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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第8話(前編2)「反乱と呼びたい宰相」

 (1225年3月上旬、南宋・臨安(リンアン))


 朝の宮城には雨が降っていた。瓦屋根を打つ雨音が続く中、政務を行う殿内には早朝から重臣たちが集まり、皇帝趙昀(ジャオ・ユン)の前には、南下する魯王軍について各地から届いた報告が置かれていた。


 最初に口を開いたのは、宰相史弥遠(シー・ミーユエン)だった。

「陛下、魯王は朝廷の命を待たず、大軍を率いて都へ向かっております。臣下の身でありながら、このような振る舞いに及ぶ以上、反乱と判断するほかございません」


 別の重臣も、魯王が開封(カイフォン)、帰徳府(グイダーフー)、曹州(ツァオジョウ)、徐州(シュージョウ)などに兵を残したまま、一部を南へ動かしていると指摘した。

「各地の軍を維持したうえで、都へ迫るだけの兵を出しております。放置すれば、さらに兵を増やす恐れがございます」


 趙昀は報告書を1枚取り上げた。

「だが、道中の州県は攻めておらず、食糧も奪っていないとある。宋の旗も下ろしていない。反乱だと決める前に、魯王が実際に何をしているのか確かめたい」

「旗を掲げていれば、軍を率いて都へ迫っても忠臣になるのでございましょうか」

「そうは言っておらん。州城を攻めず、役所にも手を出さず、民から物を奪った兵は処罰している。道を塞がなければ守備兵にも手を出していない。その男が何を求めて都へ来るのかと聞いている」


 史弥遠はすぐには答えなかった。趙昀は報告を卓へ戻し、宰相を見た。

「余も、大軍を率いて近づいてくることを不気味に思っている。だからこそ、ただ反乱だと言われても、それだけでは判断できぬ」

「ならば、なおさら急がねばなりません。魯王を反逆者と定め、各地の軍へ討伐を命じるべきでございます」


 重臣の何人かが顔を見合わせた。趙昀はしばらく考えてから、史弥遠に問い返した。

「魯王は先月まで金軍と戦い、帰徳府、曹州に続いて開封まで取った。その男を、1か月もたたぬうちに朝廷が反逆者として討つのか」

「功績を否定しているのではございません。力のない者が逆らっても国は揺らぎませんが、魯王ほどの兵を持つ者が朝廷に従わなくなれば、大事に至ります」

「まだ余の命令を拒んだわけではなかろう。先に軍を止めるよう命じ、それを拒むかどうか確かめるべきだ」


 史弥遠はなおも言い募ろうとしたが、趙昀は取り合わなかった。魯王倉達也(ツァン・ダーイエ)について、自分は知らないことが多すぎる。先帝趙擴(ジャオ・クオ)が重く用いて北方の軍を任せた男であり、軍馬5万頭を持ち、大軍を動かせることは知っている。その男が金から開封を奪った直後に、軍を率いて臨安へ向かっているのだから、警戒は必要だった。しかし、危険な相手であることと、反逆を企てていることは、同じではなかった。


 趙昀は報告を担当する官吏へ顔を向けた。

「魯王は、何のために都へ向かうと申している」

「『君側の奸を除く』と申しております」


 殿内にざわめきが広がった。趙昀が史弥遠を見ると、宰相は顔をこわばらせた。

「臣を指しているものと思われます。だからこそ申し上げているのでございます。朝廷の宰相を自らの判断で奸臣と呼び、兵を率いて討ちに来る。お許しになれば、気に入らぬ重臣は軍で脅せば取り除けることになります」


 史弥遠は一歩前へ出た。

「ここで退けば、次に魯王が気に入らぬと申す相手は誰になるのでございましょう。求めているのは、臣の首だけではないかもしれませぬ」


 趙昀の顔から表情が消えた。次に狙われるのは皇帝自身かもしれないと、史弥遠は言っている。

「ほかにも要求があるというなら、その根拠を申せ」

「そこまでは分かりません。ただ、軍を率いて都へ来る者に、何を求めるのか聞いてから備えるのでは遅うございます」


 趙昀は返事をせず、卓上の報告へ目を戻した。


 ◇ ◇ ◇


 朝議が終わっても、趙昀は討伐命令を出さなかった。代わりに、魯王へ詔を送ることを決めた。軍の進行を止め、兵を開封や徐州などへ戻したうえで、達也本人は少数の供だけを連れて臨安へ来るよう命じる内容だった。


 史弥遠は詔の内容を聞くと、すぐに賛成した。

「陛下のご判断、まことにもっともにございます。魯王が臣下であるならば従うはずです。従わぬのであれば、その時こそ反逆が明らかになります」


 趙昀には、史弥遠があっさり引き下がった理由が分かった。達也が従えば、軍を臨安から遠ざけられる。従わなければ、詔に背いたことを理由に討伐を求められる。どちらの返事であっても、史弥遠には都合がよかった。


「詔は余の名で出す。今決めた内容に、勝手な言葉を加えるな」


 史弥遠は一瞬黙り、頭を下げた。

「承知いたしました」

「軍を戻して少数の供だけで来るなら、余が直接会うつもりだとも伝えよ」


 史弥遠が顔を上げ、皇帝自ら会うのは危険ではないかと述べると、趙昀はその言葉を遮った。

「お前は先ほど、臣下なら従うはずだと申したばかりだ。命じたとおりに兵を戻した魯王まで恐れ、会わぬというのか。まずは詔を出し、どう答えるかを見る」


 史弥遠は反論を控え、命令を受けた。しかし殿を出る頃には、達也が軍を戻すとは考えていなかった。自分の首を求めて南下してきた男が、ここで兵を手放すとは思えない。むしろ、拒んでもらった方がよかった。詔に背いたという事実があれば、達也を恐れて態度を決めかねている官僚や将軍にも、討伐を命じやすくなる。


 ◇ ◇ ◇


 その日の午後、趙昀は後宮へ戻った。雨は弱まっていたが、庭の石畳は濡れ、軒から落ちる水が細い筋を作っていた。待っていた24歳の皇后は、朝から宮中が騒がしいことを知っていたものの、朝議の内容までは聞かされていなかった。


 趙昀が座ると、皇后は魯王のことで何かあったのかと尋ねた。

「開封を取ったと思ったら、今度は軍を率いて臨安へ向かっている」

「都を攻めるおつもりなのでしょうか」


 驚く皇后に、趙昀は朝議で読んだ報告の内容を話した。魯王軍は州城を攻めず、民から食糧も奪っていない。宋の旗を掲げたまま南へ進み、「君側の奸を除く」と公言しているが、臨安へ着いて何をするつもりなのかは分からなかった。


「その奸臣というのは、史宰相なのですね。魯王は、なぜそこまで史宰相を憎んでいるのでしょう」

「兵を取り上げようとしたからだろう。余はまだ正式には命じておらぬが、史弥遠たちが話を進めていた」


 皇后は事情を聞き、考え込んだ。

「軍を率いて臨安へ来るのは恐ろしいことでございます。ただ、金と戦って開封を取った直後に兵を取り上げる話をされたなら、なぜ自分が疑われるのかと思うのではございませんか」

「お前まで魯王の肩を持つのか」

「そうではございません。ですが、怒る理由があったことは、お考えになった方がよろしいかと存じます」


 趙昀も、その点は気になっていた。史弥遠が討伐を求めていると伝えると、皇后は皇帝自身の考えを尋ねた。

「余はまだ決めていない。まず軍を戻し、少数の供だけで臨安へ来るよう命じることにした」


 皇后はそれ以上、政治の判断には踏み込まず、魯王がどのような人物なのかと話を移した。趙昀は、会ったこともほとんどなく、人となりまでは知らないと答えた。

「それほどお付き合いのない方と、もう戦うかどうかを決めなければならないのですね」


 趙昀は答えなかった。相手をよく知らぬまま、戦えば大きな損害を招く判断を迫られている。それが、自分の迷っている理由だった。


 ◇ ◇ ◇


 夕刻、趙昀は楊(ヤン)皇太后のもとを訪れた。先帝の皇后として長く宮中にあった楊皇太后は、趙昀の即位後も大きな影響力を持っていた。魯王軍について説明を受ける間は口を挟まず、話が終わってから尋ねた。


「陛下は、史弥遠の言葉を疑っておられるのですか。それとも、魯王には背くつもりがないとお考えなのでしょうか」

「どちらとも決められぬ。余は魯王をほとんど知らぬのだ」

「それならば、知っている者の話をお聞きになるしかございません。史弥遠だけに限る必要はありませんが、先帝の頃から朝廷を支えてきた者の意見を、無視することもできません」


 趙昀は、魯王もまた先帝が重く用いた男だと指摘した。楊皇太后はその点を認めながらも、先帝の信任を理由に、今の皇帝まで無条件で信じる必要はないと答えた。

「現に軍を率いて都へ近づいております。詔をお出しになったのであれば、まず従わせるべきです」

「軍を止め、兵を戻したうえで、本人だけ少数の供を連れて来るよう命じた。拒んだ場合は、戦うべきだとお考えか」

「陛下の命に従わず、なお軍を率いて都へ向かうのであれば、魯王自身が朝廷に背くと示したことになります。それを放置すれば、今後は誰も朝廷を恐れなくなりましょう」


 史弥遠と同じ答えだった。趙昀は、詔に従わせなければ皇帝の権威が損なわれることは理解していた。しかし、それだけで討伐を決めるわけにはいかなかった。


「魯王と戦えば、北方の守りはどうなる。あの男は金軍を何度も破り、開封まで取った。その兵と我が軍が戦えば、勝っても双方の兵を失う。金が喜ぶだけではないか」


 楊皇太后はすぐには答えられなかった。趙昀はさらに続けた。

「史弥遠は簡単に討てと言うが、負けた場合はどうするつもりなのだ」

「だからこそ、魯王には詔に従っていただかねばなりません」

「問題は、従わせるだけの力が朝廷にあるかどうかだ」


 楊皇太后は、その問いに答えなかった。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、魯王への詔を携えた勅使が臨安を出発した。一方、史弥遠は各地の守将に対し、魯王軍の進路を調べ、次の命令が届けばすぐ動けるよう兵を整えさせるため、別の命令を準備していた。ただし、その文面には、まだ達也を反逆者とは記していなかった。


 その日の昼、屋敷を訪れた官吏から勅使の出発を報告されると、史弥遠は卓上の書類を確かめた。官吏はその様子を見てから尋ねた。

「魯王が詔に従って兵を開封へ戻し、ご本人だけが臨安へ来た場合は、いかがなさいますか」

「その時は朝廷で話をすればよい。だが、自分の首を求めている相手がいる都へ、あの男が兵を手放して来ると思うか」


 官吏は答えなかった。史弥遠は書類から顔を上げた。

「拒めば、陛下の詔に背いたことになる。そうなれば、『君側の奸を除く』などという言い分では済まん。朝廷に対する反乱として討つことができる」


 史弥遠は、達也が拒絶するという見込みに討伐の望みをかけていた。勅使がその返事を持ち帰れば、皇帝にも改めて決断を迫れる。北へ向かった勅使の帰還を、史弥遠は待つことにした。

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