第6話(前編1)――「王の家」
(1224年7月上旬、南宋・臨安倉府)
朝早く、隣の建物から聞こえてきた赤ん坊の泣き声で、達也は目を覚ました。外はまだ明るくなりきっておらず、部屋には夜明け前の薄暗さが残っている。隣では沈瑤華が眠っていたが、達也が身体を起こしたところでもう一度赤ん坊が泣き、その声で瑤華も目を覚ました。
「元気だな」
達也が呟くと、瑤華も寝台の上で身体を起こした。
「秀英様のお子でしょうか」
「ああ」
「毎朝、このくらいの時刻に泣かれますね」
「腹が減る時間でも決まっているのかもしれん」
達也が衣服へ手を伸ばすと、瑤華が尋ねた。
「達也様は起きられるのですか」
「いつもなら鍛錬へ行く時間だ」
「昨日も遅くまで書付をご覧になっていたではありませんか」
「だから何だ」
「少しくらいお休みになればよろしいのに」
「寝てばかりいたら身体が鈍る」
達也が衣服を着始めるのを、瑤華は布団の中から眺めていた。後宮にいた頃には、王に封じられた男が夜明け前から自分で走りに出る生活など見たことがなかった。
「毎朝、本当に走られるのですね」
「ああ」
「王様になられても?」
「王になったら身体を鍛えなくていいのか」
「そういう意味ではございません」
「なら行ってくる」
「はい」
達也は部屋を出て庭へ向かった。しかし廊下を歩いている途中で、再び赤ん坊の泣き声が聞こえた。そのまま鍛錬へ出るつもりだったが、足を止めて秀英の部屋へ向かった。
◇ ◇ ◇
陳秀英の部屋では、女中が朝の湯を用意しており、秀英は寝台のそばで赤ん坊を抱いていた。達也が入ってくると、秀英が顔を上げた。
「おはようございます」
「ああ」
「もう鍛錬へ?」
「そのつもりだった」
達也は泣いている赤ん坊を見た。
「よく泣くな」
「お腹が空いたようです」
「毎朝この時間か」
「だいたい同じです」
「兵より正確だな」
秀英は思わず笑った。
「赤ん坊と兵を比べないでください」
「兵より手がかかる」
「まだ何もなさらないうちからおっしゃらないでください」
達也は赤ん坊を眺めてから、秀英へ手を出した。
「貸してみろ」
秀英は意外そうな顔をした。
「抱かれるのですか」
「俺の子だろう」
「もちろんです」
秀英は赤ん坊を渡しかけたが、達也の腕の出し方を見て手を止めた。
「頭をこちらの腕で支えてください」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶんな」
「それが心配なのです」
秀英は笑いながら抱き方を教え、赤ん坊を達也の両腕へ渡した。
受け取ってみると、思っていたよりもはるかに軽い。身体は柔らかく、まだ首も据わっていないため、どこを支えれば安全なのか分かりにくかった。戦場で負傷した兵を担いで運ぶ方が、よほど気楽である。
「動くなよ」
達也が腕の中の赤ん坊へ言うと、秀英が吹き出した。
「赤ん坊に言っても分かりません」
「じっとしていればいいんだ」
「無理です」
赤ん坊は泣きながら腕を動かし、達也の胸元へ手を伸ばした。達也は落とすまいと腕に力を入れた。
「落ちないか」
「達也様が落とさなければ大丈夫です」
「簡単に言うな」
「軍馬5万頭を集められた方でしょう」
「5万頭の方が簡単だ」
秀英は声を立てて笑った。
達也は腕の中にいる赤ん坊の顔を眺めた。泣いているため頬は赤く、小さな手が達也の衣をつかんでいる。その力は驚くほど弱かった。
「こんなに小さいんだな」
「生まれた時はもっと小さかったですよ」
「見られなかったな」
秀英が出産した時、達也は蒙古へ行っていた。軍馬3万頭と種馬2000頭を買い付け、薩仁を連れて帰るまで臨安へ戻れず、秀英が最も苦しい時にそばにいることができなかった。
「悪かったな」
「何がでしょう」
「産む時にいなかった」
「お仕事でしたから」
「それでもだ」
「無事にお帰りになりました。それで十分です」
達也は秀英に尋ねた。
「苦しかったか」
「少しは」
「少しか?」
「かなりです」
「そうだろうな」
「ですが、もう終わりました」
秀英は腕の中の赤ん坊を見ながら続けた。
「この子も元気です」
「次に子ができた時は、できるだけ近くにいる」
秀英は意外そうな顔をした。
「次もお考えなのですか」
「嫌なのか」
「そうではありません」
「ならいい」
「達也様らしいですね」
「何がだ」
「先のことまで勝手に決めてしまうところです」
「俺の子なら何人いても困らん」
「私は困るかもしれません」
「その時は相談しろ」
秀英は笑った。
「はい」
抱いているうちに赤ん坊の泣き声は弱くなり、達也も最初ほど力を入れずに抱けるようになった。自分の胸元をつかんでいる小さな手を見ながら、達也は言った。
「俺が持っていると静かになるな」
「たまたまです」
「父親が分かるんだろう」
「まだ分かりません」
「そうか?」
「そうです」
達也は納得していなかったが、秀英はそんな様子を楽しそうに見ていた。
◇ ◇ ◇
朝の鍛錬を終えた達也は、汗を流してから朝餉の席へ向かった。倉府では側室たちが同じ卓につくことが増えている。出産を終えた秀英も使用人への指示は続けていたが、身体を休められるよう以前より仕事を減らしていた。
薩仁も南宋の衣服や倉府での暮らしに慣れ始めている。蒙古から来た当初は髪形も衣服も目立っていたが、今では秀英に尋ねながら南宋で暮らすための作法を覚えていた。ただし食べ物の好みは北方にいた頃と変わらず、その日の卓にも薩仁のために羊肉が用意されていた。
達也が席へつくと、薩仁が尋ねた。
「今朝も走られたのですか」
「ああ」
「毎日ですね」
「お前も走るか」
「嫌です」
「即答だな」
「馬なら乗ります」
「玉蘭と同じだ」
薩仁は玉蘭の名前を聞き、徐州にいる昔からの知人を思い出した。
「玉蘭様はお元気でしょうか」
「昨日も軍報が来ていた」
「まだ徐州なのですね」
「ああ」
秀英も玉蘭の妊娠を知っているため、心配していた。
「玉蘭様のお身体は大丈夫なのでしょうか」
「本人は大丈夫だと言っている」
瑤華も会話へ加わった。
「かなりお腹が大きくなられているのでしょう」
「そうらしい」
「それでも軍務を?」
「あいつは言っても聞かん」
薩仁が笑った。
「玉蘭様らしいです」
「蒙古にいた頃からああだったのか」
「ええ。男たちが休んでいても、馬や荷を見て歩いていました」
「面倒な女だ」
「達也様がお選びになったのでしょう」
「そうだな」
達也は食事をしながら、向かいに座る瑤華の様子を見た。瑤華は倉府へ来てまだ日が浅く、同じ卓で食事をすることにも完全には慣れていない。秀英や薩仁が気兼ねなく料理へ箸を伸ばす一方、瑤華には後宮にいた頃の癖が残り、少量ずつ口へ運んでいた。
「瑤華」
「はい」
「飯は合わないか」
「いいえ。とても美味しゅうございます」
「ならもっと食え」
「いただいております」
「後宮では少ししか食わなかったのか」
瑤華は困ったように笑った。
「人前では、あまりたくさん食べるものではございませんでした」
「ここは後宮じゃない」
「はい」
「腹が減っているなら食え」
「太りましたらどうなさいますか」
「それくらいで嫌いになるなら、最初から側室にしていない」
瑤華は箸を止めた。
「本当に?」
「何を疑っている」
「天下の美人と呼ばれていたから、陛下が私を達也様へくださったのだと思っておりました」
「それは理由の1つだろうな」
「でしたら、美しくなくなれば困るのではございませんか」
「俺が欲しかったのは絵じゃない」
達也は食事を続けながら答えた。
「人間の女をもらったんだ。飯も食えば年も取るだろう」
瑤華はすぐには返事をしなかった。その言葉を聞いていた秀英が笑った。
「達也様は、こういうところは意外と気になさらないのです」
「意外とは何だ」
「そのままの意味です」
「お前まで言うのか」
薩仁も笑いながら尋ねた。
「私はたくさん食べてもよろしいですか」
「お前はもう食ってるだろう」
薩仁の前に置かれた羊肉は、すでにかなり減っている。
「では問題ありませんね」
「ああ」
食卓に笑いが広がり、瑤華もようやく緊張を解いて、料理を自分の皿へ取った。
◇ ◇ ◇
朝餉を終えると、達也はもう一度秀英の部屋を訪れた。赤ん坊は寝台で眠っており、その近くで秀英が倉府の支出を書いた帳面を見ていた。
「何をしている」
「今月の倉府の支出です」
「まだそんなことをしているのか」
「寝てばかりでは暇です」
「産んだばかりだろう」
「もう何日たったと思っていらっしゃるのですか」
「それでも無理はするな」
「しておりません」
達也は秀英の手から帳面を取り上げた。
「今日は休め」
「達也様」
「俺がいる間くらい任せろ」
「達也様が家の支出を見るのですか」
「王だぞ」
「王様だから心配なのです」
「失礼な女だな」
秀英は笑った。
「では、あとでお返しください」
「分かった」
達也は帳面を脇へ置き、そのまま秀英の体調を確かめた。
「身体は本当に大丈夫なのか」
「はい」
「腹は?」
「もう大丈夫です」
「熱は?」
「ありません」
「食えているか」
「食べております」
「夜は眠れているのか」
秀英は寝台で眠る赤ん坊を見た。
「途中で何度か起きます」
「乳母に任せてもいいだろう」
「全部を任せるつもりはありません」
「お前が倒れたら意味がない」
「分かっております」
出産後も秀英は家のことを気に掛けている。達也が遠征している間、倉府を預かってきたのも秀英だった。
「俺がいない間、お前はずっとこの家を守っていた」
「それが私の役目ですから」
「だから今は休めと言っている」
達也が冗談で言っているのではないと分かり、秀英は受け入れた。
「分かりました」
「素直でよろしい」
「玉蘭様にも同じことをおっしゃってください」
「何度も言っている」
「聞いてくださらないでしょう」
「ああ」
「なら、達也様ご自身で迎えに行かれた方が早いのではありませんか」
「それも考えている」
「やはり心配なのですね」
「俺の子を腹に入れたまま、徐州で馬に乗られてみろ。気になるに決まってる」
「玉蘭様も大切になさっているのですね」
「当たり前だ」
「側室が増えても?」
達也は秀英を見た。
「増えたら前の女は要らなくなると思っていたのか」
「そうではありませんが」
「俺は欲しいから側室にした。自分の女にしたあとで雑に扱うくらいなら、最初から連れてこない」
「では薩仁様も、瑤華様も?」
「同じだ」
「私も?」
「何を今さら聞いている」
「たまには聞きたくなります」
達也は笑った。
「お前は俺の最初の側室だ。それに俺の子まで産んだ。今さらどこへやる」
秀英も安心したように笑った。
「安心いたしました」
「安心して寝ろ」
「はい」
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、達也は薩仁と倉府の庭を歩いた。薩仁が臨安へ来てからまだ2か月ほどしかたっていない。蒙古とは建物も食事も言葉も衣服も違い、何より町に暮らす人の多さや雨の多さには、今でも驚くことがあった。
「まだ慣れないか」
「かなり慣れました」
「本当か」
「最初は道に出るだけで人が多くて疲れました」
「蒙古とは違うだろう」
「全然違います」
薩仁は庭の池を眺めながら答えた。
「でも好きです」
「何がだ」
「ここです」
「倉府が?」
「はい」
「毎日食べ物があります。暑いですけれど、水もあります。お風呂にもすぐ入れます」
「蒙古より楽か」
「ずっと楽です」
「阿勒坦のところへ戻りたいとは思わないか」
薩仁は迷わず首を振った。
「思いません」
「即答だな」
「達也様がおられますから」
「それだけか」
「それが一番です」
薩仁は達也の腕へ手を添えた。
「私は達也様の言うことを聞いていればよいのでしょう」
「何でも聞けとは言ってないぞ」
「でも聞きます」
「変な女だな」
「かわいくないですか」
「かわいいぞ」
「なら十分です」
薩仁にとって、蒙古にいた頃とは立場そのものが変わっている。あの頃は阿勒坦を動かして軍馬を集めるために協力させた女だったが、今では達也の家で暮らす側室である。
「ただし、秀英の言うことも聞け」
「はい」
「瑤華とも争うな」
「争いません」
「玉蘭が戻ってきてもだ」
「玉蘭様とは前から知っております」
「ならいい」
薩仁は達也の横顔を見ながら尋ねた。
「達也様は、女同士が争うのがお嫌いなのですね」
「面倒だからな」
「それだけですか」
「それに家の中で争わせても何の得にもならん」
「やはり達也様ですね」
「何がだ」
「情より先に得が出ます」
「情もあるぞ」
「どのくらい?」
「お前を蒙古から連れてきたくらいにはな」
薩仁はその答えを聞くと、達也の腕を強くつかんだ。
「それなら十分です」
◇ ◇ ◇
夕方、達也は瑤華を連れて倉府の外へ出た。魯王となった以上、完全に2人だけで町を歩くわけにはいかないため、少人数の護衛を離れたところから付けている。
門を出た瑤華は、夕方になっても人通りの絶えない臨安の通りを見回した。
「どこへ行かれるのですか」
「決めていない」
「決めておられないのですか」
「ああ。歩くだけだ」
「歩くだけ?」
「嫌か」
「いいえ」
道の両側には果物や魚、布、菓子、香料などを売る店が並び、商人の呼び声、人々の話し声、荷車の音が絶えなかった。後宮の奥で暮らしてきた瑤華には、同じ臨安でもまるで別の町に見えた。
瑤華は店先を見るたびに足を止めた。
「珍しいか」
「物は後宮にもございました」
「では何が珍しい」
「こうして自分で見て歩くことです」
瑤華は通りを眺めながら答えた。
「後宮にいた頃は、欲しい物があれば宮女に言えば届きました。でも、どこで誰が売っているかは知りませんでした」
「なら好きなだけ見ろ」
「よろしいのですか」
「そのために連れてきた」
瑤華は香料を売る店へ寄り、次には櫛を並べた店、そのあとには菓子屋で足を止めた。達也は先を急かさず、瑤華が自分で品を見て回るのを待った。
やがて瑤華が1つの菓子に目を留めた。
「食べたことがありません」
「買えばいい」
「ここで?」
「食いたいんだろう」
「はい」
達也は店の者へ金を払い、菓子を2つ受け取ると、1つを瑤華へ渡した。
「達也様も?」
「味を知らん」
2人がその場で食べると、瑤華は口の中に広がった甘さに驚いた。
「甘いですね」
「砂糖を使ってるな」
「後宮でいただいた菓子とは少し違います」
「どちらがうまい」
瑤華はもう一口食べてから答えた。
「こちらです」
「本当か」
「はい。外で食べているからかもしれません」
「それなら、また来ればいい」
瑤華は達也を見た。
「また連れてきてくださるのですか」
「嫌でなければな」
「来たいです」
「なら決まりだ」
瑤華は残りの菓子を食べながら、再び店先を眺め始めた。
達也は、瑤華を後宮から連れ出して正解だったと思った。天下の美人と呼ばれていた女でも、倉府で一緒に暮らす以上、飾って眺めるために置いておくつもりはない。何を好んで食べ、何を見て喜び、どんなことで笑うのかを知った方が、一緒に暮らす女としてはよほどよかった。
瑤華も後宮で身につけた振る舞いを少しずつ解き、倉府での暮らしに自分の居場所を見つけ始めていた。
◇ ◇ ◇
夜になり、側室たちと夕食を取ったあと、達也は1人で書斎へ入った。机の上には北方から届いた軍報がまとめて置かれている。
兗州、済州、東平では軍馬の分散が進み、種馬も別に管理されていた。飼葉を蓄える倉の建設も続いており、金軍には今のところ大きな動きがない。
徐州から届いた軍報には、騎兵訓練の進み具合、馬丁の不足、夏場に使える水場、傷んだ馬を隔離する場所、部隊ごとの軍馬配分などが書かれていた。どれも玉蘭らしく余計なことを書かず、達也が判断するために必要な情報がまとめてある。
最後まで読み終えたところで、玉蘭の部下から別に添えられた書付に気付いた。
『鎮北将軍は変わらず軍務を執っております。ただし腹がかなり大きくなっており、周囲から休むよう申し上げても、短時間なら問題ないとして軍営へ出ております』
達也は内容を確かめ、思わず口にした。
「何をやってるんだ、あいつは」
続きには、長時間の乗馬こそ避けているものの、軍営へ出るだけでなく、徐州周辺の馬場まで自分で確認しているとあった。
達也はすぐ筆を取り、玉蘭への書状を書いた。
『玉蘭。軍務は部下へ回せ。馬場を見に行くな。腹が大きいならなおさらだ。徐州を今すぐ捨てろとは言わんが、8月になったら臨安へ戻る準備を始めろ』
そこまで書いたところで筆を止め、もう一文加えた。
『これは魯王としてではなく、お前の男として言っている。俺の子を腹に入れたまま無茶をするな』
達也は書状を読み返して封をし、戸の外に控えていた者へ渡した。
「徐州へ急いで届けろ」
「承知しました」
使者を送り出したあと、達也は北方からの軍報をもう一度確認した。玉蘭には軍を任せられる。騎兵も領地も任せられるからこそ、妊娠した身体まで犠牲にして働かせる必要はなかった。
「8月まで待たんかもしれんな」
玉蘭が戻らないと言い張るなら、自分で徐州まで迎えに行けばよい。戦場へ何か月も遠征するのとは違う。妻を連れ帰るために臨安と徐州を往復する程度の手間なら、惜しむ理由はなかった。




