第8話(後編1)「俺と戦って滅ぶか」
(1225年3月下旬、南宋・臨安郊外)
朝から空を覆っていた雲は、昼を過ぎても晴れなかった。臨安の城壁が見えるところまで来ると、倉達也は全軍を止め、城から離れた広い場所に陣を置かせた。騎兵も歩兵も部隊ごとに配置し、城門や城壁へ不用意に近づくことを禁じた。
すぐに城攻めを始める配置ではなかったが、臨安側の警戒は厳しかった。城門は閉ざされ、城壁には多くの兵が並び、楼上にも弓兵が配置されていた。
達也は馬上から城壁を眺めた。
「大きな都だな。ここを攻めるとなれば、面倒な戦になりそうだ」
「攻められるおつもりはないのでしょう」
隣の耶律玉蘭に尋ねられ、達也は「今はな」と答えた。玉蘭は、その言い方を臨安の者には聞かせられないと指摘したが、達也は聞かせる必要もないと返し、指揮官を呼んだ。
「陣の設営を進めろ。斥候は出すが、門前まで騎兵を走らせるな。それから皇帝へ使者を送る。俺が着いたので、本人と話したいと伝えさせろ」
指揮官が下がると、玉蘭は使者に条件も伝えさせるのかと確かめた。
「史弥遠の引き渡しについては、お会いになってからお話しになるのですか」
「ああ。ほかの条件も、その場で言う」
「ここまで参りました。私にも、そろそろ教えていただけませんか」
達也は了承し、馬を下りた。兵に手綱を渡して、玉蘭と設営途中の本陣へ入り、用意された卓を挟んで腰を下ろした。
「史弥遠は殺す。それに、俺から兵権を取り上げようとした連中も、中心にいた奴は処分させる」
「そこまでは分かります。ほかには何をお求めになるのですか」
「皇后をもらう。俺の正妻にする」
玉蘭は達也の顔を見つめた。
「陛下の皇后を、達也様の正妻になさるとおっしゃるのですか。正気とは思えない条件でございます」
「正気だ。史弥遠を処刑するだけでは、皇帝自身は何も失わずに済む」
「ご自分の妻まで奪われれば、達也様に逆らった代償を忘れられなくなる。そのためなのですね」
達也が認めると、玉蘭は顔を曇らせた。宰相を処刑させる以上に、皇帝を辱める要求だった。だが、達也はそれで話を終えなかった。
「それから、楊皇太后ももらう。こちらは側室にする」
「先帝の皇后で、今は南宋の皇太后でございますよ。皇后とは立場もお年も大きく違います。それも承知のうえで、お求めになるのですか」
「もちろん承知している」
玉蘭はしばらく返す言葉を見つけられなかった。
「やはり、ろくでもないことを考えておられましたね。ここまでとは思いませんでした」
「驚いた顔を見られたから、黙っていた甲斐があった」
「私を驚かせるために、ここまで隠しておられたのですか」
「半分はな。あとは、口に出すのは臨安へ着いてからで十分だと思っていた」
玉蘭は呆れたが、今は条件を確かめる必要があった。
「陛下が一部だけを認められた場合は、どうなさいますか。史弥遠を処刑しても、皇后と皇太后は渡さないとおっしゃるかもしれません」
「全部まとめて条件だ。受け入れなければ戦う。ここまで来て、史弥遠1人の首をもらって帰るつもりはない」
達也は卓に片腕を置き、臨安の方角へ顔を向けた。
「俺から兵を取り上げようとすれば、宰相の首だけでは済まない。皇帝自身も大事なものを失う。そこまでしなければ、また同じことを考えるだろう」
「忘れはなさらないでしょうが、相当恨まれますよ」
「好かれるために来たわけじゃない」
玉蘭はそれ以上反対しなかった。史弥遠の排除は、達也の目的の一部にすぎなかった。趙昀に臣下として自由に扱える相手ではないと認めさせ、その関係を今後も変えさせないために、達也は軍を率いてここまで来たのだった。
◇ ◇ ◇
達也の使者が臨安へ入ると、宮中には重臣たちが集められた。皇帝趙昀は魯王軍の位置を確かめ、城壁から離れて陣を置き、包囲する動きもないと聞いた。
「見せかけにございます。陛下、城門を開いてはなりません」
史弥遠が口を挟んだが、趙昀は答えず、使者に用件を述べさせた。
「魯王殿下は、陛下との直接の会談を求めておられます。条件は、その場で申し上げるとのことでございます」
「会談の場所は、どこを望んでいる」
「城内へ軍を入れることは求めておりません。城外で、双方の軍から離れた場所を定めていただきたいとのことです。史宰相のおられる城内へ、少数の供だけで入るつもりはないと申されました」
史弥遠の顔がこわばった。
「臣を奸臣と決めつけ、今度は陛下に城外へ出よと求める。朝廷を侮るにもほどがございます。会談など不要です。諸軍を集め、直ちに討つべきでございます」
「その軍を集めれば、魯王に勝てるのか。余は前にも聞いたが、お前は答えなかった」
「兵を集めれば戦えます」
「戦えるかではなく、勝てるかと聞いている」
史弥遠が答えに詰まると、趙昀は使者へ向き直った。
「余は魯王と会う。ただし護衛を付け、魯王側も同じ数にそろえる。場所は城外とし、双方の軍から離れたところを選べ」
「承知いたしました」
史弥遠はなおも考え直すよう求めた。
「城外へ出られては危険です。魯王の脅しに応じたことにもなります」
「余は、何を求めてここまで来たのかを本人から聞く。お前は相手の要求も確かめず、戦を始めよと言うのか」
「魯王はすでに詔に背いております」
「それは何度も聞いた。会うかどうかは余が決める」
史弥遠が黙ると、趙昀は同行も命じた。
「お前も来い。魯王が『君側の奸』と呼んでいるのはお前なのだろう。その前で何を言うのか、ともに聞こうではないか」
◇ ◇ ◇
翌日の昼、臨安城外に会談の場が設けられた。双方の陣から離れた場所に簡素な天幕を張り、中には卓と椅子を置いた。趙昀が護衛と史弥遠を伴って到着すると、ほどなく達也も玉蘭と護衛を連れて現れた。剣は帯びていたが、鞘に収めたままだった。
達也は趙昀の前へ進み、皇帝に対する礼を取った。
「魯王倉達也、陛下にお目通りいたします」
趙昀は、顔を上げるよう命じた。詔に従わず軍を率いて来た男が、目の前では臣下として礼を尽くしている。勅使から聞いていたとおりだった。
席に着くと、趙昀は返書について尋ねた。
「余に逆らうつもりはないと書いていたな。それなら、なぜ兵を戻せという詔に従わなかった」
「兵を戻し、少数の供だけで来いと言われても、俺には従えん。陛下の周りには、俺から兵を取り上げようとしている奴がいる」
達也が史弥遠へ目を向けると、宰相は声を荒らげた。
「まず陛下への口の利き方を慎め。陛下の軍を陛下の管理下へ戻すことの、どこが悪い」
「俺が宿州を守り、徐州を取り返し、帰徳府、曹州、開封まで取る間、お前は何をしていた。臨安で軍馬を数え、取り上げる相談をしていたんだろう」
「魯王が兵を持ちすぎたからだ」
「だから、俺はここまで来たんだ」
趙昀が史弥遠を制し、自分が話すと告げた。達也も皇帝へ向き直った。
「史弥遠だけを殺したいなら、軍を連れて臨安まで来る必要はなかった。俺は陛下と話をつけに来た」
「何について決めるというのだ」
「俺と陛下の力関係だ。皇帝になりたいわけではないし、陛下の皇位もいらん。ただ、俺の兵と軍馬へ勝手に手を出すことは認めない」
史弥遠は、臣下が皇帝との力関係を口にするなど無礼だと怒鳴った。達也は相手にせず、趙昀を見ていた。
「それだけを求めるために、都まで来たのか」
「それだけなら、ここまで来ていない。俺を敵に回したらどうなるか、陛下には覚えてもらう」
「余を脅すつもりか」
「そうだ」
史弥遠が立ち上がり、達也が自ら皇帝への脅迫を認めたと叫んだ。
「座っていろ。お前の話は後だ」
「貴様、臣下の分際で――」
「史弥遠、座れ。余が続きを聞く」
趙昀に命じられ、史弥遠は怒りを押さえて席へ戻った。達也は卓に手を置いた。
「陛下には、俺と戦うか、条件を呑むかを選んでもらう」
「戦うと答えれば、南宋そのものを敵にするのだぞ」
「承知している。俺と戦って南宋ごと滅ぶことになっても構わないというなら、受けて立つ」
史弥遠は、脅しに屈してはならないと訴えた。達也は宰相を指した。
「こいつは簡単に言う。自分は戦わないからな。陛下は、俺がここまで来る間の報告を受けているだろう。道を開けた軍も、攻撃してきた軍もあった。攻撃してきた軍は退けた。それで今、俺はここにいる」
趙昀は黙って聞いていた。達也はさらに続けた。
「北には開封、帰徳府、曹州、徐州があり、軍馬も5万頭いる。俺の兵は金軍と何度も戦ってきた。その軍と、史弥遠がこれから集める軍が戦えば、どちらが勝つと思う」
「戦ってみなければ分からぬ」
「そのとおりだ。俺も兵を失うし、面倒な戦になるかもしれん。だが、陛下が負けた時に失うのは兵だけではない」
趙昀には、皇位も都も、国そのものも失う恐れがある。達也はその返答を待ってから、改めて尋ねた。
「それでも戦うつもりか。それとも、先に条件を聞くか」
「条件を申せ」
史弥遠が声を上げかけると、趙昀は「聞くだけだ」と制した。達也は椅子に座り直し、最初の要求を告げた。
「まず史弥遠を捕らえろ。俺から兵権を取り上げようとした連中も調べ、中心にいた者は処分する」
「宰相を罷免すればよいのか」
「史弥遠は処刑だ」
史弥遠は再び立ち上がった。
「陛下、この逆賊を今すぐ捕らえさせてください」
「やってみろ。俺を捕らえるなら、外の軍にも知らせた方がいいぞ」
達也に言われ、史弥遠は口を閉じた。天幕の外には双方の護衛がおり、離れた場所には魯王軍が控えていた。ここで達也を捕らえれば、そのまま戦が始まる恐れがあった。
達也は趙昀へ視線を戻した。
「これが1つ目だ。次に、皇后を俺へ渡せ。俺の正妻にする」
趙昀は言葉を失った。史弥遠も、すぐには反応できなかった。玉蘭だけが、前日に聞かされた要求を黙って聞いていた。
「余の妻を、お前の正妻にするだと」
趙昀が立ち上がると、達也は座って聞くよう求めた。
「まだ終わっていない。楊皇太后も渡せ。こちらは側室にする」
「先帝の皇后であり、今は皇太后として朝廷を支えておられる方だぞ。それを承知で申しているのか」
「承知している」
天幕の中が静まり返った。史弥遠でさえ、次の言葉が出なかった。玉蘭は前日に聞いていなければ、自分も同じように驚いていただろうと思った。
趙昀は達也を睨んだ。
「余を辱めるために、妻と皇太后を求めるのか」
「それもある。皇后を俺の正妻にし、楊皇太后も側室に迎えれば、陛下は今回のことを忘れないだろう。次に俺から兵を取り上げようと考えた時、何を失ったか思い出すはずだ」
達也は趙昀から目をそらさなかった。
「史弥遠だけを殺しに来たのではないと、最初に言っただろう」
「そのような条件を、余が呑むと思うのか」
「呑むと思うかどうかではない。陛下が選ぶんだ。俺と戦うか、史弥遠たちを処分し、皇后と楊皇太后を渡すかだ」
趙昀は怒りをこらえながら、達也を見つめた。達也は返答を急かさず、椅子から立った。
「今日ここで決めなくてもいい。明日の昼まで待つ」
史弥遠が、考える必要などないと叫んだ。
「これは反逆でございます。直ちに討伐をお命じください。この者の要求を受け入れてはなりません」
「自分の首がかかっているから必死だな」
達也に言われても、史弥遠は趙昀への訴えをやめなかった。趙昀は宰相を見たあと、達也へ問い返した。
「明日の昼までに返事をしなければ、どうするつもりだ」
「戦う方を選んだと受け取る」
「余は皇帝だ。臣下に、このような選択を迫られるいわれはない」
「ならば、自分の軍で俺を討てばいい。勝ったら俺の首を城門に飾れ。ただし、負けた時は今よりもっと取る」
趙昀は答えなかった。達也は玉蘭に帰ると告げ、皇帝へ礼を取った。
「陛下、明日の昼までに返事をくれ」
趙昀は引き止めず、達也と玉蘭は天幕を出た。外で待っていた護衛と合流して馬に乗り、自軍の陣へ戻っていった。
残された趙昀は、史弥遠とともに臨安へ帰らなければならなかった。城内には24歳の皇后がおり、先帝の皇后だった楊皇太后もいる。達也が求めたのは、兵権の承認だけではなかった。宰相を処刑し、皇后と皇太后を渡すか、それを拒んで戦うかを、翌日の昼までに決めなければならなかった。




