第9話(中編2)「開封の王妃と太后」
(1225年7月上旬、徐州)
徐州の屋敷では、朝から荷造りが続いていた。王妃と楊太后が臨安から持ってきた衣服や調度品に、この3か月で増えた品を加え、木箱へ収めていく。女官たちは中身を確かめながら、開封へ着いたあとに運び込む宮の名を書き付けていた。
王妃は椅子に座って、その様子を見ていた。懐妊が分かってから1か月ほどで、腹の大きさに目立った変化はない。ただ、日によって食欲に差があり、朝に気分が悪くなることもあった。
達也は移動に備え、医師を呼んで王妃を診てもらっていた。今のところ大きな問題はないものの、道中は馬車の揺れを抑え、何度か休憩を取るよう勧められると、急がせないと約束した。
「徐州から開封へ移るのに、随分と大げさですね。軍を動かす時より慎重ではありませんか」
王妃に言われ、達也は真面目な顔で答えた。
「軍は多少急がせても文句を言うだけで済みますが、王妃様のお体はそうはいきません。念を入れて悪いことはございませんので」
「兵が聞いたら怒りますよ」
「聞かせなければ大丈夫でございます」
王妃が笑うと、そばにいた太后も口を挟んだ。
「この人に理屈を求めても仕方ありません。3か月一緒に暮らして分かりましたが、一度決めたことは、なかなか変えない男です」
「それは否定いたしません」
達也が頭を下げると、王妃はまた笑った。徐州へ来たばかりの頃には、3人でこんな話をするとは思ってもみなかった。王妃も太后も達也を完全に許したわけではない。それでも、達也の予定を聞き、自分たちの一日の過ごし方を決める暮らしには、すでに慣れていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、王妃のために揺れの少ない馬車が用意された。座る場所には厚く布が敷かれ、女官たちに加えて医師も同行する。太后は別の馬車に乗り、達也は騎馬で一行の先頭に立った。
普段の行軍とは違い、進み方はゆっくりだった。昼前に休憩を取って王妃の体調を確かめ、午後にも馬車を止めた。達也に付き添われて馬車を降りた王妃は、一行が来た道を振り返った。
「本当に急がないのですね。いつもの達也様なら、もっと先まで進んでいるのでしょうに」
「今日は軍を動かしているのではなく、妻をお連れしておりますので」
王妃は一瞬返事を忘れ、それから笑った。
「随分と平然と言いますね」
「本当のことでございますから」
少し離れたところで聞いていた太后が、呆れた顔を向けた。
「王妃、もう分かっているでしょう。こういう男なのです」
「ええ、よく分かっています」
「それなら結構です。随分と息も合ってきたようですから」
王妃が「太后様まで」と困った顔をする間も、達也はその顔色を見ていた。体調に変わりがないと確かめ、その日は無理をせず途中で宿を取った。
翌日の昼前、一行は開封へ入った。城門から新王府へ続く道には、多くの住民が集まっていた。開封を金から奪い返した魯王が、正妻と太后を伴って戻るという話は、数日前から城内に広まっていた。
魯王軍の兵が道を空ける中、達也が馬上で先頭を進み、護衛の騎兵が続いた。その後ろを行く馬車から、王妃は沿道の人々を見ていた。
「随分と集まっていますね。私たちまで見られているのでしょうね」
「王妃様がお入りになることも知られております。朝からお待ちしていた者も多いそうでございます」
女官の返事を聞き、王妃は姿勢を正した。臨安では皇后として人前に出ることに慣れていたが、今は立場が違う。南宋皇帝の皇后ではなく、開封を治める魯王の正妻として、この町へ入るのだった。
後ろの馬車では、太后も町並みを眺めていた。道の広さも建物も、人々の言葉も臨安とは違う。
「本当に、ここで暮らすことになったのですね」
そばの女官がうなずいた。見知らぬ町ではあっても、太后に以前ほどの不安はなかった。これからどこで、誰と暮らすのかは分かっている。やがて馬車の前方に、新しい王府の大門が見えてきた。
◇ ◇ ◇
王府では、まだ工事が続いていた。外側では人夫が木材や瓦を運んでいたが、正門から正殿にかけての主要な部分は、ほぼ整っている。大門の先には広い前庭があり、正面に正殿、その左右に政務を行う建物や役人の控える場所が並んでいた。
さらに奥へ進むと、家族の暮らす区域に入った。王妃の宮はその中心に近い場所にあり、太后の宮は少し離れていた。太后の宮は王妃のものよりわずかに小さいものの、ほかの妻妾の居所とは明らかに格が違っていた。
馬車を降りた王妃は、自分の宮を見上げた。
「大きいですね。また、大きくすればよいと思ったのでしょう」
「正妻である王妃様のお住まいですから、必要な大きさでございます。多少は私の好みも入っておりますが」
「やはり、そうでしたか」
王妃が笑って門の奥へ目を向けると、達也は女官に、部屋へ案内するよう命じた。今日は宮を見て回らず、休ませるつもりらしかった。
「少しくらい見ても大丈夫です」
「明日から、いくらでもご覧いただけます。今日は移動されたばかりでございますから」
「達也様は、本当に心配性になりましたね」
「王妃様のことについては、そのようでございます」
王妃はそれ以上逆らわず、女官に付き添われて部屋へ向かった。
続いて太后の宮へ案内した達也は、中庭に入ったところで足を止めた。太后が庭の一角に植えられた梅を見つけたのだった。
「本当に植えたのですね。何本あるのですか」
「正確な数までは存じません。梅林にならない程度にしろと命じておきました」
「覚えていたのですね」
太后は笑みを浮かべ、木の近くまで歩いた。花の時期はとうに過ぎ、枝は青い葉に覆われていた。
「来年の春が楽しみですね」
「私も楽しみでございます。太后様が来年もここにいらっしゃることを、当然のようにおっしゃってくださったので」
太后は振り返り、少しの間、達也を見た。
「帰してくださらないのでしょう。それなら、ここで春を迎えるしかありません」
「そうでございますね」
「嬉しそうにしないでください」
達也が笑ったまま詫びると、太后は呆れた顔をした。それでも、この時はもう怒ってはいなかった。
◇ ◇ ◇
開封へ移って数日後、王妃と太后の正式な就位の儀が行われた。朝から正殿には役人や軍の将校、各地の有力者が並び、殿外にも多くの兵が配置されていた。
達也が正装して正面の席に着くと、まず王妃が女官を従えて入ってきた。懐妊中の王妃を長く立たせないよう、儀式の手順はあらかじめ短く整えてあったが、衣装は簡素にしなかった。
華やかな衣をまとった王妃が近づくと、達也は席を立ち、自ら迎えた。
「王妃様、こちらへお越しください」
王妃は達也を見てから、所定の場所へ進んだ。臨安では皇后だった自分が、今は達也の正妻として、新しい王府の正殿に立っていた。
就位を告げる文書が読み上げられた。王妃を魯王倉達也の正妻とし、王府の妻妾の中で最上位に置く。その立場が、集まった者たちの前で正式に示された。
儀式を終えると、達也は王妃に頭を下げた。
「これからも末永く、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
王妃も礼を返した。続いて太后が、王妃に次ぐ格の衣装をまとって入ってきた。達也は再び席を立って迎え、太后が所定の位置へ進むのを待った。
読み上げられた文書では、太后を達也の側室としながらも、太后の称号を保ち、王妃に次ぐ序列2位に置くと定めていた。ほかの妻妾が太后より上に立つことはない。
太后は文書を聞きながら、達也へ目を向けた。臨安を離れる時には、それまでの立場を全て失うのではないかと思っていた。しかし達也は徐州での約束を変えず、開封の役人や軍の将校が並ぶ前で、その扱いを正式に認めさせたのだった。
儀式が終わると、達也は太后にも頭を下げ、これからもよろしく頼むと告げた。
「このような場でも、私に頭を下げるのですね」
「太后様への礼を変える理由はございません」
太后は達也の顔を見たあと、礼を返した。
「分かりました。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
その言葉を聞いた王妃の口元に、笑みが浮かんだ。徐州へ来たばかりの頃には、太后が達也にこう答える姿は想像できなかった。
儀式のあとは宴となった。王妃はしばらく祝いを受けてから自分の宮へ戻り、太后はもう少し席に残った。達也は役人たちの相手を続けていたが、時折、王妃が去った方へ目を向けていた。
「王妃には医師も女官も付いているのでしょう。少しは落ち着きなさい。見ているこちらまで落ち着かなくなります」
太后にたしなめられ、達也は笑った。
「太后様にそう言われるとは思いませんでした。ご心配いただき、ありがとうございます」
「王妃の心配をしているのです。お前ではありません」
達也が承知していると答えても、太后は疑わしそうにその顔を見てから、盃へ手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
夕方、達也は王妃の宮を訪れた。王妃はすでに儀式の重い衣装を脱ぎ、楽な服に着替えていた。
「お疲れではございませんか。長く立たせてしまい、申し訳ございません」
「少し疲れましたが、大丈夫です。本来より、かなり短くしてくださったのでしょう。それで十分です」
達也は王妃の前に座り、改めて就位を祝った。王妃は笑って、徐州にいた時から王妃と呼んでいたではないかと返した。
「今日からは、開封の役人や兵にも、お立場が正式に示されました」
「達也様は嬉しいのですか。私を皇后から王妃にしたのに?」
達也は王妃を見た。
「以前より称号が下がったことは承知しております。それでも、私にとって王妃様は唯一の正妻でございます。そのことを皆の前で、はっきりお示しできたのは嬉しゅうございます」
「本当に、自分に都合よく考える方ですね」
「その点は、以前から変わっておりません」
「ええ、知っています」
王妃が笑うと、達也はようやく表情を緩めた。それでも腹へ目を向けると、体に変わりはないか、子は大丈夫かと尋ねずにはいられなかった。
「今の時期では、お腹の子の様子までは私にも分かりませんよ。何度同じことを心配するのです」
「毎日でも心配いたします」
「困った方です」
そう答える王妃の声には、以前のような冷たさはなかった。
その夜、達也は太后の宮も訪れた。梅の庭には夜風が通り、昼間の暑さが和らいでいた。庭に面した部屋で迎えた太后は、達也の顔を見るなり言った。
「今日は王妃のところでお休みになるのかと思いました」
「お疲れですので、今夜は早くお休みいただきます。太后様にも、今日のお礼を申し上げたく参りました」
「お前が勝手に決めた儀式でしょう。私に礼を言うことではありません」
「それでも、正式にお立場をお受けいただきましたので」
太后は達也を見た。
「断ったら、どうするつもりだったのです」
「お受けいただけるまで、お話しいたしました」
「やはり、断らせる気はなかったのですね」
達也が詫びると、太后はもう分かっていると答え、庭へ目を向けた。しばらく梅の枝を眺めてから、言葉を続けた。
「ただ、約束は守ったのですね。私を普通の側室にはせず、王妃に次ぐ第2位に置くと、皆の前ではっきり示しました」
「太后様のお立場が曖昧になっては困りますので」
「なぜ、そこまで私に気を遣うのです」
「太后様を大切にしたいからでございます。何度お尋ねいただいても、お答えは変わりません」
太后は返事をせず、達也の顔を見ていた。
「達也様」
達也が驚いた顔をすると、太后も自分が何と呼んだのかに気づいた。達也が口を開きかけるより早く、言い添えた。
「何も言わないでください。笑うのもいけません」
達也はうなずいたが、口元の笑みは隠せなかった。
「笑っていますね」
「申し訳ございません」
「だから、笑わないでください」
そう言う太后も、最後には笑ってしまった。徐州で王妃から、そのうち達也様と呼ぶようになると言われた時には、決してそうはならないと思っていた。それから2か月もたたないうちに、自分の口からその呼び方が出てしまった。
少し悔しかったが、太后は言い直さなかった。
◇ ◇ ◇
7月下旬になると、新王府での暮らしも落ち着いてきた。王妃は以前より休む時間を多く取り、達也は朝の鍛錬を終えると、朝食の前後にその宮へ顔を出すようになった。
昼は政務と軍務に追われ、夜には王妃の体調を確かめた。それから太后の宮へ向かう日も多く、太后への訪問が減ることはなかった。王妃が懐妊した分、太后と夜を過ごす日が増えることもあったが、太后は口で呆れながらも、達也が来ることを拒まなくなっていた。
2人とも、臨安での出来事を忘れたわけではない。達也が皇帝に要求し、自分たちを妻として連れてきたことへのわだかまりは残っていた。
それでも開封には、王妃には正妻としての宮があり、太后には序列2位にふさわしい宮と、望んだ梅の庭があった。達也は2人の前でも役人たちの前でも、約束した扱いを変えなかった。
王妃は達也の子を宿し、太后も達也を名で呼んだ。天下第一を目指して造られた新王府で、3人は徐州にいた頃からの習慣を引き継ぎながら、家族として暮らし始めていた。




