第9話(前編1)「徐州の新しい妻たち」
(1225年4月上旬、徐州)
臨安を離れて北上した一行が徐州へ着いたのは、春の日差しが暖かさを増し始めた頃だった。城門の外には兵と役人が並び、街道沿いには魯王軍の帰還を見ようと住民が集まっていた。
先頭を進む達也の後ろに騎兵が続き、その後方を2台の馬車が進んでいた。最初の馬車には正妻として迎えた王妃が、次の馬車には楊太后が乗っていた。
道中は2人のために広い馬車を用意し、休憩の時刻も軍の都合だけでは決めなかった。臨安から同行した女官たちは、引き続き身の回りの世話を任されていた。
達也は以前から使っていた大きな屋敷を、2人の仮住まいにした。正門の奥には広い前庭があり、その先にいくつもの建物が続いていた。王妃と太后には独立した居所を用意し、それぞれに寝室、居間、衣装部屋、女官の控え室を整えてあった。
屋敷へ着くと、達也は先に王妃の居所を訪れた。王妃は女官たちと、運び込まれた荷物を確かめていた。来訪を告げられて振り返ると、達也が丁重に頭を下げた。
「王妃様、長い道中でお疲れになったでしょう。徐州では、しばらくお身体をお休めください」
「まだ、その呼び名には慣れません。数日前までは皇后と呼ばれていたのですから」
「当然でございます。ただ、私の正妻としてお迎えした以上、お立場を曖昧にはいたしません。私の妻の中では、王妃様が第1位でございます」
王妃は達也の顔を見た。
「ほかにも多くの妻がおられると聞きました。その方々より私を上に置くとして、楊太后様はどうなさるのです。側室としてお迎えするのでしょう」
「はい。ただし、ほかの側室と同じ序列には置きません。太后の称号を保ち、王妃様に次ぐ第2位のお立場といたします。先帝の皇后であられ、長く宮中におられた方です。その歩みまで消す必要はございません」
臨安では、自分と太后を皇帝から奪うように求めた男だった。それなのに、迎えてからは以前の身分をことさらに踏みにじろうとはしなかった。王妃には、その態度が理解しにくかった。
「私たちを辱めるために、陛下へ要求したのではなかったのですか」
「陛下に今回のことを忘れていただかないために、お2方を求めたのは、以前申し上げたとおりです。ですが、妻としてお迎えした方を粗末に扱うつもりはございません。これからの暮らしには、私が責任を持ちます」
「妻に仕えるとおっしゃるのですね。ずいぶん勝手な方です」
「その点は申し開きできません。王妃様の前で、今さら立派な人間のふりをしても仕方がございませんから」
王妃の表情がわずかに緩んだ。笑ったわけではなかったが、臨安を出てから達也へ向け続けていた怒りが、少しだけ薄れた。
達也は室内へ目を向けた。
「お部屋や衣服、食事に不足があれば、お申し付けください。臨安からお連れになった女官の方々にも、そのままお仕えいただきます。見知らぬ土地へお連れしたうえ、身の回りの者まで取り上げるつもりはございません」
王妃は女官たちを見てから答えた。
「今のところ、不足はありません」
達也は承知したと礼をし、居所を出た。
◇ ◇ ◇
楊太后は部屋の奥に座り、女官たちが衣類を整理する様子を見ていた。達也が部屋に不足がないか確かめに来たと告げると、顔を上げた。
「私の望みをかなえるつもりなら、臨安へ帰してください」
「申し訳ございません。それだけはお聞きできません。それ以外のことでしたら、できる限りお応えいたします」
「肝心な願いを聞かぬのなら、不足を尋ねるまでもないでしょう」
太后は睨んだが、達也は態度を変えなかった。なおも「太后様」と呼びかけると、眉を寄せた。
「側室にした私を、いつまで太后と呼ぶつもりですか」
「これからも変えません。王妃様に次ぐ第2位のお立場として、お迎えしております」
「その話は女官たちから聞きました。ほかの妻たちは、不満を持つのではありませんか」
「私から説明いたします。太后様にお気遣いいただくことではございません」
太后は呆れたように達也を見た。
「何もかも、自分で決めるのですね」
「先ほど王妃様にも、勝手な男だと言われました。申し開きできないとお答えしたところです」
「王妃にも同じことを言われて、少しは省みようと思わないのですか。本当に変わった男ですね」
達也は褒められたとは受け取らず、頭を下げた。女官たちには今までどおり仕えてもらい、寝具や湯、衣服、食事に不足があれば屋敷の者へ申しつけてほしいと伝えた。
「私を側室にした男が、ずいぶん丁重に扱うものですね」
「妻としてお迎えした以上、粗末には扱いません」
「私がお前を嫌っていても、その態度を続けるのですか」
「それは太后様のお気持ちでございます。無理に変えていただこうとは思っておりません。これから、私がどのような男かを見ていただければ十分です」
太后はそれ以上答えなかった。達也もこの日は何も求めず、旅の疲れを取ってほしいと告げて居所を出た。
◇ ◇ ◇
翌朝、王妃は遠くから聞こえる馬の蹄の音で目を覚ました。まだ空が白む前だった。警備の兵の交代かと思ったが、音は何度も往復し、やがて弓弦の音まで聞こえてきた。
控えていた女官へ尋ねると、魯王が馬場で鍛錬しているという。毎朝の習慣だと聞き、王妃は上着を羽織って窓辺へ向かった。
夜明け前の空気には冷たさが残っていた。馬場では達也が馬を走らせ、馬上から離れた的へ矢を放っていた。1本目が刺さると、続けて2本、3本と射た。何度か回ったあと、別の馬へ乗り替えて再び走り始めた。
「昨日、長い旅を終えたばかりなのに。少しも疲れていないのでしょうか」
女官には答えられず、2人でしばらく馬場を眺めた。
同じ頃、楊太后も蹄の音を聞いて廊下へ出ていた。庭越しに見える達也は、騎馬と騎射を終えると地上へ降り、兵とともに弓を射た。その後は剣を使った鍛錬に移った。
女官から、戦から戻った時も朝の鍛錬は欠かさないと聞くと、太后は馬場へ目を戻した。
「よく身体が持つものですね」
達也は日の出まで続け、湯で汗を流して朝食を取った。そのまま政務の部屋へ入り、旅の翌日を休養に充てる様子はなかった。
◇ ◇ ◇
昼前、達也は開封から来た役人と、営造を担当する工匠たちを集めた。卓には新しい王府を建てる土地の図面が広げられていた。
候補地の調査は開封を奪った直後から進めていたが、達也が臨安へ向かったため、本格的な建設命令はまだ出していなかった。
「家族の居所だけでなく、政務と軍務に使う建物も要る。いま確保している土地で足りるのか」
「現在の案には十分な広さがございます。周囲をさらに整理すれば、敷地を広げることもできます」
「それなら広げておけ。後から足りなくなるより、最初に余裕を持たせた方がよい」
役人が別の図面を開いた。正殿、政務殿、軍議に使う建物、王妃の宮までは案ができていた。
「太后様の宮も別に造れ。王妃様が正妻であることは規模でも明らかにするが、太后様にも序列2位にふさわしい居所を用意する。どちらにも庭を付け、女官の居所は近くへ置くように」
達也は湯殿と冬の暖房も最初から計画へ入れるよう命じ、図面の端を指した。
「ここには馬場を造る。毎朝の鍛錬のために城外まで出なくて済むよう、騎射のできる広さを取れ。倉と厨房も小さくするな。家族だけでなく、女官、使用人、護衛、それに出入りする役人の数まで考えておけ」
役人たちは書き留めながら、必要な敷地を図面で確かめた。達也はさらに、水の供給と排水を先に整え、住み始めてから毎年直すような造りにしないよう念を押した。
役人の1人が図面から顔を上げた。
「これほどの規模ですと、皇宮と比べる者も出てまいりましょう」
「開封は北方支配の中心にする。王妃様と太后様が暮らし、家族も政務も軍務も集まる場所だ。それに見合うものを造ればよい」
達也は図面へ目を戻した。
「天下第一の宮殿にする。人も資材も増やせ。必要な金は出す」
集まった者たちは顔を見合わせた。工匠が完成時期を尋ねると、達也は3か月と答えた。
「その期間で、すべてを仕上げるのは難しゅうございます」
「まず住めるようにすればよい。王妃様と太后様の宮、政務を行う場所、厨房、湯殿、警備の設備を優先しろ。庭園や細かな飾りは後から仕上げればよい」
「それでしたら、人手を増やして進められるかと存じます」
「では、その段取りでかかれ」
会議を終えると、役人たちはその日のうちに開封へ戻る支度を始めた。
◇ ◇ ◇
夕食は王妃、楊太后、達也の3人で取った。卓には魚の蒸し物、鶏肉、青菜、豆腐、粥、果物が並んでいた。徐州の厨人には女官から好みを聞かせ、2人が食べ慣れた味に近づけさせてあった。
王妃が箸を置いたので、達也は口に合わなかったのかと尋ねた。十分食べたという返事に安心し、太后にも具合を確かめた。
「食事のたびに尋ねるつもりですか。私は子どもではありませんよ」
「もちろん存じております。ただ、こちらの暮らしに慣れていただくまでは、不自由がないか確かめたいのです」
太后は言い返しかけたが、達也が真面目に答えているため、そのまま箸を取った。王妃は昼に開封から来た者たちのことを尋ねた。
「新しい王府の打ち合わせでございます。準備は進めておりましたが、本日、建設を命じました」
「今ある建物では足りないほど、大きな王府が必要なのですか」
「はい。家族の居所と政務、軍務の場をそろえ、天下第一の宮殿にするつもりです」
王妃は達也を見つめ、楊太后も箸を止めた。
「王府でありながら、天下第一を目指すのですね。また私たちを理由になさるのですか」
「お2方に住んでいただくことも、理由の1つでございます」
「お前自身が、立派な宮殿へ住みたいだけではありませんか」
「もちろん、それもございます。広くて便利な方が、私自身も暮らしやすくなりますから」
太后は呆れた顔になったが、王妃の口元には笑みが浮かんだ。
「そこは否定なさらないのですね。本当に正直な方です」
「王妃様には、すでに私がどのような男か知られておりますので」
太后は2人を見比べた。
「王妃まで、この男に慣れるのが早すぎませんか」
「慣れたのではございません。少し呆れているだけです」
「それなら、私と同じですね」
達也は2人の言葉を聞きながら食事を続けた。
食後、席を立つ前に王妃へ向き直った。
「今夜は、お部屋へ伺います。ただ、旅のお疲れが残っているようでしたら、お申し付けください。今夜でなければならないとは考えておりません」
王妃の表情が変わり、太后も達也を見た。臨安を離れた時から、いずれ同じ床に入ることは分かっていた。正妻として迎えられた以上、名目だけの夫婦で終わるとは考えていなかった。
「今夜、お待ちしております」
王妃が答えると、達也は礼を述べた。太后はその姿に呆れたようだった。
「正妻の部屋へ行くのに、そこまで丁寧に礼を言う男も珍しいですね」
「王妃様にお迎えいただくのですから、当然でございます」
「本当に変わった男です」
「それは昨日も伺いました」
◇ ◇ ◇
約束の時刻になると、達也は王妃の居所へ向かった。女官が扉を開けると、王妃はすでに寝支度を終えていた。薄い衣を身につけ、長い髪を下ろしていた。
達也が頭を下げて入ると、王妃はもう夫婦なのに、いつまでそのように丁重にするのかと尋ねた。
「これからも変えるつもりはございません。正妻としてお迎えしたからこそ、礼を失いたくないのです」
達也がそばへ座ると、王妃はしばらく黙っていた。やがて、顔を向けて口を開いた。
「はっきり申し上げておきます。私はまだ、あなたを許しておりません。臨安で私を要求し、陛下に差し出させたこともです」
「お怒りであることは承知しております。それでも、正妻としてお迎えした気持ちは変わりません。これから夫として尽くしてまいります」
「困らせたと分かっているのなら、初めから求めなければよかったのです。それでも、お迎えしたこと自体は悪いと思っていないのでしょう」
達也は王妃を正面から見た。
「王妃様を困らせたことは、申し訳なく思っております。ですが、正妻としてお迎えしたことを後悔するつもりはございません」
「本当に勝手な方です」
「申し開きできません」
王妃はそれ以上言わず、達也を見つめていた。やがて灯火が落とされ、その夜、達也は王妃の部屋で朝まで過ごした。
◇ ◇ ◇
まだ空が明るくならないうちに王妃が目を覚ますと、隣に達也の姿はなかった。女官を呼んで尋ねると、少し前に馬場へ出たという。
昨夜は遅くまで眠っていなかった。それなのに、昨日と同じ時刻から鍛錬を始めている。王妃が言葉を失っている間にも、窓の外から蹄の音が聞こえてきた。
上着を羽織って窓辺へ行くと、達也は馬上から矢を放っていた。動きが鈍った様子もなく、馬を替えては再び走った。
「本当に、毎朝欠かさないのですね」
王妃は昨夜のことを思い返し、馬場を駆ける達也へ目を戻した。
「元気という言葉では足りませんね」
女官は答えに困り、頭を下げた。
◇ ◇ ◇
その夜、達也は楊太后の居所を訪れた。太后は姿を見るなり、昨夜は王妃のもとへ行き、今夜は自分のところへ来たのかと尋ねた。
「政務や軍務で難しい日を除いて、お2方のお部屋へ交互に伺いたいと考えております」
「朝は馬に乗り、昼は仕事をし、夜は妻の部屋へ通う。いつ休むつもりなのです」
「夜はきちんと休んでおります」
「本当に休んでいると言えるのでしょうか」
達也は答えず、少し笑った。太后はその顔を見て眉を寄せ、王妃が何か言っていなかったかと尋ねかけたが、途中でやめた。
「もう結構です」
顔を背ける太后へ、達也は一礼した。
「今夜は、こちらでご一緒させていただきます」
「側室の私にまで、そのように丁寧に言うのですね」
「太后様であることに変わりはございませんから」
「本当に面倒な男です。謝りながらも、私を迎えたことは後悔していないのでしょう。王妃にも同じように言ったのではありませんか」
達也がそのとおりだと答えると、太后は呆れてしばらく黙った。
「好きになさい」
「ありがとうございます」
「だから、そのたびに礼を言わないでください」
達也はそれ以上言わず、その夜も太后の部屋で朝まで過ごした。
◇ ◇ ◇
楊太后は、夜が明けきらないうちに蹄の音で目を覚ました。隣に達也はおらず、呼び寄せた女官に確かめると、すでに馬場へ出たという。
「昨夜あれだけ……」
太后は言いかけて口を閉じた。女官も何も言わなかった。
上着を羽織って窓辺へ向かうと、達也は騎射を始めていた。王妃の部屋で過ごした翌朝も、その前の朝も同じだった。夜にどれほど起きていても、朝の鍛錬には影響しないらしかった。
「天下の将軍というのは、皆あのようなものなのですか」
「私にも分かりません。あのような方は、初めて拝見いたします」
太后は馬場へ目を戻した。臨安にいた時、達也は大軍を率いて都へ迫る恐ろしい男だった。徐州では、その軍を率いる本人の暮らしを間近に見ていた。
夜明け前から鍛え、朝食を終えると政務に入り、兵や馬のことまで自分で確かめる。夜は王妃と太后の部屋へ交互に通い、翌朝にはまた馬場へ出る。その身体と規則正しい鍛錬が、金軍を何度も破ってきた力の一端なのだろうと感じた。
許したわけでも、好意を抱いたわけでもなかった。それでも、臨安で想像していた男とは違うことは認めざるを得なかった。
◇ ◇ ◇
開封では、新しい王府の工事が本格的に始まっていた。人夫が集められ、石材、木材、瓦、鉄材が次々と運び込まれた。王妃と太后の宮は、ほかの建物に先んじて工事へ入った。
徐州で2人を休ませる3か月の間に、まず暮らせるところまで仕上げる。それが達也の命令だった。
徐州の屋敷でも、新しい暮らしが日々繰り返されていた。達也は王妃を正妻として扱い、太后への礼も崩さなかった。朝の鍛錬と昼の政務、軍務を続け、夜には2人の居所を交互に訪れた。
王妃も太后も、まだ達也を許してはいなかった。それでも、女官たちが衣類を収め、屋敷の者が食事の好みを覚えていくにつれ、ここでの暮らしが一時の滞在ではないことを実感し始めていた。




