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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第8話(前編1)――「臨安へ行く理由」

 (1225年2月下旬、開封(カイフォン))


 開封を取ってから10日ほどが過ぎ、城内では戦闘の跡が片付けられ、市場にも人が戻り始めていた。朝になると大路に面した店の戸が開き、野菜や穀物を積んだ荷車が行き交う。肉を焼く煙や煮物の湯気に、馬の汗と濡れた土の匂いが混じり、戦の間は消えていた商人の呼び声も聞こえるようになった。


 倉達也(ツァン・ダーイエ)の兵は城門や役所、倉、兵営に分かれて警備に当たっていた。略奪を禁じる命令は占領後も変わらず、兵が市場で食べ物を買う時には銭を払い、民家を宿代わりに使うことも許されなかった。


 達也は朝から役所の一室に入り、開封と周辺地域の地図を広げていた。向かいには耶律玉蘭(イェリュ・ユーラン)が座り、兵站、騎兵、開封守備を担当する者たちも卓を囲んでいる。達也は地図の開封を指し、南下したあとの守りについて指示した。


「ここに残す兵を減らしすぎるな。城を守るだけじゃ足りん。西と北から金軍が戻ってくることも考えて、斥候を出し続けろ。帰徳府(グイダーフー)と曹州(ツァオジョウ)にも守備兵を残す。あそこを空にしたら、徐州(シュージョウ)から開封までの道が切れる」


 兵站の担当者が地図を見ながら尋ねた。

「臨安(リンアン)へお連れになる軍を増やすには、各地の守備兵を一部減らす必要がございます。開封攻略に参加した兵を、どこまで南へ向けてよろしいでしょうか」

「臨安へ行くために、せっかく取った北方を金へ返す気はない。守りに必要な兵は残し、そのうえで連れていく数を決める」


 玉蘭は地図の東側へ目を向け、軍馬も現在の配置を維持するのかと確認した。軍馬5万頭は、徐州、兗州(イェンジョウ)、済州(ジージョウ)、東平(ドンピン)、曹州、帰徳府などへ分散している。戦闘用だけでなく、交代用、輸送用、訓練用の馬もあり、種馬4,000頭は繁殖のため別に管理していた。


「東平と済州の馬場はそのままでいい。徐州にも残せ。開封へ集める必要はないし、臨安まで全部連れていく必要もない。南へ向かう騎兵と、その交代用に要る分だけにする」


 騎兵の担当者は配置を確かめてから、達也に尋ねた。

「臨安へ向かう途中で、南宋軍と戦うこともお考えでしょうか」

「可能性はある。ただし、俺から仕掛けるつもりはない」


 集まった者たちの顔がこわばった。これまで相手にしてきたのは金軍だが、今度向かう先は南宋の都だ。自分たちも名目上は南宋の軍であり、達也もその皇帝から魯王に封じられた臣下だった。


「道を塞がれたら、まず退くように伝えろ。向こうから攻撃してきたら叩くが、逃げた兵まで追い回す必要はない。道を開けさせればいい。城にこもっても、街道を通れるなら放っておけ」


 達也は地図の南へ指を動かし、兵站の担当者へ顔を向けた。

「食糧は持っていく分と、途中で買う分に分ける。村や町から奪うな。今度は金の土地ではなく、南宋の中を通るんだ。兵にも徹底させろ」

「承知しました。購入と輸送の手配を進めます」


 玉蘭は、略奪すれば朝廷に反乱軍だと言う口実を与えると指摘した。達也も同じことを考えていた。

「史弥遠(シー・ミーユエン)は、俺が軍を率いて南へ向かっただけで反乱だと言い出すだろう。余計な材料までくれてやる必要はない」


 ◇ ◇ ◇


 軍議が終わると、玉蘭だけが部屋に残った。窓の外では兵たちが兵糧の袋や矢を収めた箱、馬の飼葉を荷車へ積んでいる。出発する部隊と開封に残る部隊を分ける作業も進んでいた。


 玉蘭は卓上の地図へ目を落とし、気になっていたことを尋ねた。

「達也様、臨安へお連れになる兵の数は、まだお決めにならないのですか。史弥遠1人を討つためにしては、大がかりな準備に思えます」

「数はまだ決めていないが、お前の言うとおりだ。史弥遠だけなら、首を出せと言えば済む。俺が気に入らんのは、あいつだけじゃない」


 玉蘭には、達也が誰を指しているのか分かった。開封を取って以来、新帝趙昀(ジャオ・ユン)が自分を警戒し始めていると、達也は何度も口にしていた。


「陛下は達也様のことをほとんどご存じありません。先帝とは、その点が違いますね」

「先帝は俺が何をする奴か知っていた。軍を持たせても勝手に逃げる男じゃないことも、取った土地を荒らさずに使うこともな。開封を取ったと聞けば、まず褒美の話をしただろう。少なくとも、監軍を送って馬を数えろとは言わん」


 達也は椅子に座り、地図を見ながら続けた。

「今の皇帝は俺を知らんから、史弥遠たちの話を聞く。魯王は兵を持ちすぎている、軍馬も多すぎるとな。今度は開封まで取ったんだ。あいつらから見れば、ますます危険になったわけだ」

「それで、軍を率いて陛下のもとへ行かれるのですか」

「ああ。誰が誰を恐れなきゃならんのか、今のうちに教えておく」


 玉蘭は達也の顔を見た。

「陛下を脅されるおつもりなのですね。表向きは『君側の奸を除く』とおっしゃっておりますが」

「それも本当だ。史弥遠は俺から兵を取り上げようとしている。あいつは消す。そのうえで、皇帝にも俺を敵に回すか、俺の言うことを聞くか、選ばせる」

「陛下が戦うとおっしゃった場合は、南宋を相手にすることになります。それでも戦われるのですか」

「向こうがそこまで馬鹿ならな。俺は北で金軍と戦い、帰徳府も曹州も開封も取った。その俺から兵を取り上げると言うなら、自分たちの兵だけで国を守ってみればいい」


 達也は笑ったが、玉蘭には冗談とは聞こえなかった。

「俺と戦いながら北まで守れると思うなら、好きにすればいい」

「そこまでの余裕はないでしょうね」

「俺もそう思う。だから、戦になる前に屈服させる」


 玉蘭は、達也が大軍を連れていこうとする理由を理解した。史弥遠を守れば何が起きるかを、趙昀本人に見せるつもりなのだ。処分を求める書状だけでは、皇帝が史弥遠たちの意見に従う恐れがある。軍を率いて迫れば、要求を拒んだ場合の結果まで考えざるを得ない。


「陛下に求める条件も、おおよそ決めておられるのでしょう。私にもお教えください」

「それは臨安へ着いてからだ。お前が驚く顔も見たいからな」

「私は遊びで臨安へ行くのではございません。お供する以上、先に知っておきたいのですが」


 達也は史弥遠の名が書かれた書付に目を落とし、条件の1つだけを明かした。

「史弥遠は、皇帝に命じて処刑させる」

「陛下ご自身に命じさせるとなれば、それだけでも厳しい条件でございます。ほかにもお求めになるのでしたら、なおさら伺っておきたいところです」

「後で教える。今はそれだけでいい」


 玉蘭はそれ以上聞かず、卓の地図を見直した。達也が顔をのぞき込むようにして、怒ったのかと尋ねると、視線を戻して答えた。

「いいえ。ただ、ろくでもないことを考えておられるのは分かりました」

「ひどい言い方だが、たぶん合っている」


 ◇ ◇ ◇


 その日の午後、達也は南下する軍への命令を定め、軍営に各隊の指揮官を集めた。臨安へ向かうという噂はすでに広まっており、達也が出兵を告げても驚く者は少なかった。


「俺たちが掲げるのは『君側の奸を除く』だ。朝廷には俺から兵を取り上げようとしている連中がいて、その中心が史弥遠だ。だが、南宋の兵と戦うために行くわけじゃない。道を開ける軍とは戦うな。州や県の役所にも手を出すな」


 指揮官の1人が、攻撃を受けた際の対応と捕虜の扱いを確認した。達也は、迎撃しても逃げる兵は追わず、捕虜は武器を取り上げて放すよう命じた。必要なら食事も与える。城門を閉ざされても、街道が通れる限り攻める必要はなかった。


「俺たちが欲しいのは城じゃない。民家へ勝手に入ることも、食糧を奪うことも禁じる。女にも手を出すな。市場で物を買うなら金を払い、軍で買う分は担当を決めてまとめて払え。破った奴は処罰する」


 指揮官たちが承知すると、達也は居並ぶ顔を見渡した。

「史弥遠は俺たちを反乱軍にしたがっている。そう言わせるような振る舞いはするな。南宋の旗も下ろすな。俺は皇帝を倒すために軍を出すんじゃない」


 横で聞いていた玉蘭は、その言葉に嘘はないと思った。達也は趙昀の皇位を奪うつもりも、殺すつもりもない。ただ、臣下として許しを請いに行くわけでもなかった。


「臨安へ着いたら、俺が皇帝本人と話す。それまで余計な戦をするな」


 指揮官たちの「承知しました」という声が、部屋に響いた。


 ◇ ◇ ◇


 夕方、達也は玉蘭とともに城壁へ上がった。西へ傾いた日が城内の屋根を赤く照らし、大路では荷車に交じって、市場帰りの人々が家路を急いでいる。城外では兵が馬を引き、南下に向けた準備を続けていた。


「開封を取られてから、まだ10日ほどで次の軍を動かされるのですね。臨安から正式な命令が届くまで、お待ちになることはできませんか」


 玉蘭に尋ねられ、達也は城壁の外へ目を向けた。

「待っていれば、監軍を受け入れろ、馬を調べさせろ、兵を返せと命じてくる。それを断れば、向こうは俺を反逆者にする。その前にこちらから行く」

「史弥遠の処刑を求めるだけでなく、陛下を屈服させるためですね」

「そっちの方が大事だ。今の皇帝は若いし、俺のことも知らん。最初に分からせておかないと、これからも同じことを繰り返す」


 城壁の上を冷たい風が吹き抜け、達也は外套の襟を直した。

「皇帝でいるのは勝手だ。俺も皇位を取り上げるつもりはない」

「皇位を認めながら、そこまでなさる必要がございますか」

「皇帝だからこそ、俺を敵に回しても何とかなると思われたら困る。あいつの命令で兵が動くんだ。今のうちに間違いだと分からせる」

「それでも最後まで条件をお受けにならなければ、どうなさいますか」


 達也は臨安のある南を見た。

「その時は戦う。俺と戦う方を選ぶなら、南宋が滅びることになっても構わん」


 玉蘭が見た達也の横顔は、帰徳府や曹州、開封を攻めた時と変わらなかった。必要と判断すれば、相手が誰でも戦う。その相手が、自分を魯王に封じた南宋皇帝であっても、ためらうつもりはないらしい。


「出発はいつになさいますか。私たちがともに開封を離れても支障がないよう、守りを整えておかなければなりません」

「5日後だ。それまでに済ませる。徐州の家族にも、臨安へ行くと知らせておけ」

「理由は、史弥遠を処分するためとお伝えしてよろしいのですね」

「ああ。皇帝に求める条件は、今は言わん。結果を見れば分かる」


 達也は城壁を下りる階段へ向かい、途中で玉蘭を振り返った。

「今度は、できれば戦わずに終わらせる。皇帝が条件を呑めば、それで済む」

「お断りになれば、国ごと滅ぼすとおっしゃるのでしょう。かなりひどい選ばせ方でございますね」

「選べるだけましだろう」


 達也は笑い、そのまま階段を下りていった。出発までの5日間で開封の守りを整え、魯王軍の一部を南へ向ける。掲げる大義は「君側の奸を除く」だが、臨安では皇帝本人と向き合うつもりだった。趙昀が兵権の取り上げを断念するか、それでも命令に従わせようとするかによって、南宋との戦が始まるかどうかが決まる。

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