第9話(前編2)「呆れるほど元気な王」
(1225年5月上旬、徐州)
空がまだ青黒いうちから厩では馬丁が働き、松明が残る馬場で達也の鍛錬が始まっていた。徐州へ来た当初、王妃は蹄の音に起こされていたが、今ではその時刻になると自然に目が覚める日もあった。
その朝も、目を開けると隣に達也はいなかった。昨夜は王妃の部屋で過ごしたものの、夜明け前には起きて馬場へ向かったらしい。上着を羽織って窓辺へ行くと、達也は馬を走らせながら弓を引いていた。
放った矢の多くが的を捉えた。何度か回ると馬を替え、再び騎射を続けた。王妃は後ろに控える女官へ顔を向けた。
「昨夜は遅くまで起きていたのに、今朝も同じ時刻から鍛錬しているのですね。昼間に休んでいるところを見たことはありますか」
「ございません。朝食のあとは、いつも政務のお部屋へ入られます」
「本当に疲れないのでしょうか」
女官にも答えは分からなかった。達也は馬を下りると兵たちと並んで弓を射ち、剣の鍛錬へ移った。終えると、自分が乗った馬の脚や鞍を確かめていた。
「臨安へ軍を連れてきた時は、ただ恐ろしい方だと思いました。でも、これを毎日続けているのなら、兵がついていくのも分かる気がします」
王妃の言葉に、女官は、兵と同じように身体を動かしているのは確かだと答えた。
「口で命じるだけの将軍ではないのでしょうね。だからといって、許したわけではありませんけれど」
王妃が窓を閉じると、女官の顔に笑みが浮かんでいた。たしなめられて頭を下げたが、王妃も本気で怒ってはいなかった。徐州へ来たばかりの頃に比べ、達也の話をするだけで顔を曇らせることは少なくなっていた。
◇ ◇ ◇
朝食を終えた達也は、政務の部屋へ入った。卓には徐州、開封、帰徳府、曹州などから届いた報告が積まれていた。金軍の動き、治安、軍馬の飼料、市場へ入る穀物の量と値段、新王府の工事について、順に目を通した。
「開封の市場へ、軍が口を出しすぎないようにしろ。値が急に上がった時は理由を調べるが、普段の商いまで細かく指図する必要はない」
役人が書き留めると、達也は軍馬の飼料について尋ねた。今のところ不足はないが、夏へ向けて備蓄を増やす必要があるという。
「徐州だけで集めず、東平、済州、兗州からも分けて運べ。それぞれの備蓄も確かめて進めるように」
続いて、開封から来た役人が王府の図面を広げた。王妃の宮では柱を立て始め、太后の宮も基礎工事が終わって木材が入っていた。一方、正殿は予定より遅れていた。
「王妃様と太后様の宮を優先したためでございます」
「それなら構わん。お2方が移られた時、住む場所が仕上がっていなければ困る。正殿は多少遅れてもよいが、湯殿と厨房は間に合わせろ」
達也は図面で女官たちの居所を確かめた。王妃の宮では東側、太后の宮では北側に置くという説明を受け、夜中に呼ばれてもすぐに行ける距離にするよう命じた。
役人が庭の案を広げると、達也は一通り見て返した。
「これは王妃様と太后様にもお見せし、ご希望を聞いてくれ。毎日ご覧になる庭を、俺だけで決めることもないだろう」
その日の午後、図面は2人のもとへ運ばれた。
◇ ◇ ◇
王妃と楊太后は同じ部屋に集まり、大きな卓へ広げられた配置図を見た。役人がそれぞれの宮を示すと、太后は身を寄せて確かめた。自分の宮は王妃の宮より少し奥に置かれていたが、十分な広さがあった。
「本当に、私の宮まで別に造っているのですね」
「太后様のお立場にふさわしいものにせよと、魯王様から命じられております」
「側室である私に、ここまで用意するのですか」
役人が返答に迷うと、王妃が口を添えた。
「達也様は、太后様をほかの側室と同じに扱うおつもりではないのでしょう」
太后は図面から顔を上げた。
「いつから、達也様と呼ぶようになったのです。随分と馴染んでいるではありませんか」
王妃は自分が口にした呼び名に気づいた。
「最近です。いつまでも『あなた』と呼んでいるのも不自然でしょう。太后様も、そのうち同じようにお呼びになると思います」
「私は呼びません」
太后が言い切ると、王妃はそれ以上言わず庭の図面へ目を戻した。役人は口を挟まず、説明の続きを待っていた。
「この池は、もう少し小さくしてください。その分、歩ける場所を広くしていただきたいのです」
役人が変更箇所を書き留めると、太后も自分の庭を指した。
「こちらには梅を何本か植えてください」
「梅がお好きだったのですね。存じませんでした」
王妃が言うと、太后は昔から好きなのだと答えた。
「宮中にいた頃も、何でも話していたわけではありませんから」
臨安では皇后と太后だった。立場は近くても、好みを気軽に語り合う関係ではなかった。それが今では同じ男の妻となり、新しい庭について並んで相談している。王妃は図面を眺めながら、不思議な気分になった。
「私たちは、本当に開封で暮らすことになるのですね。臨安へ戻ることは、もう考えない方がよいのでしょうか」
「少なくとも、あの男に私たちを帰すつもりはないでしょう」
太后の返事に、王妃の口元が緩んだ。
「太后様も、達也様のことがお分かりになってきたのですね」
「1か月も毎日顔を見ていれば、嫌でも分かります」
2人は再び図面へ目を落とし、庭の配置を確かめた。
◇ ◇ ◇
夕方、政務を終えた達也は、2人が庭について希望を出したと報告を受けた。夕食の席でその話をすると、王妃は池を小さくして歩ける場所を増やしてほしいのだと説明した。
「承知しました。王妃様のお庭ですから、お好きなようになさってください」
「本当に私の希望で変えてよいのですね」
「そのために図面をお届けしました」
達也は太后へ向き直った。
「太后様は梅をご希望とうかがいました。何本かとおっしゃらず、お好きなだけ植えさせます」
「庭を梅林にするつもりはありません。何本かあれば十分です」
「では、庭に合う数を選ばせましょう」
太后は呆れたように達也を見た。
「お前は、何でも大きくすればよいと思っているのでしょう」
「宮殿については、その傾向がございます」
「自覚はあるのですね。だから天下第一などと言い出すのですか」
王妃が笑うと、達也はそのとおりだと答えた。太后の口元にも笑みが浮かびかけたが、すぐに消えた。達也は気づいても、そのことには触れなかった。
食後、王妃が今夜は太后の居所へ行くのかと尋ねた。達也がそうすると答えると、太后は王妃へ顔を向けた。
「なぜ、あなたが確かめるのです」
「昨夜は私のところでしたから、今夜は太后様だと思ったのです」
「そのようなことを、当然のように話さないでください」
太后は達也にも何か言うよう促したが、返ってきたのは、今夜は太后の部屋へ伺うという丁寧な返事だけだった。
王妃は笑いながら太后を見た。
「この方と言い合っても、疲れるだけですよ」
「毎日話しているうちに、随分と詳しくなったようですね」
達也は2人の顔を見た。
「私は、それほど面倒な男でございますか」
「かなり面倒です。そう言われても、あまり反省なさらないでしょう」
王妃に答えられ、達也は直せるところは直すと申し出た。その顔を見ても本気で困っているようには見えず、王妃と太后は顔を見合わせた。
同じことで達也に呆れ、互いにその気持ちが分かるようになっていた。徐州へ来たばかりの頃にはなかったことだった。
◇ ◇ ◇
その夜、達也が太后の居所を訪れると、寝所へ入る前に呼び止められた。
「ほかにも妻がいるのに、この先も私たちのもとへ、これほど頻繁に通うつもりですか」
「ほかの妻たちにも会いに参ります。ただ、王妃様と太后様には、より多くの時間を割きたいと考えております」
「序列が高いから、寝所へ来る回数も増やすのですか」
「お立場も考えておりますが、それだけではございません。私は、お2方を大切にしたいのです」
太后は達也を見た。
「言葉でなら、何とでも申せます」
「ですから、口だけにはいたしません。お2方は、望んで私の妻になったわけではございません。それだけに、これからの暮らしを少しでもよいものにしたいと考えております」
「そのために、夜ごと通ってくるのですね。随分と単純です」
「顔を合わせる時間が少なければ、互いのことを知るのも難しいでしょう」
太后は少し考えてから尋ねた。
「以前は、無理に好いてもらおうとは思わないと申していました。それでも、私に好かれたいのですか」
「はい。無理にお気持ちを変えていただくつもりはございませんが、好いていただければ嬉しゅうございます」
ためらいのない返事だった。太后には意外であり、同時に、また自分に都合のよいことを言っているとも思えた。
「私たちを求めたことは変えず、好かれたいとも言うのですね」
「そう思っております。太后様に嘘を申し上げても仕方がございません」
太后は達也の顔を見た。臨安で会う前には、権力に任せて女を奪う横暴な男を想像していた。実際に皇帝へ自分たちを要求したのだから、その見方が間違っていたわけではない。今も、そのことは許していなかった。
ただ、迎えられてからの扱いは予想と違った。以前の身分を辱められることも、長く仕えた女官を取り上げられることもなかった。王妃に次ぐ地位を保ち、新しい宮まで用意されている。達也自身も何度も足を運び、太后としての礼を崩さなかった。
「本当に困った男ですね」
「申し訳ございません」
「その言葉も聞き飽きました。来るのでしょう。なら、いらっしゃい」
太后が寝所へ向かうと、達也はあとに続いた。
◇ ◇ ◇
翌朝、太后が目を覚ました時には、やはり達也はいなかった。馬場から聞こえる蹄の音を、寝台の上でしばらく聞いていた。
「本当に化け物ですね」
控えていた女官は返事に困り、大変お元気でいらっしゃると答えた。
「元気などというものではありません。夜はこちらが呆れるほどなのに、朝になれば馬に乗り、昼は政務を続けている。一度くらい、疲れた顔を見てみたいものです」
起き上がった太后が顔を向けると、女官は笑みを隠そうとしていた。たしなめられて謝ったものの、太后も厳しく叱る気にはならなかった。
◇ ◇ ◇
数日後、王妃と太后は昼食を終えて庭へ出た。5月の日差しは強くなり始めていたが、木陰には涼しい風が通っていた。女官たちを少し後ろに従え、2人で歩いた。
「昨夜も、朝までお休みになれなかったのですか」
王妃に尋ねられ、太后は横を向いた。
「そのようなことを聞くものではありません」
「今朝も馬場へ出ていらしたので、気になったのです」
「蹄の音で起こされました。あの男には、疲れるということがないのでしょうか」
「私も不思議に思っています」
2人は顔を見合わせた。しばらく歩いてから、王妃は臨安を出た頃のことを口にした。
「最初は、私たちを見せ物のように扱うのではないかと思っていました。そうはなりませんでしたね」
「その点は、私も認めます。ただ、丁重すぎて、かえって腹が立つ時があります。側室なのだから黙って従えとでも言われれば、もっと嫌いになれたのですが」
王妃が太后を見たので、太后は足を止めた。
「何かおかしいことを申しましたか」
「今は、以前ほど嫌いではないように聞こえました」
「そういう意味ではありません。王妃こそ、最近は達也様と自然に呼んでいるではありませんか」
今度は王妃が黙り、太后の顔に笑みが浮かんだ。
「人のことばかりは言えませんね」
「私は正妻ですから、いつまでも他人行儀ではおかしいだけです」
「その理屈なら、王妃に次ぐ立場とされた私も同じでしょう」
「では、太后様も達也様とお呼びになればよいのです」
「それは、まだ早いです」
王妃が笑うと、太后は自分の言葉に気づいた。
「今のは忘れなさい」
「忘れません。いつお呼びになるか、楽しみにしております」
太后も、とうとう笑った。達也のいないところで2人がそろって声を立てて笑ったのは、徐州へ来て初めてだった。
◇ ◇ ◇
5月半ばを過ぎると、開封から届く工事の報告が増えた。王妃の宮では屋根を載せる準備が始まり、太后の宮にも柱が立ち並んだ。正殿と政務殿の工事が進み、馬場に使う土地の整地にも取りかかっていた。
達也は毎日その報告を読み、政務と軍務を進めた。朝の鍛錬も欠かさず、夜には王妃と太后のもとを訪れ、2人との時間を多く取る暮らしを続けていた。
徐州へ着いた頃、2人は達也が来る夜を重く感じていた。1か月が過ぎた今、政務が長引くと、王妃は女官に帰りの時刻を尋ねることがあった。太后も夕食の席に姿がないと、何の仕事で遅れているのかを聞くようになった。
自分が待っているのだとは、どちらも認めなかった。達也も、そのことを指摘しなかった。
皇帝に自分たちを引き渡させたことへの怒りは残っていた。それでも、希望を聞いて住まいを整え、日々礼を尽くしながら王としての仕事を続ける姿を見ていると、臨安にいた時と同じ気持ちではいられなかった。
王妃も太后も、その変化を達也へ話すことはなかった。ただ、夕食の席で交わす言葉は、徐州へ来た頃より長くなっていた。




