第6話(中編1)ーー「秋の倉府」
(1224年9月上旬、南宋・臨安倉府)
朝の倉府は、以前よりずっとにぎやかになっていた。まだ空気が涼しい時刻から東の棟で秀英の子が泣き始め、少し遅れて玉蘭の部屋からも赤ん坊の声が聞こえることがある。乳母や女中が湯や着替えを持って廊下を行き来し、布を洗う水音や女中たちの声も朝早くから屋敷の中に響いていた。
達也は鍛錬を終えて汗を流すと、そのまま玉蘭の部屋へ向かった。
部屋の中では、玉蘭が寝台にもたれて赤ん坊をあやしていた。出産直後の青白さは少し引いているものの、まだ顔色は万全ではない。寝台の脇には乳母が控え、卓には朝の粥と汁が用意されていた。
「起きていたのか」
達也が入ると、玉蘭は顔を上げた。
「はい。ちょうどこの子が目を覚ましました」
「お前も休めと言っただろう」
「寝てばかりでは身体が鈍ります」
「出産したばかりの女が言う台詞じゃないな」
達也は寝台の横へ座り、玉蘭の腕の中にいる子どもの顔を覗き込んだ。生まれた直後より頬に肉がつき、泣く声にも力が出てきている。
「こいつは元気そうだ」
「はい。よく飲み、よく泣きます」
「母親に似たな。うるさいところが」
玉蘭はその言い方がおかしかったらしく、笑いながら答えた。
「達也様のお子でもあるのですが」
「それもそうだ」
達也は玉蘭から赤ん坊を受け取った。秀英の子を初めて抱いた時より手つきはましになっているが、それでも首と身体を支える腕の位置を確かめてから抱いている。
「前よりお上手になりましたね」
「2人目だからな」
「ずいぶん得意そうでいらっしゃいます」
「実際、前よりはましだ」
達也は子どもを抱いたまま、ほとんど手を付けられていない朝餉へ目を向けた。
「飯は食ったのか」
「まだです」
「何でだ」
「あとでいただこうと思っておりました」
「まず食え」
「その前に、徐州から届いた書付を――」
「駄目だ」
達也はすぐに止めた。
「朝から軍報を見るな。飯を食って、子どもに乳をやって、それから少し休め。書付は昼前で十分だ」
玉蘭は納得していない顔をしたが、出産前のように押し通せる身体ではないことも分かっている。
「少しだけでも駄目ですか」
「少しだけと言って、どうせ全部見るつもりだろう」
「……否定はできません」
「だろうな」
達也は赤ん坊を乳母へ渡した。
「今日は俺が決める。お前はまず食え」
玉蘭は達也を見たあと、朝餉の置かれた卓へ身体を向けた。
「承知しました」
◇ ◇ ◇
昼前になると、達也は約束どおり玉蘭の部屋へ軍報を持ってきた。ただし、届いた書付をすべて見せることはせず、徐州の騎兵訓練、東平の水場、兗州の飼葉の備蓄について書かれた3通だけを選んでいる。
玉蘭は寝台の脇へ置かれた卓に書付を広げ、順番に内容を確かめた。身体はまだ休ませなければならないが、軍務について考える力は以前と変わっていない。
「東平の水場は、今のうちに浅い所を掘り広げた方がよろしいと思います」
玉蘭は東平からの書付を置いた。
「今はまだ足りていますが、来年の夏も同じとは限りません。馬が増えれば、今年の余裕はすぐ消えます」
「徐州から人を回すか」
「そこまで大きく動かさなくても結構です。東平の民を雇って掘らせてください。賃銀を出せば集まります」
「飼葉は?」
「兗州と済州で分けて積ませてください。どちらか1か所へ寄せると、火や湿気で傷んだ時に困ります」
達也はその案を聞きながら、書付の余白へ指示を書き加えていった。
「騎兵訓練はどう見る」
「急ぎすぎです」
玉蘭は徐州から届いた報告を示した。
「人は増やせても、馬は使い潰せません。今月は騎射よりも、騎乗したまま隊をそろえて動く訓練を増やした方がよろしいと思います」
「理由は」
「新しく馬へ乗る兵は、自分だけで走りたがります。ですが、戦で使うのは隊です。勝手に前へ出る兵を減らさないと、数だけ増えても意味がありません」
達也はその内容も書き付け、徐州へ返す軍令に加えることにした。
「お前がいないのに、お前の声がそのまま聞こえるな」
「それは便利でございますね」
「便利だが、便利すぎて休まん女を止めにくい」
玉蘭は笑いながら、達也が脇へ置いた残りの書付を見た。
「今日はもうこれだけですか」
「ああ」
「まだ2通ございますが」
「明日だ」
「達也様」
「駄目だ」
達也は残りの書付をまとめ、自分の側へ引き寄せた。
「お前は今、将軍である前に産んだばかりの女だ。徐州は逃げん」
玉蘭はすぐには返事をせず、達也が持っている書付と自分の前に残された3通を見比べた。完全に軍務から外されたわけではないことは分かっている。
「……ありがとうございます」
「何がだ」
「完全に取り上げるのではなく、必要な分だけでも見せてくださることです」
「何もさせんと、それはそれで面倒だからな」
「ひどいおっしゃりようです」
「本当のことだろう」
玉蘭は苦笑した。
「その代わり、明日も見せてください」
「身体の様子を見て決める」
「では、今日の午後は大人しく休みます」
「最初からそうしろ」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、倉府の食卓には秀英、薩仁、瑤華、玉蘭がそろっていた。
玉蘭はまだ部屋で食べてもよかったが、自分から皆と一緒に食べると言ったため、無理をしないよう女中を付けて席へ着いている。秀英は出産から日がたち、家の中の指図をほぼ以前どおり行えるようになっていた。薩仁は好物の羊肉を食べ、瑤華も後宮にいた頃より気兼ねなく料理へ箸を伸ばすようになっている。
達也が食事を始めてしばらくすると、魚を使った汁物が運ばれてきた。その匂いが卓へ広がった途端、瑤華の顔色が変わった。口元を押さえ、食事を続けることができずに席を立つ。
「どうした」
達也が尋ねると、瑤華は苦しそうに答えた。
「申し訳ございません。少し……」
瑤華が部屋の外へ向かうと、秀英もすぐ席を立って後を追った。達也は気になって立ち上がりかけたが、玉蘭が止めた。
「秀英様がついておられます。少し待たれた方がよろしいかと存じます」
達也はそれを聞いて座り直した。
しばらくすると、秀英が瑤華を支えるようにして戻ってきた。瑤華の顔色はまだ白いが、外へ出た時よりは落ち着いている。
「何だ」
達也が尋ねると、秀英は瑤華の様子を見ながら答えた。
「おそらくですが、医女を呼んだ方がよろしいと思います」
「病か」
「病というより……たぶん、おめでたいことです」
達也は意味を理解して瑤華へ目を向けた。
「そうなのか」
瑤華は自分でも確信がないため、恥ずかしそうに目を伏せた。
「私には、まだ分かりません」
「だったら今すぐ確かめろ」
達也は使用人を呼び、医女を手配させた。
◇ ◇ ◇
日が落ちる前、医女の診立てが出た。
「ご懐妊でございます。まだ浅うございますが、脈は確かです」
その言葉を聞いた瑤華は、寝台へ腰掛けたまま自分の腹へ目を落とした。達也はまず身体のことを確かめた。
「身体は大丈夫なのか」
「はい。しばらくは疲れや匂いに敏くなることもございますが、静かにお過ごしになれば問題ございません」
「分かった」
医女が下がると、部屋には達也と瑤華だけが残った。瑤華は自分の腹へ手を当てたものの、まだ外から分かる変化は何もない。
「本当に……できたのですね」
「ああ」
「まだ実感がございません」
「そのうち嫌でも分かる」
達也が答えると、瑤華は笑ったが、すぐに表情を改めた。
「私に務まるでしょうか」
「何がだ」
「子を産み、育てることです。後宮にいた頃、他の女の出産を遠くから見たことはございます。でも、自分がそうなるとは思っておりませんでした」
達也は瑤華の前へ座った。
「最初からうまくやれる女がどこにいる」
「ですが、秀英様も玉蘭様も、私よりずっとしっかりしておられます」
「だから何だ」
「私は……」
「お前1人で産むわけじゃない」
達也はそのまま続けた。
「秀英がいる。玉蘭もいる。薩仁もいる。乳母も医女も付ける。お前は腹の子を大事にして、食える物を食って、無茶をしなければいい」
瑤華は達也を見た。
「それで、よろしいのでしょうか」
「それで十分だ」
「達也様は、お喜びですか」
「当たり前だろう」
達也は笑った。
「この家がにぎやかになる」
瑤華はその答えを聞くと、先ほどまで感じていた不安が少し薄れたようだった。
「でしたら、私もきちんと産みます」
「そうしろ」
「はい」
◇ ◇ ◇
その夜、達也は食後に屋敷の中を見て回った。
秀英の子は乳を飲んで眠り、玉蘭の子も部屋で休んでいる。瑤華の部屋では、女中が医女から聞いた注意を確かめながら寝具を整え、翌日から匂いの強い料理を避ける相談をしていた。薩仁は秀英の部屋におり、赤ん坊の着替えをたたみながら、南宋での子育てについて秀英から話を聞いている。
数か月前まで、倉府で交わされる話といえば軍馬、交易、金軍、蒙古、北方の領地についてのものが多かった。それが今では、軍報と並んで赤ん坊の食事や身体の具合、妊婦が食べられる物、翌日の湯や薬についての話まで聞こえるようになっている。
夏の蒸し暑さは少しずつ弱まり、夜になると風にも秋らしい涼しさが混じり始めていた。
徐州、兗州、済州、東平には5万頭の軍馬がいる。北方の領地を守り、いずれ次の戦へ進むためには、そちらを疎かにすることはできない。
だが倉府には、自分の子を産んだ秀英と玉蘭がいて、瑤華の腹にも新しい子ができた。蒙古から自分を選んで南へ来た薩仁もいる。
どちらも達也が自分で手に入れ、自分で抱えたものだった。
守るものが増えた以上、捨てるつもりはない。軍も領地も家族も、自分のものとして最後まで守る。それが達也の考えだった。




