第7話(後編2)――「開封の門」
(1225年2月中旬、開封東門前)
夜が明けるまで、達也軍は開封の守備兵を休ませなかった。
東門では弓兵が城壁上の金兵を押さえ、その間に歩兵が門へ近づいている。南側でも攻撃を続けているため、城内の守備兵は2方向へ分かれたままだった。
夜が明け始めると、城壁上の様子もよく見えるようになった。守備兵はまだいるが、明らかに数が少ない。西門から大勢が逃げ出したうえ、夜通し東と南を守らされたため、兵の動きにも疲れが見えていた。
達也が東門正面の陣から城壁を見ていると、西から使者が到着した。
「魯王様、鎮北将軍より報告でございます。西門から脱出した金軍は大きく崩れました。開封へ戻ろうとした部隊は止めております。西へ逃げた者は深追いしておりません。鎮北将軍もご無事です」
「分かった。玉蘭には、こっちが城へ入るまで西を見ているよう伝えろ。開封へ戻ろうとする兵だけ止めればいい」
「承知しました」
使者が戻っていくと、達也は東門へ目を戻した。
「これで西から大軍が戻ってくる心配もない。総攻撃に移るぞ。ただし火は使うな。門を破ることを優先しろ。城壁へ上る兵も出すが、無理に増やす必要はない。門が開けば、そこから入ればいい」
さらに達也は、これまで何度も出してきた命令を全軍へ徹底させた。
「開封での略奪は許さん。民家へ勝手に入るな。女にも手を出すな。火を出した者は味方でも処罰する。もう一度、全部隊へ伝えろ」
達也が欲しいのは、勝ったあとに何も残らない町ではない。
開封には人が住み、役所があり、倉があり、商人がいる。城壁も街道も、壊さずに残せばそのまま使える。これから北方を動かす拠点にする以上、開封は焼く町ではなく、残す町だった。
◇ ◇ ◇
朝になると、東門への攻撃がさらに強まった。
城壁の上から金軍の矢が降り、達也軍の弓兵も撃ち返す。その間に歩兵が門へ近づいていった。南側でも太鼓が鳴り続けているため、城内の守備兵は東だけへ集まることができない。
やがて東門の前へ出ていた兵から声が上がった。
「魯王様、門がかなり傷んでおります。もう少しで破れます!」
「なら予備の兵を出せ。前の兵と交代させながら続けろ」
門へ取り付いていた兵が下がり、疲れていない者が代わって前へ出た。
城側から石や矢が落ちてくるが、夜通し戦った守備兵は十分な人数を集められず、攻撃の勢いを止められない。
昼前、東門の一部が大きく壊れた。
「門が開きます!」
「押せ!」
達也軍の歩兵が一気に門へ集まった。
金兵も内側から押し返そうとしたが、数が足りない。門の隙間は次第に広がり、やがて何人もの兵が同時に通れるほどになった。
「入れ!」
達也の命令で歩兵が城内へなだれ込んだ。
門の内側では金軍が抵抗したものの、一度に入れる南宋兵の数が増えるにつれて押し返せなくなった。東門の内側を確保した兵が扉をさらに開き、後続を次々に城内へ入れる。
「門の周りを先に押さえろ。勝手に町の中へ散るな。役所と兵糧庫へ向かう部隊を分けろ。民家には入るな!」
達也は城内へ入った兵がそのまま散開しないよう、次々に指示を出した。
その頃、南側でも守りが崩れ始めていた。
東門が破られたとの知らせが城内へ広がると、南門を守っていた金兵の一部が東へ向かい、その分だけ南側の守備が薄くなった。
しばらくして南側から使者が到着した。
「魯王様、南門も突破できそうです」
「無理に急ぐな。東から入った兵を内側へ回す。外と中から挟め」
達也は城内へ入った部隊の一部を南門へ向かわせた。
内側と外側から挟まれた南門の守備兵は持ちこたえられず、昼過ぎには南門も開いた。
◇ ◇ ◇
開封の中では、金軍の指揮が急速に崩れていった。
西門から多くの兵が脱出し、東門と南門も破られた。残った守備兵の中にはなお戦おうとする者もいたが、どこへ集まればよいのか分からなくなり、まとまった抵抗は次第に難しくなっていた。
達也は東門から城内へ入った。
道の両側では戸を閉めた家が多く、遠くから戦いの音だけが聞こえる。住民たちは外へ出ず、家の中から様子をうかがっていた。
「民家の戸を叩くな。逃げる民も追う必要はない」
少し進むと、武器を捨てた金兵が道端に集められていた。
「捕虜も殺すな。まとめて見張っておけ」
そこへ別の通りから兵が走ってきた。
「魯王様、役所を押さえました。逃げた役人もおりますが、残っている者もおります。兵糧庫も確保いたしました」
「残った役人はそのまま置け。帳面を捨てさせるな。兵糧庫も勝手に開けて配るな。まず中身を調べろ」
「承知しました」
達也は開封を占領したその日から、町を動かすつもりだった。
兵が勝手に食糧を奪えば住民は逃げる。役人を全員追い出せば、税も倉も戸籍も分からなくなる。これから自分が使うものを、自分の軍に壊させる理由はなかった。
◇ ◇ ◇
午後になると、城内でまとまって抵抗する金軍は少なくなった。
残った兵の一部は西へ逃げようとしたが、西方には玉蘭軍がいるとの知らせが広がるにつれて、武器を捨てる者が増えていった。
達也は城内の役所へ入った。
役所の前には、捕らえられた金の役人と武官が並ばされている。
「俺はこの町を焼くつもりはない。仕事ができる者は残れ。役所も倉も、そのまま使う」
役人たちは黙って達也を見ていた。
やがて年長の役人が恐る恐る口を開いた。
「我らは金に仕えていた者にございます。それでも残れと仰せでしょうか」
「俺の命令を聞くなら構わん。出ていきたい者まで無理に残すつもりもない。ただし、帳面を持ち出すな。倉の物にも手を出すな。残る者はこれまでどおり仕事を続けろ」
役人たちは顔を見合わせた。
昨日まで金に仕えていたという理由だけで殺されることも、財産を奪われることもないと分かると、残ることを選ぶ者が出始めた。
達也は続いて市場の状況を確認させた。
「市場は明日から開けさせろ。兵が物を買う時は必ず金を払わせる。略奪を禁じたことも、もう一度全軍へ伝えろ」
「兵が町におりますので、商人が恐れて店を開けない可能性もございます」
「最初はそれでもいい。無理に開けさせる必要はない。ただ、商売をしても奪われないことを分からせろ」
兵を駐屯させる場所についても、民家へ勝手に泊まらせず、空いている官舎や兵営、倉の周辺を先に使わせることにした。
開封を取ったその日から、占領した軍が町を荒らさないようにしなければならなかった。
◇ ◇ ◇
夕方近くになり、西から玉蘭が戻った。
馬に乗ったまま東門を通り、役所まで来ると、達也が外へ出てきた。
玉蘭は馬から降りて報告した。
「西へ逃げた部隊は散り散りになりました。開封へ戻ろうとした者は捕らえております。こちらにも損害はございますが、大きくはありません。深追いはさせませんでした」
「それでいい。ご苦労だった」
玉蘭は周囲を見回した。
町にはまだ兵が多いが、大きな火災は起きておらず、煙もほとんど見えない。
「本当に開封を取られたのですね。思っていたより町が傷んでおりません」
「壊さないように取ったんだからな」
「そのために、ずいぶん手間を掛けましたね」
「帰徳府からずっと同じことをやってきただろう。逃げたい奴は逃がして、城を守る兵を減らす。開封みたいな大きな町なら、なおさら正面から潰し合う必要はない」
達也は役所へ向かって歩き始めた。
「中へ入れ。これからの話をする」
「承知しました」
◇ ◇ ◇
役所の一室には、開封とその周辺の地図が広げられていた。
達也は玉蘭へ城内の状況を説明した。
「東と南はもう押さえた。北も問題ない。西門にも改めて兵を置いた。これで開封全体を確保できた。明日から市場も動かす」
「ずいぶん早く動かされるのですね」
「兵を食わせるにも、町を止めたままにはしておけんからな」
達也は地図へ目を落とした。
帰徳府、曹州、開封までを自軍が押さえたことで、徐州から開封へ兵や物資を運ぶ道がつながった。
「軍馬5万頭を開封へ集める必要はない。帰徳府、曹州、徐州、兗州、済州、東平に分けたままにする。開封には前線で必要な分だけ置く」
「その方がよいでしょう。ここへ集めすぎれば飼葉も水も足りなくなります」
「ああ。お前は明日、北と西の道を見てくれ。逃げた金軍がまとまって戻ってこないか確認してほしい」
「承知しました」
玉蘭は地図の南側へ目を移した。
「臨安には、開封を取ったことをすぐお知らせになりますか」
「もちろんだ。金軍を破って開封を取った。町は無事で、守備兵を置く。それだけ伝える」
「陛下はお喜びになるでしょうか」
達也は少し考えてから答えた。
「先帝なら喜んだだろうな。今の陛下がどう考えるかは分からん」
現在の皇帝趙昀は、達也をまだよく知らない。
しかも臨安の朝廷では、達也が兵と土地を持ちすぎているという声がすでに出ている。その達也が今度は開封まで取ったのだから、朝廷がどう受け取るかは分からなかった。
「兵を減らすよう命じられた場合はいかがなさいますか」
「その時に考える。今は開封を固める方が先だ」
達也は地図を畳んだ。
◇ ◇ ◇
(数日後、南宋・臨安)
開封陥落の知らせは、早馬で臨安へ届いた。
宮中へ報告が上がると、皇帝趙昀の前には重臣たちが集められた。
「魯王が開封を取ったというのか」
「はい。帰徳府、曹州を落としたのち、金の援軍を野戦で破り、開封へ入りました」
「開封まで……」
趙昀は、達也がどのような人物なのかまだ十分には知らない。
先帝趙擴が重く用い、軍を預けてきた男だということは知っている。しかし自分が即位してから見てきたのは、徐州を拠点として北方へ勢力を広げ、軍馬5万頭を抱え、家族まで臨安から移し、ついには開封まで取った魯王の姿だった。
宰相史弥遠が口を開いた。
「陛下、開封奪還そのものは大功にございます。しかし、徐州、宿州、兗州、済州、東平に加え、帰徳府、曹州、そして開封まで魯王の軍が動いております。軍馬も5万頭を数え、鎮北将軍も魯王の側室にございます」
「それは余も承知している」
「今や北方の兵が、朝廷より先に魯王の命令を聞くようになる恐れがございます」
別の重臣も続いた。
「陛下、開封を取った今こそ、軍の指揮を朝廷へ戻させるべきかと存じます。開封や徐州へ朝廷から監軍を置き、軍馬の数も改めて調べる必要がございましょう」
趙昀はすぐには答えなかった。
達也は金軍を破り、南宋の領土を広げている。朝廷に反乱したわけでもない。
それでも重臣たちから同じ懸念を繰り返し聞かされれば、無視することもできなかった。
「魯王は、その命を受け入れると思うか」
史弥遠は頭を下げた。
「陛下の臣であるならば、受け入れるべきにございます」
趙昀は黙ったまま、しばらく考えていた。
◇ ◇ ◇
(1225年2月下旬、開封)
臨安から正式な命令が届くより先に、朝廷で監軍の派遣や軍馬の管理について話が出ているとの情報が、達也のもとへ伝わった。
達也は役所の一室で報告を聞いていた。
「正式にはまだ決まっておりません。ただ、開封と徐州へ朝廷から監軍を送り、軍馬を調べ、各地の兵を朝廷の指揮下へ戻すべきだという話が出ております。史弥遠を中心とする重臣たちが主張していると聞いております」
達也は椅子にもたれた。
「やっぱり来たか」
そばにいた玉蘭が達也を見た。
「陛下ご自身のお考えなのでしょうか」
「それは分からん。だが、陛下は俺のことをほとんど知らない。周りから毎日のように、魯王は危険だ、兵を持ちすぎている、馬を持ちすぎていると言われれば、そう思うようになるだろうな」
「開封を取ったことで、さらに警戒されたのでしょうね」
「たぶんな」
玉蘭は少し考えてから尋ねた。
「こちらから使者を送り、事情をご説明になりますか」
「いや。使者は送らん。俺が直接行く」
「臨安へお戻りになるのですね」
「ああ。ただし軍も連れていく」
玉蘭の表情が変わった。
「軍を率いて臨安へ向かわれるのですか」
「ああ」
「陛下と戦われるおつもりではございませんよね」
「今のところ、そんなつもりはない」
達也は地図を開いた。
開封から南へ進んだ先に、臨安がある。
「俺は陛下を攻めに行くんじゃない。陛下のそばで、俺を危険な奴だと吹き込んでいる連中と話をつけに行く」
達也の指が地図の上を南へ動いた。
「名目も決めた。君側の奸を除く」
玉蘭はしばらく地図を見つめた。
「史弥遠ですか」
「まずはな」
達也は開封を取ったばかりだったが、ここで長く休むつもりはなかった。
先帝の時代には、達也の力も性格も知ったうえで軍を任されていた。今の皇帝は違う。達也をよく知らないまま、周囲の言葉によってその力を警戒し始めている。
「開封の守りを固めたら南へ行く。玉蘭、お前も来てくれ」
「承知しました」
達也は地図の臨安を指した。
「今度は城を取るために行くんじゃない。陛下ご本人と直接お話しして、話をつける」
金軍との戦いは終わっていない。
それでも達也は、開封の先ではなく南を見ていた。
次に向かうのは、南宋の都、臨安だった。




