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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第8話(中編2)「戦わずに通る軍」

 (1225年3月中旬、南宋・臨安(リンアン))


 勅使が戻った翌朝、宮中では再び魯王軍への対応が話し合われた。皇帝趙昀(ジャオ・ユン)の前には、新たに届いた軍報が並んでいた。魯王軍は勅使を帰したあとも南下を続けていたが、沿道の州県を攻めたという報告はなかった。


 宰相史弥遠(シー・ミーユエン)は、軍報を読み終えた皇帝に進軍の阻止を求めた。

「陛下、魯王は詔を拒みました。これ以上、自由に進ませてはなりません。沿道の軍に命じ、街道を塞がせるべきでございます」

「魯王が退かなければ、戦になる。その時はどうするつもりだ」

「勅命に従わぬ者を通す理由はございません。魯王が攻撃すれば、その時こそ反逆は明らかになります」

「余が聞きたいのは、反逆と呼べるかどうかではない。実際に戦った場合の話だ」


 趙昀の声に苛立ちが混じった。史弥遠が口を閉じると、卓上の軍報を1枚取り上げた。

「魯王は金の大軍を野戦で破り、開封(カイフォン)も取った。その軍を街道で止めろと言うのだろう。現地の将軍に、勝てる見込みはあるのか」

「朝廷の命であれば、従わせなければなりません」

「命令だけで勝てるなら、苦労はせん」


 重臣たちは口を挟まなかった。史弥遠が進軍を止めたい理由は分かる。しかし、実際に魯王軍の前へ兵を並べ、戦うかどうかを決めるのは現地の将軍だった。


 趙昀はしばらく考えてから命じた。

「沿道の軍には、魯王軍を止めるよう伝えよ。まず詔に従って退くよう求め、それでも進むなら道を塞げ。ただし、こちらから先に攻撃してはならぬ」


 史弥遠は喜びかけた顔を曇らせた。

「それでは、魯王に押し切られる恐れがございます」

「では、お前は何を望んでいる。魯王に先に斬りかからせたいのか。それとも、こちらから戦を始めたいのか」

「臣は陛下の威信を守るために申し上げております」

「ならば、余の命令どおりにせよ」


 史弥遠は頭を下げ、その日のうちに、魯王軍が通る可能性のある各地へ命令が送られた。進軍を阻止しなければならないが、先に攻撃することも許されない。命令を受けた将軍たちは、現地での対応を迫られることになった。


 ◇ ◇ ◇


 南へ進む魯王軍の前には、前夜の雨でぬかるんだ街道が延びていた。荷車の車輪が泥に沈むたびに兵が押し、騎兵も歩兵の速度に合わせて進んだ。


 倉達也(ツァン・ダーイエ)が耶律玉蘭(イェリュ・ユーラン)と馬を並べていると、前方から斥候が戻ってきた。

「魯王様、この先に南宋軍が布陣しております。数はまだ確かめきれておりませんが、街道を塞ぐほどの兵がおります。こちらへ攻めてくる様子はなく、待ち構えております」


 玉蘭は、朝廷から進軍を止めるよう命じられたのだろうと述べた。達也も同じように考え、まず相手の出方を見ることにした。

「全軍を止めろ。騎兵も前へ出すな。先に話をする」


 魯王軍が距離を取って停止すると、南宋軍から使者が来た。達也は自ら前へ出て迎えた。使者は馬を下りて礼をし、朝廷の命により、この先を通すことはできないと告げた。


「俺には勅使が来ている。返事も渡したが、それでも止めろという命令か」

「さようでございます。詔に従い、兵を北へお戻しください」

「お前たちは、俺が戻らなければ戦うつもりなのか」

「我らは陛下の命に従っております」

「命令を受けているのは分かった。聞いているのは、実際に戦う気があるかどうかだ」


 使者が答えに詰まると、達也は前方の陣を示した。

「将軍に伝えろ。俺は州城を取らず、役所にも入らず、食糧も奪わない。道を開けてくれれば、そのまま通る」

「道を開ければ、我らが朝廷の命に背くことになります。お通しできぬ場合は、どうなさいますか」

「まずは待つ。その先は、お前たちの対応次第だ」


 使者は答えを持ち帰った。南宋軍の陣では指揮官たちが協議を始めたが、すぐには結論が出なかった。魯王軍を止めるよう命じられている一方、先に攻撃してはならないという命令もある。達也も動こうとせず、両軍は街道上で向き合ったままとなった。


 南宋兵の中には、北方の戦について聞いている者が多かった。目の前にいるのは、宿州(スージョウ)を守り、金の大軍を破り、帰徳府(グイダーフー)、曹州(ツァオジョウ)、開封まで奪った軍だった。その兵が矢も射ず、騎兵を突進させることもなく、こちらの返答を待っていた。


 昼を過ぎると、達也は兵に食事を取らせた。歩兵は干し肉や飯を食べ、馬には飼葉が与えられた。玉蘭は向こうの陣を眺め、いつまで待つつもりなのかと尋ねた。

「今日いっぱい待っても構わん。俺たちはここで飯を食い、夜になれば寝ればいい」

「相手が攻撃してこない限り、急いで動く必要はないのですね」

「あの様子では、道を塞げとは言われても、先に攻撃することまでは許されていないんだろう。俺たちが動かなければ、向こうもどうするか決めなければならない」


 夕方近くになって、再び使者が来た。

「魯王殿下、我らは兵を街道の脇へ移します。こちらから攻撃することはございません。ただし、殿下が軍を率いて南下を続けたことは、朝廷へ報告いたします」

「構わん。事実だからな」

「道を空けましても、殿下に降ったわけではございません」

「分かっている。俺も降れとは言っていない」


 使者が戻ると、街道を塞いでいた軍が左右へ分かれ始めた。道が開くのを見届けた達也は、全軍に前進を命じた。

「向こうの兵に手を出すな。勝手に声を掛けたり、挑発したりすることも禁じる」


 魯王軍は隊列を整え、武装した南宋兵の間を通っていった。双方が武器を持っていたが、争いは起きなかった。相手の指揮官が馬上から礼をすると、達也も片手を上げて応じた。その日の夕方、魯王軍は1人の死者も出さず、南へ抜けた。


 ◇ ◇ ◇


 最初の軍が道を開けたという知らせは、魯王軍より先に南へ伝わった。次の州では守将が城門を閉ざしたものの、街道には兵を出さなかった。城壁の上から南宋兵が見下ろす中、達也も城へ近づくことなく通過した。


 その次の町では、役人が使者を送ってきた。

「町へ軍をお入れにならないのであれば、街道の通行は妨げません。食糧が必要でしたら、代金を頂いたうえで商人に用意させます」

「それでいい。兵は町の外に置く。品物と代金は、こちらの担当と話をつけてくれ」


 軍の担当者は町外れで穀物や野菜、塩などを受け取り、その場で代金を支払った。兵は町へ入らずに夜を過ごし、翌朝には南下を再開した。


 玉蘭は馬上から街道の先を見て言った。

「戦わずに通してくれる場所が増えましたね。先に道を開けた軍や、無事に通過を見送った町の話が伝わっているのでしょう」

「俺たちが町を焼きながら進んでいれば、こうはいかん。何もせず通る軍と、わざわざ戦いたい奴は少ない」

「朝廷の命令を受けていても、戦を避けたいのでしょうね」

「命じられる方にも命はある。しかも、俺たちが北で何をしてきたか知っている」


 金軍を追い払い、開封を取った軍を、今度は南宋自身が討つ。現地の将兵にとって、朝廷に命じられたからといって容易に割り切れる話ではなかった。道を開けても町や城を奪われないと分かれば、戦わずに見送る判断もしやすくなった。


 ◇ ◇ ◇


 数日後、戻ってきた斥候が、これまでとは違う様子を報告した。

「この先の南宋軍は柵を置き、弓兵を前へ出しております。道を塞ぐだけでなく、戦う準備を進めているように見えます」

「使者はまだ来ていないのか」

「はい。こちらへの連絡はございません」


 達也は使者を出し、道を開ければ戦わないと伝えさせた。しかし、持ち帰った返答は武装解除の要求だった。

「ただちに武器を置き、軍を解散せよとのことでございます。朝廷の命に背いた以上、魯王軍は反乱軍であり、従わなければ攻撃すると、先方の指揮官が申しております」


 玉蘭は、史弥遠から別の命令が届いたのではないかと疑ったが、達也にも確かなことは分からなかった。周囲の指揮官を集め、迎撃の準備を命じた。

「騎兵を左右へ分けろ。歩兵は盾を前に出し、弓兵も用意する。ただし、向こうが撃つまでは攻撃するな」


 歩兵が前列に並び、その後ろに弓兵がついた。騎兵は左右へ分かれ、命令が出れば動ける位置で待機した。達也は最後にもう一度使者を送った。

「武器を置くつもりはない。道を開ければ戦わないが、先に攻撃するなら、こちらも応じると伝えろ」


 返事の代わりに、南宋軍の太鼓が鳴った。弓兵が前へ進み、玉蘭がその動きを達也に知らせた。達也は相手を見据えたまま待ち、最初の矢が飛ぶと前列に盾を上げさせた。矢は盾や地面に突き刺さり、何人かの兵が負傷した。


「弓兵、撃て!」


 魯王軍が射返すと、南宋軍の歩兵も前進した。達也は左右の騎兵に出動を命じたが、敵の背後へ回り込みすぎないよう念を押した。玉蘭も騎兵へ指示を送った。

「横から押してください。敵の後ろは塞がず、逃げ道を残します」


 南宋軍の指揮官は、正面の歩兵に加え、両側へ広がる騎兵にも対処しなければならなくなった。魯王軍は金軍との戦を重ね、歩兵と騎兵を連動させることに慣れていた。正面で敵を止め、左右から圧迫すると、南宋軍の一角が崩れた。


 達也は前線へ、逃げる兵を追い詰めるなと伝えた。下がり始めた部隊を見て、別の部隊も後退した。指揮官が押しとどめようとしたが、騎兵が迫るのを見た兵は、退路が残っているうちに逃れようとした。


「もういい。追うな」


 達也の命令が騎兵へ伝わり、追撃は止まった。南宋軍は街道から退き、戦闘は長く続かなかった。


 ◇ ◇ ◇


 戦場には、武器を捨てて降伏した者や、負傷して動けなくなった兵が残っていた。達也は武器を集めさせ、治療が必要な者から手当てするよう命じた。


「捕虜には飯を食わせてから帰せ」

「全員をお放しになるのですか。再び我らと戦う恐れがございます」


 指揮官に問われ、達也は捕虜たちを見た。

「その時は、こちらもまた武器を取ればいい。こいつらを連れて臨安まで歩く方が邪魔だ」


 夕方までに負傷者の手当てが行われ、動ける捕虜には食事が与えられた。達也が集まった兵に帰ってよいと告げると、兵たちは互いの顔を見合わせた。


「武器は返さないが、お前たちを殺すつもりもない」

「我らは陛下の命で、殿下の軍を止めに参りました。それでもお放しになるのですか」


 兵の1人が尋ねると、達也は街道の南を指した。

「俺はお前たちと戦いに来たのではない。臨安へ行くために通っている。次に道を塞がれても、攻撃されなければ戦わん。攻撃されたら、今日と同じように応じる」


 兵は黙って話を聞き、やがてほかの捕虜とともに街道を離れていった。玉蘭はその後ろ姿を見送りながら、達也に尋ねた。

「あれだけの兵が帰れば、捕らえられても殺されなかったという話が広まりますね。それもお考えでしたか」

「史弥遠に、俺たちが南宋兵を皆殺しにしているなどと言わせる必要はない。本人たちが帰って話せば、次に道を塞ぐ軍も考えるだろう」

「戦わずに通した方がよいと、迷わせるのですね」

「その方がこちらも楽だ。捕虜が勝手に話してくれるなら、使わない手はない」


 玉蘭は笑った。

「助けた兵の帰り先まで利用なさるのですね。やはり、ろくでもないことを考えておられます」

「今さらだな」


 その後、魯王軍へ本格的な攻撃を仕掛ける軍は減った。街道を塞いでも使者の話を聞いて道を開ける軍があり、城門を閉ざすだけで、城外の通行には手を出さない守将もいた。離れた場所から監視を続けるだけの軍もあった。


 捕虜が生きて帰されたことに加え、魯王軍が略奪をせず、食糧には代金を払っているという話も広がった。達也は通れる場所では足を止めなかったが、住民を追い立てたり、軍を町の中へ入れたりはしなかった。街道を進み、町の外で宿営を重ねながら、臨安との距離を縮めていった。


 ◇ ◇ ◇


 (1225年3月中旬、南宋・臨安)


 臨安へ届く軍報には、魯王軍の通過を知らせるものが増えていた。趙昀がその朝に読んだ報告でも、ある軍は戦わずに道を開け、別の州では城外を通られただけだった。戦闘になった軍は敗れ、捕虜は武器を取り上げられたあとに解放されていた。


「陛下、魯王はとうとう朝廷の軍を破りました。これでも反乱ではないと申されますか」


 史弥遠が詰め寄ると、趙昀は報告の一節を示した。

「先に矢を放ったのはこちらの軍だと書いてある。魯王は戦を避けるため、使者を2度送ったともある」

「詔に従わず進んだのは魯王でございます。敵の言い分に惑わされてはなりません」

「この報告を書いたのは、余の将軍だ」


 史弥遠は口を閉じた。趙昀は捕虜の解放についても目を通し、その扱いを確かめた。

「捕らえた兵を放し、帰らせたそうだな」

「恩を売っているのでございます。敵対しても殺されないと思わせ、各地の軍が戦わず道を開けるよう仕向けているのでしょう」

「それは、効いているようだな」


 史弥遠が顔を上げると、趙昀は卓上の地図へ目を移した。魯王軍は日ごとに臨安へ近づいていた。阻止を命じても道を開ける将があり、実際に戦った軍も長くは持たなかった。達也は町を取らず、宋の旗を下ろすこともなく、都へ向かっていた。


「前に、魯王と戦えば勝てるのかと聞いたな。今なら答えられるか」

「各地の軍を集めれば、対抗することは可能でございます」

「どれだけ集め、いつまでに布陣させる。魯王が着く前に間に合うのか」

「まずは各軍の状況を確かめたうえで……」


 史弥遠の言葉が途切れた。趙昀は地図から顔を上げた。

「余にも、魯王が何をしたいのか少し分かってきた。大きな戦をせずとも、都まで来られると見せているのだ」

「そのような脅しに屈してはなりません」

「まだ屈してはおらぬ。だが、命じても止められていない事実を、見なかったことにはできん」


 史弥遠は討伐を求める理由を重ねていたが、趙昀が知りたいのは、それを実行できるかどうかだった。魯王軍が南へ進むほど、命令を出すだけでは止められないことが明らかになっていた。


 ◇ ◇ ◇


 (1225年3月下旬、魯王軍)


 夕方、達也は宿営地で地図を広げた。向かいに座った玉蘭が行程を確かめ、このまま進めば間もなく臨安が見えてくると告げた。


「史弥遠は、さらに大きな軍を出してくるでしょうか」

「出したければ出せばいい。ただ、ここまで来てから戦うとなれば、皇帝も考えるだろう」

「戦えば国を失う恐れがあり、避けるには達也様の条件を聞かなければならない。陛下に、その判断を迫るのですね」

「ああ。そのために来た」


 玉蘭は地図から顔を上げた。

「では、そろそろ条件を教えていただけませんか。史弥遠の処刑だけではないと伺ってから、ずっと気になっております」

「臨安へ着いたら教える。もうすぐだ」

「ここまで軍を率いてきた理由なのですから、私も先に知っておきたいのですが」

「あと少し我慢しろ」


 達也が笑うと、玉蘭は聞き出すことを諦め、到着後の配置へ話を移した。

「都の外まで進んだあとは、どこに兵を置かれますか。城を囲むおつもりではないのでしょう」

「囲まない。すぐに攻めるつもりはないと分かるだけの距離を取り、陣を置く。それから皇帝へ使者を出す」

「史弥遠を通さず、陛下との面会を求めるのですね」

「史弥遠と話すために、ここまで来たのではない。皇帝本人と話す」


 達也は地図を畳んだ。沿道では、道を開ける軍を通り過ぎ、攻撃してきた軍だけを退けた。城を攻めるために足を止めることもなく、魯王軍は兵力を大きく損なわずに臨安へ近づいていた。都の外に陣を置けば、今度は趙昀本人から返答を得なければならなかった。

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