第2話(後編2)――「血まみれの客人」
(1116年10月、北宋・山東東平府清河県郊外)
光が消えたあとも、達也はしばらく運転席から動かなかった。
両手でハンドルを握ったまま、フロントガラスの向こうに広がる濃い闇を見つめる。エンジンは止まっていた。
耳を澄ませても、車体の下で岩が崩れる音はしない。天井や側面から押し潰される気配もなく、わずかに水の滴る音が聞こえている。
転移そのものは無事に終わったらしい。
達也は懐中電灯を取り、運転席の窓から外を照らした。
右側には灰色の岩壁があり、車体との間は狭いものの、人が横向きになれば通れる。左側にはもう少し余裕があり、運転席の扉も半分ほど開けられそうだった。
前方は数メートル先まで平らな岩床が続き、その先で洞窟が細くなっている。後方には入口から淡い光が差し込んでいた。
10トン車は岩壁にも天井にも触れていない。
転移位置が少しずれていれば、車体の一部が岩へ重なっていた可能性がある。反対に入口側へずれていれば、外から車体を見つけられていたかもしれない。
達也が運転席の扉を押すと、途中で岩壁に近づいて止まった。それでも、身体を横にすれば外へ出られるだけの幅はある。
地面へ足を下ろした達也は、まず自分の身体を確かめた。
腕も脚も19歳のものに変わっている。背丈や手足の長さに大きな違和感はないが、26歳の時より身体が軽く、肩や腰の筋肉の付き方も変わっていた。
記憶は残っている。
1900年の香港で受けた4年間の訓練も、順子たちと交わした最後の言葉も覚えていた。
洞窟の入口へ近づくと、外には木々の茂る斜面があり、その先に青みを帯びた山並みが重なっていた。地面には落ち葉が積もり、夜露を含んだ土と枯れ草の匂いが漂っている。
空は晴れていた。太陽の位置から見て、午前8時を少し過ぎたころである。
達也は洞窟の外へ出て、車体が見えないことを確かめた。入口の左右から岩が張り出しており、少し離れるだけで内部は暗くなる。枝葉の隙間から注意深くのぞかない限り、奥に車が隠れているとは分からない。
奇跡に近い到着だった。
車へ戻って荷台と燃料容器を点検したが、固定具が外れた荷物はなく、水の容器にも漏れはない。食料、衣類、薬、紙、墨、工具、寝具も積み込んだ時のままだった。
最初に持ち出す背負い袋も、予定どおり運転席の後ろに置かれている。中には干した食料、水筒、薬、火打ち道具、銅銭、少量の銀、布、縄、方位磁石、筆記用具を入れてあった。
達也はその中から小さな革袋を取り出した。北宋で当面の費用に使う銀である。大きな銀塊では村の店や宿で受け取りを断られる可能性があるため、細かく切ったものも用意していた。
腰に革袋と短刀を付け、右手には刃渡りが長く峰の厚い屶を持つ。山道を塞ぐ枝を落とし、薪を割るための道具だが、獣や賊に襲われた場合には武器にもなる。
達也は洞窟を離れ、斜面を下り始めた。
最初の目的は水場の確認である。そのあとで人が通った跡を探し、村か町へ続く道を見つける。4年間学んだ言葉が、1116年の人間にどこまで通じるのかも確かめなければならない。
洞窟から離れるにつれて、水の流れる音が強くなった。
木々の間を抜けると、幅2メートルほどの沢があった。水は澄み、浅瀬の石まで見える。達也は上流と周囲を調べ、人や家畜の糞、腐った動物の死骸がないことを確かめた。
水筒へ水を入れようと腰を下ろした時だった。
「助けて!」
女の甲高い悲鳴が響いた。
続いて男たちの怒鳴り声と馬のいななきが重なり、枝の折れる音まで聞こえてきた。
達也は水筒を置き、屶を握って走り出した。
声は沢の下流から聞こえる。濡れた石を避けながら木々の間を抜けると、少し開けた場所に馬車が止まっていた。
馬は暴れ、手綱を引きちぎりかけている。地面には籠や布包みが散らばり、男が3人倒れていた。
怪我をして動けないわけではない。1人は木の根元に尻をつき、両脚を投げ出している。別の男は四つんばいになったまま顔を上げられず、残る1人は馬車の車輪へしがみついていた。
その先に3人の女がいた。
濃い色の上着を着た女が前に立ち、他の2人を背後へかばっている。3人とも木の幹を背にしており、それ以上は下がれない。
女たちの前には、大きな熊がいた。
黒褐色の毛に覆われた身体は人の胸ほどの高さがあり、立ち上がれば達也よりはるかに大きい。前脚の爪は太く、口元から唾液が垂れている。
熊が頭を下げ、女たちへ向かおうとした。
「こっちだ!」
達也は声を上げ、屶の峰で近くの木を打った。
乾いた音が山中へ響き、熊が振り向いた。
熊と向き合うのは生まれて初めてだった。人間なら武器や動きから次の行動を読めるが、熊がどのように襲いかかるのかは分からない。屶の一撃で倒せる保証もなかった。
それでも達也は逃げなかった。
木の前にいる3人の女は、いずれも目を引くほど美しかった。豪商か官吏の家族らしく、髪には飾りを挿し、上質な布で仕立てた衣服を着ている。
19歳の身体になっても、美しい女たちの前で逃げたくないという達也の性分までは変わっていなかった。
「動かないでください。木から離れないで」
言葉が通じたか確かめる暇もなく、熊が四つ脚で突進してきた。
達也は正面から受けず、右へ身体を外した。熊の前脚が振られ、屶の刃に当たる。腕が痺れ、柄が手から抜けそうになった。
爪が上着を裂き、左腕の皮膚を浅く切った。
達也は痛みを確かめるより先に屶を振り下ろした。
刃が熊の肩へ食い込む。
熊は身体をひねり、達也を突き飛ばした。地面を転がった達也の口に、落ち葉と土が入った。
すぐに起き上がると、熊が再び迫っている。
達也は左手で近くの木を支え、立ち上がりながら屶を横へ振った。刃先が熊の鼻面を切り、熊は頭を振って吠えた。
沢の水音さえ消すような声だった。馬がさらに暴れ、馬車が大きく揺れる。地面に倒れていた男たちは、逃げることも女たちを助けることもできずにいた。
達也は熊の左側へ回った。
前脚が振られるたびに間合いから外れ、熊が向きを変えようとするところへ、肩、首、脇腹を狙って屶を打ち込む。
屶は刀ではない。切れ味だけで肉を断つのではなく、厚い刃と重さを使って叩き切る道具である。達也は薪を割る時と同じように、腰と肩を使って振った。
熊の爪が右脚をかすめ、ズボンが裂けて血が流れた。
それでも下がらない。
熊が後脚で立ち上がった瞬間、達也は身体の横へ踏み込み、前脚の付け根へ屶を打ち込んだ。
熊の巨体が傾いた。
達也は屶を引き抜き、首へ続けて2度振り下ろす。熊は地面へ倒れたが、まだ脚を動かしていた。
背後へ回り、首と頭の境へ刃を入れる。何度も屶を振るううちに熊の動きは弱まり、最後に身体が痙攣すると、それきり動かなくなった。
達也は屶を持ったまま立っていた。
上着とズボンには血が飛び、両手も赤く染まっている。自分の血だけではなく、熊の血が顔や髪にまで付いていた。
木の前にいた3人の女は、声もなく達也を見つめている。
達也は熊の腹が動いていないことを確かめ、女たちへ顔を向けた。
「怪我はありませんか」
4年間学んだ北方の言葉で尋ねると、先ほど前に立っていた女が答えた。
「私たちは無事です。それより、あなたは腕と脚から血が出ています」
言葉は通じた。
発音には違いがあるものの、意味を聞き取れないほどではない。北宋へ着いて最初に交わした会話が、熊を殺した直後になるとは思ってもいなかった。
「この程度なら大丈夫です」
裂けた袖から傷を確かめる。左腕は浅く切れているだけで、右脚も歩けないほどではない。
木の根元にいた男がようやく立とうとしたが、膝に力が入らず、幹へ手をついて再び腰を落とした。馬車の車輪へしがみついていた男も、顔から血の気が引いたままである。
「熊は死んでいます。それより馬を落ち着かせてください。このまま暴れれば馬車が倒れます」
男の1人が返事をし、這うように馬へ近づいた。
達也は倒れた熊を見た。
これほど大きな獲物を、そのまま山へ捨てる理由はない。肉は食料になり、脂、内臓、骨にも使い道がある。毛皮も高く売れるはずだった。
もっとも、熊を最初から最後まで解体した経験はない。香港では牛や豚の解体を見て刃物の入れ方を教わったが、熊はそれらより大きく、皮の厚さも違う。
「この熊は、あなた方が持ち帰りますか」
3人の女は顔を見合わせた。
年長に見える女が答えた。
「あなたが倒した熊です。私たちが勝手に持ち帰るものではありません」
「僕は旅の途中ですから、全部は運べません。毛皮と肉を少し分けてもらえれば十分です」
「それなら家の者に運ばせます。でも、その前にあなたの傷を手当てしなければ」
「先に熊を処理します。時間を置けば肉が傷みます」
達也は屶の血を草で拭い、熊の後脚へ刃を入れた。
女たちは当然その場を離れるものと思っていたらしいが、3人とも動かなかった。
熊の腹を上へ向けようとしたものの、1人では重い。達也は男たちにも手を貸すよう頼んだ。先ほどまで腰を抜かしていた男たちも、死んだ熊なら触れるらしく、3人がかりで縄を掛けて身体を転がした。
達也は腹部から切り開き、内臓を傷つけないよう手を入れた。
鼻を刺す生臭さが立ち上り、温かい血が腕を伝う。
内臓を取り出して使えるものと捨てるものを分け、皮と肉の間へ刃を入れた。男たちに皮を引かせながら少しずつ剥ぎ、首、肩、前脚、胴、後脚を順に分けていく。太い骨は関節から外し、外れない部分には屶を打ち込んだ。
刃が骨へ当たるたびに重い音が響く。
途中で水を使って屶と手を洗っても、すぐに血と脂で汚れた。顔の血を袖で拭ったため、頬には赤黒い筋まで広がっている。
熊と戦った時より、解体する方が長くかかった。
3人の女は、血まみれになった達也が黙々と熊を切り分ける姿を見ていた。
やがて華やかな衣服を着た女が口元を押さえた。肩が揺れている。隣の女も耐えきれなくなったらしく、笑い声を漏らした。
「何がおかしいのですか」
「熊へ向かった時は、話に聞く豪傑のようでした。それなのに熊を倒したあとは、肉屋の主人より細かく切り分けています。あまりに違うので、つい」
「捨てればもったいないでしょう」
「そのとおりです。命を救ってもらった者が笑ってはいけませんね」
「笑うくらいなら構いません。それより、この毛皮を引いてください。端を地面へ付けないようにお願いします」
女は驚いた顔をしたあと、また笑った。
達也には3人を怖がらせないよう気を遣っている余裕などなかった。熊の皮は一度傷めれば元へ戻せず、男たちだけでは手が足りない。
側にいた2人の女も加わり、毛皮の端を持った。
作業が終わったころには、太陽が頭上近くまで昇っていた。
熊は肉、骨、内臓、毛皮に分けられ、達也の衣服は乾きかけた血で固まっている。近づけば汗と獣脂の匂いもした。3人の女の裾にも土と血が付いていた。
男たちは馬を落ち着かせ、散らばった荷物を集めた。馬車の後部へ敷物を広げて熊の肉と骨を積み、内臓は容器へ入れる。毛皮は肉に触れないよう別に包んだ。
達也が自分の分として肉の一部と小さな骨を受け取ろうとすると、年長の女が止めた。
「その格好で山へ戻るつもりですか。傷を洗わず、血まみれの服で歩けば別の獣を呼び寄せます。それに、私たちはまだお礼をしていません」
「近くに荷物を置いてあります。着替えもありますから、礼は必要ありません」
「必要があるかどうかを決めるのは、助けられた私たちです」
口調は穏やかだが、相手に断らせない強さがあった。
華やかな衣服の女も口を挟んだ。
「家へ来てください。湯を使って傷へ薬を付け、食事をしてから帰ればよいでしょう。あなたが断るなら、私たちもこの血の付いた姿で町へ戻ることになります」
「皆さんまで血まみれになったのは、僕のせいではないでしょう」
「毛皮を持てと言ったのは、どなたでしたか」
達也は返す言葉を失った。
3人目の女も馬車の荷台を見ながら続けた。
「熊の肉も骨も内臓も、家で預かります。あなたの分は傷まないよう処理しておきますし、毛皮も職人に渡さなければ、そのままでは使えません」
達也は少し考えた。
北宋へ着いたばかりの自分には、宿も身元もない。目の前の3人が何者なのかも分からないが、衣服と馬車を見る限り貧しい家の者ではなかった。
町へ入る最初の手掛かりとして、この縁を無視する理由はない。
「分かりました。お世話になります」
年長の女はうなずき、そこで初めて自分の名を告げた。
「私は呉月娘、27歳です。清河県で商いをしている西門慶の正室です」
続いて落ち着いた顔立ちの女が名乗った。
「私は孟玉楼、30歳。西門家の第3房です」
最後に、華やかな衣服の女が達也を見た。
「私は潘金蓮、27歳。第5房です。熊を前にしても怖がらなかったのに、女の家へ行くと決まった途端、困った顔をするのですね」
「熊より、知らない家の方が用心する必要があります」
金蓮が声を立てて笑い、月娘も達也の姿を見て顔をほころばせた。
「用心するのは悪いことではありません。ですが、今のあなたを見て襲おうとする者はいないでしょう」
達也は自分の姿を見下ろした。
上着もズボンも熊の血で染まり、屶には拭い切れなかった脂が残っている。山賊というより、獣を解体して逃げてきた男にしか見えない。
そこで、達也は今聞いた名の意味に気づいた。
西門慶。
北宋へ渡る前に調べた物語の中に、その名があった。
豪商であり、薬屋や質屋など複数の商売を営み、官吏とも結びつきを持つ男。そして、その妻妾の中には呉月娘、孟玉楼、潘金蓮という女たちがいる。
達也は目の前の3人を見た。
フランス女を捜すために1116年へ来たはずだった。それが北宋へ到着した初日に熊を倒し、『金瓶梅』に登場する西門慶の正室と2人の側室に出会っている。
偶然で済ませるには出来すぎていた。
しかし、達也は自分が知っている物語の内容を口にはしなかった。
この3人が、達也の知る物語と同じ人生を歩むとは限らない。そもそも、物語に書かれた人物が実在している理由さえ分からなかった。
達也は屶を布で包み、馬車の後部へ載せた。
男たちは熊の肉や骨の間を空け、達也が座れる場所を作った。しかし、月娘は首を横へ振った。
「命を救ってくれた方を、熊の肉と一緒には乗せられません。こちらへお乗りください」
「この格好で、皆さんと同じ場所へ乗るのですか」
「だから家へ連れて帰るのです。まず湯を使ってもらいます」
玉楼が敷物を座席へ重ねた。
「これなら血が付いても洗えます」
達也は諦めて馬車へ乗った。
月娘、玉楼、金蓮も座席へ入る。血と獣脂の匂いが狭い車内に広がると、金蓮が鼻元へ袖を当てた。
「やはり、熊の肉と一緒に乗ってもらった方がよかったかもしれません」
「僕もそう言ったでしょう」
玉楼が笑い、月娘も顔をほころばせた。
馬車が動き始めた。
車輪が石を踏むたび、後部に積んだ熊の骨がぶつかり合う。達也は山道を覚えるため、窓から地形を確かめ続けた。
洞窟の位置を知られるわけにはいかない。荷物を置いてきたという説明以上のことも話せなかった。
やがて山道が広くなり、畑と人家が見え始めた。
達也は1116年の北宋へ無事に着いた。
10トン車は奇跡的に洞窟へ収まり、食料も銀も失っていない。言葉も、少なくとも日常の会話には使える。
ところが、最初に町へ入るために乗ったのは西門家の馬車であり、向かいに座っているのは呉月娘、孟玉楼、潘金蓮だった。
達也は3人に気づかれないよう息を整え、窓の外へ目を向けた。
フランス女を追う前に、1116年の北宋で何が起きているのかを確かめる必要があった。




