第6話(後編2)――「臨安を空ける王」
(1224年12月上旬、南宋・臨安倉府)
朝の庭には白い霜が残っていた。
達也が鍛錬を終える頃、玉蘭は女中を伴って馬場へ出てきた。11月から歩く距離を少しずつ増やし、身体もかなり戻っている。今日は達也が約束した、出産後初めて馬へ乗る日だった。
玉蘭は馬の首を撫でてから鐙へ足を掛けた。
「無理するなよ」
「承知しております。今日は走らせません」
「本当だろうな」
「達也様は、まだ私を信用してくださらないのですか」
「8月まで徐州に居座った女だからな」
「またその話ですか」
玉蘭は苦笑しながら手綱を取った。
最初は馬場を歩かせるだけにした。玉蘭の姿勢に大きな乱れはなく、馬が向きを変えても身体を崩さない。何周かしたあとには軽い速歩も試したが、以前と同じように長く乗ることはせず、自分から馬を止めた。
「思ったより乗れます」
「だからといって、今日は終わりだ」
「もう少しだけ乗れます」
「駄目だ」
「分かりました」
玉蘭は素直に馬から降りた。
達也は歩き方まで確かめてから言った。
「これなら徐州へ戻るのも、そう遠くないな」
「本当ですか」
「ああ。だが、いきなり昔と同じように乗るなよ」
「承知しております」
そこへ、屋敷の方から使いが来た。
「魯王様。宮中よりお召しでございます」
「分かった。支度する」
玉蘭が尋ねた。
「新しい陛下からでしょうか」
「ああ。帰ったら話す」
「承知しました」
◇ ◇ ◇
その日の昼前、達也は宮中へ入った。
先帝趙擴がいた頃とは、宮中の雰囲気も少し変わっていた。
新帝趙昀は即位してまだ日が浅い。先帝の時代から朝廷にいる重臣たちが周囲を固め、その中でも宰相史弥遠の発言力は強かった。
達也が拝謁すると、趙昀はまず北方の軍馬について尋ねた。
「軍馬5万頭は、冬を越せそうか」
「問題ございません。徐州、兗州、済州、東平へ分け、飼葉も蓄えております」
「騎兵はどの程度まで増えた」
「まだ訓練中の者が多くございます。馬が5万頭あるからといって、5万人の騎兵がすぐ使えるわけではございません」
趙昀は頷いたが、質問はそこで終わらなかった。
「鎮北将軍は、まだ臨安にいるのか」
「はい。出産後でしたので休ませておりましたが、今月から馬へ乗り始めました」
「鎮北将軍は、そなたの側室でもあるのだな」
「はい」
「その者が北方の軍務を預かっていると聞いた」
「騎兵と軍馬については、玉蘭に任せております」
新帝の脇では、史弥遠をはじめとする重臣たちが黙って話を聞いている。
趙昀はさらに尋ねた。
「徐州には、今どの程度の兵がおる」
「守備兵のほか、騎兵の訓練を行っております」
「兗州、済州、東平にも兵を置いているのだな」
「はい」
「そなたが臨安におっても、北方は動くということか」
「玉蘭が体制を作っておりますので、大きな問題がなければ動きます」
達也は答えながら、先帝の時とは質問の中身が違うことに気付いていた。
趙擴は戦に勝てるのか、金軍をどう追い払うのか、奪った土地をどう守るのかを聞いた。趙昀が聞いているのは、達也がどれほどの兵力を自分の意思で動かせるのかということだった。
「そなたは来年も北へ出るつもりか」
「必要があれば出ます」
「その場合、倉府の者たちは臨安に残るのか」
達也は趙昀の顔を見た。今度は兵ではなく、家族の居場所である。
「まだ決めておりません」
「そうか」
趙昀はそれ以上追及しなかったが、達也には十分だった。
先帝趙擴は、自分が何を考え、どこまでやる男なのか知った上で軍を預けていた。新帝は違う。達也を知らず、その周囲には達也の兵力を恐れる重臣たちがいる。
宮中を出る時、達也はすでに家族を臨安から出すと決めていた。
◇ ◇ ◇
夕方、達也は倉府の書斎へ玉蘭と秀英を呼んだ。
「何かございましたか」
秀英が尋ねると、達也はすぐ本題へ入った。
「家を移す」
「徐州へですか」
「ああ」
「私だけではなく?」
「全員だ」
秀英も確認した。
「全員というのは、私どももでしょうか」
「お前たち4人、子ども2人、乳母、侍女、下男、家の子郎党まで全部だ。倉府には誰も残さん」
玉蘭は達也の顔を見た。
「今日の参内で何かございましたか」
「新しい陛下が、北方の兵、軍馬、玉蘭の立場まで細かく聞いてきた。そのあとで、俺が北へ行く時に家族を臨安へ残すのかと尋ねた」
秀英が尋ねた。
「それだけでございますか」
「それだけだから今のうちに動くんだ」
達也は椅子へ座り、2人へ説明した。
「先帝は俺を知っていた。俺がどんな戦い方をするかも、何を欲しがる男かも知った上で使っていた。だが今度の陛下は俺を知らん。周りの重臣から、魯王は兵を持っている、土地を持っている、軍馬を5万頭持っていると言われれば、怖くなるのも当然だ」
玉蘭が尋ねた。
「史弥遠たちが何か吹き込んでいるとお考えなのですね」
「そうだろうな。陛下が自分で俺のことを調べたとは思えん」
「ですが、すぐに何かなさるとは限りません」
「分かってる。だから何かされる前に出る」
達也は秀英へ向き直った。
「俺が徐州にいる時、宮中から『秀英たちを連れて参れ』と使者が来たらどうする」
秀英はすぐには答えられなかった。倉府が魯王の屋敷であっても、ここは皇帝の都である。宮中から正式な召しが来れば、達也のいないところで秀英たちだけが拒むのは難しい。
「……断るのは難しいと思います」
「だろう」
達也は続けた。
「一度宮中へ入れられて、俺が戻るまで出すなと言われたらどうにもならん。お前たちが臨安にいる限り、俺は北で何をするにも妻子のことを考えなければならなくなる」
玉蘭が言った。
「人質にされる前に、全員を徐州へ移すのですね」
「ああ。取られてから騒いでも遅い」
秀英は自分の子がいる部屋の方へ目を向けてから尋ねた。
「いつ出ますか」
「準備ができ次第だ。年を越すまで待たない」
「それほど急ぐのですか」
「急ぐ。今の朝廷が俺をどこまで警戒しているか、まだ分からんからな」
玉蘭が尋ねた。
「陛下へは何とお伝えになりますか」
「徐州へ着いてから書状を出す」
「先に許しをいただかないのですね」
「許しを求めて駄目だと言われたら、それこそ動けなくなるだろう」
「承知しました」
達也は秀英へ向いた。
「秀英。家のことはお前がまとめろ。衣服、寝具、子どもの物、薬、帳面、金銀、そのほか必要な物を選べ。運ばなくても困らない物は置いていけ」
「侍女や下男も全員でしょうか」
「全員だ。俺の家に仕える者を臨安へ残し、そいつらを押さえられても面倒だ」
「承知しました」
「玉蘭」
「はい」
「徐州へ先に知らせろ。住む場所を用意させる。家族だけじゃないから、かなりの人数になる」
「すぐに手配いたします」
達也は2人を見た。
「臨安の倉府は先帝から賜った屋敷だ。置いていけばいい。だが家族まで置いていく必要はない」
秀英は答えた。
「私どもが一緒なら、徐州でも暮らせます」
「ああ。そういうことだ」
◇ ◇ ◇
その日の夜、達也は薩仁と瑤華にも事情を話した。
瑤華は元貴妃として宮中にいたため、皇帝が代われば周囲の力関係まで変わることを知っている。
「先帝陛下がお亡くなりになり、新しい陛下は達也様のことをほとんどご存じありません」
「ああ」
「今は史弥遠様をはじめ、即位を支えた方々のお言葉を強く信じておられると思います」
「俺もそう見ている」
「もし陛下から私どもに参内するよう命が下れば、拒むのは難しいと思います」
「だから行く」
「秀英様や玉蘭様、お子たちまで宮中へ入れられれば、達也様も北で自由には動けなくなりますね」
「ああ」
薩仁は尋ねた。
「徐州へ行けば大丈夫なのですか」
「臨安よりはな。徐州には俺の兵がいる。玉蘭が育てた騎兵もいる。宮中から使者が来たくらいで、勝手にお前たちを連れていくことはできん」
「でしたら、私も参ります」
「お前は最初から連れていく」
「そうでした」
薩仁は自分の腹へ手を当てた。
「馬で行くのですか」
「お前と瑤華は馬車だ。急がせない。医女も一緒に行かせる」
瑤華が尋ねた。
「赤ん坊もおります。道中は何日もかかるのでしょう」
「ああ。だから無理な行程にはしない。宿を取り、必要なら途中で1日休む」
「承知しました」
達也は2人へ言った。
「今回は荷物より身体を優先しろ。持っていけない物は置け。必要なら徐州でまた買えばいい」
薩仁が笑った。
「達也様は、こういう時は本当に何でも金で解決なさいますね」
「金で解決できるなら、その方が早い」
「分かりました」
瑤華も答えた。
「私も必要な物だけにいたします」
◇ ◇ ◇
翌日から、倉府は移転の準備で慌ただしくなった。
秀英が全体を取り仕切り、侍女たちは衣服や寝具をまとめ、下男たちは箱と荷車を用意する。帳面、金銀、薬、2人の赤ん坊に必要な着替えや布、乳母が使う物、妊娠中の瑤華と薩仁が道中で必要とする品を優先して荷造りした。
家の子郎党には道中の護衛、馬や荷車の管理、宿場での警戒など、それぞれ役目を割り振った。達也は家人も含めて全員を連れていくと決めていたため、臨安へ残る者はいない。
大きな家具や徐州で買い直せる物はそのまま残した。先帝から賜った倉府そのものにも手を付けず、必要な物だけを運び出す。
玉蘭は徐州へ早馬を送り、家族と家人を受け入れられる屋敷を整えるよう命じた。2人の赤ん坊がいるため暖かくできる部屋を優先し、身重の瑤華と薩仁が休める場所も用意させた。
数日後には、荷を積んだ車が倉府の庭へ並んだ。
「薬は?」
「こちらにございます」
「子どもの着替えは?」
「馬車の中へ積みました」
「薩仁様と瑤華様の物は、すぐ取り出せるところへ置いてください」
「承知しました」
出発直前まで荷を確認している秀英へ、達也が後ろから声を掛けた。
「まだ終わらんのか」
「達也様が急に全員連れていくとお決めになったからです」
「置いていかれるよりいいだろう」
「それはもちろんです」
秀英は最後の確認を終えると帳面を閉じた。
「これで出られます」
「よし」
達也は庭と建物を見回した。
この半年、ここで赤ん坊を抱き、側室たちと同じ卓で食事をし、夜泣きに起こされながら暮らした。先帝から賜った立派な屋敷だったが、皇帝が代わり、朝廷の見方まで変わった以上、家族を守るために離れることをためらう理由はなかった。
「出るぞ」
達也の声を合図に門が開き、倉府の家族と家人がそろって臨安を出た。
◇ ◇ ◇
(1224年12月中旬、臨安から徐州への街道)
達也一行は、妊婦と赤ん坊に合わせて無理のない速さで北へ向かった。
先頭と最後尾には家の子郎党を配置し、その間に家族の乗る馬車と荷車を置いている。
秀英と2人の赤ん坊、瑤華、薩仁は馬車で移動した。玉蘭も出産後に乗馬を再開したばかりなので、最初から長時間馬へ乗ることはせず、身体を慣らすために短い時間だけ騎乗し、疲れれば馬車へ移った。
達也は馬で一行の前後を行き来し、道の状態を確かめながら、休憩のたびに家族の様子も見ていた。
ある日の昼、宿場で休んでいると、玉蘭が馬から降りてきた。
「今日は昨日より長く乗れました」
「痛みはないか」
「ございません」
「なら午後も少しだけだ」
「もう少し乗れます」
「少しだけだ」
「承知しました」
以前の玉蘭なら、もう少し乗ると言い張ったかもしれない。しかし今回は自分の鍛錬より、赤ん坊や妊婦を含む一行全体が無事に徐州へ着くことを優先していた。
馬車の中では秀英が赤ん坊を抱いていた。
「外は寒うございますか」
「ああ。だが雪はまだ大丈夫だ」
「この子はよく眠っております」
「玉蘭の方の子は?」
「さきほどまで泣いていたそうです」
「またか」
「元気でよろしいではありませんか」
「夜は寝てくれればもっといい」
秀英は笑った。
隣の馬車では瑤華と薩仁が休んでいた。薩仁は普通に食事を取れていたが、瑤華には少し疲れが見えた。
「今日はもう進まない方がいいか」
「少し休めば大丈夫です」
「無理する必要はない」
「ですが、皆様も先へ――」
「皆より腹の子を優先しろ」
達也はそれ以上瑤華に判断させず、その日の行程を短くした。
臨安を早く離れる必要はあったが、すでに十分な距離を取っている。ここから先は、徐州へ1日早く着くことより、家族全員を無事に運ぶ方が大切だった。
◇ ◇ ◇
(1224年12月下旬、南宋・徐州)
達也一行が徐州の城門へ近づくと、先に知らせを受けていた兵たちが門を開いた。
玉蘭は馬上から徐州の城壁を見上げた。
「戻ってまいりましたね」
「ああ」
「今回はずいぶん大人数になりました」
「家ごと来たからな」
玉蘭が後ろを振り返ると、馬車には秀英、薩仁、瑤華、2人の赤ん坊が乗り、その後ろには乳母、侍女、下男、家の子郎党と荷を積んだ車が続いている。
達也は先頭に立って徐州へ入った。
ここには自分の兵がいる。北には兗州、済州、東平があり、玉蘭が育てた騎兵もいる。臨安の倉府ほど立派な暮らしができなくても、妻子を自分の手の届かない場所へ残すよりはるかにましだった。
一行が用意された屋敷へ到着すると、秀英は旅装を解くより先に家人へ指示を出した。
「まず赤ん坊の部屋を整えてください。荷を全部下ろすのはあとで結構です」
「承知しました」
「瑤華様と薩仁様にも先にお休みいただきます」
薩仁が馬車から降りながら言った。
「私は大丈夫です」
「長旅のあとですから、今日はお休みください」
「分かりました」
瑤華も達也に手を貸されて馬車から降りた。
「ここが徐州なのですね」
「ああ」
「思っていたより大きな町です」
「これからしばらく、ここで暮らす」
「はい」
玉蘭は自分の子を乳母から受け取り、久しぶりに戻った徐州の町を見た。
「この子を連れて戻ると、8月に申しておりました」
「本当に連れてきたな」
「はい」
達也は玉蘭の腕にいる子を見たあと、秀英の子、身重の瑤華と薩仁へ順に目を向けた。
侍女も下男も家の子郎党も、全員が徐州へ来ている。臨安には、自分の家族を誰も残していない。
それでよかった。
◇ ◇ ◇
その夜、家族や家人が休んだあと、達也と玉蘭は徐州の書斎で向かい合っていた。
机の上には北方の地図が広げられている。
徐州、宿州、兗州、済州、東平。その西には開封がある。
「陛下には、こちらへ移ったことをいつお知らせになりますか」
「明日、書状を出す」
「どのように説明なさいますか」
「お前が軍務へ戻ること、軍馬の管理を見ること、家族も一緒に移したことを書く。それで十分だ」
「新しい陛下は喜ばれないでしょうね」
「喜ばせるために移ったんじゃない」
達也は地図へ目を落とした。
「先帝は俺を知っていた。だが新しい陛下は知らん」
「はい」
「その陛下が重臣から、魯王は危険だ、兵を持ちすぎていると言われ続ければ、いずれ俺を押さえようとする」
「その前に家族を出したのですね」
「ああ。これで俺が北へ出ても、臨安に妻子を残すことはない。宮中に押さえられる心配をしながら戦わなくて済む」
玉蘭は達也を見た。
「陛下と争うおつもりですか」
「今はない」
「今は、ですか」
「ああ。向こうが俺を警戒するなら、俺も用心する。それだけだ」
「先帝陛下がおられた頃とは、変わってしまいましたね」
「皇帝が代われば、朝廷も変わる。仕方ない」
達也は地図へ視線を戻した。
「だが、俺まで相手の都合に合わせる必要はない」
「では、次はどうなさいますか」
達也の指が徐州から西へ動き、帰徳府を経て、その先にある開封で止まった。
「半年、家族と暮らした。北方の馬も整った。お前も戻った」
玉蘭は達也の指先を見た。
「開封ですね」
「ああ」
「次は開封を取る」




