第7話(前編1)――「開封を取る王」
(1225年1月上旬、南宋・徐州)
新年を迎えた徐州には、北から冷たい風が吹き込んでいた。城外の畑には霜が残り、軍営では兵たちが白い息を吐きながら馬具を点検している。夏から秋にかけて蓄えた飼葉は各地の倉へ分けて積まれ、軍馬も徐州だけに集めず、兗州、済州、東平などへ分散していた。
倉達也は朝早くから軍営へ入り、玉蘭とともに騎兵の訓練を見ていた。
玉蘭は8月末の出産から4か月ほどがたち、今では馬に乗って軍営を回れるまで身体を戻している。ただし達也は、以前のように朝から晩まで馬上で過ごすことまでは許していなかった。
騎兵の一隊が馬場を横切った。先頭の兵が向きを変えると、後続も間隔を崩さず続いていく。前年の春には自分の馬を走らせるだけで精一杯だった兵も多かったが、訓練を重ねた今では隊として動ける者が増えていた。
最後の騎兵が通り過ぎるのを見届け、玉蘭が口を開いた。
「以前よりかなりよくなっております。まだ全員を実戦で使えるとは申しませんが、隊を組んで動ける者は増えました。契丹兵300騎を各隊へ分けておりますので、崩れた時にも立て直しやすくなっております」
達也は馬場の向こうへ目をやった。
「5万頭も馬を集めたんだ。そろそろ働いてもらわんとな」
「5万騎いるわけではございませんよ」
「それくらいは分かってる」
玉蘭は達也が冗談半分で言っていると分かっていた。軍馬5万頭のすべてに兵を乗せられるわけではない。実戦に出す馬のほか、交代用、訓練用、輸送用、休養中の馬も必要である。種馬4000頭は繁殖のため別に管理しており、戦場へ出すこともない。
騎兵の様子を一通り確認すると、達也は玉蘭を連れて軍営の奥にある部屋へ入った。机の上には徐州から開封までの地図が広げてある。
徐州の西には帰徳府があり、さらに西へ進めば開封へ至る。一方、東平から西へ向かえば曹州がある。
達也は帰徳府を指した。
「俺はここを取る。お前には東平から曹州へ入ってもらいたい。そのまま開封の北東へ出てくれ」
玉蘭は曹州へ指を置き、周囲の街道を確かめた。
「分かりました。達也様が帰徳府から西へ進み、私が北東から近づけば、金は一方だけを見ているわけにはいきません。開封へ援軍を入れる道も減らせます」
「ああ。それが狙いだ。俺だけが帰徳府から開封へ向かえば、向こうは俺の軍だけを見ていればいい。だが、お前が曹州を取れば北東にも兵を割かざるを得なくなる」
「でしたら、東平から出る軍には騎兵を多めに付けてください。曹州そのものを落とすには歩兵も必要ですが、その前に周囲の街道を押さえなければ、開封へ使者を走らせられます」
達也はうなずいた。
「騎兵の数はお前に任せる。契丹兵300騎も連れていけ」
「ありがとうございます。ただ、数だけ増やしても隊として動けなければ邪魔になります。訓練状況を見て必要な兵を選びます。契丹兵も私のそばへ固めず、各隊へ分けます」
「それでいい」
玉蘭は地図から帰徳府へ視線を移した。
「達也様は、帰徳府を正面から攻めるおつもりですか」
「いや。最初から城壁へ兵をぶつけるつもりはない。まず周囲の道を見る。兵糧がどこから入り、使者がどこへ出るのか。それを確かめてから潰す」
玉蘭は小さくうなずいた。
「半年も戦を休んでいた方とは思えませんね」
「家で赤ん坊を抱いていたから、戦い方まで忘れたと思ったか」
「そこまでは申し上げておりません」
「顔には書いてあるぞ」
「書いてございません」
玉蘭が平然と答えたので、達也は笑った。
半年間、軍を大きく動かしていなかったとはいえ、何もしていなかったわけではない。その間も軍馬の管理と騎兵の訓練を続け、北方の各地では飼葉や水場を確保してきた。今度は、その準備を実際の戦で使う番だった。
◇ ◇ ◇
軍議はその日の午後まで続いた。
達也は徐州から西へ向かう自軍と、東平へ移動したあと曹州を狙う玉蘭軍に兵を分けた。2方向から進む以上、どちらも中途半端な戦力にはできない。しかし開封攻略だけを考えて、徐州や北方の守りを空にするわけにもいかなかった。
徐州、宿州、兗州、済州、東平には、それぞれ必要な守備兵を残す。軍馬についても開封攻略に必要な分だけを前線へ集め、残りは現在の牧地に置くことにした。騎兵には交代用の馬も付けるが、冬の街道を大量の馬で埋め、飼葉や水の負担を増やすような進軍は避ける。
達也は地図の各地へ印を付けながら、兵站を担当する者たちへ指示を出した。
「東平と済州の馬場はそのまま残せ。金軍が北から来た時に使う。徐州の兵糧も全部持ち出すな。俺たちが出たあとも家族と守備兵がいるからな。帰徳府方面へ送る荷は何回かに分けて運べ。一度に長い車列を作る必要はない」
担当者たちは次々と指示を書き留めていった。
達也はそれを確認してから玉蘭へ向き直った。
「お前は曹州へ行く前に東平へ寄って、現地の騎兵と合流するんだったな」
「はい。その方が徐州から全軍を連れて北へ回るより早く動けます」
「出産前に作った体制が役に立ったな」
「そのために徐州へ残っておりました」
「またその話をするか」
「事実でございます」
玉蘭は悪びれる様子もない。達也も今さら8月のことを蒸し返すつもりはなく、曹州周辺の道へ目を戻した。
「東平へ向かう間は、北方の守りを確かめに行くように見せておけ。曹州へ向きを変えるのは最後でいい。使者を捕らえられるなら捕らえて構わんが、曹州を落とす前から開封へ深入りするな」
「達也様が帰徳府で止められた場合、私だけが先へ出れば孤立しますからね。分かっております」
「ああ。開封の前へ出るのは、互いの位置を確かめてからだ」
軍議が終わる頃には、外はすでに暗くなっていた。達也は翌日から兵と物資を動かし、数日後に出陣することを決めた。
◇ ◇ ◇
その夜、達也が徐州の屋敷へ戻ると、陳秀英が食事の用意をさせていた。
臨安から移ってまだ半月ほどしかたっていないが、秀英はすでに屋敷の部屋割りや家人の仕事を決め、暮らしに困らないところまで整えている。沈瑤華と薩仁は身重であるため、寒い中を無理に動かず、昼間も屋敷で過ごすことが多くなっていた。
玉蘭も少し遅れて軍営から戻り、全員が同じ卓についた。
食事が始まってしばらくすると、秀英が出陣の日を尋ねた。
「数日後だ。今度は開封を取る」
達也の答えに、瑤華が驚いたように顔を上げた。
「開封まで行かれるのですか」
「ああ。ただし、いきなり開封へ向かうわけじゃない。俺は帰徳府から進み、玉蘭には曹州を取ってもらう。そこから2方向で開封へ向かうつもりだ」
薩仁は向かいに座る玉蘭を見た。
「玉蘭様も出陣なさるのですね」
「はい。今度は最後まで行けると思います」
「無茶をしなければな」
達也がすぐに口を挟むと、玉蘭は少し困った顔をした。
「いたしません。もう何度も申し上げております」
「信用が戻るまでは何度でも言うぞ」
「まだ8月のことをおっしゃっているのですか」
薩仁が笑うと、達也は不満そうにそちらを見た。
「俺は忘れん。お前まで玉蘭の味方をするのか」
「私はどちらの味方でもございません。ただ、達也様の方が少し執念深いと思っただけです」
「それを玉蘭の味方と言うんだ」
卓に笑いが広がった。
秀英も笑いながら、隣の部屋にいる2人の赤ん坊の方へ目を向けた。乳母が世話をしているため、泣き声が上がればここからでもすぐ分かる。
「今回は、私どもも徐州におります。臨安に残して出陣なさるより、達也様も安心なのでしょう」
「ああ。ここなら俺の兵がいる。宮中から誰か来ても、俺が戻るまで勝手なことはできん」
秀英は家族を徐州へ移した理由を知っている。それ以上は尋ねず、「家のことはお任せください」と答えた。
「俺と玉蘭が両方いなくなるからな。何かあれば守備の者へ言ってくれ」
「承知しております」
すると瑤華が、少し気になる様子で尋ねた。
「達也様は、どのくらいでお戻りになれるのでしょう」
「それは分からん。開封を取るまでは帰れないだろうな」
「では、早く取ってください」
あまりに簡単に言われ、達也は瑤華の顔を見た。
「簡単に言うな」
「でも、達也様なら取られるのでしょう」
「そのつもりだ」
薩仁も笑みを浮かべた。
「私も早くお戻りいただきたいです。私たちだけでも暮らしてはいけますが、やはり達也様がいてくださる方がよいですから」
「そう言われたら、早く帰るしかないな」
達也はそれ以上からかわず、食事を続けた。
戦へ出れば、しばらくこの卓には戻れない。だが今回は、妻子を皇帝のいる臨安へ置いたまま北へ向かうのではなく、自分の兵が守る徐州に全員がいる。
その違いは大きかった。
◇ ◇ ◇
数日後の早朝、徐州の城門前には出陣する兵が集まっていた。
冬の空はまだ暗く、松明の明かりが馬の吐く白い息と地面の霜を照らしている。騎兵は馬具を確かめ、歩兵は装備を身に着け、荷車には食糧、矢、馬の飼葉などが積まれていた。
達也は馬上から隊列を見渡した。隣には玉蘭も騎乗している。
出産後初めての本格的な遠征になる。達也は玉蘭の顔を見て、最後に念を押した。
「身体に無理が出たら休め。東平まで張り切って走る必要はないぞ」
「普通に進みます。私はもう病人ではございません」
「それは分かってる。だから軍を任せるんだ。ただ、曹州へ着く前に倒れたら徐州へ送り返すからな」
「そのようなことにはなりません。必ず曹州を取ります」
玉蘭が真顔で答えると、達也もうなずいた。
「急ぐ必要はない。城を取るより先に周りの道を押さえろ。開封へ向かう使者も、捕らえられるだけ捕らえればいい。全部止めようとして無理をするな。こちらの動きはいずれ知られる」
「承知しました」
達也は手を伸ばし、玉蘭の肩に触れた。
「開封の前で会おう」
「お待たせしないようにいたします」
「俺の方が遅れるかもしれんぞ」
「それなら待っております。達也様を置いて先に開封へは行きません」
「それでいい」
2人はそこで別れた。
玉蘭は契丹兵300騎を各騎兵隊へ配した軍を率い、まず東平へ向かう。そこで現地の兵と合流したあと西へ転じ、曹州を狙う。
達也は徐州から西へ進み、帰徳府へ向かった。
目指す場所は同じ開封だが、2人は別々の道からそこへ迫ることになった。
◇ ◇ ◇
(1225年1月中旬、徐州西方)
達也軍は冬の街道を西へ進んでいた。
乾いた風が田畑の間を抜け、馬が歩くたびに凍った土が崩れる。進軍速度は騎兵だけに合わせず、歩兵と荷車が離れないよう抑えていた。
やがて先行していた斥候が戻り、達也の前で馬を止めた。
「魯王様、西の街道で金軍の斥候6騎を確認しました。こちらを見て西へ戻ったため追跡し、2騎を捕らえております。残り4騎は逃げました」
「構わん。もうこちらの動きを隠せる距離じゃない」
達也は前方へ目を向けた。帰徳府までは、もう遠くない。
「進軍はこのまま続ける。ただし、周囲の村から食糧を奪うな。必要な物は金を払って買え。逃げる民も止める必要はないが、金軍の兵が混じっていないかだけは確かめろ」
「承知しました」
斥候が下がると、達也は軍を再び西へ進ませた。
同じ頃、玉蘭も東平で現地の兵と合流し、曹州へ向けて西進する準備を進めていた。
帰徳府と曹州を押さえれば、その先に開封がある。
半年ぶりに戦場へ戻った達也に、城壁へ兵を急いでぶつけるつもりはなかった。まず周囲の道を押さえ、兵糧と使者の動きを止める。金軍がどこから援軍を送り、城兵がどちらへ逃げようとするのかを見極めたうえで攻める。
開封を取るための戦は、すでに始まっていた。




