第6話(前編2)――「帰ってこない将軍」
(1224年8月上旬、南宋・徐州)
朝から強い日差しが城壁を照らし、徐州の空気は早くも蒸し暑くなっていた。城内の軍営では、騎兵の訓練を終えた馬が順番に水場へ戻されている。軍馬を一度に水へ集めると混乱するため、馬丁たちは部隊ごとに時間をずらし、汗をかいた馬の身体を拭いてから休ませていた。
耶律玉蘭は日陰に置かれた椅子へ座り、その様子を見ていた。以前なら自分で馬へ乗り、訓練中の騎兵の間を回っていたが、腹がかなり大きくなった今はそれができない。立ち上がる時にも身体を支える必要があり、長く歩けば腰が重くなった。それでも軍営へ出ることはやめず、部下から報告を受けながら騎兵と軍馬の状態を確かめていた。
「東平からの報告は?」
玉蘭が尋ねると、部下は手元の書付を開いた。
「軍馬の移動は予定どおり進んでおります。ただ、東側の牧地で水が減っておりますので、約2000頭を別の水場へ移したとのことです」
「移した先の草は足りますか」
「今月いっぱいは問題ないとのことです」
「9月以降も使えるか調べてください。水だけあっても、草がなくなれば意味がありません」
「承知しました」
「種馬は?」
「各地に分けております。病気の馬が数頭出ましたが、ほかの馬から離して治療しております」
「それなら結構です」
玉蘭は次の報告へ移ろうとしたが、部下は書付を閉じなかった。
「まだ何かありますか」
「臨安から書状が届いております」
「達也様から?」
「はい」
玉蘭は手を差し出し、受け取った書状の封を開いた。
『玉蘭。軍務は部下へ回せ。馬場を見に行くな。腹が大きいならなおさらだ。徐州を今すぐ捨てろとは言わんが、8月になったら臨安へ戻る準備を始めろ』
そのまま続きを読む。
『これは魯王としてではなく、お前の男として言っている。俺の子を腹に入れたまま無茶をするな』
玉蘭は書状を手にしたまま考えた。部下が恐る恐る尋ねた。
「魯王様からでしょうか」
「はい」
「お戻りになるようにと?」
「そのようです」
部下は明らかに安心していた。
「それがよろしいと思います」
玉蘭が顔を上げた。
「あなたまで何を言っているのですか」
「将軍。もう出産も近いのでしょう」
「だから長時間は馬に乗っておりません」
「乗ること自体をおやめください」
「軍営を見るくらいはできます」
「皆が心配しております」
玉蘭が周囲を見ると、近くにいた兵も馬丁も、聞こえていないふりをして仕事を続けていた。誰も玉蘭と目を合わせようとしない。
「皆というのは、どのくらいですか」
「かなりでございます」
「誰ですか」
「それを申し上げると、あとで叱られる者が大勢出ます」
「私がそんなに怖いのですか」
部下は返事をしなかった。
「答えてください」
「今はお身体の方が怖いです」
玉蘭は思わず笑った。
「分かりました。今日のところは馬場へ行きません」
「今日だけですか」
「明日のことは明日決めます」
部下は困った顔をしたが、それ以上は言わなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、玉蘭は自室で北方の地図を広げ、徐州、宿州、兗州、済州、東平から届いた報告書を順番に確認していた。
臨安へ戻らなければならないことは、自分でも分かっている。問題は、どこまで仕事を部下へ渡してから戻るかだった。
軍馬は5万頭、種馬も4000頭に増えている。これほど多くの馬を抱える以上、牧地、水、飼葉、馬丁、騎兵訓練を別々に考えることはできない。金軍が攻めてこなくても、病気や飢えで大量の馬を失えば、これまで土地を取り、蒙古から馬を買い集めた意味までなくなってしまう。
玉蘭は報告書の横へ新しい紙を置き、徐州の騎兵訓練、兗州と済州の牧地、東平の水場、種馬の管理、冬に備えた飼葉の備蓄、金軍の斥候への警戒について、それぞれ誰へ任せるかを書き出していった。
どの仕事もまだ途中である。それでも自分がいなければ動かない体制のままでは、いつまでたっても臨安へ戻ることはできない。
しばらくすると戸を叩く音がした。
「入ってください」
先ほどの部下が入ってきた。
「将軍、まだお仕事をなさっていたのですか」
「座っております」
「そういう問題ではないと思います」
「では何でしょう」
「臨安へ戻られる準備を始めてください」
「今しています」
部下は机の上に広げられた地図と報告書を見た。
「これは軍務ではありませんか」
「引き継ぎの準備です」
「本当にお戻りになるのですか」
「私もここで子どもを産むつもりはありません」
その言葉を聞いて、部下はようやく安心した。
「いつごろ出発されますか」
「10日ほどください」
「10日ですか」
「その間に各地の担当を決めます」
「魯王様は、もっと早くお戻りになるようお考えでは?」
「達也様には私から返事を書きます」
玉蘭は筆を取り、達也への返書を書いた。
『達也様。ご心配をお掛けしております。軍務を部下へ引き継ぎ、8月中旬を過ぎましたら臨安へ戻ります。馬場へ出ることも減らしますので、迎えに来る必要はございません』
そこまで書いてから、さらに書き加えた。
『子どもも元気に動いております。私も変わりありません』
玉蘭は書状に封をして部下へ渡した。
「これを臨安へ送ってください」
「承知しました」
「それから、明日の朝、兗州と済州の担当者を呼んでください」
部下が玉蘭を見る。
「まだ働かれるのですか」
「引き継がなければ帰れないでしょう」
「分かりました」
「今度は何ですか」
「いえ。魯王様がご苦労される理由が少し分かっただけでございます」
玉蘭は睨んだ。
「早く行ってください」
「承知しました」
部下は笑いをこらえながら部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
(1224年8月中旬、南宋・臨安倉府)
玉蘭からの返書を読んだ達也は、書斎の椅子へ座ったまま顔をしかめていた。机の向かいには、陳秀英が座っている。
「何と書いてございましたか」
「8月中旬を過ぎたら戻るそうだ」
「それならよかったではありませんか」
「10日も働く気だぞ」
「玉蘭様ですから」
「分かってる」
達也は書状を秀英へ渡した。秀英は最後まで目を通し、腹の子も元気だと書かれている部分で表情を和らげた。
「お子も元気に動いているそうですよ」
「ああ」
「安心なさったでしょう」
「元気なら余計に早く戻ればいい」
「達也様がお迎えに行かれますか」
「行ってもいい」
「そうなさると、玉蘭様はご自分で帰れなかったと思われて悔しがるのではありませんか」
「面倒な女だな」
「達也様がお選びになったのでしょう」
「最近、そればかり言われるな」
秀英は笑った。
「でしたら、こちらから迎えの者を出されてはいかがですか」
「人だけか」
「はい。馬に長く乗らなくても済むよう、楽に移動できる馬車を用意して差し上げればよろしいでしょう。道中で何かあった時のために、女中も付けた方が安心です」
達也は玉蘭が大きな腹のまま馬に乗って臨安まで戻ってくるところを想像し、秀英の案を受け入れた。
「そうするか」
「玉蘭様も、迎えが来てしまえば帰らざるを得ません」
「お前も悪いな」
「達也様ほどではございません」
達也はすぐ使用人を呼んだ。
「徐州へ迎えを出す」
「何人ほどでしょうか」
「護衛を付けろ。玉蘭は身重だ。急いで走る必要はないが、安全に連れて帰れるようにしろ」
「承知しました」
「馬車も用意しろ。できるだけ揺れないものにしろ」
「はい」
「女中も何人か連れていけ。それから、出産のことが分かる女も同行させろ」
「承知しました」
「徐州へ着いたら、玉蘭にこう言え」
達也は少し考えてから続けた。
「臨安へ戻らないなら、俺が自分で迎えに行くとな」
秀英が笑った。
「それなら必ず戻られると思います」
「それでも残ったら、本当に行く」
「分かっております」
◇ ◇ ◇
(1224年8月20日、南宋・徐州)
臨安からの迎えが徐州へ到着した8月20日の朝、玉蘭は城内の役所で最後の引き継ぎをしていた。
各地から届く軍報を誰が確認し、急ぎの報告を誰が臨安へ送るのか。徐州の騎兵訓練を誰がまとめ、金軍に大きな動きがあった場合には、現地の者だけでどこまで兵を動かしてよいのか。10日ほどかけて仕事を振り分けたため、必要なことはほぼ決まっていた。
そこへ臨安から来た者が入ってきた。
「鎮北将軍。魯王様のお命令で、お迎えに参りました」
玉蘭は机から顔を上げた。
「迎え?」
「はい。馬車も用意しております」
「私は自分で戻れます」
「魯王様から、馬に乗せるなと命じられております」
「そこまで言われたのですか」
「はい」
「私はまだ歩けます」
「それも存じております」
「でしたら」
「魯王様から、臨安へ戻られない場合はご自分で徐州まで迎えに来ると申し付けられております」
玉蘭は黙った。周囲にいた部下たちは、何も聞いていないような顔をしているものの、誰も玉蘭と目を合わせようとしなかった。
「皆さん、何を笑っているのですか」
「笑っておりません」
「顔に出ています」
誰も答えなかったため、玉蘭は諦めた。
「分かりました。戻ります」
その言葉を聞いた途端、部屋にいた者たちの表情から緊張が消えた。
「そんなに安心することですか」
部下が答えた。
「かなり安心いたしました」
「私がいなくなって喜んでいるようにも聞こえますね」
「とんでもございません」
「本当でしょうか」
「将軍が徐州で出産なさることにならず、安心したのでございます」
玉蘭は自分の腹へ手を当てた。ここ数日は以前より身体が重く、子どもが動くのもはっきり分かるようになっている。口ではまだ働けると言っていたが、自分でもそろそろ限界が近いことは感じていた。
「留守を頼みます」
「お任せください」
「金軍が来た場合は、無理に追わないでください。城と牧地を守ることを優先してください」
「承知しました」
「騎兵訓練は続けてください。ただし馬を使い潰さないように」
「はい」
「東平から水場について報告が来たら、写しを臨安へ送ってください」
「承知しました」
玉蘭はまだ注意事項を続けようとしたが、部下が笑った。
「将軍。あとは我々がいたします」
「本当に大丈夫ですか」
「そのためにこの10日間、引き継ぎを受けたのではありませんか」
そこまで言われて、玉蘭もようやく任せる気になった。
「では、任せます」
その日の昼前、玉蘭は徐州を出た。いつもの癖で馬へ乗ろうとしたものの、迎えに来た者たち全員から止められ、達也が用意させた馬車へ乗ることになった。
馬車が南へ動き出すと、玉蘭は窓から徐州の城門を振り返った。初めてここへ来た時は、蒙古から逃げてきたばかりだった。それが今では鎮北将軍となり、徐州だけでなく兗州、済州、東平まで軍務を預かっている。そして、腹には達也の子がいる。
玉蘭は自分の腹を撫でた。
「今度戻る時は、あなたも一緒でしょうね」
その直後、腹の中で子どもが動いた。玉蘭は笑い、長い道のりに備えて馬車の背もたれへ身体を預けた。
◇ ◇ ◇
(1224年8月下旬、南宋・臨安倉府)
玉蘭を乗せた馬車が倉府へ着いた時、達也は門まで迎えに出ていた。薩仁と陳秀英も一緒だった。
馬車が止まり、玉蘭が降りようとすると、達也が先に近づいた。
「そのままでいい」
「自分で降りられます」
「分かってる。だが手を貸す」
達也は玉蘭の腕を取り、足元を確かめながら馬車から降ろした。久しぶりに会った玉蘭の腹は、7月に届いていた報告から想像していた以上に大きくなっていた。
「ずいぶん大きくなったな」
「子どもですから大きくなります」
「腹のことだ」
「分かっております」
達也は腹だけでなく顔色も確かめた。
「具合は?」
「大丈夫です」
「それは何度も聞いた」
「本当に大丈夫です」
「もう徐州には戻さんぞ」
「出産するまでは戻りません」
「出産した翌日に行くつもりじゃないだろうな」
「そこまで無茶はいたしません」
「信用できんな」
そこへ薩仁が近づいてきた。
「玉蘭様、お帰りなさいませ」
「薩仁様。ただいま戻りました」
薩仁は大きくなった玉蘭の腹を見た。
「もうすぐですね」
「そうだと思います」
「蒙古にいた頃には、こんなことになるとは思いませんでしたね」
「私もです」
2人が笑っているところへ、秀英も声を掛けた。
「お部屋は用意してございます。今日は何もなさらずお休みください」
「ありがとうございます」
「軍報も書付も、今日は見てはいけません」
玉蘭が秀英を見る。
「達也様から何か言われましたか」
「いいえ。私から申し上げております」
「秀英様まで……」
達也が言った。
「諦めろ。この家ではお前が一番言うことを聞かん」
「そんなことはございません」
「徐州から戻すのに1か月かかった女が言うな」
玉蘭は反論できなかった。
その日は達也の言うとおり自室で休み、軍報も書付も届けさせなかった。夕食も部屋へ運ばれ、秀英と薩仁が何度か様子を見に来た。
夜になると、達也も玉蘭の部屋へ入った。玉蘭は昼間に長く休んだため眠くならず、寝台へ腰掛けていた。
「まだ起きていたのか」
「昼間に休みすぎました」
「たまにはいいだろう」
達也は隣へ座った。
「徐州が気になるか」
「気になります」
「明日になれば軍報を見せる」
「本当ですか」
「ああ。ただし、ここで読むだけだ」
「軍議は?」
「必要ならする」
「それなら結構です」
達也は玉蘭の腹へ目を向けた。
「動くのか」
「よく動きます」
「触っていいか」
玉蘭は笑った。
「達也様のお子ですよ」
「そうだったな」
達也が腹へ手を当てて待っていると、しばらくして内側から押されるような感触が伝わってきた。
「本当に動いたな」
「毎日です」
「元気そうだ」
「はい」
達也はしばらく手を置いたまま、玉蘭へ尋ねた。
「徐州まで迎えに行かなくて済んだ」
「本当に来るおつもりだったのですか」
「ああ」
「そこまでしなくても戻りました」
「20日まで粘った女が言うな」
玉蘭は笑った。
「引き継ぎが必要だったのです」
「分かっている。だから待った」
「怒っていらっしゃったのでは?」
「腹は立った」
「やはり」
「だが、お前が仕事を放り出せない性格なのも分かっている」
達也は玉蘭の腹から手を離した。
「だから引き継ぎが終わるまでは待った。それ以上は待たん」
玉蘭は達也を見た。
「心配してくださったのですね」
「当たり前だろう」
「ありがとうございます」
「礼は無事に産んでからでいい」
「はい」
玉蘭はその夜、久しぶりに軍営の馬や兵の物音を聞かず、倉府の寝台で朝まで身体を休めた。
◇ ◇ ◇
8月末の夜、倉府が寝静まった頃になって、玉蘭は腹の痛みで目を覚ました。
最初は寝ている姿勢が悪かったのかと思ったが、痛みが収まってしばらくすると、また同じような痛みが来た。何度か繰り返すうちに、玉蘭も出産が始まったと分かった。
女中を呼び、玉蘭は頼んだ。
「達也様を起こしてください」
女中は玉蘭の様子を見ると、事情を察してすぐ部屋を出た。
間もなく達也が入ってきた。
「始まったのか」
「おそらく」
達也はすぐに医女と産婆を呼ばせ、秀英にも知らせた。倉府の中は夜中にもかかわらず人が動き始めた。
達也は玉蘭のそばに残ろうとしたが、出産の支度が始まると部屋の外へ出された。秀英は中へ入り、玉蘭に付き添った。
廊下へ出された達也は、閉じた戸の前で待つしかなかった。
徐州から戻すまでには何度でも命令できた。馬に乗るなとも、軍務を減らせとも言えた。しかし出産が始まってしまえば、達也にできることは何もない。
しばらくして、部屋の中から玉蘭の声が聞こえた。
達也は戸の前から動かなかった。
やがて夜が明け始め、倉府の庭が薄く明るくなった頃、部屋の中から赤ん坊の泣き声が響いた。
戸が開き、秀英が出てきた。
「達也様」
「どうだ」
「母子ともにご無事です」
「そうか」
達也はようやく部屋へ入った。
玉蘭は疲れ切った顔で寝台に横になっていたが、達也を見ると笑った。そのそばには、生まれたばかりの赤ん坊がいる。
達也は玉蘭のところへ行った。
「よくやった」
「ありがとうございます」
「身体は?」
「疲れました」
「当たり前だ」
達也は赤ん坊を見た。
「元気だな」
「はい」
「徐州で産まなくてよかっただろう」
玉蘭は疲れた顔のまま笑った。
「今それをおっしゃるのですか」
「今だから言う」
「達也様らしいですね」
達也はそれ以上玉蘭を疲れさせず、休ませることにした。
徐州で軍馬5万頭を預かっていた鎮北将軍は、ようやく軍務から離れ、臨安の倉府で達也の子を産んだ。




