第9話(後編1)――「まだ許せない夫」
(1225年8月上旬、開封)
夏の開封は朝から暑かった。夜明け前には涼しさが残っていたが、日が昇ると王府の瓦屋根に強い日差しが当たり、庭を歩く人も減っていった。
それでも達也の朝は変わらなかった。空が明るくなる前から馬場に蹄の音が響き、王妃はその音で目を覚ました。徐州にいた頃から聞き慣れた音である。寝台を出て女官の用意した水を飲むと、窓の外へ目を向けた。
「今朝は昨日より楽です。達也様は、もう馬場へ出ていらっしゃるのでしょう。昨夜も遅かったのに」
女官がうなずいた。達也は昨夜も王妃の宮を訪れ、食事や体調について尋ねていた。懐妊してからは寝所を共にすることを控えているが、話し込むうちに夜が更けることもあった。王妃が早く休むよう勧めても、残った政務を片付けてからだと答え、それでいて翌朝には馬場に出ている。
「私が懐妊してから、することが増えているように見えます。それなのに、朝の鍛錬も欠かしませんね」
「王妃様のお宮へも毎日お越しになりますから、お忙しいのでしょう」
「それを仕事の中に入れてはいけません」
女官が笑うと、王妃もつられた。徐州へ来たばかりの頃なら、達也の訪問をからかわれるのは不愉快だっただろう。今では、来ない日の方が気になった。
朝の鍛錬を終えた達也は、湯で汗を流してから王妃の宮へ向かった。朝食の前に顔を見ることが、開封へ移ってからの日課になっていた。
部屋に入った達也が朝の挨拶をすると、王妃は尋ねられる前に体調を伝えた。
「今朝は吐き気もありませんし、これから食事をいただくところです。昨日より楽になりました」
「それは安心いたしました。食事も召し上がれそうなのですね」
「毎朝、医師より細かくお尋ねになりますね」
「お体の具合は毎日違いますから、その都度お聞きいたします。医師には医師の役目がございますし、私は夫でございます」
王妃は笑った。
「そういう時には、夫だと強くおっしゃるのですね」
「いつでも、そのつもりでございます」
「知っています」
王妃が迷わず答えると、達也は驚いたあと、嬉しそうな顔になった。王妃に、そんなことで喜ばないよう言われても、表情は変わらなかった。
政務へ向かおうとした達也を、王妃が呼び止めた。
「太后様のところにも、毎朝いらっしゃるのですか」
「毎朝ではございません。太后様には、夜にお会いすることが多うございますので」
王妃はその意味を察し、今夜も太后の宮へ行くのかと尋ねた。達也はそのつもりだと答え、夕方には王妃のもとへも来ると告げた。
「分かっています。お仕事にお戻りください」
王妃はそう言って送り出した。その顔には、徐州へ来た頃にはなかった穏やかさがあった。
◇ ◇ ◇
昼前、達也は政務殿で開封周辺の報告を受けていた。王府では主要な施設が使えるようになっていたものの、外側の建物や倉、庭園の一部では工事が続いていた。
西側の倉は今月中に使えるようになると聞くと、達也は工事を急がせる一方、湿気が入らない造りにするよう念を押した。北側の宿舎も護衛の兵が入れるところまで仕上がっていた。
「工事中の場所へ、王妃様や太后様の女官たちが入り込まないようにしろ。人夫の通る道と、宮へ出入りする道は分けておけ」
役人が書き留めると、別の役人が商人について報告した。食材や布、薪を王府へ納めたいという者が増え、中には相場より高い値を付ける者もいるという。
「そういう者からは買うな。王府なら高く売れると思わせる必要はない。それから、市の品を買い占めることも避けろ。町の者が困る」
王府は天下第一を目指して造らせたが、そのために開封の暮らしを圧迫するつもりはなかった。達也は帳面を確かめながら指示を出し、昼を過ぎても報告を受け続けた。
夕方になると、達也は残りの書類を脇へ寄せた。
「これは後で見る。王妃様のところへ行ってくる」
役人たちに告げ、政務殿を出た。
◇ ◇ ◇
王妃の宮には、楊太后が先に来ていた。2人は庭に面した部屋で、冷ました茶と果物を口にしながら話していた。
達也が太后に礼を言うと、太后は不思議そうな顔をした。
「王妃の様子を見に来ただけです。私にとっても大切な方なのですから、お前が礼を言うことではありません」
「それでも、お気遣いいただいていることはありがたく存じます」
「お前も朝から来ていたのでしょう。夕方にも顔を出して、夜はどうするのです」
「今夜は太后様のお宮へ伺うつもりでございます」
太后は呆れ、王妃は笑った。
「太后様、もう諦めた方がよいですよ」
「王妃は随分と余裕ができましたね。夜は早く休めるのでしょうが、その分、こちらへ来ているのではありませんか」
太后に顔を向けられ、達也は答えた。
「王妃様のご懐妊で、太后様のお宮に泊まる日が増えたことは確かでございます。ただ、王妃様の代わりに伺っているつもりはございません。太后様と一緒にいたいから、お訪ねしております」
太后は返事に詰まった。王妃も達也へ目を向けた。
「そういうことを、恥ずかしげもなく言えるのですね」
「太后様に、本当のことを申し上げているだけでございます」
「それが困るのです」
王妃が太后の顔を見て、笑みを浮かべた。
「太后様、顔が赤くなっていますよ」
「余計なことを言わないでください」
太后は達也にも向き直り、笑わないように言った。達也は笑っていないと答えたが、口元は緩んでいた。
「その顔で言っても、分かります」
達也が頭を下げると、王妃は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
その夜、達也は約束どおり太后の宮を訪れた。日中に熱を持った石畳も冷め始め、庭には涼しい風が通っていた。太后は庭に面した部屋で、梅の木を眺めていた。
「政務は終わったのですか。私のところへ来るために、残してきたのではありませんか」
「今日中に必要なものは終えました。残りは明日でも差し支えございませんので、今夜は太后様にお会いする方を選びました」
「昼の話の続きですね。少しくらい、ごまかしてもよいでしょうに」
「太后様に嘘を申し上げる理由がございません」
太后は達也を見た。その正直さは、時によって受け止め方に困った。以前なら腹を立てていた言葉にも、今は同じようには返せなかった。
「臨安で、お前が私を側室に求めたと聞いた時には、本当に憎らしい男だと思いました。今でも、あのやり方を許したわけではありません。王妃を要求したことも、私を要求したこともです」
「申し開きをするつもりはございません」
「それなのに、こうして毎日のように顔を合わせていると、ずっと嫌いでいるのも難しくなるではありませんか」
達也の顔に笑みが浮かんだ。太后はすぐに、喜ばないよう言い添えた。
「本当に、反省していませんね」
「太后様に以前ほど嫌われなくなったことは、嬉しく存じます」
「そういうところが、困るのです」
達也が否定もせずに頭を下げるので、太后はとうとう笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
数日後、王妃が太后の宮を訪れた。日中の暑さを避け、2人は庭に出ず、風の通る部屋で話していた。卓には冷ました茶と果物が置かれていた。
太后は王妃の腹へ目を向けた。
「少し大きくなったように見えますね。お体はいかがですか」
「以前より楽になりました。食事も取れるようになっています」
太后が安心した様子を見せると、王妃は果物を1切れ口にしてから、話を変えた。
「最近、達也様がこちらで夜を過ごすことが多いですね」
「王妃が懐妊したからでしょう」
「達也様は、太后様と一緒にいたいからだと申していましたよ。こちらでも、同じようにおっしゃるのですか」
太后は少し言いにくそうに、そうだと答えた。
「あの方は、自分の欲しいものについては驚くほど素直ですね」
「それは否定できません」
「何度もいらっしゃるのは、お嫌ですか」
太后は茶に目を落とし、少し考えてから答えた。
「最初ほど嫌ではありません。それ以上のことは、私にもよく分からないのです。王妃は最近、人のことばかり聞きますね」
「自分のことも、案外分からないものですから。私も、まだ達也様を許したわけではありません。それでも、徐州へ来たばかりの頃のように、嫌いだと言い切ることはできなくなりました」
太后は王妃の言葉を聞き、うなずいた。
「私も似ています。だから困っているのです」
「達也様は、困っていないでしょうね」
「あの様子ですから、きっと喜んでいるでしょう」
2人は顔を見合わせて笑った。
◇ ◇ ◇
8月半ばを過ぎた頃、南宋から使者が来た。皇帝趙昀の書状を携え、開封周辺の情勢と金軍の動きを尋ねるためだった。臨安での一件を経て、文面には達也との関係を再び悪化させないよう、配慮が見られた。
達也は政務殿で書状を読み終え、使者に返答した。
「開封周辺は落ち着いており、金軍にも今のところ大きな南下の動きはないと、陛下へお伝えください。それから、王妃様と太后様も、お元気にお過ごしでございます」
使者は顔を上げ、2人の近況も伝えてよいのかと確かめた。
「お願いいたします。王妃様はご懐妊中で、経過も順調であるとお伝えください」
使者は礼をして承った。達也は臨安へ軍を進め、皇帝の命令を拒んだが、皇帝に対する言葉遣いまで崩すつもりはなかった。
使者が下がると、そばにいた役人が尋ねた。
「かつて皇后であられた方です。陛下へ、ご懐妊までお知らせになってよろしいのでしょうか」
「だからこそ、伝えておく。王妃様は今、私の正妻であり、私の子を宿しておられる。陛下にも、そのことはきちんと知っておいていただく」
達也は書状を卓へ置き、次の仕事に移った。
その日の夕方、王妃の宮を訪れた達也は、南宋から使者が来たことを話した。開封の情勢に加え、王妃と太后の近況も伝えさせたと聞くと、王妃は驚いた。
「懐妊のことまでお知らせしたのですか。陛下は、どのようにお思いになるでしょうね」
「それは、陛下のお気持ちでございます。王妃様が今、私の正妻でいらっしゃることに変わりはございません」
「本当に迷わない方ですね。あれほど強引なことをしたのに、今でも陛下に敬意を払うのも不思議です」
「従えない命令には従いません。しかし、それと陛下への礼を失うことは別でございます」
王妃はしばらく達也の顔を見ていた。
「やはり、変わった方です」
「太后様にも、何度も言われております」
「私も何度も言いました。そろそろ覚えておいてください」
達也が、よく覚えていると答えると、王妃は笑った。
◇ ◇ ◇
その夜、太后の宮に入ると、達也は王妃のところから来たのかと尋ねられた。先ほどまで話をしていたと答えると、太后は呆れた顔になった。
「毎日、王妃と私の間を行ったり来たりしていますね。少しは自分の部屋で休んだらどうです」
「今夜は、太后様のお部屋で休ませていただきます」
「それを言うと思いました」
達也は笑い、今夜もよろしく頼むと頭を下げた。
「随分と嬉しそうですね」
「太后様にお会いできましたので」
太后はまた同じことを言うと呆れながら、達也の顔を見た。4か月前なら、部屋に来るだけで腹が立った。今では、来ない日の方が気になる。その変化を認めるのは悔しかった。
「達也様、1つだけ勘違いしないでください。私はまだ、お前を許していません。少し態度が変わったからといって、臨安でのことまで、全て許されたと思わないでください」
「承知しております。いつか許していただけるよう、これからも誠実に尽くしてまいります」
「随分と気の長い話ですね。私が一生許さなかったら、どうするのです」
「その時は一生、太后様に尽くします」
太后は返す言葉を失った。やがて達也から目を離し、寝所へ歩き出した。
「本当に困った男です」
達也が詫びると、もう謝らなくてよいと返した。数歩進んだところで振り返ると、達也はまだその場に立っていた。
「来ないのですか」
「ただいま参ります」
達也は太后のあとに続いた。
◇ ◇ ◇
8月下旬になっても、王妃の懐妊は順調だった。食欲が戻り、暑さの和らぐ時間には庭を歩くことも増えた。達也は毎日その宮を訪れ、太后のもとにも以前より頻繁に足を運んでいた。
太后には、自分で気づくような体の変化はまだなかった。達也も何も急かさず、王妃に次ぐ大切な妻として接していた。
臨安での出来事へのわだかまりは、2人の胸に残っていた。それでも王妃は達也が訪れるのを待ち、太后も来ない夜には理由を気にするようになった。
達也は朝の鍛錬を終えると政務と軍務に当たり、夕方には王妃を訪ね、夜には太后の宮へ向かった。開封の新王府では、その暮らしが日常になっていた。
達也を何度も迎えた夏が終わろうとしていた。太后はまだ気づいていなかったが、その体にも変化が始まろうとしていた。




