第7話(後編1)――「逃げ道のある包囲」
(1225年2月中旬、開封東方・達也軍陣営)
金の援軍を破ってから2日後、達也軍は開封の周囲へ兵を広げ始めた。
東側には達也の本隊が陣を置き、北と南にも歩兵と騎兵を配置した。城門からまとまった兵が出れば、すぐに動きを止められる距離である。
ただし、西側だけは配置が違った。
斥候や少数の騎兵は置いているものの、ほかの方角ほど多くの軍旗を立てず、大きな陣も作っていない。城壁の上から見れば、西へ通じる街道だけはまだ使えそうに見える。
達也は開封の城壁を眺めながら、周囲の武将たちへ命じた。
「西へ兵を出しすぎるな。見張りは必要だが、完全に塞いでいるようには見せるな。援軍まで負けたんだ。城の中には、このまま残っていて大丈夫なのかと思っている奴もいるだろう。逃げたいなら逃がしてやればいい」
西へ逃げた兵が別の金軍と合流する可能性はある。それでも達也は、開封の守備兵を減らす方を優先した。
「玉蘭も西門の近くには置かん。逃げ道の先に大軍が待っていると分かれば、誰も出てこないからな」
前日のうちに、玉蘭にはすでに命令を伝えてあった。
西門から続く街道を直接塞ぐのではなく、開封から十分離れた場所に騎兵を隠す。城兵がまとまって西門を出て、城へ戻るにも時間がかかるところまで進んでから攻撃する。
帰徳府で使った方法と基本は同じだが、今度は相手の数も城の大きさも違う。
「まず3日見る。その間、東と南には攻める動きを見せるが、総攻撃はしない。3日待っても動かなければ、その時は別の手を考える」
達也は急いでいなかった。
大軍を城壁へぶつければ味方にも大きな損害が出る。城内で火が出れば町そのものも傷む。これから開封を北方の拠点として使うつもりなのだから、できるだけ壊さずに取った方がよかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、達也軍は東門と南門へ歩兵を近づけた。
兵たちは攻城に必要な距離を測り、弓兵も前へ出る。それを見た金軍は城壁上の兵を増やし、南宋軍がどこから攻めてくるのか分からないため、各門へ守備兵を振り分けていた。
達也は東側の陣から、その動きを見ていた。
「西に変わった動きはあるか」
「まだございません」
「なら、そのままでいい」
しばらくすると城壁から矢が飛んできた。
達也軍も撃ち返したが、城壁へ無理に近づくことはしなかった。
金軍から見れば、南宋軍は攻城の準備を進めている。だが、いつまで待っても本格的な攻撃は始まらない。その状態を続けることに意味があった。
夜になっても、達也軍は東、北、南の陣から灯火を消さなかった。
西側だけは暗い。
城壁から見ても、その違いははっきり分かるようにしてあった。
◇ ◇ ◇
(同日夜、開封西方)
玉蘭は開封から離れた村の近くに騎兵を分散させていた。
街道の正面に兵を並べれば、開封から出てきた斥候に見つかる。そのため騎兵は林や低い丘の裏へ分けて待機させ、街道そのものには少数の見張りしか置いていない。契丹兵300騎も各隊に分けて配置してあった。
玉蘭は馬を降り、地図を広げて指揮官たちと配置を確かめた。
「西門から兵が出ても、すぐに攻撃してはいけません。この村の辺りまで進ませます。ここまで来れば開封からかなり離れますから、私たちを見つけて引き返しても、城へ戻る前に追いつけます」
「少数だけ出てきた場合はいかがいたしましょう」
「見ているだけで構いません。数十人を捕らえるために、こちらが待っていると城へ知らせる必要はありません。達也様が望んでいるのは、開封の守備兵をまとまって外へ出すことです」
玉蘭は地図から顔を上げた。
「こちらからは城内の動きが見えません。達也様から来る使者を見落とさないようにしてください。それから馬を十分に休ませておきます。敵が出れば夜でも走ります」
「承知しました」
兵たちは順番に食事を取り、馬には飼葉と水を与えた。
玉蘭も厚い外套を着て身体を休めたが、いつでも騎乗できるよう、馬具は外させなかった。
◇ ◇ ◇
(翌日、開封東方)
包囲2日目になっても、達也は総攻撃を始めなかった。
朝には東門へ兵を寄せ、昼には北側の騎兵を動かし、夕方には南側へ荷車を集めさせた。城内から見れば、どこかで大きな攻撃が始まるように見える。
しかし実際には、城壁へ近づいた兵を途中で止め、無駄な損害を出さないようにしていた。
やがて斥候が達也のもとへ報告に来た。
「魯王様、昨夜、西門から10騎ほどが出ました。西へ走ったあと、今朝になって城へ戻っております。鎮北将軍の部隊には気付いていないようです」
達也は小さくうなずいた。
「西の様子を見に来たんだろう。大軍がいないことも確認したはずだ。今夜も配置は変えるな」
せっかく金軍が西は空いていると考え始めたところで、兵を増やす理由はない。
その日の午後には、今度は使者らしい騎兵2騎が西門から出た。
部下が追うべきか尋ねたが、達也は止めた。
「行かせろ。西が開いていると向こうに伝えてくれれば、それでいい。援軍を頼んで別の軍が来るなら、また外で叩けば済む。今は城の中にいる連中に、逃げ道があると思わせる方が大事だ」
達也は開封の城壁を見上げた。
こちらが西を塞いでいないことは、もう金軍にも伝わっている。
あとは城内の兵が、そこを本当の逃げ道だと信じるかどうかだった。
◇ ◇ ◇
包囲3日目になると、城内の動きが変わった。
西門付近へ集まる荷車が増え、城壁の上でも西側を守る兵より、東や南を見る兵の方が目立つようになった。
昼過ぎ、斥候が達也の陣へ入ってきた。
「魯王様、西門の内側へ兵と荷車がかなり集まっております。城壁の上からではすべて確認できませんが、昨日までとは明らかに違います」
「今夜にでも出るつもりかもしれんな」
達也は周囲の武将たちを集めた。
「今夜は動くかもしれん。だが西門が開いても、すぐ東から攻めるな。まず何人出るかを見る。かなりの数が出たところで玉蘭へ知らせ、それから東と南の兵を前へ出す」
「西から逃げる兵に城内が気を取られている間に動くのでございますね」
「ああ。逃げる連中を助けるために兵を回すかもしれんし、西門を閉じて残った兵で守ろうとするかもしれん。どちらでもいい。城の中が乱れれば、それだけこっちは攻めやすくなる」
達也は開封を1日で落とそうとは考えていなかった。
まず守備側に自分から兵を減らさせる。
城を攻めるのは、そのあとでよかった。
◇ ◇ ◇
その日の夜、開封の西門が開いた。
最初に出てきたのは騎兵だった。
その後ろから歩兵が続き、さらに荷車も出てくる。
城壁から離れた場所で見張っていた斥候が、すぐに東側の陣へ馬を走らせた。
「魯王様、西門が開きました。兵が次々に出ております。少数ではございません」
「玉蘭へ知らせろ。ただし、こっちはまだ動くな」
使者が馬を飛ばした。
達也は西門からどこまで兵が出るのかを見極めるため、そのまま待った。
しばらくすると次の報告が届いた。
「まだ出ております。荷車もかなりの数です」
「よし。東と南を前へ出せ。ただし、まだ城壁へ無理に取り付くな。今は本格的な攻撃が始まると思わせればいい」
南宋軍の陣で太鼓が鳴った。
東側の歩兵が動き、南でも兵が城壁へ近づいていく。開封の城内では警鐘が鳴り、城壁の上を兵が走り始めた。
西門から逃げる部隊と、東や南の守りへ向かう兵が同時に動き、城内は慌ただしくなっていった。
「西門からは?」
「まだ出ております」
「なら待て。逃げるなら、できるだけ大勢に出てもらった方がいい」
達也は急がなかった。
今夜の目的は、城内にいる敵兵を1人でも多く外へ出すことだった。
◇ ◇ ◇
(同日深夜、開封西方)
達也からの使者が玉蘭のもとへ到着した。
「鎮北将軍、西門から大勢の兵が出ました。魯王様より、予定どおりとのことです」
「分かりました。各隊へ知らせてください。ただし、まだ街道へ出てはいけません。開封から十分離れるまで待ちます」
玉蘭はすぐ馬に乗り、騎兵隊を暗闇の中で配置につかせた。
やがて街道の先に松明の明かりが見え始めた。
先頭には騎兵がいる。その後ろには歩兵と荷車が長く続き、開封から逃げる部隊がかなりの数に上ることが分かった。
玉蘭はまだ動かなかった。
敵の先頭が伏兵のいる場所を通り過ぎても待ち、歩兵と荷車をさらに奥へ入れる。
「将軍、先頭はかなり先まで進んでおります」
「まだ待ちます。後ろをもっと入れてください」
城へ戻るにも、先頭へ追いつくにも時間がかかるところまで、敵の隊列を長く引き伸ばす。
やがて最後尾の兵まで伏兵の前を通り始めた。
玉蘭はそこで初めて命令を出した。
「後ろを塞いでください。前の部隊は逃げても構いません」
林の陰に伏せていた騎兵が一斉に動いた。
突然現れた騎兵を見て金軍の最後尾が止まり、その直後には街道の左右から別の騎兵隊も姿を現した。
「敵だ!」
叫び声が夜の街道へ広がった。
玉蘭も騎兵を率いて前へ出る。
「隊を崩さないでください。荷車の間へ入り込みすぎないように!」
開封から逃げてきた金軍は、長く伸びた隊列の途中を襲われ、前後の連絡を失った。
前方の兵には後ろで何が起きているのか分からない。後方の兵は開封へ戻ろうとしても、玉蘭軍に道を塞がれている。荷車が止まったことで、その後ろから来た兵まで次々に詰まった。
「側面から押してください。ただし、西へ逃げる者まで追う必要はありません。開封へ戻さなければ十分です」
玉蘭軍の騎兵が隊列の側面へ繰り返し攻撃した。
金兵の一部は荷を捨て、西へ逃げ始めた。
玉蘭は追わせなかった。
ここでの目的も、敵を1人残らず倒すことではない。
開封へ戻る兵を減らせば、それでよかった。
◇ ◇ ◇
(同時刻、開封東方)
玉蘭が西で戦い始めた頃、達也のもとにも報告が届いた。
「魯王様、鎮北将軍が逃走部隊への攻撃を始めました」
「始まったか」
達也は開封の東門へ目を向けた。
西門からはすでにかなりの数の兵が出ている。そのうえ城内では、東と南への攻撃に備えるため、残った守備兵も動き回っている。
待っていた時が来た。
「東門を攻める。今度は見せかけじゃない。南からも同時に攻めろ。ただし火は使うな。町を焼くなよ。西は玉蘭に任せて、こっちの兵を回す必要はない」
「承知しました!」
太鼓が鳴った。
それまで城壁の手前で止まっていた歩兵が、今度は本当に東門へ向かって進み始める。弓兵も前へ出た。
城壁の上から矢が飛んできたが、これまでより明らかに数が少ない。
「やっぱり減ったな」
西門から逃げた兵の分だけ、開封の守りは薄くなっている。
しかも夜中に東と南の両方から本格的な攻撃が始まり、城内の守備兵は限られた人数をどちらへ回すか決めなければならない。
達也は馬上から東門を見ながら、前線の動きを確かめた。
「今夜のうちに門の前まで行く。ただし、無理に城内へ入る必要はない。門が開けばそのまま入るが、開かなければ朝まで攻め続ける」
「では、兵を休ませずに圧力をかけ続けるのでございますね」
「ああ。西へ逃げた連中は玉蘭に任せる。俺たちは、ここに残った兵を休ませない」
東門へ向かう達也軍の太鼓が、夜の開封に響き続けた。
西門からは大勢の兵が抜け、その逃走部隊を城外で玉蘭軍が攻撃している。残された守備兵には休む暇もなく、東と南から達也軍の本格的な攻撃が始まった。
開封の守りは、達也が待ち続けた3日目の夜に大きく崩れ始めた。




