第8話(後編2)「皇帝が差し出したもの」
(1225年3月下旬、南宋・臨安)
会談を終えた趙昀が宮城へ戻った時には、すでに夕方になっていた。城門を閉じる音が響き、城壁では夜警の兵が交代を始めていた。趙昀はそのまま重臣を集め、史弥遠も同席する中、魯王の要求を伝えた。
史弥遠を処刑し、兵権回収を進めた中心人物も処分する。そのうえで皇后を魯王の正妻として渡し、楊皇太后も側室として差し出す。拒めば戦うという要求に、会談へ同行しなかった重臣たちは言葉を失った。
「陛下、魯王は本当にそのようなことを申したのでございますか」
「余が聞き違えたと思うか」
尋ねた重臣が口を閉じると、史弥遠が立ち上がった。
「もはや迷う必要はございません。魯王は朝廷そのものを踏みにじろうとしております。臨安周辺の諸軍を集め、各地へ勤王の命を発してください。都を守って時間を稼げば、援軍が参ります」
「何人を、何日で集められる。魯王が返答を待つのは明日の昼までだぞ」
史弥遠が答えをためらうと、趙昀は卓上の軍報を示した。
「進軍を止めろと命じた軍の中には、戦わず道を開けた者がいる。戦った軍は敗れた。それでも、命令すれば兵が集まると言い切れるのか」
「全軍を集めれば、事情は変わります」
「だから、その数と日数を聞いている」
史弥遠は答えられなかった。趙昀は別の重臣に、臨安で今すぐ動かせる兵で魯王軍を破れるかと尋ねたが、その者も確かな見通しを示せなかった。
「魯王は、戦って負ければもっと取ると言った。要求を呑めば皇帝の威信が損なわれるが、負ければ皇位まで失う恐れがある」
「だからといって、脅しに屈してはなりません」
「お前は戦えと言うばかりだな。それなら、自ら軍を率いて魯王を討て」
史弥遠の顔色が変わった。
「臣は文官にございます。軍を率いるのは将の務めです」
「その将たちが勝てるかと聞いても、お前は答えぬ。討つべきだと言い続けるなら、自分で行けばよい」
史弥遠は返事をしなかった。倉達也は自ら軍を率い、開封から臨安まで来ていた。一方、史弥遠は宮中で討伐を主張しながら、それを実行する見通しを示せずにいた。
趙昀はその日の協議を打ち切り、明朝もう一度集まるよう命じた。史弥遠はなおも呼び止めた。
「臣の命など惜しくはございません。しかし、皇后と皇太后まで渡されれば、天下に何と申されましょう。返答なさる前に、どうかお考え直しください」
「お前の命が惜しくないなら、話は早いな。今日はもう下がれ」
史弥遠はそれ以上言えなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、趙昀は皇后のもとを訪れた。皇后は、昼に皇帝が城外で魯王と会ったことまでは知っていたが、会談の内容は聞かされていなかった。
「魯王とは、どのようなお話になったのでございますか。戦になるのでしょうか」
「まだ決めておらぬ。魯王は史弥遠の処刑を求めたが、それだけではなかった」
趙昀が言葉を止めると、皇后は続きを待った。
「お前を渡せと言った。自分の正妻にするつもりだ」
皇后はしばらく動かず、趙昀の顔を見ていた。言葉の意味を理解すると、椅子から立ち上がった。
「私は陛下の皇后です。魯王が望んだからといって、渡せるものではございません。お断りください」
趙昀は答えなかった。その沈黙を見て、皇后の声が弱まった。
「お断りになれないのでございますか」
「拒めば南宋と戦うと言っている。そのために軍を連れてきたのだ」
「戦って、勝てるのでしょうか」
「分からぬ。途中で朝廷の軍を破り、戦わず道を開けさせたところも多い。余が命じても、全ての軍が本気で魯王と戦うかどうか、確かではない」
皇后は座り直し、両手を膝に置いた。
「私を渡せば、軍を引くのですね」
「史弥遠たちを処分し、さらに楊皇太后も渡すよう求めている。皇太后は側室にするという」
皇后は言葉を失った。自分だけでなく、先帝の皇后まで要求しているとは思わなかった。
「そこまでして陛下を辱めたいのですか」
「それも目的の1つだと認めた」
「それでも、お受けになるおつもりなのでしょうか。私は行きたくありません」
趙昀は皇后から目をそらさなかった。
「まだ決めておらぬ。お前の気持ちも分かっている。だが、余は妻を守るために南宋を戦へ入れてよいのかも、考えなければならない」
皇后は口を閉じた。趙昀が国を預かる立場であることは分かっていた。しかし、自分にとっては、望んでもいない男へ妻として渡されるという話だった。国の事情を説明されても、それで受け入れられるものではなかった。
「返答は明日の昼までだ。それまでに余が決める」
「私は、陛下のお決めになったことに従うしかないのでしょうか」
顔を伏せた皇后に、趙昀は答えられなかった。
◇ ◇ ◇
楊皇太后は、趙昀が訪れる前に、会談で史弥遠の処刑を求められたらしいと聞いていた。皇帝が部屋へ入ると、その件をどうするつもりかと尋ねた。
「お答えする前に、要求の全てをお伝えしなければなりません。魯王は皇后を自分の正妻として渡すよう求めました。それに、皇太后も側室として迎えると申しております」
楊皇太后は、すぐには意味を理解できなかった。趙昀が自分を指していると分かると、怒りをあらわにして立ち上がった。
「私は先帝の皇后であり、南宋の皇太后です。その私を魯王の側室にするなど、ふざけるにもほどがあります。お断りなさい」
女官たちが驚いて身をすくめた。趙昀は声を荒らげずに答えた。
「断れば戦になります。勝てる保証はありません」
「だからといって、皇后と皇太后を臣下へ差し出す皇帝がどこにおります。魯王1人に屈するくらいなら、戦えばよいではありませんか」
「負けて南宋を失う方がよいと、お考えですか」
「あのような男に屈するよりはましです」
趙昀は何も言わなかった。楊皇太后はさらに言い募ろうとしたが、その顔を見て言葉を止めた。
「陛下は、要求を受けるおつもりなのですか」
「まだ決めておりません」
「史弥遠は何と申しているのです」
「戦うべきだと。それなら自ら軍を率いるよう命じましたが、文官だからできないと答えました」
楊皇太后の表情が変わった。趙昀は続けた。
「魯王は金軍と何度も戦い、ここまで自分で兵を率いて来ました。史弥遠は余に戦えと言いながら、自分では戦いません。勝つための見通しも示せないのです」
「それでも、あの要求を受けてよい理由にはなりません」
「分かっております。ですが、決めるのは余です。明朝には答えを出します」
趙昀は立ち上がった。楊皇太后は呼び止めたが、皇帝の考えを変えさせる言葉は出なかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、空が明るくなる前から宮中では人が動いていた。趙昀は重臣を集め、史弥遠にも一晩考えた末の意見を求めた。
「戦うべきでございます。都を守りながら各地へ勤王を命じ、兵を集めれば、必ずや魯王を退けられます」
「必ず勝てるのだな」
史弥遠は言葉を止めた。
「陛下、戦に必ずということはございません」
「ならば、南宋そのものを賭けることになる」
「ここで屈すれば、皇帝の権威が失われます」
「お前を守るために国を賭けよと言うのか」
「臣ではなく、朝廷を守るために申し上げております」
趙昀は史弥遠を見据えた。
「昨日、自分の命は惜しくないと申したな。お前が死ぬことで朝廷を守れるなら、異存はないはずだ」
史弥遠が口を開きかけると、趙昀は立ち上がり、護衛に捕縛を命じた。兵が近づいても、史弥遠はすぐには動かなかった。
「陛下、まさか魯王の要求をお受けになるのですか」
「余は魯王と戦わぬ」
「なりません。それでは、あの男の思うままです」
兵に両腕を押さえられると、史弥遠は身をよじって抵抗した。
「臣は長年朝廷に仕えてまいりました。先帝にお仕えし、陛下の即位にも力を尽くしました。それをお忘れでございますか」
「忘れてはおらぬ。だが、お前は魯王から兵を取り上げようとし、その結果、軍が臨安まで来た」
「魯王が逆賊だからでございます」
「どう呼ぼうと、今は都の前にいる。そして、お前には追い払えない」
趙昀が連れ出すよう命じると、史弥遠は最後まで考え直せと叫んだ。
「魯王に屈すれば、今後も要求され続けますぞ」
趙昀は答えず、兵が史弥遠を連れ去るのを見ていた。その後、兵権回収を進め、魯王討伐を働きかけていた者たちの取り調べを命じた。史弥遠については、その日のうちに処刑するよう命令した。
◇ ◇ ◇
昼前、臨安からの使者が魯王軍の本陣へ到着した。達也は耶律玉蘭とともに返答を待っていた。
「陛下は、魯王殿下との戦を望まれません。史弥遠はすでに捕縛され、処刑も命じられております。兵権回収を進めた者についても、関わりを調べて処分なさるとのことです」
使者はそこで言葉を止め、改めて続けた。
「皇后は位を解かれ、魯王殿下のもとへお送りすることになりました。楊皇太后も同じく、こちらへお越しになります」
玉蘭は全ての条件が受け入れられたことを確かめ、達也を見た。達也は使者に、皇帝との再会が可能かと尋ねた。
「陛下も正午前に、改めてお会いになりたいとのことです。ただし、軍を都へ入れないよう、重ねて求めておられます」
「承知した。約束が守られるのであれば、軍を臨安へ入れる必要はない。こちらから戦を始めることもないとお伝えしてくれ」
使者が去ると、玉蘭はようやく終わったと言った。達也は、まだ確認すべきことが残っていると答えた。
「皇后様と皇太后様をお迎えするまでは、終わったとは言えん。お二方にとっても大きなことだからな」
「お迎えしたあとは、どのようになさるおつもりですか」
「正妻と側室として迎えるが、今までの立場を忘れろとは言わない。望んで俺のところへ来るわけではないのだから、怒るのも当然だ」
玉蘭は達也を見た。ここへ来るまでは2人を「取る」と言っていたが、実際に迎える段階になると、呼び方も言葉遣いも変わっていた。
「お気持ちを受け止められるのですね」
「だからこそ、粗末には扱わん」
◇ ◇ ◇
正午前、前日と同じ場所で会談が開かれた。趙昀のそばに史弥遠の姿はなく、達也は玉蘭を伴って席に着いた。
「史弥遠は捕らえ、処刑を命じた。お前から兵権を取り上げようとした者も調べさせる」
「ご決断、承知いたしました。ほかの者については関わりを十分に調べ、陛下のお考えで処分なさってください」
趙昀は達也の顔を見たあと、皇后と楊皇太后も渡すと告げた。達也は頭を下げ、自分が責任を持って迎えると答えた。
「これで満足か」
「お約束を全てお守りくださるのであれば、これ以上を求めるつもりはございません」
「余は皇帝のままでよいのだな」
「もちろんでございます。皇位を奪うために参ったのではございません」
「お前に許されて皇帝を続けるようで、気分のよい言葉ではないな」
趙昀の顔には疲れがにじんでいた。達也はそのような意味ではないと断り、今後について話した。
「私の兵や軍馬を取り上げようとなさらず、北方の軍務は現地を預かる私の判断を尊重していただきたいのです。私も陛下を皇帝としてお支えいたします。金軍と戦い、南宋の領土を広げることがお役に立つのであれば、それを続けます」
「余が北方を任せておけば、今後は弓を引かぬと約束するのか」
「はい。私の軍へ無理に手を入れようとなさらない限り、陛下に敵対するつもりはございません。皇位も狙いません」
趙昀は椅子へ深く腰を下ろした。戦は避けられたが、受けた屈辱が消えるわけではなかった。達也も今回のことを忘れさせるつもりはなかった。ただ、条件が受け入れられた以上、さらに侮辱を重ねる必要はない。これからも皇帝として遇することを、言葉と態度で示した。
◇ ◇ ◇
午後になると、臨安の城門から2台の馬車が出てきた。前後を南宋兵に守られ、魯王軍の陣へ向かってくる。達也と玉蘭は本陣の前で到着を待った。
最初の馬車から降りたのは、24歳の皇后だった。すでに位を解かれたと告げられており、顔色は悪かったが、背筋を伸ばして達也の前に立った。
達也は深く礼をした。
「倉達也でございます。このような形でお迎えすることになり、さぞご不快であろうと存じます」
「あなたが魯王ですか。私は陛下の皇后です」
「承知しております。陛下からは、本日をもって皇后の位を解き、私の正妻として迎えるよう仰せつかりました。ただ、これまでのお立場を軽んじるつもりはございません」
皇后は顔をこわばらせた。
「陛下は、本当に私をあなたへ渡されたのですね。私は望んでおりません。それでも妻になれとおっしゃるのですか」
「今すぐ私を夫として受け入れていただけるとは思っておりません。しかし、正妻としてお迎えする以上、粗略には扱いません。これまでのお暮らしやお立場にも、できる限り配慮いたします」
「それほど気を遣うのであれば、なぜ私を求めたのです」
「陛下に、今回のことを忘れていただかないためでございます」
「そのために私を使ったのですね」
「否定はいたしません」
達也は再び頭を下げた。
「皇后様にとって、納得できる理由ではないことも承知しております。これからどのようにお仕えするかを、見ていただくしかございません」
「私を妻にしておきながら、仕えるとおっしゃるのですか」
「正妻としてお迎えするからこそでございます。私の妻になることで、これまでの皇后様まで失われるわけではありません。敬意を欠くつもりはございません」
皇后は意外そうに達也を見たが、返事はしなかった。
2台目の馬車から楊皇太后が降りると、達也はそちらへ向き直り、深く礼をした。楊皇太后は名乗りを聞くなり、怒りをぶつけた。
「お前が倉達也か。先帝の皇后である私を側室にするなど、許されると思っているのか」
「お怒りはごもっともでございます。ただ、陛下とはその条件で約定いたしました。皇太后様は、私の側室としてお迎えいたします」
「脅して言わせたのであろう」
「はい。そのことについて、申し開きはいたしません」
達也が否定せずに答えると、楊皇太后はさらに声を強めた。
「恥を知れ。私は史弥遠に、お前から兵を奪えなどと命じておらぬ」
「皇太后様ご自身が、その命令をお出しになったとは考えておりません。ただ、陛下に魯王を詔へ従わせるべきだとお勧めになったとは伺っております」
「それでも、私を側室にする理由にはならぬ」
「そのとおりでございます」
楊皇太后は、かえって言葉を詰まらせた。
「では、なぜ私まで求めたのだ」
「陛下に、私と争えば何を失うかを忘れていただかないためです」
「私を物のように扱うつもりか」
「要求の際には、差し出していただく条件として申し上げました。しかし、実際にお迎えした以上、1人の妻として敬意を払います」
楊皇太后は達也を睨んだ。
「私は、お前の側室になるとは認めぬ。宮中へ帰しなさい」
「それはできません。陛下との約定でございます。ただ、今すぐお気持ちを変えていただこうとは思っておりません。私へのお怒りも、そのままで結構です」
達也は相手の言葉を遮らず、礼を保って答えた。
「無理に機嫌を取っていただく必要も、私を好いていただく必要もございません。これからのお暮らしは私が責任を持ってお支えします。先帝の皇后であった方として、また私の妻となる方として、決して軽んじません」
楊皇太后は、罵れば言い返してくる男を想像していた。目の前の達也は要求を撤回しようとはしなかったが、怒りに怒りで応じることもなかった。
「どこへ連れていくつもりです。私の女官たちはどうするのですか」
「まず徐州へお越しいただきます。お連れになりたい方には、可能な限り同行していただきます。皇后様も同じでございます」
皇后が顔を上げ、自分に仕える者も連れていけるのかと確かめた。達也は、身の回りのことまで全て見知らぬ者に替えれば不自由するだろうと答え、護衛へ指示を出した。
「お荷物は丁重に扱い、お二方の許しなく中を開けるな。道中の休憩も、軍の都合だけで決めるな。体調を確かめながら進めるように」
「承知しました」
達也は2人へ向き直った。
「長い道になります。不足がございましたら、お申し付けください。臨安での用件は終わりましたので、軍は北へ戻します。まず徐州へ向かう予定でございます」
皇后と楊皇太后は、その説明を聞いていた。達也は臨安の城壁へ目を向け、皇帝が約束を守る限り、自分も南宋へ兵を向けないと告げた。
◇ ◇ ◇
夕方、史弥遠の処刑が執行されたとの知らせが届いた。達也は報告に間違いがないことを確かめ、玉蘭に翌朝の撤収準備を命じた。
「陛下は全て実行なさいました。相当な屈辱だったでしょうね」
「だからこそ、こちらも約束を守らなければならん。明朝には出るつもりだが、お二方の支度が整うかを先に確かめろ。無理はさせるな」
玉蘭は達也を見た。
「臨安へ来る途中では『取る』とおっしゃっていたのに、ずいぶん丁重に扱われますね」
「迎えることと、粗末に扱うことは別だ。正妻と側室にすると決めた以上、これからは俺が責任を持つ」
◇ ◇ ◇
翌朝、魯王軍は臨安郊外の陣を畳んだ。荷車を並べ、馬をつなぎ、兵は順番に北へ向かった。宋の旗は掲げたままで、城壁の上では多くの南宋兵が見送っていた。都の外に陣を置いていた軍は、城を攻めることなく引き揚げていった。
達也は馬上から臨安を振り返った。隣には玉蘭が並び、後方では皇后と楊皇太后を乗せた馬車が、護衛に囲まれて進んでいた。達也は時折そちらへ目を向け、隊列から遅れていないことを確かめた。
「これで、朝廷は達也様の兵に手を出さなくなるでしょうか」
「少なくとも今の陛下は、取り上げようとすれば何を失うか、忘れないだろうな」
玉蘭は後ろの2台の馬車を見た。
「皇后様だけでなく、皇太后様までお迎えするとは思いませんでした。次からは、先に教えてください」
「それは考えておく」
「また教えてくださらない時のお返事ですね」
達也は笑い、馬を前へ進めた。臨安には趙昀が皇帝として残り、史弥遠は処刑され、兵権回収や魯王討伐を進めた者たちも処分されることになった。皇位を奪わず、南宋を滅ぼすこともなく、達也は皇帝に自分の兵権を認めさせた。
ただ、後ろの馬車にいる2人は、自ら望んで同行しているのではなかった。達也はそれを承知していた。臨安へ来た目的は果たしたが、これからは妻として迎えた2人の暮らしを引き受けなければならない。これまでの身分にふさわしい敬意を払い、自分のもとへ来たことを後悔させないようにするつもりだった。




