第7話(中編1)――「帰徳府を抜く」
(1225年1月下旬、帰徳府東方・達也軍陣営)
夜が深くなるにつれ、帰徳府の城壁に並ぶ灯火が減っていった。
達也軍の陣でも松明を必要以上に増やさず、兵には声を抑えさせている。西へ向かう街道の近くには兵をほとんど見せていないが、警戒を解いたわけではない。街道から少し離れた畑や林の陰には、騎兵と歩兵を分けて伏せてあった。
城から見れば、西へ逃げる道だけが空いているように見えるはずだった。
達也は厚手の外套を着て陣の前に立ち、帰徳府の西門付近を見ていた。
「まだ動かんか」
「今のところ、門に大きな動きはございません」
「なら待てばいい。朝まで出なければ、その時は別の手を使う」
そばにいた兵は、城兵が本当に出てくるのか気になる様子だった。達也にも確信があるわけではない。
「曹州が落ちたと知れば、城の中でも意見は割れるだろう。ここで死ぬまで戦うか、開封へ逃げるかだ。開封まで行けば援軍を受けられると思う奴もいる。だから西を開けてある」
達也は地図を開き、西門から延びる街道を指した。
「ただし、出てきても城門の前では襲うな。十分に西へ進ませ、城へ戻るのが難しくなってから叩く。門の近くで戦えば、後ろにいる連中まで慌てて城へ閉じこもるからな」
「承知しました」
伏兵にはすでに細かな命令を伝えてある。敵が少数なら捕らえ、まとまった部隊なら城から十分離れたところで前後から挟む。ただし全滅させる必要はなく、西へ抜けて開封へ逃げる兵が出ても構わない。目的は帰徳府の守備兵を城外へ引き出し、その数を減らすことだった。
夜半を過ぎた頃、西側を見張っていた斥候が駆け戻ってきた。
「魯王様、西門が開きました。騎兵だけではありません。歩兵と荷車も出ております」
周囲にいた兵たちの顔つきが変わった。
「数はまだ分からんか」
「はい。ただ、偵察に出た程度の人数ではございません」
「分かった。伏兵へ伝えろ。まだ攻撃するな。城へ戻れないところまで進ませてから動け。先頭と後ろを押さえるが、西へ抜ける奴まで全部追う必要はない」
使者が走り出すと、達也自身も馬に乗った。
帰徳府の西門からは次々に兵が出ており、暗闇の中でも松明の列が街道に沿って長く伸びていくのが分かった。守備兵の一部が様子を見に出たのではない。かなりまとまった部隊が、城内に残って戦うより開封へ逃げる方を選んだのである。
達也はすぐには動かなかった。
せっかく自分から城を出てきたのだ。十分な距離まで進ませれば、もう帰徳府の城壁には守ってもらえない。
◇ ◇ ◇
城から出た金軍は、西へ向かって急いでいた。
先頭には騎兵が立ち、その後ろに歩兵と荷車が続いている。南宋軍の姿が西側にほとんど見えなかったため、脱出に成功したと思った兵も多かった。
しかし城壁が遠ざかり、帰徳府へ引き返すにも時間がかかるところまで進んだ時、街道の前方から馬の蹄の音が響いた。
闇の中から達也軍の騎兵が現れ、金軍の先頭が止まった。
「敵だ!」
叫び声が上がった直後、今度は後方からも騎兵が迫る。
逃走中の金軍は街道上で詰まり、前へ進むことも城へ戻ることも難しくなった。
少し離れた場所から戦況を見ていた達也は、歩兵を街道の外へ回した。
「正面だけで押し合うな。左右の田畑へ広がれ。荷車は燃やさず、そのまま取れ」
歩兵が街道の両側から金軍へ迫った。
帰徳府から出た兵も、攻撃を受ける可能性を考えていなかったわけではない。しかし逃走のために隊列が長く伸び、荷車まで抱えている状態では、城内にいた時のようにまとまって戦うことはできない。
先頭の騎兵が南宋軍とぶつかる一方、後方の歩兵は何が起きているのか分からないまま足を止めた。そこへ背後からも攻撃を受け、混乱はさらに広がった。
それでも達也は、全軍を一気に突っ込ませなかった。
「西は完全に塞ぐな。逃げたい奴は逃がしてやれ。帰徳府へ戻る道だけ押さえろ」
達也軍が西側に逃げ道を残していると気付いた金兵の一部が、武器や荷を捨てて街道の外へ走り出した。それを見た別の兵も続き、やがて部隊としてのまとまりそのものが崩れていった。
「今だ。残っている奴を押さえろ」
達也の命令で歩兵が前へ出た。
逃げずに抵抗を続けた金兵は次々に囲まれ、武器を捨てた者は捕虜となった。夜明け前には戦いの大勢が決まり、西へ逃げ切った兵もいたが、多くの兵が捕らえられていた。
達也にとって重要なのは、敵を何人倒したかではない。帰徳府からまとまった数の守備兵が消えたことである。
捕虜を何人か別々に調べさせると、昨夜城を出たのは守備兵のかなりの部分であり、城内には残留を選んだ兵と役人がいるものの、以前より大幅に兵が減っていることが分かった。
「西門は閉じられたそうだな」
「はい。城内でも、昨夜の部隊が逃げたことは分かっているようです」
「なら、朝から攻める。もう待つ必要はない」
達也は馬首を帰徳府へ向けた。
◇ ◇ ◇
夜が明ける頃、帰徳府の城内にも昨夜の結果が伝わっていた。
西門から脱出した部隊が無事に開封へ着いていないことは、遠くで続いた戦いの音からも分かっていた。城壁の上では残った兵が南宋軍の動きを見ている。東側には昨日までより多くの歩兵が集まり、南にも兵が動いていた。西の街道には、夜の戦いで散らばった荷や倒れた馬が残っている。
達也は城の近くまで進み、攻撃の準備を確認した。
「西も今度は塞げ。もう逃げ道を残しておく必要はない」
弓兵が前へ出て、歩兵も城門や城壁へ近づく準備を始めた。
達也は城全体を一斉に攻めるのではなく、昨夜の脱出で兵が減った西側と、それまで圧力をかけ続けてきた東側の両方へ兵を見せた。どちらが本当の攻撃なのか分からなければ、守備側は少ない兵をさらに分けなければならない。
朝が明るくなった頃、達也は攻撃を命じた。
弓兵が城壁の上を狙い、歩兵が前へ進む。城側からも矢が飛んできたが、昨日までと比べて明らかに数が少ない。
「やっぱり減ってるな」
東側で攻撃を始めると、残った金兵がそちらへ集まり始めた。達也はその動きを確認してから西側にも兵を進ませた。
昨夜、多くの兵が逃げ出した西門周辺は守りが薄くなっている。東西の両方から南宋軍が近づけば、城壁の上の兵はさらに分かれなければならない。
達也は兵を1か所へ詰め込まず、守備兵を何度も移動させた。
昼近くになると、城内の兵には疲れが見え始めた。西側では南宋軍が城門へ取り付き、門を破ろうとしている。東側でも戦いが続いているため、西へ十分な兵を回せない。
「西へ予備の歩兵を入れろ。もう一押しだ」
新たな歩兵が加わってからしばらくすると、城門の一部が破られた。南宋兵がそこへ殺到し、門の内側で金兵とぶつかる。
守備側も必死に押し返したが、昨夜までいた兵の多くはもういない。戦いは次第に南宋軍が優勢となり、ついに兵が城内の広場へ押し出した。
「入ったぞ!」
声が上がると、達也はすぐ東側の部隊へ使者を走らせた。
「東の兵にも知らせろ。いつまでも城壁に張り付いている必要はない。西から入った兵に東門を開けさせる」
城内へ入った兵は抵抗を排除しながら進み、別の門へ向かった。
各所で戦いは続いたものの、守備側の指揮は次第に崩れていった。昼過ぎには東門も内側から開かれ、外で待っていた達也軍がそこから城内へ入る。
夕方までには、大半の守備兵が武器を捨てるか逃走した。
帰徳府は達也軍の手に落ちた。
◇ ◇ ◇
達也は城へ入ると、兵が民家へ向かわないよう直ちに命令を出した。
「略奪はするな。勝手に民家へ入ることも許さん。女にも手を出すな。必要な食糧は倉から出すか、金を払って買え。城門と役所、兵糧庫、馬屋を先に押さえろ。火も出すな」
命令は各隊へ伝えられた。
達也は帰徳府を一時的な戦場としてではなく、これから始まる開封攻略の拠点として使うつもりだった。町を焼けば、あとで困るのは自分たちである。食糧も宿も倉も、できる限りそのまま残しておいた方がよい。
役人の中には逃げた者もいたが、城に残った者もいた。
達也は集められた役人たちを前にして告げた。
「町の仕事は今までどおり続けろ。税や倉の帳面も捨てるな。金に仕えていたことだけで追い出すつもりはない。仕事ができて、これから俺の命令に従うならそのまま使う」
役人たちは戸惑っていたが、殺されるわけでも財産を奪われるわけでもないと分かると、やがて役所へ戻っていった。
城内の兵糧庫を確認させた達也は、西へ延びる街道を見た。
帰徳府は取った。
玉蘭も曹州を取っている。
これで開封へ向かう2本の道がそろった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、達也は玉蘭へ使者を出した。
書状は長く書かなかった。
『帰徳府を取った。こちらの道は開いた。曹州で兵を休ませたあと、開封の北東へ進め。俺も西から向かう。開封の手前で合流する』
使者は馬を替えながら曹州へ向かった。
達也はその後も休まず、城内の守備と物資の確認を続けた。帰徳府に全軍を残す必要はない。必要な守備兵だけを置き、負傷兵を休ませ、兵糧の一部を前線用に分けることにした。
「帰徳府はこれからも使う。倉を空にするな。開封へ向かう軍には、まず3日分を持たせればいい。残りは後から運ばせろ」
兵站を担当する者へ命じたあと、達也は地図を広げた。
帰徳府から開封へ延びる街道と、曹州から開封へ向かう道は、その手前で次第に近づいていく。
ここまで来れば、金軍も達也が開封を狙っていることを疑う余地はない。次に相手をするのは開封の守備兵だけではなく、周辺から集められる援軍になるだろう。
だが達也は、それで構わないと考えていた。
援軍が来るなら、開封へ入られる前に外で叩けばよい。
◇ ◇ ◇
(1225年1月末、曹州)
玉蘭のもとへ達也からの使者が到着した。
書状を読み終えた玉蘭は、待機していた指揮官たちを集めた。
「達也様が帰徳府を取りました。こちらも開封へ向かいます。ただし、すぐに全軍を動かすことはいたしません。曹州には守備兵を残し、負傷した者もここで休ませます。疲れている馬も置いていきます」
開封まで急ぐ必要はないのかと尋ねられると、玉蘭は地図を広げた。
「急いで馬を潰しては意味がありません。達也様も帰徳府で兵と物資を整えてから進まれます。こちらは先に騎兵を出し、開封周辺の金軍の動きを調べます」
玉蘭は開封の北東へ続く道を指した。
「大きな軍を見つけても、勝手に戦ってはいけません。達也様の軍から離れた場所で大軍と戦う必要はありませんから、兵数と進路を確かめて戻ってください」
「承知しました」
「では、明朝から動きます。曹州で待つのは今日までです」
玉蘭はそう言って軍議を終えた。
◇ ◇ ◇
(1225年2月上旬、開封東方)
数日後、達也軍と玉蘭軍は、開封の東側で互いの位置を確認できるところまで近づいていた。
まだ完全には合流していない。達也は帰徳府から西へ、玉蘭は曹州から南西へ進み、それぞれ別の道から開封へ迫っている。
その日の午後、玉蘭側からの使者が達也のもとへ到着した。
「魯王様、鎮北将軍より報告でございます。開封の北西から東へ向かう大きな金軍を確認したとのことです。正確な兵数はまだ分かりませんが、数千では済まず、歩兵、騎兵、荷車が長く続いております。開封へ入るつもりと思われます」
帰徳府と曹州を失った金が、開封を守るために周辺から軍を集め始めたのである。
「玉蘭は敵に近づいているのか」
「いいえ。距離を取りながら進路を確認しております」
「それでいい。玉蘭には敵の側面へ回れる位置を取るよう伝えろ。ただし、俺が正面から当たるまでは攻撃するな」
「承知しました」
使者が下がると、達也は地図を囲んでいた武将たちへ目を向けた。
「俺たちはここから西へ出る。援軍を開封へ入れさせるな。城の中へ入られる前に、外で叩くぞ」
帰徳府と曹州を取ったことで、開封へ向かう2本の道は開いた。
その先には、開封を守ろうとする金の大軍がいる。
達也は城壁を攻める前に、まずその軍を野戦で破ることにした。




