第6話(後編1)――「赤ん坊のいる魯王府」
(1224年11月上旬、南宋・臨安倉府)
朝の空気は10月よりさらに冷たくなり、庭の木々も葉を落とし始めていた。夜明け前に外へ出ると息が白く見える日もあり、達也はいつものように庭を走って身体を温めてから、木剣を手に素振りを続けていた。
しばらくすると廊下の方から足音が聞こえた。達也が振り向くと、玉蘭が動きやすい衣服に着替え、女中を伴って庭へ出てくるところだった。
「何をする気だ」
「私も身体を動かそうと思いまして」
「歩くのは許したが、鍛錬していいとは言ってないぞ」
「もう出産から2か月以上たっております。身体もかなり戻りました」
「それは見れば分かる」
「でしたら、少しくらいよろしいでしょう」
達也は木剣を置き、玉蘭のところまで来た。
「馬に乗りたいのか」
「それもございます」
「徐州へ戻るためだろう」
「はい」
玉蘭は隠すつもりもなかった。
「騎兵は訓練を続けておりますし、軍馬の冬越しも始まっています。いつまでも臨安から書付だけを見ているわけにはまいりません」
「だからといって、今日から以前と同じように動くな」
「最初からそこまではいたしません」
「本当か」
「達也様は私を何だと思っておられるのですか」
「出産直前まで徐州で働いていた女だと思ってる」
それを言われると玉蘭も反論できなかった。
「まず歩け」
「歩くだけですか」
「最初はな。何日かやって平気なら、少しずつ増やす」
「いつになれば馬へ乗れますか」
「身体を見て決める」
「また達也様がお決めになるのですね」
「ああ」
玉蘭は不満そうだったが、その日は達也に従って庭を歩き始めた。最初のうちは普段と変わらず歩けたものの、何周かすると呼吸が少し速くなった。出産前まで軍営を歩き回り、長時間馬にも乗っていた頃とは、まだ体力が違っている。
「今日は終わりだ」
「まだ歩けます」
「歩けるかどうかじゃない。疲れてるだろう」
「少しだけです」
「なら、その少しでやめろ」
玉蘭も自分の身体が以前と同じではないと感じたらしく、今度は素直に足を止めた。
「思っていたより体力が落ちておりますね」
「2か月休んでたんだ。当然だろう」
「早く戻さなければなりません」
「急ぐな」
「徐州では兵が待っております」
「お前が無理をして倒れたら、もっと待たせることになる」
玉蘭は納得した。
「承知しました。少しずつ戻します」
「それでいい」
「ですが、馬には今月中に乗ることを目標にいたします」
「勝手に決めるな」
「目標だけでございます」
「それなら好きにしろ」
達也も笑い、2人は一緒に屋敷へ戻った。
◇ ◇ ◇
朝餉の席には、秀英、薩仁、瑤華が待っていた。
玉蘭が達也と一緒に庭から戻ってくると、秀英はすぐに気付いた。
「玉蘭様、鍛錬をなさったのですか」
「歩いただけです」
「達也様がお許しになったのですか」
「俺が歩かせた」
「それなら安心いたしました」
玉蘭は席へ着きながら秀英へ尋ねた。
「私だけでは信用がございませんか」
「8月のことがございますから」
「皆さん、それをいつまでおっしゃるのですか」
薩仁が笑った。
「たぶん、ずっとではありませんか」
「薩仁様まで……」
達也も席へ着くと、薩仁の前に置かれた料理を見た。10月初めにはほとんど手を付けられなかった羊肉を、今朝は少量ながら食べている。
「今日は食えるのか」
「はい。朝の気持ち悪さも少し減りました」
「腹は?」
「痛くありません」
「医女には診てもらってるか」
「3日前に診ていただきました。順調だそうです」
「ならいい」
瑤華も以前より食欲が戻っていた。懐妊が分かった頃は魚の匂いだけでも気分を悪くしていたが、今では食べられる料理も増えている。
「お前はどうだ」
「私も大丈夫です。昨日は魚も少しいただけました」
「無理して食う必要はないぞ」
「はい。秀英様にもそう言われております」
秀英は達也を見て笑った。
「達也様は朝餉のたびに同じことをお尋ねになりますね」
「悪いか」
「いいえ。ただ、薩仁様と瑤華様が毎朝診察を受けているようです」
「俺は医者じゃない」
「分かっております」
薩仁も笑った。
「私は嬉しいですよ」
「お前は何を聞いても嬉しいと言うな」
「達也様が心配してくださるのですから、嬉しいです」
瑤華も同意した。
「私も同じです」
「お前までか」
「はい」
達也は女たちの顔を見回してから、朝餉を食べ始めた。
「なら毎朝聞いてやる」
秀英は笑いながら答えた。
「達也様がお飽きにならなければ、お願いいたします」
「飽きるほど聞かせるな。元気ならそれでいい」
◇ ◇ ◇
その日の昼前、達也は秀英の部屋を訪れた。
赤ん坊は乳を飲んだあとで眠っており、秀英は女中から屋敷の支出について報告を受けていた。達也が入ると、女中は挨拶をして部屋を下がった。
「もうすっかり元通りだな」
「身体のことですか。それとも家の仕事でしょうか」
「両方だ」
「おかげさまで、もう問題ございません」
達也は寝台で眠る子どもを見た。
「こいつも大きくなったな」
「毎日見ておられるのに分かりますか」
「分かる。前より重い」
「よく抱かれるようになりましたからね」
「最初は怖かったからな」
「軍馬5万頭より難しいのでしょう」
「まだ言うのか」
秀英は楽しそうに笑った。
達也は赤ん坊を起こさないよう顔だけを見てから、秀英の向かいへ座った。
「家の方は困ってないか」
「今のところは大丈夫です」
「人手は足りてるか」
「乳母も女中もおります。ただ、来年になればもう少し増やした方がよいかもしれません」
「瑤華と薩仁が産むからか」
「はい。今いる子が2人です。そこへさらに2人増えれば、夜も昼も今までどおりにはまいりません」
「必要なら増やせ」
「よろしいのですか」
「何で聞く。金ならあるだろう」
「もちろんございます」
「乳母も女中も足りないなら雇え。部屋が足りなければ空いている棟を使え」
「承知しました」
秀英は帳面へ印を付けてから、達也へ目を向けた。
「達也様」
「何だ」
「本当に家のことへ口を出されなくなりましたね」
「お前に任せてるからな」
「以前なら、何でもご自分で決めようとなさったのに」
「軍と家を全部俺が見てたら寝る暇がなくなる」
「それだけですか」
「お前ができることを俺がやる意味がない。それに、俺が北へ行ったら結局お前がやることになる」
「また行かれるのですね」
「いずれな」
秀英は達也が今すぐ出ると言っているのではないと分かり、それ以上は尋ねなかった。
「でしたら、達也様がどこへ行かれても困らないようにしておきます」
「ああ。頼む」
達也は秀英が倉府を任せられる女だと知っていた。自分が北方へ出ている間も子どもや側室たちの暮らしを任せられるからこそ、戦場では目の前の仕事に集中できる。秀英もその役目を分かっており、達也が家にいる今のうちから、これから子どもが増えても困らないよう準備を進めていた。
◇ ◇ ◇
その夜、達也はいつもより早く自分の寝室へ入った。
妊娠中の瑤華と薩仁には無理をさせず、それぞれの部屋で休ませている。達也自身も朝から動き続けていたため、寝台へ入るとほどなく眠りについた。
それからどのくらいたったのか、赤ん坊の激しい泣き声で目を覚ました。最初は秀英の子かと思ったが、声は玉蘭の部屋の方から聞こえてくる。しばらく寝台の中で待ってみたものの、泣き声はなかなか止まらなかった。
「元気すぎるだろう」
達也は衣服を羽織り、玉蘭の部屋へ向かった。中では玉蘭が赤ん坊を抱き、乳母もそばにいた。
「どうした」
「乳は飲んだのですが、なかなか寝てくれません」
「どこか悪いのか」
「熱もございませんし、具合が悪いようには見えません」
乳母も赤ん坊の様子を見ながら答えた。
「しばらくすればお休みになると思います」
達也は泣き続ける子を見て、玉蘭へ手を出した。
「貸せ」
「達也様も起きてしまわれたのですね」
「あれだけ泣かれればな」
赤ん坊を受け取った達也は、身体を支えながら部屋の中を歩いた。
「おい。もう腹もいっぱいだろう。寝ろ」
玉蘭が笑った。
「言って分かるのでしたら苦労いたしません」
「父親の命令も聞かんのか」
「まだ魯王が何かも分かっておりません」
「困った奴だな」
達也は文句を言いながらも赤ん坊を抱き続けた。しばらくすると、泣き声が少しずつ弱くなってきた。
「ほら見ろ」
「まだ寝ておりませんよ」
「時間の問題だ」
達也がそう言った直後、赤ん坊は再び大きな声で泣き始めた。
「時間の問題でしたね」
「笑うな」
その騒ぎを聞きつけたのか、戸口から薩仁が顔を出した。
「まだ泣いているのですか」
「お前まで起きたのか」
「声が聞こえました」
「寝てろ。お前は身重だろう」
「少しくらい大丈夫です」
続いて秀英までやってきた。
「何をなさっているのですか」
「見れば分かるだろう」
秀英は、赤ん坊を抱いて部屋の中を歩き続ける達也を見て笑った。
「魯王様が夜中に子守りをなさっているのですね」
「誰の子だと思ってる」
「達也様のお子です」
「なら俺が抱いてもおかしくないだろう」
「おかしいとは申し上げておりません」
玉蘭も寝台から言った。
「達也様は軍馬5万頭より赤ん坊の方が難しいそうです」
「その話をいつまで引っ張るつもりだ」
薩仁まで笑い始めた。
「達也様、私の子が生まれましたら、その子もお願いいたします」
「お前まで俺に任せる気か」
「お上手になっておられるのでしょう」
「まだ生まれてもいないのに決めるな」
そんなことを話しているうちに、達也の腕の中で赤ん坊の泣き声が止まった。今度は本当に眠ったらしい。
達也は乳母へ渡そうとしたが、秀英が止めた。
「もう少しそのままになさった方がよろしいですよ。すぐ動かすと起きるかもしれません」
「まだ抱いてろというのか」
「はい」
達也は仕方なく椅子へ座った。腕の中では、つい先ほどまで屋敷中へ聞こえるほど泣いていた赤ん坊が、何事もなかったような顔で眠っている。
「蒙古兵より強いな」
薩仁が尋ねた。
「何がですか」
「蒙古兵なら戦えば終わる。こいつは泣き始めたら、いつ終わるか分からん」
玉蘭が笑った。
「達也様でも勝てない相手がおりましたね」
「寝かせたんだから俺の勝ちだ」
「勝ち負けではございません」
達也はそう言われても、腕の中で眠った子を見て満足していた。
◇ ◇ ◇
11月中旬になると、瑤華の腹は衣服の上から見てもわずかに分かるようになっていた。薩仁も朝の気分の悪さがかなり減って食欲を取り戻しており、2人とも医女の診立てでは問題なく過ごしている。
その日の午後、瑤華は庭に面した縁側へ座り、薩仁と一緒に日差しを浴びていた。
達也が通りかかると、瑤華が呼び止めた。
「達也様」
「何だ」
「少し見ていただけますか」
達也が近づくと、瑤華は自分の腹を示した。
「少し大きくなったと思いませんか」
「言われれば分かるな」
「それだけですか」
「何と言えばいいんだ」
薩仁が笑った。
「達也様。もう少し嬉しそうになさってください」
「嬉しくないとは言ってないだろう」
瑤華も笑った。
「では、嬉しいのですね」
「ああ」
達也は瑤華の隣へ座った。
「具合はどうだ」
「今日はとてもよいです。食事も普通にいただけました」
「眠れてるか」
「はい」
「ならいい」
薩仁も自分の腹へ手を当てた。
「私も早く、見て分かるくらい大きくならないでしょうか」
「放っておいてもなるだろう」
「楽しみなのです」
「大きくなったら重いぞ」
「それでもよいです」
薩仁は本当に楽しみにしているらしく、まだ目立たない自分の腹を見ながら笑っていた。
瑤華が達也へ尋ねた。
「達也様は、男の子と女の子のどちらがお望みですか」
「どっちでもいい」
「本当ですか」
「ああ。無事に生まれればいい」
薩仁も尋ねた。
「跡継ぎは男の子でなくてもよろしいのですか」
「それはそのうち考える」
達也は2人を見た。
「今から腹の中の子に余計な注文を付けても仕方ないだろう」
「それもそうですね」
瑤華は納得したように自分の腹へ手を当てた。
達也は2人が落ち着いて妊娠中の暮らしを送れていることを確かめると、書斎へ戻った。
◇ ◇ ◇
11月下旬。
北方から届いた軍報には、徐州、兗州、済州、東平で冬支度がほぼ整ったと書かれていた。
飼葉の倉には冬を越すための備蓄が積まれ、軍馬は各地の牧地と厩へ分散されている。傷んだ馬や病気の馬は別にし、種馬も引き続き分けて管理していた。金軍にも大きな動きはない。
達也は書斎で軍報に目を通したあと、玉蘭へ渡した。
「どうだ」
「問題ないと思います。雪が深くなった場合に備えて、飼葉を運ぶ道だけは空けておくよう伝えてください」
「ああ」
「軍馬の訓練は冬になっても続けられますが、今までと同じ時間を走らせる必要はございません。馬を傷めないことを優先した方がよろしいでしょう」
「そう書いて返す」
玉蘭は軍報を置いたあと、以前から頼もうとしていたことを切り出した。
「達也様。12月になりましたら、馬へ乗らせていただけませんか」
「まだ諦めてなかったのか」
「諦める理由がございません」
「庭を歩くのはどうだ」
「もう毎日歩いております。少し走っても問題ございません」
「勝手に走ったのか」
「少しだけです」
「聞いてないぞ」
「今申し上げました」
「そういう問題じゃない」
玉蘭は笑った。
「身体はもうかなり戻っております。徐州へ戻るかどうかは別として、馬には乗れるようにしておきたいのです」
達也は玉蘭の顔色や身体の動きを改めて見た。確かに8月の頃とは違う。出産前の体力にはまだ戻っていないだろうが、日常生活には困らず、朝の散歩も毎日続けられている。
「分かった。12月になったら乗ってみろ」
「ありがとうございます」
「ただし最初は近くの馬場だけだ。長く乗るな」
「承知しました」
「勝手に徐州まで行くなよ」
「さすがにいたしません」
「お前ならやりかねん」
「達也様はまだ8月のことを根に持っておられるのですか」
「忘れると思うか」
玉蘭は笑った。
11月が終わろうとしていた。北方では軍馬5万頭が冬を迎える準備を終え、臨安では玉蘭が再び馬へ乗れるところまで身体を戻そうとしている。
倉府には2人の赤ん坊がおり、瑤華と薩仁の腹にも達也の子がいる。夜になれば赤ん坊に起こされることがあり、朝になれば妊婦の食欲や身体の具合を確かめ、昼には玉蘭と軍報を見る。
戦へ出れば、また家族と何か月も離れることになる。今は臨安にいられるのだから、その間くらい妻たちと子どもたちのそばにいればよかった。




