第8話(中編1)「勅使の前で膝をつく王」
(1225年3月上旬、南宋北部・魯王軍陣営)
開封を出てから数日が過ぎていた。魯王軍は歩兵、騎兵、荷車の間隔を保ちながら南へ進み、無理に行程を延ばすことはしなかった。途中の町で必要な食糧を買い、夜になれば街道沿いの広い場所に陣を置いた。州城の近くを通っても、向こうが兵を出してこなければ手を出さず、宋の旗も掲げたままだった。
その日の午後、先行していた騎兵が戻り、馬上の倉達也に報告した。
「魯王様、南から朝廷の使者が参ります。勅使と名乗っており、護衛は少数でございます」
「止めずに通せ。本陣で迎える」
騎兵が引き返すと、近くにいた耶律玉蘭が馬を寄せた。
「陛下から、進軍を止めるよう命じてこられたのでしょうか」
「おそらくな。兵を北へ戻し、俺だけ少数の供を連れて臨安へ来いというところだろう」
「史弥遠には都合のよい内容ですね」
達也は前方の街道を見てから、指揮官に全軍を休ませるよう命じた。
「街道を塞ぐな。勅使の一行が本陣まで通れるようにしておけ」
太鼓が鳴ると、先頭から順に部隊が足を止めた。兵は街道の両側へ広がり、荷車も通行を妨げない場所へ寄せられた。達也は玉蘭とともに本陣へ戻り、勅使を待った。
◇ ◇ ◇
宋の旗を掲げた勅使の一行が近づくと、魯王軍の兵は道を開けた。臨安では達也を反逆者とする声が上がっていたが、陣内には宋の旗が立ち、勅使を罵る者も武器を向ける者もいなかった。街道脇には買い入れた穀物や野菜が積まれ、兵站の担当者が代金を記した帳面を確かめていた。
本陣では、達也が玉蘭や主だった指揮官とともに待っていた。勅使が皇帝の詔を携えていると告げると、達也は立ち上がり、玉蘭たちに後ろへ下がるよう合図した。
「陛下の詔であれば、臣下として拝受する」
達也が膝をつくと、周囲の者も従った。勅使は、軍を率いて皇都へ向かう王がためらわず跪いたことに戸惑ったが、詔を開いて読み上げた。
皇帝趙昀は、魯王軍に進軍の即時停止を命じていた。南下している兵を開封や徐州など北方の任地へ戻し、達也本人は少数の供だけを連れて臨安へ赴き、皇帝に事情を説明せよという内容だった。
最後まで聞いた達也は頭を下げ、「確かに承った」と答えた。勅使が詔を閉じるのを待って立ち上がると、玉蘭や指揮官たちも身を起こした。
「では魯王殿下、この地で進軍を終え、兵を北へお戻しください」
「軍は止めてあるが、兵を戻すつもりはない」
勅使は顔色を変えた。
「陛下の詔をお受けになったばかりではございませんか。これは宰相の命令ではなく、陛下ご自身のお言葉でございます」
「それは分かっている。だから膝をついて聞いた。だが、兵を戻せという命令には従えん」
指揮官たちが見守る中、勅使は返答の理由を求めた。達也は相手から目をそらさずに答えた。
「俺だけで臨安へ行けば、史弥遠のいる朝廷へ入ることになる。俺から兵を取り上げようとしている連中のところへ、兵を全部返して来いと言うんだぞ。お前なら行くか」
「臣にはお答えできません。ただ、陛下は殿下にお会いになると仰せです。そのお言葉もお疑いになるのでしょうか」
「信用していないのは、陛下の周りにいる奴らだ。そいつらに身を預けるつもりはない」
勅使は史弥遠の名を避け、詔に従わなければ皇帝に背いたと受け取られると説明した。
「そのように見なされても、なお進まれるのでございますか」
「陛下には逆らわん。本人と話すために臨安へ行く」
「ですが、軍を戻せというご命令には従わないとおっしゃる。兵を率いて都へ迫りながら、話し合いに行くだけとは申せません」
達也は周囲の軍を示した。
「俺は南宋の町を取ったわけでも、役所を襲ったわけでもない。食糧を奪うことも禁じている。南宋の兵を殺したという報告が、お前のところへ届いているか」
「そのような報告は受けておりません。しかし、軍を率いて都へ向かっていること自体が問題なのでございます」
「それは分かっている。だから陛下も、俺が来るのを気にしているんだろう」
達也は笑ったが、勅使の表情は変わらなかった。
「臨安をいきなり攻めるつもりはない。陛下には、会って話をつけるまで軍は戻さないと伝えてくれ」
「それでは、詔を拒まれたとご報告することになります」
「そう報告して構わん。ただし、皇位を奪うつもりはないとも伝えろ。俺が皇帝になるために進んでいるわけじゃない」
勅使は、なぜそこまで言い添えるのかと尋ねた。
「史弥遠が、俺を反乱軍だと言っているんだろう」
返答がないのを見て、達也は自分の推測が当たっていると受け取った。勅使は「臣は何も申しておりません」と断ったが、達也はそれ以上追及せず、椅子へ戻った。
「史宰相については、何とお伝えすればよろしいでしょうか。『君側の奸を除く』というお考えにも、変わりはございませんか」
「変わらん。史弥遠は、俺が臨安へ行く理由の1つだ。そのまま陛下へ申し上げろ」
勅使は、軍を戻さず皇帝との面会を求めること、皇位を奪う意思はないこと、史弥遠を奸臣とする考えも変わらないことを確かめ、本陣を退出した。
◇ ◇ ◇
夕方、勅使の一行には陣内に宿が用意された。達也はその日のうちに追い返さず、客人として食事を出し、護衛にも寝場所を与えた。一行が本陣を離れたあと、玉蘭は達也に尋ねた。
「詔を拒まれた以上、史弥遠は反乱だと騒ぎ立てるでしょう。それでも構わないのですか」
「騒ぐだろうな。だが、あいつがそう呼んだからといって、俺の目的まで変わるわけじゃない」
「詔に従わなかったのは事実でございます。陛下が、史弥遠の言葉をお聞きになる恐れもあります」
「だから、史弥遠を通さず本人と話す。あいつが会わせまいとするなら、こちらも兵を連れていく必要がある」
達也が机に地図を広げると、玉蘭も臨安の位置を見た。
「兵を手放して都へ入れば、捕らえられる恐れもございますね。陛下がそこまでお考えとは思いませんが」
「俺も今のところはそう思っている。ただ、何を考えているかは会わなければ分からん。身を守る手段まで捨てて行く気はない」
玉蘭は勅使の困り果てた顔を思い出した。
「こちらのお考えは分かりましたが、勅使はお気の毒でした。詔に礼を尽くされた直後に拒まれるとは、思っていなかったでしょう」
「使いなのだから仕方ない。殺したわけでもないだろう」
「命があれば済むという話ではございません。あの返事を陛下にお伝えしなければならないのですから」
達也は笑い、勅使は翌朝に帰すと告げた。玉蘭が返書も持たせるのかと尋ねると、紙を用意するよう命じた。
「口で伝えるだけでは、史弥遠に都合よく変えられるかもしれん。こちらの考えは書いて残す」
返書には、詔を確かに受け取ったこと、皇帝への敵意も皇位を奪う意思もないことを書かせた。その一方で、進軍は止めず、兵も戻さないと明記した。軍を伴って臨安へ赴き、皇帝本人に事情を説明することと、「君側の奸を除く」という方針を変えないことも記した。
玉蘭は文面を読み、達也を見た。
「軍を戻さないことまで、はっきりお書きになるのですね。史弥遠の処刑や、ほかの条件については記さなくてよろしいのですか」
「そこは臨安へ着いてから話す。今は、何のために向かっているかが伝わればいい」
「私もお供するのですから、そろそろ条件を教えていただきたいのですが」
「着いたら教える。楽しみにしていろ」
「これまでのお話を伺う限り、嫌な予感しかしません」
達也は笑っただけで、条件を明かそうとはしなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、勅使は達也から返書を受け取ると、出発前にもう一度翻意を促した。
「魯王殿下、今からでも兵をお戻しになれば、話し合いで収められます。どうかお考え直しください」
「俺も話し合いで収めるつもりだ。ただし、軍は戻さない」
「それほどまでに軍を伴うことにこだわられては、陛下にもご真意が伝わりません」
「軍があるから、陛下も俺の話を聞く。史弥遠は俺を危険だと言い、兵を取り上げようとしているんだろう。そんなところへ丸腰で行き、話を聞いてくださいと頼むほど、俺は馬鹿じゃない」
勅使は返す言葉を失った。達也は、返書を収める相手に重ねて告げた。
「俺は敵として臨安へ行くんじゃない。だが、敵として扱われたら話は別だ。それも一言も変えずに伝えろ」
「承知いたしました」
「そのうえで、陛下ご自身に聞いてくれ。俺と直接話す気があるのか、それとも史弥遠に任せて戦う気なのか」
「それでは、陛下に二者択一を迫ることになります」
「まだ迫ってはいない。どちらなのか聞いているだけだ」
「臣には、十分に迫っておられるように聞こえます」
「そう聞こえるなら、そのまま伝えればいい」
勅使はそれ以上の説得を諦め、護衛とともに陣を出た。一行が街道を南へ遠ざかるのを見送ると、玉蘭は進軍の再開を確認した。達也は馬に乗り、全軍を動かすよう命じた。
休んでいた兵が立ち上がり、荷車が街道へ戻ると、騎兵が先へ出た。宋の旗と「君側の奸を除く」と記した旗を掲げたまま、魯王軍は再び臨安へ向かって進み始めた。
◇ ◇ ◇
(数日後、南宋・臨安)
勅使は帰還した日のうちに、趙昀の前へ通された。史弥遠も同席する中、預かった返書を差し出すと、趙昀は最後まで目を通した。皇帝への敵意や皇位を奪う意思はないと述べながら、進軍も兵を戻すことも拒んでいる。「君側の奸を除く」という方針にも変わりはなかった。
「詔を読み上げた時、魯王はどのように受けた」
「陛下の詔であれば臣下として拝受すると申され、ご自身から跪かれました。周囲の将たちも従っております」
史弥遠が顔を上げた。趙昀は返書を手にしたまま、続きを促した。
「礼を尽くして受けながら、命令には従わぬと答えたのだな。その理由も聞かせよ」
勅使は、本陣でのやり取りをできるだけ達也の言葉に沿って報告した。達也は皇帝に敵対するつもりはないと述べる一方、史弥遠らを信用しておらず、兵を手放して朝廷へ入ることはできないと答えていた。軍を伴うのは皇帝本人と話すためであり、皇位を奪う意思はないという。
さらに勅使は、出発前に託された言葉を伝えた。
「敵として臨安へ行くのではないが、敵として扱われれば話は別だと申されました。そのうえで、陛下ご自身が魯王と話されるのか、それとも史宰相に任せて戦われるのか、お尋ねするよう命じられました」
史弥遠が声を上げた。
「陛下、もはや明白にございます。魯王は詔を拒み、そのうえ陛下を脅しております。直ちに討伐の詔をお出しください」
「詔を拒んだことは分かっている。まず、報告を最後まで聞く」
趙昀は勅使に、陣内で脅されたり危害を加えられたりしたかと尋ねた。
「言葉には厳しいものがございましたが、兵に取り囲まれたことも、刀を向けられたこともございません。食事と宿が用意され、護衛の者も同じように扱われました。陣内の秩序は保たれ、宋の旗も掲げられておりました」
「そのようなものは見せかけにございます。軍を率いて都へ迫っている事実は変わりません」
史弥遠の言葉を聞きながら、趙昀は返書へ目を戻した。
「そうかもしれぬ。だが、魯王は余に会うと言い、皇位を奪うつもりもないと書いている」
「その言葉をお信じになるのですか」
「信じてよいかどうかは、まだ分からん」
「ならば、都へ近づく前に討つべきでございます」
「お前は最初から、そればかりだな」
「陛下をお守りするために申し上げております」
趙昀は返書を卓へ置いた。達也は皇帝の詔に膝をつきながら、その命令には従わなかった。忠実な臣下の振る舞いとは言えないが、皇位を狙っていると決めつけることもできなかった。勅使を害さず帰したのも、本人と話す意思を示すためかもしれない。
直接会うのか、それとも史弥遠に任せて戦うのか。達也の問いは無礼だったが、趙昀が決めなければならないことを突いていた。
「魯王と戦えば、勝てるのか」
史弥遠が返答をためらうと、趙昀は問いを重ねた。
「反逆に当たるかどうかを聞いているのではない。討伐を命じたとして、我が軍は魯王に勝てるのかと聞いている」
史弥遠はすぐには答えられなかった。詔を拒んだという事実は手に入り、討伐を求める根拠もできた。しかし、実際に魯王軍を破れるという見通しまでは示せなかった。趙昀はその沈黙を見逃さず、宰相の返答を待った。




