↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
131/138

第9話(後編1)――「まだ許せない夫」

 (1225年8月上旬、開封(カイフォン))


 夏の開封は朝から暑かった。夜明け前には涼しさが残っていたが、日が昇ると王府の瓦屋根に強い日差しが当たり、庭を歩く人も減っていった。


 それでも達也の朝は変わらなかった。空が明るくなる前から馬場に蹄の音が響き、王妃はその音で目を覚ました。徐州にいた頃から聞き慣れた音である。寝台を出て女官の用意した水を飲むと、窓の外へ目を向けた。


「今朝は昨日より楽です。達也様は、もう馬場へ出ていらっしゃるのでしょう。昨夜も遅かったのに」


 女官がうなずいた。達也は昨夜も王妃の宮を訪れ、食事や体調について尋ねていた。懐妊してからは寝所を共にすることを控えているが、話し込むうちに夜が更けることもあった。王妃が早く休むよう勧めても、残った政務を片付けてからだと答え、それでいて翌朝には馬場に出ている。


「私が懐妊してから、することが増えているように見えます。それなのに、朝の鍛錬も欠かしませんね」


「王妃様のお宮へも毎日お越しになりますから、お忙しいのでしょう」


「それを仕事の中に入れてはいけません」


 女官が笑うと、王妃もつられた。徐州へ来たばかりの頃なら、達也の訪問をからかわれるのは不愉快だっただろう。今では、来ない日の方が気になった。


 朝の鍛錬を終えた達也は、湯で汗を流してから王妃の宮へ向かった。朝食の前に顔を見ることが、開封へ移ってからの日課になっていた。


 部屋に入った達也が朝の挨拶をすると、王妃は尋ねられる前に体調を伝えた。


「今朝は吐き気もありませんし、これから食事をいただくところです。昨日より楽になりました」


「それは安心いたしました。食事も召し上がれそうなのですね」


「毎朝、医師より細かくお尋ねになりますね」


「お体の具合は毎日違いますから、その都度お聞きいたします。医師には医師の役目がございますし、私は夫でございます」


 王妃は笑った。


「そういう時には、夫だと強くおっしゃるのですね」


「いつでも、そのつもりでございます」


「知っています」


 王妃が迷わず答えると、達也は驚いたあと、嬉しそうな顔になった。王妃に、そんなことで喜ばないよう言われても、表情は変わらなかった。


 政務へ向かおうとした達也を、王妃が呼び止めた。


「太后様のところにも、毎朝いらっしゃるのですか」


「毎朝ではございません。太后様には、夜にお会いすることが多うございますので」


 王妃はその意味を察し、今夜も太后の宮へ行くのかと尋ねた。達也はそのつもりだと答え、夕方には王妃のもとへも来ると告げた。


「分かっています。お仕事にお戻りください」


 王妃はそう言って送り出した。その顔には、徐州へ来た頃にはなかった穏やかさがあった。


 ◇ ◇ ◇


 昼前、達也は政務殿で開封周辺の報告を受けていた。王府では主要な施設が使えるようになっていたものの、外側の建物や倉、庭園の一部では工事が続いていた。


 西側の倉は今月中に使えるようになると聞くと、達也は工事を急がせる一方、湿気が入らない造りにするよう念を押した。北側の宿舎も護衛の兵が入れるところまで仕上がっていた。


「工事中の場所へ、王妃様や太后様の女官たちが入り込まないようにしろ。人夫の通る道と、宮へ出入りする道は分けておけ」


 役人が書き留めると、別の役人が商人について報告した。食材や布、薪を王府へ納めたいという者が増え、中には相場より高い値を付ける者もいるという。


「そういう者からは買うな。王府なら高く売れると思わせる必要はない。それから、市の品を買い占めることも避けろ。町の者が困る」


 王府は天下第一を目指して造らせたが、そのために開封の暮らしを圧迫するつもりはなかった。達也は帳面を確かめながら指示を出し、昼を過ぎても報告を受け続けた。


 夕方になると、達也は残りの書類を脇へ寄せた。


「これは後で見る。王妃様のところへ行ってくる」


 役人たちに告げ、政務殿を出た。


 ◇ ◇ ◇


 王妃の宮には、楊太后(ヤン・タイホウ)が先に来ていた。2人は庭に面した部屋で、冷ました茶と果物を口にしながら話していた。


 達也が太后に礼を言うと、太后は不思議そうな顔をした。


「王妃の様子を見に来ただけです。私にとっても大切な方なのですから、お前が礼を言うことではありません」


「それでも、お気遣いいただいていることはありがたく存じます」


「お前も朝から来ていたのでしょう。夕方にも顔を出して、夜はどうするのです」


「今夜は太后様のお宮へ伺うつもりでございます」


 太后は呆れ、王妃は笑った。


「太后様、もう諦めた方がよいですよ」


「王妃は随分と余裕ができましたね。夜は早く休めるのでしょうが、その分、こちらへ来ているのではありませんか」


 太后に顔を向けられ、達也は答えた。


「王妃様のご懐妊で、太后様のお宮に泊まる日が増えたことは確かでございます。ただ、王妃様の代わりに伺っているつもりはございません。太后様と一緒にいたいから、お訪ねしております」


 太后は返事に詰まった。王妃も達也へ目を向けた。


「そういうことを、恥ずかしげもなく言えるのですね」


「太后様に、本当のことを申し上げているだけでございます」


「それが困るのです」


 王妃が太后の顔を見て、笑みを浮かべた。


「太后様、顔が赤くなっていますよ」


「余計なことを言わないでください」


 太后は達也にも向き直り、笑わないように言った。達也は笑っていないと答えたが、口元は緩んでいた。


「その顔で言っても、分かります」


 達也が頭を下げると、王妃は声を上げて笑った。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、達也は約束どおり太后の宮を訪れた。日中に熱を持った石畳も冷め始め、庭には涼しい風が通っていた。太后は庭に面した部屋で、梅の木を眺めていた。


「政務は終わったのですか。私のところへ来るために、残してきたのではありませんか」


「今日中に必要なものは終えました。残りは明日でも差し支えございませんので、今夜は太后様にお会いする方を選びました」


「昼の話の続きですね。少しくらい、ごまかしてもよいでしょうに」


「太后様に嘘を申し上げる理由がございません」


 太后は達也を見た。その正直さは、時によって受け止め方に困った。以前なら腹を立てていた言葉にも、今は同じようには返せなかった。


「臨安で、お前が私を側室に求めたと聞いた時には、本当に憎らしい男だと思いました。今でも、あのやり方を許したわけではありません。王妃を要求したことも、私を要求したこともです」


「申し開きをするつもりはございません」


「それなのに、こうして毎日のように顔を合わせていると、ずっと嫌いでいるのも難しくなるではありませんか」


 達也の顔に笑みが浮かんだ。太后はすぐに、喜ばないよう言い添えた。


「本当に、反省していませんね」


「太后様に以前ほど嫌われなくなったことは、嬉しく存じます」


「そういうところが、困るのです」


 達也が否定もせずに頭を下げるので、太后はとうとう笑ってしまった。


 ◇ ◇ ◇


 数日後、王妃が太后の宮を訪れた。日中の暑さを避け、2人は庭に出ず、風の通る部屋で話していた。卓には冷ました茶と果物が置かれていた。


 太后は王妃の腹へ目を向けた。


「少し大きくなったように見えますね。お体はいかがですか」


「以前より楽になりました。食事も取れるようになっています」


 太后が安心した様子を見せると、王妃は果物を1切れ口にしてから、話を変えた。


「最近、達也様がこちらで夜を過ごすことが多いですね」


「王妃が懐妊したからでしょう」


「達也様は、太后様と一緒にいたいからだと申していましたよ。こちらでも、同じようにおっしゃるのですか」


 太后は少し言いにくそうに、そうだと答えた。


「あの方は、自分の欲しいものについては驚くほど素直ですね」


「それは否定できません」


「何度もいらっしゃるのは、お嫌ですか」


 太后は茶に目を落とし、少し考えてから答えた。


「最初ほど嫌ではありません。それ以上のことは、私にもよく分からないのです。王妃は最近、人のことばかり聞きますね」


「自分のことも、案外分からないものですから。私も、まだ達也様を許したわけではありません。それでも、徐州へ来たばかりの頃のように、嫌いだと言い切ることはできなくなりました」


 太后は王妃の言葉を聞き、うなずいた。


「私も似ています。だから困っているのです」


「達也様は、困っていないでしょうね」


「あの様子ですから、きっと喜んでいるでしょう」


 2人は顔を見合わせて笑った。


 ◇ ◇ ◇


 8月半ばを過ぎた頃、南宋から使者が来た。皇帝趙昀(ジャオ・ユン)の書状を携え、開封周辺の情勢と金軍の動きを尋ねるためだった。臨安での一件を経て、文面には達也との関係を再び悪化させないよう、配慮が見られた。


 達也は政務殿で書状を読み終え、使者に返答した。


「開封周辺は落ち着いており、金軍にも今のところ大きな南下の動きはないと、陛下へお伝えください。それから、王妃様と太后様も、お元気にお過ごしでございます」


 使者は顔を上げ、2人の近況も伝えてよいのかと確かめた。


「お願いいたします。王妃様はご懐妊中で、経過も順調であるとお伝えください」


 使者は礼をして承った。達也は臨安へ軍を進め、皇帝の命令を拒んだが、皇帝に対する言葉遣いまで崩すつもりはなかった。


 使者が下がると、そばにいた役人が尋ねた。


「かつて皇后であられた方です。陛下へ、ご懐妊までお知らせになってよろしいのでしょうか」


「だからこそ、伝えておく。王妃様は今、私の正妻であり、私の子を宿しておられる。陛下にも、そのことはきちんと知っておいていただく」


 達也は書状を卓へ置き、次の仕事に移った。


 その日の夕方、王妃の宮を訪れた達也は、南宋から使者が来たことを話した。開封の情勢に加え、王妃と太后の近況も伝えさせたと聞くと、王妃は驚いた。


「懐妊のことまでお知らせしたのですか。陛下は、どのようにお思いになるでしょうね」


「それは、陛下のお気持ちでございます。王妃様が今、私の正妻でいらっしゃることに変わりはございません」


「本当に迷わない方ですね。あれほど強引なことをしたのに、今でも陛下に敬意を払うのも不思議です」


「従えない命令には従いません。しかし、それと陛下への礼を失うことは別でございます」


 王妃はしばらく達也の顔を見ていた。


「やはり、変わった方です」


「太后様にも、何度も言われております」


「私も何度も言いました。そろそろ覚えておいてください」


 達也が、よく覚えていると答えると、王妃は笑った。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、太后の宮に入ると、達也は王妃のところから来たのかと尋ねられた。先ほどまで話をしていたと答えると、太后は呆れた顔になった。


「毎日、王妃と私の間を行ったり来たりしていますね。少しは自分の部屋で休んだらどうです」


「今夜は、太后様のお部屋で休ませていただきます」


「それを言うと思いました」


 達也は笑い、今夜もよろしく頼むと頭を下げた。


「随分と嬉しそうですね」


「太后様にお会いできましたので」


 太后はまた同じことを言うと呆れながら、達也の顔を見た。4か月前なら、部屋に来るだけで腹が立った。今では、来ない日の方が気になる。その変化を認めるのは悔しかった。


「達也様、1つだけ勘違いしないでください。私はまだ、お前を許していません。少し態度が変わったからといって、臨安でのことまで、全て許されたと思わないでください」


「承知しております。いつか許していただけるよう、これからも誠実に尽くしてまいります」


「随分と気の長い話ですね。私が一生許さなかったら、どうするのです」


「その時は一生、太后様に尽くします」


 太后は返す言葉を失った。やがて達也から目を離し、寝所へ歩き出した。


「本当に困った男です」


 達也が詫びると、もう謝らなくてよいと返した。数歩進んだところで振り返ると、達也はまだその場に立っていた。


「来ないのですか」


「ただいま参ります」


 達也は太后のあとに続いた。


 ◇ ◇ ◇


 8月下旬になっても、王妃の懐妊は順調だった。食欲が戻り、暑さの和らぐ時間には庭を歩くことも増えた。達也は毎日その宮を訪れ、太后のもとにも以前より頻繁に足を運んでいた。


 太后には、自分で気づくような体の変化はまだなかった。達也も何も急かさず、王妃に次ぐ大切な妻として接していた。


 臨安での出来事へのわだかまりは、2人の胸に残っていた。それでも王妃は達也が訪れるのを待ち、太后も来ない夜には理由を気にするようになった。


 達也は朝の鍛錬を終えると政務と軍務に当たり、夕方には王妃を訪ね、夜には太后の宮へ向かった。開封の新王府では、その暮らしが日常になっていた。


 達也を何度も迎えた夏が終わろうとしていた。太后はまだ気づいていなかったが、その体にも変化が始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。