった。
診察を終えた医師が部屋を出ると、達也は立ち上がった。懐妊の兆しがあり、数日後に再び確かめると聞いても、しばらく返事ができなかった。王妃の時には喜びが先に出たが、今回は予想していなかっただけに驚きが大きかった。
「分かった。次の診察でも、よく確かめてくれ」
医師を下がらせ、太后の部屋に入った。太后は椅子に座り、腹に手を置いていた。
「聞いたのでしょう。まだ決まったわけではありませんから、数日待たなければなりません」
「承知しております。驚きましたが、大変嬉しゅうございます」
太后は達也の顔を見た。言葉どおり、喜びが表に出ていた。
「王妃には、すでにお子がいるのですよ。それでも、そんなに嬉しいのですか」
「王妃様のお子も、太后様のお子も、それぞれ大切でございます」
達也は深く頭を下げ、礼を述べた。太后は、礼を言うのはまだ早いとたしなめたが、達也は顔を上げても嬉しそうだった。
「それほど喜ばれると、私まで本当に子ができたと思いたくなるではありませんか。医師に言われた日までは待ちなさい。毎朝呼び付けるようなことはしないでください」
「その日まで待ちます。本当であってほしいと願っております」
太后が再び腹に手を添えると、達也は朝食の卓を見た。何か食べられそうなものはないかと尋ねられ、太后は笑った。
「今度は食事ですか。王妃が、あなたは医師より細かいと言っていた理由が分かりました」
「ほとんど召し上がっておられませんので、気になります」
「これから毎朝、同じことを聞かれるのでしょうね」
達也は否定しなかった。
◇ ◇ ◇
昼前、達也は王妃の宮へ向かった。王妃は太后が診察を受けたことまでは聞いており、達也の顔を見るなり結果を尋ねた。
懐妊の兆しがあると告げると、王妃は驚いて立ち上がろうとした。達也はすぐに手を差し出した。
「慌ててお立ちにならないでください。まだ最初の診察で、数日後に改めて確かめるそうです」
「それは分かりました。それでも、今は太后様のおそばにいたいのです」
王妃は女官に支えられて立った。達也はそれ以上止めず、自分も一緒に行くと告げた。
「先ほどまで、太后様のところにいたのでしょう。本当に離れませんね」
「今日ばかりは、お許しください」
王妃は笑い、達也とともに太后の宮へ向かった。
2人が部屋に入ると、太后はもう話が伝わったのかと驚いた。王妃はそばに座り、祝いを述べた。
「まだ決まったわけではないと、達也様にも言ったのですが」
「私の時も、太后様はすぐに祝ってくださったでしょう。本当なら、私も嬉しいです」
王妃は太后の手を取った。太后はその手を見てから、ためらいながら尋ねた。
「私まで達也様の子を宿すことは、嫌ではないのですか。王妃は正妻で、私は側室です」
「そのことは分かっています。でも、太后様は私が張り合わなければならない相手ではありません」
王妃は自分の腹に手を添えた。
「私はこの子を大切にします。太后様にもお子ができたのなら、その子を大切になさればよいではありませんか」
「随分と変わりましたね」
「太后様もでしょう」
太后は、そうかもしれないと答えた。王妃が少し離れたところにいる達也へ顔を向けると、達也は2人を見て笑っていた。
「達也様は、喜びを隠すおつもりもないのですね」
「隠せませんし、そのつもりもございません」
「朝から、ずっとこの調子なのです」
太后が呆れると、王妃は自分の時も同じだったと笑った。
「しばらくは、諦めるしかありませんよ」
2人にそう言われても、達也の表情は変わらなかった。
◇ ◇ ◇
数日後、太后は再び診察を受けた。達也は前回と同じく部屋の外で待ち、王妃は自分の宮で知らせを待っていた。
太后の食欲はまだ安定せず、朝には気分が悪くなることもあった。月のものも来ていなかった。医師は前回からの変化を聞き、脈を取ってから頭を下げた。
「ご懐妊と見てよろしいと存じます。今後も、お体の様子を慎重に診てまいりましょう」
太后は腹に手を置いた。可能性があると告げられた時とは違い、本当に自分の中に達也の子がいるのだと思った。
半年近く前、臨安で達也の側室になると聞かされた時には、こんな日が来るとは考えもしなかった。
「そうですか。本当に、私にも子が……」
太后は腹に添えた手を見た。そばの女官たちも、今度は喜びを隠さなかった。
部屋を出た医師から報告を受けると、達也は太后の体に問題がないか確かめた。今のところ問題はないが、無理を避けるようにと聞き、今後も頼むと告げて部屋に入った。
太后は椅子に座ったまま、近づく達也を見た。
「今度は間違いないそうです。これで満足ですか」
「満足という言葉では足りません。心から嬉しゅうございます」
達也は太后の前で深く頭を下げ、改めて礼を述べた。太后も、今度は止めなかった。
「顔を上げてください。そこまで喜ばれるとは思いませんでした。王妃のお子と比べたりはしないのですね」
「比べる必要がございません。王妃様のお子も、太后様のお子も、私にとって大切な子でございます。男でも女でも、それは変わりません」
「本当に、迷わず答えるのですね」
達也は太后の腹へ目を向け、これからは体を第一に考えるよう頼んだ。食事は食べられるものを厨房に用意させ、庭を歩く時にも疲れない程度にしてほしいと続けた。
「王妃に言っていたことを、今度は私にも言うのですね。夜も同じようになさるのですか」
達也が返事をする前に顔を見ると、太后は笑った。
「そこだけ急に慎重になるのですね」
「お体に負担を掛けるわけにはまいりません。ただ、お顔を拝見しには、これまでどおり伺います」
「それは聞かなくても分かっています」
太后は笑いながら答えた。
◇ ◇ ◇
その日の夕食は、久しぶりに3人で取った。太后の食欲に合わせて匂いの強い料理を避け、粥や野菜、果物を中心に用意していた。
王妃は太后が箸を進めるのを見ながら、無理に全部食べなくてもよいと声をかけた。
「王妃まで、達也様のようなことを言わないでください。これなら食べられそうです」
「私も散々言われましたから、気になるのです」
達也は王妃にも、太后の力になってほしいと頼んだ。先に懐妊した王妃には、自分より分かることが多いだろうと言うと、王妃は快く引き受けた。
「私のことなのに、いつの間にか2人で決めていますね」
太后が2人を見比べた。王妃に嫌なのかと尋ねられ、少し間を置いてから、嫌ではないと答えた。
達也が笑みを浮かべると、太后はまた呆れた。
「なぜ、そこで達也様が喜ぶのです」
「お二方が仲良くしてくださることも、嬉しいのでございます」
「本当に、今日は何を言っても喜びますね」
「嬉しいことが続いておりますので」
王妃は太后を見て、今日は諦めようと笑った。
◇ ◇ ◇
食事を終えると、王妃は自分の宮へ戻り、達也は太后に付き添った。部屋に入って椅子に座った太后は、少し話がしたいと達也を引き留めた。
達也が向かいに座ると、太后は窓の外へ目を向けた。夏を越した梅の葉が、夜風に揺れていた。
「徐州へ来た頃、臨安へ帰してほしいと言ったことを覚えていますか。お前は断りましたね」
「覚えております。申し訳ございません」
「今日は責めているのではありません。あの時、帰していただいていたら、この子はいなかったのでしょうね」
達也はうなずいた。太后は腹に手を添えたまま、言葉を続けた。
「だからといって、あのやり方を正しかったとは言いません。今でも許してはいませんが、この子ができたことは嬉しいのです」
達也は口を挟まずに聞いていた。
「私はまだお前を許していないのに、お前の子を宿したことを喜んでいます。自分でも、どう考えればよいのか分からなくなるのです」
「私を許してくださることと、お子を喜んでくださることは、別でよろしいのではございませんか」
「簡単に言いますね。本当に、自分に都合よく考える方です」
「王妃様にも、何度も言われております」
太后は、それはそうだろうと笑った。しばらくして達也に目を戻すと、以前、自分に好かれたいと言ったことを今も思っているのかと尋ねた。
「もちろんでございます。その気持ちは変わりません」
「そうですか。まだ許してはいませんが……もう、嫌いではありません」
達也は返事をしなかった。いつもならすぐに答える男が、自分を見たまま黙っている。太后は不思議そうに、その顔をのぞいた。
「どうしたのです」
「嬉しくて、何と申し上げればよいか分からなくなりました」
「お前にも、そのようなことがあるのですね。それなら、今は何も言わなくて結構です」
達也はうなずき、太后に頭を下げた。その姿を見て、太后は笑った。
「本当に、どこまでも丁寧な夫ですね」
「太后様への礼は、これからも変えるつもりはございません」
「分かっています」
その返事に、以前のような苛立ちはなかった。
◇ ◇ ◇
9月下旬、王府の暮らしは2人の懐妊に合わせて変わり始めていた。王妃の腹は目立つようになり、定期的な診察が続いていた。太后はまだ食欲にむらがあり、朝に気分が悪くなる日もあった。
達也は2人の宮を以前より頻繁に訪れた。寝所を共にすることは控え、食事や体調を確かめながら、話をして過ごす時間が増えていた。
政務も軍務も止まらなかった。朝は馬場に出て、昼は政務殿で各地からの報告を受ける。兵や馬、食糧の状況に加え、開封の治安と金軍の動きも確かめなければならない。それでも夕方には王妃を訪ね、そのあとに太后の宮へ向かった。
2人は相変わらず達也の忙しさに呆れていたが、訪問を待つようになっていた。太后も達也が来ると、自然に名を呼んで迎えた。
臨安での出来事を忘れたわけでも、全て許したわけでもなかった。それでも太后は、腹の子を喜び、達也にも、もう嫌いではないと伝えた。半年近く前には考えられなかったことが、開封では日々の暮らしになっていた。




