第9話(中編1)「王妃の懐妊」
(1225年6月上旬、徐州)
初夏の徐州では、朝から気温が上がる日が増えていた。庭木の葉は濃くなり、日が昇る頃には虫の声も聞こえた。達也は変わらず夜明け前に馬場へ出て、騎馬と騎射、地上での鍛錬を終えてから朝食を取っていた。
その朝も汗を流して政務の部屋へ入り、開封から届いた王府建設の報告を受けた。役人は図面を広げ、王妃の宮は居所として使えるところまで進み、太后の宮も今月中に整う見込みだと説明した。
「太后様がご希望になった梅も、庭へ移す準備を始めております。王妃様の庭は池を小さくし、その分、歩ける場所を広げました」
達也は変更後の図面を確かめた。
「これならよい。王妃様にも、もう一度お見せしてくれ。湯殿と厨房、それに水の確保はどうなっている」
「湯殿はお2方それぞれの専用とし、厨房には炉を据えました。水は井戸だけに頼らず、蓄えておく場所も設けております」
「排水も確認しろ。夏に汚れた水がたまり、臭いが残るようでは困る」
正殿は屋根の工事に入り、政務殿も今月中には使えるという。このまま進めば、予定どおり7月に王妃と太后を迎えられそうだった。
「よく間に合わせた。ただし、急ぐあまり柱や屋根の仕事をおろそかにするな。不具合があれば、後でやり直すことになる」
役人が頭を下げると、達也は図面を閉じた。
「俺も今月中に見に行く。お2方が移られてから問題が見つかっては遅い。工事の進んだところから案内できるようにしておけ」
役人が下がると、次の報告を手に取った。金軍の動きや各城の兵数、軍馬の繁殖、食糧の備蓄、道路の補修も確かめなければならなかった。王府の建設を急がせる間も、軍と領地の仕事は続いていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、王妃は自分の居所で朝食を取っていた。粥、蒸した魚、青菜、果物が並んでいたが、数口食べただけで手が止まった。
「お口に合わないようでしたら、別の物を用意いたします」
女官に声をかけられ、王妃は首を振った。
「味のせいではありません。今朝は少し気分が悪く、食べたくないのです」
水を口にしたところへ、蒸し魚の匂いが届いた。急に吐き気が込み上げ、王妃は口元を押さえて顔を背けた。
女官はすぐ魚の皿を遠ざけ、そばへ寄った。王妃は騒がないよう言ったが、顔色を見た女官は医師を呼ぶと申し出た。
「少し気持ちが悪くなっただけです。そこまでしなくてもよいでしょう」
「一度、診ていただいた方が安心でございます」
王妃は渋っていたものの、やがてうなずいた。
「では、医師だけ呼んでください。達也様は政務中でしょうから、まだ知らせる必要はありません」
その時、年長の女官が王妃のそばへ進んだ。
「お身体のことで、確かめたいことがございます。最後に月のものがあったのは、いつ頃でございましょう。このところ、来ておられないように思いましたので」
王妃はすぐには答えなかった。確かに遅れていたが、臨安を離れて慣れない暮らしが続いたためだと考えていた。今朝の吐き気と食欲の変化を重ねると、それだけではないのかもしれなかった。
「まさか……」
腹へ目を落とすと、女官は医師の診察を待とうと告げた。
「達也様には、まだ言わないでください」
王妃は念を押し、腹へ手を添えた。何かを感じるわけではなかったが、先ほどまで気に留めていなかった身体の変化が、急に気になり始めた。
◇ ◇ ◇
医師は午前のうちに到着した。女官は必要な者だけを残して部屋を出た。王妃は体調を尋ねられ、食欲と吐き気、月のものについて答えた。医師が脈を確かめる間、黙って待った。
「王妃様、ご懐妊の可能性が高いと存じます。まだ初めの頃ですから、この先もお身体の様子を拝見する必要はございますが、これまでの変化と脈から、そのように考えられます」
王妃は医師を見たまま、しばらく何も言えなかった。徐州へ来て3か月目に入り、達也は何度も部屋を訪れていた。いずれ子を宿すことはあると分かっていても、実際に告げられると実感が湧かなかった。
「達也様の子が、この中にいるのですね」
腹へ手を添える王妃に、医師は無理をせず、食べられる物を少しずつ取るよう伝えた。達也にも知らせた方がよいと言われ、王妃は考えた末に、自分から話すと答えた。
女官によれば、達也はまだ政務の部屋にいるという。
「仕事が一段落するまで待ちましょう。急いで中断させる必要はありません」
そう答えながらも、王妃は何度も腹へ手を置いた。朝食を下げられたあとも、しばらく椅子から立たずにいた。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、軍馬の繁殖と開封周辺の警備について報告を受け終えたところへ、王妃付きの女官が来た。
「王妃様がお話ししたいことがあるとのことでございます」
達也は女官の様子を見て、身体に何かあったのかと尋ねた。直接聞いてほしいと答えられると、残りの仕事を後へ回して席を立った。
王妃は居所の椅子に座っていた。朝より顔色は戻っていたが、達也はまず体調を尋ねた。
「今朝は少し気分が悪くなりましたが、もう落ち着いています。医師にも診ていただきました」
「それなら、医師は何と申しておりましたか」
王妃は達也を見た。臨安では憎らしい男だった。徐州へ来た当初も、夫として受け入れることには抵抗があった。その相手の子が、自分の腹にいる。医師の言葉をどう受け止めればよいのか、まだ気持ちが定まっていなかった。
「達也様、子ができたようです。医師は、懐妊と考えてよいだろうと申していました」
達也の顔に喜びが広がった。
「王妃様、本当にありがとうございます」
「まだ生まれてもいないのに、私へ礼を言うのですか」
「私の子を宿してくださったのですから、嬉しゅうございます」
達也は、まだ見た目に変化のない腹へ目を向けた。それから、今朝はどの程度具合が悪かったのか、食事は取れたのかと尋ねた。
「朝餉は、ほとんど食べられませんでした。医師からは、食べられる物を少しずつ取るように言われています」
「では、召し上がれそうな物を、いつでも用意できるよう厨房へ申し付けます。庭を歩かれる時も、疲れたらすぐにお休みください」
「寝たきりになるつもりはありませんよ。今でも、それほど身体を使うことはしておりません」
「もちろんでございます。ただ、医師の話を聞き、無理はなさらないでください」
王妃は心配そうな顔を見て、思わず笑った。
「達也様の方が、私より慌てているようです。金の大軍を前にしても平然としている方なのに」
「戦と王妃様のご懐妊は、別でございます」
「今夜は、私のところへ来る日だったのでしょう。どうなさるおつもりですか」
「お顔を拝見しに参ります。ただ、お身体に負担を掛けることはいたしません」
王妃はうなずいたが、少し物足りなく感じている自分に気づいた。以前なら、寝所をともにしないと聞けば安心したはずだった。その変化を達也へ話すことはできず、腹に置いていた手を膝へ戻した。
「医師にも、これから何に気をつければよいのか聞いておきます」
「どうか、私以上に心配なさらないでください」
「それは難しゅうございます」
達也の返事に、王妃はまた笑った。
◇ ◇ ◇
夕食の席で、楊太后にも懐妊が伝えられた。王妃の吐き気は治まり、3人で卓を囲んでいた。
太后は驚いて王妃の腹へ目を向けたが、すぐに祝いを述べた。王妃が礼を返すと、今度は達也を見た。
「随分とうれしそうですね。これほど王妃のもとへ通っていたのですから、いつかはこうなると思っておりましたが」
「太后様、もう少し言い方があるでしょう」
王妃が困った顔をすると、達也まで太后の言うとおりだと答えた。
「達也様まで認めないでください」
太后は笑った。達也は、その太后にも体調の変化がないか尋ねた。
「食欲が変わったり、気分が悪くなったりすることはございませんか」
「まったくありません。私もそのうち懐妊するのではないかと、考えているのでしょう」
「そうなれば、大変嬉しゅうございます」
太后は呆れたように見返した。
「王妃が懐妊したからといって、今度は私のところばかりへ来るつもりではないでしょうね」
「王妃様にも、これまでどおりお会いしに参ります。お身体を第一にいたしますが、お顔を見てお話しすることはできますから。太后様のもとへも、これまでどおり伺いたいと存じます」
「私が聞いているのは、寝所の話です」
太后の返事に、王妃が笑った。
「太后様、しばらくは私の分までお願いいたします」
「何をお願いするのです」
王妃だけでなく達也も笑っていた。太后は2人を見比べた。
「夫婦そろって、随分と仲がよくなったものですね」
王妃は今度こそ返事に困った。
「まだ、そこまでではありません」
「そういうことにしておきましょう」
太后は話を切り上げたが、王妃の顔から、以前ほど達也を拒んでいないことは分かった。
◇ ◇ ◇
数日後、達也は護衛と必要な者だけを連れ、開封へ視察に向かった。王妃は自分の宮を見たいと望み、太后も宮と梅の庭に関心を示したが、医師の意見を聞いた達也は、王妃には徐州で休んでほしいと頼んだ。
太后も王妃を残して自分だけ行くことはせず、徐州にとどまった。
開封へ着いた達也は、建設中の王府を朝から歩いて回った。王妃の宮には屋根が載り、壁と床の仕上げが進んでいた。太后の宮も、ほぼ同じ段階まで来ていた。
王妃の庭へ入ると、希望に従って小さくした池と、その周囲に広げた道を確かめた。石を敷いている場所で足を止め、道の高さを見た。
「王妃様はご懐妊中だ。歩くところに余計な段差を造るな。雨で滑りやすくなる石も避けるように」
役人は初めて聞く知らせに驚き、祝いを述べた。達也は礼を返し、工匠にも変更を伝えておくよう命じた。
太后の宮では、庭の一角に梅が植えられていた。役人が、さらに何本か増やす予定だと説明すると、達也は笑った。
「多すぎると叱られるぞ。俺も好きなだけ植えると申し上げたら、庭を梅林にするつもりかと言われた」
「それでは、今の庭に合う本数にとどめます」
「ああ。その方が、太后様もお喜びになるだろう」
続いて正殿、政務殿、厨房、湯殿、馬場を確かめた。すべての建物が完成しているわけではなかったが、7月から暮らすための準備は進んでいた。
夕方、役人たちを集め、予定どおり7月に移ると告げた。
「王妃様の宮は最優先で仕上げろ。移動のあと、落ち着いて休んでいただけるようにする。太后様の宮も遅らせるな。それから、移ったあとに、お2方の正式な就位の儀を行う」
役人たちが顔を上げた。王妃と太后には、達也の妻となってから、新しい王府で地位を示す儀式がまだ行われていなかった。
「王妃様には、正妻として王妃の位に就いていただく。太后様は側室ではあるが、太后の称号を保ち、王妃様に次ぐ第2位とする。皆の前で、その序列を明らかにするのだ」
「儀式は、どの程度の規模で整えましょうか」
「できるだけ華やかにしろ。天下第一を目指して建てる宮殿で、最初に行う大きな儀式だ。お召し物も用意するが、勝手に決めず、お2方の好みを確かめるように」
役人たちは建設の仕上げと並行して、儀式の準備を進めることになった。
◇ ◇ ◇
達也が徐州へ戻ったのは数日後の夕方だった。屋敷へ入ると、まず王妃の居所へ向かった。王妃は椅子に座って女官と話していたが、姿を見ると開封の様子を尋ねた。
「順調でございます。王妃様の宮には屋根が載り、仕上げも進んでおります。すべての工事が終わるわけではありませんが、7月にはお住まいいただけます」
「本当に3か月で間に合わせるのですね。太后様のお宮も同じように進んでいるのでしょうか」
「はい。梅も植え始めておりました。王妃様のお庭も見て、歩く場所の段差をできるだけ減らすよう命じてまいりました」
王妃は達也を見た。
「私が懐妊したからですか。そこまでなさらなくても大丈夫だと思いますが」
「転ばれてから後悔しても遅うございます。いま直せるところは、直しておきたいのです」
王妃はそれ以上言い返さなかった。体調を尋ねられ、今日はよく食べられたと答えると、達也は安心した顔になった。
「開封へ行っている間も、私のことを気になさっていたのですね」
「もちろんでございます。太后様のことも気にかかっておりました」
「どちらも、と迷わずおっしゃるのですね」
「お2方とも、私の大切な妻でございますから」
王妃は笑い、腹へ手を置いた。
「この子のことも気になりますか。男の子か女の子かも、まだ分かりませんよ」
「どちらでも嬉しゅうございます。王妃様がお産みくださる私の子ですから、大切に育てます」
返事に迷いはなかった。王妃はその顔を見つめた。
臨安で皇帝に自分を引き渡させた男であることは変わらず、それを完全に許したわけでもなかった。それでも、懐妊を心から喜び、身体を気遣い、暮らす場所まで整えてくれていた。王妃自身も、いつの間にか帰りを待っていた。
「達也様、お帰りなさい」
達也の表情が明るくなった。
「ただいま戻りました、王妃様」
その顔を見ると、王妃にも笑みが浮かんだ。
◇ ◇ ◇
6月の終わりが近づき、懐妊は確かなものとなった。医師は、その時点で経過に問題はないと判断していた。
達也は王妃を訪ねる回数を減らさなかった。ただ、以前のように夜をともにすることは控え、話をし、食事や体調を確かめてから自分の部屋へ戻る夜が増えた。
太后への訪問も続いていた。まだ懐妊の兆しはなかったが、達也の通い方は変わらなかった。太后も、来訪そのものを嫌がる様子は見せなくなっていた。
開封からは、宮や政務殿の仕上がりを伝える報告が届いていた。7月には徐州を離れ、新しい王府へ移り、就位の儀に臨むことになる。
臨安での出来事へのわだかまりは、2人の胸に残っていた。それでも王妃は腹の子について達也と話すようになり、太后も訪れた達也を居所へ迎えていた。開封で暮らす日を前に、3人の関係は徐州へ着いた頃とは変わり始めていた。




