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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第6話(中編2)――「蒙古から来た母」

 (1224年10月上旬、南宋・臨安(リンアン)倉府(ツァンフ))


 10月に入ると、臨安の朝はかなり過ごしやすくなった。夏の湿った暑さは薄れ、朝の庭へ出れば涼しい風が肌に当たり、池のそばでは木の葉の色も少しずつ変わり始めている。


 達也が朝の鍛錬を終えて屋敷へ戻ると、庭では玉蘭が女中を伴って歩いていた。


「何をしている」


 声を掛けられた玉蘭が振り向いた。


「少し歩いております」


「誰が外へ出ていいと言った」


「もう1か月以上たっております」


「だから走っていいとは言ってないぞ」


「走っておりません」


 達也は近づいて玉蘭の歩き方を確かめた。出産直後のような頼りなさはなくなり、今ではかなり普通に歩けるようになっている。


「痛むところはないのか」


「ございません。疲れましたら部屋へ戻ります」


「ならいい」


 玉蘭は前から聞きたかったことを口にした。


「徐州へ戻る話も、そろそろしてよろしいでしょうか」


「まだ駄目だ」


「いつまででしょう」


「お前が馬に乗っても大丈夫だと俺が思うまでだ」


「達也様がお決めになるのですか」


「ああ」


「それでは、なかなか戻れそうにありませんね」


「分かってるじゃないか」


 玉蘭は困った顔をしたものの、以前のように強く言い返すことはなかった。


 達也も玉蘭から軍務をすべて取り上げているわけではない。徐州や東平から届く報告のうち、騎兵や軍馬に関わるものは玉蘭にも見せており、身体を休めさせながらも鎮北将軍としての役目は続けさせていた。


「今日も軍報はございますか」


「昼に3通持っていく」


「3通だけですか」


「嫌なら2通にするぞ」


「3通で結構です」


「なら部屋へ戻れ」


「もう少し歩いてから戻ります」


「無理はするな」


「承知しております」


 玉蘭が無茶をしないと分かれば、達也もそれ以上止める理由はなかった。


 ◇ ◇ ◇


 その日の朝餉には、秀英、薩仁、瑤華が先に席へ着いていた。


 瑤華は懐妊が分かってから、匂いの強い魚料理を避けるようになっている。以前ほど気分を悪くすることはなくなったものの、一度に多く食べず、口にできる物を少しずつ取るよう秀英が料理人へ伝えていた。


 達也が席へ着くと、薩仁の前に置かれている皿が目に入った。いつもなら真っ先に手を伸ばす羊肉が、ほとんど残っている。


「薩仁」


「はい」


「羊を食わないのか」


 薩仁も自分の皿を見た。


「今日はあまり食べたくありません」


「お前が?」


「私でも食べたくない日はございます」


「初めて見たぞ」


 秀英も同じことを感じていたらしく、笑いながら言った。


「私も珍しいと思っておりました」


 薩仁は代わりに粥を少し口へ運んだが、それも半分ほどで箸を置いた。


「具合が悪いのか」


「いいえ。病気ではないと思います。ただ、このところ朝になるとあまり食べられません」


「熱は?」


「ございません」


「腹は痛まないか」


「大丈夫です」


 秀英はそのやり取りを聞きながら、薩仁へ尋ねた。


「薩仁様。あとでお部屋へ伺ってもよろしいですか」


「はい。もちろんです」


「何か分かったのか」


 達也が尋ねると、秀英は首を振った。


「まだ何も分かりません。少しお尋ねしたいことがあるだけです」


「なら聞け」


「達也様の前では話しにくいこともございます」


「俺に聞かれたら困ることか」


「女には女の話がございます」


「分かった。必要なら医女を呼べ」


「はい」


 薩仁だけは何の話なのか分からず、秀英と達也の顔を交互に見ていた。


 ◇ ◇ ◇


 朝餉のあと、秀英は薩仁の部屋へ入った。


「何を聞きたいのですか」


 秀英は向かいへ座った。


「薩仁様、月のものは来ておりますか」


 薩仁は最後がいつだったか思い出した。


「……そう言われれば、しばらく来ておりません」


「どのくらいでしょう」


「前にあったのは、まだ暑さがひどかった頃です」


「1月以上は来ていないのですね」


「たぶん、もっとです」


「朝に食欲がなくなったのは、いつ頃からですか」


「数日前からです。昨日も羊を少し残しました」


「ほかには?」


「眠くなることが増えました。でも、夜は普通に寝ております」


 ここまで聞かれれば、薩仁にも秀英が何を考えているのか分かった。


「秀英様」


「はい」


「もしかして……」


「まだ決まったわけではありません。医女に診てもらいましょう」


 薩仁は自分の腹へ手を置いた。


「達也様の子でしょうか」


「もし懐妊しているなら、そうでしょうね」


「すぐに診てもらいたいです」


「分かりました。手配いたします」


「達也様にも知らせてよろしいですか」


「診立てが出てからの方がよろしいでしょう」


「そうですね」


 薩仁はそう答えたものの、懐妊していてほしいという期待を隠せなかった。


 ◇ ◇ ◇


 昼前、医女が倉府へ呼ばれた。


 薩仁の部屋には秀英が付き添い、達也は結果が出るまで書斎で待つことにした。医女は薩仁の脈を取り、身体の具合や月のものについていくつか尋ねたあと、診立てを伝えた。


「ご懐妊でございます」


 薩仁はすぐに聞き返した。


「本当ですか」


「はい。まだそれほど進んではおりませんが、間違いないと思います」


 薩仁は自分の腹へ両手を当てた。


「ここに、子どもがいるのですね」


「はい」


 秀英も笑顔で祝った。


「おめでとうございます、薩仁様」


「ありがとうございます」


 薩仁はすぐ立ち上がろうとした。


「達也様へ知らせてまいります」


「急がなくても達也様は逃げません」


「でも、すぐ言いたいです」


「それならご一緒します。ただし走らないでください」


「はい」


 ◇ ◇ ◇


 達也は書斎で北方から届いた報告を読んでいた。


 そこへ薩仁と秀英が入ってきた。薩仁の顔を見ただけで、悪い知らせではないことは分かった。


「どうだった」


 薩仁は達也の前まで来た。


「達也様。子どもができました」


「本当か」


「はい。医女が間違いないと申しました」


 達也は書付を置いて立ち上がった。


「身体は大丈夫なのか」


「何も悪いところはございません。ただ、朝は少し食べにくいだけです」


「医女は何と言っていた」


 秀英が答えた。


「今のところ問題はないそうです。無理をせず、食べられる物を食べればよいとのことでした」


「そうか」


 達也は薩仁へ向き直った。


「よかったな」


「はい」


「そんなに嬉しいのか」


「嬉しいです」


「まだ生まれてないぞ」


「それでも嬉しいです」


 薩仁は達也の手を取り、自分の腹へ重ねた。


「達也様の子がここにいるのでしょう」


「まだ何も分からんぞ」


「でもいるのです」


「ああ」


 今の時期では外から触れても何も分からない。それでも薩仁にとっては、自分の腹に達也の子がいると知っただけで十分だった。


「蒙古を出た時は、達也様のおそばにいられればそれでよいと思っておりました」


 薩仁は達也を見た。


「それなのに、今度は達也様の子までできました」


「嫌なのか」


「まさか」


 薩仁は首を振った。


「とても嬉しいです。元気に産みます」


「なら無茶をするな」


「はい」


「朝に食えないなら、食える時に食え。何を食いたいか秀英に言え」


「分かりました」


「身体がおかしいと思ったら、我慢せずに医女を呼べ」


「はい」


「俺にも言え」


「はい、達也様」


 何を言われても嬉しそうに返事をする薩仁を見て、秀英が笑った。


「達也様。これでは薩仁様は何でも『はい』とおっしゃいますよ」


「前からそうだ」


「達也様がおっしゃることなら聞きます」


 薩仁が真顔で答えた。


「だから無茶なことまで聞くな」


「達也様が無茶をおっしゃらなければ大丈夫です」


「それは保証できんな」


 その答えに薩仁と秀英も笑った。


 ◇ ◇ ◇


 午後になると、薩仁の懐妊は玉蘭と瑤華にも伝えられた。


 玉蘭は自室で赤ん坊を抱いていたが、薩仁が入ってくると席を勧めた。


「おめでとうございます、薩仁様」


「ありがとうございます、玉蘭様」


「体調はいかがですか」


「朝に少し食べられないだけで、ほかは何ともありません」


「それなら今のうちによく休んでください。私のように出産直前まで働いてはいけません」


 同じ部屋にいた達也がすぐ口を挟んだ。


「お前が言うのか」


 玉蘭は達也を見る。


「経験したから申し上げているのです」


「だったら最初から自分でやれ」


「今なら分かります」


「遅い」


 薩仁は2人のやり取りを聞いて笑った。


「私は達也様のおっしゃることを聞きますから大丈夫です」


「それなら安心ですね」


 玉蘭が答えると、達也は眉を寄せた。


「何で俺を見ながら言う」


「何でもございません」


 そこへ瑤華もやってきた。


「薩仁様もご懐妊なのですね」


「はい」


「それでは、私たちは同じ頃に子どもを産むのでしょうか」


 薩仁は瑤華の腹を見た。瑤華もまだ外から分かるほど大きくはなっていない。


「私の方が少し遅いかもしれません」


「一緒に大きくなっていくのですね」


「そうですね」


 しばらくして秀英も加わり、4人の側室がそろった。秀英と玉蘭はすでに出産を経験しており、瑤華と薩仁はこれからである。身体の変化で分からないことがあれば、同じ屋敷の中ですぐ経験者に聞けるようになった。


 達也は4人を見回した。


「これなら俺が口を出す必要はあまりないな」


 秀英が答えた。


「家のことはこちらでいたします」


「そうしてくれ」


「ですが、達也様にもしていただくことはございますよ」


「何だ」


「子どもを抱くことです」


「それくらいならできる」


 玉蘭が笑った。


「最初は5万頭の軍馬の方が簡単だとおっしゃっていたではありませんか」


「今はもう慣れた」


「では今夜、私の子をお願いいたします」


「何でそうなる」


「慣れたのでしょう」


「寝かせるだけならやってやる」


 薩仁と瑤華も笑い、倉府には軍報とは関係のない話が続いた。


 ◇ ◇ ◇


 10月中旬になると、薩仁の生活も少し変わった。


 朝餉で羊肉を受け付けない日には粥や果物を食べ、昼になって食欲が戻れば、その時に食べる。秀英が料理人へ伝え、薩仁が食べやすい物をその日の体調に合わせて用意させた。


 薩仁自身も、妊娠したからといって何もしなくなる性格ではない。体調のよい日は秀英と一緒に家の中を見て回ったり、赤ん坊の衣服をたたんだりして過ごしていた。


 ある日の午後、達也が薩仁の部屋を訪れると、薩仁は秀英の子の衣服を縫っていた。


「何をしている」


「ほつれていたところを直しております」


「お前がやるのか」


「できますよ」


「蒙古でも縫い物をしていたのか」


「服が破れれば自分で直しておりました」


「そうか」


 達也は薩仁の向かいへ座った。


「具合は?」


「今日は大丈夫です」


「朝は食ったか」


「粥をいただきました」


「昼は?」


「羊肉も少しいただきました」


「ならいい」


 薩仁は針を置き、達也を見た。


「達也様は毎日聞かれますね」


「悪いか」


「いいえ。嬉しいです」


「なら答えろ」


「はい」


 薩仁は笑ってから尋ねた。


「達也様」


「何だ」


「私が子どもを産んでも、今と同じようにしてくださいますか」


「何が同じなんだ」


「こうして部屋へ来て、話をしてくださることです」


「子を産んだら用済みになると思ってるのか」


「そういう意味ではありません。ただ……蒙古にいた頃とは、何もかも違いすぎるので」


「前にも言っただろう」


「はい」


「お前は俺についてきた。俺もお前を連れてきた。それで終わりだ」


 達也は続けた。


「子ができても、できなくても、お前を蒙古へ返すつもりはない」


 薩仁は安心したように達也を見た。


「分かりました」


「それで安心したか」


「はい」


「なら縫い物を続けろ」


「達也様はもう少し優しく言えないのですか」


「言ってほしいのか」


「たまには」


「考えておく」


 薩仁は笑った。


「期待しております」


 ◇ ◇ ◇


 10月下旬、達也は書斎で玉蘭と北方から届いた軍報を確認していた。


 徐州、兗州、済州、東平では冬に備えた飼葉の備蓄が進み、軍馬にも大きな問題は出ていない。騎兵訓練についても、玉蘭が9月に出した指示どおり、個々の兵が勝手に走るのではなく、隊列を崩さず動く訓練を増やしていた。


「冬を越す準備は、かなり整ってまいりました」


「馬5万頭を冬に食わせるのは大仕事だな」


「はい。ですが各地へ分散しておりますので、1か所で5万頭を養うよりははるかに楽です」


「金軍は?」


「目立った動きはございません」


「ならこの冬は守りを固めればいい」


 玉蘭は達也へ尋ねた。


「達也様は、まだ出陣なさらないのですか」


「ああ」


 達也は読み終えた軍報をまとめた。


「少なくとも年内は臨安にいる」


「半年近く戦をなさらないことになりますね」


「だから何だ」


「達也様にしては珍しいと思いました」


「戦う必要がない時に戦ってどうする」


 廊下の向こうから赤ん坊の泣き声が聞こえ、そのあとを追うように女中があやす声も聞こえてきた。


「それに今は、家にいた方がいい」


「瑤華様と薩仁様も身重になられましたからね」


「ああ」


「達也様は、かなり子だくさんになりそうです」


「今さらだろう」


 玉蘭は笑った。


「そのうち倉府が子どもだらけになりますね」


「屋敷は広い。足りなければ増築すればいい」


「そういう問題でしょうか」


「金で済むことなら簡単だ」


 北方では5万頭の軍馬を冬越しさせる準備が進み、臨安では秀英と玉蘭がそれぞれ子を育て、瑤華と薩仁が新しい命を腹に宿している。


 達也は戦を止めているだけで、何もしていないわけではない。次に北へ出る時までに軍を整え、同時に家族が安心して暮らせるよう家の中も整えておく。それが今の達也の仕事だった。

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