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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第9話(中編2)「開封の王妃と太后」

 (1225年7月上旬、徐州(シュージョウ))


 徐州の屋敷では、朝から荷造りが続いていた。王妃と楊太后(ヤン・タイホウ)が臨安から持ってきた衣服や調度品に、この3か月で増えた品を加え、木箱へ収めていく。女官たちは中身を確かめながら、開封へ着いたあとに運び込む宮の名を書き付けていた。


 王妃は椅子に座って、その様子を見ていた。懐妊が分かってから1か月ほどで、腹の大きさに目立った変化はない。ただ、日によって食欲に差があり、朝に気分が悪くなることもあった。


 達也は移動に備え、医師を呼んで王妃を診てもらっていた。今のところ大きな問題はないものの、道中は馬車の揺れを抑え、何度か休憩を取るよう勧められると、急がせないと約束した。


「徐州から開封へ移るのに、随分と大げさですね。軍を動かす時より慎重ではありませんか」


 王妃に言われ、達也は真面目な顔で答えた。


「軍は多少急がせても文句を言うだけで済みますが、王妃様のお体はそうはいきません。念を入れて悪いことはございませんので」


「兵が聞いたら怒りますよ」


「聞かせなければ大丈夫でございます」


 王妃が笑うと、そばにいた太后も口を挟んだ。


「この人に理屈を求めても仕方ありません。3か月一緒に暮らして分かりましたが、一度決めたことは、なかなか変えない男です」


「それは否定いたしません」


 達也が頭を下げると、王妃はまた笑った。徐州へ来たばかりの頃には、3人でこんな話をするとは思ってもみなかった。王妃も太后も達也を完全に許したわけではない。それでも、達也の予定を聞き、自分たちの一日の過ごし方を決める暮らしには、すでに慣れていた。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、王妃のために揺れの少ない馬車が用意された。座る場所には厚く布が敷かれ、女官たちに加えて医師も同行する。太后は別の馬車に乗り、達也は騎馬で一行の先頭に立った。


 普段の行軍とは違い、進み方はゆっくりだった。昼前に休憩を取って王妃の体調を確かめ、午後にも馬車を止めた。達也に付き添われて馬車を降りた王妃は、一行が来た道を振り返った。


「本当に急がないのですね。いつもの達也様なら、もっと先まで進んでいるのでしょうに」


「今日は軍を動かしているのではなく、妻をお連れしておりますので」


 王妃は一瞬返事を忘れ、それから笑った。


「随分と平然と言いますね」


「本当のことでございますから」


 少し離れたところで聞いていた太后が、呆れた顔を向けた。


「王妃、もう分かっているでしょう。こういう男なのです」


「ええ、よく分かっています」


「それなら結構です。随分と息も合ってきたようですから」


 王妃が「太后様まで」と困った顔をする間も、達也はその顔色を見ていた。体調に変わりがないと確かめ、その日は無理をせず途中で宿を取った。


 翌日の昼前、一行は開封(カイフォン)へ入った。城門から新王府へ続く道には、多くの住民が集まっていた。開封を金から奪い返した魯王が、正妻と太后を伴って戻るという話は、数日前から城内に広まっていた。


 魯王軍の兵が道を空ける中、達也が馬上で先頭を進み、護衛の騎兵が続いた。その後ろを行く馬車から、王妃は沿道の人々を見ていた。


「随分と集まっていますね。私たちまで見られているのでしょうね」


「王妃様がお入りになることも知られております。朝からお待ちしていた者も多いそうでございます」


 女官の返事を聞き、王妃は姿勢を正した。臨安では皇后として人前に出ることに慣れていたが、今は立場が違う。南宋皇帝の皇后ではなく、開封を治める魯王の正妻として、この町へ入るのだった。


 後ろの馬車では、太后も町並みを眺めていた。道の広さも建物も、人々の言葉も臨安とは違う。


「本当に、ここで暮らすことになったのですね」


 そばの女官がうなずいた。見知らぬ町ではあっても、太后に以前ほどの不安はなかった。これからどこで、誰と暮らすのかは分かっている。やがて馬車の前方に、新しい王府の大門が見えてきた。


 ◇ ◇ ◇


 王府では、まだ工事が続いていた。外側では人夫が木材や瓦を運んでいたが、正門から正殿にかけての主要な部分は、ほぼ整っている。大門の先には広い前庭があり、正面に正殿、その左右に政務を行う建物や役人の控える場所が並んでいた。


 さらに奥へ進むと、家族の暮らす区域に入った。王妃の宮はその中心に近い場所にあり、太后の宮は少し離れていた。太后の宮は王妃のものよりわずかに小さいものの、ほかの妻妾の居所とは明らかに格が違っていた。


 馬車を降りた王妃は、自分の宮を見上げた。


「大きいですね。また、大きくすればよいと思ったのでしょう」


「正妻である王妃様のお住まいですから、必要な大きさでございます。多少は私の好みも入っておりますが」


「やはり、そうでしたか」


 王妃が笑って門の奥へ目を向けると、達也は女官に、部屋へ案内するよう命じた。今日は宮を見て回らず、休ませるつもりらしかった。


「少しくらい見ても大丈夫です」


「明日から、いくらでもご覧いただけます。今日は移動されたばかりでございますから」


「達也様は、本当に心配性になりましたね」


「王妃様のことについては、そのようでございます」


 王妃はそれ以上逆らわず、女官に付き添われて部屋へ向かった。


 続いて太后の宮へ案内した達也は、中庭に入ったところで足を止めた。太后が庭の一角に植えられた梅を見つけたのだった。


「本当に植えたのですね。何本あるのですか」


「正確な数までは存じません。梅林にならない程度にしろと命じておきました」


「覚えていたのですね」


 太后は笑みを浮かべ、木の近くまで歩いた。花の時期はとうに過ぎ、枝は青い葉に覆われていた。


「来年の春が楽しみですね」


「私も楽しみでございます。太后様が来年もここにいらっしゃることを、当然のようにおっしゃってくださったので」


 太后は振り返り、少しの間、達也を見た。


「帰してくださらないのでしょう。それなら、ここで春を迎えるしかありません」


「そうでございますね」


「嬉しそうにしないでください」


 達也が笑ったまま詫びると、太后は呆れた顔をした。それでも、この時はもう怒ってはいなかった。


 ◇ ◇ ◇


 開封へ移って数日後、王妃と太后の正式な就位の儀が行われた。朝から正殿には役人や軍の将校、各地の有力者が並び、殿外にも多くの兵が配置されていた。


 達也が正装して正面の席に着くと、まず王妃が女官を従えて入ってきた。懐妊中の王妃を長く立たせないよう、儀式の手順はあらかじめ短く整えてあったが、衣装は簡素にしなかった。


 華やかな衣をまとった王妃が近づくと、達也は席を立ち、自ら迎えた。


「王妃様、こちらへお越しください」


 王妃は達也を見てから、所定の場所へ進んだ。臨安では皇后だった自分が、今は達也の正妻として、新しい王府の正殿に立っていた。


 就位を告げる文書が読み上げられた。王妃を魯王倉達也(ツァン・ダーイエ)の正妻とし、王府の妻妾の中で最上位に置く。その立場が、集まった者たちの前で正式に示された。


 儀式を終えると、達也は王妃に頭を下げた。


「これからも末永く、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 王妃も礼を返した。続いて太后が、王妃に次ぐ格の衣装をまとって入ってきた。達也は再び席を立って迎え、太后が所定の位置へ進むのを待った。


 読み上げられた文書では、太后を達也の側室としながらも、太后の称号を保ち、王妃に次ぐ序列2位に置くと定めていた。ほかの妻妾が太后より上に立つことはない。


 太后は文書を聞きながら、達也へ目を向けた。臨安を離れる時には、それまでの立場を全て失うのではないかと思っていた。しかし達也は徐州での約束を変えず、開封の役人や軍の将校が並ぶ前で、その扱いを正式に認めさせたのだった。


 儀式が終わると、達也は太后にも頭を下げ、これからもよろしく頼むと告げた。


「このような場でも、私に頭を下げるのですね」


「太后様への礼を変える理由はございません」


 太后は達也の顔を見たあと、礼を返した。


「分かりました。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 その言葉を聞いた王妃の口元に、笑みが浮かんだ。徐州へ来たばかりの頃には、太后が達也にこう答える姿は想像できなかった。


 儀式のあとは宴となった。王妃はしばらく祝いを受けてから自分の宮へ戻り、太后はもう少し席に残った。達也は役人たちの相手を続けていたが、時折、王妃が去った方へ目を向けていた。


「王妃には医師も女官も付いているのでしょう。少しは落ち着きなさい。見ているこちらまで落ち着かなくなります」


 太后にたしなめられ、達也は笑った。


「太后様にそう言われるとは思いませんでした。ご心配いただき、ありがとうございます」


「王妃の心配をしているのです。お前ではありません」


 達也が承知していると答えても、太后は疑わしそうにその顔を見てから、盃へ手を伸ばした。


 ◇ ◇ ◇


 夕方、達也は王妃の宮を訪れた。王妃はすでに儀式の重い衣装を脱ぎ、楽な服に着替えていた。


「お疲れではございませんか。長く立たせてしまい、申し訳ございません」


「少し疲れましたが、大丈夫です。本来より、かなり短くしてくださったのでしょう。それで十分です」


 達也は王妃の前に座り、改めて就位を祝った。王妃は笑って、徐州にいた時から王妃と呼んでいたではないかと返した。


「今日からは、開封の役人や兵にも、お立場が正式に示されました」


「達也様は嬉しいのですか。私を皇后から王妃にしたのに?」


 達也は王妃を見た。


「以前より称号が下がったことは承知しております。それでも、私にとって王妃様は唯一の正妻でございます。そのことを皆の前で、はっきりお示しできたのは嬉しゅうございます」


「本当に、自分に都合よく考える方ですね」


「その点は、以前から変わっておりません」


「ええ、知っています」


 王妃が笑うと、達也はようやく表情を緩めた。それでも腹へ目を向けると、体に変わりはないか、子は大丈夫かと尋ねずにはいられなかった。


「今の時期では、お腹の子の様子までは私にも分かりませんよ。何度同じことを心配するのです」


「毎日でも心配いたします」


「困った方です」


 そう答える王妃の声には、以前のような冷たさはなかった。


 その夜、達也は太后の宮も訪れた。梅の庭には夜風が通り、昼間の暑さが和らいでいた。庭に面した部屋で迎えた太后は、達也の顔を見るなり言った。


「今日は王妃のところでお休みになるのかと思いました」


「お疲れですので、今夜は早くお休みいただきます。太后様にも、今日のお礼を申し上げたく参りました」


「お前が勝手に決めた儀式でしょう。私に礼を言うことではありません」


「それでも、正式にお立場をお受けいただきましたので」


 太后は達也を見た。


「断ったら、どうするつもりだったのです」


「お受けいただけるまで、お話しいたしました」


「やはり、断らせる気はなかったのですね」


 達也が詫びると、太后はもう分かっていると答え、庭へ目を向けた。しばらく梅の枝を眺めてから、言葉を続けた。


「ただ、約束は守ったのですね。私を普通の側室にはせず、王妃に次ぐ第2位に置くと、皆の前ではっきり示しました」


「太后様のお立場が曖昧になっては困りますので」


「なぜ、そこまで私に気を遣うのです」


「太后様を大切にしたいからでございます。何度お尋ねいただいても、お答えは変わりません」


 太后は返事をせず、達也の顔を見ていた。


「達也様」


 達也が驚いた顔をすると、太后も自分が何と呼んだのかに気づいた。達也が口を開きかけるより早く、言い添えた。


「何も言わないでください。笑うのもいけません」


 達也はうなずいたが、口元の笑みは隠せなかった。


「笑っていますね」


「申し訳ございません」


「だから、笑わないでください」


 そう言う太后も、最後には笑ってしまった。徐州で王妃から、そのうち達也様と呼ぶようになると言われた時には、決してそうはならないと思っていた。それから2か月もたたないうちに、自分の口からその呼び方が出てしまった。


 少し悔しかったが、太后は言い直さなかった。


 ◇ ◇ ◇


 7月下旬になると、新王府での暮らしも落ち着いてきた。王妃は以前より休む時間を多く取り、達也は朝の鍛錬を終えると、朝食の前後にその宮へ顔を出すようになった。


 昼は政務と軍務に追われ、夜には王妃の体調を確かめた。それから太后の宮へ向かう日も多く、太后への訪問が減ることはなかった。王妃が懐妊した分、太后と夜を過ごす日が増えることもあったが、太后は口で呆れながらも、達也が来ることを拒まなくなっていた。


 2人とも、臨安での出来事を忘れたわけではない。達也が皇帝に要求し、自分たちを妻として連れてきたことへのわだかまりは残っていた。


 それでも開封には、王妃には正妻としての宮があり、太后には序列2位にふさわしい宮と、望んだ梅の庭があった。達也は2人の前でも役人たちの前でも、約束した扱いを変えなかった。


 王妃は達也の子を宿し、太后も達也を名で呼んだ。天下第一を目指して造られた新王府で、3人は徐州にいた頃からの習慣を引き継ぎながら、家族として暮らし始めていた。

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